「グローバル・リテラシー」教育の諸問題------リテラシーの変遷と21世紀
金川 欣二
第1章 変化する「教養」と「リテラシー」コンピューター・リテラシー(Computer Literacy)という言葉がよく使われるようになったが、デジタル・デバイド(Digital Divide)という言葉に象徴されるようにコンピューターを使えるのと使えないのでは社会的格差や国力の格差が生まれつつある。
ここでは「リテラシー」という概念の歴史を遡り、国際化社会ではコンピューター・リテラシーでは既に対応できず、21世紀に必要となるであろう「グローバル・リテラシー」(global literacy)について考察する。
まず「リテラシー」という言葉について瞥見しよう。リテラシーというのはラテン語のlittera(“letter”の意味)から来ている英語で主に「識字」の意味で使われてきたが、「教養」の意味でも使われる。
OEDではThe quality or state of being literate; knowledge of letters; condition in respect to education, esp. ability to read and write.という定義になっていて、『ランダムハウス英和辞典』(小学館)によれば次のように書いてある。
【1】リテラシー,識字能力,読み書きの能力(⇔illiteracy); 言語運用能力:a literacy rate 識字率。【2】教養がある[教育を受けている]こと,教養。question a person's literacy 教養を疑う。
【3】(特定の分野・問題に関する)知識,能力:information literacy (特に図書館やコンピュータを活用する)情報活用能力、acquire computer literacy コンピュータを使いこなすための知識を習得する。従来、日本で「教養」というのは筒井(1995)が『日本型「教養」の運命』で指摘するように3種類あった。
1.専門に対する基礎としての教養【文学に対する語学など基礎的学問や技能】
2.幅広い知識としての教養【文系に対する理系の学、その逆などで雑学も含む】
3.文化の習得による人格の完成という意味での教養【人生の洞察など人文的教養】筒井は避けているが、ここでかなり強引に英語を引き当てるとすると1は“Literacy”で、2は“Culture”、3は“Liberal Arts”“Humanities”ということができよう。
ところが、日本の「教養」は膨大な知識と哲学ですら「たこつぼ型」に細分化されている状況で終焉を迎えている。大学でも教養部をなくす動きが流行したり、知識がすげ替え可能な、地位の低い情報になってしまった。例えば『ファウスト』の冒頭で「ああ、おれは哲学も法学も、医学も、よせばいいのに神学まで熱心に研究しつくした/そのあげくが、こんな哀れな愚か者だ。少しも賢くなってない/そして、おれたちは何も知り得ない、ということを悟った」とファウストは当時の社会が保有している知識を“知悉”した後、嘆いているが、現代では情報があふれ、少し専門が違うとコミュニケーションさえ難しくなっている。
猪瀬博(1996)は従来の教養教育は人生80年のライフサイクルに合っていないので新しいリテラシーを考えるべきだと指摘している。同様に山形(1999)が『新教養主義宣言』で標榜しているように世界は確実にボーダーレスで電子化されていて21世紀を迎えるにあたって新しい「教養」を考えなければならない。
「教養」を復権、または脱構築させるにはコンピューター・リテラシーなど科学技術を含めたリテラシーを生み出して行かなければならない。例えば黒澤明、手塚治虫、テレビゲームまでも射程に入れた新しい教養を見出すべき時代になっている。
1990年の国際識字年(International Literacy Year)に非識字者は当時9億人で75%はアジアにいるとされた。
識字(リテラシー)の定義は時代の文化、社会、政治、教育制度とともに変化してきた。
識字は文字通りの「読み書き」だけをいうのではなく、「読み書き算盤」となり、英語でも3R's、つまりReading,(W)riting,(A)rithmeticといわれた。初めて識字事業の重要性と広範な識字運動の必要性が認識されたのは1960年にモントリオールで開かれた成人教育世界会議においてであったが、この頃、ユネスコは教育統計の国際的標準化に関する勧告の用語の中で非識字者を(1)「読み書きができず、日常生活に関係ある事実についての短い文章も理解できない者」と定義していた。ところが、1965年にイランで開催された識字に関する世界文相会議で(2)「識字は、単に読み書きを教えるという基本的訓練の限界を超えて、人間の社会的、公民的、経済的役割を準備される方法である」という機能的識字(Functional Literacy)の概念が成立した。1970年代になると機能的識字の概念が拡大され、1975年のペルセポリスの識字に関する国際シンポジウムで採択された宣言は(3)「識字は、人間が住む社会とその目的の矛盾に関する真剣な字画を得される条件を生み指す者である。識字はそれ自体が目的ではなくて、基本的な人間の権利なのである」と謳った。そして1978年にユネスコは「教育統計の勧告」の中で機能的な非識字者を(4)「彼の属するグループや地域社会の、識字を必要とするすべての活動に従事できない者」と定義した。更に1987年、モスクワでユネスコとUNEP(国連環境計画)が開いた世界環境会議では「環境識字」(environmental litaracy)を機能的識字とみなすとの見解が出されている。
『本が死ぬところに暴力が生まれる』【原著はA is for Ox: Violence, Electronic Media, and the Silencing of the Written WordでOXをAで始まると考える若者を皮肉ったタイトル】のバリー・サンダースによれば次のようである。
識字(リテラシー)は抽象的思考や具体的現在からの分離をもたらす。識字によって、新たな記憶のしかたが生まれた。また、自己という概念も、識字による身体からの分離から生まれた。識字によって形成された「内化されたテクスト」という自己概念が、電子時代に画面というメタファーに置き換えられることによって、人間はこれまでと全く違ったものになった。口承文化の遊び心もしなやかさももたず、識字文化の内省的・批判的に思考する自己ももたない。新たな人間たちは良心や罪悪感というものを持たない。
崩壊する「自己」を取り戻すためには、識字の根源に遡って、口承世界での経験を大切にしなければならない。声を回復することによってはじめて、本来の識字化が可能になり、そこから解決の糸口が生まれるだろう。識字によって人間は「自己」を客観的に見ることができ、モラルを育成するという。
このサンダースの発言の背景にはアメリカで10%強が非識字者で、1983年の調査では米海軍新兵の25%が中学程度の文章を読めない機能的非識字者という(cf..読売新聞社1990)背景がある。
表意文字と表意文字を揃えた優れた文字体系を持ち、教育環境の整っている日本においては非識字者の問題は皆無に等しいといわれた。社会的な不適合者による事件も頻発していて、21世紀を眼前に機能的識字、すなわち、教養の意味を持つリテラシーが問われている。
第2章 コンピューター・リテラシー「コンピューター・リテレート」(“ educated or skilled in the use of computers”)「コンピューター・リテラシー」という語が最初に使われたのはOEDによれば1962年である。
その後、コンピューター環境の発展によってさまざまな広がりをもって使われるようになってきた。「パソコン、インターネット、デジタル、ミュージック、ビジュアル、グラフィック、マルチメディア、ビジネス、情報(化)、システム、エスニック、マルチカルチュラル」などが冠されている。恐らく、これらを統合したリテラシーは「マルチ・リテラシー」(cf.Cope & Kalantzis1998)であろう。
コンピューター・リテラシーを具体的にいうとワープロ(テキスト)、表計算(スプレッドシート)、データベース、グラフィック(プレゼンテーションやアニメーションも含む)、通信、音楽(MIDI)ということになる。これらを駆使できなくても、理解できなければ非識字者と同じということになる。それぞれ、「読み書き算盤」に対応させていうならば、情報吸収力、情報表現力、情報処理力である。
しかし、コンピューターはお金と同様、それ自体でバラ色の生活を約束してくれるものではない。Y2Kのようなコンピューターの叛乱もあったし、1932年に書かれたオルダス・ハクスレーの小説『素晴らしき新世界』Brave New Worldでは機械文明や生物学の極度の発達によってすべての人間的な価値が失われる未来社会が、48年に書かれたジョージ・オーウエルの『1984年』でもコンピューター管理の全体主義国家の恐怖が描かれている。
大切なのは機械文明においてコンピューターを含めた機械を人間が主体的に使いこなさなければならないということだ。インターネットやテレビゲームで楽しむことはできるだろうが、そこに価値観は生まれない。ややもすればコンピューター・リテラシーこそが現代人の必須条件と考える向きもあるが、リテラシーの一部でしかない。
「3C革命」、すなわち、伝達(communication)摂取・伝達・表現(情報表現能力)、計算(computation)処理・分析(情報技術・処理能力)、統括(control)選択・統括(情報選択・判断能力)であるが、最後の統括はメディアの評価として大切である。
どんな情報が必要でどのように活用するか、どのように評価して利用するか、というむしろ、古くからのリテラシーに舞い戻ってくる。つまり、人間として生きている最低限のルールというものに立ち返るのである。
第3章 メディア・リテラシーコンピューターやインターネットに関してバラ色の夢が描かれすぎてきた。充実したホームページは少ないし、アダルト情報もあふれ、クラッカーが増えたり、プライバシーを流されたり、中傷されたりと混乱も多い。
情報の正当性をどのように守るかという大きな問題にぶつかっている。つまり「メディア・リテラシー」(Media Literacy)が重要になってくる。
メディア・リテラシーに関して定義は少しずつ違うが、アメリカの場合は「メディア・リテラシーとは、市民がメディアにアクセスし、分析し、評価し、多様な形態でコミュニケーションを創りだす能力を指す。この力には、文字を中心に考える従来のリテラシー概念を超えて、映像および電子形態のコミュニケーションを理解し、創りだす力も含まれる」とされる。
詳しくは「メディア・リテラシーの世界」(http://www.ritsumei.ac.jp/kic/so/seminar/ML/)というHPがあってメディア・リテラシーに関してはレン・マスターマンによる「メディア・リテラシーの18の基本原則」がある。
インターネット時代の中で成長していく子どもの感性は今までと同じではあり得ない。マルチメディアの登場は新しい「人間」の形成の契機になっていて、その新しい「人間」は,新しいメディア・リテラシーをもった人間------すなわち,新しい表現手段を駆使する人間となるはずである。新しいメディアで新しい交通に加担・参入する人間である。彼らはマルチメディアで表現を作り、情報通信ネットワークで既成のコミュニケーションを横断し、新しいコミュニケーションの形成に加担する。新しいメディアで人間は新しい世界の創出者となる。
マルチメディアなどから入ってくる大量の情報を批判的に受けとめるメディア・リテラシーであるが、目の前の現実や他者の心を理解できる教養を身につけなければならない。さらに、コンピューターに何ができて何ができないか、などの限界も教えることが大切だ。
第3章 カルチュラル・リテラシー「カルチュラル・リテラシー」という語が人口に膾炙するようになったのは1987年にハーシュ(E.D.Hirsch, Jr.)のCultural Literacy(邦題『教養が、国家をつくる』)が出版されてからである。「カルチュラル・リテラシー」とはその国の文化を知る教養を指す(「文化常識」「文化的教養」と訳されることもある)。つまり、読み書き算盤やコンピューター・リテラシーだけでなく、カルチュラル・リテラシー(Cultural Literacy)というものを重視した教育が不可欠だという。この本はアメリカ経済が戦後最悪の経済危機に陥っている時代に書かれたものであり、当時の日米の経済状況下(「アメリカに教わるものは何もなし」などと豪語していた経営者が多かった)で、アメリカの個性教育が問題点を多く抱えていた時代の産物であるが傾聴すべき点も多い。
ハーシュによればカルチュラル・リテラシーとは次の通り。
すべての有能な読み手が必ず有している情報のネットワークであって、頭脳に蓄えられたこの背景情報によって、人は新聞を手にとり、十分な水準の理解力によって記事を読み、要点をつかみ、含意を読みとり、その記事を、読んだ内容に意味をもたせることができる唯一のものである暗黙の文脈と関連づける。
背景情報(background knowledge)というのは拙論(1992,95,98)の「レアリア」(realia)に相当するもので社会の成員が共有し、社会の運営に有効と認識されるために維持しようとすることがらについての知識運用能力である。ハーシュは付録として「アメリカの基礎教養5000語」を付けているが、例えば、“J”の項目だけ見てみよう。
Jack and Jill, Jack and the Beanstalk, Jack Be Nimble, Jack Frost, jack-of-all-trades(master of none), Jackson(Andrew), Jackson(Jesse), Jackson(Stonewall), Jacksonian democracy, Jacksonville,Jack Sprat, Jacob and Esau, Jacobin, Jacob's Ladder, Jamaica, James(Jesse), James(William), Jamestown settlement, Janus, Japan,jargon, Java, jazz, Jazz Age, Jefferson(Thomas), Jefferson democracy, Jeffersonianism versus Hamiltonianism, Jehovah, Jehovah's Witness, Je ne sais quoi, jeremiad, Jeremiah, Jericho(Battle of), Jersey City, Jerusalem, Jesuit, Jesus, jetstream, Jew, Jezebel, jihad, Jim Crow, jingoism, Joan of Arc, Job, Johannesburg, John(Saint, Gospel according to), John Brown's Body, John Bull, John Doe, John Henry, Johnny Appleseed, John Paul II(Pope), Johnson(Andrew), Johnson(Lyndon B.), Johnson(Samuel), John the Baptist, John XXIII(Pope), joie de vivre, joint chiefs of staff, joint resolution, Jolly Roger, Jonah and the whale, Jones(John Paul), Joplin(Scott), Jordan River, Joseph and his brothers, Joshua, Joshua Fit the Battle of Jericho, journeyman, Joyce(James), Judaism, Judas Iscariot, Judgment Day, Judgment of Paris, judicial branch, judicial review, Julius Caesar, Jung(Carl), Juno,junta,Jupiter, Jupiter, justificationこれらはアメリカ文化に根付いたリテラシーで多くの日本人に馴染みのない語が並んでいる。この本を具現したのがThe Dictionary of Cultural Literacyである。これには“Lee Harvey Oswald”は載っていても日本人は“Hirohito”しか載っておらず、“Japanese emperor, who came to the throne in the 1920s. He reigned over the Japanese in World War II. After the war, he was foced to give up the claim to divine status that previous emperors had made. He died in 1989, after long outliving all the other major figures associated with the war.”と記述してある。
アメリカの初等・中等教育では個性を伸ばすという目的で能力開発型の自由教育を日本の詰め込み型・丸暗記型の教育と反対に採用してきた。これは事実や内容を教えることよりも「頭の体操」的な能力開発を目指していた。ハーシュが憂えているのは自由教育によって同じアメリカ人でも同じ話題を持つことができなくなっていたり、同じ学校を卒業してもカリキュラムの違いで共通の会話を持つことが不可能になっている現状であった。日本型の教育を「事実派」とすればアメリカ型の教育を「能力派」と呼ぶことができようがハーシュは能力派の考えを全面的に否定せず、両派の協同が重要だとする穏健な立場をとっている。同様の主張は1991年に出版されたシュレジンガーの『アメリカの分裂』でも英語モノリンガリズムと一緒にして繰り返されている。
しかし、この本は日本ではあまり注目されず、全文検索のサーチエンジンで「カルチュラル・リテラシー」を検索してみると拙HP(http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/)しか出てこない。これには日本文化が均質的で、教育も既にカルチュラル・リテラシーを重視するものであったことと、『現代用語の基礎知識』『imidas』『知恵蔵』など補完手段がそろっていることなどがあげられる。
とはいえ、日本でもカルチュラル・リテラシーの貧弱さが文化の断絶に連なっていることが多い。能、狂言や歌舞伎をいうまでもなく、落語にいたるまで現代の若者はレアリアを知らないから理解することもできない。
「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉も三味線も桶屋も知らない学生が増えてことわざとしては通用しない。これは文化用語だけではなく、工業用語でも同じである。拙論(1997)で指摘したように時計の歴史において“hair spring”(ひげぜんまい)の発明が重要な役割を果たしたという文があってもゼンマイを知っている学生が少なかった。バネの一種のゼンマイだけでなく、山菜のゼンマイさえも知らないのである。同様に「真空管」や「IC」などもすでに廃語となっている。
確かに社会的に新しいモノや概念が生み出されるたびにリテラシーの語彙は異なってくる。「パソコン」も「PHS」も「DVD」も、「セクハラ」も「フォーク並び」も「カルチュラル・スタディーズ」も20年前にはなかった。しかし、これらの変化は日本語の中でいつまでも変化しない単語や連想の数と比べればわずかである。すぐに役に立つ技術・リテラシー・カリキュラムはすぐに役に立たなくなることが多い。
ハーシュの本は木下(1998)も指摘しているようにアメリカの多元主義に対して、社会統合を支える一定の文化的基盤、共通の価値観が求められたという背景から生まれている。明治維新の日本でイデオロギーとしての「國語」が求められたように、多元主義で社会格差が肥大化しつつあるアメリカの統一原理ともいえるものである。
この議論はしかし、「カノン(正典)論争」(The Great Canon Controversy)と呼ばれる大論争を引き起こした。それはハーシュの語彙や古典は西欧中心的な価値(特にWASP中心の文化)に基づいており、現実の文化、民族、人種の構成を配慮して多様な視点やニーズを含めたものに改変されなければならないとした。言語についてもバイリンガリズムに反対はしていないが、まず国語である英語をこなせるようになってから二つ目の言語を習得すればよいと考えている。この点もエスニック・グループが多いアメリカの言語事情を無視しているとしたものである。
同様に、日本人には国際化という大きな問題がある。日本語や民族性の「ガラスの壁」(“glass wall”祖父江1977)があるが、国際化とリテラシーはどう関わればよいのだろうか。
第5章 グローバル・リテラシー「ナショナル・リテラシー」ともいうべき「カルチュラル・リテラシー」を超えるものは「グローバル・リテラシー」である。
カナダの思想家マクルーハン(Marshall McLuhan)は「グローバルビレッジ」(global village)という考えをテレビ元年ともいえる1960年に提出した。グローバルビレッジというのは通信手段の発達で世界が村社会のように狭くなったと感じられる20世紀後半の世界を指し、グーテンベルクの印刷メディア以降失われた感情豊かで細やかな口頭コミュニケーションがテレビなどのメディアで復活するというものであった(が、実際には電子メールの普及によって文字コミュニケーションの優勢は変わらない)。
グローバリゼーションという言葉も70年代以降よく使われるようになったが、多くの場合、アメリカニゼーションと同義であることが多い。90年代以降の「グローバル・スタンダード」が「アメリカン・スタンダード」であることが多いのと軌を一にしている。これに関してトムリンソンは『文化帝国主義』の中で次のように述べている。
「帝国主義」とは1960年代までの近代を特徴づけてきたものだが、その「帝国主義」にかわるのが「グローバリゼーション」なのである。
グローバリゼーションは、この上なく一貫性がない、あるいは文化的目標をもたないプロセスという点で、帝国主義とは異なっている。確かに帝国主義は、経済的・政治的な意味では曖昧なものだが、少なくとも目的をもった企てという概念だけは含んでいる。つまり、ある権力中枢から地球全体に向かってひとつの社会体制が意図的に拡張されるという考え方である。一方、「グローバリゼーション」という概念は地球上のあらゆる地域の相互連絡や相互依存を意味するが、それは「帝国主義」の場合よりもはるかに無目的な方法で行われる。これらの作用は、経済的活動や文化的活動の結果として生じるものだが、そうした活動自体は決して世界統合などを目指しているわけではないのに、なぜかそういう結果を生みだしてしまうのだ。さらに重要なのは、グローバリゼーションにはあらゆる国民国家の文化的一貫性を弱める効果があるということである。もちろんその中には、かつて「帝国主義の列強」と言われた経済的に強力な力をもつ国家も含まれている。ジョン・アーリーは、こうしたグローバリゼーションのプロセスを「組織的資本主義の終焉」の徴候と考える。
つまり、「グローバル・ビレッジ」も「グローバリゼーション」も無色透明な理想とすべき概念ではなかった。世界の文化の多様性というのは簡単に乗りこえて理解しあえるものではない。
さて、「グローバル・リテラシー」という語はほとんど聞かれず、全文検索のサーチエンジンgooで調べると3ヒットしかしなかった(2000年3月現在)。一つは英検関係のBBSの書き込み(既に消滅)であり、最後の一つは拙論で、もう一つは2000年1月20日に出された小渕恵三首相の「21世紀日本の構想」懇談会(座長・河合隼雄)の報告書(http://www.kantei.go.jp/jp/21century/houkokusyo/index2.html)で「グローバル・リテラシー」の中の言葉だった。
報告書の「日本のフロンティアは日本の中にある―自立と協治で築く新世紀―」の第1章総論「日本のフロンティアは日本の中にある」要旨の中でまずグローバル・リテラシーを次のように定義している。
報告書では、まず、「II.変革強いる世界の潮流」という項目のなかで、グローバル・リテラシー(国際対話能力)の確立が不可欠であるとの状況認識を示し、具体的には『情報を自在に入手し、理解し、意思を明確に表明できる「世界へアクセスする能力」「世界と対話できる能力」が不可欠。基本は、コンピュータやインターネットといった情報技術と、国際共通語としての英語を使いこなせること。』としている。 具体的提言である「IV. 21世紀日本のフロンティア」のなかで言語教育に関する言及はつぎのようなものである。
【グローバル・リテラシー(国際対話能力)を確立する 】
★社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするという具体的目標を設定し、修得レベル別のクラス編成、教員の客観的な評価や研修の充実、外国人教員の拡充、英語授業の外国語学校への委託などが必要。また、国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは和英両語での作成を義務付ける。
★長期的には英語を第二公用語とすることの国民的論議が必要。
★また、21世紀の世界に生きるための国内基盤としても、グローバリゼーションへの対応すべく、 英語やインターネットを日常的に使用し、優れた外国人を多く日本に迎え、国内多様性を形成すべきである。このような提言を作成するまでの議論においては、第1分科会「世界に生きる日本」第2回会議において、“今日、世界の趨勢は「言語が一つになりつつある」という状況認識が出席者から述べられ、“グローバリゼーションを今後の世界の基調と捉え、その中での日本を考えていく上において、今後の日本外交の足腰ともいうべき、情報の発信・収集能力が話題となり、特に外国語教育の在り方について議論がなされた”という。
【状況認識】
21世紀の世界におけるコミュニケーションの手段は、確実に英語になりつつある。デ・ファクトで英語が世界語になりつつある。すでに世界の子供の三分の二は何らかの形でバイリンガル環境に育っており、21世紀のいずれかの時点では、英語が半永久的なグローバル言語となる可能性が非常に高い。インターネットの普及によって、「聞く話す」能力のみならず、もう一度「読み書き能力」をつける必要も出てきている。日本が今後どう対処していくかは非常に重要な問題である。【討議内容】
(1) アジア各国で大変な勢いで英語教育が普及しつつある、日本政府の政策としてバイリンガル教育を考えるべきである。
(2) 1億2千万の人口がおり日本の中だけで相当程度やりとりが完結しうる、また、日本語は外来語も簡単に導入できる便利な言葉である、といった要素を考えると、国民全体の英語能力の向上はなかなか難しい面もある。
(3) 日本語能力の向上も同時に重要である。
(4) バブル時代に蓄えた資産は大きく、帰国子女も以前に比べると大変多い。こうした資産を活用すべく、うまくシステム化することが必要である。
(5) 国会議員の中にも英語の上手な人が増えており、また、和合調整型の政治家を尊しとするという政治風土も変わりつつある。状況は着実に変わっていっているのではないか。
(6) 英語教育以外の外国語教育として、人口比から考えても、アジアでは中国語も重要である。つまり、報告書の考える「グローバル・リテラシー」というのは(1)コンピューターなどの情報技術を使いこなす能力(2)国際共通語としての英語を使いこなす能力(3)論旨の明快さ、内容の豊かさなどのコミュニケーション能力のようである。
「グローバル・リテラシー」を他のメディアで初めて見たのは船橋洋一(1999)である。これはシンガポールのテオ・チーヒエン・教育相とのインタビューが基となっている。テオ教育相はインタビューに英語とITの能力をつけてこそ、知識基盤経済(KBE)に離陸させることもできると述べ、「どの国もこれまで、産業社会に適用し、それをさらに発展させる国民を創り出すのに必要なリテラシーの標準をそれぞれの国単位でつくってきた。しかし、これからは一国単位でのリテラシーが及第点だったとしても、しょせんそれはローカル・リテラシーに過ぎず、グローバルには使えない現象が出てくる」といい、翻訳ではダメかという質問に対して「翻訳で済ませようというのなら、それもよい。ただ、情報革命時代には何事もすさまじいスピードで動く。翻訳に手間取っている間に、さまざまな機会を失ってしまう。将来は翻訳に頼る人種と直接英語で世界にアクセスする人種と、社会は二種類の人種へと分かれていく」と答えている。
グローバル・リテラシーに類似した概念は新井郁男(1997)らが特定課題研究「異文化間リテラシーを探る」で使った「異文化間リテラシー」であろう。定義はさまざまであるが、本名(1997)が文化リテラシーを社会の成員が共有し、社会の運営に有効と認識されるために維持しようとすることがらについての知識運用能力」、異文化間リテラシーを「異なる文化的背景をもつものどうしが出会い、交流するさいの、相互の文化的伝達、理解、そして調整の能力」と明確に区別している。類似の提案はPaulsonの「国際的能力」(international competence)、Beckerの「地球市民性」(global citizen competencies)、Banksの「多文化リテラシー」(multicultural literacy)などがあった。
文化理解には知的、情的、行動的理解があるが、人類に共通と考えられる五感ですら文化によって異なり、嫌悪の理由となることがある。
例えば、味覚は料理の違いをみるまでもなく、視覚では美醜の違いがあるし、聴覚でも日本の交通手段での案内がうるさすぎると指摘されるし、触覚も日米の接触文化は大きく異なり、収穫に至っては日本の漬け物や魚の匂いが嫌われることも多い。中国に旅行する日本人にとってトイレの問題が大きくのしかかるようにその逆も多いのである。「感覚的に」嫌いな文化もある。
冷戦終結後にさまざまな地域紛争が「民族紛争」と呼ばれるようになったが、民族は越えがたい「ガラスの壁」として存在し、「共感はないが、共存は認める段階」(祖父江1977)で十分である。
自己のアイデンティティが確立していないのに他者と交流できない。グローバル・リテラシーの中心は自国文化の表現能力にかかっている。すなわち、前章で述べたようなカルチュラル・リテラシーを基礎にグローバル・リテラシーが生まれてくる。
グローバル・リテラシーでもっとも問題となるのはトムリンソンの指摘するように『文化帝国主義』である。例えば最も無害に見えるアニメですらドーフマン&マテラートの『ドナルド・ダックの読み方------ディズニー漫画における帝国主義的イデオロギー』などが明らかにしているように南米諸国にはドナルド・ダックの持っている性格が文化に相容れず、禁止されることも多い。同様にコカコラニゼーション(cocalanization)とかジョージ・リッツァのように『マクドナルド化する世界』(MacDonalization)と言われ、リッツァはマクドナルド化は脱人格化をもたらし、「人間関係と礼儀正しい行動を大切にする」日本の社会では非合理的なものとみなされるであろうと懸念している。つまり、「グローバルビレッジ」という「神話」「語り」(narrative)は多文化の中に埋没してしまう。
映画というとハリウッド映画しかない状況が続いているが、各国には各国の映画があり、文化があった。こうしたアメリカによる文化侵略からいかにして自国文化を守るかイギリスやフランスは真剣に考えている。イギリスではインターネットをラジオ・テレビに次ぐ第3のメディアととらえ、アメリカのソフトに席巻されないようにBBCを中心として対抗している。フランスでは1992年、憲法に「共和国の言語はフランス語である」という一文が追加され、英語が入らないように大蔵省用語委員会やアカデミー・フランセーズが管理している。
グローバル・リテラシーの内容としては(1)カルチュラル・リテラシー(2)多文化教育(3)異文化適性(4)自己表現能力(5)地球環境が考えられる。
(1)カルチュラル・リテラシー(“Culturally specific lietacy”ともいえる)自身の文化ルーツを持たないのに一体何が表現できるだろう。皆と同じというのでは表現する価値がない。
例えば、小津安二郎監督は日本独自と思われる世界を描いたので他の世界の人は理解できないだろう、と思っていた。しかし、イギリス人をはじめ多くの外国人がエキゾチシズムではなく、OZUといって敬愛している。otakuも世界の言葉になり、日本の漫画を日本語で読みたいという人が増えている。つまり、世界に通用する文化を保持・育成さえしておけば誰もがその文化に興味をもち、廃れることはない。アメリカ人のように流暢に話せるようになるのではなくて、日本人としてのルーツ、アイデンティティをもってきちんと話せなければ会話に広がりが生まれてこない。
(2)「多文化教育」(multicultural education)というのは1980年半ば以降の外国人労働者の日本への流入などと共に重要性が指摘されるようになった。多文化教育は多文化社会を前提に文化的多数者と少数者との共生を考えるものである。ところが、日本は江戸時代の藩単位の独自性はあったにせよ、民族・文化としての多様性を無視・抑圧させる方向で明治以降の大きな政策となった。共生ではなく、同化を重視してきた。元々、多文化社会であった他の多くの国と違って、多文化教育は国際化する社会においては急務であるが、日本では遅れているといわざるを得ない。他の諸国が「コンチネンタル・フォーム」(大陸性“continentality”とすると日本文化の表現は「アイランド・フォーム」(島国性“insularity”)で外部に開かれていない。
(3)異文化適性近年、いきなり外国への出張を命令され、現実と期待のギャップからカルチャー・ショックやストレスが生まれてくることが多い。八代京子他(1998)によればこうしたストレスを緩和するためには次の4つの要因が大切だといわれる。
(i)自己効力感(Self-efficacy ある文化の中で、場面に応じた適切な行動がとれる自信)------買い物に時間がかかったり、目的のものを手に入れられなかったりして無力感を感じることが多いがなるべく早く新しい環境について学び、慣れることである。
(ii)ストレスの要因の捕らえ方------例えば上司の家に仏壇用の花を持っていってしまった場合でもそれを失敗ととらえるか、笑い話ととらえるかでストレスのたまり方が違う。Sense of humorが大切である。
(iii)ソーシャル・サポート(友人や親戚等、心の支えになる人たち)------ソーシャル・サポートを新しい環境で作り直すために・今現在日本での生活ではどのような人がどのような役割を果たしているかを、なるべくたくさん詳しく書き出し、意識化する・外国に行くことにより、その役割を果たせなくなってしまう人たちのところに印をつける・外国でその人たちの代わりをしてくれそうな人たちをどうやって探すか、作戦を立てる。
(iv)リラックスするためにできること------日常のささいなこと、定期的にできること、今はしていないが、以前行っていたこと、これから行ってみたいことなど自分にとって「楽しい」または「リラックスできる」ことをなるべくたくさん書き出してみる。
(4)自己表現能力知識の詰め込み型教育ではなく、自己表現のために考える力を養い、自分で知識を発見する喜びと能力を育てることである。
日本人は「出る杭は打たれる」というように出しゃばってアグレッシブになることは好まなかった。しかし、ボーダーレス社会では自分の意見を明確にし、相手との議論が楽しめるようなことが必要となってくる。
その地方で長く使われてきたことわざ、つまり俗諺には含蓄の深いものがおおい。私がすきなものに「出る杭は打たれる」「出すぎた杭は打たれない」がある。それにもう一つつけ加えて「出ない杭は腐る」と三点セットにすれば申し分ない。
-----山下惣一『だから農家は論より証拠』(家の光協会)筆記試験重視の制度では他者との競争ばかりが目立って、協同が生まれてこない。身体で理解する「演劇的知」ともいえる表現力・感性を付けなければならない。
(5)「環境リテラシー」、つまりエコロジーを意識して「かけがえのない地球」として自覚をもたなければならない。ここで「異文化間リテラシー」などと区別して「グローバル・リテラシー」を定義するとすれば、「かけがえのない地球の一員としての意識を持ち、自身の文化を理解・体現し、交流する際に他者の文化を理解できる能力」ということができるであろう。
第6章 グローバル・リテラシーと「英語公用語化論」英語の重要性はグローバル化によって拡大していくことは確実で日本も英語教育の発展・改善に努めなければならないことは自明である。
ただ、報告書の中でもっとも波紋の大きいのが英語の第二公用語化である。
報告書には国際共通語としての英語を「長期的には第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的論議を必要とする」と断っているが次のように「英語公用語化論」が書いてある。
3.国際対話能力(グローバル・リテラシー)のために情報技術革命、グローバリズムを乗り越えて波乗りすることは容易でない。インターネットと英語を共通言語として日本国内に普及する以外にないであろう。双方についてマス・レベルで幼少期より馴染むべきであろう。
誤解を避けるために強調しておきたい。日本語はすばらしい言語である。日本語を大切にし、よい日本語を身につけることによって、文化と教養、感性と思考力を育むべきは言うまでもない。だが、そのことをもって外国語を排斥するのは、誤ったゼロ・サム的な論法である。日本語を大事にするから外国語を学ばない、あるいは日本文化が大切だから外国文化を斥ける、というのは根本的な誤りである。日本語と日本文化を大切にしたいなら、むしろ日本人が外国語と他文化をも積極的に吸収し、それとの接触のなかで日本文化を豊かにし、同時に日本文化を国際言語にのせて輝かせるべきであろう。
すでに国際化の進行とともに、英語が国際的汎用語化してきたが、インターネット・グローバリゼーションはその流れを加速した。英語が事実上世界の共通言語である以上、日本国内でもそれに慣れる他はない。第二公用語にはしないまでも第二の実用語の地位を与えて、日常的に併用すべきである。国会や政府機関の刊行物や発表は、日本語とともに英語でも行うのを当然のたしなみとすべきである。インターネットによってそれを世界に流し、英語によるやりとりを行う。そうしたニーズに対処できる社会とは、双方向の留学生が増大し、外国人留学生の日本永住や帰化が制度的に容易となり、優れた外国人を多く日本に迎え、国内多様性が形成された社会であろう。日本が国際活動の流れから外れてしまうジャパン・パッシングを嘆く事態を避けるには、日本社会を国際化し多様化しつつ、少子・高齢化の中でも創造的で活気に満ちたものとすることである。それが21世紀の日本の長期的な国益ではないだろうか。
「第二公用語」の定義がなされていないという欠陥もあるし、国民的論議を呼ぼうという趣旨でもあるのだが、検討してみなければならない。
国際コミュニケーションというと英語教育に直結して考えられがちで日本語を捨てて他の外国語にしようという試みは明治以降何度も行われた。欧化主義者で初代文相だった森有禮や作家の志賀直哉などが英語やフランス語にコンプレックスを感じて捨てようとしていたが、それほど日本文化も日本語も劣ったものではなかった。言語はそれぞれに価値があるというだけではなく、日本語は科学技術や論理に対応できる言語であった。
拙論(1985,1986)で述べてきたように、日本は明治期に「國語」という制度を作りあげ、大学まで日本語で学べるようになった(恐らく自国語で大学教育を行える国は20もないであろう)。
例えば、国際社会の支援を受けて独立への道を歩み始めた東ティモールは共通の言語を何にするかで論議を起こしている。インドネシア語か(弾圧と恐怖の支配への反発がある)、古くから伝わるテトゥン語(その他に40近い言語がある)か、英語か(馴染みがない)迷っている。そうした制度としての言語を選ぶ必要のないのに英語がどれだけ国際語として確立していていようと公用語として認めようと言うのは間違いである。多くの国は国としてのアイデンティティを確立するのにも苦労している。拙論(1999)で述べたようにインターネットが用意した多言語環境を無視して英語に偏るのは「英語帝国主義」的で危険ですらある。
報告書のような改革によって学校教育の破壊、日本語能力の低下が懸念される。
既に中学では3年間に9単位時間で国語より1単位時間少ないだけである。英語を増やすか「イマージョン・プログラム」(理科や社会も英語で行う)なども考えられているようだが、小学校で英語を導入することも考えられているが、早期教育が英語で交渉できる人間を作るとは限らない。むしろ、日本語がまだ完成していない年代に外国語を教えることは「セミリンガル」(semilingual------母語も外国語も中途半端な人間)を作るだけで、更に、日本語能力の著しい低下、国民意識の弱体化につながる。
アメリカではネイティブ・アメリカンなどに対するバイリンガル教育がレーガン政権下で進められたが、英語への移行が容易になって、結局、母語も文化も捨てる人が多くなって問題になった。
外国人が英語でコミュニケーションする時にも実際には色々な落とし穴がある。意味解釈が違ったり、ニュアンスが異なって後で慌てるということがある。共通語を使っているからといって安心して、油断することになる。互いに思いこみが激しくて、誤解を補修するのに余計に手間取ることになる。
拙論(1992,1997)などで指摘してきたように「偽りの同義語」があるし、日本の受験英語では誤解を招きやすい表現も多い。例えば、“girlfriend”“boyfriend”などは明らかに英語の意味と違うし、“had better”を使うと脅迫的に聞こえてしまう(Why don't you〜?とした方がいい)し、軽い提案の気持ちで“should”を使うと過剰な反応が返ってきたり、“Please tell him to〜”というと命令口調(“ask”を使うべき)だと反発を食うことがある。英語に敬語がないという思いこみも多いが、大いに注意すべき事である。
同じ言葉でもレアリア(文化背景“realia”)が違うことは拙論(1992,1994,1998)などで述べた通りである。だからといって英米のみのレアリア、すなわりカルチュラル・リテラシーを教えることは前章で述べたように文化帝国主義に傾くことになり、間違いである。
また、国際文化論や国際交流の講座がある教育機関はグローバル・リテラシー教育に対応できるだろうが、英語の教員の多くは文学部の英文科出身で「国際語としての英語」というか国際コミュニケーションのツールとしての英語ではなく、聖書やシェイクスピアを基礎とした、アングロサクソンの「部族語としての英語」を身に付けていることが多かった。「国際的」といいながら、実はinternationalではなくbinatinalであることもある。
英語自体が「脱英米化」(de-Anglo-Americanization of English)が進み、ニュートラルな中間言語(inter-lingua)、「リンガ・フランカ」(Lingua Franca)としての地位を得てくるだろうが、“Occupied Japan”でもないのに英語が必要だと強調しすぎることだ。日本人訛りがあっても恥ずかしくはないし、日本語的表現が好まれることさえもある。本名(1997)によれば“I can do it before breakfast.”“I have a son who is still chewing my leg at the age of 27.”という表現さえ受け入れられているという。大切なのは受信型から発信型のコミュニケーションに変えることである。
「日本語はすばらしい言語である」と述べているが報告書には「ガバナンス」、「パターナリズム」、「アカウンタビリティ」、「シビリアン・パワー」、「ワード・ポリティクス」や「協治」や「言力政治」といった見慣れない言葉も導入されていて日本語として洗練されているとは思えない。
本当にそう考えているならば母語である日本語教育を徹底させるべきである。英語教育の課題の一つが学習者の日本語能力であることも多い。かゆいところに手が届く表現をもち、文化を担ってきた日本語があって始めて技術も発達する。
更に日本語を世界で通用するように、日本語・日本文化を英語世界に輸出するための積極的な取り組みをすべきである。国連にも最大の供出を行っているから国連の公用語として認められるように努力すべきである。例えば英語のビジネス・レターにはClearness(Clarity),Conciseness, Consideration, Correctness, Concreteness, Coutesy, Completenessで7C'sとかClear, Candid, Concise, Correct, Coherent, Complete, Concrete, Convincing, Constructive, Conversationalの10C's と呼ばれる鉄則があるが、日本はそうした言葉の明晰さを徹底的に教えていない。そのために日本語表現は曖昧だとされるのだが(実際には表現が悪いのではなく語用論的な問題)、改善すべき点は多い。
当然、小中段階から分かりやすく「正しい」日本語を徹底して教えるべきである。
そして、何よりも日本語を学ぶ人が多くなるような愛される国家、魅力的な日本文化、研究制度、留学制度などを築き上げるべきである。
終章 グローバル・リテラシーの21世紀マーガレット・ミード(1981)は文化の歴史を(1)過去志向型、(2)現在志向型、そして若者主導の(3)未来志向型に分け、文化の国際交流を通じて世界の若者の意識が国際化、地球化していくかぎりにおいて「国際文化」「地球文化」が国際文化論のテーマになると語っているが、我々はグローバルな視点に立てる若者を育てていかなければならない。
外国人に同化することが国際理解ではなく、相違が分かったところから真の理解・交流が生まれる。外国人とのコミュニケーションで問題となるのは言語の問題よりは相手が日本人や日本文化を知らないからということが多い。いたずらなお国自慢、愛国心であってはならないが、祖国の文化を語れることが重要である。
日本の学校文化の背後には「みんな同じがいい」というような平等心があってイジメを引き起こし、不登校を増やして破綻したが、グローバル・リテラシーは既に存在する異文化(他者)を認識することを重視する。一人ひとりが違っていいと考え、他人と違う自身もいとおしむような「自尊感情」(self-esteem)を育てるような教育に戻らなければならない。
日本の学校の教育文化から変えなければ21世紀の日本の将来はないと考えられる。教育に関する議論がオープンになされなければならず、学校現場もオープンなものにならなければならない。
つまり(1)個性重視のカリキュラム(2)狭隘な自己中心主義・自文化中心主義からの脱却(3)学校のオープン化、が課題となるであろう。
また、日本や日本文化を語る前に、例えば故郷や故郷の文化が語れるようにならなければ、自分自身もまた自己表現できないのである。
海外に紹介される日本文化もかつての能、歌舞伎、生け花、茶道、柔道、黒澤明などからテレビゲーム、アニメ、オタクなどと大きく変化している。
日本は内村鑑三が『代表的日本人』の中で、日本の教育は学習内容が厳選されていたこと、学校は魂と個性を持った人格を育成するところで、集団管理をするところではなかった、と明言していたが、現在の学校教育の状況とはかけ離れている。
グローバル・リテラシーが目指すのは外国人とのコミュニケーションだけではない。蓮實重彦学長が2000年の東大卒業式祝辞で述べたように「知性とは他者との遭遇で自らを変化せしめる社会的な柔軟さにほかならない」のである。
船橋(1999)でシンガポールのテオ教育相が「過ち(オネスト・ミステーク)に対する寛容の気持ちを教育現場に注入したい」と答えているように、一つの正解や無謬を求める強迫観念ではなく、創意工夫や創造性を重視した、開かれたリテラシーを目指さなければならない。
我々日本人がこれからグローバル・リテラシーを身に付けなければならないように、これを他の国へも普及し、グローバルな視野で地球を守っていかなければならないであろう。
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