辞書に見る富山の名産 2003年4月30日の「とやま夢航海」の「富山文化探検」で「辞書に見る富山の名産」というのをやることにした。4月はホタルイカ漁の真っ最中で、うちの近所の海岸にもホタルイカが産卵のために上がってくる。そのため、そのまま死んでしまうので、「ホタルイカの身投げ」といわれる。
以下の文章はその回の資料。
では、言葉の海へ、出航!
NHK「とやま夢航海」のスタジオのセットに辞書が飾ってある。あるディレクターが格好をつけるだけのために置いてある辞書だ。しかし、これは日本の国語辞典の原型のような辞書なのだ。
この辞書『大言海』は大槻文彦(おおつきふみひこ)が1875年(明治8)に文部省の命令によりつくり始め、ウェブスターのオクタボ版にその構成を倣い、多年の労苦のうえ、1889〜91年(明治22〜24)にようやく完成した辞書なのだ。わが国で最初の近代的な組織の普通語辞書で収録語数3万9103語だった。
特色は次の通りだった。
〔1〕基本語も含めた普通語の辞書であること
〔2〕五十音順で配列したこと
〔3〕近代的な品詞の略号と、古語・訛語(かご)俚語(りご)の印をつけ、活用を示したこと
〔4〕語釈に段階づけをしたこと
〔5〕用例を載せたこと、などがある。
これらは以後の普通語辞書の模範となり、現在目にすることができる『大言海』(冨山房)として増補された。その後作られた辞書には『大言海』をカット&ペーストするものも多かったので、間違いもそのまま踏襲されたことになる。
大槻文彦 20世紀デザイン切手シリーズ第7集(2000年2月23日発行) 大槻文彦(1847年〜1928年)を描いた本に高田宏『言葉の海へ』(岩波書店)という感動的な伝記がある。『平凡社大百科事典』には大槻玄沢、磐渓、如電、文彦の4人も載せていて、日本の名門の生まれなのである。外国でこれだけ載っている家系はハックスレーの一家くらいのものだ(ブリタニカには“Huxley family”という項目がある---バッハの家族もすごいけれど、本当にすごいのは大バッハだけかも…)。
文彦の父は国語学者で儒者大槻磐渓(ばんけい)。磐渓は漢詩文界の老将と目された。著書に『近古史談』『寧静閣詩文集』などなどがある。
文彦の祖父は蘭学者の大槻玄沢(げんたく)で恩師は杉田玄白、前野良沢で『蘭学階梯』などを書いた人だ。玄白と良沢の関係は吉村昭『冬の鷹』に描かれているとおりだが、江戸で蘭学塾・芝蘭堂(しらんどう)を開き蘭学の興隆に努めているのは誰でも知っている(しらんどう)。「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば,遂げずばやまじ、の精神なかるべからず」という遺戒を残した(畳語的表現?)。
文彦は磐渓の三男として江戸に生まれた。開成所、仙台藩養賢堂、三叉(さんしゃ)学舎などに学んだ。1872年(明治5)文部省八等出仕、英和辞書の編集にあたり、その後宮城師範学校校長、文部省御用掛などを歴任し、そのほか国語調査委員会委員などをも務めた。91年刊行完成の『言海』が代表作。
『新撰日本洋学年表』の著者で考証家の大槻如電(「じょでん」という辞書が多いが、平凡社大百科事典などには「にょでん」)は兄になる。
文彦の辞書編纂は幕末に結ばれた不平等条約によって象徴された時代が求めるものだった。明治政府が出発しても外国からは一人前の国家としては認められないという葛藤があり、国家のアイデンティティである「国語」を制度化しようとして作られた辞書なのである。
そして、日本初の近代的な国語辞典『言海』が世に出た。『言海』の編纂に着手したときに28歳の青年だった彼は、すでに45歳になっていた。その間、結婚し子供も生まれたが、次女を結核性脳膜炎で、さらに妻を腸チフスで亡くす。また、貴重な助っ人であった校正者をも脳充血で失っている。『言海』の刊行の陰にはそういう犠牲があったことも決して忘れてはならない。祖父の遺訓「遂げずばやまじ」を胸に前人未踏の事業を成し遂げた。文彦自身も稿半ばで亡くなり、遺稿を兄の如電が引き継いだ。だからこそ、彼はこう述懐するのである。
世の操觚の人は、史文に、綺語に、とかく、花も實もありて、聲聞利益を博せむ方にのみ就くに、おのれは、かかる至難にして人後につき名も利も得らるまじきうもれ木わざに半生をうづみつるは、迂闊なる境涯なりけり。されど、この業、文學の上に、誰か必用ならずとせむ。必用なる業なれど人は棄てて就かず。おのれは人の棄てつる業に殉ぜり。いささか本分に酬ゆるところありともせむかし。
『大言海』が当時、どのように受け止められたかは武藤康史「国語辞典の利用者の系譜」(『近代日本文化論3 ハイカルチャー』岩波書店所収)に詳しく、漱石の『明暗』にも出てくることが語られている。
なお、大槻文彦にも「新解さん」と同様のこだわりがあった。有名なものの一つに、「〜的」というのが嫌いで認めなかった。だから高田宏は大槻文彦の感動的な伝記『言葉の海へ』を書いた時に、「〜的」という言葉を一つも使わなかった(ぼく的にはつい、使ってしまう)。
そうそう、COD第2版の序文には次のような言葉が載っている。「泳ぎ方を教わらずに辞書編修の海に飛び込んだ」のだった。
When we began more than twenty years ago, the work that took shape as The Concise Oxford Dictionary, we were plunging into the sea of lexicography without having been first taught to swim.
猫
これは、「言海」の猫の説明である。
「ねこ、(中略)人家ニ畜フ小サキ獣。人ノ知ル所ナリ。温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ。然レドモ窃盗ノ性アリ。形虎ニ似テ二尺ニ足ラズ。(下略)」
成程猫は膳の上の刺身を盗んだりするのに違ひはない。が、これをしも「窃盗ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫の性あり、蝶は浮浪の性あり、鮫は殺人の性ありと云つても差支へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者大槻文彦先生は少くとも鳥獣魚貝に対する誹毀の性を具へた老学者である。
『芥川龍之介全集第10巻』〔岩波書店1996 p.288)
なお、『言海』の「猫」には上の記述があったのだが、大槻は大作家に遠慮して『大言海』で抜いてしまった。また、芥川も『梅・馬・鶯』という随筆集に「澄江堂雑記」を再録する際に、当時まだ健在だった大槻文彦に多少遠慮したのか、この「猫」の一編を除いたという【2004年発行の松井栄一『「のっぺら坊」と「てるてる坊主」』小学館の中に、この問題を扱った講演が載っている。『芥川龍之介未定稿集』岩波書店にある「辞書を読む」という文を読むと芥川は『言海』が好きだったことがよく分かるという】。どの辞書にも編者の気持ちが出てくるものだが、最初の本格派の国語辞書としての『大言海』にもそんな記述が多い。
人が守るべき五つの徳目を五徳というが、儒教では「温・良・恭・倹・譲」、兵家では「知・信・仁・勇・厳」が知られている。南方熊楠の『十二支考』(岩波文庫)によれば、猫には猫の五徳があるようで、よく盗むは「智」なり。鼠を見て捕らざるは「仁」なり。客人に食膳(ぜん)を設けるや、姿を現すは「礼」なり…、その後「信」「義」と続き、猫の五徳が並んでいる。つまり、猫にとって魚を捕っていくのは「智」だから許してあげるべき、という論理になる。
蛇足だが、フローベールは『紋切型辞典』で「猫は陰険な動物である。“客間の虎”の異名あり。眩暈病を予防するには尻尾を切るとよい」ときわめて乱暴なことを書いている。
この20年後くらいに、アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』で「家庭内で事がうまく行かなくなった場合に蹴飛ばすために自然が用意してくれた、柔らかくて、けっして壊れることのない自動人形」と書いている。
別役実の『当世悪魔の辞典』には「なんの役にも立たず、なんの芸もせず、食用にも適していないにもかかわらず、人間から、食べ物と住まいと、献身的な世話を提供させることに成功した唯一の動物」と述べている。
こうして猫は嘲笑の対象になっていたが、猫の生活態度を観察すると、そんなことはお構いなしのようだ。
□ 『大言海』の語源の説は笑えるものも多い。「猫」は「寝子」としたり、「鼠」を「根棲」と考えたり、必ずしも根拠がなかったりした。有名なものの一つに「お転婆」がある(「お転婆娘」といっても分からない娘が増えた)。
オテンバ(名)於轉婆 〔蘭語、ontaambaar〕女ノ、デスギタルモノ。タシナミナキ女。アバズレモノ。オキャン。輕佻女 不羞女 てんばノ條ヲ見ヨ。
しかし、これは“ontaambaar”(“ontembaar”とすべき)とスペリングも間違っているし、『日本国語大辞典第2版』にわざわざ次のような記述があるように、信じがたいのである。
[語誌]江戸時代以降用いられているが、語源には諸説あり、定説をみない。その中で、「大言海」はオランダ語ontembaarから「おてんば」が生まれたとする(語源説(3))。しかし、同様の意味を表し得る「てんば」が既に近世前期にあるので、「てんば」を先行する語とみる方が自然であろう。ただし、「てんば」は「おてんば」より広い意味を持ち、「しくじること」「親不孝で従順でないこと」などの意で、男女を問わず用いられ、現在でも西日本の各地にそれらが残っている。したがって、「てんば」に接頭語「お」を加えることによって「おてんば」になったと、単純にとらえることもできない。この点については、上方で用いられていた「てんば」が江戸語として使用されるに際し、オランダ語ontembaarが何らかの形で作用し、新語形「おてんば」を生じると同時に、意味の特定がなされたとの説もある。
この辺が『大言海』の大限界なのだ。
さて、『大言海』に出てくる富山の名産とは何だろう。
「ひみいわし」(名)氷見鰯 魚ノ名。越中の海上ニ産ジ、同國、射水郡、氷見港ヲ最とスレバ名トス。鰯ニ似テ大キク、乾シテ遠キニ送ル。味、甚ダ美ナリ。
氷見鰯といっても特に種類が違う訳ではない。たまたま大槻家の人々が知っていておいしかったからではないかと思う。実は、『広辞苑』や『大辞林』に「氷見鰯」(ひみいわし)というのが載っていて驚いたのだが、これは『大言海』に出てきていたからだ。
「くろづくり」(名)黒作 [つくりハ、つくりみノ意カ、黒ハ、黒韲(クロアヘ)ノ意]烏賊ノ肉ヲ、細カニ刻ミ、烏賊ノ墨ニテ漬ケタル鹽辛。越中、富山ノ産、名アリ。
「鹽」は「塩」の旧字。なお、寛文年間(1661〜73)冬期の保存食として作られはじめ、元禄時代(1688〜1704)に「イカの黒作り」の名がつけられたという。前田家では参勤交代の際、将軍家への献上品の一つとした。
「ほたるいか」(名)螢烏賊 烏賊の類。越中國、富山、魚津、滑川(ナメリカハ)ニ多シ。形、常ノ烏賊ノ如ク、長サ一寸許リ。全身ニ発光器ヲ有シテ、燐光ヲ放ツ。殊ニ卵ヲ持テル雌ハ、全身ヨリ強烈ナル光ヲ發ス。捕リテ食料トシ、又、肥料トモス。近年、學者ノ唱道ニテ、安房國ノ沖ニモアレド、時ト場所ト一定セズト。一名、マツイカ。
「安房」というのは今の千葉県であるが、今は捕れないはずだ。
他のどの国語辞典にも「鱒の寿司」が出ていないのは不思議なのだが、『大言海』に出ていないからだと考えられる。「鱒の寿司」が駅弁として初めて登場したのは1912年(明治45年)で大槻文彦には「氷見鰯」ほどなじみがなかったのだろう。
さて、ホタルイカは日本の辞書だけではなく、『ウェブスター』にも載っている。ちなみに、ホタルイカは必ずしも富山だけでなく、ペルシャ湾などでも採れることが分かっている。
a brilliantly luminescent squid (Watseonia scintillans) caught in great quantities off the western coast of Japan where it is used for fertilizer
このようにウェブスターには何でも載っている。“bancha”だって載っている。漱石の『吾輩は猫である』の苦沙弥先生は“Savage tea”というあだ名が付いてしまうのだが、その理由が以下の通りなのだ。
生徒から先生番茶は英語で何と云いますと聞かれて、番茶は Savage tea であると真面目に答えたんで、教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかのものの、迷惑になって困りますと云ったが、大方(おおかた)あいつの事だぜ」「あいつに極(きま)っていまさあ、そんな事を云いそうな面構(つらがま)えですよ、いやに髭(ひげ)なんか生(は)やして」「怪(け)しからん奴だ」髭を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがない。これは、漱石自身の苦い記憶の反映でもあったかもしれない。英語を教えていると、何でもいえるものだと思って、学生たちはいろいろなことを聞いてくる。だから、僕には決して苦沙弥先生を笑えない。漱石は日本の英学者には珍しく翻訳の著作を残さなかったが、英語教師としてはあまりいい思い出がないのかもしれない。芥川龍之介も同じように海軍機関学校で英語を教えていて、様々な思いをしたことを、いわゆる「(堀川)保吉もの」と呼ばれるシリーズにしている。
で、NHKの番組のオチはどうなったかというと、次のとおり。言えたかどうか読者のご判断にお任せします。
「このホタルイカというのは地元では子どもが生まれると男かどうか確かめるために『ちゃんとマツイカついとっけ?』という会話になるのだが、これってNHKじゃマツイカ!?