金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)

駄ジャレの作法〜笑われないために

ダジャレ=『広辞苑』によると、「つまらないしゃれ」とある。ところがその「つまらない」ところに価値があるのだ。その破壊力によって価値の顛倒を引き起こす。とは言うものの、まったく無価値なものがあるのも事実。
     ------河合隼雄

ユーモアの分析はカエルの解剖のようなものだ。
興味を持つ人はほとんどいないし、カエルはそのために死ぬ。
     ------E・B・ホワイト(米・小説家)


「がいらいごじてん」  まどみちお
      『
まど・みちお全詩集』(理論社)

ファッション=======はっくしょん
ア ラ モード=====あら どうも
ミニ スカート=====目に すかっと
ぱんたろん========ぱあだろう
ネグリジェ========ねぐるしいだろう
ダイアモンド======だれのもんだ
ペンダント========へんなんだ
マニキュア========まぬけや
メニュー==========目に いう
ア ラ カルト=====あら 買うわ
コロッケ==========まっくろっけ
ホット ドッグ=====おっとどっこい
ピックルス========びっくり酢
バウム くーへん===どうも くえへん
マロン グラッセ===まるうおまっせ
クロッカス========ぼろっかす
トイレ============はいれ
トランポリン======しらんぷりん
ボクシング========ぼく しんど
トラクター========とられたあ


☆駄ジャレの現在的位置

 僕は多くの人に誤解されている。ネットで僕は饒舌な人だと思われているのも間違いで、ほとんど人と会話をしない。いつも苦虫をミキサーで潰して馬の毛で裏ごししたような顔をしている。言葉を弄(もてあそ)ぶ人間が大嫌いだ。ウソつきだというのも大誤解で、正直を絵に描いてワックスで磨いたような人間である。

 多くある誤解の最たるものが「駄ジャレばかり言っている」というものである。

 確かに、駄ジャレは言う。しかし、僕は本質的にシェイクスピア的なユーモアが好きなのであって、ウィットに富んだ人間と思っている。僕のレトリックも駄ジャレとは違う次元にあると思っている。駄ジャレは笑いを強要するが、ユーモアというのは自己批評ができて、己を笑うところに生まれる。エスプリというのは他者批評があって、相手をチクリと刺す。

 実際にはジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』(中公文庫)のようなナンセンス・ジョークも好きだ。例えば、「僕の趣味は趣味を言わないことです」とか、ある放送局の一発芸オーディションで「鳥の真似をします」というのが48番目に出てきたのだが、既に疲れていた審査員が「つまらない。帰れ、帰れ」というとガックリきて窓から飛んでいった……なんていうのが好きなのである。

 稲垣足穂も大好きで、『一千一秒物語』には次のようなコントがあって落語の「あたま山」を連想させる。

ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつむくとポケットからお月様がころがり出て 俄雨に濡れたアスファルトの上を ころころころころ どこまでもころがっていった お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

 そんな風に書くと駄ジャレに僕自身も低い価値しか与えていないようにみえる。確かにそうなのである。ただ、低いままに置かれていることに少し腹も立っていた。人類が営々と築き上げてきた、高度で精神的な頭脳活動なのである------というのは大げさだが、それなりの価値もあると思うのだ。

 ここでは下手な駄ジャレを飛ばして人に笑われないようにする作法を考えたいと思う。

 駄ジャレに低い価値しか与えてないとはいっても「あっ、また駄ジャレ」という人よりは遥かに高い価値を与えていて、「駄ジャレ」と決めつけられると、「だから貴様はオタンチン・パレオロガスというのだよ」と毒づきたくなる。これは漱石の『吾輩は猫である』で苦沙弥先生が妻にいう悪態で、皇帝コンスタンチン・パレオロガスをもじった駄ジャレだである。

 “Constantine Palaeologus”でコンスタンティヌス11世(1404-53)、つまり、ビザンチン帝国最後の皇帝(1449-53)のことであるが、明治の読者はどれだけ分かったのだろうか?

 もちろん、『坊ちゃん』にも「『第一先生を捕まえてなもした何 だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない』とあべこべに遣り込めてやっ たら『なもしと菜飯とは違うぞな、もし』と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ」などと駄ジャレが出てくる。

 小説の神様と呼ばれた志賀直哉だって駄ジャレが好きだったという。『座談会 昭和文学史1』(集英社)で阿川弘之が紹介しているが、一つだけ抜き出すと、「豊臣秀吉が好んだ西洋酒と西洋野菜があるけど、何だ」というのに対して「千のリキュールとセロリ新左衛門」というのだ。とほほ。

 小津安二郎監督も駄ジャレが好きだったのか、映画にはたくさん出てくる。何しろ、食べるシャコのことを「ガレージ」などと言うシーンがある。映画館で思わずみんなシーンとしてしまった。

 駄ジャレというのは「常識」というか「共通感覚」というか「コモンセンス」がなければ、成立しない。「オタンチン」だって廃語になっていて「おちんちん」と間違って笑われるのがオチだ。

 ある外国人と国会図書館に行っていて、食堂のランチが美味しいといわれて、「そうなんだ、お陰でちっとも痩せることができない」と言ってお互い笑ったが、知らない人には何がなんだかちっとも分からないかもしれない。

 駄ジャレというのは説明するほど野暮なことはないからだ。

 説明すると、国会図書館は“National Diet Library”(略してNDLという)というのが正式な英語名なのである。「ダイエット」なのに痩せることができないという駄ジャレなのである。

 これほど高尚な?遊びなのだが、駄ジャレを分かってくれる人は少ない。高校生の「オヤジ狩り」もすごいが、「オヤジギャグ狩り」もすごいのである。

 学生から「教官のギャグはよく分からない」と言われることがあるが、教養のなさ、というより、言葉の共通感覚がないからである。

 商船学科の学生たちが眠ってしまい、「さすがに舟を漕ぐのが専門だ」というイヤミを言っても、分かる学生は皆無になっている。

 若い教師の前でも使えなくなっている。訳の分からないおぢさんと思われるのがオチである。体を前後にふり動かす「舟を漕ぐ」動作を知らなければ「うとうとする」こととの関連が分からない。「レアリア」というものが解っていない。

 ちょっと話が違うけど、東大総長の蓮實重彦は映画を専門に研究しているというと大体「私も若いころはよく映画を見たんですけどね」といわれ、つっけんどんに「それがどうした」と答えている。なぜいま見ないのか、ということの方をするどく追求して、昔見ただけで許されるのかと言いたくなるようである。

 「あっ、また駄ジャレ」という人にも「それがどうした」と言いたくなってくる。「一つでも自分で作ってみろ」と言いたいのだ。

 しかし、シャレと駄ジャレの間には暗くて深い河があるにもかかわらず明確ではない。

 『岩波国語辞典』の「しゃれ」には「<1>(言葉の同音を利用して)人を笑わせる、気の利いた文句。例、「へたな―はやめなしゃれ」の最後の部分が「なされ」とかけてある類」と書いてあって、シャレの説明が駄ジャレになっている。

 シャレか駄ジャレか、芸術的は否かは聞き手が決めることなのである。

 それにしても駄ジャレの地位は低い。変換ソフトのATOK(「阿波徳島」の省略ではない)で「駄洒落」は変換されるものの、同じ意味の「地口」は出ない。「ぢぐち」かと思って変換すると「痔口」なんて変換されて、お尻が痛くなってくる。「地口」って立派な国語学の用語なのに、無視しているなんて信じられない。

 英語でも“cheap humor”というと駄ジャレのことを言う。

 “pun”というのは一番知られた英語だし、“punster”は「駄ジャレをいう人」を指す。『ランダムハウス英和』には「We must all hang together or we shall hang separately. 我々は共に団結しなければ一人ずつしばり首になるだろう」という例があげられている。

 『研究社和英中辞典』には“駄じゃれを言う make a (poor) pun;crack a (poor) joke; make a (poor) play on words;〈気の利いている場合〉 come out with [(fml) utter] a witticism.”と書いてある【(fml)は(formal)】。〈気の利いている場合〉と書かなければならないというのは〈気の利いていない場合〉が多いからであろう。

 『研究社英和中辞典』の“pun”には“This record cost \7000.”―“How expensive; it must be a record.” 「このレコードは 7 千円したよ」「ずいぶん高いね、きっと最高記録だ」という例文があげられている。レコードなんて古くなっていて、もの悲しい。全ての辞典の“pun”にどんな駄ジャレが載っていて、どれが一番上手か立論して結論を出すと卒論になる(かもしれない)。

 確かに、駄ジャレは他のジョークよりは安易だ。「いつもそんなによく考えられるねぇ」とたまに感心されることもあるのだが、実は疲れている時の方が駄ジャレが出やすい。

 体が動かず、頭だけ、言語脳だけが、クルクル回転してできるのである。

 別に他のジョークが頭をひねってできるものではないが、比較すると駄ジャレの方が頭脳を使わないかもしれない。

 精神分析などの自由連想などでも、最初は意味連想(母→父/子/おっぱい…)なのに、疲れてくると音韻連想、つまり駄ジャレになりがちだ(母→ババ/ハハー/パパ…)。

 養老孟司は『小説を読みながら考えた』(双葉社)で次のように書いている。

 【ロバート・ジョーダンを一日で読み終えた】。むろん、冗談である。なにしろ著者がジョーダンだから、仕方がない。実は全巻読み通すのに、三日ほどかかった。
 こういう駄洒落を専門的には音韻連想という。精神分析には、自由連想という方法がある。患者を長椅子などに横にならせて、楽な姿勢をとらせる。分析医がある単語をいい、それを聞いて連想する言葉を、患者は即座に答える。抑圧があると、その抑圧に関係した言葉に対する連想だけが遅れる。たとえば母親に対するなにか抑圧された心理が存在すると、母親に関する言葉への連想に遅れが出る。極端な場合、なにも頭に浮かばないという状況になる。これで患者の心理に潜在する抑圧を発見できる。
 こういう連想ゲームを続けて、夜中までやる。時刻が遅くなるにつれて、連想に音韻連想が増えてくる。だから専門家は、音韻連想は脳の高次機能の低下だという。オヤジ・ギャグつまり中年男のギャグは、しばしば駄洒落である。これを専門的に表現するなら、脳の高次機能の低下ということになる。駄洒落ばかりいうようになったら、高次機能の低下を疑う必要がある。

 同じことは池谷裕次が『脳はなにかと言い訳する』(祥伝社)に次のように書いている。

 …もしかしたら、親父ギャグを連発する大人たちは、仕事で疲れていて脳が“子ども化”しているのでしょうか。
  アメリカに留学していた頃、日本語初心者の欧米の方々に接する機会が多々ありました。すると意外なことに気づかされます。彼らも頻繁に日本語でダジャレを言うではありませんか。呆れるほどのダジャレ量です。これでわかりました。大人であっても、言語を習いたての頃は、子どもと同じような新鮮な脳を持っているのです。

 駄ジャレの地位はずっと低かったのではない。日本では江戸時代まで言葉遊びの好きな国だった。万葉集の作者不詳の「足柄(あしがら)の箱根の山に粟(あは)蒔(ま)きて 実とはなれるを逢(あ)はなくもあやし」という歌は粟は実ったのに君に会えないのはなぜかと、実らぬ恋を嘆いた。「逢はなく」と「粟無く」が掛詞(かけことば)になっている。女房が好物の鰯を食べていると、不意に帰ってきた夫が見とがめた。「また鰯なんぞを…」。女は即興の歌で抗弁して曰く、「日の本に はやらせ給(たま)う石清水(いわしみず) 参らぬ人は あらじとぞ思う」。古語の「参る」には「食べる」の意味があり、「石清水」に「鰯」を重ね、「だれもが石清水八幡宮にお参りするように、このおいしい魚を食べない人はおりますまいよ」と返事したのである。この女房は紫式部とも、和泉式部とも伝えられる。いにしえの女房衆は鰯を「むらさき」と呼んだ。鮎(あゆ)を響きの似た「藍(あい)」に掛け、鮎よりも味が濃い鰯を「紫」としゃれた言葉遊びである。

 小野小町の「花の色はうつりにけりな我が身よにふるながめせしまに」から川柳の「上喜撰たった四はいで夜も眠れず」まで芸術的に多用された。田捨女(でんすてじょ)の句に「いつかいつかいつかと待ちしきょうの月」というのがあるが、五日(いつか)を三回繰り返せば十五日で、満月を「三五の月」ともいう。中秋の名月を待ちわびる思いを駄ジャレを使って詠み込んでいる。江戸期の俳諧書「毛吹草(けふきぐさ)」には「高野山谷の蛍もひじり哉(かな)」という句があり、「ひじり」は霊山の高僧「聖」と蛍の「火尻」を掛けている。指南書だけにいわゆる駄句の作例も引かれていて「四方(よも)に春きたぞみな見よ西東」は「きた」を「来た」と「北」に「みな見」を「南」に掛けているのはオヤジギャグ程度である。明治になってから薩長土肥の田舎侍たちが天下を握って、笑いのない、「三年に片頬」(笑うのは3年間に片頬程度)のつまらない社会にしてしまった。「しゃれ」を「洒落」と書くように、昔の人は言葉にもっとお洒落をしていた。「躍る平家は久しからず」なんて地口が江戸時代にはあった。

 丸谷才一も『思考のレッスン』(講談社)で吉田秀和に「現代日本はレトリックを捨てた文明」と教えられて「つまり、かつては日本にもレトリックというものがあったのに、明治維新でそれを捨て去ってしまった。なにしろ江戸後期はレトリックの 飽和状態みたいなものだから、明治の人は江戸のレトリックを捨てたくて仕方がなかった。ついでにレトリックそのものを全部捨ててしまった」と話している。

 欧米でも古代、中世、ルネッサンスに同音異義語が脚韻に用いる、美的なものと考えられていた。

 シェイクスピアは駄ジャレが多い。例えば、『間違いの喜劇』第2幕第2場でドローミオを“Dromio, thou drone, thou snail, thou slug, thou sot!”というが、小田島雄志は「目のドローンとしたカタツムリ、泥を這いずるナメクジ」と「ドロ」と訳した。

 シェイクスピアの場合、しばしばシリアスな場面で駄ジャレが出てくる。『ロミオとジュリエット』でマキューシオはティボルトに刺されて死にそうになりながら駄ジャレをいう(graveを真面目と墓でかけている)。

Ask for me tomorrow, and you shall find me a grave man.

明日俺を訪ねてこい。もう墓の中でまじめになっているぞ。

 『ヘンリー8世第2部』でヘンリー・パーシーが息子ホットスパー【“Hotspur”で短気な男というあだ名】が亡くなったと聞かされていう。

Said he young Harry Percy's spur was cold?
Of Hotspur,Coldspur?

ハリー・パーシーの拍車が冷たくなったと言ったのか?
炎の拍車が氷の拍車になったと?

 『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』(1534-62)は駄ジャレからできている(失礼!)ような物語だが、大体、ガルガンチュアというのもグラングゥジエ(“Grandgousier←Grand gosier”大きな咽喉)がガルガメル(“咽喉”)との間に生まれた子どもを“Que grand tu as!”(お前のはでかい!)と叫んで“Gargantua”という名前になったのである。

 ところが、17世紀後半あたりから雲行きが悪くなって、諧謔というか機知を競う言葉遊びになってしまった。あげくの果てに詩人で政治家だったアディソン(Joseph Addison)は駄ジャレを“false wit”(偽りの機知)と呼んでしまった。つまり、“機知外”ざただと考えたのだ。

 もちろん、擁護する人もいて、ジョナサン・スウィフトは『地口の控えめな擁護』(1716年)を書き、友人のトマス・シェリダンは『アルス・パニカまたは地口の技法』(1719年)を書いて駄ジャレに関して34の規則をたてた。『アルス・パニカ』(Ars Punica)というのは詩学(Ars Poetica)の駄ジャレである。

 アポリネールは『若きドン・ジュアンの冒険』を書いたが、原題は“Les Exploits d'un jeune Don Juan”と駄ジャレになっている。

 駄ジャレが復権したのは19世紀末で、『不思議の国のアリス』(1865年)のルイス・キャロルやT・S・エリオットあたりからである。

 例えば、『アリス』では亀まがい(Mock Turtle)との教育談義で「僕は正課しか取らなかった」というのにアリスが「正課ってどんなことをしたの?」と質問をする。すると亀まがいは「まずよろめき方(reeling)と悶え方(writhing)はもちろん、算数の4部門――野心算(Ambition)、失意算(Distraction)、台無算(Uglification)、嘲笑算(Derision)などもやったよ」と答える。それぞれ、“reading(読み),writing(書き),addition(足し算),subtracition(引算),multiplication(かけ算),devision(わり算)”の駄ジャレになっている。

 ちなみに「亀まがい」というのは存在しない。あるのは子牛の頭などで作る、タートル・スープのまがいもの“Mock Turtle Soup”だけである(これは「異分析」と呼ばれる)。「清少納言」は「清少+納言」ではなく、「清+少納言」だし、「五里霧中」は「五里霧+中」なのだ。もちろん、「東京都」は「東+京都」ではない。

 また、ネズミが悲しい身の上話をして“Mine is a long and sad tale!”というのにアリスは“It is a long tail, certainly...but why do you call it sad?”という。長い話をしようというのに長い尻尾って何だろうとアリスは思うのであった。

 ナンセンス(無意味)ではなく、ノンセンス(意味の解体)が始まったのである。これはちょうど、音楽でストラヴィンスキーが、絵画でピカソがそれまでの別の何か(ロマンや印象など)を表現していた芸術を、芸術そのものに“脱構築”(“deconstruction”←一度使ってみたかっただけで深い意味はない)したのである。脱構築というと難しくなるが、今まで棚に祭り上げられていた事柄を棚卸しして考えることである。「人間」とは「社会」は「子ども」とは「愛」とは「性」とはと従来の意味を解体する。そして、駄ジャレは言葉を解体しているのである。

 ルイス・キャロルはそれまでの教訓的な児童文学を脱構築し、T・S・エリオットは愛や自然や事件を歌っていた詩を脱構築した。まあ、早い話、言語表現とは何かを突きつめて考え始めたのである。

 言葉やテクストの多義性だけでなく、文化の多義性が20世紀のテーマになったからである。

 駄ジャレというのはオリジナルとコピーというポストモダン批評の対象としても面白い。脱構築というのは一時的なものと二次的なものを逆転するだけでなく、オリジナルなものそれ自体がコピーであって再現にすぎないことを示して上下の関係や一次性・二次性という位階を潰すものだ。つまり、コロッケが先か美川憲一が先かという問題でいえば、コロッケが美川を引用しているようにみえるが、美川はコロッケを引用することで人気を得ているのである。

 T・S・エリオットを読むことは美川を知らないでいきなりコロッケを知るようなものだからだ。でも、美川を知らないでコロッケを笑えないはずはないのだがちゃんと笑えるのと同じように、西洋古典を知らなくてもT・S・エリオットも楽しめるはず…。

 駄ジャレと現代思想を重ね合わせるのは大げさだというかもしれないが、例えば、マルセル・デュシャンに“L.H.O.O.Q.”(英語風にLOOK「見て!」とも読めたのである)という作品がある。これはモナリザのパロディなのだが、“Elle a chaude queue”もしくは“Elle a chaud au cul.”つまり、「彼女は尻が熱い!(欲情している)」という駄ジャレになっている。英語読みすると「ルック」(見て)となる。文字の羅列がフランス語になり、尻の熱い女といってモナリザを侮辱しているという三段論法的な脱構築になっている。

 このモナリザを「ヒゲを生やしたモナリザ」と称して、今度は元のモナリザをそのまま「ヒゲを剃ったモナリザ」として芸術にした。デュシャンは言葉も芸術もまるごと脱構築している。そして、デュシャン以後の人間はモナリザをモナリザとして鑑賞できなくなった。

 「モナリザにいたづらのひげ古暦」----有馬朗人

L.H.O.O.Q.

 デュシャンらの標榜した「ダダ」というのは何も意味しなかった。ツァラは『ダダ宣言1918年』で次のように述べている(2月8日にチューリヒのカフェでツァラがプチラルース辞典から偶然発見したという説が一般的)。


 ダダは何も意味しない…新聞によればクルー族の黒人は聖なる牛の尾をダダと呼ぶ。立方体と母親は、イタリアのある地方ではダダと呼ばれる。それは玩具の木馬や乳母をも指す語でもあり、ロシア語とルーマニア語では二重の肯定もまたダダである。


 ダダイストたちは絵からも言葉からも徹底的に意味を奪おうとした。デュシャンは「花嫁は彼女の独身者によって裸にされて、さえも」などという作品さえも生みだしている。

 ガチガチに固まった既成観念、構築された文化・社会から解放されたいという心性が駄ジャレを生むのである。

 駄ジャレや文字の置き換えなど、いわゆる<語呂合わせ>は、<言葉あそび>、<思考あそび>へと発展していく。 ケストラーが『ホロン革命』(工作舎)でいう、「バイソシエーション」(associationの“bi-”で「二つからの連想」)という創造的行為に繋がっていく(はずだ)。


☆ユーモアとウィットと粋と風流

 シェイクスピア学者の小田島雄志が『駄ジャレの流儀』(講談社)でユーモア、ウィット、粋、風流の精神を定義している。「駄洒落」を「駄ジャレ」とするのは小田島に敬意を表してのことなのだが、この本はちょっと恥ずかしくなるような本で、自分も同じ穴の狢(むじな)かなぁと反省させられる。穴があったら入りたい。

 というのも駄ジャレを本にして固定化するというのは生ある虫をピンで止めて展翅・展示するような堕天使の行為なのだ。

 小田島はシェイクスピアの駄ジャレを駄ジャレとして訳したし、「池永保夫」(いけなが・やすお)、つまり「チエホフ」という駄ジャレのペンネームで戯曲も書いている。

 小田島はこの本の中で次のような分類をしている。

◆ユーモア

『ヘンリー四世』でフォールスタッフが王子ハルに嘘を咎められていう。

「……ごらんのとおりおれは人並みはずれて肉が多い。したがって人並みはずれて道をはずしやすいんだ」

このように自分のデブぶりを言い抜けに利用するのはユーモアである。

【フォールスタッフは名前からして“false stuff”(にせ者)、“fool's staff”(道化の杖)、“fall of staff”(杖の失墜)などという駄ジャレである】

◆ウィット

『ロミオとジュリエット』のバルコニー・シーンの後で言葉遊びが出てくる。

マーキューシオ ゆうべはどうもごちそうさま。
ロミオ ゆうべなにか食わせたっけな。
マーキューシオ 置いてけぼりという木彫りの皿でいっぱい食わせたじゃないか。

“counterfeit”(「偽金」)をくれたというが“slip”(「偽金」と「逃げる」)が二つの意味を持つことから「よくも偽金をつかませたな=よくもだましたな」とわざと言い間違えた。“conterfere”というのは「写す、まねをする」、“fere ”というのは「作る、行う」というラテン語である。

【このマーキューシオは駄ジャレを言うだけのために原典にはなかったのに出てきた人物である】

◆粋

永六輔、小沢昭一らの“やなぎ句会”で松本へ吟行するのに戸板康二を招待することになって、矢野誠一が「ホテルか和風の旅館か、どちらがお好みですか」と尋ねたら、

「松本でしょう、こうしろう(幸四郎)という通りにしますよ」

 シャレのために自分の好みを犠牲にするのは「粋」である。

◆風流

落語に出てくる都々逸で小田島が大好きなものは、

お酒飲む人 花なら蕾
 今日もサケサケ 明日もサケ

 これが風流だという。

 以上の説明は小田島流であって、必ずしも言語学的ではない。

 言語学的にルネッサンスには駄ジャレを(1)antanaclasis【アンタナクラシス】、(2)syllepsis【兼用法】、(3)paronomasia【掛けことば】、(4)asteismus【からかい返答】に分けていた、なんて話はシャレにもならないので、止めておく。


☆駄ジャレと英語

 英語でも駄ジャレがあるのか、というのはよく聞かれる。

 多いというのが答えだ。

 アメリカでは駄ジャレが大統領を決める。

 ベンジャミン・フランクリンは独立戦争中の演説で駄ジャレで“We must all hang together or assuredly we shall hang separately.”「われわれは皆団結しなければならない、さもなければわれわれは必ず個別に吊るされるだろう」(hang togetherで「助け合う」、hangで「絞首刑にする」)といったが、あまり面白くなかったために大統領にならなかった。アイゼンハワー大統領は“Ike”が愛称だったが、"I Like Ike."というスローガンで勝った。フォード大統領は「私はリンカーン(高級車)ではなくフォード(大衆車)だ」と言っていたが、下手な駄ジャレだったので落選してしまった。ビル・クリントンだって、本名はウィリアム・クリントンなのに愛称のビルを使っていから変な国だ(ウィリアム・ゲイツだってビルだ)。山田某が「横山ノック」で選挙に臨むのと違いはない(こともないかぁ)。今度の選挙がもめたのは二人ともスマートな駄ジャレにならなかったからで、代わりに"Bush Gored"(角でつつかれた藪)などという見出しが踊ったし、選挙戦は“Bore”だといわれた。

 日本では小渕恵三首相が自ら「オブチミスト」などとPRしていたことも、蕪を持ち上げて「株、上がれぇ」なんて駄ジャレを言ったことも本人の株を下げるだけだった。森嘉朗が「森で盛り立てよう、神聖日本」なんてスローガンで戦うことはないだろうし、せいぜい「しんきろう内閣」と揶揄されるだけである。

 演劇では例えば、エドワード・オールビーに『バージニア・ウルフなんてこわくない』というのがある。これは“Who's Afraid of Virginia Woolf?”という原題で何もバージニア州のオオカミが怖いという話ではない。“Who's Afraid of A Big Bad Wolf?”の駄ジャレになっているが、ディズニーアニメ『三匹の子豚』の主題歌「オオカミなんかこわくない」のことである。あの「藁のおうちが…」である。倦怠期の夫婦が若い夫婦の訪問を契機に人間関係を壊していくという演劇だ(映画はリチャード・バートンとエリザベス・テイラーが演じた)。バージニア・ウルフというのはもちろん、『ダロウェイ夫人』などを書いたイギリスの作家・批評家のことである。全然関係ないが、『三匹の子豚』のお父さんとお母さんの肖像画はソーセージとハムになっている!

 ミュージカル『マイ・フェア・レディ』“My Fair Lady”も駄ジャレからできたタイトルだ。一つは「ロンドン橋」に出てくる「マイ・フェア・レディ」(人身御供の話という説がある)からとっていて“fair”というのは「容姿のよい、美しい;魅力的な」という意味の文語である。“dark lady”「黒髪の女性」に対して「金髪の女性」を指すこともある。しかし、その隠された意味は“Mayfair Lady”なのである。“Mayfair”というのはロンドンにある高級住宅街であり、従って「上流階級の女性」ということになる。ローバーに小さい、小さいクルマがあるが、あれは「フェアレディZ」ではなくて「メイフェア」(Mayfair)という名前になっている。「メイフェア」と「マイフェア」と違うではないかと思われるかもしれないが、イライザはコックニーという方言を使っていて「メイフェア」を「マイフェア」としか言えないのである。蛇足ながら、映画に出てくるアスコット競馬場はアスコット・タイでも有名だが、「貴婦人の日」に女性は伝統的に突飛な帽子を被っていかなければならないことになっている。

MAIFAIR

メイフェア

 サローヤンの『人間喜劇』という作品は“The Human Comedy”が原題で“The Divine Comedy”(La Divina Commedia)、つまり、ダンテの『神曲』をもじったものである。

 音楽ではビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」なんて「どうか私を喜ばせて」なんていう意味よりも先に駄ジャレになっているし(山口百恵のコンサート「百恵も燃え」を思い出す)、ビートルズという名前自体、“beetle”と“beat”の駄ジャレである。内容的にもジョン・レノンセンスと呼ばれるように駄ジャレや言葉遊びが多いものになっている。リンゴ・スターがいたからアップルというレコード会社を作った。 『そうだ、村上さんに聞いてみよう』(朝日新聞社)には「ノルウェーの森」のあっと驚く新説が書かれていて、“Isn't it good, knowing she would”(彼女がやらせてくれるってわかっているのは、素敵だよね)にしようとしたが、それはちょっとと言われて、語呂合わせで“Norwegian Wood”にしたという。“ocean child”はもちろん「洋子」だという。

 映画のタイトルでもジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』なんていうのはミュージカルから生まれたスタンダード・ナンバーの「ストレンジャー・イン・パラダイス」の駄ジャレである(僕も恥ずかしながら「ストレンジャー・ザン・ジャパニーズ」というエッセイを書いている)。ちなみにこの曲はボロディンのオペラ『イーゴリ公』の中の「ダッタン人の踊り」をポピュラーにしたものである。

 この映画で思い出したが、CMでも“I Scream, You Scream, We All Scream for Ice Cream.”なんていうアイスクリームのが有名だ(榊原郁恵の『夏のお嬢さん』にも使われた(『ダウン・バイ・ロー』だったかもしれない)。

 字幕という限られた字数の中で駄ジャレを訳すのは難しい。戸田奈津子は例えば、『めぐり逢えたら』の中で次のように訳している。

Woman:Don't you hate flying?
Annie :Oh,yes. I do. I-I just told the
    most terrible one to the man I'm about to marry.
    Do you feel that any lie is a betrayal?
Woman: I said “flying”.
女性 :飛行機(フライイング)は大嫌い。
アニー:私も嘘(ライイング)は大嫌い。
    それなのに婚約者に嘘を…。
    嘘は裏切りの始まりよね。
女性 :飛行機(フライイング)の話よ。

 ハロウィーンで“Trick or treat.”というのも、諺で“A friend in need is a friend indeed.”“Out of sight, out of mind.”というのも駄ジャレだし、「お喋りをする花は?“tulips”=“two lips”」なんていうなぞなぞも多い。

 映画の内容をみれば、『ウェストサイド物語』では恋の予感に歌ばかり歌って裁縫をしているマリアが 注意されると「だって、これはシンガーミシン」なんていうことがある。マルクス兄弟なんて自分たちの名前自体が駄ジャレみたいなものだが、例えば、列車が暴走して“Brake!”(ブレーキ)といわれたのを“Break!”と思って壊し始めるなんてことがある。『カサブランカの夜』では“Soup and rice. Soup and rice. Soup-rice, soup-rice, surprise. ”というセリフがある。ディズニーの『不思議の国のアリス』では羽根がバター付きパンの蝶々が飛んでいる(だから“bread and butterfly”という。“rocking horse fly”というのも出ている)。ウディ・アレンの映画『マンハッタン』ではニューヨークを“Jew York”(ユダヤ人のヨーク)というシーンがある。

 文学ではシェイクスピアに代表されるように実に多い。ある学者の計算によれば純粋な駄ジャレだけで一作品平均72出てくるという。押韻、縁語、掛詞など、言葉遊びを全部含めたらものすごい数になる。

 例えば、『ジュリアス・シーザー』第1幕第1場では“soles”(靴底)と“soul”(魂)が駄ジャレになっている。

A trade, sir, that, I hope, I may use with a safe conscience;
which is, indeed, sir, a mender of a bad soles.

良心にかけて申し上げていいと思いますが、
悪くなった(心)底を直す商売でさぁ。

 ビートルズも同じ駄ジャレを使っている。“Rubber Soul”というアルバムがあるが、「ゴム底靴」ではなくて「ゴムの魂」って何だろうと不思議に思ったことがあった。

 『マクベス』ではマクベス夫人が最初の殺人の後にこう語る。

            If he do bleed,
I'll gild the faces of the grooms withal;
For it must seem their guilt.

        王が血を流していたら、
その血でお付きのものの顔を化粧してやります。
二人の仕業とみせかけねば支障をきたします。
【小田島雄志訳】

 小田島は「化粧」と「支障」で駄ジャレを訳している。『ハムレット』ではハムレットがポローニアスに「なにをお読みで?」と聞かれて「ことば、ことば、ことば」と答えた後、「いえ、その内容で?」というのに対してハムレットが「ないよう?おれにはあるように思えるが」という。原文は“What is the matter, my lord?”“Between who?”なのを小田島が敢えて誤訳したのだ。

 卑わいな駄ジャレが一番多い作品は『ロミオとジュリエット』だろうが、第1幕でキャピュレット家の召使いサムソンがモンタギュー家のくそ野郎は見つけ次第ひどい目にあわせてやると息巻く。「野郎どもをやっつけたら、女どもにも泣くようなめにあわせてやる、首根っこにズブリだ」というと、相棒のグレゴリが「首根っこだと?」「ああ、首の根っこか胴体の根っこか、好きなようにおとりあそばせだ」「おれが寝ころばせて喜ばせてやらあな、おれが道具がおっ立てば馬にも負けん」(小田島訳)という。ここで「首の根っこか胴体の根っこか」というのは“the heads of the maids, or their maiden heads”と駄ジャレになっていて、“maiden head”というのは「処女膜」(hymen)や「処女性」(virginity)を意味する。

 逍遥訳は「男共を叩きみじいたら、女共をもやっつけてくれう」「やっつける?」「それ、彼奴等(きやつら)の“額(はち)”を打破(ぶちわ)ってくれるわい。意味は如何様(どのよう)にも取らっせいよ」となっている。

 最新の松岡和子訳では「急所をねらって男なら痛い目、女ならいい目にあわせてやる」「女の急所だと?」「そうとも、女の急所、例の膜だよ。どういう意味に取ろうが先さまのかってだがな」となっている。

 『リチャード三世』の冒頭では主人公のグロスター公リチャードが有名な悪党宣言をする。

Now is the winter of our discontent
Made glorious summer by this son of York.

われらをおおっていた不満の冬もようやく去り、
ヨーク家の太陽エドワードによって栄光の夏がきた
【小田島雄志訳】

さあ、俺たち不満の冬は終わった、
栄光の夏を呼んだ太陽は、ヨークの長男エドワード
【松岡和子訳】

ここでも「息子」と「太陽」と掛けている。しかもシェイクスピア劇の中でイメージを重ねて使うことも多い。

 英語ではないが、ドストエフスキーだって、それぞれの人名に隠れた意味をもたせていた位で駄ジャレというのは文学的行為なのである。江川卓“謎とき『罪と罰』”(新潮選書)によれば、酔いどれの九等官マルメラードフはママレードが元で、ドストエフスキーの創作ノートには「お砂糖のような姓」と書き込まれている。浮ついた社会主義やには「追従をいう」という意味の動詞「レベジーナ」からレベジャートニコフという名前がつけられ、ラスコーリニコフに嫌疑をかける警察署の書記には「目をつける」という鋳物動詞「ザメーチチ」からザメートフという名前がつけられた。そして、ラスコーリニコフは17世紀にロシア正教会から分裂した「分離派」という鋳物「ラスコーリニキ」が元になっている。また、「割裂く」という動詞「ラスコローチ」とのつながりも考えられ、まさしく金貸しの老婆を小野で割裂くことになるのである。さらに「ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ」とロシア語でPPPになるのは文字遊びで、「666」、つまり『オーメン』に出てくるダミアン少年が持っている悪魔の印を表しているのである。

 シェイクスピアについてはAlexander SchmidtのShakespeare-Lexiconをはじめとする全語彙を調べたコンコーダンスがいっぱいあるが、言葉遊びについてはEric PartridgeのShakespeare's Bawdy【“Bawdy”というのは猥褻な言葉や猥本をいう】とか Frankie RubinsteinのA Dictionary of Shakespeare's Sexual Puns and their Significance なんて本がある。例えば『ウィンザーの陽気な女房たち』ではフォールスタッフのことを「ねえ、サー・ジョン、たとえ私たちがこの心にある貞操を丸ごとおっぽり出して、喜んで地獄に堕ちる気になったとしても、あなたが私たちの恋人になれるとでもお思いですの?」とページ夫人が言うのに続いて女房たちが「え、豚肉饅頭が?麻の大袋が?」「空気ぶくれが?」「年老いて、血は冷えて、肌はたるんで、始末におえない胃袋をもった人が?」「そしてサタンのように口が悪くて……」「ヨブのように貧しくて……」「ヨブの妻のように人でなしで……」「おまけに、姦淫に、酒場に、酒に、葡萄酒(ぶどうす)に、甘酒に、暴飲に、悪態に、大言壮語に、喧嘩口論にふけるような人が?」と続く。『オセロー』でもイアーゴーが言う。「だいたい女ってものは、外に出てはお人形、部屋にいては割れ鐘、台所にあっては山猫、悪事をなすときは聖女面(づら)、腹を立てたときには悪魔面(づら)、働くときは怠けもの、ベッドのなかでは働きもの」。

 ちなみに日本語には英語のような意味での「罵り語」(swear word)というものがない。文字通りの意味でしか使われず英語のように意味が意識されなくて話し手の感情を表すタイプのはない。漱石が『坊つちゃん』で使っているような悪態(「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モゝンガーの…」)はシェイクスピア譲りである。

 と思っていたら丸谷才一はジャクリーヌ・ピジョー『物尽し---日本的レトリックの伝統』(平凡社)を敷衍して『闊歩する漱石』(講談社)でこうした言葉の羅列(遊び)は『古事記』から歌舞伎にいたるまでの日本文芸の伝統的手法で漱石は古典を再生させたとしている。

 いずれにしろ、このまま調べていると「シェイクスピアにおける言葉の多義性」という大論文になってしまうし、そんな論文はいっぱい出ているはずだ。実際、『マクベス』の魔女たち三人の言葉、「いいは悪いで悪いはいい」(Fair is foul, and foul is fair.)という言葉の意味の広がりは無限大になっている。

 シェイクスピアの駄ジャレは下手だというのがサミュエル・ジョンソンの言い分である。これは“Preface to Shakespeare”に「駄ジャレというクレオパトラのために、シェイクスピアは世界を失い、それに満足した」(the fatal Cleopatra for which he【Shakespeare】 lost the world, and was content to lose it.)と書いてあるからなのだが、僕は下手だとは思わない。ジョンソン博士は駄ジャレが嫌いだっただけだ。コールリッジは「地口は、もしその場面の雰囲気に適合しているなら、劇的対話において許容されるばかりでなく、しばしばもっとも効果的に情念を強める言葉になる」(『シェイクスピア批評』)と正当化されるべきだと言っている。同じ本で「地口は…機知のうちで最低であろうが、嫉妬を招かないという点でもっとも無害かもしれない」という。

 そういえば、ヴォルテールが冗談でシェイクスピアはフランス人で「ジャック・ピエール」が本名だったという説を唱えて世界中が本気にしてしまったことがあるが、シェイクスピアの人生も幾つもある名前の中に埋没しているのかもしれない。

 例の「言葉、言葉、言葉」だって言葉遊びだし、シェイクスピア、いや、ハムレットには髑髏(しゃれこうべ)がよく似合う。

 『マイ・フェア・レディ』に出てくるようなコックニーたちには押韻俗語(Rhyming Slang)というものがあって、例えば、“believe”は“Adam and Eve”、“face”は“boat race”になるから分かりにくい。“plates of meat”が“feet ”、“Rory O'More”が“door”、“dicky dirt”が“shirt”、“dickybird”が“word”“jimmygrant”が “immigrant”の代用として用いられることがある。不慣れな人は何を言われているのか訳が分からない。起源は不明だが、17-18世紀にその形跡がみられ、第一次世界大戦前はコックニーに限られていたものである。大戦後は一般化し、今日なお愛用されていてカリフォルニア州で生まれた“See you later,alligator.”が割と有名である。これには“After a while, crocodile.” (またね、ワニ君)と答える。“trouble and strife”(迷惑と騒動)は“wife”になるが、『リーダーズ英和辞典』は「細君」とせずに「災君」と訳している。“queer”は「奇妙な」という意味しかなかったのに「同性愛(者)」を指すようになり、“King Lear”で“queer”を指すようになってしまった。

 日本語では「あの子は材木屋だ」(木が、気が多い)といったり、大阪などで「(客が)夏のハマグリや」というと「身い腐って貝腐らん」(見てばかりで買わない)、「牛のおいど」というと「もうの尻」で「物知り」のことをいうが、ちょっと似ている。「春の夕暮れ」というと「ケチな人」という意味で、暮れそう(呉れそう)で暮れない(呉れない)からで、「夏の火鉢」というと「誰も手を出さん」ということで結婚相手ができないことを意味する。資金繰りに行き詰まると「赤子の行水や」と嘆いたが、「金たらいで泣く(金足らいで泣く)」ということで赤字だ。「羽織の紐」というと、「胸にある(合点、承知之助)」ということになる。

 日本語も「【見上げたもんだよ屋根屋の褌】てぇしたもんだよ蛙のしょんべん」(「田へしたもの」)なのだ。

 英語の詩というのは日本語の詩以上に韻律に気を使っているものであり、韻律というのを駄ジャレと考えてしまえば、人間というのは言葉遊びが好きな種だということが分かってくる。言葉遊びを大切にするライト・バース(light verse)と呼ばれる軽妙な詩も西欧では盛んだ。

 エドワード・リアが1846年に出したThe Book of Nonsenseで普及させたリメリック(limerick)の伝統もある。リメリックというのはアイルランドの伝統である。これは他aabbaと押韻するもので、最低2音の韻を踏むこと、地名を一度だけにすることなどの決まりがある。リアの例だと次のようである。本当にナンセンス!

There was a young lady of Riga
Who went for a ride on a tiger;
They returned from the ride
With a lady inside,
And a smile on the face of the tiger

 かの地にリガの娘がひとり
 虎にまたがりお散歩気取り
 帰りてみれば娘はまさか!
 収まりたるが奴めのおなか!!
 かくして笑む虎ニタリニタリ  
   ----山吹さん訳(僕のファンの一人…他にはいそうもないのだけれど)

(リガの若い娘が一人、虎にまたがって散歩に出た。帰る時には娘はお腹、微笑み浮かぶ虎)

 アメリカ人は日本人より、はるかに語感を大切にする。例えば、「二人をお茶を」は“Tea for two, me for you”と語呂がいいし、ビートルズの「イエスタディ」でもちゃんと脚韻を踏んでいて、芸術的に考えられている。

 『サウンド・オブ・ミュージック』の「私のお気に入り」もちゃんと脚韻を踏んでいるが、これを谷川俊太郎が揶揄?している。

My Favorite Things

raindrops on roses and whiskers on kittens,
bright copper kettles and warm woolen mittens,
brown paper packages tied up with strings,
these are a few of my favorite things.......
     Oscar Hammerstein 2nd


バラの上の雨のしずくに
仔猫のひげ
みがきあげた胴のヤカンに
あったかなウールの手袋か

かわいそうなオスカー
脚韻てのは踏んづけると
ずいぶんひどい音がするね
まあ魂も時にはオナラをするさ

 欧米では『押韻辞典』(Rhyming Dictionary)というのもたくさん出ていて、外国の作詞家はいつも参考にしているようだ。日本語の『逆引き辞典』(僕にはギャグ引き辞典が必要)に似ているが、綴りではなくて、発音でまとめてある(逆引き辞典に相当するのはクロスワード辞典である)。例えば、“oca”でまとめられているのは“coca,mocha,oca,Asoca,carioca,Fukuoka,mandioca,Shizuoka,tapioca”である。

 もっといえば、欧米の方が初等教育で韻律を大切にしている。小さい頃からレシテーション(recitation)といって詩や文章を暗記して朗読をさせられることが多い(アメリカでは口頭の質問を交えながら行う授業も指す)。だから、日常会話にもリズミカルな言い回しが出てくることがある。これが欧米人のスピーチの上手さの理由の一つともなっている。例えば、多田道太郎は桑原武夫『第二芸術』(講談社学術文庫)の解説にフランスでの体験を次のように書いている(第二芸術というのは俳諧のことで、次の言葉を踏まえて日本にはそれでも俳諧がある、と多田は主張する)。

 俳諧はもともとあいさつのことばであった。

 パリのサン・ミッシェルに「アルザシエンヌ」という料理店があった。同行の連中はいずれも鱒を注文したのに、私ひとりオムレツである(オムレツの味しか分からぬようでは文化の味得はできぬ、と散々、桑原先生にからかわれつづけたものである。これは余談)。さて、給仕の女の子が鱒の皿を何枚かもってくる。オムレツはない。私は不審な目で彼女を眺める。彼女は鱒の皿を次々とならべ、歌うように言った-----

 トリュイット、トリュイット、トリュイット
 オムレット、トゥ・ド・シュイット。

 強いて日本訳すれば、「マス、マス、マス、オムレツはすぐでございマス」ということになろうか。微妙な脚韻技法の反訳困難なことは、あえて本格詩の領域のみとはかぎるまい。著者【桑原】が「ものいいについて」のなかでいっているフランス人の知恵の一例であった。私はもちろん、わけもなく少女のことばの機智に感心し、その日一日はすこし幸福だった。こういうことば遊びのつみかさねのなかから、たとえばボードレールのきらめくことばの知恵がでてくる-----という筋道が推理される。

 ちょうど、日本でいうと谷川俊太郎(「いるかいないか いないかいるか」「かっぱらっぱ かっぱらった」など)や川崎洋(「ウソというとりがいます ホントです」など)のことば遊び歌を小さい頃から訓練されているようなものだ。

 ただ、一つだけ弁護しておけば、日本語は5母音しかないので、脚韻などは難しい。大伴旅人の「いかにあらむ 日の時にかも音知らむ 人の膝の上我が枕かむ」などが知られるが、効果的ではない。効果的だとしても「わが家では 子供ポケモン パパノケモン」とか「ドットコム どこが混むのか 聞く上司」というような悲しいサラリーマン川柳にしかならない。

 欧米語のスピーチなども韻を踏んでいるからリズム感があって堂々と聞こえるが、日本語は「です、ます体」で終わるから、どうしても文尾が単調なスピーチになってしまう。

 井上ひさしは「よく出来たコトバ遊びは、人をずいぶんしあわせにすることは確かで、もうひとつ、歌で韻を踏み、あるリズムを造りだそうとすると、どうしても駄洒落の連続になってしまうことが、わたしたちの母国語の場合には多いのである」(『パロディ志願』)と書いている。

 それでも、九鬼周造は『文藝論』で試みたし、中村真一郎や福永武彦が『マチネ・ポエティック詩集』(成功したとは思えないが…)を出したことがあるし、梅本健三にも『詩法の復権』がある。谷川俊太郎の『ことばあそびうた』の中には次のような押韻を踏んだ詩がある。

たそがれくさかれ
ほしひかれ
よかれあしかれ
せがれをしかれ

 もう一つ、飯島耕一の「ジャック・ラカン」を紹介する。飯島は口語自由詩の退廃を嫌い、定型詩を提唱した。なるほど、言葉は解体しなかったが、思想の方が解体してしまっていて、こりゃもう あかん。

ジャック・ラカン
こりゃもう あかん
方広寺の 羅漢(らかん)
闇には 如何(いかん)?

母親にかまってもらえなかった
その代償行為だった ラカン
たくさんの論争だった
傲慢は いかん

……

 加藤郁乎(いくや)の次の作品(『遊戯律』)はどうだろう。駄ジャレか芸術か。

情事サンドは川端やなぎこの水を見よ

 次の歌はどうだろう。

あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月

 言葉遊びもほどほどに、という人がいるかも知れないが、これは鎌倉初期の華厳宗の僧侶で、京都・栂尾(とがのお)の高山寺に住した明恵上人の歌である。読経のようにも見えるし、現代詩にも見える、ぶきみな怪しさをもっている。

 駄ジャレの文学の究極はジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』で、20世紀に人類が到達した立派な文学と考えれば、確かにそうなのだが、駄ジャレを文学に高めただけ、と割り切ることもできる。文学というものは日常語から意味を奪うことによって創造する行為だが、究極的に何も意味をなさない作品として“昇華”するしか、しょうかないのだ。

 ---, if he outharrods against barkers, to the shoolbred he acts whiteley;--

 という『フィネガンズ』の文を柳瀬は「伊勢丹呵には罵西武器にするものの、丸井人物には全力東急」(文庫本1p.242)と訳している。

 “outharrods ”は辞書にはなくて“out-Herod”(残忍さにおいてユダヤのヘロデ王をしのぐ)があり、“Harrods”はロンドンの代表的な百貨店ハロッズである。“barkers”も「怒鳴り散らす」という意味があり、“Barkers”という百貨店もロンドンにある。“shoolbred”は「毛並みのいい教養ある人」という意味とともにロンドンの百貨店である。“whiteley”はなくて、“Whiteley”という百貨店がロンドンにあり、“politely”と懸けているようだ。こうして、「伊勢丹、西武、丸井、東急」が置き換えられて訳になるのである。

 こうして、駄ジャレも積もれば山となる、文学になる。

 それにしても“herodotory”という「ジョイス語」で“hereditary”(遺伝性の)“hero-doter”(英雄を溺愛する人)“Herodotus”(ヘロドトス)の意味があるとか、“venis-soon after”で“very soon after”(すぐ後)“venison after”(鹿肉後)“Venus' son after”(ビーナスの息子後)と引っかけているとか言われても、頭が痛くなってくるだけだ。素人には「自己チュー」の文学オタクにしか見えない。まして、次のような文章がどうしてこんな翻訳になるのか分からないし、翻訳も僕の頭では何が何だか分からないのである。意味が崩壊してしまっている。

原文

柳瀬尚紀訳
White thy fambles, red thy gan
And they quarrons dainty is.
Couch a hogshead with me then.
In the darkmans clip and kiss.
真っ白えんこに赤いちく
りなたおやかなおまえさん
やらせてくれな谷地攻(やちせ)めを
暮場(くれば)でだっこに口吸いだ


☆下ネタと駄ジャレ・国際性と地域性

 駄ジャレは言語に依存した笑いだから地域性に密着している。ところが、米原万里は『ガセネッタ&シモネッタ』(文藝春秋)の中で 「笑いほど時代や国情や身分や立場など文脈依存度の高い、つまり他言語に転換するのが難しい代物はない。なかでも、絶望的になるのが、言葉遊び、掛詞や駄洒落の類である」といいながら、国際性の代表者であるはずの名通訳者には駄洒落の名人が多いと書いている。

 通訳者に下ネタが多いのは、理解できる。これほどいかなる言語、文化をも楽々と飛び越えて万人に通じる概念はないからだ。いまはやりのグローバリズムにもっとも合致するのが下ネタ。

 しかし、駄洒落はその逆。狭く排他的で、言語の壁を乗り越えられない偏狭なナショナリズムそのものって感じの営み。なのに、何を好きこのんで通訳者たちは駄洒落に淫するのだろう。

「憎さあまって可愛さ一〇〇倍」という面もあるかもしれない。

 異言語、異文化と日々格闘する通訳者は、ナショナリストになりがち。日本だからこそ、日本語だからこその笑いに「よくぞ日本人に生まれたり」と喜びがこみ上げてくるから、という面もあるだろう。

 でも、最大の原因は、次の点にあるような気がする。

 意味には言葉が指し示す事物に対する常識や伝統的観点が染み着いている。駄洒落によって、それがズレる快感こそが、笑いのもとなのだが、おそらく、通訳者は、仕事の上では常に意味のみを訳すことに縛られているため、意味から突き放たれる解放感にたまらなく惹かれるのではないだろうか。

 通訳者は、誰しも多少の差はあれ、ガセネッタ・ダジャーレでありシモネッタ・ドッジなのかもしれない。

 SF作家のアイザック・アシモフは“Treasury of Humor”の中で“paradox joke”の章を設けて、“paradox joke”というのは“double meaning”のことで、すなわち、視点を変化させて、“quick flip from sense to no-sense”(意味から無意味への素早い転換)することだという。

 ガチガチに固まっていた言葉の意味や概念を急激に転換させる魔力を駄ジャレは持っている。

 戦時中のスローガンに「贅沢は敵だ」というのがあったが、すぐに一字足して「贅沢は“素”敵だ」という看板があふれた。

 ナチスと戦った『飛ぶ教室』『二人のロッテ』のケストナーは「経歴」という詩で「感情が死んだ庭に/だじゃれを植えつけるのがぼくの仕事」と歌っている。

 シェイクスピアでもダジャレを言うのは「反権力」「反権威」の立場にある人物が多い。いわゆる「権威」を駄ジャレで「無化」している。

 駄ジャレはどんなに立派で高いところにあるものも引きずり落とすことができる。とはいえ、「命あってのものまね」である。これは高田文夫の作とされ、他にも「向かうとこころ手品師」「モグリよ今夜もありがとう」など、訳は分からないが、駄ジャレの名手だと思う。


☆駄ジャレの成否

 フランス語でsaut,sceau,seau,sotはどれも/so/という発音だが、意味はそれぞれ「跳躍、印璽(いんじ)、バケツ、愚か」という意味で同音異義になっている。ただ、多くの言語は日本語よりも音節構造が複雑なので、同音異義語が多くはない。

 日本語の漢語だと「こうしょう」で「高尚、交渉、考証、口承、校章、公称、公傷、厚相、好尚、工匠、鉱床、高笑、高唱、哄笑、咬傷、公証、工商、工廠、公娼」などといろいろあって駄ジャレが作りやすい。これに「豪商」とか「強情」とか「工場、荒城、向上、厚情、口上、恒常、交情、攻城」が加わるから本当に簡単だ。「こうし」と「よう」を分けて「講師用」「後肢用」とか「格子様」とか、「小牛用」など様々あるし、長音を無視して「高所」「向暑」もあるし、「故障、呼称、湖沼、胡椒、誇称、小姓、涸沼」とも関連づけられる。省略語も考えられるし、清濁を抜いて「工場」「工事用」も考えられるし、「こうしよう」「抗しよう」なんていうのも忘れてはいけない。どうしよう。

 だから「湖沼でのキャンプで講師用の高尚な胡椒を使って工匠の作った格子様の鉄板で子牛の後肢状の肉を焼き、故障した鉱床の工場の交渉をしながら、哄笑したり、高笑して厚情の向上に努め、「厚相」と誇称している豪商が強情な公娼と交情を深めようと攻城したが咬傷を受けてしまった」なんていうのができる。

 日本語では「禿げに毛がなく、刷毛に毛がある」なんて言葉遊びは容易だ。簡易だ。安易だ。原意から人為的に離れた含意だ。転移だ。真意だ。深意だ。神意かもしれない(←文意が分からなくなっていて品位が疑われるのは本意ではない)。石津ちひろ+長新太『ききちがい<今様懸け詞>』(河出書房新社)には「学校がユニーク/カッコウが湯に行く」「返金の期日/ペンギンの気質」「卒倒し続け/そっと、牛つつけ!」「舞踊仲間/不要な釜」「総理無視の政治/ゾウリムシの生死」など清音・濁音をあまり気にしない日本語の特質を活かした駄ジャレが載っている。

 明治以前には仮名に清濁の区別がなかった。区別しなくても不便はなかったから、駄ジャレの数は増える。前田利家の甥の前田慶次郎は茶目っ気のある人柄で知られた。ある時、「大ふへん者」と書いた旗指物(はたさしもの)を掲げて戦場に出た。「武辺者」(勇敢な兵)と読んだ朋輩(ほうばい)は面白くない。「おぬしひとりが武辺者か」と絡まれた慶次郎はにっこり笑って「われは落ちぶれて貧しき不便者よ」。そう言って煙に巻いたという。

 恐らく世界の言語の中でも同音異義語が一番多い言語は日本語だと思うが、幸いにして、文字体系が複雑で、誤解を避けることができる。逆に、そうした事情が日本語における文字言語の優勢を生み出したともいえよう。

 だから、文化庁長官からして「荒唐無稽文化財」だという。河合隼雄は『人の心がつくりだすもの』(大和書房)で南伸坊に次のように語っている。

ぼくなんか、いつも一人漫談ばかりやってますよ、だから、七十歳になったら、教育漫談という新しいジャンルを開いて、扇子一本持って日本中を回るといってたんです。そうしたら、谷川俊太郎さんが、「河合さん、センスは一本ではだめです。センスとナンセンスの二本持っていきなさい」といわれた。そこで「でも、私は一本でいいんです。扇(奥義)を心得てるから」と切り返したんですけどね(笑)。

 笑えたのは息子さんが小学生の時、担任から「河合君はちょっと変わってて、冗談をいっても全然笑わない。感情の表現が乏しいんじゃないですか。お宅ではよくわらってますか」といわれたという。訳を聞いたら「先生のいってること、なんもおもろないから。先生って、なんであんな見えすいた冗談いうんやろ」と答えたという。

 日本語の駄ジャレは簡単だから誰もが考えるようなのを飛ばしていても「オヤジギャグ」(英語では“worn-out joke”という訳がつけられる)とバカにされるだけだ。「オヤジギャグ」というのは誰もが作れそうな駄ジャレ(オリジナリティの欠如)、繰り返し(受けた、と誤解したら何度でも)、場違い(いきなりかましたり、TPOをわきまえず)、下ネタ(セクハラ)、自己完結性(一人で笑い殺している!殺したいのはこちら)がその特徴である。日本でダリ展が開かれた時のコピーが想像できるように「ダリだ。」だった。これはマンネリズムをも批判した駄ジャレだったのだろう。

 「受けない」ことを英語で“go down like a lead balloon”という。鉛の風船のように落ちるのである。逆に「大受けすることを」“raise the roof”とか“bring the house down”というが、“fair game”(みんなの餌食=物笑いの種)にならないように気をつけなければならない。

 斎藤美奈子の『それってどうなの主義』(白水社)によれば「オヤジの属性」には三つの側面があるという。

(1) 女を性の対象としてしか見ない好色性
(2) 社会的な権力を笠に着た厚かましさ
(3) (1)(2)が周囲に与える不快感に気づかない鈍感さ

 ここからすれば、下ネタがあって、笑ってもらって当然という厚かましさがある場合は「オヤジギャグ」になってしまうのだろう。

※「その冗談はもう聞き飽きた」はThat joke is wearing thin. という。wear thin は服を着古してすり切れてしまう様子から「面白味がなくなる」の意味。このほか、Her excuse is wearing thin. (彼女の言い訳はもう通らない) など。

 日常語に入っている駄ジャレも多い。「4号室」「9号室」を忌避するのも「言霊思想」というと立派だが、タダの駄ジャレだ。賽銭を「御縁」があれと五円にしたり、「重縁」で十円、「二重の縁」で二十円、「しじゅう御縁」で四十五円となったりする。「めでたい」と言って鯛を愛でたり、鰹は「勝つ男」に通じるからといって初鰹をありがたがったりするなんて既に駄ジャレとも思われていない。「風呂吹き大根」の由来も「不老富貴」の転じたものといわれて、各地で大根炊きの行事が行われる。よくいわれるのは、漆器の乾燥場所を風呂といい、そこへ漆器に最適の湿度を整えるのにだし汁の湯気を吹き込んだのが起こりというものだ。江戸時代の蒸し風呂でアカを吹くようにフーフー息を吹きながら食べるからとの説もある。まあ、誰にも分からないのだ。

 日本人は「めでたい」で鯛の尾頭付きを、「よろこぶ」で昆布を、祝いの膳に載せてきた。受験生はスキーを避けるし、キシリトール入りのガムで「きっちり通る」、キットカットで「きっと勝つ」のチョコレート、「寝ていても木から落ちない」コアラのバッジなどがある。僕らも「芋焼酎の梅割り」(夢成就の目あり)で乾杯することがある(が、二日酔いになるだけだった)。

 向田邦子の『寺内貫太郎一家』の中で、たくあんは一切れだと「人を斬る」、三切れだと「身を斬る」で縁起が悪いから二切れがいいという会話があった。

 ちなみに僕は「迷人」とか「頑張ったで賞」とか「○×笑(ショー)」とか「007危機一発」とか「○×考房」のような漢字を玩ぶ駄ジャレは嫌いだ、と思っていたら伊丹十三が『ヨーロッパ退屈日記』でミドルクラスの憂鬱として書いていたことの受け売りだった。

 書物や、記事の題名で「なんとかひとりある記」とか「食べある記」といったたぐい。また賞の名前で「なんとかしま賞」、会の名で「ああそう会」といったたぐい。こうやって書いているだけで吐き気がしてくる。

 「わが肺は二個である」なんていうのも同じ。話し言葉ではいちいち説明しなければならない。井上ひさし『東京セブンローズ』(文藝春秋)に出てくる話でマッカーサーを戦中は「眞苦鐚詐」、チャーチルを「茶散」などとしていたのが流行ったのに戦後は「松・久・朝」でめでたい名前です、なんていうファンレターがいっぱい届いたというが、日本人のそんな心性まで透けてくるようで許せない。2004年に営団地下鉄が愛称〈東京メトロ〉の東京地下鉄株式会社になって、〈EKIBEN〉が生まれた。駅弁かと思ったら「地下鉄の駅を便利に楽しく変える」の略で、コンビニ、書店、ドラッグストア、マッサージサロン……が開店している。これは一体何だ!日本語をどうするつもりか!ということよりも、使う混乱するだけだ!

 6月4日を「シカトの日」ではなくて、虫歯から「歯の健康の日」、8月8日を「パチパチ」から「算盤の日」などとする語呂合わせから民度の低さが分かる。

 何っ!僕の誕生日の12月9日は「皮肉の日」だってぇ〜。

 駄ジャレに依存するギャグは“verbal gag”、映像に依存するギャグは“sight gag”という(「ギャグ」という言葉自体は、「猿ぐつわ」から来ていて、抑圧を意味していたが、いつの間にか現在の意味が多く使われるようになった)。

 いしいひさいちは言葉のギャグが専門ではないが、ドーナツブックス(双葉社)のいしいひさいち選集の各巻のタイトルがすごい。『健康と平和』『老人と梅』『いかにも葡萄』『椎茸たべた人々』『垢と風呂』『長距離走者の気の毒』『まだらの干物』『馬力の太鼓』『不思議の国の空き巣』『女の一升瓶』『任侠の家』『パリは揉めているか』…。

 同じく、いしいの『ほんの一冊』(朝日新聞社)ではこんなのがある。

先生「今日のゼミはプラトンだ。知っていることを述べよ」
A 「ハイ、ウィリアム・デフォーがカッコよかったです」
先生「そりゃプラトーンじゃろが。古典的ギャグをとばしやがって」
B 「わたし知っています」
先生「言ってみろ」
B 「プラトンは壮大かつ偉大で人を圧倒するものがあります」
先生「プラントだろう」
C 「スッゴイ センセ、どうしてわかるんですかぁ?」
先生「おまえらが学食でダジャレを言い合ってるうしろで ワシはざるそばを食うておった」
B 「センセじゃ、クジラのエサは?」
先生「プランクトンじゃ。もうやめろ!」
D 「ここまでやったんだから続けましょうよ」
先生「やかましい」
B 「駅前にあるのは」
先生「プロント うるさい!」
C 「先生 わたしプラトンよりハイデッカーについてお聞きしたいです」
先生「サイデッカ ウウウ 止まらなくなった」

 意外性が大切だ。

 例えば、クリントン大統領を「クリキントン」というのは小学生でも作れる駄ジャレで、これは大統領と栗きんとんとの間に何の関係もない、ただの語呂合わせだからだ。

 ルインスキー事件から「フリントン」とか相手を「フリンスキー」というのは高校生並だ。意外性がなく誰もがすぐに思いつくからだ。

 これを「不倫豚(ふりんとん)」とか「不倫好きー」などと文字で駄ジャレをいうのは中年だ。漢字は意味が前面に出すぎるからである。

 「ルインスキーという名前だけに滑ったんだよ、口が」というのはちょっと意外性がある。

 「しゃぶるだけでいいことあるかねぇ、でも、きっと栗きんとんの味がしただろう」というのは下ネタになる。

 「不倫問題もファーストレディだけにヒラリーとかわした」というのはキレイだ。大統領に振らないで妻の方に話をもっていくところがいい。

 「奥さんは毎日、朝ドラを見てるようだったでしょうね。“ひらり”みたいね」というのはちょっと無理がある。

 とかく駄ジャレは難しい。

取り返しようのないことを嘆いていくら思い悩んでも、悩みがやみはせず、悔やみが重くなるばかり」---シェイクスピア『ヘンリー六世・第一部』第3幕第3場

 というのはジャンヌ・ダルクが百年戦争で負け始めて傷心している皇太子たちに檄を飛ばすところで「悩みがやみはせず」というのは“care is no cure.”と駄ジャレになっている。うーん。

 『にほん語観察ノート』(中央公論新社)で井上ひさしが駄ジャレの作り方を披露している。五十音図を使うのだという。

 たとえば「古典」で語呂合わせがしたいときは、心の中で高速で「アテン、イテン、エテン、オテン、カテン、キテン…」と唱えて行くのです。そうすると、移転、雨天、汚点、機転、視点…といった意味のある語と行き当たる。そこで「古典が苦手なのが僕の汚点だ」「古典を読めばなにか別の視点が見つかるかもしれない」というふうに活用するわけです。この方法に慣れると、二、三秒で五十音図を一巡りできます。お暇な折にお試しください。

 ルインスキー事件の時に『ニューズウィーク』だったか「セックスと嘘と大統領」という記事を載せたが、これは映画の『セックスと嘘とビデオテープ』をもじったもので、駄ジャレみたいなものだ。『ニューズウィーク』や『タイム』が難しいのは最初に書いた英米の教養というものに結びついた駄ジャレやひねりを入れているからで英米人にでも生まれない限り、理解は難しいものがある。聖書とシェイクスピアと『マザー・グース』は最低の教養といわれる。そのキリストだって駄ジャレを言っていることになっている。「汝はペテロ【ギリシャ語では“Petros”】である。その岩【ギリシャ語では“Petra”】の上に私は教会をたてよう」と。つまり、ヴァティカンのサン・ピエトロ寺院(聖ペテロ)は駄ジャレでできたのだ。「人はパンのみに生きるにあらず」ともいったはずだが、パンと駄ジャレ【pun】を掛けていた------なんてことはなかった。

 だから翻訳は難しくなる。『マザー・グース』で“Bat,bat, come under my hat.”を谷川俊太郎は「こうもり こうもり こうもりがさのしたにこい」と訳したし、和田誠は『ことばの波止場』(白水社1995)で「こうもり こうもり 帽子におのり」と見事に訳している。

 ところで、日本の、特にスポーツ紙の見出しはやたら駄ジャレが多い。「タカ笑い」というとダイエーが勝っただけとか、投手が好投して「タカをカタが救う」とか、「オーリュースター戦が始まった」と書いてあって何かと思えば、王とドラゴンズの星野が監督をしたオールスターが始まっただけ(2000年)ということが多い。

 さすがに毎日考える記者も大変だとは思うが、本人も馬鹿馬鹿しいし、何よりも読者を馬鹿にしている。

 真面目な雑誌では朝日新聞社の『アエラ』が駄ジャレ広告もひどい。目を覆いたくなるくらいである。ごく最近のは久世金融再生委員長の更迭を詠ったもので「またか、金融最低委員長」というのがあったが、小学生並みだ。全日空さわやかキャンペーンの「でっかいどう。北海道」とか「おぉきぃなぁ ワッ」というのもあった。

 河北秀也の作品で1976年から始まった営団地下鉄のマナーポスターで傘の置き忘れには「帰らざる傘」、座席の独り占めには「独占者」、構内の禁煙では「嫌煙の仲」などがあったが、これはポスターと見事に連携していた。

帰らざる傘 (C)河北秀也

 今まで新聞などの見出しで唯一評価できたのが三宅一生の服が色落ちした時に書かれたものである。それにはこう書いてあった。

 「ミヤケ 一生の不覚」


☆駄ジャレの作法

 ここで急いで駄ジャレの作法を書いておく。ジョーク全てに当てはまることだ。ただし、ジョーク全般が嫌いな人がいるから(頭が悪いだけなのだが)、気をつけよう。

(1)駄ジャレの文法------まず、言う順番を考えることが重要だ。文法というものがある。例えば、「ルインスキーという名前だけに口が滑ったんだよ」とすると「スキー」と「滑る」の間に「口」が入ってしまい、リズムに乗りきれない。

 また、駄ジャレをいう時にはその前に暗示する言葉を言ってはいけない。「サンドウィッチが食べたいって何回頼んだか?」というべきであって「何度」とすると、相手に駄ジャレをいうのを気づかれてしまう。なるべく、音の離れた言葉で言いかえておくことが大切だ。

(2)コンテクスト------駄ジャレには、ユーモアは全てそうだし、会話というものは、コンテクスト、つまり、TPOというものがあって時間と場所と場合を間違えるととんでもないことになる。「言っていることは正しいよ。でも、今言うのは間違っていますよ」(『尺には尺を』)なのだ。

 誰も考えつかないような駄ジャレを、その場限りの、コンテクストに合った駄ジャレを作らないと駄ジャレの地位は上がらない。

 ぴったりしたコンテクストだと大いに笑われるが、コンテクストを外すと嗤(わら)われる。

 全ての話が下ネタに走ってしまう同僚がいるが、本人は面白いと思っていても、笑えないのである。「セクハラになるよ」というと「ごめん、穴があったら入れたい」などという。下ネタは酔っぱらいのものである。

 ある駄ジャレが思いついても、すぐに使わず、TPOを待つべきだ。TPOに合わせる努力も大切だ。

 日本の鰻は養殖が多いということを知っていても、誰かが鰻丼を食べて「これって養殖だよね」というまで待つべきである。その時、おもむろに「鰻丼って和食じゃなかったっけ」というのである。じっと我慢の子でなければ駄ジャレをいう資格はない。

 そうでなければ、自分でTPOを作るべきなのである。話を無理矢理そちらに持っていくしかない。

 また、僕の顔を見ると所構わず駄ジャレを言ってくる人がいて、思わず我が身を振り返って赤面する。

 もう一つ、困るのが、上司などがいる時に学生が「何か面白いこと言ってよ」などと要求してくることだ。講義以外では別料金だ、じゃなくて、オレはお笑い芸人ではない!

(3)オリジナリティ------コンテクストにあったオリジナルな駄ジャレが大切だ。人口に膾炙された駄ジャレはオヤジギャグと退けられる。

 僕のオリジナルな地口には次のようなのがある。

 A先生が痔の手術で2週間、学校を休んで帰ってきた。学校の前でウロウロしているので「やっぱり恥ずかしいんですか?」と訊くと「コウモンが怖い」。

 M先生が十二指腸潰瘍になった。先生に「こんな立派な潰瘍みたことない、どんな仕事をしてるのか?」と訊かれ、「教師」というと「教師でもこんなにすごいのは見たことがない、どこの学校だ?」というので「商船高専」と答えると「なるほど、カイヨウ専門だ」。

 笑いの専門家になると流石に違う。三木のり平は紫綬褒章をもらった記念パーティで「なんでぼくが紫綬褒章をいただいたのかよくわかりませんが、おそらく、桃屋の“江戸むらさき”を宣伝したからでしょう」と話した。「(家に帰ってからお土産の恩賜の煙草を回していたら、金色の菊の御紋章は純金だろうかという議論になって)それで、私が最後に断を下しました。朕モクは金!」。

(4)ブラックにならないように------ユーモアなのだから、相手を傷つけてはならない。場を盛り上げるものでなければならない。セクハラは身を滅ぼす。

 他人に悪態をつくときは駄ジャレでやっておけば角が立たないこともある。

 和歌山ヒ素カレー事件の容疑者が逮捕されて「カレーはお前だろう」と聞かれて「ハヤシです」と答えたとか、林真須美に「ヒ素を入れた動機は何か?」と聞いたら「近所の人のひそひそ話が気に入らなかったからです」というのは無関係のところで内輪話で話しているにはいいが、関係者にはブラックジョークになるので絶対にやってはいけないし、僕は絶対にしない。

 最新鋭のスーパーコンピューターが現代科学の粋を集めた最高の駄ジャレを計算することに成功した。各方面から識者、科学者を集め、いよいよ、発表の瞬間。コンピューターの画面に映し出された! それは「あるブスの少女ハイジ」だった、というのがある…こういう差別的なのはやっぱり面白くない。

(5)同じ駄ジャレを二度というな。

 オヤジギャグになる王道は同じギャグを何度も使うことである。親父はケチだから一つ思いつくとどこでも披露してしまう。他人から聞いたものでも、何度もいってしまう。

 TPOにぴったりあった見事な駄ジャレであればあるほど、2度話してはいけない。これは駄ジャレだけでなく、ジョーク全体にいえることだ。

 しかし、忘れてしまうこともある。だから僕は「えーっ、あの話したっけ?」と最初に聞くことにしている。相手は覚えていたらちゃんと言ってくれるものである。ただ、全部話し手から「聞いた、聞いた」というとぼけた奴もいるので注意。その場合は、別の新しい駄ジャレやジョークを付け加えなければならない。

 しかしなぁ、そこまで駄ジャレに努力する必要はないだろうに…。


☆人に笑われないために

言葉遊びっていうのは、当たるとすごいんですけど、当たらないとあんなみじめなものはない。
   ------井上ひさし『井上ひさしの世界』(小沢昭一との対談)

 これはしっかりと考えておかなければならない。他人から笑われないようにしなければならない。井上の小説に『下駄の上の卵』というのがあるが、その心は野球ボールを求めて“上野”まで来たら、“たまげた”ということだ。かなり分かりにくいタイトルでたまげた(「たまげる」というのは「魂消る」だというのを知って、またたまげた)。

 一度受けると、もっと受けようとして次の駄ジャレをいうのだが、これがエスカレートすると誰にも分からない駄ジャレをいうことになる。

 そして、詳しくは「タモリの新言語学」にも書いたが、「意味の雪崩現象」ともいうべき、心の病気になってしまうのだ。

 よい駄ジャレには意外性が必要だが、意外性をつきつめていくと、誰にも分からない駄ジャレになってしまう。他人と交わらない言語はビョーキである。

 英語で“clanging”というが「躁病患者などに見られる発語の形態で言葉の意味より音韻の似ている観念を連想すること」をいう。だから、うっかり「自分の発想が豊かだ」なんて自慢したら「“そう”だよ」といわれそうだ。

 「絶対音感→大江光→『癒し』」にも紹介しているが、大江光さん(イーヨー)は駄ジャレが好きだ。例えば、『静かな生活』の「小説の悲しみ」の中で「あら、楽観という言葉、イーヨーは知ってるの?」と聞かれて「神経痛とはくっつきませんし、お湯もわかさないと思います」と駄洒落で答えている。

 その心は楽観が「肋間」(神経痛)とくっつかないし、薬缶(やかん)でもない、だ。分っかんないだろうなぁ。

 駄ジャレとジェイムズ・ジョイスのような文学とビョーキとは紙一重なのである。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の例をあげると次のとおり。

From quiqui quinet to michemiche chelet and a jambebatiste to a brulobrulo! It is told in sounds in utter that, in signs so adds to, in universal, in polygluttural, in each ausiliary neutral idiom, sordomutics, florilingua, sheltafocal, flayflutter, a con's cubane, a pro's tutute, strassarab, ereperse and anythongue atall.

既々キネーから身主身主ミシュレまで、美香の洗礼人から炙ルーノな焚く刑人まで!それは諸音の発声(はつご)、付加孵化の記号、人工普遍語、多声感帯語、中性慣用各助詞、聾唖語、花語(かご)、シェルタ隠語、酷評痙攣語、妾賛語、娼不語、浮浪児語、耳挟(みみはさみ)エルス語、なんでも奸でも語によって語られる。-----柳瀬尚紀訳

 ここには歴史家のキネーやミシュレ、哲学者のヴィーコとブルーノが詠み込まれているが、駄ジャレというかビョーキというか、素人にはメマイしてくる。

 清水義範も『愛と日本語の惑乱』(KKベストセラーズ)で「イルカはいるか」「イカはいないか」「バインダーは頼めばいんだー」と言ってしまう中年について主人公の野田に次のように言わせている。

…受けていたのはそれこそ中学生ぐらいまでのことで、高校生、大学生ともなれば駄洒落かよ、と冷笑されていたのではないか。【…】それなのに、彼はもう自動的に駄洒落を言わないではいられないのだ。受けようが受けまいが、みんなに大いにいやがられているのだとしても、条件反射のようにあれが口を突いて出てきてしまうのだ。

 つまりそれはもう本人にもどうすることもできない病気の発作のようなものなのだ。楽しいとか面白いという次元を超えてしまっていて、あんなことをのべつ言わないではいられない、というのが彼の人間性になっているのだ。

 そこまで考えて野田は、つまり駄洒落地獄に落ちているとういことなのか、と思った。

 規則を破壊してしまってコミュニケーションがなくなるとタダの病気になる。ジェイムズ・ジョイスの娘ルーシア(ルチア)も新しい言葉をたくさん作ったが、文学とはなりえず、ユングによって「精神分裂病」と診断された(ジョイスの弟子のサミュエル・ベケットに振られたことから始まったとされる)。ジョイスが抗議するとユングは説明して言った。「あなたもお嬢さんも、普通の人ならとうていおられない水中深くにいることは事実です。しかし、あなたの場合は潜っておられるのであり、それに対してお嬢さんは溺れているのです」。なお、ベケットは『フィネガンズ・ウェイク』について「これは何かについて書かれたものではなく、その何かそれ自体なのである」と言った。出来事を描く小説じゃなくて、もはや小説が出来事そのものになってしまった、ということだ。

 多田道太郎が『変身 放火論』(講談社)で紹介しているが、フォン・ドマルスは「精神分裂病における論理の特殊法則」(未邦訳1944)で、主部と述部が確立している場合はポエジーになる。ところが、主部と述部の枠が未確定である、ばらけたり、入れかわったり、ぐにゃぐにゃしている場合、それは「精神分裂病」の問題であるという。主部そのものが書けていたり、次の主部と前の主部の間の関連がわからなかったり、それぞれの主部の枠がぐらぐらしていた時には、これが「精神分裂病者」の現実となるという。

 山藤章二は『論よりダンゴ』(岩波書店)でダジャレは万能の神様が人間に与えたまるで役に立たない才能であるという。

 まったく、これほど人類の発展や繁栄に貢献しない才能も他にない。
 いや、貢献どころか、運わるくこの才を与えられてしまった人間は、生涯周囲のつめたい視線を浴びながら、ひとり淋しく生きていかなければならないのだ。まさに、“悪魔の才能”、略して魔才。本人の知らぬ所では“”と呼ばれている。
 この才を与えられて、いちばん被害をこうむるのはサラリーマンである。まず出世の見込みはない。一流企業の社長や役員でダジャレ好きというのは聞いたことがない。

 企画を煮詰めなさいといわれて「きっちりとにつめ漱石で参ります」といって首になり、鎌倉に戻ってピザ屋を始めて「ピザ鎌倉」にした男の話が出てくる。

 言語学者は駄ジャレを言うかというと少ないと思う。少なくとも僕が教わった多くの先生から駄ジャレを聞いたことがない。皆無と言ってもいい。言語学者たるものの言葉遊びは芸術の域まで達しなければならない。“駄”ジャレではまずいのだ。

 僕に駄ジャレが多いのは立派な言語学者じゃないからである。だから立派な先生方に何度も呆れられた覚えがある。

 日本の学者は概ね、人格を下げるので言わない。ただ、アメリカでは例えば生成文法から関係代名詞を考えるために、シカゴで開かれた学会で“Chicago Which Hunt”というのがあった。これは“Witch Hunt”(魔女狩り)の駄ジャレである。日本で「危険でご機嫌な日本語起源論」なんていうシンポジウムが開かれることはないだろう。

 駄ジャレをいう学者もいる。日本で一番多いのは山口昌男だと思うが、その恩師?のレヴィ=ストロース(Levi-Strauss)の『野生の思考』だって駄ジャレだ。“Pensee Sauvage”が原題で「野蛮な思考」と「野生のパンジー」という意味がかけてある。大体、この構造主義者は人類学の調査に必要だといって、お洒落なジーンズを作り、これがリーバイス(Levi's)になったとされる。植木不等式の『悲しきネクタイ』(日経ビジネス文庫)にはレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』の中で、「駄洒落の効能を評価しているように読める部分がある」と指摘している。

 レヴィ=ストロースは、「ブラジルについて考える時いつも<焦げた匂い>を想起する>と告白している。それは、「ブラジル」という語が「グレジエ」(ぱちぱちと燃える)という語と音が似ているから、というのだが、フランス語にうとい私には、どこが似ているのかよく分からない。
 しかし、レヴィ=ストロースは、そこに積極的な意義を見出しているらしい。
 真実は、「日常の観察」からでは得られない。かわりに、「長い時間をかけて少しずつ行われる蒸留によって」それは得られるのだと、この碩学は言う。そして、物事の本質をとらえようというこうした営みを、彼は何と前記の駄洒落と重ね合わせて考えている。【…】
 このように、現実を別の見方で見るきっかけとして、駄洒落も時に有効なのだ。

※金川注※Bresilは「ブレジル」となるが、固有名詞だと知らなければ「ブレジユ」ともなり、gresillier「グレジエ」に近くなるからだろう。

 日本の文学者だって、二葉亭四迷や江戸川乱歩のように駄ジャレのペンネームをつけている。分かりにくいのは土井晩翠(つちいばんすい)で作家で詩人だった人の名前を元にしている------それは『宝島』のスティーブンソンなのである。漫画家だと藤子不二雄が最初、足塚治を、秋山治が最初、山止たつひこ(山上たつひこから)を名乗っていた。

 哲学者の篠原資明は『言霊ほぐし』(五柳書院)など超絶短詩を創始している。超絶短詩というのは「ひとつの語句を、二つの部分に分解し、少なくとも一方を間投詞(擬音語・擬態語を含む」にする)という形式の詩である。哲学者が「くすぐることによって、言葉をほぐし、心をほぐす」と思想を解体しているようにみえるからおかしい。何しろ、「哲学者」という短詩が「鉄が くしゃ」、「赤裸々」が「背 きらら」、「チューリップ」が「ちゅー リップ」、「忠臣蔵」が「中心 ぐら」となるのだ。ただのオヤジギャグとも考えられなくはないが、ドゥルーズやエーコなど現代思想の研究家の「詩」だというと違ってみえるかもしれない。これが、ジャック・デリダ(デリダってだりだ)のいう脱構築なのかもしれない。エーコは日本に来て同じ響きを持った高野山の恵光院を気に入ったという話が残っている。駄ジャレが好きなのだ。

 駄ジャレが好きな音楽家、特にモーツァルトなど作曲家が多いが、これは音から入るからだと思う。羽田健太郎や池部晋一郎のような日本の作曲家はもちろんだが、ヴェルディも好きだったらしい。シェイクスピアの道化、フォールスタフをオペラ『ファルスタッフ』の主人公に仕立て、偽物くさい宗教曲をバックに「おお主よ(domine)、わが腹(abdomine)を守りたまえ」などと駄ジャレで祈らせている。

 作詞家は駄ジャレでは詩にならないので、ふだんは避けている。アメリカ映画で韻律ばかり考えている作詞家が出てきたことがあるが、日本の作詞は叙情的なものが多くて韻律は気にしないから駄ジャレも軽視することになる。

 戯曲家は多いと思う。小説と違って、言葉にリズムがなければならないので、どうしても韻律を考える。駄ジャレが多くなる。井上ひさしや野田秀樹の舞台は駄ジャレだらけだ。野田の「キル」(タイトルも「着る」と「切る」と“kill”の駄ジャレ)では「制服をみんなに着せて世界を征服する」なんて恥ずかしいのが出てくる。「小指の思い出」と「三代目、りちやあど」で使われた「もう、そうするしかない」というセリフがあるが、これは「妄想するしかない」で、更に「孟宗竹」がキーイメージになって出てくる。登場人物の名前からしておかしい。

 火の中に飛び込みもしよう、しゃぶしゃぶのように、君のためなら、美しいそぼろ。しらたきのように透き通るように美しいそぼろ。ああ、僕の胸は、ネギ、トリ、ネギのように串ざしにされたヤキトリの思い。-----野田秀樹『真夏の夜の夢』(板前のライが「そぼろ」という娘に)

 文学では2000年に芥川賞を受賞した町田康なんか「パンクロック」とか「ラップ」のような文章と言えばそうかもしれないが、ただのオヤジギャグの発展型といえよう。逆に僕らの駄ジャレがラップだと思ってくれる女の子がいればいいが…、と思っていたら、2004年に『蹴りたい背中』で芥川賞を取った綿矢りさはこの作品を『ファンの不安』にしたかったというし、彼女の最初の「文芸作品」が高校の国語の時間に作った「はやりやまいはやはりやばい」という駄ジャレっぽいものだった。綿矢りさは僕のことを分かってくれるかもしれない!

 産婦人科の先生が駄ジャレを言っていてもいいかもしれないが、外科の先生が駄ジャレばかり言っていると不安になってくる。精神科医だと、どちらが病気か分からなくなる。

 駄ジャレの多い職業と少ない職業を調べると立派な卒論になるかもしれない。

 実際、次のイギリスの神経研究所の論文にはfMRIを使って駄ジャレとフツーのジョークの反応する部位が違うという研究がなされている(英文紹介)。駄ジャレは音を処理する領域、言外の意味や言葉の曖昧さをネタとするジョークは語の意味を処理する領域で反応していることが分かった。ただ、くすくす笑うおかしさへの反応は別の共通の部分だったとされる(ネイチャー・ジャパン編著『知のミネラルウォーター』徳間書店)。きれいなジョークと親父ギャグは機械に任せれば分かることになるのだ。

語義的な
ジョーク
語の意味を処理する領域
(後側頭葉)
駄ジャレ 音を処理する領域
(左下前頭葉前皮質・島)

 Goel, V. & Dolan, R. J. The functional anatomy of humor: segregating cognitive and affective components. Nature Neuroscience 4, 237 - 238 (2001).


☆周りへの影響

 僕は教務関係の仕事になってから教務係に顔を出すことが多くなったのだが、徐々に周りに駄ジャレをいう人が増えてきて困っている。リクエストまでされる。先日の学校見学会でも牧野中と西部中が遅刻しそうになったが、係員が「どう説明するの?」というので、「だから、遅まきの中学で、危うくセーフ中学ということだよ」などと説明しなければならなかった。

 もっと困ったのは柔道八段のI先生が僕の影響で駄ジャレを言うようになったことだ。いつもは謹厳な先生が駄ジャレを言うのを聞くと悪い影響を与えてしまったなぁ、と後悔する。それが、下手だから本当に後悔する。ごめんなさい。駄ジャレにはインフルエンザよりも強い伝染性があるのだ。誰かが駄ジャレばかり言うと(特に上手だったりすると)、みんな駄ジャレを言い始める。

 そうなると周りには駄ジャレのつもりがなくても駄ジャレだと感じてしまう人もいる。勝手に「今のはつまらなかった」というのだから困る。映画『トーキング・ヘッズ』のデヴィッド・バーンのように「ストップ・メイキング・センス」といいたくなる。何でも意味づけするな、という意味だ。いつも駄ジャレを期待されても困る。疲れていることだってある。

 七五調で話し出して、そのリズムに身体が合うと止まらなくなる。「韻文で、話し出したら、止まらない」と庄司薫が書いていた。外国でも、ジロドゥかアヌイの戯曲で、登場人物たのうちの誰かがアレクサンドラン(十二音綴詩)でしゃべり出したら、それがみんなに伝染して最後に全員が古典詩の節回しで話し出すというエピソードがある。

 村上春樹は『これだけは村上さんに言っておこう』(朝日新聞社)の中で絶望的な駄ジャレに対してこう答えている。

 その絶望的<ぐずぐず感>は僕にも良く理解できます。僕は薬屋さんの前を通るたびに「くすりのリスク」というのも思い出すし、イタリアの地図を見るたびに、「イタリヤでやりたい」というのを思い出します。伝染しました? よかった。誰かに伝染させて早く忘れたかったのです。

 その後、村上春樹『うさぎおいしーフランス人』(文藝春秋)という駄ジャレだらけの脱力系の本を書いた。全てがこんな調子なのだ。

「とてもしんどくて、フィーリン・バッドだ」
「シンドバッドさん、もう航海は無理だって申し上げたじゃありませんか。なにしろ97歳なんですから、昔のようにはいきません」
【…】
「ほう、おまえも老眼が出てきたのか。それはたいへんそうだ。でかい目だものな。それで、どこまで老眼鏡を作りに行くんだ?」
「飛行機に乗って、ボストンのローガン空港までいかなくちゃならなえ」
「おお、おまえのだじゃれもかなりこたえるぞ!」

「おお、あなたは空海さんじゃありませんか」
「おお、そういうキミはかまぼこ好きのムラカミさんじゃないか」
「お久しぶりです」
「ひさしぶりだなあ。千年ぶりくらいかなあ。どうだい、かまぼこ食うかい?」
「いいですね」
「わさびも食うかい?」
「いだたきましょう」

 空海さんは人にものをすすめるのがとても上手です。

 と思っていたら、友人の柴田元幸も次のような小説を書いていた。

 少し黙って歩いてから、かつての君は、「ねえ、仕事行かなくていいの?」と君に訊く。
「いいんだ、今日は休講だって電話するから」と君は答える。
「キュウコウって?」
「普通よりも早くて特急より遅いやつだよ」と言った端から、我ながらつまらない冗談を言うものだと君は君自身に呆れてしまう。かつての君だった歳から、今に至る四十年間、身につけたものはこの程度の冗談を言う能力だけだったような気がしてくる。【…】
    柴田元幸「バレンタイン」(『バレンタイン』新書館)

 駄ジャレよりも本当はもっと違うところにユーモアがある。ユーモアの一部が駄ジャレなのだが、それをしっかり認識しなければ、それこそ人に笑われるだけだ。

 子どもが卓球で捻りを覚えて、使い始めると相手も捻り始めて、そんなのばっかりになってしまい、でも、結局正統派が勝つことが分かってくるようなものだ。

 そして、ユーモアというのは周りに気をつかい、自分をちょっと低めて初めて生まれるものである。自分を笑うことだが、自分を失うことではない。僕が一番好きなのは戦時下で“Open As Usual”と書いて毎日開いていたロンドンのハロッズが空襲で半壊した時に“More Open than Usual”と書いていたことだ。同じ頃、エリザベス皇太后は、宮殿の壁が爆撃で破壊されて「国民との隔たりがこれでなくなった」と、ユーモアたっぷりに励ましたと伝えられる。娘のエリザベス女王は7・7テロの後、負傷者を病院に見舞った時、「困難な事態に冷静さやユーモアを持って耐えましょう」と優しく語りかけた。ユーモアは逆境を乗り越える力となる。豊かな人間関係を築くためにあることを忘れてはいけない。

 ブラジル経済が危機に瀕した時、「国破れてサンバあり」などと言われた。余裕だ。まあ、ブラジルの人が言ったのではないが…。

 小田島雄志が『道化の耳』(白水社)で書いているが、小田島の古稀のパーティで井上ひさしの挨拶は「小田島さんは古希になられたそうですが、私はすでにコキュでして…」とわが身を斬るような駄ジャレから始まったという。

 学生はよく「寒い!」というが、教室にクーラーが利いているからだ。ただ、ギャグを「寒い」という使い方は『現代用語の基礎知識』の1993年版に初めて載ったくらいで、かなり新しい言葉だ。

 だから、卒業パーティでは酔った勢いで次のように話す。

「社会へ船出する君たちには是非、鉛筆のような人間になってほしいと思います。真ん中に芯があって周りにキをつかうような人間になってほしいのです」。

 最後に家族への影響。これを考えるとあんまり駄ジャレは言わない方がいいかもしれない。

 子どもたちは自然に駄ジャレに浸っている。オリジナルではないが、「アルミ缶の上にあるミカン」などといって喜んでいる。先日も「セメダインって何?」と聞くので「お前はセメダインを知らんのか!……と」と駄ジャレを要求するとちゃんと「……とパパはセメダイン」と答えてくれた。

 妻は長らく理解しない人であった。婚約時代も家に帰ってから駄ジャレが解る人であったが、結婚10年を超えると毒されて来た。

 先日、子どもが「鈴虫の孵化する暑い時期になったね」というので、「僕はクーラーにすずむし」というと「その駄ジャレに心がすずむし」と、妻に言われてしまった。

 『ランダムハウス英和』の“pun”の説明には恐るべきことに「おそらく pun の特殊用法;pun は POUND1〔すなわち「(言葉を)虐待する」の意〕の異形」と書いてある。

 そんなぁ〜。言葉を愛しているつもりなのに…。

 駄ジャレをいう人のお墓にはきっと次のように書かれるだろう。

Here lies a man who lied many times before.

(いつもうそをついた人ここに眠る)


☆駄ジャレの終わりに

 ここまで読まれた賢明な読者は駄ジャレがいいものだと思われただろうか?そうか、自分も作ってみようと思われただろうか?

 実は、僕自身、駄ジャレがいいとは心底思っていないのである。せっかくの知性が駄ジャレで濁らされている。ヴィクトル・ユゴーも駄ジャレをいう人は惨めな人だとはいわなかったが、「駄ジャレは空飛ぶ機知が落とす糞である」と『レ・ミゼラブル』で書いている。

 そうなのだ、僕がもてなかった最大の理由もここにあった。

 僕だって、もう少しもてたいと願っているのだ。

 だから、今日限り、駄ジャレは止めようと思う。この論考は駄ジャレとの永訣宣言だったのだ。「アサーティブ」というが「言えるけれど言わないでおく自分を持っていることが大切である。「言えるが言わない」自己に変わることことである。

 究極の駄ジャレの作法は駄ジャレを言わないことである。

 落語家は駄ジャレが多いと思われているが、落語の中でも地口落ち(「大かぁくわねぇ、たった越前」=大岡越前など、駄ジャレで終わる演目)はそんなに多い訳ではない。 

 桂文珍は『新落語的学問のすすめ』(潮出版社)の中で駄ジャレのことを次のように書いている。

 ただ、【荻野アンナさんは】番組中に三つも四つも駄洒落をおっしゃる時がありまして、これを何とか止める方法を考えなきゃいかんというので、私の方もイエローカードというのを作りました。
 笑いというのは不思議でして、駄洒落というのをあまり連発されると、本来の流れを止めてしまうところがあるんですね。一生懸命やっているところに笑いがくると、「何やってたんだろう、オレ」というふうに、自己喪失といいますか、自分が別の次元にわーっとワープしてしまうとでもいいますか、そこからものをかなえるというのも大事なんですけれども、それを連発しすぎると、どこに自分がいるのかわからなくなってしまうという可能性があります。

 だから、僕もテレビ番組では絶対に駄ジャレを言わなくしている。

 落語で言えば、サゲが駄洒落で終わるのは好かれない。『三方一両損』のサゲが有名だが、『地獄八景亡者戯(たわむれ)』という、一時間を超す長篇落語のサゲが駄洒落で終わる。「ダイオウ呑んで、下してしまうんや」といって(閻魔)大王と漢方の大黄がかけてある。初めて聞いた人はこの一時間は何だったのか、返してくれ、というだろう。

 一体、どうして僕が女性にもてなかったか、というと、教養が邪魔をしたからである。でも、本当はもてなかったから教養に走ろうとしたのである。現代日本の女性が僕のユーモアをもっと理解してくれれば平和で温かい国になるのになぁと思う。

 ニーチェも『人間的な、あまりにも人間的な』の中で書いている。

 女性がどんなふうに、どんなときに笑うか、それは彼女と育ちと教養を示す目印である。笑う声の響きのなかに、彼女の本性が現れる。

 甘粕りり子はくだらない駄ジャレをいうのは「ギャグハラ」だという。『麻布狸穴午前二時』(講談社)の「ギャグハラ男、リターンズ」がすごい。ハモン・イベリコ(イベリコ豚の生ハム)を食べながらの話である。

「スペインの三兄弟の話なんだけどね……」
 同時に身体を硬くする私たち。リアクションに困るんだよね、おもしろくない駄洒落ってさ。
「洗濯物の好きなお兄さんの名前はホセ(干せ)、心配性の次男の名前はフアン(不安)っていうんだけどね」
 ほう。ちょっとはヨーロピアンなネタも持っているらしい。
「一番下の弟はぐれちゃってて、こいつの名前がフリオ(不良)でした」
 笑いのハードルが極端に低い女子1名はけっこうな勢いで笑い出した。
「今度はイタリアの兄弟の話。兄マリオにそっくりな弟の名前はルイジ(類似)ってんだ」
「横浜生まれのフランス男はジャン、なんつって」
 この辺でかなーりの暗雲が立ち込めてくる。とどめはこれだった。
「フランスの前大統領は、やることなすこともう危なっかしくてねえ、ミッテラン(見てられ)ねえ」
 ひゃー。【…】

 確かに、駄洒落を連発するのって、普段から頭をそういうモードにしておかないと難しい。それなりの才能がいるってことはよーく判る。でもねえ。その才能に男としての魅力を感じるかというと、やっぱりありえない。むしろ逆かも。駄洒落は、フェロモンと正反対の場所に位置しているのだ。

 山田詠美に『快楽の動詞』(ベネッセ1993>文春文庫1997)という小説とも評論とも違う、素晴らしい本がある。どれもすごいが、その一つに「駄洒落の功罪」というのがある。

 主人公のモモは駄洒落が耐えられない。笑いのファシズムだと思っている。駄洒落には優劣をつけることはできない。駄洒落には優劣をつけることが出来ない。処刑に値するものばかりで、彼女によって処刑された人間は千人を超える。

洒落のダンディズム化は凡人のなせる技ではないのである。巷にはびこるのは、駄洒落の悪が大半なのだ。それにしても、その最大の悪行とは何か。それは、笑いを絞り取ろうとすることである。そして、それを何の罪の意識もなくやってのけることである。悪気がない。このことが、最も悪いということにいったいどれ程の人間が気付いているだろうか。駄洒落を使う人間の特徴は悪気がないことである。悪気のない人は、開き直りもまた上手い。その洒落、おかしくないよ、とでも指摘しようものなら、一大事である。ユーモアの解らない人とはつき合いたくないわ、などと開き直るのである。

 ユーモアはいつでも独自で、インディヴィジュアルで、関連性は存在しない。

 駄洒落は常に様式を持つ。そこに当てはまることによって進化(と、言えるか!?)して行く。段階を踏みしめながら上に登って行こうとするのである。この点で、駄洒落は、退屈な学業に酷似している。駄洒落を良しとする人間に、真面目で几帳面な性格を持つ者が多いのは、このことによる。学業に打ち込めば何とかなる。こう思い実践して来た者の中には、駄洒落の鬼才と呼ばれる人も少なくない。もちろん、モモの処刑の一番の対象だが。

 駄洒落が学業なら、ユーモアはアートである。創造性という天賦の才を必要とするものである。それは、教えられるものでもないし、学ぶものでもない。そして、しばしば抽象的な形を取るために、人には解りにくいこともある。しかし、解る人には解る。

 モモにとって駄洒落に囲まれているのは収容所にいるようなもので、一刻も早く駄洒落を全滅させなくてはならないと考えている。

 しかし、思い出してみると、彼女が恋愛中の男女を処刑したことは一度もない。性行為の最中に踏み込んだこともない。
「いくいく」
「ひゃひゃひゃ、どこに行くんだい」
 などとくだらぬことを言いながら、熱情に身をまかせている男女は皆無である。やはり、駄洒落は、ロマンとエロスの天敵のようである。と、すれば、世の中、恋愛中の男女ばかりになれば、駄洒落は、おのずと消滅してしまうに違いない。【…】

 モモは、またひとつ価値ある駄洒落を見つけたのである。異性の欲望を遠ざける手段としての駄洒落である。ここのところを見抜かなくては、本物の世なおしとは呼べない。もてるより、もてない方を選択したあっぱれな駄洒落使いは、処刑の対象から外さなくてはならない。避妊の方法としての駄洒落は、コンドームよりも確実だ。エイズの予防にも有効だ。認可される日も近いだろう。それまでは、がんばらなくてはならない。モモは、自分に言い聞かせる。雑多な駄洒落市場を作るのも良いかもしれない。見せ物としての駄洒落は、決して、人の心を犯したりしないからだ。

【2000年8月8日】


あとがき

 名誉のために書いておくが、例文であげたものをベストだと思っているのではなく、思いつきであげただけである。

 折しもマックシェイク半額のCMで男が「余ったお金でハンガー、喰う?」というのに女が「あなたの駄ジャレに愛する気持ちも半額」という場面があった。

 駄ジャレの嫌いな人には本当に嫌な文章だっただろうと、反省しています。

 レヴィ=ストロースがリーバイスを作ったというのはウソです。同姓の他人です。

 リンゴ・スターがいたからレコード会社のアップルができたというのもウソです。でも、オノ・ヨーコはレノンに会う前に知っていたビートルズのメンバーの名前はリンゴ・スターだけで、日本語のリンゴと同じだったから、というのはホントです。

 それから、森首相が提案しているのは「新生日本」です。

 反省している、と書いたのもウソです。

 でも、駄ジャレは言わないようにするというのはホントです。

 駄ジャレを言わなくなった新生・金川とデートしたい人はメールください(女性限定)。

 と、書いてからずいぶんになる。2人だけ。一人は男性で、もう一人は間違って押したという女性である(慌てて間違いでしたとメールしてきた)。どうやら駄ジャレだけの問題ではない、ということが判明してきた。経験的に言って、僕という人間の内容が知られれば知られるほど、評判は低下する傾向にある。もっと人格を磨いてから書け、という人もいるが、待っていたら千年はかかる。

 どうしたらいいのだろうか?


『トリビアの泉』(2004年1月14日)で放送した日本人が好きな「駄ジャレ」のベスト10は次の通り。

1)電話に出んわ
2)トイレに行っといれ
3)布団が吹っ飛んだ
4)猫が寝ころんだ
5)下手なシャレは止しなしゃれ
6)アルミ缶の上にある蜜柑
7)コーディネートはこーでねえと
8)カレーはかれえ
9)レモンの入れもん
10)内容がないよう(これは『ハムレット』小田島雄志訳にもある)

 おまけに次のようなのも紹介されていた。

コンドルが地面にめりこんどる
冷やし中華を冷やし中か
大地真央を抱いちまおう(大地真央が自分で紹介していた…)


■現代の言葉遊び IN&OUT〜駄ジャレの奥に潜むもの


Back Home   ●アマゾン語学関係図書   please send mail.