金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)

チョムスキーなんか怖くない(はず)

チョムスキー

Sentence structure is innate but whining is acquired.
―Woody Allen, Remembering Needleman, 1976
(文の構造は生得的だが、ぐずり泣きは後天的)

「素直な疑問符」 吉野弘

小鳥に声をかけてみた
小鳥は不思議そうに首をかしげた。
            
わからないから
わからないと
素直にかしげた                
あれは
自然な、首のひねり
てらわない美しい疑問符のかたち。

時に
風の如く
耳もとで鳴る
意味不明な訪れに
私もまた
素直にかしぐ、小鳥の首でありたい。


 「生成文法に対するお考えを今度ぜひ、エッセイにしてください。金川さんの切れ目のない文体は慣れると癖になります」というリクエストがあったので恐る恐る書いてみる。「お考え」というものはないのだけれど、感想くらいは書けるだろうと思って書いてみた。

 最近のチョムスキーの理論はまるで知らないし、僕の知識はかなり古いと思うが、彼が何を考えているのか、紹介してみたい。自慢ではないが、僕の下宿にはチョンスケという猫がいたからチョンスケの専門家なのである。

 生成文法は怖い、というイメージがあるが、上のおじさんの顔を見ると怖くないでしょ。

 今の学問的発展は少し無理があるように思うのだが、チョムスキーの理論は言語学を志すものには無視できないものだ。

 専門家ではないので(と、いつも書いているが…)、そのうち、専門の人からの批判もあって書き換えるかもしれないが、基本的なことは間違っていないつもりである。少なくとも田中克彦『チョムスキー』(岩波書店)みたいに誤解はしていないはずだ。

 統語論の細かい部分は太田朗・梶田優『統語論2』(大修館)などの理論書を読んでもらうしかないが、ここでは基本的な考えを押さえようと思う。初心者に便利なのは、ちょっと古いが『チョムスキー小辞典』(大修館)がいいかもしれない。他にも入門書があるはずなのだが、今更、入門書を読む気にもならないし、お金ももったいない、ということでこんな感想文にした。

 専門家に笑われたらどうするかって…?

 その場合は、そのままそちらにリンクして、読んでもらうことにします。

 どうしてチョムスキーが難しいか?

 これは難しい理論だからである。と同時に当初から理論がずいぶんと変化してきた。数々の論争を論破して、チョムスキーは中心で踏ん張ってきた。だが、論争を論破するたびに複雑になってきたことは確かだ。Xバー理論や統率・束縛理論あたりから超むずかしくなってきた。帰依しない限り、分からないのではないかと素人には思える。

 また、数学や心理学や科学哲学や論理記号学など多くの学問に影響を受け、逆に与えた。これはたこ壷のように研究している日本人には、ササラの根元というか全体像が見えなくなっていることもある。チョムスキーの統語論が分かっても哲学まで分かることにはならない。

 そうそう、物見遊山でチョムスキーの2度目の来日講演を聴いたことがある(最初はほとんどの人が知らない1966年だった----東京言語研究所の招きで西江雅之先生が仲介した)。僕はジャック・デリダの講演を聴いただけで、現代思想が分かったと思うような人間なので、ここでも分かったつもり?で書いてみる。

 言語学に興味がない人はMIT(マサチューセッツ工科大学)に言語学のメッカがあるなんてことも驚きだろうと思う。そうした全く何も知らない人にでも、分かるように簡単に書き出してみたメモのようなものである。ただの馬鹿な自慢だけれど、アメリカの大学の言語学科のホームページで僕のホームページがチョムスキーのと並べて掲載されていたことがあったのだ。

 まあ、この解説は「変形文法」ではなく、「偏見文法」だと笑われそうだが…。


 僕が言語に疑問を持ったのには色々な原因がある(「余は如何にして言語学徒となりし乎」に書いてあります)が、なかでも中学校で国文法を教わった時の衝撃が大きい。

 それまで何気なく喋っていた日本語に動詞や形容詞や形容動詞、終助詞に格助詞などさまざまな品詞があって、きれいに(実際はそうではなかったが)整理されていることに驚いた。

 と同時に、では、僕らはそんな文法を知らずにどうして話すことができるのだろうか、と思った。文法は僕にはとても面白い授業だったが、まるで分からない同級生がいた。それでも、ちゃんと日本語を話していた。

 別に文法を学ばなくても言葉は話せるのだ。

 とはいえ、英語は文法を学ばずに何一つ理解できる訳ではない。

 このギャップをどう説明すればいいのだろう?

 その前に、「文法」には2種類あることに注意してもらいたい。学生時代、「生成文法をやっている」というと「高校で習った文法を今更何だ」という人がいたが、これは「教室の文法」と「研究室の文法」の違いが分かっていないからだ。教室で教える文法は規範文法(prescriptive grammar)といい、言葉のあるべき姿を教える。研究室の文法というのは記述文法(descriptive grammar)と呼ばれたもので、言葉のあるがままの姿を研究するものだ。中学で教わった国文法や高校の英文法というのは規範であって、あるがままを教えようとしたのではない。高校生までは規範文法が重要である。言語学は規範を教えるものではない。

 これを間違う人がいる。例えば、渡部昇一という英文法家は『英文法を知っていますか』(文春新書)でアメリカ構造主義言語学者や生成文法学者を批判して「規範文法しか役に立つ文法はない」などと書いている。それは当たり前のことで、研究というのはそこから先のことなのだ。あるがままの姿をいかに記述するかということが、言語学の役割なのだ。

 さて、チョムスキー(Noam Chomsky)は人間というものが生得的(innate)に言語を扱う能力を持っていると考えた(ここではイルカの言語などは考えない)。当たり前のようだが、昔は言語は「本能」に逆らうものだと考えられていた。それをチョムスキーは「本能」だというのだ。チョムスキーはそれまでの言語学の主流だったブルームフィールドの行動主義的な傾向を批判しているが、行動主義の考え方では行動は経験から生まれるということになるからだ。行動主義心理学のワトソンは「1ダースの健康な赤ん坊を与えてくれれば、医者や芸術家、泥棒など、どのようにも育ててみせよう」と豪語していた。 

 コンラート・ローレンツやニコ・ティンバーゲンの明らかにした動物行動学(ethology)はチョムスキーと同じように、ハイイロガンやコクマルガラスやイトヨなどの行動は生得的だと考えている。既に埋め込まれた行動が、解発(release)されると考えるのである。

 もちろん、猿にも文法家がいた。オクタビオ・パスが『大いなる文法家の猿』という本を出している。この本の引用によれば、インドの古典『ラーマーヤナ』には次のように記されているという。

「猿の頭は円満具足にして、聖典(サーストラ)に通暁し、その修学研鑽と正確無比な解釈(あるいは意のままに動き廻ること)にかけては、彼の右に出る者はない。ハヌマーンは文法学の九人目の執筆しであったことでもよく知られている」(ジョン・ドーソン・M・R・A・S『古典インド神話学辞典』)

 ここで、チョムスキーは人間が自然言語を生得的にもっていることを具体的に示すために「生成文法」(generative grammar)という形で考えた。有限の規則で無限の文を作る言語能力(competence⇔言語運用performance)を考えることにした。ここで書いている文は僕自身初めて書いたものだが、初めて読んだ読者も容易に理解できる。言われてみれば当たり前のことなのだが、チョムスキーはこれを解明しようと考えた。それまでの言語学は言語資料(コーパス)を集めて分析していけば言語は解明できると考えていた。これを帰納法(induction)というが、これに対してチョムスキーはまず説明するためのモデルを考えて、それと言語資料とすりあわせをして考えていこうと演繹法(deduction)で考えた。

 当たり前のことのように見えるが、それまでの言語学は「経験科学」と呼ばれ、既にある資料から考えるものであって、実験を伴うような自然科学とは考えられていなかった。もちろん、今では逆にコーパス(言語資料)を利用することも多くなったが、コンピューターのない時代に集めて分析できる資料なんてあまり価値がなかった。イギリス古典経験論の創始者のフランシス・ベーコンは『新オルガノン』で「科学とは観察や実験から得られた知から、より一般的な法則を導く学問である」と書いているが、言語資料をどれだけ集めても、一般的な法則を見つけることは難しかった。

 そこで、チョムスキーは「デカルト派言語学」(Cartesian Linguistics)を標榜する。つまり、経験論ではなく合理論に則った言語学を展開するという意思表示である。ギリシャの哲学者の言語への興味は語源などが多かったが、中世のスコラ哲学を経て、17世紀にはパリ郊外に創設された尼僧院ポール・ロワイヤルを中心に形成された僧院共同体で、修学士たちが言語の問題をとりあげ、文法理論を作った。これが『ポール・ロワイヤル文法』と呼ばれるものだが、言語には共通性があり、人間の思考にも普遍性があるはずだ、と考えた。

 デカルトが言語に関してどれだけ言及しているか知らないが、次のようなことを書いている。

カササギに、もしその女主人が現れたらこんにちはと言うように教えてアトしても、それはただ、その言葉を発することがカササギの情念のどれかひとつの動きを表すようにしているということでしかありえません。つまりそれは、たとえばその言葉を言うと何かおやつが与えるようにしてしつけた場合には、食べるものを手に入れられるだろうという希望を表す運動になっているわけです。そして、同じように犬や馬や猿たちをしつけてやらせるようにすることは、どれもこれも、彼らの恐れだとか、希望だとか、喜びだとかの動きを表しているにすぎないのです。つまり、彼らがまったく思考を持っていなくてもできることなのです。
   ---ニューカッスル公爵宛1646年11月23日付けの手紙(ロベール・マッジョーリ『哲学者たちの動物園』白水社・國分俊宏訳から)

 この流れにデカルトがいて、チョムスキーがいる。チョムスキーがデカルトを出した、というのはアメリカの中では特異だった。というのも、それまでの構造主義言語学者は新しい理論だけが正しいと考えていて、ヨーロッパの伝統を顧みなかった。チョムスキーは心理的な言語学を標榜するにあたって、ポール・ロワイヤル文法、ヘルダー、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトなどの伝統を復活させた。

 科学者には「コト派」と「スジ派」がいる。前者は一次データを採るのが得意で、後者はこれを料理して面白い話に作り上げるのが得意だ。目の前にあるもので料理をする人と、こんな料理を作りたいと思って素材を集める人といってもいいかもしれない。もちろん、チョムスキーは後者なのである。

 文科系の学者からはチョムスキーの理科系の方法論には不満があるかもしれない。ビールを飲むとすぐに小便になるからといって、面倒になってトイレにそのままビールを流し込むようなものだというかもしれない。味わいがない、という見当はずれのことをいうかもしれない。

 自然科学的な手法を大いに取りあげた点もチョムスキーの貢献である。例えば、作家の文章を全部集めて「ノボル」と「アガル」の意味を考えることもできるが、「*二階にノボル」「*山の頂上にアガル」などという文を使って、話者の言語直観(linguistic intuition)から文法を研究することを可能にした。理科系のような「実験」が可能になったのである。

 なお、「変形文法」(transformational grammar)という言い方もあるが、これはチョムスキーの理論が変形を伴うものだったので指すのであって、(可能ならば)非変形の生成文法もありうることになる。変形といっても、言葉を駄洒落で変形することではない。

 例えばソシュールはアナロジー(類推)で文法が説明できると考えていたが、文法現象の複雑さはとてもアナロジーでは説明できない。例えば、子どもに『スター・ウォーズ』のジャバ・ザ・ハットの人形を見せて、"Ask Jabba if the boy who is unhappy is watching Mickey Mouse." (つまんないなと思っている男の子がミッキーマウスを見ているのかどうか、ジャバに聞いてごらん)と尋ねるという実験で、子どもたちは"Is the boy who is unhappy watching Mickey Mouse?" と文法的な文を作り、決して"Is the boy who unhappy is watching Mickey Mouse?"という非文を作らなかった。the-boy-who-is-unhappy というのをひとまとまりの句として考えていたのである。これはアナロジーでは説明ができない。

 ところが、未だにソシュール止まりという人も多くて、例えば、森有正は『遙かなるノートルダム』(筑摩書房)の中で「経験の積み重ねが文法となったのである。日本人にはその経験がない」とまで書いている!

 チョムスキー以前の学者、例えば、ブルームフィールドなどは言語をS→R反応(刺激→反応)という、当時の行動主義心理学の考えで説明しようとしていた。しかし、人間の反応は当たり前だが、一応ではない。オウムだってある程度、状況に合った言葉を話すことがあるが、無限に話せる訳ではない。

 ただ、先日、話せるハトと公園で出会ってしまった。面白いのでパーティにおいでと招待したのはいいけれど、なかなか来なくて焦ってしまった。終わり頃にベルがなって玄関に行ったらハトが待ってて「いい天気で、月がとってもきれいだったから歩いてきた」と言い訳した。

  また、昔は有限マルコフ過程という方式で人間の言語を解明できると考えていたのだ。

 これらのモデルでは自然言語(人間の言語)の創造性をうまく説明できない。これはチョムスキーの“Syntactic Structures”(1957『文法の構造』研究社---いい訳とはいえない)を読んでもらえばいい。言語学の研究課題として次の4つの問いを提起した。

(1)言語(文法)は人間の心の中に,どの様な形で記憶されているのか。
(2)言語能力はどのようにして獲得されるのか。(「プラトンの問題」)
(3)言語能力はどのようにして使用されるのか。(「デカルトの問題」)
(4)言語処理を行っている人間の脳内部の仕組みはどのようになっているのか。

 「プラトンの課題」というのはチョムスキーが1986年の『障壁』(Barriers) の中で述べた「人間は経験できることが非常に限られているのに、なぜ経験したこと以上のことを知ることができるのだろうか」という言語の問題である。子どもはわずかな期間で母語をほぼ完全に獲得するようになるが、その間に受ける環境的・言語的刺激は限られたものである。この「刺激の貧困」(poverty of stimulus)という制約があるにもかかわらず、創造的で豊かな内容を持つ言語知識を獲得できるのはなぜかということである。少しの見本と誤りも含む見本に接しながらも、こんなにも効率よく「正しい」言葉を習得できるというのは脳にもともと言語能力があり、基本的設計図もあると考えるしかないのである。いわゆる「言語能力生得説」である。 これについては野村泰幸『プラトンと考えることばの獲得〜成長する文法・計算する言語器官〜』(くろしお出版)を読んでもらいたい。

 これらの課題を研究して行くために、次のような4つの作業仮説を設け、「言語学」は論理的、心理学的、さらには脳科学的な研究側面を持つことになって「認知科学」を生み出した。

(A)人間の脳内には,言語に関する知識を記憶し、またそれらを結合して言語表現(音声、文字列)と意味表現を作り出す計算システムが存在する。
(B)脳内の言語機能は、離散無限を扱うという点で、他の認知システム(一般にアナログデータを扱う)とは際立った違いがあり、言語に関する計算メカニズムは他の認知システムから独立したモジュールを成す。
(C)この計算メカニズムは、経験データだけからは決定できない生得的な機能を含む。
(D)言語機能は「人間」という生物種だけに存在する固有の機能である。

 有限の規則で無限の文を創造する能力を説明するためには生成文法で、変形文法というものが必要だったのである。例えば、次の二つは同じ表層構造を持っていて、ブルームフィールドの方法では区別しにくかった。*は非文。

John is eager to please.←*It is eager to please John.

John is easy to please.←It is easy to please John.

 また、次の文は「訪れた親戚はつまらない」と「親戚を訪れるのはつまらない」と両義的(ambiguous)だが、表面的な分析だけだと区別をつけることができない。

Visiting relatives can be boring.

Flying planes can be dangerous.

 そのために深層構造を持ち出さなければならなかった。

 かのガリバー旅行記の第3編は天空の城ラピュタの話である。ラピュタの支配下にあるラガード大研究院で知識製造機が作られる。簡単にいえば、言葉をランダムに組み合わせることで次から次へと文章を生み出す機械である。実験を主導する教授はこれを駆使してあらゆる知識を総合する完璧な百科全書を作ろうとしている。ランダムに組み合わせただけで知識は生まれない。狂人的な文を生むだけである。チョムスキー自身もこれに気付いていて、“Colorless green ideas sleep furiously.”(無色の緑の考えが怒って眠っている)という文は文法的だけれど、逸脱しているというように考えていたはずだ。

 これを続けていけば、レアリアをどのように理解するかという認識の問題にまで発展すると思う。

 ところで、有限の規則で無限の文を作る能力が人間にあるとしたら、どういう形でどこにあるのだろうか?

 具体的にはまだまだ解明できていない(と思う)。脳科学や分子生物学の発達で、これらがいつか統合される日が来ると思うが…。

 チョムスキーのモデルは「原理とパラメータのアプローチ」(Principles and Parameters Approach)と呼ばれ、言語能力はモジュールとして埋め込まれていることになる。原理というのはヒトが持っている普遍的な文法であり、パラメータ値というのは個々の言語によって変化しうる可変部である。子どもは誕生後にその値を周囲の状況に合わせて設定するのである。言語を操る能力はヒトに特有なものであり、他の認知行為からは独立したモジュール(構成単位)を形成している。したがって、他の生物にはない、ヒトに固有な言語をつかさどる脳の特徴が必ず存在するはずである。

 これをパソコンに喩えていえば、言語能力を人間が持っているということは脳の中にハードウェアがあって、そこにソフトウェアがあることになる。

 スティーブン・ピンカー『心の仕組み』(NHK出版)に詳しい【ただし、邦訳は作家のアーサー・ケストラーが「ライター」になっていたり、「ウォーリーを探せ」が「ウォルドーを探せ」になっていたり、で“変形文法”になっている】が、彼の考えの一つは、心の仕組みを計算機としてみる「心の計算理論」である。なぜモジュール型なのかと考えると、心を働かせるコンピュータ、つまり人間が進化の産物であり、進化的適応の結果心が生れたからだと思われるというのが第2の主張である。第1は認知科学、第2は進化心理学と呼ばれる分野の問題である。

 進化についてチョムスキーはカタツムリがゆっくりと動くように徐々に言語能力が生まれてきたとは考えず、ある日突然生まれたと考えている。進化論の異端児グールドも同じ考えで、「我々の脳は言語を保つために作られた、だから我々には言語があるのだ」という主張は「我々の鼻は眼鏡を支えるために作られた、だから眼鏡というものがあるのだ」と考えるのに等しい、と批判している。

 従来の心理学が、知能はIQ、知覚は刺激というように、心のはたらきに直接は迫らずに心への入力と出力だけを見ていたのに対し、「心の計算理論」は、なんとか心そのものを知ろうとして、心が扱うシンボル(心的表象)とそれにアクセスするプロセスが課題だと考えている。

 この見方で脳を調べた結果、脳が扱う表象に4種類あることが分かる。視覚イメージ(モザイク画のようなもの)、音韻表象(電話をかける時、調べた番号が頭の中で鳴っている例)、文法的表象(単語や句と節が階層を作っている)、心的言語(目で見たものを模写したり、思い出したりする時にさまざまなモジュール間での情報をやりとりするための言語)である。このように分かれていれば、組合せで無限の思考を生み出せるし、「難しい」「似ている」など日常の心の動きもこれで考えられるという。

 ミトコンドリア・イブ仮説というのがあるが、これは人類はおよそ15万年前のアフリカのある女性から生まれてきたと考えるものである。ミトコンドリア・イブの遺伝子にはサルたちとは全く別の遺伝子が組み込まれていたと考えられるのである。

 ただ、類人猿の言語の研究が進んできて、ボノボのカンジチンパンジーのアイちゃんを筆頭として類人猿にもかなりの「言語能力」があることが分かってきた。人間独自の能力と考えるには無理がある(これに関しては藤永保『ことばはどこで育つか』大修館が詳しく扱っているので書かない)。例えば、カンジは“Put the key in the refrigerator.”という文を理解する。普通は冷蔵庫にキーを入れるということはないから、別の類推でないことが分かる。“The dog bite(s) the snake.”“The snake bite(s) the dog.”もちゃんと主語と述語を理解して、ぬいぐるみで動作をする。

 ハードウェアは遺伝子のようなモジュールのようにあって互いに関連しているということになるが、これは認識言語学というか医学的な問題になっていく。最近の脳科学の発展はものすごいものがあるから、解明が楽しみである。例えば、2002年に東大の酒井邦嘉らは文法を扱う部位を発見している。16人の男子大学生に主語と述語が入り組んだ文章に登場する「彼」が誰を指すかなどを尋ねる文法判断テストと、文章の単語を並べ替えて覚えさせる記憶テストの両方をMRIを使ってどの部位が働くか調べた。その結果、文法判断には左こめかみの近くにあるブローカ野の一部が活発になり、単語記憶ではそれより後ろ側の部位が働くことが分かった。つまり、単語の記憶と文法は違う部位で扱うことが分かり、文法の部位を特定したのだ。

 酒井邦嘉は『言語の脳科学』(中公新書)でチョムスキー理論と脳科学との接点を見事に描いているので、チョムスキーに批判的な人も、是非読んでほしい。

 なお、2005年に酒井は文法を使って考える時と、文章や単語を理解する時、アクセント(音韻)を聞き分ける時は、それぞれ脳の異なる部分が働くことを突き止め、脳の「言語地図」を作った。脳で言語をつかさどる領域は「言語野」と呼ばれ、ふつう左脳の大脳皮質にあるが、どの部分がどのように働くかは、よくわかっていなかった。酒井助教授らは、日本人の成人延べ約70人に対し、文法知識や文章のつながり、単語やアクセントの正否などを問う問題を出し、脳のどの部位が活発になるかを機能的磁気共鳴画像(fMRI)装置などを用いて調べた。その結果、例えば文法を考える時は前頭葉の下部、アクセントの聞き取りでは側頭葉上部が活発に働き、地図にすると、文法・文章・単語・アクセントの四つの中枢部分はほとんど重ならないこともわかった。

 モジュールだとすると、これを脳に埋め込めば(善悪は別にして)、どんな人でも話せるようになる、という考え方も出てくる。ドラえもんの「ほんやくコンニャク」がそのまま実現する可能性もあるのだ。

 なお、精神分析の岸田秀は人間は言語を獲得することによって本能を壊した、というがチンパンジーなども本能ではセックスができないし、育児もできない。言語も獲得する能力はあるが、みんなが本能のように使っている訳ではない。だから、チョムスキーの人間の言語の生得性というものを単純に信じることはできない。

 ソフトはどうか?

 パソコンのソフトにOS(Operating System)とアプリケーションソフトがあるように言語にもOSとアプリケーションがある。

 チョムスキーは人類には共通のOSがあると考えているがこれが「原理」に当たる。これは各言語に共通で普遍的なものだと考えている。だから人類は誰でも言語を習得できることになる。そして個別言語の文法を考えると普遍文法を研究できると考えている。

 普遍文法はそれだけでは意味がないが、これに一次資料の言語(概ね母語と考えていい)に触れると自動的に個別文法が生まれてくる。これが「パラメータ」なのである。

 普遍文法にはそうした文法を生み出す能力があると考えている(考えなければ説明できない)。ここがパソコンのアプリケーションとは違う部分である。

 この能力は十歳前半(「臨界期」critical period)でなくなってしまう。その間に「バイアス」と呼ばれる様々な手段を使って効率よく言語を習得していくことになる。例えば、リンゴとミカンがあって、今までリンゴしか知らなかった子が「ミカン」と言われると、自動的に知らなかったモノが新しい言葉のモノに相違ない、と考える。また、自分の前にあるものがバナナで、話者の前にあるものがメロンだとして、話者が「メロン」と言った場合には、その新しい言葉は目の前にあるモノではなく、話者の前に「メロン」だと自動的に考える。これらの「バイアス」を上手に使って子どもは言語を習得して行くのである。

 この頃までは小さい頃の細かな事実をよく覚えているものだが、その後はすっかり忘れてしまう。言語能力と無関係ではないだろう。

 チョムスキーの文法論には変形やXバーという武器がある。これらで説明するのだが、実際に脳の中でそのまま同じ規則で同じような処理が行われているという訳ではない。英語以外の言語に応用できるかどうかも怪しい。

 ある仕事をするためのソフトのプログラムには様々な手法があるが、色々なプログラミングがあるだけでは説明できないので、チョムスキーは簡潔性(simplicity)という基準を出している。これは哲学でいう「オッカムの剃刀」(節減則ともいう/グレゴリー・ベイトソンも『精神と自然』でこれを問題にしている)と同じで、現象をとらえる時には「同じような理論で、難しいのと簡単なのがあった場合、難しい方が有効である証拠が見つかるまで、簡単なほうを使うべきである」 とか「物事を分析・考案するときは、それぞれの要素が本当に必要かどうか吟味を尽くすこと」とか「不必要に物事を増やしてはならない」ということだ。例えば、石が落ちるという現象を見つけても、明日も同じように落ちるとか限らない。明日は上に、明後日は左に落ちるという理論が出てくる可能性もある。しかし、上に落ちたり左に行ったする証拠が見つかるまで、複雑なほうの理論を剃刀で切り取ってしまう。

…ニュートンが、気からおちるリンゴを見て「わかったぞ! リンゴは上にひっぱろうとする小悪魔グレムリンと、下にひっぱろうとする巨人トロールの綱引きにまきこまれていたんだけど、トロールのほうが強かったんだ!」とさけんだと考えてみよう。オッカムは、つぎのようにいい返したにちがいない。「いいかい、アイザック。きみの理論は観察できる事実をすべて説明するけど、問題があることに注意しろよ――単純さを維持するって問題があることをさ」
     -----カスカート&クライン『プラトンとかものはし、バーに寄り道』(ランダムハウス講談社)

 ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の主人公はオッカムの同僚という役回りになっていて、オッカムのように「よいか、アドソ、どうしても必要なとき以外には、説明の数や原因の数は増やしてはならない」と語る(p.151)。映画『コンタクト』にもこの言葉が出てくる(“slasher”というのは「切り裂き魔」)。

Ellie Arroway: Occam's razor. You ever heard of it?
Palmer Joss
: Hack-em's Razor. Sounds like some slasher movie.

 そして、エリー(ジョディ・フォスター)は「現象が同じなら単純な説明の方が常に正しい」という。アインシュタインも“Everything should be made as simple as possible" (万事は可能な限り単純化されるべきだ)と言っているが、その後、こう続けているのである。“but not simpler” (それを超えて単純化してはならない)。

 チョムスキーもこれだけ切れる剃刀をもっていながら、痕跡理論あたりから複雑に説明をするようになってしまったように思える。

 いずれにしろ、より簡潔なプログラミングができれば、それに類似した作用が脳内で行われていると考えている(らしい)。

 なお、チョムスキー自身もその文法を言語運用モデルと解釈してはいけないと述べているし、生成文法は翻訳理論にも何の役にも立たないと言っている。生成文法のモデルで翻訳理論が成功したというのは寡聞にして知らない。一つの理由は普遍的なものを求めている割には英語に依拠しすぎていることが考えられる。

 機械翻訳には“pivot”方式と“transfer”方式という二つの方法が考えられるが、前者は全くの普遍的な中間言語を考えて、そこから個々の言語に翻訳するというものであり、後者は個々の言語の間の翻訳を考えるものである。ちょっと考えてみれば分かるように英語と中国語、日本語と韓国語を翻訳するのに中間言語を考えない方が楽だろう。チョムスキーのモデルは英語を中心としたものであるが、それを“pivot”として日本語と韓国語に翻訳していくというのは規則の簡潔性を無視した議論になるような気がする。

 もし、言語が生得的だというのなら、放っておいても子どもは言語を身につけるのだろうか?

 これを知りたいというのは昔からの人間の願望の一つだ。

 歴史家ヘロドトスによると、紀元前7世紀のエジプト王プサメティコス一世は、生まれたばかりの2人の赤子を羊の群といっしょにし、一言も言葉を掛けないようにして育て、赤子がどの言語を初めて話すようになるかを調べるように命じたとされている。赤子が最初に発した単語は bekosで、紀元前7・8世紀の小アジアで話されていたプリュギア語でパンを意味する。これによりプサメティコス一世はプリュギア語を最も古い人間の言葉であるとした。

 イギリスの歴史家ロバート・リンゼイの史書によると、15世紀のスコットランド王ジェームズ四世は、生まれたばかりの子供を聾唖者に世話をさせ、一切話しかけることを禁じたところ、子供が最初に発した言葉はヘブライ語であったと伝えられている。

 フランチェスコ会修道士パルマのサリンベネの年代記によれば、13世紀の神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世もまた、同じ疑問に取り憑かれた人であった。世話をする乳母に言葉を掛けることを禁じて育てた子供が、最初に発する言葉が人類最初の言葉であろうと考えたが、話すようになる前に子供は全員死んでしまったという。

 これらは実験言語学のハシリといえるものである。同じようなことは神の概念でもいえる。カスパール・ハウザーというのは1828年、ニュルンベルクの町に突然現れた謎の男なのであるが、どうやら小さい頃に幽閉されたらしいことが分かってきた。カスパールはカトリック教会の取り調べを受けることになり、3人の聖職者が発した質問はただひとつ「幽閉されていたあいだに、誰からも教えられることなく、お前の頭に神の観念が自然に生じたか」というものであった。 この質問の持つ重大な意味は社会・文化から隔絶した特異な環境に置かれてもなお自然に神の観念が生じたとすれば、それは人が神の創造物であり、人はあまねく神を知るべく作られていることを証明することになるからであった。

 ここから、動物をひとつの箱の中に入れたまま大きくして、その生態を観察する方法を「カスパール・ハウザー法」というようになったのだが、もう一つ似たような話はユングの「元型」(archetype)にもいえるかもしれない。ただし、チョムスキーの「深層構造」と「深層心理」を混同されては困るので、止めておくが…。

 さて、チョムスキーは母語の言語資料が与えられていれば、その言語の文法が生まれてくるというが、では、ラジオを聞かせていたら、言語を習得するだろうか?

 そんなことはありえない(いくらなんでもそういう実験はできない)。結局、これを説明するためにコミュニカティブな言語能力(communicative competence)というものが必要だと考えている。

 チョムスキーというのは名前から見て分かるようにポーランド系のユダヤ人であろう。1928年12月7日生まれ生まれで、お父さんはヘブライ語の研究者であった。小さい頃から言語に興味があったことは容易に想像できる。両親ともローズベルトの民主党員で、12歳までフィラデルフィアの進歩的な実験校に通った。初の論文は10歳の時の学校新聞のバルセロナ陥落についてだったという。

 高校でオールAだったというが、地元のペンシルバニア大学で既に有名だったゼリグ・ハリスの下でアメリカ構造主義言語学(思想の構造主義ではない)を学んだ。ハリスの政治的な姿勢と言語学科の要求事項(requirements)が少なかったからという。ヘブライ語の学校で教えるアルバイトをして卒業するが、大学にちゃんと通った記憶はないという。奥さんのキャロルと知り合ったのもこの頃で同じ言語学科だった。ところが、従来の手法では、限界があることが分かってきた。学生時代の論文はヘブライ語の形態素分析だった。

 例えば、日本語で「h」はかつて「p」音だったとされるが、これは沖縄方言と比較すると「p」音だったことが分かってくる(上田万年に「P音考」という論文がある)がこれは比較言語学である。これに対して「あはれ(あわれ)」と「天晴れ」が同じ語源ということを説明するためにはp→h→wという変化とp→ppという変化があったと考えた方がpp→p→h→w(またはその逆)と考えるより合理的である。これを内的再建という。

 同じような作業を音形で行ったのが、ハレとの共作“Sound Patterns of English”(1968)である。これを統語論に発展させると生成文法になる。

 つまり、今はないものを考えることで表面的な事象を説明できる。チョムスキーがヘブライ語で行ったのも同じ手法だった。これを統語論(syntax)に応用すると、さまざまな表層構造(表面構造surface structure)を説明するために深層構造(deep structure)を設けて説明した方が合理的である場合がある。“What do you call this flower? ”“What are this flower called?”も同じ深層の文から生まれたと考えた方がいい(受動態の扱いは昔と違うようだが…)。ただし、「深層」といっても、フロイトの「深層心理」とも「真相」とも「深窓の令嬢」とも無関係である。

 ちなみに内的再建をインド・ヨーロッパ語族に応用したのが、ソシュールであるから、チョムスキーとソシュールはそんなにかけ離れた存在ではないと思う。

 ソシュールはインド・ヨーロッパ語族における喉頭音に関する論文を若い頃書いた。内的再建を続けていくと、現在は残っていない音が説明のためにはどうしても必要となってくる。

 ユダヤ教にはタルムードという教典があるが、これは規則だらけの本だという。つまり、チョムスキーが規則を作るのは教義に基づいている?のだ。しかも、オープンエンドでどんどんと解釈や教義が加えられていくものである。増殖する経典、これがタルムードであり、チョムスキー理論なのである。

 いずれにしろ、チョムスキーは1965年の“Aspects of the Theory of Syntax”(『文法理論の諸相』研究社)でその地位を確立した。

 この頃、チョムスキーは『ペンタゴンのお小姓たち』(河出書房新社1975)、『国家理由か絶対自由か』(河出書房新社1975)など、アメリカの北爆(北ベトナム爆撃)に反対したことでも知られる。ニューレフトとして知られる。というか、アナキストといった方が正しいかもしれない。

 チョムスキーの世界平和を願う社会活動はそれなりに評価できるが、文法モデルがあまりにも英語に偏っているのと同様、アメリカ以外の世界ではあまり評価されていないような気がする。少なくともカンボジアのポルポト政権を「擁護」した疑惑があり、攻撃は強いが、防御は弱い知識人らしい人格を表している。

 田中克彦などは言語理論と彼の思想を関係があると考えているようだが、インテリとして当然の仕事をしているだけと僕には見えるし、本人も再度、無関係だと話している。ただ、僕には政治論の判断力はない。こんなジョークがある。

本屋にて。
「チョムスキーの本はありますか?」
「もちろん!ほら、ファンタジーノベルのコーナーに」

 9・11以降、様々な発言がなされている。日本でも辺見庸が『PLAYBOY日本版』(2002年5月号)でインタビューしているし、その様子を『永遠の不服従のために』(毎日新聞社)で書いている。

Manufacturing Consent

 まだ見てないが、カナダで“Manufacturing Consent”というチョムスキーとメディアを描いた映画が作られていて、あまりにもチョムスキーを英雄視していたというので、本人が納得していないという話を聞いた。ブレヒトが『ガリレオの生涯』(岩波文庫)で語らせているように「英雄がいない国なんて、不幸だ!」ではなくて「英雄を必要とする国が不幸なのだ」。

 ちなみに、「真実を語るという言葉は嫌いだね」とチョムスキーは言っているが、真実というのはヌエのようにつかみどころがないものだ。文法論に戻れば、チョムスキーのモデルは何度も何度も変換している。「真実」というものがモデルによって何とでも変わるかのように。

 チョムスキーのすごさは自分に向けられた多くの反論にうち勝っていることである。外からの批判を受けて、モデルを修正しながら、いつもそのモデル構築の中心にいる。

 カール・ポパーによれば、「科学的精神」というのは、仮説が「うまく適合しない」事例を探し出し、その反証事例によって、その仮説が反駁されるかどうかを吟味することを最優先するような知の働きだという。つまり、自説がうまく妥当する事例ではなく、自説がうまく妥当しない事例に引かれ、それによって、自分の立てた仮説を自分自身で書き換えることに知的興味が集中するような人をポパーは「科学者」と呼んだが、チョムスキーはまさにポパーの仮説が最も妥当する例だと言えよう。

 “Every Node leads to Noam.”という冗談ができているくらいだ。これは“Every Road leads to Rome.”の駄洒落で、“Node”は文の節点で全ての文法事項はチョムスキーへという意味だ。

 これはやはりすごいことだと思う。

 ただ、新しい理論がすぐに別に理論にとって変わられることは哲学者のジョルジュ・カンギレムがいうように「真理とは新しい嘘」ということになりかねない。モデルが変わってしまうと、古いモデルで研究していた(している)人は馬鹿を見るかもしれない。

 チョムスキーの議論に加わらない人々が「歩行者」(pedestrian)と呼ばれたこともある。チョムスキー一派は走る人なのだ。「言語学のお散歩」というエッセーを出している僕には、彼らが明日に向かって走っていったのか分からないが…。

 言語活動は人間生活の中に根を下ろした一定の規則に従った行動である。逆に、人間生活は言語活動によって組織され、形を与えられている。ヴィトゲンシュタインはこれを「生活形式」と表現していた。チョムスキーはこうしたことにどう答えるのか、論理学や言語哲学、科学哲学などにも影響を与えているが直接語ってはいない。ただ、今は哲学的な、形而上学的な論争から脳科学からのアプローチにも突破口が見えてきた。ハードウェアの部分はこれからの認識科学に任せなければならないだろう。

 社会的な側面が欠けているという批判(田中克彦など)もあるが、「ないものねだり」である。

 チョムスキーは個人の言語能力を解明することで普遍文法を解明することができると考えている。

 批判するとすれば、彼の理論が英語の文法に偏っていることである。英語は特に変形が多い言語なので、変形を伴う統語論の部分は当初うまくいった。

 例外を扱いすぎていて、全体が曲がっていったような気がするが、門外漢の偏見であろう。

「表象主義」=「計算主義」というものがあり、人間はコンピューターと同じように認識すると考えるものである。これでいくと何かを探すためには可能性のあるプログラムを全て入れて置かなければならないことになり、賢くなるほどアホになる。コンピューターの世界ではファジー工学的な考えでないと解けない。もしかしたら、自然言語も同じように、複雑系でカオスになっている部分があるのかもしれない。

 ただ、チョムスキーが大きな貢献をした、というが、中にはそれまでの言語研究を再解釈しただけという部分もあるようだ。“Sound Patterns of English”だって、結局、英語に借用された語彙を遡って内的再建しているだけ、ということもできる。しかも、あまりにも抽象化しすぎて失敗したともいえるのである。当時騒いだ連中は自己批判してほしい。

 新しい理論が生まれると、科学者はわくわくした気持ちで接し、すべてのものをこの理論で解こうとする。ある程度友好だということが分かると、次第に万能感が生まれてくる。「科学の過剰適用」とでもいうべきものをもってしまうのである。ダーウィンもマルクスも、フロイトもフェミニズムも、確かに新たな発見をし、知見を広めた。しかし、万能感をもったとたん、どこかでほつれてきているような気がしてしまう。

 もう一つ忘れてはいけないことは産業としての言語学というものを作り上げたことである。チョムスキーの理論で「食える」ようになった学者が多い。言語学者というと貧乏で本だらけというイメージが強いが、チョムスキー理論の人はスマートで議論が好きなのである。学界などの時流に乗ることを「バンドワゴン効果」というが、実に賑やかなバンドになっている。

 初期の生成文法の最有力のリーダーだったひとりが、あるとき「このやりかたは、あと10年はもつ」とうけあったことがある。 つまり、あと10年位は、生成文法をうりものにして、やっていけるというわけである。 それは、あまりにも、話相手の同意を前提とし、自分の好意の買われることを、前提とした打ちあけ話しだったので、まことにゾッとしないものであった。 つまり、学問とか思想とかいうものを、この程度のレベル−−家庭電器の新製品か、せいぜい、まえのホックでとめるブラジャー程度の段階−−でしかうけとめられないあたま。 それによってリードされている時代の思潮。 そのくにの学界で生きのころうとおもったら、そのうごきに、いやおうなしにくみいれられてしまう自分。 しかも全体としては、うたがいもなく正しい方向にむかっている、という信念からくる、ある種のやるせなさ。 −−それらのすべてが、まことにゾッとしないものだったのである。
   ---橋本萬太郎『現代博言学』(大修館書店)

 それまで英語学と言語学というのはベルリンの壁のようなものがあったが、チョムスキーが壊した、というか、日本の英語学の人が勝手にチョムスキーの学問だけが言語学だと勘違い?し始めた。チョムスキーでさえ、MITで最初にフランス語やドイツ語の初級を教えていたというのに、日本の英語学者には英語しか知らない人もいるようだ。英語の統語論でもチョムスキーしか知らない人が増えてきたように思う。英語は変形が多くて、チョムスキーの生成文法によく当てはまった。日本語は英語のように語を移動することは少ないので、あまり面白くないことも事実だ。

 英語だけで説明して、これが普遍文法といわれても、「グローバル・スタンダード」=「アメリカン・スタンダード」という21世紀初頭にあっては、ちょっと…という気にもなってくる。他の言語でも応用はされているが、英語ほど面白い現象があったというのは寡聞にして知らない。

 最近、驚いたことにチョムスキーの枠組みで仕事をしていた山梨正明さんが次のような発言をしていたことだ。

認知言語学のパラダイムと『音と文明』(大橋 力・岩波書店)
山梨正明(京都大学大学院人間・環境学研究科言語科学講座教授)…(長尾学長に京都大学に招かれて行った講演会でのご発言)

 まず、私はチョムスキアンではありません(笑)。【…】
 ですから、大橋先生の今日のお話と『音と文明』に書かれている言語と進化にかかわる問題意識は、認知言語学のパラダイムを背景とする問題意識と大変よく適合すると思います。むしろ、先生の先程の「チョムスキアンにどうこう言われるかもしれない」という台詞が、大変控えめな京都風の皮肉に感じられます(笑)。
 チョムスキーの言語観というのは、あまりにも形式的で、記号・計算主義的な言語観であり、非常に形式的でトップダウン的なシンタクス中心の文法観を重視し過ぎています。この言語観によるならば、日常言語は、論理学や数学の記号系のように、閉じた系としての文法規則と辞書によって、記号計算的に規定可能であることを前提としていますが、この種の言語観は、認知言語学を主流とする最近の言語学のアプローチでは否定されています。実際の言語現象の発現過程を見た場合、そこには規則依存型の記号列の系が存在するのではなく、主体と外部世界の相互作用を反映する事態認知の部分的なパターンを、先生の言葉をお借りするなら「加算型」のモードで規定していく方向性が認められます。日本語や他の言語の通時的、個体発生的な発現過程を見た場合にも、主体と外部世界の相互作用を反映する事態認知の反映としての前記号的、前概念的な経験のパターンが並列的、加算的に記号化されます。埋め込み的構造や再帰的な構造は部分的に発現しているに過ぎません。しかし、チョムスキーの規則依存のシンタクス中心の言語学では、この後者の記号的な側面が肥大化されています。チョムスキーの言語学は、有限の規則の組合せで無限の記号列を生成していくという、トップダウン的な記号計算主義の言語観と記号観を前提とするために、人間と環境の身体性を反映する実際の言語現象から遊離した文法ショーヴィニズムの言語観に陥っている訳です。

 発言の一部なので、どこかでもっと詳しく書いているだろうから、確かめてもらいたい。

 それにしても、言語学産業の隆盛はどうだろう?

 色々な学会が開かれ、それぞれが切磋琢磨して議論をしている。言語学でこんなに毎日のように論文が出されるようになったのは初めてである。老年の碩学が全教養を絞って書くようなスタイルから、若くなければ書けないという風潮になってしまった。

 正確にいうとそれまで文科系であった言語学を一気に理科系のスタイルに変えてしまったのである。

 文科系の置かれている状況が分かりにくい人のために多田道太郎『変身 放火論』(講談社)の中から人文科学研究所を「人糞化学研究所」と間違えてやってきたバスの話の後を引用してみよう。

 なるほど、これ【人糞を肥料にすること】が普通の自然科学の歩みであって、おかしいことはない。むしろ「人文」と「科学」をくっつけた我が研究所の方がおかしいのではないかという反省に至ったわけです。

 後にイギリスの学者にも指摘されました。ヒューマニスティック・サイエンスというのはおかしい。イギリスでは、ヒューマニティーズとサイエンスは全然別物である。その別物を一つのものとしてくっつけているのはどういう意味ですか。ギリシャ・ローマの古典学、訓詁の学問をやるとか、文明論をやるのがヒューマニティーズであって、科学の方法とは相容れないものであると我々は了解している、といわれたわけです。

 なるほど、そうかもしれんなァ。しかし、今はもう英語の訳もインスティテュート・フォー・ヒューマン・スタディーズになっていると思います。スタディーズになってしまって、サイエンスは消えてしまっているのです。

 チョムスキーはヒギンズ博士のような好事家が扱う学問から「最先端」科学の一つにしてしまったのである。おかげで、どれだけ多くの人が科研費をもらったか分からない。

 中には論文を提出前に見せあって互いに引用している人も多い。こうして論文の被引用度がどんどん高くなっていく。チョムスキーはシェイクスピア以来の英文学関係者の救世主だったのである。“Syntactic Structures”をバイブルのように扱うのもよく分かるのである。

 チョムスキーの功罪がどうであれ、ちょうど、ビートルズ以降の音楽がビートルズを無視できないように、手塚治虫以降のマンガが手塚を無視できないように、大きく言語学を変えた。

 レナード・バーンスタイン(ユダヤ人)もチョムスキーに影響されてハーバード大学の詩学講座『答えのない質問』(みすず書房1978)を出している。

 ただ、言語学にもチョムスキーとは無縁の分野があるはずで全てがチョムスキーではない。そして、その理論の多くはモデルから導くものではなく、事実から導き出すようなものであるだろう。

 僕がチョムスキーから学んだことは恐らく、理論の新しさに惹かれてはいけないということと、自分は論理的な思考に向いていないということと、文科系の学問の楽しさを忘れてはいけないということである。チョムスキーの理論は複雑になりすぎた。シェイクスピアのいうように原点に返るべきかもしれない。

Brevity is the soul of wit. 【「簡潔は機知の精髄だ」『ハムレット』2幕2場90行】

 これが言葉の森で半生を彷徨った人間の反省である。

 

【2001年1月15日】


 チョムスキー理論はかつて東京教育大学の英文科がメッカと呼ばれていたので、言語学科にいた僕も門前の小僧程度に知っているつもりである。当時は太田朗先生、梶田優先生がおいでになって、とても怖い雰囲気だった(大学の閉学後は上智大学に移られた)。一番怖かったのは“Sound Patterns of English”の講読に出ていた時で、ここまで細かく読むか、という講読の仕方であった。

 そういえば、東大の長谷川欣祐先生のゼミにも顔を出していたことがある。「川欣」と2文字も同じなのにちょっと名前が変形するだけで頭の良さがこんなにも違うものかと思った。面白かったのは先生の論文で冠詞の使い方を間違えて、それだけで誤読されたということだった。やっぱり難しいものらしい。

 今は昔の話だ。80年代になってからチョムスキー一派の勢いが落ちてきた。今はどうしているのだろう?

 いや、腹が立つのはチョムスキーの枠組みで研究費をもらい、解説書なども出して早く出世できた人たちがチョムスキー離れをしていて、しかも、そんなことは前から分かっていたみたいに書いていることだ。これでは「変節文法」だ!

 参考文献も書けばいいのかもしれないが、興味を持った人は関係書を読むだろうし、読めば、似たような参考書が書いてあるので省略。

 なお、2001年の同時多発テロの後、すぐに『9・11』(文藝春秋)を出し、文庫本にもなった。辺見庸ら多くの日本人がインタビューに行ったが、必ずしも日本が好きではないことが分かる。ベトナム戦争をはじめとしてアメリカに追従しているからだ。

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●生成文法用語解説(小野隆啓さん)

●チョムスキー・アーカイブ日本版

●Chomsky Archive(Znet)

●Chomsky Archive(NYU)

●MIT Linguistic Faculty

●Robert Barsky“Noam Chomsky: A Life of Dissent” (MIT Press)←全文が読めます。

●Noam Chomsky References


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