千野栄一『言語学フォーエバー』(大修館)
山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた─日本語は擬音語・擬態語が面白い─』 (光文社新書)
酒井邦嘉『言語の脳科学』(中公新書)
最近は富山関係の本を読むことが多い。茨木のり子の『人名詩集』が再版されて読んでみると「富山」を「とみやま」と呼んでいた子どもの話が出てきて面白かった。思いがけない所で思いがけないものを発見することをセレンディピティというが、読書はそんな悦びをもたらしてくれる。
乱読だが、やっぱり一番楽しいのは言語学の専門書を読むときである。ここでは言語学の、最近の入門書を紹介したい。
いきなり恩師の本から始めるのは恥ずかしいが、『言語学フォーエバー』はベストセラー『外国語上達法』(岩波新書)の著者で『言語学大辞典全六巻+別巻』(三省堂)の編纂、ミラン・クンデラの訳者でもある先生の「遺書」である。先生は僕らが準備していた古稀のパーティに参加されることなく、3月19日に亡くなられた。この本は先生の膨大な本のエッセンスを集め、死を覚悟しながらプラーグ学派の言語学と自身の言語学と回顧した遺稿「私の考える言語学」が載せられている。言語学をほこりの被った書斎の学問から、市井の学問として定着させた先生の業績は多大である。
上の中央のセーターの人物が千野先生 『犬は「びよ」と鳴いていた』 は『ちんちん千鳥のなく声は〜日本人が聴いた鳥の声』(大修館)で鳥のオノマトペ(擬音語・擬態語)、つまり「聞きなし」についての研究で世間を驚かせた国語学者・山口仲美の最新作である。犬の鳴き声が英米人には「バウワウ」と聞こえ、トルコでは「ハウハウ」、ロシアでは「ガフガフ」と聞こえるのだが、江戸期までの日本人は「びよ」と聞いていたという。確かに狂言でも「びょーびょー」と表現していて不思議だったのだが、同じ日本人でもこんなに違うように聞こえるものか不思議だ。これを「犬の鳴き声は、環境によって変化するというのです。とすると、江戸時代以前と以後とでは、環境の変化による犬の鳴き声自体の方に、質的変化があったと考えても不自然ではありません」と書いている。つまり、野生の犬の鳴き声が主流だったのに、ペットとしての犬の鳴き声がオノマトペとして定着したのだという。この他にも山口が学生時代に発見した「ざぶざぶ」「がぶがぶ」など「○ぶ○ぶ」というオノマトペは必ず水と関係している、という興味深い話が続く。
それでは、自分の名前を呼ばれるとうれしそうにないて応える犬は言語を使えるのだろうか?言語学者ノーム・チョムスキーによれば答えはノーである。犬は繰り返し聞かされて学んだ「音」に条件反射しているに過ぎない。子どもは有限の文法規則から無限の文を生成し、理解することができる。このように「学習」の範囲を超えて表現を自在に生成する力こそが言語能力の本質であり、人間だけがそれを生まれつき持つと考える。『言語の脳科学』は現代の脳科学で解剖学的、生理学的に立証しようとしている。これが英訳されてアメリカで読まれる日がくればいいなぁと思う。
【北日本新聞2002年10月20日『読書ライフ』掲載】
※ちょうど一週間後のNHK『週刊ブックレビュー』で鷺沢萌が『言語学フォーエバー』を推薦していた。
日本語ブームと呼ばれて久しいですが、そういったブームとは無縁な場所で、静かに「言語とは」「言葉とは」といった疑問を考えつづけてきたのが著者です。今年惜しまれつつ亡くなったその著者を偲ぶ、味わい深いエッセイ集です。
「元祖ゴキブリラーメンというラーメンは何故に存在しないかを言語学的に説明せよ」。これは作者が考えた、大学の期末試験問題。唐突な問いかけに驚きながら読み進むうちに、いつの間にか言語の持つ「伝達」以外の機能や「潜在性」といった専門的な議論にまで辿り着きます。他にも自らの失敗談から「通訳」の難しさ、楽しさを語り、地名の成り立ちの不思議さに注目し…。ことばの奥深さと、その楽しみ方を親しみやすい語り口で、しかし熱く、語ります。
『この数年、やっと遅ればせながら、地球上に存在する自然言語の大半が絶滅の危機にあるという認識が広まりつつある。この一世紀の間に、専門家によってもパーセンテージは違うが、数にして六、七十パーセントから九〇パーセントの言語が消滅して無くなると言われている。…何故に、学者たちは今まで十分にはというか、全くといっていっていいほど記述がなされていない言語の研究に取り組まないのであろうか。日本だけで何万といる英語の研究者の数と比べて、なぜごく少ない何百人という衰亡の言語の記録者しかいないのであろうか。/絶滅に瀕する言語を何とかしてせめて記録だけは残しておこうという風潮が全地球的にまきおこってきた今こそ、そういう言語学を盛り立てていく時である。』(遺稿「わたしの考える言語学」より)
※書評は難しい。内田樹は次のように書いている。
書評においては、「その本の蔵しているいちばん豊かな可能性にピンポイントする」というのが私のポリシーである。「いちばん豊かな可能性」をめぐる議論がいちばん生産的だし、いちばん愉快である。
それに「いちばん豊かな可能性」をポイントする読み方は、それなりに大変なのである。
悪口をいうとき、私たちはいくら主観的な論拠から自説を展開しても少しも構わない。もとから相手を説得する気なんかないからだ。
でもほめるときには、ほめた相手が「ああ、分かってくれたんだね」とにっこりするという応接が期待できなければ、まるで空しい。
「おめって、ほんとにセンスねーな」という罵倒は、相手が「自分はすごくセンスがいい」と確信している場合でも十分に罵倒として機能する。
けれども、「おお、旦那、そのジャケットとセーターのカラーコーディネイト、ぐっと秋っぽいでげすな」などという言葉は、「はずした」場合、まったく「ほめ言葉」として機能しない。ただ「あ、センス悪いわ、こいつ」と内心で見下されるだけである。
つまり悪口をいうときより、ほめるときの方がはるかに射程の遠い想像力が要求されるし、対象への適切な理解が求められるのである。
自己陶冶としての「ヨイショ」。
よい言葉である。