金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


誤訳の思想---「時間蝿は矢を好む」 

 翻訳をやっていると、ときどき自分が透明人間みたいになって、文章という回路を通って、他人の(つまりそれを書いた人)の心の中や、頭の中に入っていくみたいな気持になることがあります。まるでだれもいない家の中にそっと入っていくみたいに。あるいはぼくは文章というものを通じて、他者とそういう関わりをもつことにすごく興味があるのかもしれないですね。(『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』新潮文庫)

「翻訳の神様から見れば、我々はすべてアマチュアなのだ」(柴田)村上春樹・柴田元幸(『翻訳夜話』文春新書)

…私はひそかに翻訳者を、つぎの三種に分けて、その分類を楽しんでいる。世の教師が生徒を分けるときの分け方であって、おとなしい子、お利巧な子、腕白な子の三つ。
 おとなしい子のタイプは、いつも行儀がよくて、「はい」も「いいえ」もちゃんという。すべきことはきちんとする。ただし、遊ぶのに、これほど退屈な仲間もいない。
 お利巧タイプは抜かりがない。もつれた糸を正しくほどき、隠れた意味をさぐりあてる。百点満点の聖徒である。ただ暮らすの優等生と同じで、その言葉は、どこかよそよそしく、うそ寒く、夢中になれない。
 腕白型はどうであるか? 彼は石をおそろしく遠くに投げられるし、標的に命中できる。ときには標的のないところにも剛球を投げこむ。明快そのもののところを、腕力で混乱させ、埋もれた深さは無視するが、背後に入りこんで独自の鉱脈を掘りあてたりする。遊び仲間としては楽しいが、その言動はあてにならない。
     -----池内紀「魅せられたるわが魂」『翻訳家の仕事』(岩波新書)


 学生時代、よく通ったカレー屋に「インデアン・カレー」というお店があった。インディアンの羽根をつけた子供がそのお店のトレードマークだった。カレーはおいしかったのだけれど、どう考えてもインディアンがカレーを食べたという話を聞いたことがない。「インデアン・カレー」というのは「インド・カレー」の誤訳から生まれたのであろう。


インディアン・カレー・パウダー

 大学の教養時代の英語の購読にホーソーンの『緋文字』を読まされた。名作なんだろうが、不倫で大袈裟に騒ぐのがなんだか馬鹿らしかったし、英語も結構難しくて、しかも教師がどうしようもない嫌みなタイプだった。それはどうでもいいのだが、テクストが難しいのでアンチョコに岩波文庫の『緋文字』を利用することにした。ところがその冒頭「二 市場」でびっくりしてしまった。「無精な浮浪インド人」という言葉が出てくるのだ。

 一七世紀のアメリカにインド人がいたのだろうか、と思って解説を見ると緋文字の重要な説明に「この文字が、インド人の目を引くために、白人がいつも工夫した、ああいう装飾品の一つではなかろうかと思いふけりながら」と書いてある。何で白人がインド人の目を引かなければならないか分からないのであわてて新潮文庫を買いこんだ。鈴木重吉訳の方は「怠け者で浮浪のインディアン」となっていて、要するに岩波の佐藤清訳が、インディアンを印度人と誤訳・誤解していることが分かった。大正六年(一九一七年)に出版してから三回改訳をしたのに、七〇年以上も訂正されていなかったのである。コロンブスだって間違う位だから間違って当然というのだろうか。それとも、どうでもインディアンと思っているのだろうか。

 また、この鈴木訳の文章は読めたものではなかった。陰険な教師がレポートとして五〇頁も翻訳させたので参考に使ってはみたのだが、おどろおどろしい世界で迷子になってしまった。お陰で英文学がすっかり嫌いになった。後に別宮貞徳の「月刊翻訳時評」にもこの『緋文字』が取り上げられ、「非文学」と決めつけられている(『翻訳の落とし穴』文藝春秋所収)。

 一例をあげると、冒頭の「新しい植民地の建設者たちが、初め、徳義と幸福の、どんな理想郷を工夫しても、處女地の一部分を墓場にわりあて、他の部分を監獄にわりあてることを、いつも最初の實際的な必要條件と認めたであろう」は「新しい植民地の創設者は、当初のもくろみとしていかに道徳的で幸福なユートピアの建設を考えているにせよ、いつもきまって、処女地の一部を墓地に、一部を監獄の敷地にあてることを、最初になすべき要件の一つにかぞえていたものである」と訳すべきだと別宮は主張する。


 その後、多くの大学教師が岩波文庫を絶対視していることに気づいた。実際には、別宮が取り上げているように、『嵐が丘』や『森の生活』をはじめ、欠陥翻訳も多いのである。ギリシャ語のM先生によれば、岩波文庫には哲学者であり、文学者である河野與一さん(故人)がついていて、あらゆる言語の間違いを直しているから、安心できるとのことだった。與一さんの弟で大言語学者の河野六郎先生に教わり、その学風とポリグロットぶりに心底打ちのめされたので、この神話は本当だと思う。しかし、その語学の神様もこうした戦前の翻訳作品にはきっと目を通されなかったのだと思いたい。

 ただし、山本夏彦は『私の岩波物語』(文藝春秋社)の中で次のような悪口を叩いている。

 たぶん原本はかくの如く面白いものなのだろう。それを翻訳が晦渋難解なものにしたのだろう。その例は河野与一の「プルターク英雄伝」(全十二巻)に最も見られる。岩波は外国語の出来るだけの人を重く用いて、その人の日本語能力を問わなかった。英雄伝だから手に汗にぎるはずのものが、世にも退屈なものになっている。こんなにつまらなくするのは人間業(わざ)ではない。

 岩波茂雄はあふれるその善意にもかかわらず、事は志とちがって思いかけず国語を混迷におとしいれる元凶になった。これから国語が回復できるかどうか、私は危ぶんでいる。

 日本の知識人の多くが岩波文化で育っているが、その多くが誤訳や欠陥翻訳なのである。単行本でも神鳥武彦『言語間の接触』など誤訳だらけの本がある。

 つまり、日本の思想は誤訳でできたものなのである。

 ああ、これで岩波から仕事が来なくなった(来ないって)。


 ドナルド・キーンほどの大学者に対しても翻訳で読んでいるのかと尋ねる人がいる。外国人には日本文学は理解できないと日本人は思っている。原語を読めても日本文学を堪能することはできないと思っている。じゃあ、日本人が外国文学を語るのはどうか、というと先の偏見は忘れて、トルストイかドストエフスキーかなどと語り始める。

 でも、『トルストイかドストエフスキーか』(白水社)を書いたジョージ・スタイナーはオックスフォード大学教授にして英独仏を喋る学者なのだが、ロシア語は読めないという。その後、日本語が分からなくても一休や道元について語っている。

 日本の思想は誤訳でできたものだ、といいながら、そうした誤解こそが今の日本をつくっているのではないかと思ったりもする。


 言葉というのは難しいもので、「印度林檎」というのは暑い印度で林檎が取れるはずもなく、語源はインディアナ州とも、弘前に紹介した外人教師イングともいう。

 翻訳のむずかしさは俳句を考えてみればよく分かる。ネックとなるのは次の4点である。短い芸術なので問題も凝縮される。

 佐藤紘彰のOne Hundred Frogs(Weatherhill)という本は芭蕉の「古池や」の翻訳を最初に訳した正岡子規のをはじめ、百編以上集めたものである。

 アーサー・ビナード『日本の名詩、英語でおどる』(みすず書房)は山村暮鳥の「風景」を訳そうとして「いちめんのなのはな/いちめんのなのはな…」を“A field awash in rape blossomes/A field awash in rape blossomes...”としようとしたのだが、原詩が縦書きで、一行一行が菜の花みたいに立ち、繰り返されると横に広がって、花畑となるのだが、横書きの英語だとみな薙ぎ倒されてしまって、ビジュアルな面白みが出てこないと書いている。

 例えば、蛙は一体何匹いるのか(八雲と金関寿夫は複数)、どんな水の音で、何度したのか、現在なのか過去なのか、池というのはどれだけの大きさなのか、いろいろ迷ってしまう。芭蕉だって、蛙の種類は何ですかと聞かれたら、答えられないだろう(立石寺の蝉論争みたいな蛙論争があったのだろうか)。米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文藝春秋)によれば、イタリア語訳もフランス語訳もドイツ語訳も「蛙」が複数形だという。「枯れ枝に烏とまれり水の音」の「烏」も複数形でまるでヒッチコック映画みたいだ。グリゴリエヴァ訳はちゃんと単数になっている。

 崇高な諧謔  西脇順三郎(『鹿門』)

古い池の中へ
かえるがとびこむ
音がする

 蛙といえば、マーク・トウェインは自分の「飛びガエル」の翻訳がフランスで評判が悪いのは翻訳のせいだというので、「逆翻訳」(mirror-translation)を試みた。上がオリジナルで、下が逆である。

“Now, if you’re ready, set him alongside of Dan’s, with his fore paws just even with Dan’l’s, and I’ll give the word.” Then he says, “One-two-three-git!” and him and the feller touched up the frogs from behind, and the new frog hopped off lively, but Dan’l give a heave, and hysted up his shoulders-so-like a Frenchman, but it warn’t no use.’

“Now if you be ready, put him all against Daniel, with their before-feet upon the same line, and I give the signal” ミthen he added: “One, two, three- advance!” Him and the individual touched their frogs by behind, and the frog new put to jump smartly, but Daniel himself lifted ponderously, exalted the shoulders thus, like a Frenchman ミ to what good?’


 インド人が日本のカレーライスを食べて、おいしいですね、これは何ていう料理ですかと聞いたという。本物とは似て非なるものなのである。

 英語を習いはじめた頃、オレンジはみかんではない、と教えられたのだが、どう違うのか見当がつかなかった。グレープ・フルーツも初めて食べるまで記号でしかなかった。それは教えている英語教師も同じはずであった。実体がつかめていないのに分かったように教えている教師が多いのではないだろうか。

 ウラル語を教わった徳永康元先生はハンガリー文学の翻訳を頼まれたのだけど、冒頭に出てくる鐘の音色が現地へ行かないと分からないから訳せない、といってずっと翻訳を延ばしているという噂であった。

 福沢諭吉は演説を翻訳語として定着させたが、最初、スピーチとはどういうものか分からなかった、だから咸臨丸に乗ってスピーチとは何か見に行ったと外国行きの理由をいっている。はじめのうち「演舌」としていたが、しっくりしないので「演説」に換え、ディベートを「討論」と訳した。『学問のすゝめ』で「演説とは英語にて『スピイチ』と言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なり」「大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なり」と解説した。「演説」は出身藩だった旧中津藩で使われていた「演舌書」なる書面に由来するという。「舌」という語句が俗なために「説」に換えた。福沢本人がそう述べたと慶応義塾のホームページにはある。このせいかどうか知らないけれど、日本の国会は「会議においては、朗読することはできない」となっている。

 ちなみに、ウィーンやミラノにあるコトレットを日本人に発音しやすいように「カツレツ」にしたのも諭吉だという。「豚コト」では力が出そうもない。蛇足だが、「演歌」というのは演説の時に歌われた「演説歌」が縮まったもので、その後「艶歌」とされたが、国字改革で元の「演歌」に戻ったという。

 ただ、こうして翻訳語が定着してしまうと、元の意味からどんどん離れてしまうことがある。いわゆる「カセット効果」である。池澤夏樹は『世界文学を読みほどく』(新潮選書)で次のようにいうが、「権利」は「道理」から離れて「利益」を思い出させて、欲張りな感じがどうしても出てしまって、主張しにくくなる。

 大和言葉は、歴史上のある時点から、語彙を分化させなかったということ。その代わりそれを全部漢字に任せてきたのが日本語。
 さらにいえば、漢字はもともとこれほど単純な発音ではなかった。
 紙に書くときには、文字を見られているわけですからかまわない。耳で聴く時に困る。だけど、何となく済ませてきた。そのために払った努力、生じた誤解の数々はあるはずなのですが、みんなあまり意識していないし、気にしていない。しかも漢字に置きかえてわかったつもりになってしまった。
 最近僕が気づいた例、それは「権利」という言葉です。英語なら「RIGHT」これは「権利」であるとともに「正しい」という意味の言葉です。
 もしもこれが権利でなく「権理」という字を使っていたら、われわれは権利を要求する時に、これほど物欲しげな、後ろめたい気持ちにならないで済んだんじゃないか。

 僕がケニアに行った時、ある食堂のメニューの最後にキマと書いてあった。僕のスワヒリ語の知識ではキマは「猿」という意味しかないので恐る恐る注文したら、ひき肉料理だった。実際に見るまで、もしかしたら、ケニアの人は猿を食べるのだろうかと疑ってしまった自分が恥ずかしくなった。カップ麺についている「かやく」を爆発物だと思って、恐る恐る開ける外国人も多いのではないかと思う。

 カルピスは英語の話し手にカウピスのように聞こえるという。つまり、日本人は「牛のオシッコ」を飲んでいるのだと思われるという(Calpicoという商品名になっている)。

 ドナルド・キーン(『日本人と日本文化』中央公論社)によれば、ザヴィエルはヨーロッパの神をどう訳せばいいか迷い、しまいに「大日」として、「私たちポルトガル人は大日を拝んでいます」と言ったら、日本人は「そうですか、外国人もそうですか」と言ったという。そこで「デウス」としたら、「ダイウソ」と聞こえ、「私たちはダイウソを信じています」と言ったので、日本人はみんな笑ったそうだ。

 もちろん、日本の雑種文化というか何でも吸収する力が働いていると考えることもできる。遠藤周作の『沈黙』では拷問の末に棄教を強いられたロドリゴの前に、既に転んでいた先輩のフェレイラが現れて話しあう。

「だが聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰に変えていたのだ」
「彼等が信じていたのは基督教の神では無い。日本人は今日まで神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」

 岩村信二『日本語化したキリスト教用語』(教文館)は162の用語のうち、新語が70%の113語、元々日本語にあったが新たにキリスト教的意味を持った用語が41語、誤用、または意味を誤解された言葉が8語だという。

…キリスト教の言う神の前における自由、神によって創造された生命の尊厳という意識はほとんどない。それゆえ日本人のメンタリティは無神論的、あるいは自然主義的地盤を持つことがわかり、これを有神論的メンタリティに変えようとする試みは絶望に近い。私はこれを「サビ(キリスト教)抜き」の受容と呼んでいる。

 ドナルド・キーンといえば、彼は別のところで述懐しているが、「今川焼き」を陶器だと思って翻訳したことがある。どんな大家でも事物(レアリア)を知らなければ分からない。

 ここで質問。Those who live in glass houses should not throw stone.というのはどういう意味だろうか。

 レアリアというのは伝えにくい。究極の難しさは固有名詞にある。「東京ラブストーリー」と「難波の恋の物語」の違いは外国人には説明しにくい。「江戸っ子」という概念も伝えにくい。

 清水俊二は『お熱いのがお好き』のマリリン・モンローのセリフで“You know, Bryn Maur,Vasser."(二校とも有名女子校)というのを「聖心から学習院を出たのよ」と変えた。ミッチーブームから生まれた名訳だが、リバイバルでは聖心の神通力がなくなったとして、「バサー女子大を出たのよ」に戻してしまった。

 『フィラデルフィア』という映画の中でジョー・ミラーがゲイ嫌いの男に嫌みをいわれた時、「ここは兄弟愛の街です。自由の誕生の地、そして建国の父たちが独立宣言を草案した地です」「その栄誉ある独立宣言には“すべての異性愛者は”平等である、とは記されていません。“すべての人間は”平等である、と書かれているのです」と反論する。

 これはフィラデルフィアがphilos(愛)とadelphos(兄弟、同胞)が語源になっていることを踏まえているし、Philadelphia lawyerというのが「凄腕の弁護士」の意味があり、俗語では「人を惑わすもの, 女の脚」[Philadelphia の弁護士は陪審の評決を鈍らせるとの言い伝えから]をも意味することが分からなければ、この街が舞台になって題名になっていることなど分かるはずもないのだ。

 ある時、アメリカのドラマを見ていたら「宣教師の立場でセックスをする…」というセリフが出てきてのけ反った。『ウディ・アレンの浮気を終わらせる3つの方法』(Three One-Act Plays白水社)の「リヴァーサイド・ドライブ」の翻訳は井上一馬なのだが、この中にもフレッドのセリフに「あんた、基本的には牧師様の体位を好むほうだろう?」というのがある。「牧師様の」?これは“missionary position”の訳で、ランダムハウス英和辞典にも「土地の人々が後背位を好んだのに対して」キリスト教宣教師は正常位がよいとしたと言われることから」ときっちり書いてあるように、誤訳としかいいようがない。ポリネシアでは後背位というのが当たり前だったのだが、布教にやってきた宣教師はこれが「正しい姿勢」だとか何とか教えたために、こんな風に呼ばれるようになったといわれる(こんなのは証明しようがないのだけれど…)。もしかしたら婉曲的に訳したのかもしれないが、その場合でも「宣教師の」とすべきである。

 阿部謹也の『「世間」への旅』(筑摩)で『贖罪規定書』についてこんな文章を見つけた。指導は厳しかったのだ。

 個人は司祭の前で自分が犯した罪を告白し、自分の性行為のあり方だけでなく、迷信や呪術との関わりについて詳しく告白しなければならないのです。妻と共に風呂に入り、妻の裸体を見ただけでパンと水だけで過ごす一週間の贖罪を果たさなければならないのです。夫婦であっても性交の体位から回数、性交が許される時期などについて厳しい規定があったのです。

 タンガニーカ(今のタンザニア)が1961年に独立する時に国連で同国の基本法(Organic Act)をロシアの同時通訳が“Organicheskiy Akt”と訳したという。直訳では正しいのだが、ロシア語圏では実際に「性交」の意味で使われている言葉だった。しかも途中から「立場」というロシア語を使い始めたのだが、これも「体位」のことを意味していたので、爆笑の会議だったという。この通訳はロシア移民の娘で、ロシア語が堪能だったのだが、微妙なニュアンス、レアリアが分からなかったのだといわれている。

 米原万里はアルメニアと民族紛争状態にあったアゼルバイジャンに、日本の市長と同行した時にわざと誤訳をしたという。歓迎の宴席で市長が「アルメニアのコニャックに目がない」とスピーチした。紛争相手をほめる言葉をそのまま訳したら命の危険もある。既に相手は「アルメニア」と「コニャック」という語を聞いている。内容を変えるのは通訳にとってはタブーだが、とっさに「アルメニアのコニャックは世界一と聞いていたが、お国のにはかなわない」と訳して難を逃れた。でも、通訳がクッションとなって耳障りなコミュニケーションを避けただけで真の相互理解を先延ばししただけではないかと反省しているとも話していた。

 ニュアンスといえば、村上春樹がフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の新訳を出した。「グレート」もそのままだが、ギャツビーの口癖である「old sport」(野崎孝訳では「親友」)を「old sportはオールド・スポートとしか言いようがない。日本語では表せない」と原語のまま「オールド・スポート」と訳した。当時においてもアメリカ人には慇懃に響く言葉なのでイギリス人がよく使うらしいのだ。「オックスフォード出身である」というアメリカ人ギャツビーにとって彼を演出する言葉なのだという。かといって「親友よ」と呼びかけるのも変だ。「20年かけても適当な訳語は見つからなかった」というが…。

 翌年にはチャンドラーの『長いお別れ』の春樹訳が出た。

 私たちは別れの挨拶をかわした。車が角(かど)をまがるのを見送ってから、階段をのぼって、すぐ寝室へ行き、ベッドをつくりなおした。枕の上にまっくろな長い髪が一本残っていた。腹の底に鉛(なまり)のかたまりをのみこんだような気持だった。
 こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。
 さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。
   (清水俊二訳『長いお別れ』)
 さよならを言った。タクシーが去っていくのを私は見まもっていた。階段を上がって家に戻り、ベッドルームに行ってシーツをそっくりはがし、セットしなおした。枕のひとつに長い黒髪が一本残っていた。みぞおちに鉛のかたまりのようなものがあった。
 フランス人はこんな場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまく丶つぼにはまる。
 さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。
   (村上春樹訳『ロング・グッドバイ』)

 この後書きの中で次のように書いている。

…翻訳というものは家屋にたとえるなら、25年でそろそろ補修にかかり、50年で大きく改築する、あるいは新築する、というのがおおよその目安ではないかと常々考えている。僕自身の翻訳についても、二十五年目を迎えたものは少しずつ補修作業に入っている。もちろん家屋と同じように、それぞれの翻訳によって経年劣化に多少の差があるのは陶然だが、五十年も経過すれば(たとえ途中でいくらかの補修があったにせよ)さすがに、選ばれた言葉や表現の古さがだんだん目につくようになってくる。

 千野栄一先生の『ポケットの中のチャペック』(晶文社)に出てくるが、チャペックの『長い長いお医者さんの話』の中野好夫の訳は英訳本からだったので、多くの単語がチェコからイギリスに変えてあった(新訳は直してある)。「ハラブルトくん→ライトフットくん」「ホラスくん→キッチンくん」「プラハ市→ロンドン市」「ヴルタヴァ川→テムズ川」「ストロモフカ→ハイドパーク」「博物館→大英博物館」「7コルナ→7シリング」なんて…。

「(壊れやすい)ガラス張りの家に住む者は石を投げてはいけない」とは「すねに傷持つ身は人を非難してはいけない」、つまり「自分のことを棚に上げて人の悪口を言うな」ということ。


     

 「演説」や「哲学」などの翻訳語を「発明」したことは日本人のすぐれた発明であり、中国にも輸出されることにもなったのだが、逆に言語を日常語から分断するという危険性も伴っていた。

 例えば、physicsとmetaphysicsは後者が「後ろのある〜」という意味が加えられたものなのだが、「物理学」と「形而上学」というように理系、文系で切り離された言葉になっている。

 ドイツ語の「アウフヘーベン」だって弁証法などの哲学では「止揚」、社会科学では「揚棄」と訳されているが、もともと「上に」「揚げる」、つまり「拾いあげる」の意の動詞で、何かを拾う度にドイツ人は哲学する、ということはない。日常語と哲学の言葉に境目はなかったのだが、日本語になって分断されてしまった。

 鈴木直の『輸入学問の功罪』(ちくま新書)に出てくるが、長谷川宏はヘーゲル『精神現象学』でドイツ語の“Subsntanz”(英語の“substance”)を「神」「共同体」「秩序」「地球」「自然」と訳し分けたという。ヘーゲルが“Subsntanz”をそんなに分けて考えていたとは思えない。“Subsntanz”は“Subsntanz”だと思っていたはずだ。ちなみに、鈴木は「逐語訳という名の権威」という章をもっていて、分からなくすることで権威を保ったと考えている。

 【この問題は難しく、2003年に難しい外来語を日本語にする、といって「ノーマライゼーション」を「等生化」などにしよう、という動きが出たが、余計に難しくしていることは明らかだ】


     

 いままで多くの翻訳を読んできた。時には全然意味が分からなくて、自分の頭の悪さを嘆いたりしたものだが、それが重なるにつれて、悪いのは自分の頭ではなく、訳者の方だと気づくようになってきた。そのうち、本文に当たらなくても、訳者がどういう間違いをしでかしたか見当がつくようになってきた。

 例えば、J・ファスト『ボディ・ランゲージ』(石川弘義訳:読売新聞社)の重要な箇所で「アメリカ人のプライバシー感情には二本の足がはえているとみえ、どこへいこうとこの感情がくっついてまわる」とあるが、二本の足がはえているとは奇妙である。原文をみると案の定、The American carries his two-foot bubble of privacy around with him.となっていて、「アメリカ人は自分の回りに二フィートのプライバシーの泡をもっている」ということで、六〇センチ以内に近づかれるとプライバシーが破られたと考えるという話なのである。単位になっていてfeetでなく、footとなっていることから生まれた誤訳である。

 誤訳はある言語が外国語と出会った、その瞬間から始まっている。明治七年、イギリスの通信員チャールズ・ワーグマンによる「アリマス、アリマセン、アレワナンデスカ」(『イェロー・ヨコハマ・パンチ』)というのがシェイクスピア『ハムレット』のTo be,or not to be, that is the question.の信じられないけれど最初の訳である。

 その後、「世に在る、世に在らぬ、それが疑問じゃ」(坪内逍遥)、「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存)、「やる、やらぬ、それが問題だ」(小津次郎)を経て、「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」という小田島雄志訳に連なっている。

 シェイクスピアの場合、駄洒落もしっかり訳さなければならない。『終わりよければすべてよし』の A young man married is a man that's marr'd. とシャレになっている(結婚で苦労したシェイクスピアが自身を笑いのめしている部分である)ところを逍遥は「若くて妻帯、わが身の災難」とし、小田島は「若くて結婚、人生の欠損」としている。これを「若くて結婚、身の破滅」(工藤昭雄)と訳してしまったらつまらない。「あわてて結婚、すぐに悔恨」ではどうだろうか。ただし、村上春樹・柴田元幸は『翻訳夜話』(文春新書)で駄洒落があったらルビを振るぐらいで、置き換えはできない、というのが「越えられない一線」だという。

 ついでにハムレットの独白を富山弁に訳せば、「生きとったらいいがか、死んでしもわいいがか、なあんわからん」とか「このまんまでいいがいやら、だちゃかんがいやら、どうすりゃいいがけ」となり、とても悲劇に耐える翻訳とはなりえない。

 ちなみに池内紀は「シェークスピアは理想の翻訳家だ」とまで言っている(川村三郎・池内紀『翻訳の日本語』中公文庫)が、シェイクスピアの脚本はほとんどがネタ本があり、それを芸術的に翻訳しているということである。

 同じように聖書の翻訳も揺れている。「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき」というのが『現代日常語訳聖書』では「まだ何もない時、キリストは神と共におられました。キリストは、いつの時代にも生きておられます。キリストは神なのです」となっているが、果たしてこの言葉が神の言葉のように聞こえるだろうか?

  堀口大學 「僕の文法」 (二行詩)

文語に口語のやさしさを
口語に文語のきびしさを

 イギリス人はシェイクスピアを原文で読めて幸せだという日本人がいるかもしれないが、実は既に難しくなっている。逆に日本人の方がイギリス人よりもシェイクスピアを楽しめる。それはいくつもの翻訳が存在しているからである。訳文には耐用年数があることも関係しているが、名曲にさまざまな演奏があるように、ものの見方にはいくつもあるのだ。言葉に正解は一つではない。

 『枕草子』を初めとして、日本の古典の現代語訳の一つとしてイメージ訳がある。次の歌の原典は何だろう。

松村よし子『新釈・平成イラスト版 恋の百人一首』(文化出版局)

ゆれる 
せんたくもの
お日さまの
においが一杯。
深みどり色の
夏のはじめ。
富士の雪は
まっしろな
ウェディングドレス。
青い空は
今日の
心の色。
あら…
このお花
色あせてしまって…
私も
そうなってしまうの?

 すべての言語は伝達の道具としては同等で、ある言語で表しうることは他の言語でも表しうるという「翻訳可能性」の議論と、各言語は別々の世界をもち、ある言語で表しうることが全て表しうるというわけではないとする「翻訳不可能性」の議論がある。例えば日本語には時制が現在と過去しかないが、フランス語にいたっては現在、複合過去、単純過去、半過去、大過去、前過去、単純未来、前未来というのが揃っている。文学を翻訳する時はそうした遠近法をきちんと訳し分けなければならないが、至難な技だ。だからといって可能か不可能かどちらが正しいかは『海鳴』6号の「海の色は何色?」で書いた言語と思考の問題と深く関わっているからここでは扱わないが、beという動詞一つをとっても容易に翻訳できない。ただ、ここで問題とするのはそうした微妙な翻訳のことではなく、明らかな欠陥翻訳である。

 さて、同じ言語間でも間違える。向田邦子の『眠る盃』は「荒城の月」の「巡る盃」の、『夜中の薔薇』は「野薔薇」の「野中の薔薇」の間違いからつけられたタイトルである。今どきの女子大生も旅行ばかりしているので「蛍の光」を「ホテルの光、宿の雪」だと思いこんでいる。

 外山滋比古は童話教育について講演をし終わった後に、どこが同和教育なのか噛みつかれたと書いていて、そんな馬鹿な話と思っていたのだが、僕自身、日本語の起源説について半分話し終えたところで、あるおじさんから「わしら、キゲンセツいうたら、二月十一日となろうたもんだけど」と真顔でいわれ、うろたえてしまった。

 世代が違っても誤解は生まれる。「気のおけない友人」というのは「心が許せる親友」のことだが、若い人は「気を許すことのできない人」と正反対に解釈し、ケンカになったりする。「住めば都」を「住むならやっぱり都会」と、「情は人の為ならず」を「同情してもその人のためにならない」と取る人がいるし、年寄りでも「流れに棹さす」を「時流に逆らう」と考える人が多いのではないだろうか。ホントは「調子をあわせて、うまくたちはたらく」ことである。

 「百人一首」を「化け物」、「枕言葉」を「寝言」、「天地真理」を「宇宙を支配する真理」だと思っている人も多いが、「天地真理」というのは天使の歌声といわれた清純派の歌手も売れなくなるとヌードになるほど没落する芸能界の厳しさをさしている言葉である【ごめん、何の話か分からない人も増えてきた】。

 「棹さす」で思い出したが、漱石の『草枕』の冒頭、「山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」という文を他の外国語(特に欧米語)にどう翻訳できるのだろう。字面を訳せても、こんな非論理的な文章をきちんと理解してもらえるだろうか。

 オノマトペも訳しにくいものである。俵万智『サラダ記念日』では次のような違いが出ている。

白菜が
赤帯しめて
店先に
うっふんうっふん
肩を並べる
Each in red obi,
shoulder to shoulder---
ooh ooh ooh---
sexy Chinese cabbages
line up before the market.
(Jack Stamm)
Chinese cabbages with red sashes
side by side at the shopfront
preening and tittering
(Juliet Winters Carpenter)

 文学研究家が作者の意図とかとよくいうが、実は誤解する権利を行使しているだけである。入試問題で作者本人が問題を解けないということが多いが、異議を唱えてみても、読者の方に読む権利があるといわれるのがオチである。合格する学生というのは作者ではなく、出題する教師の意図をしっかり読み取れる学生のことをいうにすぎない。

 現代読書論では、ロラン・バルトのいうように作者は死んでしまったのだ。

 須賀敦子はイタリア文学を多くの翻訳を手掛けているが、作者には会わないことにしていたという(「私のなかのナタリア・ギンズブルグ」『霧のむこうに住みたい』河出書房新社)。作者が意図していることが必ずしも正解ではないということだ。

…最初、それは確固たる理念があってのことではなく、なにか面はゆいから、あるいは機会がないからであった。ふつう、作者に会うのは、自分が理解できない箇所について質問したり、作品の背後の事情を探って、そこから文脈の理解を深めるといったことが目的だろう。しかし、「わからない箇所」というのは、くりかえして読みこなせば、かならず文脈のなかで解決がつくものである。そこに、自分なりの解釈がうまれる。それを訳に生かすのが、翻訳者の技量であり楽しみなのだ。また、作者に会うことによって生じる個人的な感情や、精神的負担がある。それに、作者の助言や説明はかならずしも的確であるという保証もない。だから、作者にはできることなら、会わないほうが楽なのだ。


 ところで、向田邦子は映画雑誌社に勤めていた時、「アクト・オブ・ラブ」という映画を「悪党部落」と間違えたという。淀川長治によれば、『駅馬車』Stagecoachは最初、『舞台監督』(ステージのコーチ)と訳されたそうだ。字面だけで判断する恐ろしさがある。

 映画の字幕でも時々、誤訳がある(誤字も多いが)。『フルメタル・ジャケット』ではスタンリー・キューブリック(当時、カブリック、後、クーブリック)監督が日本語訳を気に入らず、訳者を変更するという事件まであった。キューブリックが日本語を理解できるわけがないので、この場合、翻訳された日本語をもう一度英語に直して?ケチをつけたのだ。ミラン・クンデラも現在は日本での訳者を西永良成に決めているが、訳文を完全に管理することができるだろうか。恐らく無理で、テナント『自然言語処理入門』に出ている有名な誤訳と似ている。これはThe spirit is willing but the flesh is weak.「やる気があるが、身体がついていかない」という格言をロシア語に翻訳し、それを再び英語に戻したところ、The wine is agreeable,but the meat has spoiled.「ワインはおいしいが、肉は腐っている」となったというものだ。ずっと翻訳しつづければ、伝達ゲームみたいに永遠に内容が違ってくるかもしれない。

 ちなみに、僕はキューブリックの『二〇〇一年宇宙の旅』を科学映画だと思って見にいき、まるで訳が分からなかった。姉は東京で見てきたのだが、何と解説までつけられて、よけい訳の分からない映画になっていたそうだ。幸い、二〇世紀の人間には解読できない映画だといわれている。すると、現在ある解説は全て誤解ということになる。

 A・ヘップバーン主演のミュージカル『マイ・フェア・レディ』では、イライザの言葉が東北弁に訳されていて、東北の人には悪いが、大笑いしたのを覚えている。イライザの言葉コックニーはロンドンの下町の言葉なので、本当は東京の下町の言葉に直すべきである(どちらもH音を発音できない)。 が、日本では滑稽さが出てこないので田舎の言葉が選ばれた。縦のものを横にするように翻訳はできない。

 誤解と誤訳と一緒に取り上げたが、かつて佐藤栄作が渡米中に繊維問題で「前向きに善処する」といったのを米側はイエスととり、こじれたことがある。この場合、誤訳とも誤解ともいえる。両者の区別は決して判然としていない。翻訳を意味するフランス語interpretation は同時に「解釈」を意味する。その他のヨーロッパの言語も同じような用法である。

 「プラトニックラブ」というのも元来、同性愛的なものらしく、大誤訳、いや大誤解というべきであろう。「フェミニスト」も大誤解であった。日本人はウサギ小屋に住んでいるというのも西欧人の大誤解であるが、日本人の多くはマンション(元来、大豪邸の意)に住んでいると反論してやればいい。ただし、多賀敏行の『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった』(新潮新書)によれば、「ウサギ小屋」はフランス語の“cage a lapins”(画一的なアパルトマンの多くから成る建物)の誤解だったようだし、「アニマル」にも悪い意味がなかったという(beastは悪い意味)。

 今ではすっかり有名になったが、ビートルズの「ノルウェイの森」Norwegian Woodは森の話ではなくて、部屋にノルウェー製の家具があるという内容の歌なのだ(高山宏『ビートルズの詩の世界』実業之日本社1981)にはまだ「ノルウェイの森」となっている。だから、「ノルウェイの森」ではなくてイメージ的には「北欧家具」とでも訳すのが「正しい」(knowing she would“彼女がやらせてくれることを知ってるよ”というのを駄ジャレにしただけという説もある)のだが、これでは誰も聴いてはくれないし、まして村上春樹の小説は生まれなかっただろう。誤訳のおかげで、日本人は暗くて深い愛の森に彷徨うことができるのだ【林望『愛詩てる。』実業之日本社にこの歌詞の見事な分析がある】。

 ちなみに『少年カフカ』(新潮社)で村上春樹が書いているが、『ノルウェイの森』はイタリアでは『東京ブルース』(タイトルを変えるように交渉中だそうだ)、ドイツでは『直子の微笑み』になっているという。ノルウェイでは“Norwegian Wood”そのままだという!?

 『星の王子さま』というのも広い意味での誤訳である。現代は「小さな王子」でしかない。これを内藤濯が「星の」とつけた。名訳であるが、2005年に日本での著作権が切れた時にまで他の翻訳に「星の王子さま」とつけるべきではないと主張するのはあまりにも横暴である(「星の王子さま」とした翻訳は全て内藤濯に対するオマージュを書くことで問題回避している)。ミュージカルの『ラマンチャの男』の“The Impossible Dream”は「不可能な夢」ではなく「見果てぬ夢」となっているが、情緒性を加えた訳の方が日本語にぴったりする。

 冒頭で語り手の「ぼく」はゾウをのみ込んだウワバミの外側の絵を描く。大人に見せても「帽子の絵だ」と言うだけで、ウワバミの内側を見ることができない。ところが砂漠で出会った王子さまは一目で見て取り、そんな「けんのん」な動物はいらないという。大事なものは目にみえない、という主題に触れる導入部だが、小さい頃「ウワバミ」が分からなかった。絵を見ると蛇のようだが、よく分からなかった。上方落語の「蛇含草(じゃがんそう)」などで大蛇で、飲んべえの代名詞としてよく出てくることからイメージが分かったのだが、不思議だった。新訳5作の冒頭を見ると、「ウワバミ」と訳出したのは1作だけで、あとは「大蛇」「大蛇(ボア)」「ボア」「ボアという大きなヘビ」となっている。原書には「ボア」と出てくるから忠実な訳が増えたことになる。蛇の仲間はクサリヘビやコブラ、ニシキヘビなどいろいろだ。ボアもそのひとつで、ボアコンストリクターやアナコンダが含まれる。小動物を丸のみすることもある大型のヘビである。ちなみに、フランスの旧フラン(サン・テクジュペリが描かれていたお札)は透かすと帽子の中からボアが出てくるという仕掛けになっていた。

 モーパッサンのBoule de Suifというのは確かに「脂肪の塊」なのだが、イディオムとしてはただ単に「娼婦」という意味だ。でも、『娼婦』というタイトルだったら、読まれなかっただろう。


 誤訳で死刑になった人がいる。16世紀のフランスは翻訳の世紀だったのだが、ラテン語学者で印刷・出版業者だってエティエンヌ・ドレ(Etienne Dolet)は「誤訳」のかどで火刑に処せられた。ソクラテスの“Axiochus”の「死んでしまえば、きみはもはや存在しない」というセリフを、ドレは「死んでしまえば、きみはもはや無に帰する」と訳していたのだ。これが魂の不滅を否定する異端だとみなされたのだ。急いでつけ加えれば、「誤訳」は口実の一つで、むしろ「危険思想」の持ち主としてずっと目をつけられていたともいう。

 誤訳で自殺した人もいる。華厳の滝に身投げした藤村操である。漱石の弟子だったから『吾輩は猫である 十』には「打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない」などという個所がある。彼の遺言の一部は次のとおり。

ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。

 "There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy." というハムレット(第1幕第5場)の一節のことである。この“your”は「あなたの」ではなく、「かの、いわゆる、例の」という意味なのである。だから、ホレーショや藤村の哲学を揶揄したものではない。ちなみに、小田島雄志訳は「この天と地のあいだにはな、ホレーシオ、哲学などの思いもよらぬことがあるのだ」となっている。

 一九四五年七月、連合国はポツダム宣言を発表した。日本政府は「黙殺」することにしたが、中立国の報道網はこれをignoreと伝えた。黙殺は消極的な拒否だが、ignoreには積極的な拒否の意味があり、譲歩の意図なしとされ、原爆投下の一因となった。誤訳は歴史も変える------というのは戦後捏造された疑いが強いことが仲晃『黙殺−ポツダム宣言の真実と日本の運命』(NHKブックス)から分かってくる。

 しかし、誤訳が問題になることは少なかった。鴎外の『即興詩人』には一頁に十一も誤訳があるというし、小林秀雄のランボー訳など乱暴なものらしいが、それはそれで文学的だとする時代だった。フランソワ・トリュフォーの『ある映画の物語』(ブラッドベリー原作『華氏四五一』撮影日記)を読んでいたら、E・A・ポオの『新不思議物語』を引用しようと思って英語の原文にあたったら、ボードレール訳にある部分が全く欠落しており、困ってしまったという話が載っている。ボードレールが勝手に加筆・削除しているわけで、ボードレールくらいになるとそれもそれで一つの文学だと認めることになるだろうが、翻訳家がみんなそんなことをしたら、大変だ。現代の大量の欠陥翻訳を支えているのはこうした風潮でもあるのだ。

 イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』のように原著が存在しない「翻訳」もある(浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』朝日新聞社を参照----なお、山本七平の別の本の誤訳の指摘もある)。

 また、語学や外国に関する情報がまだまだ少なく、限られたエリートに握られていて、非エリートには批判の余地がなかったのであろう。また、誤訳を指摘するのは露悪的であり、人を傷つける。それが日本人の感性に合わなかったのだ。

 死刑にならなくても翻訳家は大変だ。鹿島茂のような凄い人でも「翻訳性胃炎」に罹ったという。

 もっといえば、翻訳論というものがあまりなかった。『平凡社世界大百科事典』にも「翻訳」の項はなかった。旧約聖書の翻訳を手掛けておられた関根正雄先生の大学院のゼミに「翻訳論」があったのだが、当時、参考書といえば、ユージン・ナイダの『翻訳論序説』(開文社)の本があるにすぎず、しかも、この翻訳書自体、誤訳のオンパレードだった(僕らは「偽りの友人」と呼んでいた)。関根先生もナイダも言語学者なのだが、同時に聖書の翻訳家であった。ザヴィエルもそうだが、原文にいかに忠実に訳さなければならないか、いつも考えている宗教家の間の関心事でしかなかったのである。「愛」という言葉もザヴィエルの頃は「ご大切にする」こととしか訳しようがなかった。

 柴田武・グロータース『誤訳』(三省堂新書)は誤訳に関して一番センセーショナルに受け入れられた本であろう。何しろ、ガイジンが誤訳を指摘していて、外圧に弱い日本人のコンプレックスを大いに刺激したのである。グロータースも言語学者であるとともに、カトリックの神父である。『アンネの日記』ほか、さまざまな翻訳が取り上げられている。アウグスチヌスのConfessions を岩波文庫などでは『聖アウグスチヌス告白』となっているが、この場合、懴悔の意味ではなく、「神を賛美すること」であり、『賛美録』としなければならないものだ。表題を間違うとはひどい翻訳だと思う。なお、この本自体も表紙には共著となっているが、実は柴田が翻訳した本であった。

 この『誤訳』に対して、永川玲二は『ことばの政治学』(筑摩書房)の中で文学が読めていないことから生じる誤解が多いと批判しているし、蓮實重彦も『反=日本語論』(筑摩書房)で言葉の誤りの指摘にばかり費やされている点、フランスでの誤訳論議は不問に帰している点などに対して不満を述べている。

 毎日新聞に連載中から誰が書いているのか分からず興味津々だったコラムに「真面目な冗談」があるが、単行本『真面目な冗談』は(平凡社)が出てから加藤周一というのが分かって納得した。

 この中で加藤は『ノーマン・メーラー選集』の「マッカーシーは、聖バーナードがラム酒をもってきてくれるときの、雪の中の犠牲者みたいな顔をした」という文を笑っている。聖バーナードはシトー派の修道院を興した禁欲的な聖者で酒をもって現れるはずもない。つまり、ここはセント・バーナード犬が雪中の遭難者を救いにくる場面なのである。

 吉武好孝『翻訳事始』(ハヤカワライブラリ)に出ているが、原抱一庵という明治中期の翻訳の「大家」が、a lion at bay 「追いつめられたライオン」を「湾頭に吼えるライオン」(bayはこの場合「咆吼」)とやらかした。それを英語の「大家」山県五十雄がみつけて、とんでもない誤訳だとなじった。原抱一庵は慚愧の思いやるかたなしとして自殺したという。こんなことをしていたら、翻訳家はいくつ命があっても足りない。

 生死を分けるというと堀辰雄の小説『風立ちぬ』で主人公がつぶやく「風立ちぬ、いざ生きめやも」はフランスの詩人ヴァレリーの「風が起きた。生きねばならない」という意味の原詩を文語調に翻訳したものだ。大野晋の『日本語で一番大事なもの』(中央公論新社)によれば、これは“誤訳”で「生きめやも」だと「生きようか、いや断じて生きない、死のう」の意味になるという。文語にするのも難しいものだ。

 安藤元雄・入沢康夫・渋沢孝輔『フランス名詩選』(岩波文庫)は既に名訳として定着しているものまでも、今回、全て新たに訳出されている。だからヴァレリーも次のようだ。

「風が立つ!…… 生きる努力をせねばならぬ! 」

 ジャン・コクトーの堀口大學訳も変化している。たしかに懐かしがっているんじゃなくて、好きだといっているけど五七調でもないし、ロマンが失われているし、時間的な広がりも少ない詩になっている。

Mon oreille est un coquillage
Qui aime le bruit de la mer.
私の耳は貝の殻
海の響をなつかしむ
僕の耳なら貝殻さ、
海の響きが、好きなんだ。

 村上春樹がいうように「翻訳文体というのはあくまで交換可能な『ヴィークル』(乗り物)」なのである。

 サイデンステッカーは『雪国』を訳した時、「夜の底」という表現を用いなかった。「夜」(ナイト)、「白」(ホワイト)という響きの似た言葉を一つの文章のなかに並べるのが嫌だったというが、「夜の底」から生まれる鮮明な印象を思えば、「やはり残しておくべきだった」と、自叙伝『流れゆく日々』(時事通信社)に書いている。そこまで深い翻訳を考えている人がいるだけで、うれしくなってくる。

広い世界のどこでも同じ
まったくもってひでぇ話
褒められるのはいつでも作者
貶(けな)されるのはいつでも訳者
     -----サイデンステッカー

 高島俊男は『ほめそやしたりクサしたり』(大和書房)で次のように書いている。

 大江健三郎さんがノーベル賞をもらった。あれはぼくのように中国の文学を読んできた者の目から見ると、まことに不思議なできごとです。ノーベル賞選考委員が、日本語ができるとは思われない。英語訳かフランス語訳で見たのでしょう。それで大江さんの作品の文学的価値は十分に評価できる、というのがヨーロッパ人の考えかたなのであるらしい。つまりだいじなのは川っぷちの草原に裸のふとった女がころがっている、というそのことなのであって、ルノアールの色あいや筆づかいなのではない、ということだ。

 カミュの文学は世界文学になっていることは間違いないが、高島とは反対に、加藤周一は次のように書いている。

 私はアルベール・カミュ氏に生前一度だけ会ったことがある。それはガリマール書店の事務室のことであった。何を話したのかもうほとんど忘れてしまったが、小説についての一語だけは覚えている。『なぜ小説を書くかって?小説だけが翻訳の可能な形式だからですよ』。私はこの意見に賛成する。(『加藤周一著作集7 日本語I』(平凡社)

 ハルキは世界文学になったか、というシンポジウムが2005年に開かれ、多くのことが討議された(『世界は村上春樹をどう読むか』文藝春秋)。

 ここで沼野充義は「一つの『村上文学』というものは存在しない。翻訳される言語の数だけ、翻訳者の数だけ、村上文学はある」と述べ、アメリカの比較文学者デイヴィッド・ダムロッシュの『世界文学とは何か?』(プリンストン大学出版局)の「世界文学とは一部の正典のことではなく、読者個人が文学をどう読むかmode of readingという問題だ。また翻訳によって価値を増す作品だ」という定義を紹介した。ダムロッシュはまた、翻訳の役割を強調して「詩とは翻訳によって失われるもののことだ」というロバート・フロストの有名な定義をもじって、世界文学とはまさに「翻訳を通じて価値を増すような作品のことだ」という。そして、これはハルキにも当てはまる(沼野充義「世界(文学)とは何か?」『UP』東京大学出版会387号2005年1月号)。


 別宮貞徳は雑誌『翻訳の世界』で毎月「欠陥翻訳時評」を既に十年、百編以上の欠陥翻訳を取り上げ続けている。誤訳はハシカのように誰にも避けられないもので、その場限りであるが、悪訳はガンのごとく、命にかかわるというのが基本的な立場である。

 有名なのは都留重人、水田洋という経済学の重鎮との論争であるが、二人とも恥の上塗りをしたにすぎなかった。右も左も蹴飛ばされている。別宮も述べているが、こうした欠陥の原因はある分野の専門家だからといって翻訳ができるわけではないこと、「直訳」という幻想にかられていること、日本語をおろそかにしすぎることなどがあげられる。経済学の専門家だといっても英語が完璧にできるわけではない。しかも、よくあることだが、ゼミナールで原書を輪読し、それを監修とか、自分の翻訳とかいって出版する。これには全体の統一がとれていないばかりか、まだまだ未熟な学生の誤訳が入りこんでしまう。監修といっても全くチェックしないで出版する例も多い。

 直訳の幻想というのは野上豊一郎(野上彌生子の夫)が「無色的翻訳論」で述べているように、“The world is all before us. ”を「世界はみなわれわれの前にある」とすべきで、これで原文の意味がわからない奴はわからないでもよい、という立場である。しかし、これが「前途洋々」という意味だとわかる人はどれだけいるだろうか。“It's a long lane that has no turning.”を直訳して「曲がり角のない道は長い道である」ではよくわからない。やはり、和文和訳が必要で「どんなに長い一本道でも、必ず曲がり角がある」、つまり、「朝のこない夜はない」、絶望してはいけないといっているのだ。なお、この諺から『マクベス』は“The night is long that never finds the day.”というが、福田恒存は「どんな夜だっていつかは明ける」と訳して、松岡和子は「明けない夜は長いからな」と訳した。

 『100万回生きたねこ』の佐野洋子が『問題があります』(筑摩)に書いていたが、切実さを感じる。

 光文社の新訳【亀山郁夫訳】『カラマーゾフの兄弟』を読み始めた。目からウロコが何枚も落ちる程読みやすい日本語で、中学生が読んでもわかると思う。前の一人しか居なかった訳者はものすごく罪深いと思う。新訳を知らずに死んだ日本人、天国まで誤解を持っていってしまったね。島国の日本人は他国人をほとんど映画か本かテレビでしか知ることが出来ない。翻訳体というものはない。私達は外国の文学を日本語で読むのだから。

 学校教育にも触れておかなければならないが、未だに「直訳」が大切だという教師がいる。関係代名詞がそこにあるからといって、「〜ところの」と訳さなければ許さないという人がいる。じゃあ、繋辞(日本語にはないA=Bの“=”の機能)“be”動詞はどう訳すのか、“Good morning.”をいちいち、「よい朝ですね」と訳すのだろうか?

 ここで質問。Children should be seen, not heard.というのはどういう意味だろうか。「こどもは見るもので、聞くものではない」とはどういうことだろう。 なお、逍遥は『シェークスピヤ研究栞』に「逐語訳は誤訳に近い」とはっきり書いている。

 「悪天候のときにこの場所がさらされるところの、大気の揺動……」(岩波文庫『嵐が丘』)という「ところの調」がちょっと前まで幅をきかしていた。しかも「動揺」ではなく「揺動」などとわざとむずかしい語を用いて平気である。生物学でtransfer, productionを日常語の「移転」「生産」とせず、学問的重みをつけて「転移」「産生」としたのに似ている。ひとりよがりの翻訳がまかりとおる。

 古賀正義『推理小説の誤訳』(サイマル出版会)は弁護士らしい綿密さをもってアガサ・クリスティーの全翻訳を調べあげ、誤訳、珍訳ぶりを告白しているが、別宮貞徳自身の翻訳にも多数の誤訳をみつけたという。

 他にも、横井忠夫『誤訳悪訳の病理』(現代ジャーナリズム出版会)や増田冨壽『誤訳と誤解』(早稲田大学出版局)などがあるし、最近ではシドニー・シェリダンの『真夜中は別の顔』(アカデミア出版)が誤解だらけだとして週刊誌で槍玉にあがっている。作者の意を汲んだ「超訳」だというが、「翻案」ならそう記すべきである。もっとも「超訳」の原点は明治時代からある。鴻巣友季子『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)に出てくるが、『噫(ああ)無情』『巌窟王』で有名な黒岩涙香の『鉄仮面』を新訳と参照した著者はぶったまげたという。なんと、新訳では、最後、鉄仮面の遺体の仮面が剥がされると「それはモリスにまちがいなかった」となっている!「えぇーっ、鉄仮面が死んでいた!? スリリングな脱獄劇はどうした? すり替えのトリックは? 恋人とのドラマチックな再会は?」。涙香は翻案どころか、原作にない筋を創って勝手に波瀾万丈の物語に仕立てていたのだ。涙香は原文の内容を頭にたたき込んだあとは、一切原文を見ないことを自慢したばかりか、盗作と言われるので強いて訳と称したが、自分では翻訳者だなどとは思っていないと堂々と嘯(うそぶ)いていたのである。

 一方、草思社はタイトルがすごい。例えば、“Timidezza”(“timidity”臆病)というのが『本当はタカなのにヒヨコだと思っているあなたに』という、ものすごく大胆な訳になる!

 英文学者の中野好夫は「あんたのおばあさんが聞いてもわかるようにちゃんと訳してくれ」と話していたし、英米文学者の佐伯彰一はこの言葉を「万古不易の翻訳論の名言」としている。

 もっとも、英文学者だからといって英語がすべてわかると思っていることも欠陥翻訳の原因となる。これは次にあげる例をみてほしいが、ではどうすればいいかというと、翻訳の専門家とある分野の専門家が手を組んで原書にあたらなければならないということである。

 「こどもは見るもので聞くものではない」とは「こどもは可愛いければいいので、あまりしゃべらせるものではない」ということ。


 僕が見つけた誤訳の中でもっとも傑作だったのはピーター・ファーブ『ことば遊び』(佑学社)であるが、残念な?ことにロビン・ギルが『誤訳天国』(白水社)として一冊の本にしてしまっている。訳者は東大英文卒で埼玉大学教養学部長、英語英文学会会長の金勝久という先生本人(弟子ではなく)である。最初読んでいて映画を知らない人だなあ、言語学に対して無知な人だなあ、と思っていたのだが、それが笑いに代わり、怒りとなった。

 ギルの方を読めば十分だが、喜劇役者のグルーチョ・マルクスをグローチョに(アメリカではグラウチョ)、チコをチーコにしていて無知な訳者だな、と思っていたが、そのうちインディック・ファミリー【インド語族】、イラニアン語【イラン語】、インド・ヨーロピアン語系【印欧語族、インド・ヨーロッパ語族】などが出てきた。これが単語だけではないことが分かってきた。キリがないが、ギルも分かっていない例を少しあげてみると……

 「イギリス人も、フランス人も、ドイツ人も、南アフリカのブッシュマン族の『カチン』という音素を区別することができない」とあるが、『カチン』というのはclickの訳であるが、言語学では「舌打ち音」と呼ばれる、例えばチェッという音を使った音素のことである。それが五種類もあって区別できない(勝手に省略している部分も多すぎる)と書いてあるのだ。ニカウさんの発音を思い出していただきたい。

 「グロソラリアは、人間をして、反慣習的なやり方で、音声を発するように奨励している」という文を理解できるだろうか。グロソラリアというのは神懸かりになって訳の分からない言葉を話す(たいてい、古代語ということになる)症状をいうが、「グロソラリアは、人間が音を産出する能力を普通とは違った方法で使うことを示している」と訳すべきである。いずれにしろ、英文学は得意かもしれないが、一歩外へ出ると誤訳の海になってしまう。専門家に聞けばすむことなのだ。

 その他にも「普遍文法」を「宇宙言語」、「普遍的な過程」を「世界的進歩」などとチョムスキーが聞いたら、脳味噌がウニになりそうな変形が満載である。なお、この本に対する朝日新聞他の書評は好意的だったという。


 ギルに先を越されたので、ここでは十年たってもう時効となっている例をあげる。

 元富大の和崎洋一先生の『スワヒリ語−日本語辞書』(養徳社)に関しては二番煎じになる(論文を書いてしまった)が、前に詳しく書けなかった部分があるので、ここでは分かりやすく内容を絞って書いてみる。

 この辞典は本人が編纂したことになっているが、実際はオックスフォード大学出版局から出ているジョンソンのスワ英辞典を翻訳したものである。つまり、縦のものを横にしただけで、そのせいか、外来語のlon-gitude,latitude がそれぞれ、「緯度」「経度」と逆になっている。更にジョンソンの別のスワスワ辞典の記述をそのまま各項目に写してある。挿絵も本人のもののように見えて、ある本のコピーである。項目の順不同や説明、挿絵の位置の間違いなどもその杜撰さを物語っているが、何より問題となるのはジョンソンの辞典を翻訳する時、英語力の不足からものすごい誤訳が生まれていることである。

 どうせなら、きちんとジョンソンの辞書を下敷きにしてほしかったが、いい加減なのでdawa ya kuharaが「下痢止め薬」となっている。ジョンソンには an aperient,a laxative, a purgeとなっていて全く反対の「下剤」のことである。「下痢の薬」だから「下痢止め」と考えたのだろうが、間違えば大変なことになる。

 chungu mekoの説明には「手から口への意」となっているが、「〜の意」とわざわざメタ言語(言葉の説明のための言葉)を書いているのもまずいのだが、「手から口へ」という意味が不明である。で、ジョンソンの辞書を見ると、from hand to mouthとなっていて合点がいく。つまり、「その日暮らし」の意味なのである。

 ulimi にはUlimi hauna mfupa.という諺が載っていて「〈舌には骨がない〉すべてのものはうつりゆく」となっているが、舌に骨がないことが無常感を表しているなんてまるで不条理の世界である。これを他の資料に当たってみると「何とでもいえる」となっていて、二枚舌のことである。実際、ジョンソンの辞書を見るとnothing stable, reliableとなっていて、nothing stable の誤訳と分かる。

 さて、ここで問題。言い習わしで「子供を背負うのはつらいよ」というのあるというが、子供を背負うのはつらいことではない。これは何を間違えたか分かりますか?

 極めつけはnyakangaで訳は「小学校の助教師の頭(主任)」となっている。スワヒリ語を知らない人でもそんな職種があるのか訝しがるだろうが、これが全くの誤訳なのである。教師の他に助教師がいるとは思えないが、更にその主任がいるなんておかしい、と思うのである。常識にあっていない。

 他の項目に「小学校の教師」とか「中学校の助教師」という項目がないのに、この語だけが孤立して存在するなんて、おかしい。言語学的にみておかしい。人類学的調査をしっかりしていれば、どこかでこの語に出会ったかもしれない。スワヒリ語の注に出てくるkungwiをみると「成人儀礼で教えを施す手伝いをするひと」、mhengaにも「成人式の長;村落の伝統的法廷に列席する長老」となっていて正解を得ているのである。

 つまり、「成人式の長」と「小学校の助教師の頭(主任)」とを間違えているのである。どうしてこうなるかというと、英語にはinitiationschoolとなっていて、initiationを「入門」と考え、「入門の学校」=「小学校」となったものである。しかし、initiationは「通過儀礼」という人類学の重要な用語である。スワヒリ語も英語も知らない、だけで済まされない誤訳である。割礼の儀式の長なのだから、真っ先に調べるべき語彙なのである。

 child-bearing となっていて「出産はつらいよ」の誤訳。


 言語と文化は車の両輪みたいなもので単純に切り離して考えるわけにはいかない。つまり、人類学者は同時に言語学者でなければならない。言語調査をおろそかにして人類学調査はできないのである(どの未開民族にも最初、人類学者か言語学者が入り、次いで、宣教師、鉱山技師が来て、最後に資本家が入ってとどめをさす)。

 翻訳というのは語を一対一に当てはめるのではなく、その文化も翻訳すべきなのだが、途遠しということが多い。シェークスピアの『夏の夜の夢』(Midsummer Night Dream)はかつて『真夏の夜の夢』と訳されていたが、後に夏至の頃を指すというので今の訳となった。ヨーロッパで夏至祭の風習を受け継いだ聖ヨハネ祭の前夜は、妖精や悪霊が姿を現すといわれた。昔は悪魔払いの火祭りが各地で行われたが、シェイクスピアはその夜を恋の祝祭劇に仕立てたのである。ホレ薬の原料となった恋の三色スミレは欧州に自生するワイルド・パンジーで、heartsease(心の癒やし)というハーブでもある。皮膚病やノドの痛みなどのほか、失恋の痛みにもきく?との話からついた名前だが、恋する薬効は文豪の独創だという。

  というような解説は文学では可能だが、映画の字幕に至っては解説はまったく不可能である。

 今ちょうど子供に『ダンボ』を見せながら原稿を叩いているのだが、ダンボが酔ってみる幻想シーンにピンクの象が出てくる。日本人は象が酔ってピンクになったから単純に考えるだろうが、西欧では酔うとピンクの象が見えるとされることから、それをそのまま映像化した両義性をもったシーンである。薬局の前に置いてある佐藤製薬のサトちゃんは酔っぱらいなのだろうか?白い象というとやっかいものだし、象といえば共和党のシンボルであるとか、ホントはそういうことまで含めて翻訳できなければならないのだが、非常に難しいものがある。なお、ダンボの母親ジャンボの名前はスワヒリ語の「こんにちわ」であるジャンボに由来する。ダンボはジャンボとdumb「まぬけな」との語呂合わせから名づけられている。

 アフリカのフルベ語には「君は牛の糞のように美しい」という表現がある。蝿が牛の糞に群がるように男も群がるということなのだが、日本語では「利権にたかる政治家のように美しい」とでも訳さないといけない?マアサイ族(マサイ族)にとって虹は不吉だから、「君は虹のように美しい」とはいえない。ナイダによれば、聖書で「かぶりをふる」というのもフィリピンのある言語では「頭を上下する」としなければ不承諾を表すことにはならない。

 ちなみにマリアが処女で懐妊したというのも、これは誤訳だという説がある。ヘブライ語では、単に結婚をしないで、いわゆる正式な結婚をしないで子どもを生んだという意味だったのに、ラテン語に訳すときに、そういう概念がなかったんで、処女になったというのだ。 まあ、キリストの奇跡はこれだけじゃないから、意図的なものだったかもしれないが…。

 チェコ語の千野栄一先生によれば、木下順二の『夕鶴』はチェコで『白鷺』と訳されているという。鶴はチェコ語では男性名詞で、どうしても女の人を連想させることができない。それで女性名詞の白鷺となった。 岩田一男のベストセラー『英語に強くなる本』にはトイレでノックされた時、英語で何て答えるかというのがあったが、欧米ではノックをするのは失礼だとされていて無意味な設問である。

 言葉が言葉として通用するのは、文化や経験を共有するからだ。外国人と会話すると、いくら上手な通訳が間にはいっても、どこかもどかしい思いがつきまとう。それは相手の言葉の背後にある文化や経験がピンとこないからである。2004年6月22日のBBCによれば、言語学者凡そ1000人を対象に行われた調査(英国の多言語翻訳専門企業Today Translations社)にて”世界の翻訳が難しい言葉(単語)”を集計した結果、最も翻訳が難しい言葉はコンゴ南東部で用いられるチルーバ語の「ilunga」であると確認されたとのこと。この「ilunga」は「一度目はどんな悪口でも許し、二度目には我慢し、三度目は決して許さない人物」を意味するという。これは一見理解しやすいように聞こえるが、言語学者達の見解によれば、この言葉が最も翻訳が難解な言葉であるとしている。第二位の言葉はイディッシュ(ドイツ語をベースしつつヘブライ語、スラヴ語を交えた東欧のユダヤ系言語)における「shlimazi」で、この言葉は「慢性的に不幸な人」を意味している。また第三位は日本の関西弁における「Naa」で、「発言を強調したり、誰かに同調する際に用いられる言葉」と注釈がついている。外国人でもこうした言葉の表面的な意味は分かる。だが、その本当の意味は文化的背景まで説明しないと分からない。通り一遍の翻訳ではちゃんとした理解に至らないから言葉は難しい。日本語の「どうも」も色々な意味で使われるが、コンテクスト依存の言語だということを知らなければ、とうてい使うことはできないだろう。

※「ilunga」は人の名前で現在のコンゴ(ルバ)の最初の王様の名前だというから、この人の性格から来ているのかもしれない(あの人は西郷隆盛だというのと同じようにトリッキーな問題だ)。

 さて、ここで問題。“The squeaky wheel gets the grease.”とはどういう意味か?

“Why don't you ever say you love me? Sometimes I need to hear it!”
「なぜI love youって全然言ってくれないの? ときどき、その言葉をどうしても聞きたいと思うのよ!」
      『ゴースト』デミ・ムーア

 だから、厳密にいえば、すべての翻訳は誤訳である。例えば、I love you.という簡単な言葉を考えてみよう。「私はあなたを愛しています」は日本語ではない。こういう時に「私」とわざわざいわないだろうし、「あなた」といえば他人行儀だ(伊丹十三はサローヤン『パパ、ユー・アー・クレージー』で代名詞をすべて訳す快挙を果たしたが、読者には煩雑でしかなかった)。「愛する」もどこか西洋的な表現でなじまない。「好きだ」というとI like you. みたいでloveとは違う感じがする。あちらの人は一日に何度もI love you. といわなければ家庭が崩壊すると思っていて挨拶代わりに使われるのに、日本人は四年に一度いえばいい方だろう。文化的な重みが全然違う。文化の翻訳ができなければすべて誤訳ということになる。二葉亭四迷はトゥルゲーネフの翻訳で男がI love you.というのを受けて女がI love you.というのを悩んだあげく、「死んでもいいわ」と訳した。漱石は「月がとっても青いなあ」(佐藤健志『未来喪失』東洋経済新報社など)だと言った。

 だからこそ、「翻訳は女性のようなものである。美しくなければ忠実でないし、忠実であれば、きっと美しくない」ということわざが成立し、米原万里が『不実な美女か貞淑な醜女か』(徳間書店→新潮文庫)として提起することになる。

 でも、やっぱり美女の方がいいもんなぁ。

 「音のきしむ車輪に油が与えられる」ということで「言ったもの勝ち」という意味だ。つまり、コミュニケーション能力に関する彼我の違いが分かることわざである。


 さて、この辞書は他にも欠陥が多く、『大語海』とでも名づけるべきだ。

 誤植がメチャクチャ多い。例えば、集収、専問、拡げ算、絶対絶命、男茎。

 外来語の元の綴りの間違いが多い。例えば、Mannual<Manual,brash<brush, Franse<France, carot<carrot, shule<Schule. 

 日本語に間違いが多い。例えば、きづつける、賢こい、希み、過らす。

 表記の揺れがある。リウマチ リュウマチ、ダレサラーム ダルエスサラーム、大群集 大群衆。

 方言が出てしまった。例えば、ろうじ<路地、とゆ<樋、しがむ<噛む。

 基本語が入っていない。例えば、スワヒリ文化の一番のごちそうであるカランガ(牛肉の煮込み)、カリ(カレー)、マトケ(バナナの料理)、カバブ(羊肉などの串焼き)が載っていない。   略。

 僕自身も『ラーナーズ・プログレッシブ英和辞典』(小学館)の編集に携わったことがあるので、よくわかるが、辞書は個人で製作できるものではない。莫大な人数と費用、そして努力が必要で、辞書一つ作ると一人死ぬ、といわれる位だ。だからこそ、A・ビアズの『悪魔の辞典』の「地獄」の項目には「辞書編纂者の故ノア・ウェブスターの住居」となっている。地獄の覚悟がなければ辞書は作れない。

 先生には数十頁にわたる正誤表を渡してある。この辞書は今でも一万五千円で売られているが、訂正されたという話は聞かずに先生は亡くなってしまった。

 では、言語学者だったら大丈夫か?

 井上京子『もし「右」や「左」がなかったら 言語人類学への招待』(大修館1998)という本の中には「例えば古代中国における動物王国の切り分け方は、ボージスによれば次のような分類法が用いられていたという」といって「(1)皇帝の持ち物である動物、(2)ミイラになった動物……」という記述がある。

 「ボージス」とは誰か?これはアルゼンチンの作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘスなのである。何よりもこの話はミシェル・フーコーの『言葉と物』に出てくる中国の百科事典の話だ。

 彼女にはBorgesというのが一体誰か見当がつかなかったのだろうが、ボルヘスも知らない人が人類学を騙って語っていいのだろうか?


 同じ富大の平田純先生の翻訳(正確には亀井俊介他の共訳であるが、問題は平田純先生の部分)でラッセル・ナイ『アメリカ大衆芸術物語』(研究社)というのがある。おかしい箇所を全部を紹介していたらキリがない。

 例えば、「朝まだきの陽の光のようにやさしく」というジャズの名曲をご存じだろうか。実は「朝日のようにさわやかに」のことでMJQなどのヒット曲である。さわやかに訳してほしい。「日の当たる側の街路」という曲は「サニー・サイド(オブ・ザ・ストリート)」でベニー・グッドマンなどの名曲である。「日の当たる側」というのは日本語らしくない。

 大体、人名がメチャクチャだ。カウント・バシー【ベーシー】、トミー・ドーセー【ドーシー】、バッド・ポウエル【バド・パウエル】、セロニアス・マンク【モンク】、ギレスピー【ガレスピー】、マハリア【マヘリア】・ジャクソンなどと一般大衆が使っている名前とは違ってソフィスティケートされた名前になっている。デューク・エリントンには「知的な婦人」という曲があることになっているが、「ソフィスティケイティド・レディ」だ。ビーバップもビーボップで平気である。

 ジャズだけ間違っているかというと、バーンシュタインというのが出てくる。バーンスタインのことで、アメリカではバーンスティンと呼ばれるかもしれないが、バーンスタインを知らない人がいるなんて信じられない。

 モンキーズもマンキーズとなっている。そりゃ、正しい発音はマンキーなんだろうけど、そこまで日本の英語教育は進んでいない。大根役者のうちはリーガンだといっておきながら、大統領になったとたん、俺はレーガンだという人もいるくらいで、どれが本当の名前かはっきりしないけれど、日本の大衆に通用している名前にすべきである。

 「メアリーは小さな羊を飼っていた」という童謡もあるそうだが、ガキンチョでも「メリーさんの羊」といっているし、「ホーム・スイート・ホーム」といえば「埴生の宿」のことである。「グランドファザーズ・クロック」!

 勝手に名前を変えている日本のギョウカイが悪いのかもしれないが、「ぼくがフィーニクスに行く時まで」としたら、その曲は全然売れないだろう。これは「恋はフェニックス」というスタンダード・ナンバーである。ただし、恐妻家が家出をして、フェニックスの町まで着くころには妻が目覚めて、僕の置き手紙を読んでせせら笑っているだろう、という情けない曲である。 フォスターの説明では「懐かしのケンタッキーのわが家」、「明るい金髪のジェニー」、「来たれ、わが恋人の夢みる所へ」、「美しき夢見る人」という曲名が並んでいる。

 他にも「オールド・ラング・サイン」【蛍の光】、「聖者が町に行く」【聖者が街にやってくる、聖者の行進】、「オールド・マン・リバー」【オール・マン・リバー】、「ラブ・ミー・オア・リーブ・ミー」【恋のもつれ、ベトナム戦争当時、ニクソン大統領がこれをもじって反戦学生にラブ・アメリカ・オア・リーブ・アメリカといったら、学生たちはラブ・アメリカ・アンド・リーブ・アメリカと言い返したのは有名】などが目立つ。

 かつて東京国際映画祭のオープニングで中曽根首相が偉そうに出てきて、委員長のJ・スチュワートに英語で話しかけ、「あなたのリンドバーグの『翼よ、あれが巴里の灯だ』は大好きだ」と言おうとしたのだが、リンドバーグのアクセントを間違い、しかも、『翼よ、あれが巴里の灯だ』の原題が出てこないで通じなくて、国際派首相の面目丸つぶれだった。逆に「セントルイス魂(号)」という映画が大好きだと日本の一般大衆に説明していたら首相にはなれなかっただろう。

 三八年に『育児』という映画にケリー・グラントは出ていることになっているが、これは『赤ちゃん教育』というスクリューボール・コメディの傑作で作家主義の巨匠ハワード・ホークスが監督したものである。原題はBringing Up baby で赤ちゃんというのはチーターのことで、キャサリン・ヘップバーンと共演した映画である。

 こういうのをあげていったらキリがないのだが、例えば、「問題」映画、「メッセージ」映画、とりわけ人種的偏見を扱った映画が標準的メニューとなってきたとして取り上げられている『晩餐の客はだれか』、『夜のさなかに』という映画は日本にはないから、結局、誰にも本文を理解することはできない。

 『晩餐の客はだれか』というのはGuess Who's Coming to Dinner の直訳で邦題『招かれざる客』といえば知らない人はいない。これはスペンサー・トレーシーとキャサリン・ヘップバーンの娘が食事に連れてきた相手が何と黒人だったという問題映画なのである。進歩的だと思っていた新聞人の父親は狼狽してしまう。ところが、この黒人(シドニー・ポワチエ)は実は国際的に活躍しているエリート弁護士だったので、許すという内容である。これではまるで「みにくいアヒルの子」と同じく差別的で、黒人作家ジェームズ・ボールドウィンは『悪魔が映画をつくった』(時事通信社)の中で「黒人はこの映画を何一つとして理解することができない」と書いている。

 次の『夜のさなかに』はIn the Heat of the Nightという映画で同じくシドニー・ポワチエが出演した刑事ものである。邦題は『夜の大捜査線』で黒人が初めて主役となった映画として映画史、黒人運動史に残る映画である。レイ・チャールズの大ヒット曲でも有名である。原題をそのまま訳しただけでは日本の大衆はこの書物を何一つとして理解することができない。

 翻訳者が映画史に関して何も知らない証拠に『ジャズ・シンガー』の記事があげられる。歌を一曲終わった時に、ジョルソンが「お待ち下さい、少しお待ち下さい--みなさんはまだお聞きになっていらっしゃいません、どうぞ、これを聞いて下さい」といったということになっているが、この後半部分の訳は「お楽しみはこれからだ」とするのが常で、イラストレーターの和田誠に『お楽しみはこれからだ』という映画の名セリフを集めた四巻の本がある。

 その他、有名な映画の間違いをあげれば、『眠り姫』【眠れる森の美女】、『白雪姫と七人の侏儒たち』【白雪姫】(侏儒たちで子供が映画を見にくるだろうか)、『ストレンジラブ博士』【博士の異常な愛情】、『大いなる眠り』【三つ数えろ】、『本物の勇気』【勇気ある追跡】、『ファニー・フェース』【パリの恋人】、『ラブ・ストーリー』【ある愛の詩】などキリがないし、製作年も間違ったものがある。

 『王様の家来のすべて』【オール・ザ・キングスメン】というのも実在の上院議員ヒューイ・ロングをモデルにして政治家の汚職や収賄を暴いた映画で、題名はもちろん、マザーグースの「ハンプティ・ダンプティ」からきている。更にこれをもじってAll the President's Menというのが作られ、邦題『大統領の陰謀』として知られるウォーターゲート事件を真正面から扱った映画となっている。そりゃ、ハリウッド(柊の林)のことを聖林としたのも大誤訳であるが、こちらは映画人の気持ちが伝わってくる素晴らしい誤訳である。

 「ミッション・インポシブル」というテレビ番組も紹介されているが、これは「スパイ大作戦」【後に『ミッション・インポッシブル』として映画化】のことで、見たことがないのは英文学者くらいだろう(後にこの題名で映画化)。同じ間違いは『わたしのペットはキリンたち』(新潮文庫)にも見つけられる。これには「不可能な指令」となっている。この本も結構すごいものがあって、スワヒリ語表記はみんな違っているうえに(わからなければ東アフリカ関係者に聞けばいいのだ)、アイザック・ディネーセンのことをデイネセンと書き、彼女の『七つのゴシック小説』を『七人のゴート人の話』と訳している。これではゴシック小説(怪奇小説)がまるで童話になってしまう。ディネーセンは映画『愛と哀しみの果て』の原作者であるが、戸田奈津子訳の映画の字幕にはダインセンになっていた。売れっ子で忙しいとはいえ、原作者の名前を間違うのは大きなミスだ。原作『アフリカの日々』は既に翻訳されて出版されていたから、原作をまるで読んでいないことになる。観ていて気分のいいものではなかった(LDではたしか直っている)。 なお、この本の正誤表も送ってあり、訳者から感謝もされたのだが、再版されなかったのでそのままである。

 蛇足ながら(蛇足がいつも百足みたいになっているが)、アフリカ好きにはその貴族趣味や西欧的な視点で評価の分かれるところだが、僕は『アフリカの日々』が大好きである。この作品の名前を最初に見たのがサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(ホントは「ライ麦畑の捕まえ手」で誤訳ということになるかもしれないが……)の中である。主人公のホールデンが図書館員に間違って渡された本の中にこれ(野崎孝訳ではイサク・ディーニセン『アフリカ便り』となっている)が入っていて、すっかり感動し、感動した作品の著者には電話をかけたくなるという条りになる。『ライ麦』の日本版である庄司薫『赤ずきんちゃん、気をつけて』の冒頭ではこの部分が女の子をデートに誘おうと思っても必ず母親が出て、世界中の電話はどれも母親の膝の上にあるのでは、という具合に引用されている。

 なお、『ライ麦畑』を訳した時、クリネックスというものが日本にはなく、ちり紙とも違うし、訳者は困ってしまって「薄葉紙」としたという話が残っている。一方、セクハラは行為はあったが、言葉がなかった。

※文体について一言いえば、『ライ麦』と後の村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』では次のように文体が違う。やれやれ。

野崎訳

村上訳
「いやあ、彼女からそんなふうに言われると、実に憂鬱だったなあ」 「やれやれ、僕はこてんぱんに落ち込んだよ」
「あたし、もう兄さんのこと怒ってないのよ」 「あなたのことをもうべつに怒ってないんだよ¥

 「ブローイン・イン・ザ・ウィンド」というフォークソングがあるというが、ボブ・ディランのこの曲を知らなければモグリである。これは「風に吹かれて」という爆発的なヒット曲で、反戦歌の代表的なものである。僕ら団塊の世代には大変懐かしい曲なのだが、きっと翻訳を手伝った学生たちの世代には知られていなかったのだろう。

 五木寛之にも『風に吹かれて』というエッセー集がある。

 この本の中で「プロマイドをブロマイドという人には、今もしばしば出くわす」という一節がある。この後に書かれた『深夜の自画像』には「イッツ・ア・ロング・ウェイ・トゥ・インテリ」というタイトルは長いが、短いエッセーでは話が違ってきている。

五木とある編集者が飲み屋で少年工めいた客と相席になり、自然、彼らと話し始めた。青年たちは流行歌手に熱中していたのだが、編集者は青年のプロマイドという発音が気にかかった。けれど、「自分がインテリであって、知識をうんとしょい込んでいることの優越に対するうしろめたさのようなものが」彼を黙らせていた。しかし、ついにインテリとしての正義を行う欲望を抑えることができず、「プロマイドって、あれはブロマイドと濁るほうが正しいみたいなんだがなあ」と注意した。すると、青年の一人が「あれはブロマイドじゃない。プロマイドだ。大正だか、昭和だかに、浅草のマルベル堂であいつを売りだしたとき、スターの顔写真の小型版にプロマイドって名前をつけたんだって。商品名としてだな。ブロマイドってのはその印画紙の名前さ。その種類の印画紙に焼いて売り出したから、製造元がそいつをもじってプロマイドって名前を顔写真商品につけて売り出したんだよ。あれは英語じゃなくて日本語の商品名なんだ」といった。

 五木は書いている。調べてみると1921年5月、浅草にマルベル堂が開店し(三ッ澤実四郎経営)、映画スターのポートレートが大量販売されてよりブロマイドの本格的な歴史が始まったのである。

「私たちはハトが豆鉄砲をくらったときのように目を白黒させ、そして相手を非インテリとみなしてとてもやさしく扱っていた自分たちの思い上りを、まざまざと思い知らされたのであった。そして私たちは、自分たちが世の中のことについて、いかに誤った知識と考えに満ち満ちた人間であるかを、しみじみ思い知ったのだ」。

 なお、このエッセーの題名は恐らく、It's a long,long way to Tipperary.という第一次大戦中によく歌われた曲から取られており、『旅芸人の記録』という難解なギリシャ映画の中で歌われているし、『Uボート』の中でもドイツ人が歌っている。

 さて、『アメリカ大衆文化物語』はどうであろうか。厳密には誤訳ではないかもしれない。当時、訳者は北日本新聞(地方紙)のインタビューで映画などの題名を調べるのが大変だったと語っていた。大変だという割にちっとも調べていない。自分で調べなくてもジャズや映画に詳しい人にきちんと聞けば間違いの多くが防げたはずである。大衆文化ぐらい簡単に分かると思うのは完全に大衆を愚弄しているとしか思えないのである。その意味でやはり、誤った翻訳である。平田純先生の専門は文芸評論だそうで、そのせいか言語学者マリオ・ペイの別の翻訳書にもswear word(罵り言葉)を「誓言」としたり、誤訳がある。

 なお、97年にはめでたく富山県の芸術文化協会の会長になられた。


 誤訳は翻訳者が読者をなめてかかってきた時に起こる。直訳だから、勝手に判断してくれ、作者の意を汲んで省略したので、というのは自分が明確にわからないことへの弁解にすぎない。岡倉由三郎は「誤植は庭の落葉のようなものである。風情があってよろしいではないか」といっていて落葉程度の誤植は許せる(自分自身避けられない問題だ)。誤訳も風情がある位ならいいが、多すぎて落葉が腐って臭ってくるのは困る。

 柴田元幸『佐藤君と柴田君』(白水社)は翻訳は頭のいい人に向かないという。

 まず、頭のいい人は奴隷ではなく主人の精神構造を保っているから、原文をひたすら崇めるようには頭が働かない。訳しながらあれこれ批判してしまう。【…】

 第二に、頭のいい人は、悪い翻訳を読んでも理解してしまうから、悪訳で泣かされた怨念を持たない。【…】

 第三に、これがいちばん決定的な理由だと思うのだが、頭のいい人は、自分一人で読んでしまえばそれで読んだと納得できてしまう。だから、頭のいい人は、訳す必要がない。

 翻訳者は演奏家という説がある。一つの作品に対していくつも翻訳ができるし、どのように訳すかは訳者の思いのままである。いい演奏もあれば、ひどい演奏もある。また、翻訳論で必ず引用されるイタリアの諺(16世紀のフランスの詩人ジョアシャン・デュ・ベレーの言葉ともいう)でTraduttore,traditoreというのがある。「翻訳者は反逆者」とふつう訳されるが、僕の訳は「訳者はヤクザ」である。中野好夫でも一冊に百以上の誤訳をしていると述懐している位、ヤクザな仕事であるし、原文を殺してしまうヤクザもいる。しかも、ほとんどが原作者のあずかり知らぬところで、密かに殺される。


 機械翻訳はどうだろうか。かなり進歩してきたが、どうしても限界がある。機械の問題もあるが、入力される自然言語の方に問題が多い。つまり、機械的に解釈できないような変な文が多いのである。結局、これは人間の問題だ。

 「林檎のような頬っぺ」も、林檎は青(緑)というのが常識の英語文化には機械的に翻訳できない。青リンゴもblue appleなどと訳しかねない。

 初期の自動翻訳機はHeを「ヘリウム」と訳したというジョークがある。

 今(1995年)でもTime flies like an arrow.を、ある翻訳ソフトは「時間蝿は矢を好む」と訳する**

 しかし、誤訳だらけの翻訳書をみていると機械のことをあんまり笑えないのである。

 このままでいいのか、いけないのか。それが問題だ。


*今ではすっかり有名な言葉になってしまったが、言語学で問題になったのは1970年代後半である。この語句は「あなたが矢の速さを測るように蝿の時間を計れ」とも「矢と似ている蝿の時間を測れ」「矢が蝿の速さを測るように蝿の速さを測れ」など色々な可能性がある。

 機械翻訳の誤訳の理由は次のように考えられる。

 これを避けるために入力前と出力後の人間による文の調整(短くしたり、分かりやすくしたり、誤解を避けるような内容にしたり、イディオムをチェックしたり)が必要である。

 なお、グルーチョ(グラウチョ)・マルクスが言ったという“Time flies like an arrow. Fruit flies like a banana. ”の意味も簡単に分かるだろう。

 なお、似たようなジョークは漢文にもあり、「不許葷酒入山門」というのがあて、「葷酒(の)山門に入るを許さず」が正解なのだが、これをふざけて「許さざるの葷酒山門に入る」とか「葷は許されざれども、酒は山門に入れ」と読むことある。

※fruit flyはショウジョウバエのこと。

※『緋文字』は『スカーレット・レター』として後に映画化された。ハッピーエンドに変えられてしまったのだが、主演のデミ・ムーアは「この小説を読んでいる人はそう多くない」と言い訳した。本当に面白くないので、真実だと思う。

「人間って誤訳を指摘されるとまずみんな傷つくんですよね」村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書)


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