町が町でなくなっている。町が町の役割を果たしていない。家族を統合し、理念を掲げ、文化を伝え、社会のルールを教えるという町の役割が消えかけている。
□ 近頃、残虐な少年事件が増加しているが、これは間違いもなく、コンビニが増えているのと軌を一にする。コンビニの増加率と少年非行の増加率は見事に連動している。学級崩壊もコンビニの増加が元凶になっていることは間違いない。
コンビニの多いところほど非行も多くなっているのだ。コンビニが成立するためには弁当などの基地が必要で、能登半島の奥にはコンビニがないが、当然、非行もない。あるのは原発だけだ。いわゆる「低開発国」に非行が少ないのは、もちろん、コンビニがないからだ。
こんなアメリカかぶれの施設が増えたために、アメリカと同様、非行が増え、若者たちはまるで國語ではないような言語を話すようになったのである。詳述するが、コンビニ型コミュニケーションが日本語を堕落させた。アメリカが日本を第二の敗戦に追い込めたのは、このコンビニが隆盛したためである。ちょうど“Cocacolonization”“MacDonalization”と同様に、“Convenienzation”ともいうべき退廃が大敗を生んだ。
ここではコンビニ、更にホームセンターが如何に日本人をダメにしたか、少年を非行に走らせたか、考察してみたい。最近のどの少年事件もコンビニの存在、よろずやの不在で説明できる。
つまり、よろずやの不在が日本文化を、日本社会を滅亡に導くのであって、ここではよろずや、更に地域商店街の復権を声を大にして叫びたいのである。
それはコミュニティの復活、または復権ということだ。コミュニティが崩壊しかかっている。
つまり、コンビニが20世紀最悪の発明だということを立証したい。
この論文を物理学者アラン・ソーカルと万屋・三角のおばちゃんに捧ぐ
第一部 コンビニ文化論 ☆よろずや
昔はどの村にもよろずやというものがあった。「万屋」というのは「(何が専門ということもなく)いろいろの物を売る店。何でも屋」のことで、小さい頃は「百貨店」よりは大きいと思っていた。小学校2年の時に近くのお店の商売を調べてこい、と言われて調べたのだけれど、駄菓子屋には小学生の必要な諸々が売られているし、文房具屋にも服からバッグ、ボタンに至るまで何でも売っていた。和菓子屋には駄菓子も売っていたし、蝋燭や線香まで売っていた。おかげで、うちの周り中、全部「よろずや」として地図を作ってしまった。本当の「よろずや」を見たのは母の親戚(まだ茅葺きだった)の田舎に行った時で、バス停の前に野菜から文房具、服までありとあらゆるものを取りそろえている店があった。近所の店は実際には駄菓子屋がよろずやに一番近いだけで、それ以外はとりあえず「専門店」だったのだ(が、子どもには分からなかった)。
さて、ここで「よろずや」は便宜上、駄菓子屋をはじめとする地域の商店街という広い意味で使おう。
それほど、近くにはお店がいっぱいあって、それこそ何でも売っていたのに、今はどの店もしもうてしまって、「しもたや」になっている。スーパーが進出し、店を潰し、ホームセンターが文房具屋を壊滅状態にした。今も開いている文房具屋はたまに訪れる客のためのボランティアのお店になってしまっている。コンビニは近所のお店を滅亡された。
今になってしもたや、と思っても、商店街は滅亡してしまった。
□ 小さい頃、私の町には色々なお店があった。100軒もなかった小さな町内にあったお店だけをあげると、洗濯屋、トタン屋、貸本屋、床屋、文房具屋、魚屋2軒、八百屋3軒、和菓子屋、豆腐屋、お醤油屋、反物屋、薬屋などがあり、産婆さんもいた。隣の町内には駄菓子屋が3軒あったし、銀行も郵便局もすぐ近くだった(後に郊外に移転)。
豆腐屋さんの前を通るといつも、暖かい匂いがして豊かな気分になったものだし、冷たい水の中に手を入れて、豆腐をひょいとすくい上げるのは実に気持ちがよかった。
お酢やお塩も量り売りだった。お醤油もその場で入れてくれた。
隣の町内には漁協があって、風邪を引くと、大きな氷をノコギリで切ってもらった。
□ 町全体の商店街には商店会があって、年2回、大売り出しをした。サービス券が貯まると近くの温泉へ招待された。また、抽選券を配ることもあり、当たると村田英雄やこまどり姉妹(古い!)などの歌謡ショーを見に行けた。
年末は福引きが行われた。村の尼寺で1月2、3、4日と行われた。父が世話をしていた関係もあって、小さい頃から正月はこのアルバイトをしていた。一等賞は最後の日に入れられるというインチキだったが、みんないっぱい籤を引いて、色々なものを配った。村一番の賑わいだった。
町は商店会を中心として活気づいていた。競合するお店でも、みんなそれなりに協力しあっていた。
□ ノスタルジーにふけっている場合ではないが、当時は自然もいっぱいあって、友達もいっぱいいて、よほど豊かだった。
今は埋め立てられたが、20メートルも走ると海があって、潮騒が聞こえた。結婚してまもなく、電話に雑音が入ったのを聞いた妻の友人が「やっぱり海に近いのね、潮騒が聞こえるわ」などと話していた。
□ こんな豊かさを、スーパーが奪い、ホームセンターが奪い、最後にコンビニが徹底的に奪った。
ローソンが共存していた既存の農村を毀損した。
☆コンビニの罪悪
ここでコンビニというのはDIYのホームセンターをも含んだ広義で話す。
京都で小学生を殺害して自殺した「てるくはのる」は様々な殺人道具や自転車をホームセンターで買った。コピーなどにコンビニを利用していたのはいうまでもない。
他の少年も毎日コンビニを利用している。少年たちだけではなく、参天製薬を狙った脅迫犯もコンビニでコピーをしている。
新潟三条の女性監禁事件も犯人は自分で作った食事ではなく毎日コンビニ弁当を与えていたのであって、コンビニがあってはじめて可能になった凶悪事件である。
岡山で野球部員を殴り、母親も殺した高校生もホームセンターで金属バットを買ったものだし、コンビニで食事を買って1000キロ離れた秋田まで逃亡できたのであって、ここでもホームセンター・コンビニ複合症候群というものが見受けられるのである。
つまり、コンビニは諸悪の根元なのである。誰が何といおうと間違いない。全ての凶器はホームセンターかコンビニで手に入るのである。DIYというのは“Die in Youth”、つまり「若くして死ね」という暗号なのである。
□ 「コンビニ症候群」というものがある。用もないのにコンビニに足が向かい、そこでアダルト雑誌もちらちら見たり、新しい弁当を吟味したり、便利な小物が出ては買ったりと適当に暇を潰していく。スーパーだとこうはいかない。何か目的があるから行くのがスーパーで、コンビニは目的なしに入るのである。地域の商店に無目的に入ったら気味悪がられるから、必ず何かを買う意思を持って入るが、ホームセンターもコンビニも無目的で入る人間が多い。ウロウロできる空間になっているのである。これが少年の深層心理に影響を及ぼさないはずがない。
そうなのだ。現代人から目的意識を奪っているのがコンビニなのである。無目的で目標がない鵺(ぬえ)みたいな子どもはまさにコンビニが作り出したものである。
□ コンビニは苦労しなくてもすぐ近くにある。何しろ“convenience”というのは「便利」という意味だが便利すぎるのである。地域の商店街も近くにあるではないかと言われるかもしれないが、コンビニには何でもそろっているのである。管理されていて、客の必要なものが全部ある。ないものはない。百貨店と同じだと思うかもしれないが、百貨店は行くのが大変だし、駐車場を確保するのも大変だ。入ってからもどこに何があるか見つけるのに店員さえ苦労する。まして客ともなれば、苦労して、苦労して手に入れることになる。
コンビニは苦労しなくても入れる。つまり、イージーアクセスという利便性が日本人から苦労するという観念をなくしたのである。山でも苦労するから登山が面白いのであって、ユングフラウ山だって電車でユングフラウヨッホまで行けるから、すぐに感動は薄れてしまう。
気やすく得たものは気やすくあつかわれるものだ。---シェイクスピア『テンペスト』第1幕第1場
コンビニ食文化について、サッカー日本代表のトルシエ監督はコンビニが日本のサッカーを弱くしている、いつでもどこでも食べられるという安心感から食事への緊張感がない、試合への集中力も衰える、と語ったという。
物事というのは苦労して手に入れるから有り難いのである。だから「有り難い」のである。苦労しないコンビニは日本男児の精神をダメにする(こんな大事な論文に女子どものことはどうでもいい------ユングフラウよりもユングが大切だ)。
最近はインターネットだとかいって安易に情報を得たり、不倫をしたりという人間が増えている。便利な装置は人間の心を荒廃させてしまう。
ちょうど今日、ある女子大生からこんなメールが来た。
はじめまして。○△裕香です。
私は神奈川に住んでいる大学生です。
HPを見ました。
どうしても教えて欲しい事があります。イサク・ディネーセンの物語の特徴と魅力は、
どういう点にあるのか。
"バベットの晩餐会#を例として、具体的に教えて下さい。突然のメールでお願いをしてごめんなさい。
来週の火曜日までにレスを頂けると嬉しいです。
このメルアドは兄のなので下に書いた私のアドレスに
レスを下さい。私はディネーセンの専門家ではないし、見ず知らずの女性に恐らく大学のレポートであろうものを付き合うヒマはないのである。
中にはインターネットだからと言って、安易に他人の中傷を流したりする輩もいる。後で批判されることを覚悟してのことではなく、反論されて怯む、情けない男がいる。妄論を囃すだけ囃し、道義も弁(わきま)えない学者が増えている。
これも“convenient”という何でも便利ならばいい、という安易な考えから来ているのであって、この堕落した思想を日本全国に普及しているのがコンビニなのである。
夏目漱石は「現代日本の開化」という講演で、現代は便利になればなるほど、その分仕事が増える社会だと説いた。新幹線や立派な空港ができると東京への出張は日帰りになった人が多いだろうし、FAXやコピーがあれば情報にあふれて目を通すだけでも時間がかかるし、ケータイやインターネットができれば、始めは便利だったものが、それがなければ不可能だったはずの過密スケジュールに組み込まれる。そんな社会から降りようと思っても、家やマンションのローンで降りるに降りられなくなってしまった。コンビニができたから、深夜労働が可能になり、そんな人が増えるからコンビニが増殖していく。
□ 学生が勉強しなくなったのもコンビニのせいである。
コンビニというとコピー機、と定番になっているのだが、学生たちは自分でノートを取らずに人のノートをコピーする。自分で写すこともしなくなった。
コピー代が10円でコンビニはどこにでもあるので、一気にコピー勉強が増えてしまった。
更に、縮小の機能を使って、カンニングペーパーを作る学生まで出てきた。
それが、中学生まで波及しているのだから困ったものだ。
□ コンビニで何でも容易に手に入ることが分かった子どもたちは我慢することができない。苦労しなくても、何でも手にはいるのだから、学校が牢獄のように見えてくる。先日、ある学校を見学したが、「起立!」という号令にも従わない生徒を見かけた。一体、学校の規律はどうなっているのか!
そして何よりも、コンビニは我慢できない多動的な子どもたちを生み出し、学級崩壊につながるのである。コンビニで何にすればいいか迷う心が更に子どもを多動的にするのである。
□ 成長によろずやや駄菓子屋も重要だった。駄菓子屋は子どもたちの消費生活を形成した。子どもたちだけの空間だった。子どもたちの集合場所でもあり、そこで新しく入った玩具が仲間どうしの遊びの中心になった。
コンビニにはそんな力はない。あるのはモノだけであって文化はなかったのである。加藤理『駄菓子屋・読み物と子どもの近代』(青弓社2000)によれば1950年代が駄菓子屋の最盛期だったというが、町の衰退と共に見られなくなってきた。樋口一葉も駄菓子屋経営を通して子どもたちを観察して、文学を築き上げたのであるが、コンビニ経営から文学が生まれてくるだろうか?
□ 非行に走らなくとも、大きくなって「パラサイトシングル」になる者が多くて社会問題となっている。「パラサイトシングル」を支えているのは親だけでなく、コンビニなのである。
二つの意味で支えている。すなわち、食事とか面倒なものは全てコンビニで手にはいるからシングルでも不便がない。もう一つはフリーターを支えているのが、コンビニ産業である。他に職がなくても、コンビニで働けばいいや、という意識を生み出している。間違いもなく、フリーターの増加とコンビニの増加は比例している。
コンビニにパラサイトしている人間を「パラサイトシングル」と呼ぶのである。
□ コンビニとスーパーとは違う。スーパーなら誰でも1円でも安く買うことを願って、あちらのスーパー、こちらのスーパーと移動するし、何よりも朝のチラシで研究する。
コンビニはどこが安いかで選ぶ人は少ない。弁当が違う、という人もお腹が空けば、近くのコンビニですませて、「たまにはこっちもおいしいな」などと節操のないことをいう。
コンビニは子どもが本来持っているはずの研究心や節操をも奪っている。
□ 私は30年も前に自動ドアが日本人を堕落させるという論文を書いたことがあるが、コンビニはドアを開けるという、わずかの努力も不要にしている。
また、20年前には自動販売機が日本精神を荒廃させるという論文を書いたが、自動販売機以上に増殖しているのがこのコンビニである。
10年前には持ち帰り弁当が日本料理を、更に日本の家庭を破壊するという論文を書いたが、コンビニの最大の売り物である弁当はまさに日本の家族は破滅に導いているのである。子どもの遠足のお弁当にコンビニ弁当をそのまま持たせる親も増えている。保存料が子どもの心にもたらす害毒はいうまでもないであろう。
インターネットとコンビニの複合が何をもたらすか、という論文も用意しているところである。そのうち、コンビニが大学になる日も近いと予言しておこう。コンビニ店長から卒業証書をもらうようになるのだ。
21世紀には家庭からまな板と包丁がなくなってしまうだろう。私は今からはっきりと警告しておく。
□ 主婦の復権を妨げているのが、コンビニである。仕事を持つことを容易にさせているのが、コンビニなのである。自分で丁寧に作る暇がなかったら、コンビニに走る母親が多い。これは言語道断である。ちゃんと子育てをしなければならないのに、子どもの大切な時期の食事をコンビニ弁当ですますとは!
しかも「安全な」弁当なので、添加物がどれだけ入っているか分からない。
人類学では「共食」(きょうしょく)、「同じ釜の飯を食う」ことが人間の家族の基盤の一つと考えている。火や道具や言葉を使うことと同様、人間の行動の特徴だ。他の動物は子に給餌はしても、家族で食事を楽しむことなどあり得ない。人間だけが共食によって食べ物を分かち合い、コミュニケーションをはぐくんできた。
今は父親が遅いし、子どもも塾で遅かったりして一緒に食べることは少なくなった。日本の漁村では昔、漁の関係で一緒に食事をできない家族のために茶碗に炊きあがったご飯をちょっとだけ「陰膳」にするという風習があった。
一人で食べる孤食(こしょく)の慢性化は時に弊害を生む。愛知県の少年院、豊ケ岡学園の山口幸伸・法務教官は少年非行の要因の一つ、と指摘していた。少年のほぼ半数が入院時に標準体重を下回っていることに驚いて原因を調べたら、粗末な食生活の実態が浮かんできたからだ。非行少年の多くは、中学のころから家族と食事をしなくなる。入院直前には約4割が孤食を続けていた。朝食をとらない少年が6割弱、しかも、その半数は小学生時代から朝食抜きというから、栄養失調になっても不思議はない。体重(キロ)を身長(メートル)の2乗で割ったBMI指数が、飢餓寸前の14という激やせ少年もいた。
コンビニの食事の便利さが、孤食を増やしていることはいうまでもない。
□ また、このコンビニ弁当は時間を過ぎるとマニュアルどおりに、惜しげもなく捨てられてしまう。スーパーならば2割引、半額と値段を下げて売り尽くすところだが、定価販売が基本のコンビニはこれをしない。
これが日本人が古来持っていた「もったいない」の精神をも奪ってしまった!
日本人は八百万(やおよろず)の神々がいた時代からエコロジー(ええい!毛唐の用語を使わなければ言い表せないのが残念!)を重んじてきた民族である。
次回作の『和式トイレの復権』でも取り上げるが、かつての汲み取り式のトイレはそのまま肥やしは畑に撒かれて、見事に利用されていた。今の水洗式になってから行われなくなり、日本人からエコロジーの心を奪ってしまったのである。
私は学者の良心から言いたい。水洗トイレは推薦しない(←下らない駄ジャレなので水に流してね)。
□ コンビニが24時間営業をしていることも大きな社会問題だ。夜型の人間を増やし、睡眠相遅延症候群、俗にいう「宵っぱりの朝寝坊」を大量に生産している。深夜までこうこうと店内を照らし続ける人工的な青白い灯に、モノを通してしかつながれない若者の心象風景が見えてくる。
また、少年を深夜徘徊させ、非行に出かけることも多い。一人で非行に走れないからコンビニでコンビになるのである。
コンビニで男女が安易に知り合うことも多い。そして、彼らはフリーセックスに走る。これが日本の若者を堕落させていることは間違いない。英語でも“a marriage of convenience”という言葉があるくらいだ。
□ コンビニの明かりは体内時計を狂わせる可能性があるという研究もある。
原田哲夫・高知大助教授のチームが日本睡眠学会で発表した。高知県内の中学生613人を調査したところ、コンビニに朝や昼行く生徒、利用回数の少ない生徒の平均睡眠時間は7・3〜7・4時間なのに、毎晩30分以上コンビニにいる生徒は6・6時間と短いことがわかった。コンビニの店内は2000ルックス前後の照度で一般家庭の倍以上の明るさだ。人間の体内時計は、光に敏感に反応する。強い光を浴びると、その刺激で睡眠を導くホルモンの分泌が変化し、睡眠時間が短くなるのだという。強い明かりの影響は、大人より成長期の子供への影響が大きいと、原田は警告している。
□ コンビニ型コミュニケーションというものがある。これはコンビニのような密室で話すコミュニケーションで、かつては「アイランド・フォーム」(反対は「コンチネンタル・フォーム」)と呼んだもので、「おい、あれ(読んだぁ)」という文脈に依存したものであったり、「チョベリバ」など仲間内の集団語だったりする。言葉までコンビニになって、簡潔で広がりのないものになっているのである。
また、商店街のおばちゃんより言葉が丁寧なことは言うまでもない。コンビニにいれば王様の気分を味わうことができる。選び抜かれた綺麗な女の子が恭(うやうや)しくお辞儀をしてくれる。うまく行けば、その子と仲良くなることも考えられる。
つまり、コンビニは言語の上からも人間を精神的に閉じこめるのである。大学院を出ている学者が言っているのだから間違いない。
□ コンビニの店員がマニュアル通りの言葉を使っているのも問題である。「○円からお預かりします」とはどういう言い草か。どうして「〜から」なのか。この言葉を聞く度に私は憤りを感じる。
国語学者の大野晋は『図書』(岩波書店)の「日本語質問箱」2000年7月号で「『百円からお預かりします』とは『百円から(いくら)お預かりします』という意味だから、この場合明らかに間違った言い方」と書いていた。
大野は「この誤った言い方は、コンビニの連盟か何かが、マニュアルを改めれば簡単に改まると思うのですが」と続けているが、簡単には改まりそうにない。何となく店員になったという自覚を呼ぶ言葉のようなのだ。つまり、ちんぴらがやくざの隠語を使って偉くなったと勘違いするような言葉なのだ。
岩松研吉郎は『日本語の化学』(ぶんか社)で「千円からお預かり」を次のように解釈している。
実はこの言い方は、個人商店が多かったかつての日本にはありませんでした。なぜなら個人商店では、店番をしてお客から直接お金を受け取るのが、店主そのものだったからです。つまり受け取ったお金はそのまま店主のものになったので(九八〇円いただきます。その前に)「千円お預かりします」と直接的な言い方をしていたわけです。
ところがスーパーやコンビニでは、店員やアルバイトがレジ担当として、店主の代わりにお金を受け取ります。この場合、レジ担当者はあくまで「店主とお金の仲介人」の立場です。つまりそのお金は直接自分のものになるわけではないので、「千円からお預かり」というような、曖昧な言い方をするように考えられています。曖昧化=責
任回避ですし、曖昧化には相手への敬語の働きもありますから、この分野ではこれからもどんどん曖昧さが増していくでしょう。丁寧だけど、どこか他人事のようで冷たいため、とくに年配の方はこれが気になるのでしょう。確かに深夜のコンビニで、バイトの店員がこちらの顔も見ずに「千円からお預かりします」と小声で言うのはちょっと寒々しいものがあります。しかし逆に、その突き放した感じがいかにも無機的でコンビニっぽいとも思ったりするのですが、どうでしょう。
いずれにしろ、コンビニが個人商店を消滅させ、日本語も壊滅させた。
□ 何でも手に入ることも問題だ。嫌らしい本は定番になっているし、アダルトビデオだって売っていることがある。最近では最新ソフトはコンビニから手に入れることができるし、お金もコンビニから出して、コンビニに様々な料金を支払うことになる。
子どもたちはコンビニで一生を暮らせるとさえ、錯覚する。
「喪失の喪失」である。「何かがない」という喪失の感覚を喪失した豊かで便利な時代を形容したものである。
□ 中にはカードで支払が終わるコンビニもある。その光景を見た子どもたちはカードで、何でも手に入ると錯覚する。安易にお金を得ようとする少年が増えるのはコンビニのせいである。
錯覚ばかりの中からテレビゲームを買ってきて、バーチャルな世界に浸る。これが青少年の精神にいい影響を与えるはずがないではないか!
□ 酒やタバコを売っているコンビニが多いことも問題である。酒やタバコは人を堕落させる。
また、コンビニで一番多いのがジュース類であるが、ジュースの甘味料が如何に少年の体と心の健康を蝕んでいるか、火を見るよりも明らかである。
□ 24時間で夜中も煌々(こうこう)と光を灯し、ビールやジュースのために大量の電力を消費している。最近は省エネに貢献しているというが、コンビニがなければ、そんな無駄なエネルギーなど最初から使わなかったのである。コンビニは現代消費文明のリバイアサンになってしまった。
近くのコンビニの店主はもう疲労の限界に来ている。夜でも絶え間なく弁当などが配送されてくるし、細かいトラブルも多い。田舎だからアルバイトの人間もなかなか集めることができないし、外国人が多いので、管理も難しかったのだ。そうして、眠れなくて眠れなくて、ガリガリになっている【2003年に胃ガンで亡くなった】。
□ コンビニはアルバイトを雇っている。高校生のアルバイトで一番多いのがコンビニである。これが高校生などの小銭意識を高めていることは確かだ。わずかの金に対して拝金主義的な傾向を強めるのはいうまでもないが、コンビニよりも稼ぎのいいところ、ちょっとでも楽に、ということから「援助交際」という名の売春に走る女子高生が出てきても不思議ではない。
また、勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職できれば幸せが得られるという幻想が崩れた今、コンビニは学校中退に拍車をかける。真面目に勉強して会社から十数万のお金をもらうより、安易なアルバイトで稼いだ方が楽だと考えるために、中退者の増加はコンビニのせいだといえるのである。
□ また、客が店長になることもある訳で、これも諸悪の根元である。昔の商店ならアルバイトなどを雇わなくても、家の者で営業ができた。客は店主になりたいと思っても絶対になれなかったのである。コンビニは簡単に店員になれるし、ちょっと経験を経れば店長になれることもある。
つまり、他人と自分とが区別できない、現実と非現実の区別がつかない離人症の人間を生み出すことになるのである。
□ 1995年7月30日に八王子でコンビニ強盗で3人も殺された事件があった。
アルバイトを雇っていて24時間営業のためにコンビニ自体が犯罪の標的になることがあって、大きな問題である。
コンビニは万引きの温床でもある。2人ほどの店員で取り締まれるはずもない。一度、万引きを覚えると常習になる。犯罪予備軍を作っているのである。
昔の商店街ではそんなことはなかった。仮に万引きがあっても、店主はその子どもの親を知っていて、ちゃんと親に通報して、今後気をつけるようにいうし、当然、その子どもとも知り合いになるから注意して防いだ。
コンビニは店員も変わるし、子どもとの接点を持たない。だから一回でも万引きをすると警察に通報する。通報すれば、警察は事件として扱い、学校に通報され、その子は非行少年となる。一度、ラベリングされると汚名をはらすのは難しくなる。そして、…。
□ ここから分かるようにコンビニには匿名性というものがある。つまり、本屋では買えないような、やーらしい本もコンビニなら楽に買えるのは匿名性が大だからである。コンビニで酒を買っても、「お父さんが買って来い、と言った」といえば簡単に買える。それどころか、問われないことも多い。匿名性のなせる業(わざ)である。
どんな田舎にあろうと、コンビニは都会の論理でできているのである。
□ 最後にコンビニは日本の文化をも破壊することを記しておこう。
2000年1月現在で日本の書店数は22000店で前年に約1300店が閉店したという。閉店においこんだのはコンビニなのである。
よろずやにはベストセラーくらいは置かれていたものだが、単行本のおいてあるコンビニは稀である。
実は私の家の隣の書店も町にコンビニができてそれまで細々と続いた経営が悪化してしまって5年ほど前に閉店した。
書店の儲けは多くを雑誌販売に依存していたが、雑誌を買う人をコンビニに取られてしまった。
書店は町の文化を支えてきた。色々な本を紹介することで貢献してきた。それを可能にしていたのは雑誌販売の儲けだった。そして、コンビニは文化を支えることもなく、雑誌でもアダルトやコンピューター関係の売れるものしか置いてない場所なのである。
こうしてコンビニは日本人から文化や教養をも奪っていくのである。
□ 日本の「わび」「さび」というのは不便さを芸術にしたものだ。エベレストにようやく登った時に自動販売機があるようになったら、誰も登らないだろう。日本人は便利さと引き替えに充実感を失ってしまったのだ。便利になればなるほど忙しくなるという逆説に誰も気づかずに21世紀にもなってしまった。
□ コンビニは20世紀最悪の発明なのであることをこれで実証できたと思う。こうして眺めてくるとコンビニは日本の文化の悪い面が凝縮されたような場所である。
日本の美風はコンビニが全て奪ったのである。
□ 次回作は『和風トイレの復権』というのを中央公論社から出版したいと思っている。洋式トイレの普及が如何に日本男児を“踏ん張り”のきかない、腑抜けにしたかということを明らかにしたい。更に、洋式トイレのゾクッとするような感触がホモを生み出したことも立証したい。ついでに褌の復権も憤怒をもって訴えたい。ブリーフが日本男児の精子の数を少なくしていることはいうまでもないだろう。
その次には『アンチ・ジャイアンツの害毒』という本を草思社あたりから上梓する予定である。これなどは何も言わなくても害毒だということが分かるだろうが、その気質が日本人の精神や日本経済の復権を蝕んでいることを明白にしたい。東京ドームなどでアンチ・ジャイアンツの輩はレフト側に座る。賢い読者はすぐに分かるようにこれが“左翼”的思想にかぶれた、戦後のいわゆる「進歩的文化人」を生み出したことをつまびらかにしたい。巨人軍が負けることに快感を感じるような精神がや日本軍の正義を忘れた被虐的史観を生むのである。
□ これ以上、コンビニに関して論じてもムダなのでコンビニが破壊したコミュニティを考えてみよう。
第二部 田園の憂鬱とコミュニティの再生 ☆田園の憂鬱
さて、ここから真面目にコミュニティを考えたい。
コミュニティを考えるといって、田舎がよかった、という話をしたくない。
憂鬱だったし、今も大して変わらない。
80歳を超えた母も疲れる、ということがある。母は絵を描くために2時、3時まで起きていることがあるのだが、近所の人に「あんた、きんの【昨日】、何ちゅう遅(おそ)なと起きとったがいね」なんて言われる。まるで監視されているようだという。
母親は私らとちょっと離れた所に住んでいるのだが、どこへ行ったか、私らより近所の人が知っていたりする。中には私らが知らないことに怒る人もいる。
別に迷惑をかけているわけでもないのである。
若い頃、ちょっと離れたスーパーでトイレットペーパーを安く売っていたので、自転車で買ってきた。翌々日に、母が近所の人から「あんたぁ、息子さんにトイレットペーパー買わせってしゃんがけ」と言ってきた。
そんなところまでチェックするな、と言いたい。
□ つきあいも大変だ。母の年齢になると月に2人くらいは知人が亡くなっていくし、お見舞いも多い。お金だけですまない。近くの病院だと楽だが、遠いところだと車で連れて行かなければならない。
色々な会費もあるし、旅行に行けばお土産も必要だ。もらうから出す、出すからもらうという悪循環が続く。
見舞も香典も5千円というのが相場で、それぞれ「返し」という返礼をしなければならないが、ほぼ半分である。返礼をもってずっと回らなければならず、退院直後はちょっとしんどい。
市の教育長のお母さんの葬儀の香典返しはだったのだが、5千円の香典の返しに地方デパートの商品券3千円分、海苔2袋セット、森永の小さなショコラ、そして何故か森永ミルクキャラメルがついていた。
□ 結婚する時も大変だ。いっぱい嫁入り道具を揃えなければならないし、何度着るか分からないのに高価な着物も揃える。私は妻の実家と「要らない」といってどれだけケンカしたか分からない。あちらとしては恥をかきたくないということだが、誰が監視しているものでもない、というが「世間が分かってない」といわれる。
結婚の派手なことは多くの田舎に共通していることだが、やっぱり憂鬱だ。駅で万歳されるのも恥ずかしい。今更何をがんばれ、というのか?
先日(2000年の話である)、妻の教え子が結婚したが、式の前日に引き出物を丁寧に宅配便で送ってきた。福野と高岡という、一番典型的な田舎の引き出物は次の通りである。
純金箔入り萬歳楽(日本酒)、メロン、ハム、昆布、丸大豆醤油、氷見うどん、干し椎茸、干しワカメ、鰹節、焼き海苔、なぜかレモンの香り(生レモンの蜂蜜づけ)があった。そうそう、プラスチックのお盆もついてきた。
これにメインの引き出物としてウェッジウッド(フランシス)の皿が2枚ついてきた。
これだけではない。富山ならではの鯛のカマボコ!がついていて、3.5センチの厚さで48センチのものだった。これは自宅だけで食べられる量ではない。コミュニティに配って結婚の通知をするという意味合いがあるものだ。
結婚式の日には食事だけだろうと思っていたが、赤飯、資本を感じさせるシフォンケーキ、千歳(和菓子)、ブーケの飴などがついてきた。
姉の家は3姉妹だったが、後一人娘が残っていて身上(しんしょう)をなくしてしまいそうである。
□ 結婚してからも「つけとどけ」というのをしなければならない。
盆暮れは当然だが、妊娠すると帯祝い、出産すると祝にベッドやらベビー布団やらベビー服やら玩具やらいろいろ。
男の子だと最初の暮れに5万はするブリを一本、正月に天神様の掛け軸(加賀藩の影響地だけだが)、昔はなかったのに五月人形、七夕(15メートルほどの大きさのもの)、女の子なら雛人形と、子どもを産むのが申し訳なくなる。ホッとしたらクリスマスツリーもなどということになる。
孫が大きくなるのが楽しみとはいうものの異常な出費である。収納場所がなければいいのだが、土蔵があって収められる。
□ 大きい家に住むことはいいのだが、掃除がままならない。物がどんどん増えていって居住空間は変わらない。
うちの蔵の中には結婚式の引き出物がいっぱい残っている。どうしても似たようなものになってしまうのが、難しい。
贈与と交換がコミュニケーションの手段になっているのだが、過剰というか、形式というか、田舎の伝統には呆れる。
□ みのもんたが司会をしている、1000万に挑戦するクイズ番組「ミリオネア」で砺波出身の独身女性がお金を何に使うか、と質問されて、「仏壇を買う」と答えていた。
結局、番組最高の750万円を獲得したのだが、観客は仏壇を買うという目的にのけ反っていた。
しかし、これも富山では仏壇変わったことではないのだ。
三十二年前の総選挙で石川一区から初めて出た森喜朗氏。党公認は得られず「泡沫」扱
いだったのに、トップ当選した。これには訳がある。『「二〇〇一年」の首相候補生』(時事通信社)という本に、あの不人気だった森善朗首相のことが出ている。森は泡沫候補だったので、公示の2日前にも親族会議で立候補をやめるよう説得された。たまたま近所で火事があり、彼は現場へ駆けつけ、燃えさかる家から仏壇をかついで出てきた。体育会系のごつい体を持っているからだ。
石川は「真宗王国」だけに、大切な仏壇を持ち出した男と評判になり、余勢を駆って選挙戦になだれこんだ。
「美談」をひっさげて登場した森首相だったが、田舎の論理は都会で通用しなかった。
□ 都会が住み易いのはもちろん、施設や交通が整っていることもあるし、仕事もある。「向都離村」というが、ヒトは都会に憧れるのである。トウ小平は、中国国内の数千万といわれる「盲流」(都市への盲目的流入人口のこと)に関連して、訪中した日本の政府首脳に、こう言い放った。「何なら、百万ばかり(船で日本に向け難民として)流しましょうか」と。
しかし、都会の心地よさは匿名性によることが大きい。何をしていても、許されるということが、自由であることがどんなに人間にとって楽なことか、よく分かる。
ただ、その代償も大きいと言わなければならない。
ラッシュアワーなんて嫌だ。地下鉄を乗り換えるために階段をいっぱい歩くなんて嫌だ。1時間もかけて通勤するなんてもっと嫌だ。蔵書も置けないようなアパートに住むのも嫌だ。情報がありすぎて、何を見ればいいのか分からなくなるのも嫌だ。子どもと荷物を抱えて銀座をうろつくのも嫌だ。
☆田舎と子どもたち
田舎にはそれなりにいいところもある。車のラッシュなんて大したことがない。うちは駐車場を人に貸しているが、月に2500円だ。音楽や演劇はたまに来るのを見ていれば日本の代表的なところが分かる。『ぴあ』を買って迷うことは何もない。どこでも、車に全部詰めて行ける。行列のできるお店もないから、すぐに食べられる。空気はそれなりにきれいだし、浄水器なしに飲む水もおいしい。
初めて葉山にいる姉の家に車で出かけた時に、複雑な高速道路で、後ろからライトを灯され、クラクションも鳴らされ、おまけに雨が降ってきて、泣きそうになった。つくづく田舎のネズミだと思った。
□ 子どもたちも用水路さえ気をつければ危ない箇所は少ない。少なくなってきたとはいえ、遊ぶところも豊富だ。
そして何よりも子どもたちはいつも近所の人のお世話になっている。
隣のおじちゃんは色々な虫をもってきてくれるし、自転車がパンクしたら修理してくれる。
本当のことをいえば、長男の頃は近所からあまり構ってもらえなかった。ちょっと事情があるのだが、長女が外に出るようになってから近所の反応が違ってきた。
隣のおじちゃんは二人とも男の子だったので、長女の成長を待っているところがある。毎朝、長女が学校へ出るのを待っていて「おはよう」と声をかけてくれるし、お祭りになると二人を連れてデートとなる。
□ 向かいのおうちも、いろいろと声をかけてくれる。
先日、長男の自転車がパンクして、隣のおじちゃんが直していたのだが、通りかかった近所のMさんがこれはチューブがいかれているからといって、私のホームセンターで買って来なさいといった。後輪だとチェーンやブレーキを外さざるをえず、苦労するのだが、20分ほどで交換してくれた。
町内で夏祭りがあって、子どもたちにいっぱいのごちそうを作る。最近では流し素麺がおいしいといって、10メートルくらいの竹を用意して(作るのは大変な作業だ)、大騒ぎして流す。普段はひっそりしている町が一気に盛り上がる。
□ 老賢者とまでは言わないが、近くにはご隠居さんがいて、色々な話を聞かせてくれた。面白い人がいっぱいいて、その家に遊びに行くのも楽しみだった。お酒に酔ったら、よけいに話が弾んだ。
そういえば、他人の家に遊びに行くことは少なくなった。僕らの頃は母親がいろいろなおうちに連れていってくれて、珍しいものをみたり、食べたりしたものだった。
最近では町を歩いている人を見かけることも少ない。みんな車で家から目的地にまっすぐ向かうので、町を歩くことも少ないのだ。
□ 私が小さい頃、同級生だけでも町内に男女5人ずつがいた。ところが、過疎化によって5年間も小学生が一人もいない時期があった。100軒近くあったのが50軒くらいになっていて、どの空き地も駐車場になっている。
お祭りには獅子舞が出るのだが、獅子舞にはキリコと呼ばれる稚児舞がつきものだった。小学生がいないために、6年間も獅子舞が行われなかった。ところが、長男の二つ上の子供が生まれて、その後も、少しずつ子どもが生まれたので復活した。
みんな何とか思い出して復活した。長男も嫌がらずにキリコになった。一年目はやっとの踊りで、冷や汗ものだったが、それでも町内の人は一生懸命に教えてくれた。
結婚したばかりの家は「華」といってお祭りの時は特別奮発しなければならない。獅子舞の連中は、その家の前で丁寧に踊って、最後にはキリコを背負って、そのまま家の中に乱入してきて、御馳走になっていく。家の中ではビニールシートを敷いて、歓待する。窓が開けっ放しになっているので、その様子が外から見えるという趣向だ。
□ 長男の同級生は一人もいなかったが、長女の方は一人だけ同級生がいて、色々と遊べた。同級生の影響力は強い。お互いが励まし合って、育っていく。
最近は5歳になる子どもが一人いるだけで、またまた子どもがいない状態が続いている。
□ 私自身は職業病で、知らない子どもたちが危ないことをしていたら、叱ることが多い。親を叱りたくなることがあるが、家人にそれだけはやめてくれ、と言われている。
お互いの子どもを叱り合うことは大切だろう。子どもは(というか人間は)家族に見せている顔と違う顔を外で持っている。
「酒鬼薔薇聖斗」やその追随者たちは地域でもおかしいと思われていた。家庭にそれが伝わってなかった。コミュニティがしっかりしていれば、(言われるのは気分のいいことではないが)「あんたとこの息子は、娘は」と情報が入ってくるものである。
もちろん、都会でなくてもコミュニティが崩壊していることもあろう。新潟三条市の女性監禁事件も、実はうちの近所と同じような家が並んでいたが、コミュニティが機能していなかったのではないかと思う。
プライバシーかもしれないが、「あんたとこの息子さんは最近…」とか「うちの息子は…」という会話がどこかで一度でもなされていたら、こんなに時間がかからなかったはずだ。
□ 『天声人語』が紹介していたロンドンで見た場面。
バスの切符を買うとき、車掌さんに男の子が乱暴な口をきいた。年配の車掌さんは男の子の両肩を押さえ、丁寧に言いなさい、としかった。男の子は言い直した。「そう、もう一言、プリーズをつけなさい」「プリーズ」「はい、よろしい。じゃ、これが切符だよ」。
そんな光景が日本でもあったはずだ。
□ 校区の母親クラブの合い言葉は「地域の子どもはわが子」というスローガンで他人の子どももしっかりと見守ることになっている(が、他人の子どもはなかなか叱ることができないようだ)。日本の子どもの6割が近所の人に叱られたことがないという。
監視されるのは困るが、互いが匿名になってしまっては、いけない。ちょうどネットの中が無法地帯になっているのは匿名性が原因であるのと同じである。
田園は憂鬱だけど、どうしても、コミュニティを復活させなければならない。
□ 地域の教育力にこだわるのには二つの理由がある。
一つは地域は子どもたちにとっての生活領域の全てだからである。この中で、子どもたちは遊び、学び、ケンカをしたり、買い物をするからである。
もう一つは地域には色々な人が住んでいて、刺激を受けるからである。学校というのはどの先生は同じことを言い、同じ世代の子どもしかいない。地域には色々な意見を持つ人もいれば、面白い人、変な人が揃っている。全くついでにいえば、最近の学校は変な先生を排除する傾向があるが、必ずしも同意できない。
□ 日本人がコミュニティを再確認したのは阪神大震災だった。瓦礫の中ではじめて、自分たちが失っていたものの大きさ、復活する時の喜びを感じたのである。
家庭の教育力も大切だが、地域の教育力も大切だ。家庭が大切だ、母性が、父性がというほど、子どもというのは家庭だけで育っているのではない。友達や地域、そして、学校の先生や、本やテレビ番組などさまざまなものが影響を与えている。その中で地域の教育力も大きい。
もちろん、地域の人だけではなくて、風景も大きな影響を与える。「酒鬼薔薇聖斗」が住んでいた須磨地区はテレビで見る限り、新興住宅街で全てが人工的で無機的な造りになっていた。
ナサニエル・ホーソンの『トワイス・トールド・テールズ』の中にラシュモア山のワシントン大統領などの彫像(とは書いてなかったような気がするが顔面岩)を見ながら育った少年が立派になる話があったが、それほどでなくても、風景というのは、必ず人の風貌に影響を与えるものである。
毎日、立山の雄大さを眺めている人と、アスファルト・ジャングルで育つ人とは自ずから考えが違ってくるはずである。
☆お祭りの復活
コミュニティを復権するために何をすればいいのか。
例えば、PTAの活性化や学校ボランティアの養成など学校を中心としたものもある。ただ、これはやりすぎると学校への干渉となる。
商店街を中心として活性化することもできるだろうが、大型店の進出によってどのお店も四苦八苦の状態で、期待はできない。
一番てっとり早いのはお祭りの復活である。新興住宅街だと創造になる。
なぜお祭りがいいのか。
お祭りというのは地域住民のエネルギーが最も凝縮される行事である。大変な行事だ。それでも、一つひとつお祭りに向けて組織していくことは、街全体の親密化を招くし、活性化につながる。
子どもを中心としたお祭りを組織することが大切だ。
もしかしたら、中心となる神社がないかもしれない。宗教の問題だと反対する人もいるかもしれないが、無宗教のお祭りを開けばいい。
お祭りといっても青年会議所などが開く「町興し」のお祭りでなくていい。中心は子どもであって、街ではない。街を活性化させるのではなく、子どもを活性化させるのである。子どもを活性化すれば自然に街は活気づく。
お金を出してくれる商店街が壊滅していることが多いが、金をかけない方法を模索しなければならない。地域の人がお金を出し合ってもコミュニティの祭を復活する必要がある。
100万円も出せば、立派なお神輿(刑務所で作ったもの)が手に入る。
お祭り、というのは一年を彩る最高の日を作るのである。
コンビニのように毎日が「ハレ」の日のような状態を作ってはいけない。人間には節目が大切だ。けじめも大切だ。
☆コミュニティとコミュニケーション、そしてコミットメント
すぐに分かるように“community”“communication”は同じ語源である。“commune”というのは“common”「共通」という意味である。欧米では、教会の聞こえる範囲がコミュニティとされたし、日本でもお寺の鐘が聞こえる範囲がムラだった。
コミュニティにコミットしなければならない。積極的に地域活動をしよう。
英語で“commit”は「関わり合う」という意味を持っているが、中には例えば“commit a person to prison 人を投獄する commit a delinquent to a reformatory 非行少年[少女]を感化院へ収容する。He was committed on the certificate of two psychiatrists. 彼は2人の精神科医の証明で精神病院へ入れられた。”という用法もある。コミットできれば、非行少年もコミュニティの力でコミットできるのである。
英語には“community service order”というのもあって「社会奉仕(服務命令)」でいわゆる最近日本でも始まった「ボランティア」である。つまり、有罪となった被告人等に対して拘禁刑に代えて裁判所が命じる無償で行う一定の社会奉仕のことをいう。
□ そんなことを少しずつでも増やして、コミュニティを復活させていかなければならない。
日本社会は今、危機状態にある。
コミュニティにコミットすることでコミュニケーションが生まれる。
よろずやに代表される地域社会を再構築することが急務である。
その中ではじめて、未来に向かって進む少年・少女が育つのである。
コンビニ関係のみなさん、ごめんなさい。この論文を書く前に寄ったのがコンビニで、別にコンビニでなくても何でも「○×は日本を滅ぼす」というのと書けたのですが、たまたま、「○×」がコンビニになっただけです。お詫びに、いつか「○×」を「△◇」に変えた論文を出します。
次のような高校生からのメールもあって、本当に反省しています。
こんにちは、私は16歳学生です。たまたま、学校の学習の一環で『コンビニエンスストア』について調べていて、このページを見ました。確かに、言ってることはわかるのですが・・・・。どうも、大人と言うのは『これが悪い。』と思うと、すべてそれに結び付けてしまうようで・・・・。私がコンビニエンスストアについてのアンケートを学校に配ったときも、先生方から『コンビニエンスストアがすべてを堕落させている・・・』という意見が出されました。というか、若者に対しての意見だったと思います。私は、コンビニエンスストアが堕落させているのではなく。あくまで、悪いことをしている今の若者の意識の低下だと思います。私も自身、同年代の若者のモラルが欠けていると思いますけど・・・・。と少し思ったので書いてみました。ありがとうございました。 コンビニが悪いとなれば、インターネットだって、更に電話だって、悪いことになると思います。
一つのキーワードで全てを説明することはできない、ということを言いたかったので、僕たちはもっと複合的な見方ができなければならないと思います。宝刀を振りかざしているつもりでも、宝刀に振り回されていることも多いと思います。
それから“a marriage of convenience”というのも「政略結婚」のことです。「コンビニ型コミュニケーション」なんてものもありません(今のところ)。
官僚、医師、弁護士、やメディアの人々など知識を「占有」する専門家集団はしばしば自分たちの側に正義があると思い込みがちです。特に学者というのは黒を白と言いくるめることができる人種だと思っています。ただ、その知識をどちらに向けるかで、真の知識人になるのか、御用学者になるか、ただの物識りになるのか違ってくるのだと思います。
自戒を込めて書いたつもりです。
□ この辺の事情は「父性の創造〜知性と感性の間」に書いてありますが、直接、林道義氏の「金川欣二氏への反論──反権威主義者の権威主義」をごらんになってもいいかと思います。
ついでに、林氏は僕が尊敬して止まない内田樹も批判している。なんだかなぁ…。
□ アラン・ソーカルに献辞をしてあることについてもタネをばらしてしまいます。ソーカルはアメリカのカルチュラル・スタディーズの専門誌Social Textに「境界を侵犯すること---量子重力の変形解釈学に向けて」というポストモダンの知識人からのソーカルにいわせると「全く意味をなさない」引用と「あらゆる科学は歴史的生成物にすぎず、仮想的な観察者は徹底的に脱中心化されなくてはならない」という、常套句をカット&ペーストしただけのおふざけ論文を出し、レフェリーが受理して掲載されてしまったのです。これは後にアラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』(岩波書店)として出版されるのですが、原題の“Fashionable Nonsense”から分かるようにポストモダンの専門家たちが分かったつもりで議論していることへの当てつけでした。
僕らも分かったように色々と議論するけれど、ただの流行に乗せられたナンセンスではないかとヒヤリとすることがあります。
□ ええっ、駄菓子屋の方が馴染みにあるだろうに、どうして、よろずやにこだわったかって?
僕は顔が似ているせいで、萬屋欣ちゃん(古い!)と呼ばれているのですよ。
□ その後、テレビ朝日から“コンビニ宴ス”という番組まで生まれ、コンビニは日本の文化になった。
□ 2002年に周りの文房具屋が全部つぶれて、子どもの宿題の画用紙を買うためにコンビニに走ったが、なくて、結局、遠くのホームセンターまで行かなければならなくなった。本当に不便だと思った。
【2000年7月7日】
後に知ったが、鹿島茂は『空気げんこつ』(ネスコ1998)「父性の復権とエコロジスム」の中で二つは同じものだと看破している。その主張を実現するには、生活水準を東京オリンピック以前に戻さなければならないという。少し抜き出してみる。
父性復権論者がきまって理想としてあげるのが、子供が父親から技術を継承することで父親に敬意を抱くようになる職人の家庭であるのをみればわかるように、父性が保たれるのは、産業規模が、父親の働く姿を子供がじかに見ることができるような労働形態にとどまっている場合にかぎられる。現在のように、父親が二時間もかけて都心に通勤して、子供や女房に説明できないような複雑な仕事をして、夜遅く疲れ切って帰ってくるようでは、父性の復権など問題外だ。【…】
なぜことさらにエコロジスムを否定し、父性の復権論者に異議をとなえるのかといえば、彼らがいずれも虫がよすぎると考えるからである。彼らは、批判する当のものに似て、自分たちの主張のメリットだけを示してデメリットを表示しない。あるいは、メリットにのみ目が行ってデメリットが見えない。前者なら欺瞞だし、後者なら無知だ。【…】
父性の復権論者というのは、エコロジストに似て、現状では絶対に実現不可能なことをあえて主張してみせて、過激なパフォーマンスで俗受けを狙う一種のトリックスターにすぎない。私としては、どうせなら、産業・経済レベルでも断固たる退行を主張して、それによってもたらされるメリット・デメリットをきちんと描いてみせることのできる現実主義的反動家の出現を望みたい。憲法改正さえすれば、ついでに父性も復権するといった類いのラ・ヴィ・アン・ローズ的な保守は願いさげである。政治にはノスタルジーはもち込み禁止である。
なお、鹿島茂の『パリ・世紀末パノラマ館』(角川春樹事務所)によれば、コンビニの歴史を作ったのはアメリカではなく、19世紀のパリだったという。1820年生まれのフェリックス・ポタン(FELIX POTIN)が屋台のようなコンビニを作ったのだ。
最後に、清家清の言葉を紹介して終わろう。
「今日の便利は明日の不便」---清家清『家相の科学』