1998年、最相葉月『絶対音感』(小学館)という本が馬鹿売れしている。
7月には「ハルモニア」というドラマができて、これは言語障害だけれど絶対音感を持った少女の話である。
同じく絶対音感をもつ大江光さんの3枚目のアルバムも売り出された。
□ この本が売れる理由は三つほどある。
一つは日本人の西洋音楽に対するコンプレックスをくすぐる本であったこと。
日本人特有の大いなる、美しき誤解があること。
最後に不透明な時代に「絶対」というのが日本人の心を揺さぶった。
□ 絶対音感って何てきれいな響きなんだろう、と思う。
日本語で「音感」というと「音に対する感覚。音の高低、音色などを聞きわける能力」を指す。
英語のabsolute pitchというのは「絶対的な音の高さが分かること」なのに、前半の「音に対する感覚」までも含めて考えているようだ。
「要するに、基準になる音がなくても自在に正確な音聞き分けられたり、音が出せるということですね。」というがそれ以上でもそれ以下でもない。それなのに、これがあれば、音楽教育は思うまま、音楽の天才ができると思って買っている人も多いと思う。
そうした誤解がベストセラーにつながっていると思える。
□ 絶対音感を持った人は結構周りにいる。20万人に一人という噂があるが、間違いなく嘘だ。
僕も妻は持っていないが、音楽関係者では結構いるのである。結構いるということは持っていない人の方が圧倒的に多い、ということでもあるが…。
妻の教え子のMちゃんも小さい頃、救急車の音が階名で聞こえてきたという。
S先生も小さい頃から音が階名で聞こえるという。
大学の先輩にもいて、飲むと「この曲、何の音から始まったか分かる?」なんて訊かれたものだ。
□ この本の提起するところは色々である。
同じように日本人のコンプレックスをくすぐるものに「バイリンガル」というのがある。
これも語学コンプレックスを持っている日本人の憧れである。
絶対音感とバイリンガルの能力が手に入れば怖いものなし、だと思っている。
しかし、バイリンガルがいいとは直ちにいえないし、絶対音感がそのまま音楽能力を手に入れることにはならない。
□ 日本人に絶対音感保有者が多いのは事実だ。
長年にわたって絶対音感を研究している新潟大人文学部・宮崎謙一教授(音楽心理学)は、日本の大学で音楽を専攻する学生と、ポーランド・ワルシャワのショパン音楽アカデミーの学生の、絶対音感保有比率を調べたことがある。音楽を学ぶ学生を対象にした音感テストで、正解率90%以上の学生が日本では約30%なのに対し、ポーランドでは12%。正解率50%以上は日本が半数以上なのに対し、ポーランドの学生は30%程度だったという。
日本人が絶対音感に憧れる理由は日本の音楽教育のあり方にある。西洋では「固定ド」(コテドという)と呼ばれる教え方が一般的であったが、日本では「移動ド」(イドドという)と呼ばれる音階を固定せずに自由に移動して教える教育が一般的であった。もともと絶対音感を育てる方向には進んでいなかったのだ。
□ “絶対音感”はabsolute pitchという。正確には「絶対音階」とでもいった方がいい。専門の辞書でも“絶対音感”とは「ランダムに提示された音の名前、つまり音名が言える能力、あるいは音名を提示されたときにその高さで正確に歌える能力」(『ニューグローブ音楽辞典』)のこと。例えば、NHKの時報を聞いてこれがイ音(ハ長調の階名ならラ)だと分かることである。音名がいえることを「ラベリング」というが、非常に単純にいうとラベリングの能力があることなのだ。
ピアノの白鍵だけで弾けるのはハ長調とイ短調だけだ。大人のピアノがブームになっているが、ハ長調だけ、つまり白鍵だけで弾けるように移調した楽譜が売れている。
ショパンにはハ長調がほとんどなく、黒鍵を多用する音階である。ショパンの「別れの曲」はホ長調、「ノクターン2番」(映画曲では「トゥ・ラブ・アゲイン」)は変ホ長調、「幻想即興曲」は嬰ハ短調である。黒鍵をよく使う曲は心地よいという話もあるが、理由は不明である。
□ 便利そうだが、絶対音感は邪魔になることもある。『絶対音感』にも書いてあるように、日本とアメリカでは高さが違う。日本では440ヘルツだったのが、最近は442である。妻はソプラノがよく響くようにピアノを多くの場合、443に調律してもらっている。445というオーケストラもあるという。
これが絶対音感を持って育つと、音の高低に慣れるまでが大変だ。
ベートーベンやモーツァルトは絶対音感を持っていたようだが、チャイコフスキーやシューマンは持っていなかったようだ。いや、多くの音楽家が持っていなかったようである。
スヌーピーのマンガにも絶対音感が出てくる。1952年10月1日の平日版だ。1駒目でベートーベンを愛するシュローダーが「ふむ、ふむ」という。2駒目で「ねえ、チャーリー・ブラウン。ぼく『絶対音感』(perfect pitch)がついたよ!」と走っていく。チャーリーが「『完全試合』(perfect pitch)だって…それがどうした。野球シーズンは終わったんだよ」。4駒目でシュローダーが「別の新しいコミックに移りたくなることがときどきあるよ!」という。
どの音階を用いて作曲するかは音楽家にとって重要な問題だが、カラオケで歌う人間には意味がない。自分の声域にあわせていくらでも調整できる。音程さえ確かなら問題はない。
それどころか、演奏家にとっても決して重要ではない。岩城宏之も持っていないと明言している。
絶対音感で聴いてしまうと音の高低がずれていると何の曲か分からないことが起きてくる。プレマック夫婦は『心の発生と進化――チンパンジー、赤ちゃん、ヒト』(新曜社)の中で次のように書いている。
サルもメロディを聞き分けることができるが、特定の音高やテンポ---すなわち、相対的要素ではなく、絶対的要素---にもとづいている。ヒトの乳幼児は、同じ歌が違うテンポやキーで演奏されても、同じ歌だとわかるが、サルはそうではない。
□ 五嶋みどりは渡米した時に感じたように気持ち悪くて仕方がなかったという。「演奏に集中すればするほど、ホールの雑音が音符として浮かび上がる」という千住真理子、「音楽を聴きながら本は読めないといった」大西順子、「バックグランドミュージックとしてクラシックを聞いていても、それはすべてドレミの言葉として聞こえ、勉強には大変な障害となった」K君などがこの本で紹介されている。
音の高さをあてることはクイズには有用かもしれないが、本を読んでいる途中に「ドレミ…」などと聞こえてくるのだから大いに勉強の邪魔になる。音がカタカナで入ってくる!らしいのだ。
それはちょうどバイリンガルの人の脳に日本語と外国語が両方とも意味を持って入ってくることと同じである。
だから、絶対音感はそれだけでは意味がない。「相対音感」の方が演奏では便利なことも多い。音楽においては音の高さを相対的にとらえる相対音感の能力が重要である場合も多いのだ。
岩城宏之は『音の影』(文藝春秋)の中で「絶対音感」について「融通のきかない絶対音感と、ファジーな感覚で音楽できる相対音感を比べると、前者は『絶対オンチ』といいたくなる。絶対音感を持っていないぼくの、ひがみかもしれない」と書いている。ちなみにフルトヴェングラーは絶対音感がなかったらしいが、晩年にベルリン・フィルがいたずらをしたことがあったという。変ホ長調の『英雄』をホ長調で、つまり半音上げて演奏したという。巨匠はこれにきちんと対応できたかどうか、は長くなるので岩城の本を読んでみてください。
□ 日本人は「絶対音階」を「絶対音楽的直観」のように考えてしまっているのである。
それに不況による人生や社会の不安定さが加わってこの本『絶対音感』は大ブレイクしてしまった。世紀末にぴったりの書物だったのである。
□ 絶対音感はピアノでなければ育たない、電子ピアノではダメだというキャンペーンを日本のメーカーが張ろうとしたことがある。ところが、当時日本で絶大な人気を誇ったブーニンが電子ピアノで練習していると報道され、これによってそれらのキャンペーンの正当性が失われ、一挙に電子ピアノの普及が進んだ。そして、ピアノ産業の衰退を招くことになった。
O・S・カードの『無伴奏ソナタ』の表題作は生まれて6か月でリズムへの天分と鋭い音感、2歳にして「神童」とされた少年が実験される話だ。鳥の歌、風の歌、寒さに裂け割れる木々の声、雷鳴、金色の葉が枝を離れてくるくると落下していくかすかな悲鳴、屋根をたたく雨、つららからの滴り、そして月のない夜に降りしきる雪の深い静けさだけの深い森に連れて行かれる。一切の人工的な音楽に遮断された彼はある日、「男」からバッハのレコードを渡される…。この作品は作者の「誰かが私に書くことを禁じたなら、どうだろう?私は従うだろうか?」という思いから書き始められたという。
□ 「絶対音感」に関する僕の考えが間違っていないか心配だったが、養老孟司は古館伊知郎との対談『記憶がウソをつく!』(扶桑社)の中で、絶対音感を持っている方が原始的だという。動物は恐らく絶対音感だという。つまり、一般的な人間の方が、高さが違っていても調整する能力をもっているということで、動物とは異なっているのだという。
日本で声楽で初めて博士号を取得した藍川由美の『これでいいのか、にっぽんのうた』(文春新書1998)は「絶対音感」について次のように批判している。
「絶対音感」に関しても、ドイツなので先進国では、すでに戦前から絶対音感(絶対音聴)教育に効果なしとして禁じていたものを、わが国の文部省が昭和15年に採用したのである。この辺りのいきさつについても、やはり堀内の『音楽五十年史(下)』に詳しい。
------絶対音感とは音の高さを記憶し、楽器などのたすけを借りずに、関係的でなく絶対的に言いあてる能力のことで、音楽家にもこの能力を持っている人は少ない。すでに昭和8年からピアニスト園田清秀は小児の音楽早教育の一部に実施し、小児のうちに教えるとたやすく絶対音感の記憶ができることを認めたが、昭和14年ごろピアニスト笈田光吉の提唱により一部の軍人がこれに着目し「絶対音高を獲得すれば機械の音や飛行機の音について敏感になるからこれを全国民に普及させなければならぬ」と言い出した。【…】
まさに、レーダーに対する絶対音感、悲しいまでに滑稽なコンプレックスといえよう。
つまり、敵機や敵潜水艦を発見するための道具として提唱された時代があり、(藍川は言わないが)「第二の敗戦」と呼ばれる平成不況の時代に、甦ってきた亡霊なのである。『絶対音感』という本が売れるのはB29に竹槍で立ち向かうような国民性が未だに残っている証拠である。
□ 大江健三郎の長男・光さんは絶対音感を持っている。ある意味で光さんと音楽の関係は「ハルモニア」に似ているのだが、大江光さんと音楽の関係を大江健三郎の小説やCD解説、ゆかりさんと共作の『恢復する家族』(講談社1995)、NHKテレビ「響きあう父と子」などからまとめておきたい。大江光さんの音楽は健三郎の文学を理解するのに重要だと思うし、健三郎の文学には光さんがよく登場して、行間から音楽が聞こえてくるように感じることさえある。
大江健三郎が29歳の時に生まれたのが光さんで、頭の大きさが2倍ほどの子供が長男として生まれたのだった。大江健三郎はちょうど『広島ノート』(岩波新書1965)の取材で広島に行かなければならない時だったのだが、この子の将来を案じて、原爆忌で流される灯籠の一つに「大江健三郎」「大江光」と書いて流してしまった。つまり、心の中で殺してしまったのだった。その後、広島で取材を続けて原爆の悲惨と個人的な体験を重ね合わせているうちに、間違っていることに気づき、共に生きていこうと決心するのである。
健三郎自身がためらった。「しかし、そのためらいの後で決意したことによって、そこから自分が、いわばもう一度生まれなおしたようにも感じているのである」(『恢復する家族』)。
ノーベル賞の受賞理由の一つに父子の共生(symbiosis)が挙げられているように光さんとの関係が欧米の人には異文化として映った。欧米の文化では父親と息子の葛藤・相克が大きなテーマになっているのに大江の文学では調和しており、さらに文学と音楽が共生しているように見られているのである。例えば、リハビリテーション世界会議で健三郎は次のように述べている。
「僕がいまもっとも誇らしく思うことは、障害を持つ自分の息子に、decentな、つまり人間らしく寛容でユーモラスでもあり信頼にたる、そのような人格を認めることです。また、この障害者と共生することで、かれのそのような性格に、家族みなが影響を受けてもいることです」(『恢復する家族』)
このように大江が述べる時、僕らが自分の子供たちに心から肯定的になれる時に味わう体験に似ている。何か悪いことや、期待はずれのことをする時に、そういうことも含めて我が子なんだと受容する気分に類似している。つまり、健常児であろうとなかろうと、子供の成長に一喜一憂する僕らの姿そのものなのである。
□ 光さん誕生の事情が出てくる『個人的な体験』(新潮社1964)では「鳥(バード)」と呼ばれる主人公に生まれた子供の脳の一部がはみ出て頭が二つ見えるようだという。「脳ヘルニアですよ。頭蓋骨を切りとって、はみ出ている脳を押し込んだとしても、植物級の人間になれたら最も幸運なくらいのものです」と医者がいう。おいうちをかけるように「もちろん、あなたは手術を拒否することもできるんですよ!」。「鳥(バード)」は「おれは息子を戦死者のように埋葬してやらなければならない」とまで決意する。その後、昔の恋人・火見子と会って「最も反社会的な」セックスを体験する。小説では迷いに迷って、手術をすることにするが周りから「鳥(バード)」というあだ名は似合わないといわれ、赤ん坊の瞳に映る「自分の新しい顔」を確認しようとするところで小説は終わる。
光さんに大手術を施したのだが、「脳分離症」となってしまう。切除した時に脳の一部がついていってしまったのだ。この後遺症で普通には生きられないだろうといわれるが、実際、光さんはてんかんの症状が出ることがあって、ヒダントールという薬で抑えている。てんかんが始まると失明状態にもなってしまう。いつも小さな鞄をもっているが、これはこの薬を入れているのである。
最初は笑うことさえなかったという。しかし、そのうちに音楽や窓にくる小鳥の声に反応していることが分かってきた。それで、家にあったNHKのアナウンサーが色々な小鳥の鳴き声に鳥の名前を入れたレコードを聞かせていた。そしてある日、軽井沢(群馬県側にある)の別荘に行った。このあたりは伊丹十三の映画『静かな生活』で作家であるパパが講演している【後に大江健三郎本人の講演を聴いた---「NHKのアナウンサーはこんなレコードに出るのは自分の仕事じゃないと思っていたのか、本当に不機嫌な言い方で“クイナです”っていうんです】。
「私には障害者の息子がおりましてね、この子は小さい時一と言も言葉を喋りませんでした。いや、言葉を喋らないだけじゃない。母親が話しかけても少しも反応を示さないのです・・・そのころ私のうちに一枚の鳥の声のレコードがありました。鳥の声の録音に、鳥の名前の説明が付いているレコード。たとえばヒヨドリの鳴き声がしばらく聞こえる。そして、そのあとにアナウンサーが[ヒヨドリです]と厳かな声でいう。そういうレコードです。息子はなぜかこのレコードにだけは反応を示した。だから、私たち夫婦は朝から晩までこの鳥のレコードをかけ続けました・・・息子は、全く言葉を喋らないまま、鳥の声を聞き続けて六歳になりました。夏が来ました。私は、いつものように、息子を連れて高原の別荘に行きました。ある朝、息子を肩車して林の中を歩いていると、クイナが鳴いたんですね。クイナが[トントン]と鳴いた。すると、頭の上で[クイナ、です]という声がした・・・私には、一瞬、何が起こったのかわかりませんでした。息子が喋るはずはありません。私はこれは幻聴だと思いました。でも、もしかして息子が喋ったのかも知れない、という気持ちもありました。私は[もう一度クイナが鳴かないかな]と思いました。もう一度クイナが鳴いて、もう一度息子の声が聞こえたら、もしかして息子は人間の言葉を喋り始めるのかも知れない・・・私は待ちました。目の前に一本の若いダケカンバの木が日を浴びて風に揺れている。それを見つめながら私は待ちました・・・その時、私は祈っていたのだと思います。私はカソリックを信じません。プロテスタントを信じません。仏教を信じません。しかし、そのような信仰のない私も、その時、まぎれもなく祈っていたのです・・・やがてクイナが鳴きました。そして、私は、頭の上で、息子の澄んだ声がはっきりというのを聞きました。[クイナ、です]」
こんなジョークを思い出した。3歳まで全く口をきかなくて、周りをやきもきさせた男の子が、ある日。「おじいちゃん」と言ってみんなから喜ばれた。
その翌日におじいちゃんが亡くなってしまった。その10日後、今度は「「おばあちゃん」と言った。
すると、その翌日におばあちゃんが亡くなってしまった。その10日後、今度は「「お父さん」と言った。
すると、その翌日に隣のおじちゃんが亡くなってしまった。小説では浅間山荘事件をモチーフにした『洪水はわが魂に及び』(新潮社1973)に出てくる主人公・大木勇魚(義父の秘書をしていて殺人もしたことがあり、「自由航海団」の言葉の専門家)の息子であるジンに託して語られている。ジンはいつも「…ですよ」という丁寧な言葉づかいをする少年で50種類以上もの鳥の鳴き声を区別できる。ジンは無垢な魂の象徴として描かれていて「ジンの生活は、目ざめていれば父親が様々なレコードからテープにうつした野鳥の声を聞くことによってなりたっていた。そしてその鳥の声が、はじめて幼児に自発的な『言葉』を喚起するのであった」。
こうした訓練がやがてバッハやモーツァルトの音楽を聴いて、そこに表現されている創造的な世界に心開かれる入り口となった。それが「大きな徒労」になるかもしれないと思いながら、聴かせていたのだ。ただ、イーヨーは「プリズムとレンズの複雑な組み合わせによってしか矯正できぬ、眼の障害」をもっていて鳥の姿を認識することは恐らくできなかったのである。
ちなみに光さんの話は日本の古代の伝統を踏まえている。富山の大島町あたりの伝説なのだが、『古事記』『日本書紀』にある誉津別命(ホムチワケ)の話だ。垂仁天皇の皇子・誉津別命は髭が伸びるほどの年になっても声を出すことができなかった。ところがある年の冬、白鳥(しろとり)が空を飛ぶのを仰ぎ見て、初めて喋ることができるようになったという。天皇は大層喜ばれ、誉津別命が声を出すきっかけとなった白鳥を捕まえて献上するように仰せられた。その時に天湯河板挙(あめのゆのかわのたな)という男が越(高志)の国の和那美(わなみ)の水門(みなと)に網を張って捕らえて、朝廷に献上し、天湯河板挙は「白鳥の造(みやつこ)」という姓を賜ったという話が残っている。
余談だが、イザナギとイザナミは結婚したものの子どもの作り方が分からず、困っていたら、鶺鴒(セキレイ)が飛んできて交尾したので分かったという。以来、鶺鴒は「恋教え鳥」という。教えてくれなかったら、どうなっていただろう?というのはヘンリー・ドヴィア・スタックプールHenry De Vere Stacpooleの『青い珊瑚礁』と同じ悩みではある。
もう一つ、余談だが、『静かな生活』を英語にすると“Still Life”ということになるのだが、これは同時に「静止画」という意味にもなる。しかもこれはデヴィット・リ−ン監督の映画『逢びき』(Brief Encounter)の原作のタイトルでもある(ソフィア・ローレンの出た『逢いびき』というリメイクもある)。
□ レスリー(Leslie)の話をご存知だろうか。1952年、レスリーも脳障害で生まれてきて両親にも見捨てられたのだが、メイ・レムケ(Remke)夫人に面倒をみてもらっていた。長い長い苦労を経て、神にも祈りながら18歳になったある日、レスリーの人差し指が弦をつまびくかのように動いたのを見て、音楽が奇跡をもたらすのではないかと思い始め、四六時中あらゆる音楽を流し、中古のピアノを買い与えた。腕前は徐々にあがっていったようだが、1971年のある冬の日にレムケ夫妻がテレビを消し忘れたのではないかと思って居間に確かめに行くとレスリーがチャイコフスキーのピアノコンチェルトを一人で弾いていた。力強いタッチで間違えずにすらすらと弾いていた。この曲は“Sincerely Yours”というテレビドラマのテーマソングでたった一度聞いただけだったという。
レスリーは古典からロックまであらゆる種類の音楽を弾いた。ある日の午後、子ども達が柵の外側で数人遊んでいたという。メイさんは子ども達に何をしているのか来たら一人が“We're having fun.”と答えた。するとレスリーも柵の方に数歩歩いていき、“I'm having fun”と不明瞭だが聞いて分かる声で言ったという。
これがレスリーの発した最初の文で、その後、レスリーはゆっくりゆっくりと沈黙の牢獄から解き放たれてきた。
レスリーとレムケ夫妻はコンサートでアメリカを回り、日本でもテレビ朝日の夜の番組で放送されたことがあるし、日本中コンサートして回った。
□ さて、光さんの言語脳はその後急速に発達したようだ。一旦、道ができると飛躍的に伸びるものだ。ちなみに脳はそれぞれ役目が決まっていて、どの部分が何を司っているか決まっている(「局在論」topismといってペンフィールドの身体地図が有名)のだが、同時に、ある部分に損傷があっても別の部分が肩代わりをするのでちゃんと話せるようになっていて(「全体論」holismという)くるのだ。「局在論」と「全体論」はどちらが正しいか決着がついていない。前者が出るとすぐに後者の反論も出るという状況で、それほど脳が複雑なのと、言語をはじめとする人間活動が複雑なためである。ただ、最近では右の角回が損傷を受けても、「再配置」されることが分かってきた。
言語の能力は大部分が一般的な知能とは分離している。話せるが支離滅裂ということが多いのである。彼らを「カクテルパーティ談話児」(cocktail party chatterer)と呼ぶことがある。
なお、映画『レインマン』(1988)でダスティン・ホフマンが自閉症(autism)の男を演じたが、この中で、下に落ちたマッチやばらまかれたトランプなどを瞬間に認識する場面がある。これはカレンダー計算(頭で曜日が計算できる)、ピアノ演奏の再現などと同様、言語の使用が困難な人によくある現象である。
なお、同じことはクジャクでも見られるという。クジャクのメスはオスが羽を広げると瞬時にその目玉の数を数えて一個でも多い方のオスになびくのである。
ダロルド・A・トレッファートの『なぜかれらは天才的能力を示すのか―サヴァン症候群の驚異
』(草思社)という過去百年のサヴァンを網羅した本が出ているが、光さんも「サヴァン症候群」(savant syndrome)と考えられる。『レインマン』のモデルになったのはキム・ピークという人で“Kim Peek-The Real Rainman”という本も出ていて「自閉症的サヴァン」(Autistic Savant)と呼ばれる。“savant”というのはフランス語で「碩学、学者」のこと。
トレッファートの定義によれば「きわめてまれな症状で、発達障害(精神遅滞)ないしは重篤な精神病(早期幼児自閉症あるいは分裂病)による重度の精神障害をもつ人間が、その障害とはあまりにも対照的に、驚異的な能力・偉才の孤島を有する」場合をいう。
冒頭に紹介した「ハルモニア」というドラマ(篠田節子『ハルモニア』マガジンハウス1998)もサヴァン症候群の少女の話であった。チェリストの東野秀行が言語障害だけれど絶対音感を持つ少女、由希にチェロを教えることになり、由希とのコミュニケーションの仕方がわからず戸惑ったが、次第に彼女の天才的な音楽能力に気づき始める。でも、彼女の演奏はある有名奏者のコピーでしかなかった。その事実を知った東野は由希に自分自身の演奏をしてほしいと願うが……、というストーリーだった。
大江の『静かな生活』(講談社1990)でイーヨーは「案内人(ストーカー)」でこのタルコフスキーの映画に出てくる「歓喜の歌」の演奏を聴いたことがないにもかかわらず所要時間を正確に把握している。イーヨーは大江光さんの分身で『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』で登場したのが最初と、『新しい人よ眼ざめよ』に書かれている。クマのプーさんに出てくるロバの縫いぐるみの名前である。光さんは「プーさん」の名前からか「プーちゃん」と呼ばれているようだ。
ここで映画『レインマン』との関係を考えておく。「レインマン」という名前は弟のチャーリーが幼い頃に兄「レイモンド」の名前をちゃんと呼べなくて「レインマン」と呼んでいたことから取られているが、僕らにとって「レイン」というのは精神分析学者で『ひき裂かれた自己』(みすず書房)のR・D・レインを連想せざるを得ない。
そして、『レインマン』以前に大江健三郎は不思議な一致(synchronicity?)で『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』(1982)を書いている。これは宇宙の根源を具現した「生命の樹」のメタファーであることは間違いない。作品の中でアガーテという女性に「『雨の木』というのは、夜中に驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう」と語らせている。なお、武満徹はこの小説に触発されて「雨の木------三人の打楽器奏者のための」という作品を作っている。
「直観像」に関係する「カメラアイ」という現象もある。これは複雑なものを一目で覚えることができる能力で、見たばかりの画面を再現したり、聴いた音楽を再現したりできるものである。緻密な絵を描く「裸の大将」山下清がそうであるし、小さい頃の体重測定を思い出して描いた絵の時計の針が、たまたま残っていた写真のと一致したという。また、井上ひさしの『吉里吉里人』に出てくる百科事典のページをコピーするように覚えていく男の話も同類である。
ただ、サヴァン症候群はたしかに驚異的だが、人間のそなわるあらゆる技能から考えれば、その範囲はきわめて限られたものといえる。通常つぎのようなものであるとトレッファートはいう。カレンダー計算、音楽(ほとんど例外なくピアノと歌に限定される)、迅速な計算、美術(絵画、デッサン、彫刻を含む)、機械的な正確さ、桁はずれの記憶力(記憶術)、それに、きわめてまれであるが、異常な感覚(聴覚あるいは触覚)および超感覚的知覚など。
ただし、応用ができない。例えば、見た物をそのまま再現できるサヴァンたちはビルの窓の数までキチンとかけるが、省略することができない。下手な絵は描けない。つまり、編集することはできないのだ。つまり、「いい加減」なことができないということになる。
大江光さんの言葉使いは例えば「ことしに、はいりますと、長くたちまして、とても、つらいかたが多くかんじられます。ゆかり様、もう少しのしんぼうですね。ローマ字を、たくさん、おぼえていただければ、いい一日になりますよ。とてもつらいのは、ママじゃなくて、おばあちゃんだけです。僕が、これが安心です。」(『恢復する家族』)というものである。光さんも言葉が不自由だからこそ、サヴァンとしての能力を得たのではないだろうか?
こうした能力は言語という「檻」から解放されて初めて可能だったのかもしれない。人間は言語を獲得することによって失ったことも実に多い。
ライアル・ワトソンも『生命潮流』(工作舎1979)の中で次のように述べている。
教育というものは、人を既成のイメージに作り変え、人間の従来の間違いも忠実に再現するコピー人間を生産することにその全勢力を費やしているように思える。『我々と異なった、われわれを脅かす者になるよりは、粗悪な模造品になってくれた方がいい』とわれわれは思っているようだ。私は言語という物を高く評価しているが、他のすべてのものを犠牲にしてまでも尊ぶものではないと思う。特殊な人びとに対するわれわれの態度を私は非常に憂慮している。【…】彼らは抑圧された元型のように無意識層から浮上してきて、無意識の潜在的な力を我々に想起させるのである。彼らにその機会を与えれば何かを伝授して貰えるかも知れないのに、われわれはそれをほとんどしない。
ヒトは言語によって「本能」を壊してしまった。
□ お母さんのゆかりさんはとても音楽が好きで、生まれる前から音楽をずっと聴いていたいう。これが光さんの絶対音感を作り上げたのかもしれない。
光さんは3歳のころからベートーベンを聴くと「ベーベー」、ショパンを聴くと「ウンパ」といって反応していたという。後にモーツァルトの曲を聴けばそのケッヘル番号を全部いえる(『静かな生活』の中で出てくるが近所でピアノを練習しているのを聴いて「ケッヘル311のピアノソナタですけど、大丈夫です。あと難しいところはありませんからね、もう全然!」というシーンがある)。また、音符を書き取ることができる。武満徹の「レクイエム」の譜面を起こしたことがあって、武満が違った和音で書かれているのに驚いたと大江は講演で離していた。
ピアノでも習わせようと11歳の時に田村久美子先生に来てもらうことにしたのだが、先生はピアノを教えることをせず、光さんに毎日の絵日記がわりにピアノをたたかせた。つまり、お母さんの料理の音とかお父さんの仕事の様子を音符で表現させたのだ。
このあたりの事情は『新しい人よ眼ざめよ』(講談社1983)や『静かな生活』に詳しく、光さんはイーヨーとして出てくる。『新しい人よ眼ざめよ』は大江の危機的な状況で書かれた作品で家族が本格的に小説の中に登場する「癒し」の文学で、息子との共生を歌い上げた最初の作品である。
イーヨーは小学3年生の春に独特な音楽観を持つT先生(田村先生)にピアノを習い始める。先生は音楽を聴かせ、それを楽譜に書き留める練習を繰り返す。聞いた音の流れる連鎖を記憶する。「中学に入ってすぐの頃、ある練習曲をT先生が楽譜とは異なった調で弾かれた。聴いていたイーヨーは、確信をこめた様子で------これがいいです! と言ったのだった」。
それからイーヨーはメロディが気に入ると、いろいろな調で弾いてもらいたがるようになる。これがやがてT先生の弾く2、3小節のメロディに続いてイーヨーが音を作り、それをまた先生に渡すといった「メロディのしりとり」の練習に発展していった。そのうち、一人で和音を覚えて全部のメロディを作って、調音するように導かれていった。彼は一度わきあがったメロディと調音を決して忘れない。ピアノのレッスンの後、「もやしのようにひょろ長い音符」(健三郎)を居間の床に腹這いになって五線譜に書くのだった。この時は周りにどんな音がしていても遮断されて、自分だけの音楽が頭のどこかで鳴り響いているのだ。そして「イーヨーの十八歳の誕生日に、僕は二十部イーヨーの作曲を製本した」のである。
大江健三郎は「光の音楽は暗い魂の泣き叫ぶような音だ」という。実際に、最初のアルバムは暗い感じの曲が多いが、その中でも「Mのレクイエム」が後に阪神大震災で被災した人たちに一番受けたという。Mというのは光さんの最初の手術を行った森安信雄先生のイニシャルである。
□ 音楽療法が最近注目されているが、この基本は「同質の原理」である。暗い時に明るい曲を聴いて元気を出そうというのは全く間違っていて、暗い時には暗い曲がいい。明るい曲だと自分の悲劇ぶりがあぶり出されていけない。
黒澤明の映画「酔いどれ天使」で三船敏郎演ずるやくざが絶望的な気分でいる時に「カッコーワルツ」が聞こえてきて、彼の絶望感をいっそう引き立たせる。震災の被災者にとっても一番辛かった言葉は「頑張れ」だったという。
これらは「対位法」と呼ばれるものである。文学でも悲しい時に無理に喜劇を読んだら自分の馬鹿さ加減が思い浮かんできてダメだ。これは怪我をした因幡の白ウサギに塩を塗りつけるような行為である。傷には優しい蒲の穂が必要なのである。
家族に障害者をもつことについて大江は『恢復する家族』の中で東大医学部の上田敏教授による障害者の発展の過程のモデルを次のように書いている。
ひとりの障害者が事故によって障害を受ける。「ショック期」の無関心や離人症的な状態。「否認期」の心理的な防衛反応として起こってくる、疾病・障害の否認。ついで障害が完治することの不可能性を否定できなくなっての「混乱期」における、怒り・うらみ、また悲嘆と抑鬱。しかし障害者は、事故の責任を自覚し、依存から脱却して、価値の転換をめざす。この「解決への努力期」をへて、障害を自分の個性の一部として受け入れ、社会・家族のなかに役割をえて活動する「受容期」。
悲しい時には悲劇を読み、大いなる絶望の魂に触れた方がいい。現実を「受容」(acceptance)することであり、絶望しすぎず、希望をもちすぎずが大切である。
小説という言葉のモデルをつうじて考える時、「ショック期」、「否認期」、「混乱期」の、障害者とその家族が苦しみをともにして生きる過程の重要さということも、あらためて自覚されます。これらの大きい苦しみの過程がなければ、確実な「受容期」もない、それがすなわち人間であることだ、といいたい思いもいだくのです。
□ 大江光さんの音楽にはそうした「癒し」の音がある。「癒し」は父・健三郎が文学のテーマとしているものであり、光さんは主人公であるとともに真に正統な後継者なのである。
それ【光の内面世界の豊かさ】は音楽をつうじてでなければ、光が生涯ついに表現しえなかったはずのものであり、僕や妻、かれの弟妹も決して受けとめることのなかったはずのものです。僕は信仰を持たない人間ですが、恩寵Graceということを音楽に見出すといわずにはいられません。この言葉を、品の良さ(グレイス)とも美質(グレイス)とも、感謝の祈り(グレイス)ともとらえたい思いで、僕は光の音楽と、その背後にある、現世の自分たちを超えたものに耳を澄ませているのです。
------大江健三郎『ピアノ作品集』あとがき□ 光さんはしかし、全然音楽に興味を失っている時期もあった。お父さんはもう音楽とは無縁かなぁと諦めたが、お母さんは「悩みきっているから少し休ませましょう」といったという。それでヨーロッパ旅行をして最後にモーツァルトの生地・ザルツブルクのモーツァルト記念館に行った。館長が歓待してくれて普通は(当たり前だが)触らせない楽譜やピアノに触らせてくれたという。モーツァルト愛用のピアノは古い黒鍵と白鍵が逆になった(女性の指をきれいに見せるため)ピアノである。
そして、その2時間後、ホテルでいきなり音楽活動を再開したという。
□ 98年には3枚目のアルバムを出したのだが、この中の「I.T.A.M.I」はもちろん、おじさんである伊丹十三監督に対するレクイエムなのだが、このタイトルは新聞や街で「伊丹」という文字を見る度に視線をそらすお母さんに分からないように暗号にしたのだという。実際、妹のゆかりさんにとって「伊丹十三・自殺の真相」などという記事は暴力にも等しいものがあっただろう。心の「痛み」という暗号になっているかどうかは分からないが…。
この曲は聴けば分かるようにピアノが伊丹十三であり、人の声に近いといわれるチェロが伊丹監督の周りに集まってみんなで話しているという曲想になっている。
大江健三郎は「この音楽で救われた」という。お母さんも救われたに違いない。
共生、すなわちRejoice!(喜びを抱け)である。
□ 光さんは弟さんや妹さんに連れられて福祉作業所まで毎日通っていたが、弟さんたちも自分の人生を歩み始めなければならず、光さん自身にも心の負担となっていたようだ。このあたりの事情は『静かな生活』(イーヨーの命名「[静かな生活]はどうでしょうか?それは私たちの生活のことですからね!」)に詳しいが、妹「マーちゃん」(鞠のような小さい頭の子供で生まれてほしいという願望から出たニックネーム/前が大きい頭の子を産みすぎたので今度は小さい子にしようと母胎が考えたという説明になっている)のイーヨーに対する思いは深くて、一生兄に連れ添って「静かな生活」を送りたいと思っている。兄に対する社会的な、いわれなき差別に対しても「なにくそ、なにくそ」と思いながらも、そのつど兄の純粋さや優しさに励まされ、癒される。「案内人」にあるように「もしかしたらイーヨーはアンチ・キリストのように邪悪な力を潜めているかも知れない。たとえそうだったとしても、私はイーヨーについてどこまでも行こう、という不思議な決心がわいてきたのだ」である。
『新しい人よ眼ざめよ』に出てくるがイーヨーはラジオのボリュームを大きくして妹に迷惑がられていた時にお母さんが「私たちが死んでしまった後は、妹と弟の世話にならなければならないのよ。いまみたいなことをしていたら、みんなから嫌われてしまうわ。そうなったらどうするの?わたしたちが死んでしまった後、どうやって暮らすの?」と言ったのに対して「僕はすぐ死にますよ!発作がおこりましたからね!大丈夫ですよ。僕は死にますから!」などと答えている。また、反抗することを健三郎からバークレーからの電話で叱られた時も「僕は、もうだめだ。二十年も生きちゃ困る」という手紙を書いた(『恢復する家族』)。
□ しかし、今やイーヨーは時々駄洒落を飛ばして、家庭内での自分の位置をわきまえながら生きている。例えば、「追跡者(ストーカー)」(『静かな生活』)では「あら、楽観という言葉、イーヨーは知ってるの?」と聞かれて「神経痛とはくっつきませんし、お湯もわかさないと思います」と駄洒落で答えている*。
光さんは自作の演奏会でファンからマフラーをもらった時に「これは夜、寝る時に使うものですか?」と訊いた。みんな、やっぱりビョーキが……などと思っていたら、光さんは「寝る時使うのはマクラですね」と言ったので、そのギャグぶりにみな感心したという。
ついでに、光さんのジョークを紹介しておけば、光さんは軽井沢の別荘などで食べるカニがいつも沢蟹なので沢蟹=カニと思っているフシがあった。北海道で死ぬかもしれないような癲癇の発作に罹ってお父さんが飛んできた。何とか回復してお祝いに町長が毛ガニを出した時に光さんが「北海道のカニは静かですね」と言った。健三郎が説明していった。「この子にとってカニは沢蟹なので、騒がしいと思っていますが、これは違うので騒がしくないということです」。
光さんは病気になった四国のおばあちゃんに「元気を出してしっかり死んでください」と挨拶したが、おばあちゃんは「はい、元気を出して、しっかり死にましょう」と答え、その後の大病の際に一番力づけになった言葉だったという。下手な慰めをいうよりは正直で直截な言葉の方が「癒し」になるのである。言葉の光を感じる。
□ しかし、東大の先端研にいる評論家・立花隆の「光さんは可哀想だ。死ぬ順を考えればもっと自立させなければならない」という言葉も大江一家には堪(こた)えたようだ。
98年の春、光さんは「ずっと家にいる」といって作曲活動を続ける意思を示した。頑張ってほしい。
ピアノの鍵盤には限りがある。ところが世界には限界がない。道ひとつとったって何百万もある。陸の人間はどうやって正しい道を見分けられるんだい? そんな無限の鍵盤の上で人間が弾ける音楽なんかないよ。
-----アレッサンドロ・バリッコ『海の上のピアニスト』□ 大江健三郎は「癒し」をテーマにしていて1994年のノーベル文学賞受賞記念講演「あいまいな日本の私」で「私は渡辺一夫のユマニスムの弟子として,小説家である自分の仕事が,言葉によって表現する者と,その受容者とを,個人の,また時代の痛苦からともに恢復させ,それぞれの魂の傷を癒すものとなることをねがっています」と述べ、「ものを書くことは悪魔を追い払うこと」と答えてきた。最近の小説『治療塔』『治療塔惑星』というタイトルも「癒し」だし、三部作『燃えあがる緑の木』ではギー兄さんが治療を施して奇跡を起こす。
このテーマが光さんとの共生から生まれてきたというのが実に意義深い。もし、彼が光さんの弟さん、妹さんだけとすごしてきたら見過ごしてきたことかもしれない。知的ではあるかもしれないが、「癒し」の文学になったかどうか、大江の文学の本質が変わってきたことは間違いない。大江の文学が「経」(縦糸)とすれば光さんの音楽が「緯」(横糸)として見事に編み込まれていると思うのは僕だけだろうか。
例えば、『新しい人よ眼ざめよ』に出てくるように、イーヨー(光さん)が健三郎のアメリカの大学での講義のために出張していた時に光さんがベランダでナイフを振りかざしていた、という事件があったという。これは危険だ、という話が帰国後なされた。イーヨーは「僕」の死を経験し、その恐怖のためにパニックに陥ったのであり、「長男として家族を守ろうとしてイーヨーがやった行為ではないか」と解釈して受け止めた。そして家族の心配を癒したのである。
「癒し」というのはこの話のように3段階からなるといわれる。悲しいことがあるとそれに気づき、受け止め、癒すという段階を経る。文学でも音楽でも同じように「癒し」を与えることができるのだ。
そして、健三郎は『恢復する家族』の結びに近いところ(『大江光ふたたび』のサントリーホールでのコンサートでの話)で次のように述べている。
しかし今度のCDの光の音楽を聞くうち、自分の、そのムダのようだったいっそうの仕事の、意味がわかってくる、ということも感じるのです。それはこういうことです。悲しみであれ、苦しみであれ、いったんそれをひとつのかたちに表現してしまうと、それをさらにつきつめてゆかないではいられない。光のように知能に障害をもっていて、イノセントな心の持主の人間にも、音楽という形式をつうじて、おなじことが起こってしまう。
ところが、その音楽を聞いて感じることですが、このように表現すること自体に、かれを恢復させる力がある。かれの心を癒す力がある。しかもそれは、表現する当人のみならず、その表現されたものを受けとめてくださる人にとってもそうなのじゃないかと感じるわけなのです。これが芸術の不思議だといいたいと思います。そして、このように、自分のつくる音楽や文学によって、魂の暗い深みに入りこまざるをえない、その不幸と同時に、その表現行為によって、自分自身が癒され、恢復する不思議------倖せ、といってもいいのですが------、そのふたつが重なって、重なりつづけて、表現者に芸術の深まりをもたらす。それは人生の深まりということでもあるように思うのです。しかもそれは、繰り返しになりますが、芸術を受けとめる側にとってもおなじなのではないでしょうか?
□ 音楽と「癒し」というのが大きな話題になっている。もちろん、心理的に効く場合もあれば、治療の場面で実際に効く場合もある。
人間は現在、過去、未来を同時に生きているが、音楽は過去を思い浮かばすきっかけとなる。一緒に歌うことによって連帯感も深められる。何よりも不快な経験を洗い流してくれる。つまり、辛い現実から逃れることを許してくれるのだ。
音楽で「癒し」というと最近はα波の音楽がよく使われる。「ゆらぎ」の音楽といってもいい。「1/fゆらぎ」とも呼ばれ、これを聞くと「快楽のホルモン」と呼ばれるドーパミンが出てくるといわれ、ロックなどの音楽では「怒りのホルモン」と呼ばれるノルアドレナリンが出てくる。ただ、若い頃にはノルアドレナリンも必要で、ロックが若者の音楽であるのも理由がある。
「癒し」の音楽はメロディもリズムもハーモニーもしっかりした音楽である。当然、クラシックが強くなってくる。童謡も強い。これらは記憶を司る、タツノオトシゴの形をした海馬に働きかけるので老人が童謡で「癒し」を感じることも多いのである。
□ ニーチェは「音楽のない人生は誤り」と言ったという。
こうして、音楽は「癒し」として使われるのだが、忘れてはいけないことがある。
音楽が情操教育にいいとか、頭がよくなるとか、という使い方は間違っている。
音楽が無条件にいいということだったら、音楽家はみんな賢くて、いい人ばかりになるはずだが、ベートーベンを筆頭に、いい人なんていなかった。周りを見てもロクな音楽関係者はいない(富山は偽物だらけ?)。
ナチスの幹部はベートーベンやワーグナーを聴きながらオシュビエンツィム(アウシュビッツ)の悲惨を生み出していた。
映画『アンタッチャブル』を見ても分かるようにアル・カポネはオペラ『道化師』に没頭して涙を流している。それなのにショーン・コネリーを首尾良く殺したという知らせが入ると何とも複雑な笑みが混じり出す。
その表情は「衣装をつけろ」の道化師そのものであった。
【1998年11月】
*つまり、楽観は「肋間」(神経痛)とくっつかないし、薬缶(やかん)でもないからだ。
※僕も「癒し」の文学なんて書きたいけれど、モヤシみたいな文章を連ねているだけだ。音楽と文学に無知な、というか文学「音痴」な人間の書いたことで大きな間違いがあるかもしれません。こっそり、教えて下さい。
※2001年6月に大江健三郎と光の講演「<人間らしさ>再考」とコンサートを聴いた。
大江は人間らしさには人間の弱さを強調したネガティブなもの、清濁併せ持ったニュートラルなもの、そして、他人を思いやれるポジティブな、強い人間性があると話した。光さんは障害をもった弱い人間であるけれど、伊丹十三が亡くなった時に妹であるお母さんを慰めて“I.T.A.M.I.”という曲を作ったが、これが強さであると話した。
光さんは「入善ですばらしい音楽が聴けてうれしかった。昨日、広島が【巨人に】勝ったのもうれしかった」と挨拶した。
□"HIKARI FINDS HIS VOICE" Commentary by Professor Dick Sobsey