インターネットのわっ! デジタル時代の新しい人間関係
Only Connect! That was the shole of her sermon. Only connect the prose and passion, and both will be exalted, and human love will be seen at its highest.
-------E.M.Forster in Howards Ends*
「あなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介にして外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」
-----村上春樹『ノルウェイの森』
●ホームページと自己宣伝
ある先生に「ホームページ」というものを説明していたら、「つまり、自己宣伝のことやろ」と言われてしまった。自己宣伝と言われると身も蓋もない。
しかし、的確でもある。
ホームページを作ってから色々なメールが届くようになった。
アメリカやカナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドやフランス、スペインや台湾、韓国、ルーマニア、フィリピン、インドネシア、アラブ首長国連邦!などから届くようになった。
今までの電子メールやニュースグループを主体とするインターネットが表札を掲げただけの「しもたや」とすれば、ホームページは大きな看板を掲げたお店を開いているようなものだ。
林望は読者からのメールはホームページには張り付けないという原則をもっているようだが、僕はむしろ読者のメールを積極的に張り付けている。インタラクティブにホームページを作っているといってもいい。その典型的なのが「新湊高校野球部」のホームページである。このホームページが機縁でファンどうしが知り合うということもあった。
面白いことにパソ通だと交友が「インターネット的」で色々な人が網目のように交遊する。インターネットだと「パソ通」的でホームページが中心でお互いの読者が知り合うことは稀である。
□ 卒業生からも懐かしいというメールが届くが、まるで知らない世界の人からもメールが届くようになった。アメリカで弁護士をしている女性など絶対に知り合うことのない人とも知り合いになれた。これで名誉毀損などで訴えられても万全?
新湊出身の人で尾道に住んでいる人からメールが届いて「娘が富山でやるロックコンサートに向かっているのでチケットを確保できたらお願いします」と書いてあった。世間は狭いもので、妻がその実家に電話をすると「えっ、金川さん、あの声楽家の?」と知っていた。おまけに登汐というレストランでチケットを渡すことにしたのだが、そこの夫婦の仲人をしているという。
また、一周忌をしたお店で「インターネットで紹介してもらってありがとう」と感謝されたこともある。
人間にはネットワークが大切だ。華僑が強いのも「バンブー・ネットワーク」というものをもっていて、これをお互い、最大限に利用しているからである。
ホームページを使ってネットワークを作ろうとは思わないが、自然発生的にできてくるようだ。
●アクセス状況----1ヶ月1万ヒット
僕の文章は印刷物で発表したものが多いのだが、印刷物で反響が返ってくることは稀で、配るとしてもタカが知れている。もちろん、中には僕の講演とかにエッセーを持参してきていて「面白かった」という人もいないわけではないが、わずかだ。
これに対してインターネットは一日に何十人かのアクセスがあって多くの人に読まれているし、反響が多い。しかも早い。
学校の方のホームページのトップページは1日平均200件、家庭の方は80件くらいである。多い日は250くらいのアクセスがあった。それでも月間で1000件以上、年間を通すと1万件以上のアクセスとなる。
これはトップページだけで、個々のページに対するヒット(アクセス件数)は1日300件以上なので1ヶ月10000ヒットということになる。2000年には1日500件、1ヶ月15000になった。
□ 最近はどの会社や自治体もホームページを持っているが、どこも似たり寄ったりでアクセスも少ないという。期待通りの反響がないという。ヒットがなければヒットもない。←ミットもないジョーク
これは作り方に問題があって、どの団体もパンフレットにあるのと同じようなホームページを作っているからである。
インターネットの特性はミニでもマスメディアに対抗できること、世界中に発信できること、すぐにアップデートできること、費用がかからないこと、そして個と個とつなげることがあげられる。
個と個を結ぶメディアということは個性が大切だということだ。どのように個性を発揮するか、主張するか、という観点が欠けたホームページは失敗する。
大都会というのは巨大な個の固まりだ。集団に押しつぶされそうな個が蠢いているといってもよい。その個に対して地方の個が、個人が、個性が発信して初めてインターネットの良さが生まれてくるのである。
その会社の人しか、その町の住民しか知らないような事実を発信するからホームページが生きてくるのである。
□ 不思議なもので実にコンスタントにアクセスがある。急に増えたり、0件の日があったりがなくて、同じ人だけが見ているのではないかと思えるくらいだ。
カウンターを付け、「見たよ」「見たちゃ」のアクセスボタンを付けた。これである程度、いつ、どんな人が、どれだけ来るか分かるようになった。
アクセスが多いのは毎日就業後で、特に金曜日が多い。休みになると少ないのは学生が平日に大学からたくさん利用しているためらしい。午前中が少ないのも寝坊の学生が多いからだ。
家の方のホームページは休みの日が多い。
□ そのうち、解析プログラムを入れてみた。どこから来ているか一目瞭然となったが、広告が出るので困っているが、どうかお許しを。
ある日(まだアクセスが少なかった頃でgooの検索が効かなかった時)の分析例を示しておく。
分析例 ●所属別 ●ファイル別 ●時間別 ●週間所属別 ●週間ファイル別 ●週間時間別 *なお、冒頭のアクセス分析とカウントの方法が異なる どんなエッセーが好まれるかも分かるようになった。ただ、表題を見て読むだけなので多くカウントされているエッセーが大いに好まれているということではない。
基本的には“三た”のホームページが好まれる。つまり、「楽しい、ためになる、たよりになる」の三つだ。僕の場合、たよりになることだけは絶対にない。
カウンターがトップページだけに設置されているせいもあって、全部を把握していることがないことも分かった。つまり、gooを使って必要なページだけを見て帰る人が多い。
CGもない、JAVAもない、地味なホームページにしては多い方だと思う。
一番すごかったのはノーベル賞作家ガルシア・マルケスG.Garcia Marquez(Organization: Columbia University)からも読んだというメールが届いたことだ(^_^;;;;
□ 村上春樹が「お店の経営」のこつとして、「10人来る客の9人に好かれようと望んではいけない。10人のうちの1人が繰り返し来てくれればお店は成功である」ということを書いていた。ホームページもお店と同じだ。リピーターがどれだけいるか、によってホームページの成功は決まってしまう。
□ ボタンを押すとNetscapeだとMozillaというメーリングソフトでアドレスが分かるようになる。MozillaというのはNetscapeの前身であるMosaicをやっつけるゴジラ(Godzilla)から名前が採られたのだ。
気になる相手は次のようなアンケートを返信で送っている。
☆どういうリンクからアクセスされたのでしょうか。
☆ホームページはお持ちでしょうか。
☆ホームページの感想もいただければ幸いです(好みのエッセーはありましたか)。返事がくるのは5通に1通なのだが、実に嬉しい。また、知らない人のホームページも見ることができる。
注目すべきは女性からのアクセスが多いことである。メールも多い。すごくうれしいのだが、こんな歳になってからモテてもしようがない。
若い頃にインターネットがあればよかった…。
●活字との違い
パソコン通信でも色々な事柄を知ったり、知らせたりできるが、相手が見えない。ホームページに相手の顔が張ってあると安心してメールを出せるのはまさに相手が見えてくるからである。
ホームページの文章は活字の文章と違う。違う必要がある。自分の文章がどうして好評かということを分析すると細かなギャグが積み重ねられていて読みやすいのだと思う。長いという人も確かにいるが、短いエッセーは僕の好みではない。
逆に短いエッセーを発表する人もいて、断筆を解除した筒井康隆が読売新聞のインタビュー(97/6/5)に答えて次のように言っている。
ネットで発表する『越天楽』や『天狗の落とし文』は、断片、いわばフラグメントの集積なんです。インターネットで読む人は、ネットサーフィンの片手間に短いものを読んで笑い、また別のところに飛んでゆく。ちょうど、自分の場合は、道歩いていても、めし食っていても、へんな考えがいっぱい浮かぶので、それを載せたわけです。以前なら、そうした断片をいくつかくっつけて小説をつくるというむちゃくちゃなことをしていましたが、この方法では、今までと同じだから、だいたいどういう小説になるか見えてしまい、面白くない。
どうもフラグメントのままのほうが面白い時もあるし、こっちのほうが、自分の資質にあっているのでは、と思いはじめていることろです。
●ホームページと検索エンジン
どうして僕のホームページにアクセスしてくるのか。
それは検索エンジンがあるからである。これにはYahoo(ヤフー)のようなディレクトリー型(登録型)とgoo(グー)のような検索ロボット型の2種類がある。
Yahooで「オペラ」を検索すると妻のページが2番目に出てきた。
「オウム真理教」で検索すると僕のページがトップに出てきた。
これは、Yahooの場合、URLを届けるとヤフーのスタッフが内容を見て紹介文を書いてくれるという親切な(?)システムになっているからだ。ヤフーには12名のプロのサーファーがいて毎日600件もある登録申込からホームページを開いて手作業で内容を要約する(97年現在)。どのホームページへのアクセスが多いか自動的に記録されていて紹介されることになる。
そのせいで、アメリカ留学中の宗教学を学ぶ学生から「オウム真理教の言語学」から引用したいというメールが届いた。そんな大層な内容じゃないので困ってしまった。結局、オウム真理教の復活が叫ばれるようになって説明文を代えてもらった。
また、コンピュータ雑誌「INTERNETmagazine」にViewpoint webcontrollerというのがついていて、面白いホームページにすぐにアクセスできるようになっていて、なぜか妻のが「童謡」、僕のが「お笑い」ではなくて「言語」に入っている、といって同僚に笑われた。
□ 検索ロボットを使うgooというのが使われてから、僕のホームページに対するアクセスが多くなった。本文に書いてあることで検索してくるのだ。アクセス状況を見ているとときどき、gooの検索ロボットが訪問して読んでいることが分かる。
例えば、次のように書くとこれで検索してくる人が増える。
BSのアナウンサーの住友○世さんはニュースアナウンサーとして最低だ。
あの大きな瞳を見ていると吸い込まれそうで、ニュースなんかそっちのけで見入ってしまう。首のホントに小さなほくろもセクシーで早くニュースのトピックが終わって住友真世さんのアップが見れないか、それだけが心配で心配で、ニュース内容なんか忘れてしまう。
彼女が出ているだけでニュースだ。いや、彼女のアナウンスだとどこかで核戦争が起きて世界の終わりがやってくる、という報道を流しても誰も聞きはしないだろう。
と、ここで書くとgooなどで「住友真世」と打った人が僕のホームページに飛んでくるということだ。別のホームページで彼女が国立音大の声楽科卒業で山形放送にいたことが分かるはずだ。
※と、書いていたら、まさにgooで「住友○世」さんで検索した人がやってきた。騙すつもりはないのだが、このまま多くなると「住友○世さん・ファンクラブ」ホームページを作らないとダメかも知れない。それにしても、夜の番組に変わってからの彼女はフツーのアナウンサーになってしまった!(^_^;)
なお、「ぽえしろ」さんから「住友さんは正確にいうとアナウンサーではありません。フリーのキャスターです。BSのニュースを担当している女性は全てフリー。番組改編の時期になると、何十人ものキャスター候補の中からオーディションで選ばれます」というメールが来た。
BSのアナウンサーが誰も僕に話しかけてきているような錯覚を持つのだが、よく考えてみれば、彼女らはプロンプターを使っていて、これがカメラのレンズのところにあるので、食い入るような目をしているのだと合点した。
□ ただ、gooは時々、アクセスした内容を忘れてしまうことがある。そういう時は途端にアクセス数が少なくなる。誰も読まないようなページでも別の検索ロボットだけは読みにくる。特に98年にgooの調子がおかしくなった時は1日30ヒットということも多くなった。
僕の所にアクセスしてくるキーワードが実に不思議なもので「カラクラ、エンジェル係数、タモリ、渡辺貞夫、英語教育、去勢、カストラート、社会現象」や「変な音楽のページ」とか本人の名前など多岐に渡る。一番面白かったのは京都に仏事に行くから「大谷」と「納骨」で検索して僕の「納骨の旅」が役に立ったというのだった。アクセスを増やしたかったら国語辞典の語彙を全て含んだページを作ればいい。
「虐待」で調べたという人がいたが、どの文章に出てくるか自分でも思い出せない。う〜ん。
僕に責任がないのでいえば、インフォシークで「言語学」を検索すると「言語学者の異常な愛情」がトップに出てきて2番目に東大言語学科の真面目なサイトが出てくる。
あたしゃ、知らないよ。
□ インターネットが即座に世界に発信できるというのは間違っている。というのも97年に母校の新湊高校が甲子園出場を決めたときにホームページを作って登録したのだけれど、Yahooなどで検索できるようになったのは10日後で、大会の前前日であった。検索できなければ誰も読みにこない。
伊丹十三の追悼文を書いた時には1ヶ月半もロボットがこなかった。検索できたのは二カ月後でロボットが来た日付からも2週間たっていた。
嫌われているのかしら?
□ 98年末に急に「大人は判ってくれない」にアクセスが増えた。おかしいな、と思った考え直してみると、このページに「キリコ」という単語が入っていたためだった。この年末に「ドクター・キリコ」による青酸カリ・インターネット&宅配事件があったからだ。報じられた時には既に閉鎖されていたのだが、何とか探そうとアクセスしてきたものだった。
BBS(掲示板)を作った。CGIを使って学校のホストでやれなくはないが、別のところで簡単に作れるところがあったので、商用だろうが構わず作ってみた。
まだ、誰も、というかごく少数の人しか書いてくれない。活発な掲示板もあるのにと妬ましくなる。掲示板が機能するかどうかはマスターの人望にかかっている。
みんなが掲示板を持つようになると今度は掲示板めぐりをしなければならなくなる。どこへ行っても「お久しぶりです」なのだ。
特に最初が大切で、仲間内の言葉で終始すると他人が入って来れないようである。
なるべく興味の違う人がいた方がいいが、ニュースグループのように喧嘩が起きたら大変だ。マスターを知っている人ばかりだから余計に面倒だろう。
99年に新湊高校が4度目2年振りの甲子園を果たした時には2年間のインターネット状況の違いがよく分かった。アクセス数が5倍以上に増えていた。また、掲示板を設けたので、いろいろとお互いに交流があったようだった。
実際に沖縄と千葉から新湊から一緒に応援列車に乗っていきたいという女性が訪ねてきた。応援のハタキをもって新湊―小松戦を見たが、「ミラクル新湊」で9―5の大逆転劇だった。
二人とも大喜びで帰っていった。
□ 掲示板では、なかには変な画像を張り付けたり、中傷を書いたりする人もいるようだが、掲示板を開いておくというのは非常に無防備なことである。そこまで行かなくても自分の間違いなどをいきなり、そこで指摘されるということも覚悟しておかなければならない。
実際、何度も間違いを発見されて冷や汗をかいた。
書く方は鬼の首を取ったような気分だろうが、大衆の前に恥をさらされるのはたまったものではない。
本当に嫌だ。
●ホームページとリンク集
僕のホームページは「リンクフリー(よかったら後でメール下さい)」ということになっていて誰がリンクしてもいいのだが、実際にリンクされているホームページは少ない(これはgooで調べることができる)。
したがって、リンクされたところから僕のところに飛んできている人は少ないように思える。
一番早かったのは「永久保存版」というホームページで、「このホームページに掲載されたRegionalisticにして知的な数々のエッセイはWWWも捨てたもんぢゃないとうならせるのに十分なものがあります。」と、ごく初期に誉められたのでうれしかった。
「いのちのともしび」というところにリンクされていて驚いたことがある。だって、僕の文章は「ジョークのともしび」程度だ。
もっとすごいのは『ゆきゆきて、神軍』で人肉食を少し扱っているもので、「人肉食研究会」からリンクのお願いがきたことだ。丁寧にお断りした。
「最新ニュースを追いかけるのに疲れたあなたに。」といって紹介されているのは嬉しい。
嬉しかったのは渡辺貞夫さんのホームページのリンクに僕の「ムバリ・アフリカ」が張られたことである。トップページにリンクを張るのが本当なのだが、この場合はそのまま文章に張り付けてある。
□ もちろん、アメリカのホームページにもいくつかリンクされている。
一番恥ずかしいのは真面目なホームページにリンクが張ってあることである。
なんと、カリフォルニア大学のバークレー日本語学科のLinguisticsのリンクに僕のが張ってある。バークレー校というのは日本ではUCLA(ロスアンジェルス校)の陰に隠れているが、あの『卒業』の舞台となった大学である。エレーン!
しかも、僕の前が大言語学者で生成文法のNoam Chomskyと社会言語学のWilliam Labovなので絶対に止めてほしい!とメールを書きたいのだが、Chomskyと一緒になれることは絶対にないので、躊躇している。
いや、お願い、そのままにしておいて!
●ホームページの反応
面白いものでいろんな読み方があるものだと思う。誰に読まれているか分からないから怖くもある。だから、ホントの悪口はかけない。気を配っていても抜けることがある。
独身の人からは「カタログの歌」が希望の星だといわれたし、既婚の人からは近所の人にも配って読んだ!といわれた。(偉そうにいうようだが)作品は作者から離れるというものの、本人がそんなに受けるエッセーではないと思っているのだが、なぜか妻も大好きだという。
言語学関係者には「言語学者の異常な愛情」や「新解さんの謎を解く」が面白いといわれる。仏文の人からもメールをもらった。
東北大の先生からは和崎洋一先生の名前を見てスワヒリ語を教わったのだが懐かしかったと書いてきた。
物性物理を学んでいる人から西江雅之先生のことが分かったといってきた。
リテラシーの文章(自信作ではない)をプリントして学生に読ませているという大学の先生もいた。
「菊と蒲鉾」や「落語 コシ・ファン・トゥッテ」は富山県の人には大うけしている。
「珍名」で検索していて「名前と人間」を読んだので資料がほしい、という問い合わせが日本テレビのドラマ「ガラスの靴」の関係者からあった。慌てて調べてみると主人公の名前が安藤夏だった。
文章の読みやすさには気をつかっているつもりだが、ポレポレ日記について、こんなメールも来た。
非常に読みやすい文体ですね。金川家の様子が浮かんでくるようです。ちょくちょくは来れないかも知れませんが、これからも拝見させていただきます。
昔の教え子からは僕も学生に手を出すようになったことを知って驚いたといわれた。実際にはほとんど出さないのだけれど、文章になるといつも手を出しているようにみえるから怖い。
また、情報工学科の担任をしているせいで情報工学の先生だと思われているフシもある。パソコンに詳しいね、といわれるが、周縁をウロウロしているだけで、中身に関しては詳しくはない。
誤解する権利は読者にあるのだから仕方がないことだ…。
□ 音楽関係の人は妻の方に興味がある。同窓の人もメールを送ってきた。
おかげで妻はNTTでインターネットに関する講演(公演ではない)もした。
講演を聞いてインターネットを始め、僕のホームページにアクセスしてびっくりしたという話もある。
妻のホームページ(何で僕のじゃないんだ!)がテレビで紹介されたこともある。
子供のフォーラムを持っている人からは「レット・イット・ベビー」が面白いからリンクさせてくれ、といってきた。
全部印刷して読んだ人が何人もいて、おかげで僕は久しぶりに子育ての講演をした。印刷してファイルしている人もいる。本人さえしていないことなので止めてほしい。それに最初にアップした文章は不都合も多い。
しかも、重複があるといわれた。そんなに読むとは思っていないからだ。それに「知」の組み替えというか文章を他の新しいホームページに回すこともあるからなのだ。タイムラグがあると違ったホームページで同じ文章を読むことになる。
「本を買うよりもいい」と言われたり、「本になってないのですか?」と聞かれたりする。
お世辞でも嬉しいが、僕の文章はインターネット向きである。つまり、細かい話の連続で一つ一つにはオチがついている(はず)。そして何よりも、人様からお金を取れるような内容ではない。
逆に言えば、お金も取ってないのに文句をいわれる筋合いはない、ということになるが、それではあまりにも無責任である。
ホームページの内容に関して、今のところ、大きな抗議はない。
高校生向けのいじめの文章に抗議文を送ってきた人がいた。暴力絶対反対で「最後にジョークのうまい先生を大切にと書いてあるのはどうしてですか」と聞かれて困ってしまった(うーん)。僕のページにモラルを期待するのが間違い?
もっと困るのは冗談で書いていることが前後から(全体から)明かなのに「学生に訴えられたって本当でしょうか」といわれることだ。相手がまじめにとっているだけに返事のしようがない。
でも、これは珍しい方でニュースグループの反論と違って、お互いに感情的にならずフレーミングにならずにすむ。
98年2月に一つだけ抗議があった。これは名前に関する部分だったのですぐに削除した。重ねてお詫びします。
もちろん、抗議をしてくる人が全てではない。どの教師も犯しているようにどこかで密かに誰かを傷つけているかもしれない。この場を借りてお詫びします。
僕の学校での立場を心配してくれる人もいる。こんないい加減なことばかり書いて、しかも少し内情を曝らしているからだ。
落ち込むこともあるけれど、私は元気です。
●ホームページとプライバシー
97年になってから近所の人でもうちのホームページの裏というかサイトBになっている「ポレポレ日記」などのホームページを読んだという人が増えてきた。
オペラを見ていた時にいきなり隣のおばさんが「金川さんですね、ホームページ読みましたよ」と言われたり、飲みに行った割烹で「インターネットでうちを紹介して下さってありがとう」と感謝されたり、「すごいね!あれだけ文章を打つの大変だったでしょう」とか「本当にあんたが文章書いたのか、打っただけなのか」と言われたり、「最近、進化してませんね」と冷やかされたり……。
あるオペラの会派の人から「辛辣なことを書いていますね」と妻が嫌みを言われたこともあったが、その文章を書いたのはこの僕だ。ホームページというと家族みんないっしょくただと思われているようだ。
インターネット・ユーザーが増えてきているのをひしひしと感じる。おかげでホームページの作り方が少し違ってきた。というのも、遠方の読者しか念頭に置いてなくて、家族日記などは「旅の恥は掻き捨て」という感じで思ったまま書いていて、ちょっこぉローカルな感じのホームページになっとったがやけど、少しよそ行きの言葉に変えなければならなくなった。
それに何よりも子供達のプライバシーがある。サイバーストーカーに注意しなければならないし、大きくなってから勝手に公開していたと怒られても困る。
テレビ局からよくできたホームページだし、三世代がパソコンを使っているところを是非撮りたいといってきたが、さすがにこちらは危ないご時世なのでお断りした。
祐貴が小学校2年の時に「嫌なので当分やめてくれ」といったので祐貴の分は書かないようにした。どうやら、親が読んでいることを同級生から言われて嫌だったようだ。
□ 2003年暮れにホームページに関する大きな事件が起きた。新潟大学工学部で立てこもり事件が起きたのだ。逮捕された米国人の男子学生(23)が「HPで女子学生の写真を見て会いたかった」と動機を供述したからだ。米・シアトル市から新潟市まで約8000キロ。飛行機、車を乗り継ぎ、やってきた。ネット社会で起きた思わぬ事件に、大学はHPの掲載内容に関するルールづくりを検討し始めたという。
この女子学生は、工学部に在学していた。研究室のHPに、個人のページをつくり、自己紹介や学生生活の写真、日記、メールアドレスを掲載していた。この女子学生が所属する研究室に短刀を持った米国人の男子学生が立てこもって叫んだ。「彼女に会わせろ。でないと、指を切る」。教授が説得し、事務室に連れて行った後、男は逮捕された。
男はかつて日本に住んでいたが、女子学生と面識はなかった。警察の調べに、男は「昔つきあっていた女性と同じ名前を検索したら、彼女のHPを見つけた。かわいくて、ぜひ会いたいと思った」と話したという。男がHPを見つけたのは12月の初め。8日までにシアトルから3通のメールを送った。翌9日、東京に来て数日滞在した後、事件前日の18日に新潟市へ。この間も4通のメールを送っている。女子学生が無視していると、「なんで返事をくれないんだ。なぜ会ってくれない」と内容はエスカレートしていった。そして事件が起きた。これをきっかけに、新潟大の学生のホームページが消え始めている。
●ネット恋愛
僕はネット恋愛していて、その報告を書く。
という日はまだ来ないので頭の中で考えたことしか書けない。若い頃、ネットがあったらよかっただろうな、ということは暗い青春とともに想起しない訳にはいかない。
□ ネット恋愛というと森田芳光監督の『(ハル)』があって、(ほし)の深津絵里もいいけれど、(ローズ)の戸田菜穂のきわどいセリフも最高だった。
メグ・ライアンとトム・ハンクスの『ユー・ガット・メール』もネットの可能性を教えてくれる貴重な映画になっていた。クライマックスはメグ・ライアンが相手を待っているシーンとラスト・シーンであった。
□ 僕も何度かネットを通じて知り合った人とオフで会ったことがある。
僕自身、かっこいいタイプではないので、恥ずかしさも半分以上ある。別にかっこ悪い人間ではないのだが、気恥ずかしくなる。文章でかっこいいこと(?)を書いているくせに、会ってみるとくだらないギャグ人間だった、なんて思われるのも嫌だ。だから緊張してしまう。
□ 精神科医のエステル・グイネルが書いた『インターネットの恋』(インプレス)という実用的な恋の本が出た。
この本によれば、ネット恋愛した人の多くが、「この恋は本物なのか」という不安を抱えるという。どの恋も幻想的で、結婚とは大違いの事業なのだが、ネットの場合は特に相手の一部だけで恋愛に陥るのだからややこしい。コミュニケーションのうち、言葉だけのコミュニケーションで伝わるのがせいぜい1割くらいだから、後の9割を隠したままで恋愛に走ることになる。もちろん、古くは文通による恋があったし、お見合いだって、相手の(多くはとびっきりきれいな)写真と「釣書」だけで会うことになる。本質的なことはネット恋愛でも変わりはしないだろう。
それでも、不安を感じるのはネットというのがまだまだ未知なメディアだからだ。文通など以上に「近くて遠い仲」というのが生まれている。
グイネルの本に登場する人の不安で面白いというかよく分かるのは「彼の写真を見るのが怖い。彼とは多くのメールを交わし、心はつながっていると信じているが、もし、彼の外見に嫌悪感を持ったら、自分は外見に惑わされるような次元の低い人間なのかと思うと怖い」という心境である。
お見合いの場合は家庭的にも経済的にも学歴的にも釣り合った相手が選ばれているし、相手の素性もおおよそ分かっている。
ところが、ネット恋愛の場合、自分の目を信じるしかない。
□ 自分の目を信じるといっても、相手が本当のことを書いているかどうか分からない。さっき、「僕自身、かっこいいタイプではない」と書いたがこれは大ウソで、本当はハンサムかもしれない。後ろからこの文章を眺めている妻に脅されて、そう書かざるを得ないのかもしれない。
知人にしても相手が「妻との間が冷え切っていて」とどんなに書いていても、家庭に帰れば仲良し夫婦なのかもしれないのだ。うっかりそんな言葉に“引っかかる”女性がいても不思議ではない。
実はこうやって書いている僕も人工頭脳かもしれない。チューリングの夢見た「人工頭脳」が完成していて、相手が存在していると思っていても、コンピューターが答えているだけ、という状況なのかもしれない。
□ ということで、今度はバーチャルな報告ではなく、リアルな報告にしたいので、協力者を求めます。(^o^;)
●オペラ座の怪人
多方面から読まれていて、なかなか多彩なホームページだと自分でも思う。
でも、「面白いエッセー」といわれるとそれ以上の文章を書かなければならず、段々、地獄に陥ってしまうような気がしてくる。実際、日記を書いていたが、書かなかったら催促のメールが来るようになり、プレッシャーで止めてしまった女性がいた。
それに間違っていても後で訂正にしようがない。
怖いのはずっとホームページの改訂ばかりしていて仕事を何もしない人間になっていくのではないかということである。
オペラ座の天井裏のような巣窟で作業をしていて「見たな!」といって振り返るような人になっているのでは?
もう既に学生たちから「陽のあたらない教室」と呼ばれている!?
□ 山形浩生は『新教養主義宣言』(晶文社)でホームページが「ヴァーチャル墓場」になり、そこへのアクセスが「供養」になる可能性について書いている。ホームページをつくっていた人間が死んだ場合(たとえば私が死んだ場合)、そのあとホームページはどうなるのか。誰かがそれを保存しようとした場合、どうなるのか。山形は次のように予測している。
消すに消せないページが増え、その一方でそれらのページは、それ自体は古びることもなく生前と同じ姿を永遠に保ち続けるものの、そこへのリンクは失われ、そこからのリンクもだんだん消え、やがて無縁仏ならぬ無縁ページと化す。われわれはたまにそれを悼むようにして訪れることになるであろう。
本人の死後も、公の場所で残り続け、個人の情報を発信し続けるホームページ。それはいわば墓のような存在である。【…】それは今の墓参りよりはるかにビビッドでリアルな、そして個人的でひめやかな体験となるだろう。【…】そこには死者と生者の感情がからみつき、独特の世界をつくりあげるだろう。
●ホームページの意義
恥ずかしいのはやっぱり同僚に読まれることで、ニヤニヤしながら「面白かったですよ」といわれると穴に入りたくなる。
読者をどこか無関係の遠い人に設定しているからである。それに偉そうなことを書くと、「何いってるんだ」と非難されそうで、どうもいけない。
先日、忘年会で課長に「先生のホームページ面白い」と言われて焦ってしまった。ところが、話を聞いていると学科からのリンクで最初に出てくるプロフィールが英語で書いてあって、趣味がPractical Jokeと書いてあるのが面白い、という話だった。ホッとした途端、S先生が「写真をクリックするともっと面白いよ」などと余計な口を挟むので困ってしまった。
自慢することは一つもない人間なので(と、自慢してるって!?)偉そうなことは書いてないし、書けないが…。
□ 他にも次のようなメールがきた。
子育て三部作には随分と刺激されることもあり、自分のページを作る気にもなってきました。(僕の文章の中にある)「なすがままに、きゅうりはパパに」「もってターザンの石となす」を我が家の基本的態度にしようかと思う今日この頃です。
□ もっと嬉しかったのは大学時代の下宿の息子さんがYahooで検索していたら、僕の名前が出てきたのでびっくりしてメールをくれたことである。東大の工学部を出てからずっと海外に行っていると思っていたのに帰ってきていて所長になってホームページも作っているということだった。大学の先生になっているお姉さんともメールで連絡が取れたし、何よりも下宿の同窓会を開くことになった。
□ パソコンで家族が分断するのではといわれるが、違うと思う。テレビでは同じ画面を見ていてもコミュニケーションを生まないが、パソコンは徹底した個人主義的な存在にもかかわらず、インターネットなどを介して新しいコミュニケーションのスタイルが生まれ、家族を結びつける。
今は家族が一緒だけれど、子供たちが離れて暮らすようになると威力は倍増するだろう。
マイナス面も多いけれど、そうした意義がマルチメディアにはある。
□ 冒頭のOnly Connect というのはフォースターの小説『ハワーズ・エンド』(1910)の冒頭に出てくる彼の標語である。
人間の生活も文化も精神も、この「結びつき」によって変わり発展し、断絶もする。この作品では物質主義的なドイツと精神主義のイギリス、シュレーゲル家とウィルコックス家、現実的で理知的な姉・マーガレット(アイヴォリー監督の映画1992年ではエマ・トンプソン)と理想主義で感情的な妹・ヘレン(ヘレナ・ボナム=カーター)、富める者と貧しき者、都会と自然といった対立が出てくるのだが、これらが全てOnly Connect!すればいいという願いがこもっていた。
オンリー・コネクト!
ねじまき鳥さん、正直に正直に正直に言っちゃうと、私はときどき、ものすごく怖くなります。夜中に目が覚めて、ひとりぼっちで、誰からもどこからも五百キロくらい離れていて、まっくらで、どっちを見ても先のことなんかぜんぜんわからなくて、本当に大声で叫びだしたいたいくらいこわくなるのです。ねじまき鳥さんにはひょっとしてそういうことありませんか? そういう時、私は自分がどこかに結びついているんだと考えるようにしています。そして、結びついているものの名前をアタマの中で一生ケンメイ並べていきます。その中にはね、もちろんねじまき鳥さんもはいっています。あの路地も、あの井戸も、柿の木も、そういうものもちゃんとはいっています。
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(新潮文庫)【「僕」のことを「ねじまき鳥」と名づけている笠原メイの手紙】