金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


「言語力」を考える


「“言語力”があぶない〜衰える 話す書く力〜」が「NHKクローズアップ現代」(2009年11月25日)で放送された。

 危惧していたことを内容としていたので面白くはあったが、奇妙でもあった。「言語力」という言葉自体が奇妙なのだ。今までは「コミュニケーション能力」とか「国語力」とかされていたところだが、これとは違うらしい。斎藤孝でもあるまいに、勝手に造語するな、と言いたいところだ。「コミュニケーション能力」は双方向だから違うし、「国語力」というと文学の読解のように思われるからだろうか。

 更に「言語力検定」というのもあるそうだ。漢字検定協会のせいで、どの協会も疑ってしまうのだが、お金儲けではないのだろうか。NHKがそんなに簡単に乗っていいのかと思ったが、今調べたら「言語力育成会議」というのも文科省にあった。どうせ説明するならこちらの方を引き合いに出せばよかったのにと思った。そのかわり、委員のひとり大津さんが出ていた。

 番組では触れなかったのだが、2011年度に小中学校が新学習指導要領に全面移行することになっていて、多くの学校は前倒し実施を始めているのだが、新要領は「ゆとり」を見直し、授業時間を増やし学習量を復活させたと注目されただけでなく、全教科で「言語力」育成を求めていた。

 言語力とは「情報を整理する力」「論理的に考えを組み立てる力」「根拠を示して表現する力」とか何とか言っていた。

 若手社員の問題は「読み書きや考える力」53%、「主体性」51%、「コミュニケーション能力」46%が問題にされているという。

 実際、番組でも模擬面接の場面で、就職の志望動機はスラスラ言えるのに、想定外の話を振られたとたん黙っていた。作文でも「私がこの本を気に入ったのは目次です」というのが紹介されていた。

 まあ、「言語力」というものがあるとしよう。「言語力」は子どもの時の会話の量に比例するという。これは当たり前のことで、家族と密接に話したこともないものが社会に出て話せるはずがない。僕自身、親としてうれしかったのは長男が高校に入った時、担任の先生が「家族との会話が多いことが見えてきます」と話したことだった。当たり前のことだが、会話が多い方だと思う。まあ、言語学者の中にも家で静かな人もいるかもしれないが。

 番組の例では子どもが「ジュース」と言ってきたら、すぐにジュースを与えてはいけない。「ジュースをどうしたいの?」と聞いて、「ジュースを飲みたい」と言ったら「どうして?」と聞いて「のどがかわいたから」という言葉を待ちましょう、ということだった。とはいえ、マニュアルのように話すのはダメだと番組では釘を刺していた。

みかん一つに言葉こんなにあふれおり かわ・たね・あまい・しる・いいにおい---俵万智『プーさんの鼻』

 子どもが言葉少なに育つのは「共食」(番組では使っていなかったが)が崩れていることも関係があるという。子どもと一緒に御飯を食べるのが本当に少なくなってきている。大人自身が忙しいこともあるが、子どもも忙しいからだ。うちでも子どもが先に食べていき、塾から帰ってきてから食べるということがあって、少なくなってきている。

 「私がこの本を気に入ったのは目次です」という文が生まれてしまうのはケータイのせいだともいう。確かにメールは短いし、分かり合っている相手だから手短になる。また、予測変換などがあって、定型文ばかり書くことになって、文章力を鍛えることにならない。

 でも、不思議に思ったのはこんなにもブログがあふれているのに、下手になっているのだろうか、ということだった。昔から文章の書けない子どもはいっぱいいた。番組では言わなかったが、読書が大切だと思うが、読書をまったくしない人間なんていっぱいいた。本当に、「言語力」が劣った人が増えているのだろうか?原点に立ち返って思う。

 メールが典型的だが、日本人の「阿吽の呼吸」「以心伝心」型コミュニケーションというものがネックになっている。そこから脱却しなければならないが、容易ではない。緊密な人間関係を築くためには緊密なコミュニケーションが必要だが、それこそが、日本的なコミュニケーションを助長することになる。また、日本で子どもが言葉多く語ると「理屈っぽい」といわれる。そんな風土が「言語力」をそいでいる。子どもでなくても、しゃべりすぎる奴は嫌われる。

 面白かったのはサッカーでも「言語力」ということが言われるのだそうだ。野球と違って、監督の指示というものが試合中には反映されない。うちの長男はいつもサッカーかラグビーの監督になりたい、と言っていたが、試合の時は遊んでいるように見えるからだ。サッカーでは一瞬、一瞬、状況が変化してきて、自分が何をしたいのか、みんなに伝えなければならない。コミュニケーションの瞬発力というのも必要だ。だから「言語力」ということになるのだそうだ。

 確かに、野茂と中田の外国語力の違いは野球とサッカーの違いかもしれない、と今思った。

 言葉というのは人間そのものだ。動物にあるといっても、人間言語と動物の言語との違いは明らかである。言葉にしないと考えが明晰にならない。

 人間を人間として育てるためにも「言語力」が必要だということだった。

 とはいえ、どうして「言語力」と言わなければならないのか、最後まで分からなかった。

ぼくらの見栄が言葉を化粧する
言葉の素顔を見たい
そのアルカイック・スマイルを

---『谷川俊太郎の問う言葉答える言葉』

 【2009年11月26日】


Back Home        please send mail.