『菊と蒲鉾』 Toyama und das Kamaboko ミラン・リューゲ作
石川「監督、中日相手だと楽ですね。みんなアップスイングで簡単にポップフライを打ち上げてくれますから、すいすい完投ができちゃいます」
古田「大きい声では言えないが(こそこそ)、ボールにエビの絵を描いておけば、みんなフライをあげてくれるからな」
石川「県民性というのはおそろしいものですね。そこまで海老フライが好きなんだ。はははは」
古田「まったくだ、はははは」さすが古田監督、考える野球をやっています…みたいなことになるといいんですけど、なかなか簡単にはいきません。中日ドラゴンズ、強いですね。
村上春樹『うさぎおいしーフランス人』(文藝春秋)=訳者前書き= 最初に断っておくが、私は富山県民として誇りをもっているし、富山県が大好きで「富山県民の歌」もソラで歌える、ごく一般的な富山県民である。ところが、以前、エッセーの中で蒲鉾文化論を披露したところ、思いのほか反響があり、文化人類学者の友人も論文に引用したいといってきた。友人とはミラン・リューゲ(Milan Luege)というチェコ系ドイツ人でプラハの春と呼ばれた一九六八年にチェコに生まれ、その後、家族と一緒にドイツへ亡命してフンボルト大学人類学科を卒業しているという。論文は「トマソン・ガツェッテ」(Thomason Gazette)という新聞に連載された。
この論文の原題は「富山と蒲鉾」であったが、「菊と蒲鉾」とした。原題はToyama und das Kamabokoで「富山、うんと出す蒲鉾」とかけてあり、本人は悦に入っていたが、駄洒落がひどいので作者に了解をとって変えた。無論、R・ベネディクトの文化人類学の名著『菊と刀』から取った。
わずか一年、二回の滞在で富山文化論を書くという筆者の意欲は認めるが、「国体護持」の取り違えやNHKを国営放送とするなど誤解も多く、本人のおっちょこちょいの性格がそのまま出ている。ただ、翻訳するにあたって誤解も正解という立場からそのままにしておいた。蒲鉾や羊羹の説明など日本人には不要な説明や原註も煩雑なので了解を得て省いた。彼の天衣無縫なドイツ語を日本語に直す作業は苦しいものがあったが、これも日独理解のためと思って努力した。意の尽くせぬ処があるかもしれないが、お許し願いたい。たった一年で富山は分からない、というのが富山県民の一般的な見方だが、ロラン・バルトがわずか二週間の滞在で日本論『表徴の帝国』を描いたことからすれば十分な長さだ。
また、県民を一緒くたにしているが、呉東と呉西では方言をはじめとして雑煮、天神様信仰、獅子舞(二人獅子と百足獅子)に至るまで大きく異なることを忘れてはならない。
□ この翻訳のおかげで私はNHKの「北陸太郎・花子の大研究」という番組に出る羽目になった(リューゲ君を来日させる予算がなかったための代理)。
北陸三県だけの放送だが、九七年三月二〇日(春分の日)のゴールデンタイムで、富山県代表が立川志の輔、石川県代表が永井豪、福井県代表が元サンケイリビング新聞編集長の山谷えり子【後に衆議院議員】という豪華布陣だった。
ただ、リューゲ君のおかげで県や新聞社の仕事が減るのではないかと心配している。
最後になったが、言語学が専門の私にこの翻訳ができたのは米山俊直先生の都市人類学の講義を聴いたおかげである。米山俊直先生に感謝します。
この翻訳をイザヤ・ベンダサンと訳者・山本七平に捧げる
ミラン・リューゲ著 「菊と蒲鉾」
翻訳・金川 欣二
第1章 鯛蒲鉾には日本一が似合う
日本人は恵比須様が鯛を抱いている図像が大好きで、お店の開店祝いなどによく用いる。彼らは紅色の色彩とともに「めでタイ」に通ずるといって縁起をかつぐ。そして必ず「日本一」と太い筆で書かれる。七福神と呼ばれる七人の神様のうち、恵比寿様だけが日本の神様だからだ。鯛も魚の王様であり、どうだ参ったかという顔をして他の魚に有無をいわせない。例えば、中勘助の『銀の匙』第十四話には次のように書いてある。
鯛は見た目が美しく、頭に七つ道具のあるのも、恵比寿様がかかえているのもうれしい。目玉がうまい。うわつらはぽくぽくしながらしんはで柔靭でいくら噛んでも噛みきれない。吐き出すと半透明の玉がかちりと皿に落ちる。歯の白いのもよい。【訳注*骨太のために古来「骨に農具悉く備ふ」といい、農具とは農民が用いる七つ道具】
鯛は日本人のもっている事大主義の象徴である。
□ さて、私が富山という地方都市へ行こうとしたのは人類学の教授から東京では日本が見えない、地方の小さな都市の方がフィールドワークには好都合だと聞いたからである。日本の友人に教えられて駅に着いたら、そこはリトル京都と呼ばれる金沢だった。というのは彼は富山の県庁所在地を金沢と教えてくれたからで最初からとんでもない間違いにつきあわされた。この話をすると富山の人は寂しい顔をするが、彼らだって埼玉と群馬と茨城の県庁所在地や位置関係を知らない(ドイツのこととなると更に無知で西ベルリンがどこにあったか知っている人はいない)。
富山がどうして典型的な日本かというと日本人は水と安全がタダだと思っているというイザヤ・ベンダサンの言葉そのままの県であるからである。水は豊富だし、犯罪は少なく、災害も台風が避けて通る位で少なく、彼らを悩ますのは雪害だけ。それすら最近は地球の温暖化でなくなりつつある。更に六〇年代には「公害デパート県」というあだ名があったように日本の縮図である。一億一千万のちょうど百分の一の百十万人が富山県の人口で百分の一ミニチュアを扱っているみたいだ。だから富山は「ミドルタウン」【訳注*リンド夫妻によるアメリカ都市人類学の名著の題名】といえるのである。
さて、富山に到着した途端、目にしたのは「緑と文化の町富山」という看板だった【訳注*現在はない】。これは素晴らしい所に来たものだと小躍りしたが、考えてみればキャンペーンというのは「無い物ねだり」をする時に始めるもので緑も文化も祖国ドイツに比べて十分とはいえず、日本文化は米作に由来する「キャンペーン文化」であるというベンダサンの言葉を思い出さずにはいられなかった。テレビでも「好きです富山」というキャンペーンが流れている。
キャンペーンといえば、富山県知事・中沖豊(東大卒、自治省出身のエリート官僚で「一日一膳」の笹川良一の財団にもいた)の三大目標が「日本一の科学と文化の県」「日本一の健康とスポーツの県」「日本一の花と緑の県」である(私には三つでなく、六つに思えるし、あまりにも欲張りな内容に驚く。最近唱えだした「地方集権」という言葉も矛盾した言い方のように思える)。まるで桃太郎(日本の海外侵略を正当化した童話で日本一という旗を掲げて帰郷する)のようだ。知事のお気入りになるには「日本一の○×」にします、といえば十分である。ただ、急速な高齢化により、日本一の老人県になることだけは確かで、文化とかスポーツとかいうより日本一の福祉県にしなければならないと思うのだが、大きなお世話であろう。
日本一のスポーツ県を実現するのは比較的容易である。富山で開催される二〇〇〇年国体で天皇杯、皇后杯を取ることで名目が立つ。富山県は未だに優勝していないが、現在ではどの開催県も総合優勝することは当然視されていて明治以来「国体護持」と呼ばれている。
問題は日本一の文化県などという非文化的な発想で、文化に上下があるなんてドイツ人でも思わない【訳注*ドイツ語のKulturには絶対的な評価を含む意味があり、少し誇張がある。一方、英語のculture には相対的な意味しかない。この場合、著者は生粋のドイツ人でないし、現代の人類学的視点、すなわち相対的な意味で用いている】ことである。誰もゴッホとピカソの絵をどちらが九〇点でどちらが五〇点と評価できないのと同じことである。つまり、日本一の文化県ということ自体が日本一の非文化県であることを露呈していて、彼らの多くはculture vulture【訳注*「文化ゴロ」と訳すべきだが、せいぜい、「えせ文化人」】のである。
□ そうはいっても富山県は日本一が多い県である。たとえば、経済企画庁が九五年四月に発表した国民生活指標八項目の中で富山県は「住む」と「遊ぶ」で日本一、「働く」が二位、「学ぶ」が三位、総合すると最も豊かな県とされた。持ち家率トップとか人口比のホール数や失業率というのがその要因の最たるものである。車は一家に一・六台、女性は二人に一人が会社などで働き、家族の絆も強い。墓地のコピーにも「死んでも住みよさ日本一」(青山直人・作)【訳注*彼には「遊びやゆとりにも勤勉になる県民性」というのもある】というのがあった。
しかし、住みやすい町なのに他県の人が移住してくるという話も聞かないし、過疎化の一途をたどっていることは間違いない。行政が自慢するほど県民自身は魅力のある町だとは思っていないようだ。これが大きな問題である。七八年に行われたNHKの調査(『日本人の県民性』)でも富山と佐賀では、住みよいと思っている人が多いわりには、好きだという人が多くないという結果がでている。魅力がないから映画「男はつらいよ」の寅さんは日本各地を回り、ウィーンまで来たことがあるが、高知と富山へは行かずに死んだ。水上勉原作・篠田正浩監督の『はなれ瞽女おりん』には路上で薬屋が漢方薬を売るシーンが出てきて、香具師と薬屋のルーツが同じであることを匂わせる。つまり、同じルーツのはずだし、彼はまた「越中褌」の愛好家だったのに富山には行かなかった。
また「この県の人の考え方には、他の県の人とは違った特徴がある」と思っている人は沖縄に並んで全国最高だった。日本人が日本人を他の民族と異なると思っているのと軌を一にしている。富山県は日本一を日本一自慢する県であると定義することもできる【訳注*九六年五月に発表された読売新聞の県民意識調査では「住みやすさ」四位、「働きやすさ」一三位、「自由時間の楽しみやすさ」二八位、七項目の総合が一三位となっていて実感に近くなっている】。富山県人は鯛を好むが、鯛は彼らの事大主義の象徴である。寄らば大樹の陰、というか長いものに巻かれろ、というか、ともかく日本一といっていれば安心するのである。それが不可能なら日本海一や北陸一を目指す。そして最近では借金日本一、自殺率も日本一に近づいている。
□ 知的障害者ながら精密な絵を描いた「裸の大将」山下清は何でも「兵隊の位」に置き換えて納得して日本人の笑いを誘った。世の中の一切合切を単一の物差しで評価するむちゃくちゃがこっけいだったのだ。経済企画庁の豊かさ指標も、どこか山下画伯の納得の仕方と似たところがある。「住む」「働く」「学ぶ」などと八領域に分け、住宅取得年収倍率や実質賃金、図書館数などの統計データに基づき「豊かさ」をはじき出す。図書館の利用状況はドイツとまるで違うし、住宅の質も違う。図書館の数は十万人につき五・二四館(日本一)だが、利用する回数は年間〇・九回(全国十八位)だし、一世帯あたりの書籍代は最下位に近い。女性の就業率が高いが富山では賃金格差も一・六二倍で管理職になれるケースは1%以下で全国でも最悪。
こんな統計で国別はもちろん、日本国内の「豊かさ」など計れるはずがない。
一九九六年の五月三日「天声人語」には次のように書いてあった。
「住む」なら富山県、「働く」なら長野県。ことしも経済企画庁が「豊かさ指標」を発表した。【…】 たとえば「住む」。一人当たりの畳数や持ち家比率などを基礎に指数をはじき出すが、住みやすさに大いに関係があると思われる気候などは、勘定に入っていない。以前の調査で総合指標が下から四番目だった神奈川県の当時の長洲一二知事は「それでは皆さんは、神奈川県よりも(指標がトップだった)山梨県に住みたいですか」と記者会見で開き直ったものだ。 【…】 「豊かさ指標」は一極集中の是正をねらったもの、との解釈があった。そう思って県別順位を眺めると、また別の趣が出てくる。
つまり、富山県を怪しげな統計で応援しているのは誰も住みたがらないからである【訳注*九九年にはさすがに不評で止めることになった】。
□ 富山県は日本のほぼ真ん中の日本海側(悲壮感を帯びた裏日本という言い方もある)にあり、「中部地方」に入るが、キシャ(富山県人は今も電車も汽車と呼び、東京の人に笑われる)は「JR西日本」が通っていて、「北日本新聞」という地方紙があり、外国人には富山の位置が分からなくなっている。また、関西文化圏と関東文化圏の双方に位置しており、方言的にも基層は関西方言だが、関東方言に近い部分もあり、複合的である。幕藩体制下では領地が入り組み、同じ南瓜でもナンカン(富山藩)とボウブラ(加賀藩)とがあり、たんぼ一つ隔てて違う。
ちなみに、県民性を育んだのは幕藩体制だという学者が多い。例えば、『県民性』(中公新書)の祖父江孝男などが典型なのだが、富山県は富山市を中心として富山藩があり、その東西に加賀藩の領地があったので、藩の封鎖性だけでは説明ができない。
北側を日本海に、他の三方を屹立する山に囲まれ、蝶の形をした要塞みたいな県で台風さえも避けていく。他県から隔絶されていながら、県内のどこからでも二時間以内に県庁まで行く(小さい日本でも少ない)ことができ、団結力は強い。
私から見れば、富山県人はごく平均的な日本人である。実際、どの調査をみても日本人として特徴的な性格が富山県人に端的に表れてくる。もし、違うとすれば、日本人が自虐的な傾向をもち、外国人による批判を盲目的に受容する(日本人は日本論が好きな民族である)のに対して、富山県人は県外の人間に批判されることは嫌う。自分たちが日本一、ということは世界一だと信じているからである。したがって、この論文を彼らは決して好意的に受け入れない、いや、反発するであろうことは確実である。
第2章 蒲鉾は雑多な魚から作られる
富山県は衛星放送の受信率も日本一だが、これは彼らの新しいもの好きと体面重視(パラボラアンテナの偉容!)とが一体化したものである。民間放送が三局と少なく、情報に飢えているからでもある。問題はこの新しいもの好きの精神構造と伝統を重んじる気風のどこに接点があるかということである。
富山の精神科医である武内徹は「私の『あんぽんたん』考」(『とやま文学』創刊号)でTypus Melancholicus(メランコリー好発型性格)と名づけて論じているが、ピンとこない。実際に富山県にこのタイプの人は少ないといわれている。
新湊出身の落語家・立川志の輔は『笑われる理由』の中で「富山県人はムダを嫌う」「富山県人は持ち家にこだわる」「富山県人は気配りを愛する」の三つをあげている。富山方言で「そうで、ないがで、ないけ!」というのはいったん否定したものを更に否定するというエクセレントな二重否定の用法であるという。これは「俺っちゃらっちゃ」と二重に複数形にする言い方同様、富山県人の自我を主張できない性格を物語っている。この論文ではそうした富山県人の性格というか県民性を検討したい。
さて、このような複合的で「雑種文化」そのものである富山文化を人類学的にどう総括しようか迷っていたところに出会ったエッセーが友人・金川欣二の「蒲鉾文化論」(「カタログの歌」)に出てくる文化論で、そのまま引用する。
蒲鉾というのは、赤身はどんな魚も受け付けないが、白身なら種類、大きさを問わず、魚一匹々々の個性をなくし、一様でどこから食べても同じ味の食べ物である。それを自分の都合のいいようにまっ晒にし、表面だけはやたら派手に飾り立て、しかも味はどれも同じで、鶴だから鶴、亀だから亀、富士山だから富士山の味がする訳でもないのにたくさん結婚式の引出物にされる。それを近所に配るというのは『一味同心』を再確認することで地縁意識を高めようとする個の喪失、社会への埋没という象徴性をもった食べ物なのだ。
蒲鉾みたいに練りに練った文化論である。カマボコとはハムやソーセージといったもので魚から作られる保存料理である。ドイツ人の好きなハムなどと決定的に違うのはハムが豚の各部位に合わせて香辛料を工夫し、様々な種類が作られるのに対し、蒲鉾は様々な魚を一緒くたにして一種類作られるということである。一から多が生まれるのと多から一が生まれるのと対照的である。また、ドイツでは少し田舎に行けば今でも自宅でハムが作られるのに対し、蒲鉾が自宅で作られることは少ない。帰国してから蒲鉾が懐かしくなり、自宅で作ろうとしたことがある。つなぎに小麦粉とか澱粉とか工夫したのだが、バラバラになってしまってうまく作れない。富山の友人に尋ねたら、色々聞いてようやく分かったというが、つなぎは塩だった。塩だけでさまざまな魚をつないでいたとは驚いた。
□ 保存食として普及したことは間違いないのだが、岐阜や長野のような山間の地方ならばまだしも、目の前でキトキトの魚が豊富に取れる富山でどうして蒲鉾が大手を振って歩くようになったのだろうか。決して安くはなく、むしろ、魚の鯛より高くつくのに。
しかも、問題はこの蒲鉾が人生の頂点である結婚式の引き出物の頂点として存在することである。それほど貴重なものなのに富山空港や終点の大阪駅では蒲鉾の入った籠盛が捨てられている。地域社会を失った人にとって自宅で食べ切れない蒲鉾は重くて邪魔でしかない。結婚式場の担当者までが「ムダながに!」というのに一向になくならない。富山県の結婚費用は全国平均を百万円ほど上回るが、これは蒲鉾の代金にほぼ見合うものである。東京資本の有名ホテルが東京のノウハウそのままで富山の系列店の引き出物を出していたが、いまいち人気がなかった。結局、蒲鉾をつけなかったのが原因と分かり、渋々、蒲鉾も引き出物にした。
もちろん、江戸時代からあるのではなく、結婚式の起源(大正天皇の挙式が一般化したといわれる)と同様、大正中期に魚津の石崎蒲鉾店が始めたのが広まったとされる。一番大きいものは(滅多に出ることはないが)十八キロで八万円位である。なお、島根県にも縁結びで有名な出雲大社周辺を中心に鯛蒲鉾の慣習は今も行われている。大社町には十二軒のかまぼこ屋があり、細工かまぼこを作っている。細工かまぼこを作りだしたのは富山も島根も大正〜昭和と言われていて、どちらもケーキ職人から絞り出しの技術を学んだそうだ。
また、結納の際、迎える側は婚約者の家からもらった鯛の蒲鉾の大きさを一生懸命測る。これはもらったものより大きな蒲鉾を返さなければならないためで、これではまるで北米インディアンのポトラッチ【訳注*相手より大きな贈り物を続けることでお互いの権力を誇示する風習で全財産を焼却して執着のないことを示すことさえある】である。こうした「蕩尽」は既存の経済学では扱えないところだ。つまり、富山の文化は従来の学問では把らえられない。
また、人類学には「共食の原理」【訳注*トモ食いではなく、キョウショク】というものがあって人類を人類たらしめている原理の一つが共食だとする。ニワトリやサルなどは食べる順序が力関係ではっきり決まっているが、ヒトが初めて家族一緒に食べるようになっった。家族の紐帯を強めるためにも重要な行為である。富山の結婚式でもらってきた蒲鉾は早速、近所に配らなければならない。都会では地縁が崩壊しているので当然、大きな蒲鉾は邪魔になって捨てるしかない。一方、富山では蒲鉾をつけなければ「近所に配るものがない」と文句をいわれるので容易に廃止できないのである。
金沢の商人は「お呼ばれ」と呼ばれるパーティに行くと「タイのタイ」を持ち帰ったという。鯛の頭をしゃぶりつくすと、鰓(エラ)の部分の骨が残る。魚の形を残しているので、これを「タイのタイ」と呼んで、家に持ち帰り、宴の派手さを示したという【訳注*金沢方言では「おうぼう」という】。富山ではお茶菓子でもそうだが、出されたものは食べないで家に持ち帰る慣習があり、知らなかった私が食べるとまた、新しいお茶菓子を出されて、そのままエンドレスになって困ったことがある。こうした慣習があるので、金沢のように食べた残りを持ち帰るのではなく、鯛の蒲鉾にして、一緒に宴を楽しんだのだ。
蒲鉾は室町時代には既にあったとされ、魚肉をすって竹茎に塗って焼いたもので、ガマの穂に似ているので蒲穂子、蒲鉾とされた。つまり、今の竹輪に類似したものだった。
鮮度が落ちても下級魚でもおいしくでき、保存がきくので当時は画期的な食べ物だったろう。しかし、今となっては食べ物に溢れ、無駄口に食べるしかない蒲鉾など誰も見向きもしない。
数種類の魚を利用することで「足」と呼ばれる弾力と風味が出てくる。魚をめいっぱい利用するというのは何事も無駄にしないという県民の性格に一致する。富山で「タクシー」といっても通じない。「ハイヤー」といわなければ分からない。というのも富山市内には「流しのタクシー」などは皆無で電話で予約するハイヤーしかないからである。タクシーで溢れている金沢市内と比べてみると顕著であるが、これは流しなどの無駄を富山県人は好まないからである【訳注*志の輔によれば富山と甲府だけだという】。
赤身の魚は使われないが、ちょうどこれは富山出身以外の人がどんなに長く富山に住んでいても「旅の人」と呼ばれることに呼応している。外国人がどんなに日本に長く住んでも「外人」(アウトサイダー)として差別されるのに似ている。我国ドイツはかつてはユダヤ人、現在はガストアルバイター(外国人労働者)問題で深刻であるが、富山は同じ日本人でも排斥する。NHKの調査でも「富山の県人意識の強さは、自分や親の出身・成育の地に対する理屈抜きの愛郷心や一体感を越えた全県民の特徴」との結論が出ている。
イタイイタイ病を扱った新田次郎の『神通川』で県知事に無視され、富山城にある博物館にやってきた時、館長らしき老人が語る。
「事をなす者はすべて現在にその生命をかけた。この富山県出身の偉人たちの多くはそうであった。彼等の多くは、彼等の現在においてはむくいられないで死んで行き、後世になって認められたのだ」
「なぜでしょうか」
「富山県は排他的な土地柄である。外部から入って来たものは吟味する前に、まず排斥するのである。新しい学問に対しても排他的である。八尾町を開いた、米屋少兵衛は、その保守性と戦った。富山が生んだ世界的天文学者西村太沖(たちゅう)も、死後その名が富山の人達に知られたのだ。常願寺川と戦った佐藤助九郎さえも、賃取橋(ちんとりばし)を作って儲けるために、治水治水と騒ぎ廻るのだと陰口を叩かれた。富山県の生んだ多くの偉人たちは富山県人的排他性にあって血の涙を流したのだ」鯛蒲鉾はコピー食品の元祖である。最近、カニ蒲鉾という蟹肉は一切使っていないのにそうと分からない食品がヒットした(オリジナルはしかし、富山ではなく、石川県の業者スギヨだった)。また、人工イクラも富山県のカーバイド工場で作られている。コピー自体、日本的であるが、これを得意とする富山県人は最も日本的である。
さて、ここでは富山県人の心性を「蒲鉾コンプレックス」【訳注*コンプレックスというのは「劣等感」ではなく、「わだかまり」と訳すべきもの】と呼びたい。つまり、富山文化の複合性、同質性、表面性、差別の複合体として称するのである。彼らの功利主義、つまり、ムダを省くためにすぐに腐る鯛よりも保存のきく蒲鉾が考え出されたのだが、逆に形式主義に陥り、ムダを生み出している。しかし、事大主義的な「気配り」からなくす訳にはいかないというジレンマに陥っている。
デカルトは合理主義の立場から「あらゆるものが思考される」と言った。しかし、一見非合理としか思えない慣習が、その民族社会を維持するために不可欠になることがある。蒲鉾のような非合理な「思考されないもの」をいかに考えるべきだろうか?
第3章 蒲鉾は均質でどれも同じ味
日本人は金儲けが上手である。自分たちをユダヤ人と同じように上手だと信じている日本人も多い。彼らの中でも富山県人は最も金儲けが上手でアルメニア人のようである【訳注*指揮者カラヤンなどアルメニア人は商売上手と信じられている】。実際、富山県人は一様によく働く。我々、ドイツ人に匹敵する勤勉さをもっている。冬は朝早く雪をかきに起きなければならない。奈良の人は神の使いの鹿が家の前で死んでいたら困るから早く起きて他所に運ぶというが、富山では早起きして雪を他所にどかす。「薬九層倍」といわれるように利益の大きな薬に目をつけたのも富山県人らしい。売薬で有名なのに大和売薬、近江売薬があるが、特に後者は世界一の資産家・堤家をはじめ、近江商人で有名だ。
なお、富山県の人が故郷の良さを自慢しないのは売薬根性から来ているともいわれる。自己を蔑み、相手を誉めることがセールスの出発点だからである。
□ ドイツ人にとって日本文化は羊羹みたいなものでどこをとっても同じ味のように思える。PKOをめぐって新聞の論調は違いをみせたが、それ以外は社説からコラム、読書欄に至るまで紙面の大きさや掲載する曜日まで揃えてある。
日本は、だから、羊羹型の文化といえるのだが、それでも羊羹には栗羊羹や木目羊羹など種類が多いし、部分によって違いもある。ところが、蒲鉾の中身にはその違いすら見当たらない。
富山県人は均質になりたがる。富山方言には「みゃーらくもん」というのがあり、「身が楽な者」に由来するとされる。そして文化的な、金にならないことをしようとする人を「みゃーらくもん」として差別してきた。NHKの調査でも彼らは自己主張せず、皆なの意見に合わせる傾向が強いという結果が出ている。均質だから目立った人は生まれない。
□ よく指摘されることだが、タレントが少ない。昔は左幸子が唯一の富山出身タレントで昔から暗くて泥臭い映画にばかり出ていた。代表作の一つ『飢餓海峡』では一晩つき合っただけで(殺人で得た)大金をもらい、その恩を忘れず、地方の篤志家となった記事を見て会いに行き、過去が暴露されることを恐れた三國連太郎に殺されるという役を演じている。妹の左時枝も女優であるが、同じように田舎を引きずった役が多い。なお、幸子と結婚した羽仁進監督は別の妹と再婚した。
梅津栄も有名な脇役だが、とめどなく暗い。野際陽子の得意なのは教育ママや鬼の姑である。最近は立川志の輔とか室井滋に人気があるが、室井は映画『風の歌を聴け!』で自殺する仏文専攻の女子大生を演じてデビューしたようにネクラな演技が得意である(『むかつくぜ!』という著書もある)し、ハンサムな志の輔は「ふら」と呼ばれるキャラクターのおかしさが皆無で、つまり、落語家にあるまじき(?)真面目さが買われて国営放送によく出演する。ワハハ本舗の柴田理恵もあまりにも国営放送的で「子供ニュース」に出ている。最近では西村雅彦が演技もオデコも光っている。アングラの帝王と呼ばれた、すまけいは富山大学に入ったが金沢が好きで金沢ばかり行っていたという(富大を中退している)。
富山県を舞台(ロケにした映画『夜叉ケ池』などは省く)にした映画がいくつかあるが、どれも暗い!映画館が真っ暗になったほどである【訳注*真っ暗にならないと見えないではないか】。
『父ちゃんのポーが聞こえる』というのは不治の病に倒れた少女が高岡市民病院の近くを通る氷見線のSLの機関士をしているお父さんが通る度に「元気か?」という意味の汽笛を鳴らして通っていくという話である。吉沢京子の臭い芝居は涙なしに見られない。
『疑惑』は悪女が保険金詐欺で夫を自動車の飛び込み事故で死なせた疑いがかけられるという話だ。このロケに使われた富山新港はすっっかり飛び込み自殺の名所となり、入港する船の数より発見されぬままに沈んでいるクルマの方が多いといわれる【訳注*うちの近所だから誤解としても腹が立つ】。
『螢川』は多感な少年が複雑な家庭に悩みながらも育っていくという話である。いたち川と普段呼ばれている川が螢川と呼ばれ、この川の螢の群舞で終わる。傑作だったのはこの映画に出てくる方言が県当局から問題視され、一時は推薦が取り消されそうになったことである。つまらない面子にこだわって、映画自体の芸術性を否定するところだった。
『少年時代』は戦争中、都会から疎開してきた少年がクラスメート同士の権力闘争に巻き込まれるという話である。こうした体験をもつ作家の小説を富山県出身の漫画家が漫画にして、更にこれが映画化された。富山を題材にした映画の中で最も優れたものであるが、まさに富山という巨大な田舎を象徴した映画である。
滝田洋二郎という映画監督がいる。ポルノ出身なのだが、その才能が芽を出し、『木村家の人々』という傑作を撮った。木村家の人々はモーニング・コールからセックス電話、弁当作りから新聞配達まで神経と肉体を全て小銭を稼ぐことに費やす。遊びにきたお兄さん夫婦からも宿泊費を巻き上げるという徹底ぶりである。木村家の姿は現代日本人を描いていると指摘されたが、監督が富山出身であることから分かるように木村家の人々とは富山県人なのである。
北陸を舞台にした小説も映画も、鉛色の雪雲のように暗いのである。このイメージを決定的にしたのが水上勉の『越前竹人形』『越後つついし親不知』であるし、松本清張の『ゼロの焦点』など一連の作品である。特に『ゼロの焦点』は決定的だった。このヒロインは東京出身で未だ見ぬ北の海に詩情を感じ、「北陸の暗さ」に憧れている。石川での生活が長い夫から「君は都会に育ったから、北陸という暗鬱な幻像にあこがれているんだね」といわれる。能登金剛の断崖の上に立ったのも「北陸の暗鬱な雲とくらい海とは、前から持っていた彼女の憧憬であった」とされる。和辻哲郎が『風土』で「風土の陰鬱は直ちに人間の陰鬱なのである」などと書いているのは哲学者の思弁と笑う訳にはいかないのである。
□ 漫画「少年時代」を描いた藤子不二雄はドイツでも放送された「ドラえもん」の作者で二人とも富山県出身である。八二年の映画「E・T」も藤子不二雄の八〇年の「のび太の恐竜」から生まれたのではないかといわれるくらい素晴らしい作品である。藤子不二雄というのは二人の合作のペンネームであり、二人は三〇年間も一緒に仕事をしてきた。二人の友情は「まんが道」という漫画にもなり、更にNHKでもドラマが放送されたので、日本人で知らない人はいない。友情で結ばれていたというのはドイツ人にとって奇跡である。夫婦でさえ合作は難しいのに他人が漫画という情熱のために結ばれる!日本人的であると同時に極めて富山県人的である。
二人の描いた「ドラえもん」は子供の欲望を簡単に満たすから悪書だという人がいる。これはとんでもない誤読で、ドイツ人の私には真宗の思想に満ちた漫画としか読めない。ドラえもんは「のび太」君の子孫(!)から先祖にしっかり勉強してもらわないと困るということで教師役として過去に遡って派遣されてきたロボット猫である。物語は先ず、主人公の「のび太」君が怠惰な気持ちに駆られる。そこでドラえもんにおねだりして望みの機械を胸のポケットから出してもらう。この機械で一時は有頂天になるのだが、最後に必ず失敗が待っている。オチは必ず「自分で努力しないと報われない」という教訓である。ドイツ国内にはイソップにも似た奴隷の哲学であると指摘する人もいた。こうした漫画で叱咤激励された子供たちが容易に会社人間に組み込まれていくことは間違いない。
同じくSFを描く新潟県出身の高橋留美子の「うる星やつら」には全く教訓がないのと対照的である。ただ、ヒロインのラムちゃんが語尾につける「〜だっちゃ」は富山方言に由来するという説がある【訳注*新潟でも地方によっては富山と同じである】。
グルメ漫画「美味しんぼ」の花咲アキラも富山県出身であるが、残念ながら原作は雁屋哲である。蒲鉾ばかり食べている人の間からグルメが出てくるはずがない。
蒲鉾には骨がないから反骨精神をもった人間も生まれてこない【訳注*大正・昭和にかけて活躍した反権力の言論人に梅原北明がいたのを忘れてはならない。彼が執筆、出版した好色文献は国内でほとんど発禁になり、ついには上海で発行を続けた】
作家も源氏鶏太しか出なかった。源氏鶏太は『英語屋さん』で直木賞を受賞して以来、『三等重役』などのサラリーマンを題材とするユーモア小説を書き続けてきた。本格的な経済小説を書いている城山三郎とは違い、日常生活の悲哀が中心で小銭の世界である。真の富山出身作家なのである。
同じく富山県出身でジャンルも異なる堀田善衛はどこへ行ったと思われるかもしれないが、彼はスペインに行っている【訳注*九八年に亡くなった】。
□ 一方、石川県は金沢が「日本のワイマール」【訳注*ゲーテ、シラー、ニーチェを生んだ】と呼ばれたように鏡花や室生犀星を初め、五木寛之にいたるまで多くの文学者や哲学者を輩出しており、立派な近代文学館も文学全集もある。人類学者・山口昌男の説だが、金沢は犀川を中心とし、犀星を代表とする光の文化、浅野川を中心とし、鏡花を代表とする闇の文化があり、これが金沢に素晴らしい陰影を与えているという。富山には闇がなくてムジナのようだ。ソープランドもストリップ劇場も悪場所と呼ばれる所は一箇所もない。七一年に富山市で暴走族騒ぎがあり、市民も巻き込んで土曜の夜、大フィーバーしたことがある。この時指摘されたのが、若者の遊ぶ場所の少なさであった。
□ 富山県の人は全員、プロ野球の巨人ファンだ。所有している読売新聞社の創設者が富山県出身ということもあるが、巨人の強さ、正統性、有名さが主たる原因である。不思議なことにこの球団だけが巨人「軍」と名乗っている。読売新聞はPKO法案に大賛成だったが、いっそ、巨人軍をPKOに出せばと思う。また、富山県人は全員が自民党支持なので総選挙では社会党の議員が一人もいなくなった【訳注*偏見に満ちた意見で石川の方が遥かに保守的だと思う】。中沖知事も五期まで全国唯一の自民党公認の知事だった。
□ ドイツ人の真面目さの根源はM・ウェーバーのいうようにプロテスタンティズムにあることは言を俟たない。日本人の世俗的禁欲主義の根源はロバート・ベラーの『日本近代化と宗教倫理』によれば浄土真宗にあるという。今も昔も真宗王国である富山県はその影響が大である。NHKの調査でも仏教を信仰する人が多くて全国一である。
真宗はかつて革命的な思想であり、パリコミューンに匹敵する一向一揆を組織し、「百姓ノ持チタル国」を実現した。親鸞と真宗中興の祖・蓮如の教えにより、越中人は子供と女性、そして労働を大切にした。旧来の仏教思想では根本的に女性は救われなかった。親鸞は女性はいったん男性に変身した上で救済されるという、「変成男子」【訳注*「へんじょうなんし」:『法華経』提婆達多品にある、童女が男子となって成仏した話がよく引かれる】という思想を採用した。ところが、蓮如は大胆不敵にも、罪が大きく差し障りの多い人間から救われるのだから、女性こそがいちばん最初に救われると説いたのだった。「ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどり【訳注*漁】をもせよ」(『御文章』)と労働の哲学を説いた。
蓮如は幼少の時、生母に死別し、継母に育てれ、自身も五人の妻を娶っては死別し、十三男、十四女をもうけたがうち七人の娘に先立たれる。女人往生の高唱のなかに、その生々しい女性観を昇華させて吐き出した実践的な宗教家である。
キリスト教はパウロ教とも呼ばれることがあるが、蓮如は浄土真宗においてパウロのような役割を果たしている。蓮如はパウロと同様『御文』を通じて教義を分かりやすく、『和讃』を通じて連帯感を持てるようにした。キリストの『山上の垂訓』と類似している親鸞の『歎異抄』の奥書に蓮如は「理解の浅い人々には読ませぬように」と書いて禁書扱いにしたように、議論を避けた。
パウロは新約『テトスへの手紙』の中で「支配者や権威者」に服することを勧めたが、蓮如も「守護・地頭を疎略にするべからず」(『御文章』)と述べている。けれど、ともに先鋭化して大きな弾圧につながった。
宗教的なバックボーンがしっかりしているから越中の人はどんな貧しくても東北のように子供を「返す」「戻す」ことはなかった。北陸は浄土真宗の影響で殺生を嫌い、「小児(しょうに)間引かざる国柄」と呼ばれていたところがある。そのため貧乏子沢山になり、働き続けなければならなくなった。
元禄時代に生まれた売薬商がその典型である。「先用後利」というシステムは「現世利益」を唱える宗教からは生まれてこないし、資本と信用と勤勉がなければできないものである。つまり、売薬の行李を持って小売りする先用後利の功利主義者が富山県人だ【訳注*下手な語呂合わせは止めてほしい】。宗教社会史研究者の有元正雄は「全国的に真宗地帯には売薬行商が多い」と指摘している。その理由として(一)勤勉、正直、節倹、忍耐など真宗門徒の高い徳性が職業倫理を産んだ。(二)真宗地帯では堕胎、間引きなどの風習がなく、人口増加が労働力を生んだ。(三)加持祈祷やまじないを排し、医薬で治療を図るという合理的精神を育てた、などの点を挙げている。
富山県人が多いとされる銭湯経営者もつらい仕事である【訳注*お風呂屋を舞台にしたTVドラマ「時間ですよ」も富山出身の設定だったし、プロデューサーの久世光彦は富山出身である】。深い雪の中で女性が留守宅を守り、これが革命的な米騒動をも起こす富山の女性の強さを生み出した。
今でも親鸞の思想を再確認するために年末には報恩講というものが開かれる。特に真宗の盛んな北陸では、少し前まで読経、聞法の後に会食をして親睦を深めた。
金沢の本願寺東西別院では八月一日にお花揃いが開かれるが、この生け花は明智光秀の供養花だとされる。真宗の信徒たちが織田信長の侵攻を受けたことから、「恩人」である光秀の悲惨な最期を憐れんで花を手向けるのである。
□ 石川県も真宗王国であり、金沢の卯辰山頂には今も蓮如上人の像が立っている。しかし、同じ真宗である両県にどうして大きな違いが生まれたのだろうか。
これは「門徒領国」を謳歌した後、江戸時代には金沢が前田家のお膝元として加賀百万石の町人文化が結実していったからであり、浄土真宗に内包していた個人主義が開花したが、富山では農民文化しか育たなかったからである。百万石でありながら外様大名であった前田家は武道を奨励すると難癖をつけられてお取り潰しになると考え、文芸復興を命じた。前田綱紀は古今の典籍を集め、儒学者・新井白石は加賀藩を「天下の書府」と呼んだ。加賀藩では「給金の三分の一は人付き合いや趣味に使え」と教えられてきた。だから金沢の東山界隈では今でも「天から謡(うたい)が降ってくる」。
前田利家は文芸の神様、菅原道真とは何ら関係がなかったのだが、自分の先祖だとでっちあげて天神様信仰が町民に浸透していった(これは富山県西部にも入り込んでいる)。加賀藩主が信仰に厚かった名残か、北陸は特に盛んだ。一月の天神講(命日の二五日)にはズワイガニを供えて天神さまを送る。菅原道真(みちざね)は学問や書の神だけでなく、慈悲の神、正直の神としても有名だ。無実の罪で太宰府へ左遷された生涯。江戸時代の寺子屋では天神講が重要な行事だった。この日は小豆飯や五目飯を炊いて、師弟そろって食事し、師匠は彼の功績や学徳などの講話をしたという(青柳正美『こち吹かば匂ひおこせよ 道真哀説』北日本新聞社)。
加賀百万石の紋章は天神様に縁の深い梅鉢となっている。東京大学は前田家の跡地に建てられたため象徴的な入口、赤門が梅鉢で飾られている。つまり、東京大学は金沢大学の「分校」なのである(些かキッチュな感じのする安田講堂は富山県人の安田善次郎が寄贈したものである。善次郎の父は貧しい半商半農だったが、小金を貯めて武士の株を買って富山藩の下級武士になった。十六歳の時に「千両の分限者」になることを夢見て、三つの願いを立てる。独立して商人になること、正直さを通すこと、収入の八割を生活費にあて、残りは必ず貯蓄するというものだった。江戸に出奔して郷土出身者の風呂屋で働いた後、職を転々として安田銀行、後の富士銀行を設立したがこれは日本銀行よりも早かったとされる------徹底した合理主義者として知られる-----曾孫の一人にオノ・ヨーコがいる)。
ともかく、これらが加賀宝生や加賀友禅、金箔工芸など豊かな町人文化を醸し出した。落雁など干菓子の文化でも金沢は全国的に有名である。
富山には「月世界」しかなく、富山県外の地球人は誰も知らない。金沢の「植民地」だった富山では農業ばかり奨励された。対抗して収穫量を少なくみせ、検地をごまかすために砺波の散居村が発達したともいわれる。不夜城のように明るい金沢の香林坊と七時には暗くなる総曲輪と比べても分かるが、これ以上比べても無駄というものである。
□ もう一つは売薬のルーツに求められる。売薬商がすんなり諸国に入り込めたのは売薬の前に御師(おし)と呼ばれる人々が立山信仰を布教したいた基盤があったからである。立山信仰を全国的に流布するため勧進が行われたが、冬の檀那回りには立山権現のお札の他にさまざまな薬、熊の胆や湯の草、山人参、立山竜胆(りんどう)などがお土産とされた。信仰と相俟って霊験あらたかだったことはいうまでもない。立山曼荼羅を持ち歩いて絵解きを行った。絵解きは現在でも井波町瑞泉寺の聖徳太子絵伝(一週間にわたって絵解きする)として残っている。
蒲鉾は富山県人がもっている勤勉性、合理性に合致した食べ物である。めでたい恰好をしているうえに保存がきき、魚という属性をどうにか保っている。はらわたも骨もないし、しっぽまで食べることができる。特にビニールで真空パックされるようになってからもて囃された。「腐っても鯛」というのは実質より名目を重んじる風潮を指すが、「腐らないから蒲鉾」となって富山で普及したのである。
両県の違いは郷土料理に見いだせる。富山の蒲鉾に対する石川の料理はかぶら寿司である。蒲鉾が低級魚をごちゃまぜにして、しかも画一的な味を作り出しているのに対し、かぶら寿司は鰤(ぶり)という高級魚を使い(元々、鰤の保存法の一つとして発達した。琵琶湖の鮒寿司→かぶら寿司→富山の鱒寿司→鮮魚を使う江戸前寿司という発達段階がある)、現在でも正月に向けて家庭で手作りをし、その違いを楽しむ個人主義的な色彩の強い食べ物である。鱒寿司とも違うのは鱒寿司が鱒の薄さを争っているのに対して、かぶら寿司は鰤の厚さを競う。大体、加賀料理はあっても越中料理というのは聞いたことがない。
富山の鯛の細工蒲鉾にしても実は加賀の落雁など和菓子作りの影響があるといわれる。いや、影響というか、お茶の文化と深い関わりのある和菓子のパロディにすぎないのかもしれない。
加賀藩で和菓子が発達したのは外様であるがゆえに(平和志向で)文化政策を重んじたことがあるが、同時に兵糧として城に蓄えた糒(干し飯)が古くなると和菓子屋に払い下げたことで落雁が生まれたといわれる。
富山県が一位のものにコロッケの消費額がある。これは働く主婦が多いため、コロッケなどのお総菜が売れるのである。バナナの消費額も日本一であるが、これはお菓子代わりに子どもに出しておけば栄養もあって楽だという富山県の主婦の考えを反映している。一方、石川県は和菓子の消費額が一位か二位である。結婚の披露にも大量の「五色生菓子」【訳注:餡を包んだ餅に赤色を付けて「日」を表し、白いうえにゴマを散らして「月」に雲、菱形のは「海」の波、黄色い米粒を付けたイガラ餅は「月」、蒸し羊羹は「里」を表す】が配られるが、人付き合いを大切にしている証拠である。
バナナと和菓子!
北陸三県を比較してみれば、富山は消費性向が全国で下から二番目で図書館が多くて、自分で本は買わない。だから、教養娯楽は四十五位になっていて「しっかりもの」という感じがする。石川はお茶会が多くて、交際費の支出額四位になっている。「おもてなし」文化ということがいえる。福井は三県の中でも最も結婚式が派手で全国平均の二倍になっていて、おしゃれ「流行遅れのものを着るのは気になる」というのもNHKの調査で二位、化粧品の消費も六位くらいになっている。富山も福井もお金に対してリアリスト
なお、福井県の名産は越前ガニであり、この蟹の存在感は結婚式や仏壇やお墓に思いっきりお金を費やす福井県人の見栄っ張りな様子をよく表している。
□ ここで北陸三県の県民性を名産から表にしてまとめておく。
富山 石川 福井 名産 蒲鉾 かぶら寿司 越前ガニ 材料・調理 下級魚を業者任せ 高級魚を手作り 高級魚をそのまま 見栄え・大きさ 文句無し おとなしい 文句無し 保存 可能 可能 不可能 分割 可能 不可能 不可能 好き嫌い 好きな人は少ない 好みがある 嫌いな人は少ない 結論 実利的 つきあい優先 見栄っぱり □ 金沢の人は富山県人を「越中さ」(日本人をジャップと呼ぶようなもの)といって馬鹿にする。貧乏をすると富山の人間は強盗をし、能登の人は殺人をし、金沢の人は乞食、越前の人は詐欺をするという。一国ごとにそこに住む人々の気質・性格・風俗などの特徴を記した『人国記』(一六世紀の半ばには成立していたと考えられる)は元禄時代に板行されて以来、広く読まれて来た書物であるが、板行された『新人国記』から「越中」の部分を引く。文中、「佞」とは「佞し」(かたまし)という意味だが、口先がうまく、上手に媚(こ)びへつらうが、心がねじけていること、或(ある)いは二心があるといった意味。「卒忽の交り」とは、軽率な交際、表面的な軽い付き合いの意味である。
当国の風俗は、陰気の内に智あり、勇あり、佞(ねい)なる気多し。親子の間にても、一言(ごん)にことば質(しち)を取り、巧(たく)みに佞をなすなり。人の交(まじわ)りも底意は佞にして、只(ただ)卒忽(そこつ)の交りのやうにする意地なり。然れども事に臨みて死を厭(いと)はざる風もありとぞ。/按(あん)ずるに、当国は山深くして、又海を抱(いだ)けり。寒烈しく雪深し。民俗本書に詳(つまび)らかなり。
だから金沢の商家では「養子は越中からもらえ」という格言があったという。こんな古い、しかもうわさ話を集めたような本を信用しなければいいのに富山県人の金沢に対する劣等感は大変なものでこんな悪口がよく聞かれる。
「金沢ちゃ、すぐに三叉路にぶつかっしぃ、道も根性も曲がっとっちゃ」
「市内電車も走っとらんし、西武デパートもないねけ」
「金沢でちゃ、薬、作れんもんやから、病院ばっかりやねけ」
「金沢のもんな、喋っとってもゆっくりで、やっとられんちゃ」
「白山ちゃ立山より低いがいぜ」(昔は立山が低いと信じられていて石を頂上まで運んだという)
「兼六園ちゃ、いつも混んどってぇ、誰もおらん城址公園の方が落ち着いとっていいちゃ」特に呉西に石川県と張り合う気持が強く、NHKの調査ではわざわざ富山独自の質問を設けたくらいだ。ちょうどそれは名古屋人が東京にもつコンプレックスに似ている(よく考えてみれば、前田利家も佐々成政も名古屋出身である)。富山県が石川県に対抗意識を持ったのは一八八三年に石川県から分離した時だといわれる。公共事業が原因で石川県は道路、富山県は河川整備に力を入れようとしたが、決裂して分離した。富山県は予算獲得のために一気に国家依存を強めた。
志の輔も「富山県人は見栄っぱりである」と書いている。彼によれば逆ベクトルの見栄で目立たないように目立たないように努めて普通であろうとする見栄だという。「いわば社宅の規模が大きくなったもの、それが富山県」とも書いている。社宅(日本では家まで会社で用意され、家族までが会社の論理に巻き込まれ、こうしたサラリーマンを「社畜」と呼ぶ人もいる)は日本の経済の象徴であることはよく指摘されるところであるが、富山県では全体が社宅になっているという。
実際、富山県にプライバシーはない。ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの境界が曖昧である。私がよく聞かれた質問は次の通りである。
「箸は使えますか(今どき、日本に来る外国人で箸も使えない人はいない)」
「刺し身は食べられますか(次は必ず納豆は?だ)」
「髪の毛、記念にもろてもいいけ」
「アメリカちゃ、エイズで大変やろ(アメリカ人じゃないって!)」
「嫁はん、おんがけ?いい人おらんがけ?」
「オッジャけ、アンマけ(次男なら結婚しやすいという)」
「何で富山におんがけ(おったら邪魔け!)」
「人類学ちゃ何か役に立つがけ?(功利主義による虚学の否定である)」問題はこれだけの質問をしておきながら、富山の女性を世話してくれるのかと思ったら、単なる詮索好きで終わったことだ。
なお、富山のごく普通の家庭の仏壇を見て、その大きさと金ぴかなのに驚かされるが、この場合、宗教心から来ているのではなく、単なる見栄なのである。
第4章 蒲鉾は表面を飾る
蒲鉾の中身は富山の県民性の現れであり、薄っぺらな表面の飾りは彼らの見栄の現れである。味はどれも同じだが、やたら毒々しい色で表面を飾り立てる。メインとなるのは何といっても鯛の蒲鉾で他に鶴亀や松、富士山などが好んで描かれる。クリスマスやバレンタイン用にケーキやネクタイの形の蒲鉾が作られることもあるが、蒲鉾のお陰で恋が実ったという話は未だに聞いたことがない。
結婚式が派手なのは何も富山だけではない。何でも福井県の嶺北が最も派手で名古屋などメじゃないという。マラソンでもないのに先導車がつき、後に嫁入り道具を運ぶトラックが四、五台、その後に嫁入り道具の一つである自家用車がくる。結婚式の引き出物も多くてタクシーに入らない位だという。お陰で離婚率が低い、といわれても何だか俯におちない。
富山が福井に負けるはずもなく、特に新湊が派手だとされ、嫁をもらっても嫁に出すなというのが彼らの常識である。そしてこの虚飾の祭典、結婚式に最も相応しいのが蒲鉾である。そのため、新湊では蒲鉾の加工業が発達した【訳注*水産の町だからでこれは誤解である】。
結納には水引で作った芸術品ともいえる宝舟が贈られるが、嫁入り道具の一つとしてそのまま持参しなければならない。非常に高価だし、後はゴミになるだけでムダなのだが、なくならない。これではまるでトロブリアンド島のクラ交易【訳注*人類学者マリノフスキーが発見した贈答儀礼で部族間の紐帯を強める役目を果す】と同じで、結婚後も多大の贈り物が実家と婚家を往復する。 新湊ではお祭りも派手で誰を招待するか親族会議を開いて決められる【訳注*同じ加賀藩だった金沢には派手なお祭りはない】。獅子舞も火炎を使って幻想的に舞う。お祭りの招待客には帰りに記念に鯛の蒲鉾がつけられることはいうまでもない。最近は鯛蒲鉾の代わりに砂糖が出ることがあるが、鯛そのものではなく、鯛蒲鉾に似せて作ってあるところが面白い。
この派手な、お祭り好きの人々は市内に一校しかない高校が(文化人類学的観点からすると日本最大のお祭りである)甲子園に出場するとなると度をすぎてくる。初出場を決めた日には興奮から二人も死んだという。史上最高の一二〇台のバスで応援に行ったことも有名だが、春の大会で活躍して十年以上たった今も録画したビデオを見るのを日課にしている人もいる。しかも甲子園喉飴というのが富山で作られていて彼らはちゃっかりと商売もしている。
富山では嫁に出す方も大変だが、もらう方も大変で次男ならば家を新築しなければならない。「アラベ(アジチ)【訳注*分家】のうちを作ってやらんにゃんならん」という訳だ。実際、「アラベ」というのは「あらいえ(新家)」が訛ったものだという。だから持ち家率が高くなって当然で富山県にはアパートやマンションは全くない【訳注*全くの誤解で「旅の人」は皆なアパートに入っている】。
富山の人が家を建てると先ず気にするのが座敷と応接間、次いで仏間である。座敷を立派にしなければ建てた意味がないという。そして他の調度品が揃ってなくても買うのが欄間である。欄間とは座敷に取り付ける木彫の装飾品なのであるが、この値段がその家の価値を決める。井波という欄間を作る職人の町が富山県にあり、職人が快刀乱麻に鑿をふるう【訳注*このシャレは訳者が勝手にいれた】。
また、富山県人は新しいもの好きである。金沢が古いもの好きなのと対照的である。だから金沢の人は富山のことを「いいね、道路が広くて新しくて」という皮肉とも賞賛ともつかない感想を述べる。戦災で焼けた富山と(きれいな町だから故意に残されたという噂のある)城下町金沢では大きな違いがある。通りごとに文学碑が立ち並んでいて【訳注*大袈裟すぎる】観光資源に事欠かない金沢と滝廉太郎(ドイツへ留学していた)の「荒城の月」の着想は実は富山城にあったとして強引に文学碑を作ろうとしている富山とでは彼岸の差がある。大体、この富山城というのが昔の富山城を復元したものではなく、産業大博覧会に合わせて全く別の城をコピーして作ったものだ。
ワルシャワなどヨーロッパの多くの都市が戦災で被害を受けたけれど、戦前と全く同じ町並みにするために多大の努力と費用がかけられたのと比べる私が馬鹿なのだろうか【訳注*馬鹿だ】。
新しいものといえば、新幹線も富山県の大きな政治課題の一つだ。どうしてここまで新幹線を欲しがるのか外国人には全く理解できない。新幹線のために在来線を犠牲にしたり、フル規格で路線を作るが、当面は在来型特急を通し、そのうちミニ新幹線を通すかもしれないとか何とかいっているが、全体像を知っている人はいない。しかも建設費は地元負担となりそうで、そんなに費用をかけるのならいっそ富山県で飛行機を購入して料金を安くしてあげれば早く東京へ行けるし、公害も少ない。結局、地元の一部の建設業者の利益が優先されている。
7月、富山市中央通りでは巴里祭が開かれる。「七月十四日」という映画を「巴里祭」と名づけた日本人もすごいが、それを客集めに使う商魂もすごい。内容もロックコンサートなどでパリとは全く関係がなく、これで集まる客も客だ(映画好きではない証拠に九三年に五館も映画館が閉鎖された)。日本人は「国際」という言葉に弱いとよく言われるが、富山県人はメロメロだ。富山県の人もあまり行かない田舎に「国際大学」があるし、私など外国人は存在するだけで「国際人」と呼ばれ、必ず英語を教えてくれとせがまれる。
国際という言葉と富山県人の新しいもの好きとは見事に連動している。富山で国際高校演劇祭や国際アマ演劇祭が開かれるが、例えば、利賀村の国際演劇祭は東京の人間が場所を求めてやってきただけだし、前衛芸術なのでどこまで理解されているか分からない。私のいた下宿のおばさんは「変わっとって面白かったちゃ」と百年ぶりにサーカスを見たような感想を述べていたが、県立近代美術館同様、二度と行かなかった。県立近代美術館には二〇世紀以降の国際的な前衛美術が並べてあり、入館者が少ないのでいつでもゆったり眺めることができる。私自身は大好きな美術館である。
ただ、前衛に理解があるかというと大間違いで天皇をコラージュした大浦信行作品を右翼の妨害があるといって簡単に売却、図録も焼却ということが行われている。県立図書館でも同様の処置がとられ、寄贈しようという申し出も断っているが、日本図書館協会からも批判を受けている。
この美術館で一番入場者の多い作品展は「子供たちの壁画展」だった(今は別の企画になっている)が、子供たちはピカソより上手だという専らの評判である。金沢の県立美術館に古九谷の名品がひっそりと飾ってあるのと対照的である。
富山の文化の中心は演劇だが、一方、演劇を観る民間団体「富山演劇鑑賞会」では会員の獲得に苦労している。本当に文化として根づいているならば県民の〇・三パーセントにあたる三千人を確保するのは容易なはずであるが、達成できない。皆な仕事に忙しくてとても演劇に付き合っていられないという。行政が絡んで動員がかけられるようなイベントには多く参加するが、自由参加で金のかかるイベントにはそっぽを向く傾向がある。
富山県は生涯教育の先進県である。「生涯教育」という名前のなかった六八年に池田内閣の所得倍増計画の一環である人材開発計画を先取りしたものである。その後、ユネスコが生涯教育理念を提唱すると七四年に生涯教育係を設置し、八一年には生涯学習センターができている。
今は県民カレッジというが、日本語と英語を混淆した命名で恥ずかしい。若者がフリーターという英語とドイツ語をチャンポンにした言葉を使っているなどと批判する大人がいるが、批判する資格がない。ここは東京から有名人を連れてきて講演するのが教養だと思っているフシがある。馬鹿高い講演料に予算を取られるよりはもっと使い道がありそうなものだが、行政は有名人を使って動員数を増やせば成功と考えるから致し方のないところだ。これでは地方の時代ではなく、痴呆の時代である。
東京では企業の朝日新聞とか西武百貨店がカルチャーセンターを開講していて盛況だが、富山では主に公的機関が行っている。ここでも「私」というものが優先されることはない。
しかし、タダで文化は育たない。志の輔も「隣と同じにしなければ、という一人一人の強迫観念が、富山全体の経済を発展させ、教育水準を引き上げてきた」と書いた直後に言う。
ところが、唯一の例外は、隣の子がピアノを習って歌がうまくなったから、自分ちの子にもピアノを習わせよう、というのはない。 だって、意味がないから。歌なんてうまくたって金にならないから。バカだと金はもうけられないから困るけれども、文化的になったからといってお金は入ってこないことを、よく知っている。
こうした功利主義的な県民性があるので、音楽は育ちにくい。観念論の我がドイツと違い、経験論のイギリスが作曲家を生み出すことができなかったのと同じである。古典芸能の基盤がある金沢には岩城宏之が率いる国際的なオーケストラがあるが、富山にはそうした土壌がない。
第5章 蒲鉾には尾頭がついている
富山の教育は大変効率的で人間まで蒲鉾を作るように作られる。
富山の教育は鯛の蒲鉾のように立派だという。しかし、その蒲鉾にも違いがある。赤巻きや昆布巻き(富山以外では見られない)があるというのではなくて、富山県人が結婚式の引き出物のおすそ分け【訳注*「お福分け」と言い換える地方もある】として配る鯛の蒲鉾にはしっかり頭から尻尾までのランクがあるということだ。間違っても尻尾を近所に配ってはならない。
蒲鉾を配るのは結婚式というのが世間の承認を得るために行われるからで、蒲鉾をより多くの人に配って、より多くの人の承認を得ようとする儀式なのである。「へぇ、○×ちゃん、そんなに大きくならはったけ!」とか「(こんなに大きな蒲鉾を配るなんて)何ちゅう、立派な結婚式やったがけぇ」という一言が欲しいためなのである。
金沢の商人は「お呼ばれ」と呼ばれるパーティに行くと「タイのタイ」を持ち帰ったという。鯛の頭をしゃぶりつくすと、鰓(エラ)の部分の骨が残る。魚の形を残しているので、これを「タイのタイ」と呼んで、家に持ち帰り、宴の大きさを示したという。富山ではお茶菓子でもそうだが、出されたものは食べないで家に持ち帰る慣習があるが、金沢のように食べた跡を持ち帰るのではなく、鯛の蒲鉾にして、一緒に宴を楽しんだ。
富山県が教育県である(ただ、私が訪れたどの県でも「うちは教育県で生活水準が高い」と自慢された)。シュタイナー教育やモンテッソーリ教育の先進県というのではない。同じ教育県で有名な長野と比較すればよく分かるが、単に「受験県」の異名である。ごく最近、高等教育機関が整備され、国立の富山、富山医科薬科に加えて高岡法科、富山国際、富山県立と三大学ができたが、優秀な高校生は皆な県外へ出ていってしまう。優秀であればあるほどUターンの可能性は少なく、県外の大学・短大に進んだ人の七割が富山に戻ってこないというデータがある。これだけでも教育県にふさわしくないのだが、県内の高校格差を考えればもっと悲惨である。
まず、御三家と呼ばれる高校が最上位を占め、次いで五摂家、続いてその他の総合高校、職業科高校、最後に私立高校がくる。私立が下にあるという状況は地方都市に多い。ジェームズ・三木は戯曲「翼をください」で富山とよく似た状況の地方の底辺校を描いているが、富山県で顕著なのは御三家で東大合格者を独占しているということである。また、甲子園に出場するのが他県では私立が多いのに、富山県では県立高校と決まっている【訳注*高岡第一高校と不二越高校が出場した】。私はかつて富山県のことを知ろうとして下宿のおばさんに薦められた『越中人のこころ』という本を読んでみたが、この本には東大にたくさん入る富山県の教育は素晴らしいと書いてある。結局、この著者は蒲鉾の頭しか見ていない。
「高校はどちら?」という言葉はタブーでありながらオバタリアンたちによってもっともよく発せられる殺し文句である。ただ、ごく最近では特別進学コースなどが生まれたり、県立高校の合格発表がマスコミからなくなったり、制服がモダンになったことで私立高校の悲哀は緩和されつつある。
更に富山の高校は未だにどれだけ国立大学に入ったかで評価される。音楽コースが設置されているK高校では国立音楽大学まで国立に数えている【訳注*事実無根である】。
こうした教育状況の根底には県民全体の事大主義、官尊民卑がある。「校区」とか「学区」と他県では呼ばれるものを富山では「校下」というが「城下町」と同じように学校の下に地域住民がある。NHKの調査でも「個人よりも公益が優先すると考える人や国や役所に従うという人が全国的にみて非常に多い」という結果が出ている。教育でいうと「七三体制」と呼ばれた高校の学科の比率を普通科七対職業科三の割合にしたことで当時の文部省の方針を先取りしていた。
新産業都市計画やテクノポリス計画も発表されるやすぐに名乗りをあげた。ジャパン・エキスポも(一週間先に開催した県があるが)第一回の開催認定県となっている。九二年に開催され、大成功と呼ばれた富山の博覧会JETに出かけてみたが、どれも子供だましの域を出なかった。よかったと思ったのは富士通パビリオンの立体映像であったが、友人によればこれは大阪花と緑の博覧会に出展されたものと同じであるという。それでも批判はまるで聞かれなかった。お上である県が決めたことで、マスコミも一体化して礼賛していたのである。終わってから、チケットの割り当てが多くて大変だったという話を色々なところから聞いた。これでは宣伝費に多く金を使った角川映画と同じだが、角川書店の創業者・角川源義は富山県出身だ。
最終章 蒲鉾には骨がない
鯛は骨太なのに蒲鉾は骨がなくて全部食べられる。余分なものはない。でも、鯛は生きていくのに骨が必要だ。骨がない魚はクラゲと同じだ。
人も同じで不要と思える骨がなければ生きていけない。文化という骨が必要だ。
何よりも骨がないから批判が出ない。
自分にないから他人の骨を欲しがる。桐朋学園音大が富山市に進出するという構想があった。舞台芸術学部が来るということで市は土地も建物も提供しようとしていた。ところが、バブルが弾けて構想が潰えた。ヨーロッパ事務所の経理などに不明瞭な部分がたくさんあり、世界の小沢征爾までが声明を出すという大問題に発展した。Kという地方紙は構想が持ち上がった時点で「オペラの時代」という大キャンペーンを張って舞台芸術学部待望論をぶちあげたのだが、問題化してからは貝のように殻を閉ざしたきりだった。全国紙のAがしつこく追求してようやく重い腰をあげた。キャンペーンの担当者が文化部ではなく、政治部だったことからも分かるように最初から政治的問題だった。
よみがえれ地方新聞!
□ 富山にオペラの土壌がないことは友人の金川欣二の「秘境のオペラ」に描かれている通りで【訳注*引用ありがとう】、「第一回県民オペラ」といっていたのに一回で終わり、市民オペラも数回行われただけで、継続していない【訳注*ともに断続的ながら続いた】。
更に、オペラが上演できるように三面半舞台のある公会堂を新築した。しかも、元の公会堂の跡地を第三セクターのホテルにしようとして既存のホテル、旅館と軋轢を生んでいる。どうせなら、四面舞台にすれば富山市政が四面楚歌ということがよく分かったはずだ。
ワーグナーのオペラに傾倒して国を傾かせたルートウィヒ二世のように市長は桐朋という芸術家集団に愚弄され、自殺行為に走ってしまったのである【訳注*最終的には大学院大学という五〇分の一の規模に縮小された】。この泡沫(うたかた)の恋をモチーフにしたオペラ「トウホウは関知せず」が作られる予定だ【訳注*泡沫というのはまさにバブルのことで面白い。もちろん、森鴎外の「うたかたの記」から取られている。鴎外は当時、ミュンヘンにいて、この事件を聞いて、この小説を書いた】。
斬新なデザインの新公会堂がノイシュバンシュタイン城のように見えてくるが、ルートウィヒのような文化的遺産となって後世で評価されるかどうか怪しい。
□ 富山県の教育の頂点に立つ富山大学には人文、経済、教育、工、理の五学部(かつては富山らしく薬学部もあった)もあり、旧二期校(かつての差別化された言い方)では多い方である。しかも人文には八〇年頃、文化人類学、比較文化、言語学、朝鮮語などの学科が創設され、これほど充実した学科を揃えている大学はなく、東大を遥かに上回っている。日本では法学部や医学部のない大学を三流と考える傾向があるが、この充実ぶりはすごい。実学を軽んずる県としては異例である。しかし、これらは社会学者R・P・ドーアのいう「教育の後発的効果」の一つといえ、開発の遅れた国ほど焦って立派な教育制度を作りたいと願う、一点豪華主義の賜物である。だから、こんな立派な大学なのに入学辞退者が日本一多い【訳注*三位くらいである】。
辞退者数は富大が学生の自動車通学を全面禁止にしてからより顕著になったとされる。つまり、クルマ以外に魅力がない大学ならおさらば、というのだ。遊べるから大学に入るというのは日本の悲しい現実である。欧米人が夏に四週間のバカンスを取るのに対して日本人は大学で四年間遊ぶといわれている。禁止の前までは富大に合格するとクルマを買う親が多かった。下宿代が安くすむし、地方大学でガマンさせるには手っ取り早い方法と考えられたからである。教師も辞退する(富山のオピニオン・リーダー的存在だった文学部教授が新潟大学へ転出するという事件があった)くらいで前途は明るくない。教養部の解体も逸速く行われたが、学問の独立が保障されている大学でさえ文部省の意向に盲従してしまうようにみえる。まさに県民性である。
□ さて、富山の悪口ばかり書いたように思えるかもしれないし、富山の将来はどうなるのかという疑問もあるだろう。私が日本の一地方の富山を取り上げてドイツの人々に語りたかったのは「脚下照顧」ということである。これは日本に「他に対して理屈を言う前に自分の足もとをよく見ろ」という諺【訳注*禅家の標語】があり、自己反省を促す意味で用いられる。富山の人は東京や海外ばかり見ていないでもっと地元を大切にしろ、という意味でもあるし、我々ドイツ人もこれまで築き上げてきた文化を捨ててマクドナルドとコーラしか知らないアメリカ人のように振る舞うのは止めようということでもある。
すり身を寝かせておくと腰が強い蒲鉾ができる。これを「座る」(富山方言でネマル)というが、富山県人も表面にこだわらず、じっくりと腰を落ち着けて行動すれば未来は明るいだろう。
その鍵は情報にある。蓮如が没落していた真宗を復興できたのは京都を逃れて全国からの情報の集まる琵琶湖畔の堅田に逃れたからである。売薬業も銭湯も難無く情報を手にできる立場にあった。実際、情報産業のトップであるインテックの創業者・金岡家の家業が売薬であることからも想像できるように富山の未来は情報産業にかかっている。売薬さんが日本中に情報をばらまく(「安政の大地震のことを瀬戸内の人たちは富山の薬売りから聞いた」(清水義範『どうころんでも社会科』講談社)と同時に日本中から情報を集めたように世界中に情報網を作ることが重要である。
宮本輝『流転の海・第四部 天の夜曲』の中で久保という男が富山人というのは、地味ではあっても、進取の気概を内に秘めていて、粘り強く自分の仕事に工夫を凝らすという特質を持っているような気がする、というのに対して主人公の松坂熊吾がいう。
「わしの子供のころにも、家に越中富山の反魂丹と書かれた袋が置いてあった。愛媛県の南の涯じゃぞ。全国津々浦々、薬を背負うて、草履を履いて、一軒一軒、薬を置き、代金を計算し……。生半可な忍耐力やあらせんぞ。その代わり、日本全国でいま何が起こっちょるのかは、花のお江戸よりも先に、この越中に届いとったことやろ。各藩のお家事情も、どこそこの商家の女房の間男も、越中富山の薬売りは、みんな知っちょったということになる」
-----宮本輝『流転の海・第四部 天の夜曲』
□ 蒲鉾を結婚式で出すのは富山県人の功利主義に似あわない不合理の塊であるが、県民性の塊でもある。
果して結婚式の蒲鉾はなくなるだろうか?
馬鹿馬鹿しいと考える若者が増えてきている一方、結婚費用を親に肩代わりしてもらう若者が増えていて、親の意見を無視できない。富山の人々は蒲鉾に代表される不条理な結婚費用を見越して毎日の生活を送るのであるが、そうして結婚した若者たちも子どもが生まれるとすぐに富山の人間としての生活を自覚せざるを得ない。各地の情報を手に入れて新しいものに惹かれるくせに富山の古い伝統から抜け出ることができないというジレンマが「蒲鉾コンプレックス」として富山のミーム【訳注*“meme”遺伝子に対する文化の素みたいなもの】になっているのである。
恐らく、多少の変化はあっても蒲鉾は富山県の結婚式からなくならないであろう。蒲鉾が消えた時、富山は富山でなくなり、リトル・東京になりさがっているだろう。
蒲鉾のない富山なんてヒモのない越中褌みたいなものだ。
蒲鉾よ、永遠なれ!