金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)

秘境のオペラ
『奥様女中』始末




もし音楽が愛の糧なら、続けておくれ。
         ------シェイクスピア『十二夜』

●第一楽章 フリオーソ
●第二楽章 アジタート・マ・ノン・トロッポ
●第三楽章 マエストーソ
●第四楽章 ア・ピアチェーレ


  第一楽章 フリオーソ

 『フィッツカラルド』という映画がある。

 ヴェルナー・ヘルツォーク脚本・監督作品で十九世紀末南米ペルーの冒険家フィッツカラルドはマナウスで開かれたエンリコ・カルーソー主演のオペラ『エルナニ』に感激する。何しろ、山賊エルナニ役で息絶え絶えのカルーソーが(長旅で遅れてきた)客席のフィッツカラルドの方へ手を伸ばしたのだ。「ぼくを指さした!見たかい、カルーソーが僕を指さした!」。

 この感動からフィッツカラルドは未開の土地にオペラハウスを建てようと決意する。資金繰りのためのゴム園を作る準備にとりかかるが、目的地に達するには汽船を山越えさせなければならない。インディオたちの手を借り、七カ月に及ぶ決死の山越えが敢行される。

 無惨な結果に終わるのだが、ラストでは代わりに船上でオペラが上演され、財産をすべて失いながらもフィッツカラルドは満面の笑みを浮かべる。

 という内容の映画なのだが、撮影にも困難が続き、主役が三度代わったといわれる。『キンスキー、わが最愛の敵』という映画でキンスキーも降りると言い出したのだが、監督は銃を突きつけ「お前がここから出ていくなら、お前を撃ち殺し、おれも死ぬ」といったそうだ。ヘルツォークは天に向かって鋭くそびえる山を見た時、「霧が晴れ、奇跡のように神の恩寵が与えられた」「私はいま二度と見られないものを見ている。この日、私の運命は決まった」という。アマゾンの奥地でオペラを上演しようという狂気の映画だった。

 南米ではない、ここ富山でもオペラが上演されることは少ない。 知っている範囲では八八年にS会でモーツァルト『魔笛』が、八九年にはK会でハイドン『月の世界』が上演された。

 前者は出演した友人でさえソウゼツだったと、めまいしながら話してくれた代物で、簡単な舞台にピアノ二台の伴奏がついた。途中止まらなかったのだけが不思議といわれている。後者は一部カットされていたが、オーケストラ(吉川英貴さんがコンサートマスター)もつき、立派な舞台装置が作られ、妻も出ていたからいいにくいのだが、成功だった。いつか富山で会派を越えてできればいいと指摘された。実はこれが容易ではない。

 なお、全く偶然ながら、先のオペラを主宰した二人の先生はその後、教授に昇格、または就任している。


  第二楽章 アジタート・マ・ノン・トロッポ

 オペラ上演の発端はアンサンブルホールであった。昨年(一九八九年)十二月に富山市民プラザの目玉として完成したホールで、サントリーホールと同じ設計者が設計したものだという。このこけら落としに妻が出演し、妻の大学の恩師、内山太一先生も富山女性アカデミーの指揮者として出演した。何しろ、音響がやたらいい。他のホールがレコードだとすると、CDを聞いているようなものだ。上手な人はより上手に聞こえ、下手な人はより下手に聞こえてしまうのが難点といえばいえる。アンサンブルができてなければ、バラバラに聞こえてきてしまう。

 キャパ(と、この業界の人は得意そうにいうが収容人数のこと)が三〇八で小さく、ピアノの音は相当絞らないと響きすぎる。つまり、声楽向けのホールなのである。ともかく、暮れの押し詰まったこの日、先生も妻も僕もすっかり気に入ってしまった。是非、このホールでリサイタルを開きたいね、来年がいいね、といって別れた。

 明けて一九九〇年正月、内山先生から『奥様女中』 (La Serva Padrona)をやろうといってきた。楽譜は四年前、妻の卒業時に勉強しておけ、ということで渡されていた。

 『奥様女中』というのはプログラムに書いた文章をそのまま引用すると次の通りである。

 一八世紀の初めごろ、ナポリ派オペラ隆盛時代に、コンメディア・デラルテの形式による喜劇的な内容でオペラ・セリア(正歌劇)の幕間にインテルメッツォが上演された。後にこれは独立し、オペラ・ブッファと呼ばれるようになっていった。『誇り高き囚人 Il Prigionier Superbo』の幕間劇として作られた『奥様女中』はオペラ・ブッファの原点ともいわれ、夭折した天才作曲家ペルゴレージ(Giovanni Batti-sta Pergolesi 1710-1736)二三歳の作品である。初演は一七三三年八月二八日で、一七五二年にはパリのオペラ座で上演され、フランス音楽史上の一大転機となった「ブフォン(道化)論争」の引金となった。 これは反対派であるラモーを中心とする宮廷楽派と賛成派であったルソーを中心とする啓蒙主義者との間に大きな対立を生み出した。

 登場人物は金持ちの老人ウベルト 【喜劇の伝統ではパンタレオーネに相当】、女中セルピーナ【コロンビーナに相当】、下男で黙り役のヴェスポーネ【アルレッキーノに相当、つまり秩序の破壊と再生を繰り返すトリックスターの役割を果す】 の三人である。 ペルゴレージはナポリの音楽院に学び、当時としては革新的なホモフォニーを重視し、繊細な情緒、感傷性を示していた。代表作として、このほかに「スターバト・マーテル」が知られている。

 つまり、能に対する狂言みたいなオペラで、女中が初老の主人との結婚を決意し、下男に偽の結婚相手になってもらい、嫉妬させたり、脅したりして奥様になるという単純な喜劇である。ブッファの伝統はモーツァルトの『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』まで続いている。ブフォン論争は「あたかも国の安危にかかわるかのような大さわぎとなった」(桑原武夫編『ルソー』岩波新書)くらいで、ルソーは生命の危険すら感じたという。

 江森一夫『オペラの楽しみ方完全ガイド』(田中書店)によれば次のような特徴がある。

オペラ・セリア

オペラ・ブッファ
●神話や英雄・歴史的人物を主人公とするシリアスな物語 ●同時代人や現世の常人を主人公とする喜劇
3幕構成が基本 2幕構成が基本
●アリアの数は登場人物の序列にしたがい、レチタティーヴォ(筋書き)+アリアという構成が厳格に守られる(ブッファでは厳格ではない) 三一致の法則にしたがう
 ・1日のうちで[時の単一]
 ・1つの場所で[場の単一]
 ・1つの行為だけが完結する[筋の一致]
●重唱・合唱はあまり使用されない(アリアが主) ●重唱・合唱が多用される(聴衆の視点)
カストラート(去勢男声歌手)に重要な役が与えられる バッソ・ブッフォ(道化的男声低音域)に重要な役が与えられる
●各幕の幕切れにはアリアが歌われる ●各幕の幕切れにアンサンブルが多用される

 ある先生がオペラのあとでヴェスポーネの解釈が間違っている、と発言されたそうだが、即興喜劇であるコンメディア・デラルテの影響の下につくられたのであり、どのようにいじろうとカラスの勝手である。アルレッキーノ、またはハーレクィンのトリックスター的性格さえ保っていれば十分である。この伝統はマルクス兄弟のうち、一言もしゃべらずに秩序を破壊することに専念したハーポ・マルクスにまで及んでいる。道化の歴史をも知らずに批判するのは浅はかすぎる。

 三月、出張したついでに東京で『奥様女中』のCDを探す。輸入盤専門店をあちこち回り、ようやく見つける。勝手な解釈にならないよう耳を通しておかないといけない。聞いたら、バリトンの声も雰囲気も太一先生そっくりなので笑ってしまった。

 五月の連休を利用して先生が帰省され、日本海御亭で飲みながら相談する。義父さんも一緒で、長男の祐貴が一歳も歳上の子を泣かせたといって大喜びしている。

 先ず、黙り役のヴェスポーネをどうしようか、ということになったが、先生は僕にやれば、という。しかし、それでは楽屋落ちだし、インパクトがない。いっそ、落語家の立川志の輔が最近、有名になっているし、どうでしょう。でも、忙しくてダメかもしれないといってみた。先生は志の輔を知らなかったが、落語家と共演することは落語の間を習うことにもなるし、『奥様女中』も元々は落語みたいなものだし、ゼッタイいい、ということになった。オペラ・ブッファも「喜歌劇」としたら、オペレッタみたいだし、いっそ名前も「落語歌劇」でどうでしょう、で決まった。お互い飲んでいるから決断も速い。

 太一先生はお山の大将になることが嫌いで、○×会というのを主宰していない。でもオペラを上演するとなると○×会という名前がないと、いちいち面倒である。先生はいつも自然な発声を強調し、いわゆる喉声は大嫌いだ(多くの日本人が好きなのは喉を締め上げて、いかにも頑張っています、という発声で、これにボリュームさえあれば音痴でもうまいとされる)。そこで自然と関連をもたせ、タイチを一字だけ換えてダイチ、すなわち「グループ大地」とすることにした。

 便宜的に会を作ったのに、中にはクレームをつけてくる人もいた。この狭い富山県で、どの会派も自民党以上に閉鎖的で、うっかり別の会派のコンサートに出ようものなら、ホサれてしまう。まして、会派を超えて音楽会を開くなんてゴルビーが指導しても無理である。

 コンサートのチラシにはたいてい、協賛とか、共催とか、後援とかの団体名がいっぱい並ぶ。それはそれで結構だが、いちいち名前を載せることを頼んでまわるのもいやだ。市民プラザに尋ねたら、協賛にしてもホール使用料は安くならないという(安くなるホールもある)。だから、いろんな団体名を右や左の旦那様みたいに並べるようなことはやめた。キョウサン主義はもう古い。

 この時まだ、先生はピアノ伴奏でいくつもりだった。それではあまりにも寂しいし、発表会みたいだ。第一、アンサンブルホールでピアノは響き過ぎる。元の形は弦楽四重奏にチェンバロである。チェンバロは太一先生の奥さんの節子先生が弾けるということだった。節子先生は武蔵野音大での先生の教え子で、僕は思ったこともないが、美女と野獣だという人もいる。金沢二水高校出身の才媛で、ピアノ伴奏者としての腕は確かだ。でしゃばらないで相手を引き立てる、という当たり前のことが難しいのだ。チェンバロはだから、奥さんと決まったが、上手な四重奏団のアテがないという。

 僕には幸い、アテがあった。十二月のアンサンブルホールのこけら落としの時、アルプス四重奏団がモーツァルトを演奏していて、これが大変よかった。四人のうち、チェロを弾いていた高田剛志君は僕のかつての同僚、高田の哲ちゃんの息子さんである。剛志君はお母さんと一緒の京都芸術大学に通っている。高田の哲ちゃんは数学の先生なのに県内で二人しかいないチェロ指導者の一人である。飲むと必ず結婚相手は絶対に音楽家にしたかったんや、というオノロケになる。蛇足ながら、太一先生の方は飲むとセツコッーと叫ぶ癖がある。

 僕の結婚は考えてもいないパターンだった。とはいえ、プロポーズで「キリ・テ・カナガワになってくれ」といった手前もあって色々と手伝わなければならなくなっている。「婦唱夫随」の典型だ。そのうち、「濡れ落ち葉」とか「わし族」とかいわれるに違いない。テ・カナワはしかし、昔から大好きな歌手である。特にアイヴォリー監督作品『眺めのいい部屋』(フォスターの小説の映画化)を観てから絶対的な支持をするようになった。美貌の歌手だといわれるが、大好きなバーンスタインの、だ、大好きな『ウェストサイド物語』のメイキングのLDには化粧なしの顔が映っていて、いっては悪いけど父親のマオリ族らしさが出ていて、つくづく僕は歌に惚れたんだと納得する。因みに妻はキャスリーン・バトルが好きで、彼女の路線を狙っているようだ。

 二週間後、アルプス四重奏団に出演してもらうことが決まった。指揮者はどうするか。カラヤンは死んでもういない。色々考えてみたが、結局、アルプスを育てた大沢和夫先生の方が練習の都合もあっていいのではということになり、お願いすることになった。県オーケストラ連盟の理事長で、妻はコダーイの「テ・デウム」のソプラノソロで共演したことがある(この曲を引っ提げて県青少年オーケストラはハンガリーへ行ったのだが、あちらのソプラノは途中で息切れしてしまったと同行した人がいっていた)。

 さて、ヴェスポーネ役である。立川志の輔は新湊出身で、僕の一つ後輩に当たるが、面識は勿論ない。後援会の友人にプロダクションの電話番号を聞き、早速、電話する。友人にはギャラが高くて払えないのではといわれたが、その場合、入場料を高くすればすむから心配はない。しかし、予想どおり、平日は朝の番組にレギュラーで出ていてダメだし、八月は既にスケジュールが一杯だといわれた。仮に調整しても練習時間はとれないし、かといって練習不足で下手なことはしたくないとの返事だった。

 当然なので次善の策(良楽さん、ごめん)をとる。富大を中退して円楽門下に入り、最近、富山で売り出し中の三遊亭良楽さんにあたってみる。電話に「三遊亭良楽」と載っている筈もなく、困ったけれど、おいしいお酒を飲ませてくれる酒肆真酒亭で開いている寄席の常連なので、ご主人に電話を入れる。「まだまだ修行の身ですからきっとオペラとかおもしろい企画は0Kしてくれますよ」との話で、一週間後に快諾をもらう。挨拶に行った時、良楽さんが大柄で、わりにハンサムなのに感激してしまった。太一先生とは正反対だから(先生、ごめん)、オペラが作りやすくなった。

 せっかく落語家が出るのだから、舞台を和風にしたらどうか、と提案してみた。ヨーロッパでも大好評だった『NINAGAWAマクベス』が記憶にあった。蜷川幸雄演出は和風で舞台全体が仏壇になっている。登場人物の名前はマクベス、マクダフというようにそのままだ。だから、落語の高座や屏風をそのまま利用して、落語家の格好で出演しても決して違和感はないだろう。東京では時々、上演されているオペラで、対抗するにはこれだけのインパクトがないとダメだと押し切った。押し切ったものの、富山初演なのに、奇をてらっているとみられるのも嫌だし、やっぱりオーソドックスに洋風にしようかと心がビオレッタみたいに千々に乱れた。

 ところがむしろ、太一先生の方が和風にこだわり始め、送ってきた訳詩も和風に変更されていた。当時のお金持ちであることを示すチョコレートを飲む習慣が梅干入りの朝粥に、コートが羽織りに、下男が変装して出てくる時の名前がテンペステ(嵐)から雷大五郎となっていた。

 入場料は二千円ということにした。学生券も考えたが、三〇八のキャパではとても半額の学生券を出すことはできない。満員にしても総額六十万円の予算しかない。招待客を考えると五十万円にしかならない。安くして、子供がいっぱいになっては大変だ。小さい子供をたくさん教えている人のリサイタルは夏休み子供大会のようになることがある。親に売りつけたな、ということがモロ分かるし、あまりいい感じではない。学生主体の合唱団から高いといわれた。この話をしたら、節子先生は「聞いてからにしてよね」ときっぱりといわれた。とても印象的だった。音楽はすべての物音の中で一番高くつく。

 アンサンブルホールには幸い、チェンバロがあった。チェンバロのレンタル料と輸送料を考えるととても二千円では賄えなかっただろう。チェンバロのない会館では実現不可能だ。高くしたら客が入らない。東京で上演したことのある妻の友達に聞いたら、電子楽器を使ったというが、そんな恥ずかしい手抜きはできない。

 妻が前にリサイタルを開いた時、プログラムやチラシの印刷代に二五万円かかったという。総予算の半分が印刷代!アホか。

 実際、多くの音楽会で立派なプログラムが作られ、同人誌みたいに読まれぬままに忘れさられる。その経費を広告代で稼いだという。確かにプログラムの後ろにたくさん広告が並んでいる。見てもせいぜい、この人とこのスポンサーの関係は何だろう、と推理を巡らす位のもので企業の広告にはなっているはずがない。三百人かそこらの客しかいないし、みんな見るとは限らない。見ても売上につながる確率はゼロだろう。帳簿で処理できる範囲のお金かもしれないが、やはり人に迷惑をかけることになる。それにいちいち広告をとって歩くヒマがあったら、練習をすべきである。

 広告は最小限にすることにした。それには印刷代を低く抑えなければならない。全部ワープロで打つことにしたら、経費は従来の三分の一で済む。いちいち頭を下げて歩く手間暇を考えたらただみたいなものだ。全くオマケみたいだったが、校正がないので印刷日数も少なくて済んだ。お陰で上演十日前に出た新聞記事をプログラムに載せることができた。

 広告主にしても三十分の一より、六分の一の方が見てもらえることになる。結局、六社のみの優良企業にお願いした。ある楽器屋さんだけは妻との関係で簡単に掲載してもらえると思っていたら、最近、コンサートが多くて、中にはン十万円の広告を要求してきた人もいて(音楽家には非常識な人が多い、でも引き受けたそうだ)、とても応じられないと断られた。気軽に頼んで申し訳ないことをしたと思う。後日譚があって、演奏会当日、その楽器屋さんの担当者から「これは私の気持ちです」といって、広告料と同額のお祝い金をいただいた。

 しかし、いずれにしても一つの大きなスポンサーがついてくれて、せめて二十万円でも補助を出してもらえたら、解決することだ。冠コンサートが東京では批判を受けているが、文化果つる富山では大歓迎だ。YKKとか、北電、北銀がその使命を担うべきだろう。テレビの無意味なCMを一つ減らせばいいことだ。特にYKKは世界に誇れる音楽ホールを作る使命があるというのが僕の持論である。

 チラシも作らなければならない。ポスターなどの作成は慣れているので、和田誠さんのイラストを参考にして描く(ごめんなさい)。最初に描いた女中の顔がブスでいやだと妻がいうので、翌日、かわいらしく描き直した。「落語歌劇」の部分は寄席文字を指定したが、活字がなくて、勘亭流になって帰ってきた。手直しがないので随分安く完成した。

 0さんは知人にチラシを見せたら、あんた落研に入ったがけ、といわれたそうだ。

 ノルマについて。

 ノルマといってもベルリーニのオペラではない。色々なコンサートに出ておられて儲かりますね、とよくいわれるが、音楽界にはノルマというものがあって、出演料というものをチケットの形で送ってくるのである。出なくても会員全員にノルマを押しつけるてくる主宰者もいる。

 実際には、特に魅力のないコンサートの場合、売れない。ある合唱団の県民会館での定期演奏会の予算は一二〇万円で、四〇万が広告収入、あとがノルマとなっていた。このチケットがまるまる売れれば損はしない。出演者自身がかぶるのである。売れる場合だって、逆に恩を買っていることが多い。いつかその分こちらが買わなければならなくなる。

 大きなコンサートの場合、どうしてもノルマを多くこなせる人が優遇される。名前はいえないが、あるソプラノ歌手はお父さんがある宗教団体のお偉方で、その関係でチケットがはけ、プリマとしての地位を築いたと噂される。クラシック界にはもっとうまくて、きれいで、音程が外れずに歌える人がいっぱいいる。

 ハムでもあるまいし、プリマは太ければいい、というのだろうか。ブスなら実力があるというのか(菅原洋一も醜男でなかったら、あそこまで実力歌手と持ち上げられることはなかったかもしれない)。

 今回は出演者が二人だけなのでノルマも何もない。ひたすら、売ることだけが必要だった。ところが太一先生は活動の場が東京で、こちらに基盤がない。結局、僕らが頑張らなければならない。こういう時に嬉しいのは昔からのファンで十枚下さい、皆さん、楽しみにしておられるから、と喜んで売ってもらえる。更には親戚パワーというのもある。成功していて、人をたくさん使っている親戚は頼もしい。音楽を聴く機会が少ないけど、チャンスがあれば、という人にチケットが渡ればいい。ただ、オペラ直前に、たくさん預かってくれた人から、「女中の恰好ちゃ何け。睦ちゃんのドレス姿を観にくる(!)のだから、せめてアンコールでドレスを着て歌わんにゃん詐欺や」と文句をいわれた。オペラにアンコールはないといっても納得してもらえない。

 いっぱいチケットを預かりながら、そのまま返してくる人もいる。

 売れれば成功というわけではないが、売れなければ、どんなに音楽的に成功しても自己満足にすぎない。やはり、失敗だ。お陰で八月に入ってから、入場者の予想をたててはこわし、積木くずしのようにすごした。一般にチケットを売った六割しか入場しないという鉄則から考えた最終的な予測は三百から四百の間であった。四百の場合もありうるので、マチネーをしようか協議したが、買った人への連絡方法がないし、妻も二回興行では声がもたないというので断念した。

 招待券も随分出した。招待客は来るのが半分以下と考えるのが常識である。タダだと有り難みがなくなる。無料の文化活動は文化を殺す。もう少し招待券を送りたいのだが、自腹を切った人が入れなくなるので断念する。

 北日本新聞の中田記者から「落語歌劇」(おぺらくご)というのは面白い、是非、独占記事を書かせてくれ、といってきた。三人いるところで写真をといわれたのだが、中田さんを含めてお互いのスケジュールが合わなくて、八月十日にずれこんでしまった。写真もヤラセだし、初顔合わせで、てんでにいうことがバラバラなので焦ってしまった。

 八月一七日の朝刊に威風堂々、カラー写真入りの大きな記事が出た。「注目の落語オペラ」という大見出しで、「喜怒哀楽率直に表現」と書いてある。まとまりのない話をうまく記事にしてある。見事なまとめかたで、記者の力量を感じる。少し残念だったのは、その場で驚かせようと思っていた和風舞台のことが書かれてしまっていたことだ(オフレコにしなかった僕らの責任だが)。

 この日は二人とも問い合わせの電話がかかるといけないからといって、外出せず朝から「待ちぼうけ」を歌っていた。しかし、記事を読んだという姉からの電話だけで、兎さえ飛び込んでこなかった。新聞記事に頼るのはやはり危険である。まして、新聞広告などはどれだけの効果があるだろうか、と悩んでしまった。ただ、潜在的な効果、即ち、チケットを預かってくれた人たちが売る時の箔がついたといえる。

 朝日の記者はなぜ「落語歌劇」なのか、どういう意義があるのか、詳しく聞いてきた。「クラシック」音楽は「古典」落語に通じること、落語のようなオペラであること、落語家が出ること、落語も演じられること、落語のように気楽に見てほしいこと。また、富山初演であり、和風で上演すること、日本語で分かりやすく楽しんでもらいたいことなどを話して記事にしてもらった。 新聞の週間行事の欄を見ると、音楽の欄ではなく、イベントの欄にオペラが入っていた。朝日の記事も話題のコーナーである。ま、いいか。

 さて、練習である。個人的にそれぞれが練習をしていたが、合わせなければアンサンブルにならないし、覚えも悪い。一時間近くの歌詞を全部覚えなけらばならないので大変で、歌詞の練習は太一先生の相手に節子先生、妻の相手に僕がなって手伝い、更に二人で合わせた。内山夫妻と妻との音合わせはどうにか予定を合わせ、練習ができたが、良楽さんとはなかなか一緒になれない。急な取材が入ったりする。細切れの時間を使い、練習場所もいろいろと変えて行なう。三人の時間が惜しいので、僕が何度も駅まで迎えに行ったりする。

 この夏最高に忙しかったという大沢先生たちとの練習も始まった。東京芸大三年で第一バイオリンの山本薫さんとは初対面で、マリエで待ち合わせて、故池田祐孝さんのお寺に向かう。新聞を読んで、頑張らなくっちゃと思いました、などとかわいいことをいってくれる。僕の声が通るので内山先生と間違えているのもかわいい。

 後に山本さんは太一先生と同じミュンヘン国立音楽大学に留学することが決まったが、縁なのだ。

 声楽家はあまり使わないので、譜面台を忘れていて、困っていたらタクシーで駆け付けた大沢先生がニコニコとしながら、君ら譜面台忘れてきただろう、ともってきた四個の譜面台を出された。大沢先生とお弟子さんたちの関係はまるで友達どうしのような、暖かい交流があって羨ましい限りであった。いつもいつも怒ってばかりで、出演者の要望を殆ど聞いてくれない先生も多いのだ。練習時間も効率的に分けてなくて拘束時間ばかりやたらと長くて平気な主催者もいる。

 蒸し暑い本堂で練習が始まり、ようやく、ここまでこぎつけたと一人で感動していたら、突然、音楽が止まる。楽譜がないのだという。東京で売り出されていた楽譜なので安心していたのだが、パート別に写譜をした人が抜かしたのだ。慌ててその部分をチェックして、次の部分を練習する。また、ストップ。この繰り返しで、一回目の練習は楽譜のチェックで終わった。

 オペラは総合芸術である。浪人みたいな切り貼り作業もある。みんな糊、鋏、蛍光ペン持参で、指揮者用の楽譜の自分のパートの部分を余白に貼っては見やすいように印を付けていく。お寺にあったコピー機がこわれてコンビニエンスストアに走ったりしているうちに、二回目の練習も通しで一回しかしないうちに終わってしまった。 急遽、大沢先生の家でもリハーサルをする。ちょうどレッスン室の改造をされているところだったのだが、僕らに合わせて大工をせかされたようだ。部屋には何千枚ものアナログレコードが並んでいて壮観だが、レコードの将来が心配だという。森田芳光の映画『バカヤロー』にも技術の「進歩」に踊らされる若者が出てくるが、あれは僕らのことだ。バカヤロー!

 山本薫さんのお父さんも来て、歌に負けないようにとハッパをかけている。

 五日前には第一部で研究発表する太一先生のお弟子さんたちの練習も始まった。午前中、うちのレッスン室に集まり、先生が指導する。Mさんはチャッカリと東京からアッシー君を連れてきている。午後、良楽さんと演技の練習。地元の児童館が広くてピアノもあり、しかも無料なので使わせてもらう。練習を見学にきた人がゼッタイ観に行くからね、とチケットを買ってくれる。良楽さんが帰ってから、二人でセリフの練習。夜、オケとの合わせ。途中、祐貴にご飯を上げたり、と過密ダイヤをこなしていく。

 大道具、小道具も心配しなければならない。和風の舞台に決めたので今までの資料は役に立たない。屏風の運搬も心配だったが、市民プラザで金屏風を見つけた時は喜んでしまった。高座台もそのまま使えるそうだ。長火鉢、椅子、机、衣桁などは先生が苦労して揃えてきた。

 小道具選びもオペラの解釈と大きく関わる。化粧も同じで、例えば、シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』のキャサリンを美人とするか、ブスとするかで解釈が全く違ってくる。オペラの演出でも有名なフランコ・ゼフィレッリ監督の映画はリズ・テーラーを使った。BBCの放送では名もないブスが演じた。勝負は明らかだ。ブスのじゃじゃ馬を調教してもたいして嬉しくもないし、ドラマティックでもないが、美人を調教できて立派な妻にできたら、こんな幸せはない。

 ヴェスポーネの役はパントマイムの人にやってもらったという。黙り役だからパントマイムというのは短絡的だ。動きがまるで違う。全く無言でなくてCDを聞いても「ガー」とか、「ウー」とか声を出している。どう解釈しようと勝手だが…。

 小道具で最後まで苦労したのはヴェスポーネが変装して雷大五郎で出てきたときにかぶるカツラだった。近所のむつみ美容室の先生は原宿で買ったというブルーの雷様の頭のようなカツラを貸してくれたが、少しかわいらしすぎる。良楽さんも浅草で見て回ったが、イメージ通りのはなかったという。マリエにパーティグッズを売っているお店があるので、行ってみた。何と、ロック歌手用のキンキラキンの長髪のカツラが売ってあった。三五〇〇円。良楽さんにも見てもらって、購入。ほうきも二本買ったが、明治初期という設定なのに一本はビニールがかかっててまずい、もう一つは安っぽすぎるということになり、ボツ。結局、妻の嫁入り道具のを出してきて、ようやく0K。

 女中の衣装も難しい。派手にして振袖を着たいが、女中という制限がある。僕は華やかな方がいいというが、内山夫妻は女中だからダメ、の繰り返し。前夜になって、節子先生の中学生時代の白い着物を使うことで決着した。

 オペラの準備で忙しい時、北日本新聞に富山でオペラをという記事が載る。富山市が今冬、国際オペラシンポジウムを開催することは既に発表されていた。これだけでも奇妙な話だ。オペラが上演されたことのない土地である。オペラを上演するために準備会を開く、というのなら、まだ納得できるが、いきなり、「国際」「シンポジウム」だという。これをいってはおしまいなのだけれど、委員長が国文学の先生、副委員長が英文学の先生である。二人がオペラに詳しいとは寡聞にして知らない。ある音楽派閥の長をもってくるより見識があるが、一握りの知識人に何でもかんでも押しつけるのは酷である。

 平成七年までにオペラを実現させたい、そのためには既成の合奏団、例えば、富山室内合奏団(大沢和夫代表)などに声をかけてオーケストラを作り上げていきたい、という。現実に今、ここでオペラを上演しようとしている僕らには何の援助もしようとしないで、行政サイドの企画なら大いにもりたてようというのはおかしい。富山市に声をかけて物乞いする形になるのが嫌でずっとこちらからは働きかけなかったのだが、オペラを実現しようとする市職員の一人くらい、オペラを作るというのはどういうことか聞いてきて欲しかった(せめて、一人でも観にきて欲しい)。

 更に、大沢先生に記事に名前を出してもいいと承諾されたのですか、と聞いたが、全然知らない話だという。記事には合奏団の後に、演劇団を作るとなっている。ミュージカルでさえ、こんな野蛮な話を聞いたことがない(「上海バンスキング」では役者たちでオケを編成したが、例外中の例外である)。演劇も大切だが、声楽家と合唱団を育てなければ、オペラを上演できるわけがない。第九を上演するのと訳が違う。それに行政が口を出したら文化は育たない。魅力のないものでも人を諸団体に割り振って集め、その人数で成功したと発表することが多い。口より、金を出すべきだ。

 当面、アンサンブルホールを中心に活動したいとなっていた。オケ・ピットもないうえに、三〇八しか客席がなくて総勢百人程度の人々が必要なオペラができるはずがない。ノーギャラでも採算がとれないだろう。

 『仮面舞踏会』の舞台が舞踏会に替わる一シーンだけみても、オペラハウスの規模がわかるはずだ。暮しの手帖社から出ている『オペラへの招待』にはメトロポリタン歌劇場の展開図が載っているが、舞台・客席は劇場のほんの一部分だ。パリのオペラ座の豪華さを見たことがないのだろうか。市は現在の公会堂を改築して音楽もできるものにするというが、何でも役に立つものは何も役に立たないことが多い。人も物も。

 オペラ・シンポジウムには水戸芸術館の前衛オペラを上演する予定だそうだが、クラシックなオペラも上演されたことのない文化果つる地にいきなり、前衛でもないだろう。これはR・P・ドーアのいう「文化の後発的効果」で、文化が遅れている地域はイッキにそれを取り返そうとして無理をする。あげく、受験戦争のような歪みが生まれてくるのだ。県立美術館を思い出せば十分であろう。あんなに立派な展示品があるのに、客が一番入るのは小学生の壁画展だ。

 オペラを実現するにはワグナーを援助したルードウィヒ二世のような狂気が必要なのである。理解するには映画『ルードウィヒ/神々の黄昏』を撮ったL・ヴィスコンティのような貴族性と教養と頽廃が必要なのである。

 オペラ前日になって、ギャラを決めていないことに気がついた。そこで、知人に相場を聞く。そのあまりの安さに涙が出てきた。例えば、砺波の夏の第九で楽団員はノーギャラだったし、指揮者もそれでは、といって受け取られなかったそうだ。キリギリス救済のために歳末の第九があるのだが、夏はただで演奏していろ、というのだろうか。実際、ただで出演してもらって平気な主催者も多い。音楽家といっても出費ばかりだ。そういうのはゼッタイに嫌いなので、相場より多めに(とはいっても微々たるものだ)する。

 明日の弁当をどうするか、ということも決めなければならない。駅前のマリエのお弁当屋さんがいいというので、買いにいったが、まずくて注文を取り消す。サンドウィッチだけという演奏会もあるが、いいオペラをつくる時にはお弁当にまで気を配らなければならない。


  第三楽章 マエストーソ

 いよいよ当日。ナポリの初演と同じ八月二八日である。仕事を簡単にすませ、家に帰る。途中、美容院帰りの妻に会ってビックリ。銀座のマダムみたいな髪になっている。まずいな、と思ったけれど美容師さんにいえなかったのだという。すぐに美容院に戻り、二十歳前後のかわいい髪形にしてくれと頼む(オペラが済んでから美容師さんはほんとに変えてよかった、と納得してくれた)。

 昼飯を簡単にすまして市民プラザへ。たくさんの荷物を降ろしてから、祐貴をみてくれる義母さんたちを待つが、なかなか来ない。一時間ほどして祐貴を手渡し、アンサンブルホールに入る。

 ゲネプロを始めようとするのだが、オケの位置が決まらない。大沢先生はステージの下に、太一先生はキャパの関係もあってステージの上にのってくれという。節子先生も今回だけは上でお願いしますというが、大沢先生に納得してもらえない。結局、太一先生に折れてもらって、上手の客席を十二席犠牲にすることにして、急遽オーケストラボックスとしてもらう。

 これでよくまあ、アンサンブルホールでオペラをという企画を立てるものだと記事を思い出して腹が立つ。ピットではないので指揮台も置けないし、客席で指揮をしなければならない。

 照明もオペラが初めてなので、オケに当たるようにはなかなかうまくいかない。ようやく、ゲネプロが始まる。ギリギリでプログラムができてくる。自分のイメージとは少し違ったが、友人の印刷所に後はお任せといった以上、文句はいえない。

 お弁当も買わなければならない。あちこち吟味して回る。西武地下街の刺身ちらしがおいしそうなので二五個注文。五個は予備。劇で使う果物も買う。ウベルトが「いつもお前は反対ばかり」と怒りをぶつけたアリアを歌っている時、セルピーナが馬耳東風でつまみ食いしているという設定なのだ。

 文房具屋で大入り袋も買う。『落語歌劇』と称しているからには粋でなくっちゃいけない。同行したアッシー君に「ね、後になってみると満員だったという事実よりも、大入り袋を貰ったという方が記憶に残るよね」というと、「ええ、すんなりと心に残ります」との返事。店員さんに「もし、大入りにならなかったら返します」とジョークをいう。用意していて満員にならなかったら、恥ずかしい。銀行がもうしまっているので買い物のたびに五百円玉でお釣りをもらう。

 ホールに帰ってみると、小道具の金鎚がない、もってきた筈の果物籠がない、と大騒ぎ。ヴェスポーネがウベルトに暴力をふるうシーンはリアリズムではおかしいので、急遽、歌舞伎のように動き、最後に見栄を切ることにする。学生に拍子木でリズムを取ってもらうことにし、先生が楽譜にリズムを記入する。

 市民プラザにあるプレイガイドに置いてあるチケットを回収に行く。一枚しか売れなかった(結局、プレイガイドで売れたのは十枚にもみたなかった。売れないものらしい)といわれ、恥ずかしい思いをして帰る。

 四時にはお手伝いをお願いしていた人や親戚の人々が到着し、挨拶を交わす。

 五時に最初の客が入り、食事をしてから戻る、という。花がぞくぞく届けられる(いつも花をいただくMさんはこの日ばかりは「お祝い」、ホントありがたい)。六時になるとボチボチと人が入り始める。電話がかかり、ある人を介して一昨日招待券(!)が欲しい、といってきた人が都合で来れなくなりましたから、といってくる。いってくるだけ丁寧なのだろうか。

 六時半近くになると、人が地下水のようにエレベーターから沸き上がってくる。客席をみると、既に空いた席がない。オケ・ピットに平然と座っている人もいる。慌てて補助椅子を出す。ホントは消防法で出してはいけないので二〇席分しかない。仕方なく、通路に人が座り始め、ビッシリつまる。普通のコンサートで少ない当日券の客が多かったためだ。もちろん、予想はしていたから、当日券の発売を六時二〇分まで延ばして、先に前売りの客を入れてはいたのだが、満員ですからと断れもしない。

 第一部の学生の声楽発表が始まった。ビデオを固定してから(カメラマン兼務だ)、大入り袋にお金をつめ、裏方さんをはじめ、皆んなに渡す。太一先生はギャラだと思って、「まだ早いよ」と焦っている。北日本放送の取材(夜のニュース!で流れ、後で多くの人に観たといわれた)。

 テキパキと答えたら、もう第二部が始まった。

 良楽さんがオペラのまくらとして落語「たらちね」を演じた。こんなに多くの人の前で落語をやったのは殆ど初めてだといっていた。若竹もなくなったし…。

 客席の方からオケが入り、いよいよオペラが始まる。時々、舞台に夢中になってビデオで追いかけるのを忘れてしまう。しかし、和風舞台でまったく違和感がない。演出も意図したところで観客が笑ってくれ、的確だ。オペラ歌手というのは、背中に短剣を刺されて血を流すかわりに歌い始めるような奇妙な人間のことらしい。歌いさえすれば、心配が吹っ飛ぶ。

 三人とも本番型の人間だと知ってたが、ホントに役者だ。妻などは「おれはご主人様だぞ」とウベルトが歌っている間、果物をおいしそうに食べ、観客にもどう、と仕草をし、笑いを取っている。ウベルトを騙しながら歌う時も、芝居と本心を見事に使い分け、最後に舌を出して見せる。母親に書いてもらった持参金請求書と結婚誓約書も決まり、おとといの衣装合わせの時、良楽さんの羽織り姿で思いついたアンコールで三三九度の杯を持って出る趣向でも、どっと笑いがきた。


  第4楽章 ア・ピアチェーレ

 オペラが終わって嬉しかったのは、周りの人々が皆んな満足そうに「おもしかった」といい、高田の哲ちゃんが「今日、このオペラを観れた人は幸福やちゃ。来年から皆んなオペラをやりたいというやろ」といってくれたこと。大沢先生に「終わってから、みんな席を立たなかった。これが本当のコンサートですよ」といってもらえたこと。オペラを見たことのない大勢の人に「楽しかった」といってもらえたこと(勿論、素晴らしかったという人も多かったが、それ以上に嬉しかった)。ドレスのことで文句をいっていた親戚もよかった、よかったという。ただ、妻はみんなからお転婆娘を地でやれてよかったね、役作り苦労しなかったろう、といわれてふくれている。

 一番多かったのは(予想どおり)よく、あれだけセリフ覚えられたねぇという言葉だったかもしれない。

 直会は真酒亭で開いた。主人の村田さんは『イワナの銀平海へ行く』という絵本を出版されたばかりの才人だ。いつも通り太一先生が道に迷ってなかなかつかない。他の人に先に始めてもらって迎えに行く。

 先生たちは翌日、合唱団の合宿があるとかで、朝が早い。しかも、一人息子の大祐君が夏バテなので一旦、金沢に迎えに行き、すぐ引き返して東京へ向かうという。 二次会は祐貴の心配もあって出たくなかったのだが、途中はぐれてラッキーしていた僕らを山本さんたちが捜しにきて、桜木町の良楽さんの馴染みのスナックへ。オペラでは歌えなかったといって、カラオケを矢継ぎ早に歌い、マイクを離さない。僕の方は酔いがまわってきて途中から意識がなくなってしまった。良楽さんは二次会の分を払うといったそうだが、無意識ながら、ギャラはギャラ、儲けのない(お客に喜ばれない)コンサートにはしてませんから、といって断ったそうだ。

 もったいないことをした。

 オペラが終わって聞かれる質問に、赤字にならなかったかというのがある。はっきり言って赤字ではなかった。儲かったかというと、そうではない。先生たちや僕らのオペラにかけた時間を法定最低賃金で計算しても全然たりない。ましてソフトの部分などは計算しようがない。これは出演していただいた大沢先生、アルプスのみんな、良楽さんたち全員にいえることである。人に迷惑をかけない、儲かるコンサートを標榜した僕らですら、こんな調子である。

 これが本格的なオペラとなるとどうなるかは明白である。幸いにして『奥様女中』は東京と太一先生の故郷の上市町でも上演することがほぼ決まっている【後にA先生によって潰された】。色々なノウハウができたから、あとは少し良く、少し楽になって、少し儲かる(筈だ)。

 かかった費用は次の通り。出演料。ホール使用料。プログラム等印刷代。パーティ代。調律代(ピアノ、チェンバロ)。 弁当代。大入り袋(中身も)。郵送料。コピー代。ビデオテープ代。 

 オペラは総合芸術である。病気ひとつせず、ママがいなくてもグレなかった祐貴(一歳だから心配ないか)も含めてみんなの創意工夫と努力と協力によってはじめて実現できた夢であった。

 カルーソーはいった。

「フランス人はオペラを作曲し、イタリア人はそれを歌い、ドイツ人はそれを演じ、イギリス人はそれを聞き、アメリカ人はそれにお金を出すようにできている」。

 さて、日本人は、富山県人はオペラに対して何ができるのだろう。


※後にこれは桐朋音大の誘致と絡んだ問題だと分かった。詐欺事件とも絡み、小澤征爾が声明を出したことからも分かるように非常におかしな事態に発展していった。

翌日の新聞。

※大沢和夫先生は97年に亡くなられた。享年63。ご冥福をお祈り申し上げます。

※99年8月に再演。


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