神話的「知」のすすめ

「きれる」------「我慢が限界に達し、理性的な対応ができなくなる」『広辞苑』第5版(98年11月発行)

「真理はフィクションのように構成されている」------スラヴォイ・シジェク

 物語はまさに人類の歴史とともに始まるのだ。物語をもたない民族はどこにも存在せず、また決して存在しなかった。あらゆる社会階級、あらゆる人間集団がそれぞれの物語をもち、しかもそれらの物語はたいていの場合、異質の文化、いやさらに相反する文化の人々によってさえ等しく賞味されてきた。物語は、良い文学も悪い文学も差別しない。物語は人生と同じように、民族を越え、歴史を越え、文化を越えて存在する。
ロラン・バルト『物語の構造分析』(みすず書房)


 最近、ナイフをめぐる事件が多くなっている。

 僕自身も中学生の頃、ナイフやライフルのようなものに憧れたし、教師にむかつくこともあったし、「あの野郎、殺したい」とたとえ一瞬にしろ思ったことがある。

 だからといって実際に殺すこととの間には大きな溝がある。

 どうして「キレる」のだろうか?

 あまりにも容易に人を刺したり、切ったり、殺したりする生徒が増えている。

 これだけ生活が便利になったのに、子供だけが昔のまま野性的で、木登りもうまくて、ナイフも器用に使うなんてことはありえない。子どもたちが何を失って、代わりに何を得たのか、一度きちんと押さえる必要がある。

 少年とナイフというと思い浮かべるのはワシントンの話である。この場合、少年と斧、なのだが、「なぜ父親は大事な桜の木を切ったワシントン少年を強く叱らなかったか」というなぞなぞがあって、答は「まだ、手に斧をもっていたから」である。

 ブラックジョークなのだが、実はこの話自体、100年以上もたってから伝記作家が勝手に作ったお話でウソなのである。この話を本に書いて広めたウィームスという牧師は、話がウソなばかりか英国人の書いた本からの盗用であることには口をぬぐっていたそうだ。つまり、正直を強調するために作られたウソということになって、話全体がブラックジョークなのである。

 ただ、ワシントンというとこういう(でっちあげの)話しか残っていないので、もしかしたら、そんな人だったかなぁ、という伝説としては上出来である。

 小さい頃、最初に見た映画の一つに『日本誕生』がある。これは日本武尊の神話を映画化したものであった。原節子が天照大神だった。4歳上の姉の『小学1年生』の特集を読んでいた記憶があるから、4歳の時に見た映画だったと思う。でも、身投げのシーンや富士山の爆発、白鳥になって日本武尊が飛んでいくシーンなどをはっきりと覚えている。ただ、『小学1年生』には特撮の様子を事細かに書いてあって、せっかくの感動が薄れてしまった。

 戦後、童話や物語が否定されてことがあった。科学的ではないというのがその主な理由だった。確かに戦争を起こした原因のひとつに皇国史観というものがあり、これを否定する気持ちはわからなくもないが、否定するのは行き過ぎだった。

 正確にいうと外国でも児童文学というものが否定されたこともあった。有名なのは18世紀末の著述家であり教育の権威だったサラ・トリマー女史で、彼女はおとぎ話は野心や暴力や富への愛着や、身分を超えた結婚への願望を子供に教えるから不道徳だといった。

 河合隼雄は次のように笑いとばしている。

真面目な学校の先生の中には、昔話を子どもにするのはよくないのではないか。なぜかと言うと、途方もない空想的なことが書いてあって、子どもたちが現実から遊離するのではないか。たとえば、試験を魔法でパッとうからんかなとか、こんなバカなことを思い出すと、教育上よくない、だから子どもには昔話をしないほうがいいなんて言われる先生があるのですが、それは非常に浅はかな考えでして、だいたい真面目な人には浅はかな人が多いんですけれども(笑)、私はそれはファンタジーとかリアリティに対する考えが浅はかすぎると思います。(『中空構造日本の深層』中央公論社)

 森崎和江『大人の童話・死の話』(弘文堂)によれば、白秋の「金魚」は西条八十の「あまりに残虐だ」との批判に白秋は反論したという。子供が金魚を締め殺したのは、母に対する愛の表れなのだ。その衝動は悪でも醜(しゅう)でもなく、人間の本性だ。子供の持つ残虐なものは、成長力の一面であって、美であり、詩である、と。

 金 魚   北原白秋

母さん、母さん、
どこへ行た。
   紅い金魚と遊びましょう。

母さん、帰らぬ、
さびしいな。
   金魚を一匹突き殺す。

まだまだ、帰らぬ、
くやしいな。
   金魚を二匹絞め殺す。

なぜなぜ、帰らぬ、
ひもじいな。
金魚を三匹捻じ殺す。

涙がこぼれる、
日は暮れる。
   紅い金魚も死ぬ、死ぬ。

母さん怖いよ、
眼が光る、
   ピカピカ、金魚の眼が光る。

『赤い鳥』1919(大正8)年

 この白秋・八十論争に森崎は死に対する感じ方が「東京という都市を中心にして、大きく変化しようとしている」兆しを感じたという。白秋の感性には、金魚や蛙やトンボの命の手触りがあった。子供たちの成長過程で死は身近にあった。

 神戸で起きた酒鬼薔薇聖斗の殺人のように無機質でどこまで行っても変わらない人工都市に住んでいると死の実感が沸かなくなってしまうようだ。森崎が引用するように白秋自身、同じような経験を持っていたのだが、酒鬼薔薇と白秋の違いはどこで生まれてきたのだろう。

 白秋の子どものころ、紫に光る潟海の黒猫を放りこみました。猫はぬるぬると落ちこみながら、必死にもがいて、断末魔の異様な爪跡を泥の上にのこしたまま消えていきました。その爪跡を、アゲマキとりの女が一枚の板子を片足ですべらせながら、つやつやとならしていくのです。

 人間は生きていく上で「神話」が必要だ。おとぎ話が必要だ。

 京都で飲んでいた時に、あるお客が女将に身の上話をしていて、自分は大阪の空襲で両親を亡くしたらしいのだが、小さかったので自分が誰なのか、どこの生まれなのか全く分からないといっていた。『砂の器』みたい(の逆か)だな、とは思ったのだが、実際、自分が誰か分からないというのは不安だろうなと思う。

 中国残留孤児の多くが嘆くのもまさにこれで、「私は誰、どこで生まれたの」ということを知りたいという願望がひしひし伝わってくる。

 だからこそ、『ソフィーの世界』の始まりは「あなたはだれ?」なのである。

 朝  (谷川俊太郎)
 
    
      また朝が来てぼくは生きていた
      夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
      柿の木の裸の枝が風にゆれ
      首輪のない犬が陽だまりに寝そべっているのを

      百年前ぼくはここにいなかった
      百年後ぼくはここにいないだろう
      当たり前な所のようでいて
      地上はきっと思いがけない場所なんだ

      いつだったか子宮の中で
      ぼくは小さな小さな卵だった
      それから小さな小さな魚になって
      それから小さな小さな鳥になって
      それからやっとぼくは人間になった
      十ヶ月を何千億年もかかって生きて
      そんなこともぼくら復習しなきゃ
      今まで予習ばっかりしすぎたから

      今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
      ぼくに人間とは何かを教える
      魚たちと鳥たちとそして
      ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
      その水をわかちあいたい

 落語だと三遊亭円朝が客からもらった三題噺(「芝浜」「酒飲み」「財布」)をまとめて、先代の桂三木助が磨きをかけた「芝浜」などは酒を飲んでいる時が自分なのか、醒めた時が自分なのか分からなくなっていることをモチーフにした落語だ。

 今、この文章を読んでいる人も夢うつつに読んでいるのか、それとも実際に読んでいるのか分からないはずだ。

 おとぎ話も、大人になってから非現実的だということに気付くかもしれない。しかし、同時に世の中には敵意に満ちた巨人がいることも、わが子を森に捨てる親もいることを思い出させてくれるかもしれないし、その時に大切な特質が機知、大胆さ、粘り強さ、そして大きなチャンスを見抜く眼であることを思い起こさせてくれるだろう。

 河合隼雄は『ナバホへの旅』(朝日)で次のように書いている。

 私は神話学の「研究者」でもないし、文化人類学者でもない。心理療法家である。しかし現在において心理療法を続けてゆく上で、神話に関心をもたざるを得ないのだ。それをごく簡単に言うと次のようになるだろう。

 近代の科学・技術は、人間とその対象とする現象とが切断されていることを前提としている。だから、誰にも通用する普遍的な理論や方法が得られる。これは、人間が外界を自分の欲するように支配し、操作する上で極めて有力なことである。しかし、人間が自分と関係のある現象に対するときは、それは無力である。月に向かってロケットを発射するときは、近代科学は有効だが、十五夜の秋の名月を家族とともに見るとき、お互いの心と月とをつなぐ心の内面を語るのには、月で兎が餅つきをしているお話の方がピッタリくるのだ。しかし、科学技術の発展した今日に、今さら月の兎でもあるまいとつながりを否定してしまったために、現代人の多くは「関係喪失」の病に苦しみ、孤独に喘いでいるのではないだろうか。 科学の知のみに頼って世界を見るとき、人間は孤独に陥るが、関係回復の道を示すのが「神話の知」であると、哲学者の中村雄二郎が指摘している(『哲学の現在』岩波新書、一九七七年)。彼は「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求で」あると言う。そして、神話の知は「ことばにより、既存の限られた具象的イメージをさまざまに組合わすことで隠喩的に宇宙秩序をとらえ、表現したものである。そしてこのようなものとしての古代神話が永い歴史のへだたりをこえて現代の私たちに訴えかける力があるのも、私たち人間には現実の生活のなかでは見えにくく感じにくくなったものへの、宇宙秩序への郷愁があるからであろう」と述べている。

    短い説明であるが、これで現代の心理療法家が神話に興味をもつ意味がわかって下さったと思う。われわれは常に現代人の「関係回復」の仕事を助けねばならず、そのためには「神話の知」が必要なのである。

 小川洋子は『物語の役割』(ちくまプリマー新書)の中で、人は「現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており…非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする」と書いている。人間は物語が必要だ。

 信仰心の厚いユダヤ教の信者であったエリ・ヴィーゼルが、アウシュヴィッツに連れていかれた最初の夜、人間が焔となって立ちのぼっていくのを見てしまうのです。その夜のことを彼はこういうふうに書いています。「この煙のことを、けっして私は忘れないであろう。…私の<信仰>を永久に焼き尽くしてしまったこれらの焔のことを…」

 夢には夢の効用がある。神話には神話の作用がある。

言語学の分野での新しい理論のひとつに、言葉によってこそ、事実はそれら自身、秩序づけられ変化させられる、というものがある。人生のコースを定めるのは、かならずしも事実ではなく、言葉なのだ。そして言葉の持つこの不思議な力のひとつの例が、神話である------つまり、ありふれた特色のない事実よりもっと直接的な仕方で人に真実をつたえる、形象やシンボルを作り出す人間の能力である。この能力をなんと名づければよいだろうか?多くの者たちにとって、それは想像力である。しかし危険なのは、きわめて多くの者たちにとって、想像力が、真実でないことをいう事と同義的であることだ。
    ------R.S.Thomas “Selected Prose” Seren Books

  【大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮社から引用】

 民族や国家も同じで、民族や国家が形成された時、どうしてこんな国が生まれたか、知りたいと思った人が多かったに違いない。だって、自分が誰かを突き詰めていけば、アメーバにたどり着く前に、どうしたって民族や国家にぶつかるはずだ。

 そこに生まれたのが、神話である。必要「悪」(悪かどうか知らないが)だったのである。 人間というのはアイデンティティを求める動物だからである。ロラン・バルトは歴史を自然へと変換するのが神話だという。

 父親というのも人類が発明したものである。父親という神話を作りあげて、アイデンティティを主張しなければならなかった。母親は何もしなくても母親でありえるが、父親は神話を作り上げなければならない存在だった。

 アイデンティティというと難しいが「その人らしさ」ということで、自分が自分であるためには様々な関係の中で生まれてくるものである。

 例えば、「○×会社に勤めている」とか「○×の子」ということである。定年後に鬱病になる人は帰属集団を失ってアイデンティティを確立できないからである。せめて、趣味や仲間があれば見いだせるのに…。

 身の回りとの関わり、関係の中で自分が決まっていくのである。

 旧約聖書の創世記などは「●×は△○の子、△○は…」など連綿とその系譜が書かれている。「どこの馬の骨」というのはいないのだ。

 関係性というのは人間存在にとって非常に重要で、自分のアイデンティティを持てない人間は自分を失ってしまう。

 言い換えれば、自分のアイデンティティをおけない世界は本能的に否定すべき存在となってしまう。

 最近、「居場所」などということが多いが、学校の子供たちは居場所を失っている。「三間がない」ともいわれる。「空間、時間、仲間」がないのである。

 それは学校や家庭が余りにも管理されるべき場所になっていてゆとりを失っているためである。弾力性を失っている。教師自身が管理されていてゆとりを失っている。校長自身が管理されているから学校から創造性が失われている。

 子供の頃に親との関係がしっかり保てなかった子供は不幸である。周囲とのきっちりした関係が結べずに育つと、ごく限られた世界しか知らず、それ以外の世界は遠い、自分の預かり知らぬ世界になってしまうのである。

 それはちょうどテレビの画面に映し出されたタレントの方が自分に近い存在で、それ以外の人々はどんなに近くにいても遠い存在になってしまうようなものである。

 だから、現実の方がヴァーチャルになって、ナイフで人を刺しても実感できないのである。

 まるでゲームをしているようなものだから、相手の痛みが理解できるはずもない。

 子供が小さいときに一番身近な存在である親が、きちんとした関係性を育まなければならない。

 ナイフはイニシエーションとしての機能ももっている。

 井上靖の詩で「梅ひらく」では北海道で不幸な姉が凍死した知らせを受けた16才の少年がドスを懐に「復讐すべき仇敵は誰であろうか」と星空を窺う。

 中野重治の小説『歌のわかれ』では主人公の片口安吉は「佐野の無礼は許せるが、佐野の無礼をお前が許すことは許せぬぞ」と丸鑿(まるのみ)を握りしめて、不良学生の佐野の手の甲をテーブルもろとも縫おうとカフェーにおもむく。

 『たけくらべ』では寺の息子・信如が小鍛冶の小刀を抽斗(ひきだし)から取り出して「何いざといへば田中の正太郎位小指の先さ」と力のないのに強がりもいう。

 そうしたイニシエーションを乗り越えないと大人になれない。

 「キレる」というのはそれまでの自身の人生とか親子関係とか先生との関係とか、もしナイフで刺したらどうなるか、どんなに家族に迷惑をかけるか、など全ての関係性から「キレる」のである。

 今まで築いてきた人間関係、家庭や友達や学校など全てから「キレて」たった一人宇宙に残された状態になってしまうのだ。

 何も関係性を持たない自我というのはきっと死にたくなるほど孤独だろう。

 上の世代が経験で学んだものを下の世代に伝えるのが「神話」であり、それを受とめるのが感性なのである。嘘でも、そうした物語から関係性が生まれるのである。

 関係性はレヴィ=ストロースのいうコスミックな(宇宙的な)関係と言い換えることができる。レヴィ=ストロースによれば、人間は家族というもの以外にコスミックな関係を持つことができない、できにくいという。家族というのは融合があって、誕生があって、病気があって、愛があって、憎しみがあって、死がある。人間の世界の色々な根源的なものを総動員してつき合っている。

 これに対して、仕事とか趣味とかでつき合う、家族以外の関係は切れ切れで、ある側面だけでつき合っている。

 もちろん、家族の関係性は徐々に希薄になっているのだが、「生」と「死」は誰も避けることのできないものである。

 だからこそ、どうして自分が存在しているのか、どうして両親が存在しているのか、誰もが知りたがるし、知らなければアイデンティティを確立しにくくなるのである。


 「お父さんとお母さん、どうして結婚したの?」と聞かれて本当のことをいうのが正しいのだろうか。もし「割れ鍋に閉じ蓋」式に結婚していて「仕方なかった」としても、「お前みたいな子どもがほしかった」と言えば、子どもは嬉しくなるはずだ。大恋愛でなくても結婚にはいろいろな障害があってそれを乗り越えて結婚したと言えば、誇らしげになるはずだ。

 カウンセラーから聞いた話だが、家庭のいざこざなどから非行に走った少年が立ち直ろうともがく途中で「お父さんとお母さんは本当に愛し合って結婚したの?」と聞いたら「うちはお見合だから」と返答されて、立ち直るのがもっと遅れたという。

 人間には神話が必要なのだ。

“I don't want realism. I want magic!”
「私に現実は必要ないの。必要なのは魔法よ!」
ブランチ・デュボア(ヴィヴァン・リー)
『欲望という名の電車』(1951)

 「ダブルバインド」で有名なグレゴリー・ベイトソンの『精神と自然』の中に出てくる話だが、"Do you compute that you will ever be able to think like a human being?"という問いに対して、コンピューターは"That reminds me of a story."と答えたという。「それは物語を思い出す」「物語に似ている」とでも訳せばいいのかもしれないが、コンピューターには物語が決定的に欠けている。クローン人間にもクローンの元になった人間の物語が欠けている。計算機やデータベースで答えられるような答えを見つける「知性」よりも、別のことを物語ってしまう「知性」の方が人間的なのである。

 逆に「僕はどこからきたの」と聞かれて「川から流れてきた」と答えられて淋しい思いをした人がいっぱいいるかもしれない。実際、昔の子供が多くが自分の親は本当の親ではないのではと思って不安にかられた。これも確かに神話の一つといえるかもしれないが、出自を更に曖昧にするという点でよくない。

 1998年2月24日の北日本新聞夕刊に次のような話が載っていた。

 小さい時、いたずらが過ぎると、母親から「お前はうちの子ではない。川から拾っ てきたのだ」としかられた人は多いはずだ。その時は本当にそう思い、欄干から川面 をじっとながめていた記憶がある。

 高岡市民病院精神神経科医長の武内徹さんが、この「お前はうちの子でない―」と いう言い習わしについて全国調査した。アンケート結果を富山県教育女性連盟の会報 『東風(あゆのかぜ)』で紹介している。一万一千人余から回答が寄せられたというから、全国共通の言い習わしのようだ。

 こう言われて「悲しかった」と言う人もいる半面「どうとも思わなかった」と受け 止めた人も多い。親に絶対的権威があった時代、子供は「親の言うことは当たり前」 と思ったのか。それとも多少のことには動じないたくましさが昔の子供たちにあった のか。

 三人に二人の割で、拾われた場所は「橋の下」だと答えている。なぜ、橋の下なの か。親の悪い因果が子にうつらないように、子供を一度捨てる習慣が秀吉の時代にあ ったそうだ。わが子を捨てるとなれば、雨風をしのげる場所をと考えるのが親心だ。 その場所が橋の下だったのではないかと、武内さんは推測する。

 昔の親は忙しいうえに貧乏。言葉を選んでしかる余裕などなかった。「川で拾った 」などというどぎつい言い方が適当かどうか問題はある。けれども、親子の固いきずなを感じさせる言葉だ。いまは親も先生も子供の顔色を見ながらしかっている。かわいがるだけでなく、厳しい態度で子供に接することも子育てには大切だ。

 僕はそうは思わない。親子の関係性を否定する話だからだ。この話には夢がないからだ。僕自身、すごく嫌な話だった記憶がある。膝に痣があって、姉たちにそれはもらわれてきた子の証拠だといわれた。

 逆に科学的だといって「お母さんのお腹には穴があって…」などというのは「お母さんのおしっことウンチの間から生まれてきた」と答えるのと同様、間違っている。

 人間はおしっことウンチの間からは生まれない。神様が地上に送ってくれたものだ。コウノトリが運んでくれたものだ。そうでない子はキャベツ畑で生まれたのである。

 「太陽と真実はまともに見ることができない」という言葉がある。

 生理中だと平気でいう女子学生がいる。そんなこと知りたくもないし、知って何かができる訳ではない。隠していてほしいし、他に婉曲ないい方があるはずだ。熾烈な業界なのかもしれないけれどコマーシャルも止めてほしい。

 学校では愛を教える前にコンドームを教える。性教育が足りなくて妊娠させられた女性を知っているが、科学的知といってコンドーム教育を推進するのは嫌いだ。いや、「寝た子を起こす」かどうかという議論の前に間違っている。

 言葉には事実、虚構、ウソ、禁句がある。

 神話は「虚構」、「物語性」と言ってもいい。虚構をうまく使えば、自分で考え出す知恵をもつ右脳が活発に働くといわれる。

 最近の日本人は事実を理解する左脳しか動いていないようだ。

 一戸当たりの家具・道具の数や一人当たりの貯蓄高が世界一多いのに、夫婦の対話時間が一日わずか二分三十秒、世界一少ない。テレビなどの情報で考える力が失われ、同じ流行に流される。そして富山県は生活統計から日本一豊かだといわれるが、実感とはほど遠い。

 金持ちだけど、心が貧しい。

 左脳から出る言葉はナイフのように切り刻むだけである。

 右脳の言葉を使って豊かな人生を送るべきだ。

 顔色の悪い友人に「ガンで死んだ、うちの兄貴と同じ顔色だね」などというと本人はショックだ。これは左脳だけで答えているからだ。相手に対する思いやり、というか想像力が欠如している。

 その時は「(自分が)ちょっと立ちくらみしましてね」と作り話をして、やんわりその話題にもっていく。すると相手が自ずと病気の状態を語ってくれる。

 歌の下手な人に「下手だ」というのは真実すぎる。かといって「上手だね」というのは見え透いている。しかし、「心がこもっていましたね」というのはウソではなく、虚構だ。

 外出する前に化粧で遅くなる妻に「何やってるんだ、どれだけ化粧してもブスはブスだ」というか「何やってるんだ、それ以上、きれいになってどうするつもりだ」というのと言っていることは同じでも相手の印象が随分と違ってくるはずだ。もしかしたら本当に美人になるかもしれない…。

 「がんこで無口な夫」でも、出掛ける姿を「背筋がピンとして若々しく見えた」と奥さんが言えば、夫婦円満になるはずだ。

 ウソは常備薬で、真実は劇薬である。

 上手な言葉の選び方が大切だ。言葉をいっぱい持っているのだから、大いに使おう。

 ただし、「しんどい」「ダヤイ」(富山弁)は禁句である。伝染病のように家族に広がる。

 「ダメな子ね」というのは禁句で、人格を責めず、行為を責めるべきだ。「そんなことをしたらダメでしょう」というのが正解だ。

 言葉は魔物である。言葉一つで病気も治れば、ひどくもなるからだ。

 そして、何よりも言葉はタダだ。

 どれだけヨイショしてもこちらのお金が減るわけではない。太鼓持ちになってしまったらダメだが、誉めて誉めて誉めて人を動かせばいいのだ。

 子どもも誉めて誉めて、育てるのがいいのだけれど、「誉める」のと「おだてる」のと違う。「お前は世界一の美人だ」とか「ノーベル賞級の天才だ」といってもウソに決まっているので止めた方がいい。傲慢な人間を作るだけである。

 しかし、一歩一歩進歩している姿をちゃんと見て誉めてあげなければならない。

 そのためにはちゃんと子供たちの成長を観察していなければならない。

想像力は知識より強い
神話は歴史より説得力がある
夢は現実より心を動かす
希望はつねに経験に勝る
笑いは悲しみをいやす唯一の薬だ
愛は死より強い       ------ロバート・フルガム

 「神話的知」と「科学的知」というものがある。簡単に表にまとめておく。

 男性の脳と女性の脳の大きな違いは女性の脳梁が太い、ということである。右脳は感性や直感を扱うし、左脳は論理を扱うがこれをつなげる脳梁が太い、ということは右脳と左脳が一体化しているということだ。つまり、感性と知性が混在していて、より単純にいえば、女性は感情と論理を混同してしまうということだ。

 ただあくまで全体的な傾向を述べただけなのでめくじらを立ててほしくない。

「科学的知」 「神話的知」
言語・論理 イメージ・画像
知性・理性・真実性 感性・想像力・虚構性
平面的・直線的 立体的・ランダム(ハイパーリンク)
合理的・現実的 理想的・ロマン的
男性的 女性的
デジタル(MS-DOS) アナログ(GUI)
明確 あいまい
言語的 音楽的・映像的
左脳 右脳

 神話的知を「臨床の知」と言うこともできよう。中村雄二郎『魔女ランダ考』(岩波書店1983)の中で「臨床の知」を次のように提唱している。

 第一に、近代科学の知が原理上客観主義の立場から、物事を対象化し冷ややかに眺めるのに対して、それは、相互主体的かつ相互作用的にみずからコミットする。いいかえれば、物事と自己との間に生き生きとした関係を保つようにする。次に第二には、近代科学の知が普遍主義の立場に立って、物事をもっぱら普遍性(抽象的普遍性)の観点から捉えるのに対して、それは、個々の事例や普遍主義の名のもとに自己の責任を解除しない。そして第三には、近代科学の知が分析的、原始論的であるのに対して、それは、総合的、直感的であり、共通感覚的である。いいかえれば、表層の現実だけでなく、深層の現実にも目を向ける。

 神話作用というとかっこいいが、神話には何か絶対的なものを感じさせる何かがある。

 18世紀は絶対主義の時代で、19世紀は歴史主義、20世紀は相対主義の時代だったと目一杯、簡単に言い切れるが、この相対主義というのがくせ者である。

 言語学という学問は相対主義の権化みたいな学問で、アインシュタインも言語学者に相対主義を学んだといわれるくらいだ。

 問題は親や教師までも相対化されることである。絶対的な権威というのがなくなっている。絶対的な権威だから威張るのは間違っているが、相対化されて貶められる(おとしめられる)のはもっと間違っている。関係性を保っていれば相対化するのも構わないだろうが、関係まで断ち切ってしまう。

 いくらなんでも「ちゃんと勉強しないとお父さんみたいになるわよ」という母親はいないはずだが、早期教育熱を見ていると、そのように感じることがある。

 労組の委員長(97年度)をしている僕がいってはいけないことかもしれないが、教師も聖職とは思わないが、普通の労働者ではない。

 子供の前で先生の評価を下す親がいるが、間違いだ。

 教師にも間違いがあるだろうが、それは子供のいない場面ですべきである。

 三船敏郎は『用心棒』や『椿三十郎』などの映画の中ではものすごくかっこいいが、私人としたら離婚をしたり、会社が倒産したり、みっともなかった。

 でも、そんなことを知りたくはないし、放っておいてほしい。本人の本意ではない。

 原節子もしかり。

 テレビはタレントの楽屋落ちの話ばかりだし、ドラマもNG番組がすぐに作られるし、何かあると大スキャンダルにされる。

 相対化の必要なこともいっぱいあるが、子どもは規範で、絶対的な権威で育つのだ。子どもは善の部分もあるが、悪の部分もあってはじめて子どもなのだ。社会的・文化的存在というのはそうした社会や文化を親が教えなければ育たないということだ。

 真実と神話とどちらかが大切なのではなく、どちらも車の両輪のように大切にしなければならない。

 想像の中で過ごしている人がいたらそれはロマンチストではなくて現実に対応できない人である。

 逆に現実ばかりに眼がいって理想を追わないのは人間として淋しい。

 小説や詩歌などでも感性だけの作品はつまらないし、知性だけの作品も読めない。

 例えば、童謡で説明すると、野口雨情の「シャボン玉」は感性だけで鑑賞することができる。虹色に光るシャボン玉が空に飛んでいく姿はそれだけで絵になる。ところが、これが子供が亡くなった時の哀しみを思い出しながら描いた作品だということを知れば(つまり知性で考えれば)作品が二重になって見えてくるはずである。長野県中野市の中山晋平記念館には「雨情が旅先で二歳の娘の病死を知らされ、その悲しみを詩に込めた」と解説してあるという。

 ただ、娘が亡くなったのは詩ができた二年後という説もあるし、歌手の高石ともやは「間引きの歌」と考えている。ある人から「間引きで死んでいった子どもの歌だ」と聞かされたのがきっかけだ。高石の父親が生まれたのは、間引きが行われたこともある岩手県の山の中。高石も極貧の中で誕生した。父親はとてもかわいがってくれた。が、自分の間引きを考えたこともあったのではないか、という(『唱歌・童謡ものがたり』岩波書店)。

 感性だけで鑑賞するのも知性だけで解読するのも双方が必要だ。

 理性だけだと他人の痛みが分からない。感性、想像力がなければ分からない。ルソーが『エミール』でいうように「ひとり想像力のみが我々をして他人の苦しみを感じさせる」のである。
    

 感性を磨こう、というとすぐに音楽や美術に憧れる人がいる。

 妻が声楽家なので「音楽っていいねぇ、感性を育てられるから…」とよく言われるが、感性を磨くための道具としてしか音楽を見ていない人が実は多い。

 音楽を楽しむこと自体が情操なのに情操「教育の手段」だと思っているのだ。

 同じ音楽でもクラシックが情操にいいとされる。でも、クラシックというのはヨーロッパの民族音楽の一つで、日本の民族音楽である民謡や演歌と同等なのだ。

 感性というのは何よりも個性を認めることで、つまり、同じクラシックを聴いても感動する人もいれば、よけい嫌いになる人もいる。みんな違う感じ方をしているということを知るべきである。

 日本人が世界のコンクールで優勝することが多いが、実は音楽というより音「学」としてお勉強した結果ということが多い。優秀であることは誰もが認めるが、音楽性に乏しいというのが一致した意見である(僕の意見ではないし、優勝すること自体すばらしいとは思うが)。

 つまり、音楽を楽しんでいないで自己鍛錬、切磋琢磨の手だてだと考えている日本人が多いのである。こうして音楽の授業が楽しくなくなり、一部の人だけがテクニックというか知性で成功するのである。

 「機械の中の幽霊」という話がある。機関車を見て「これは幽霊だ」というのは想像力の賜物と思う人がいるかもしれないが、実は想像力の欠如なのだ。つまり、幽霊と言った時点で何も生まれない。ちょうど動物行動をすべて「本能」で説明するようなもので何も説明していない。「それをいっちゃ、お終めぇよ」なのである。

 本当の意味での想像力が欠如しているから眠っているアヒルを見て「電池が切れているんじゃない?」と聞くのである。

 マンガのキャラクターは想像力を喚起するものではない。かつての映画やテレビのスターのように自分が体験できないことを体験してくれるような存在でもない。子供たちにとって、現実もマンガも同じようなもので、人気キャラクターに定期的に出会うことが快楽になっている。

 人が楽しいと思うことには二つの方向がある。新しい体験、探索の楽しみと、すでに体験した快楽を繰り返す楽しみである。想像力は前者の楽しみにつながる。定期的に同じ人気キャラクターに出会う楽しみは後者である。それは大人の快楽、老人の快楽とよく似ている。
------野田正彰『漂白される子どもたち』(情報センター出版局1988)

 想像力とか感性というのはネギやタマネギ、大根などにも命があることを知ることである。うちのおばちゃんは家庭菜園を持っているが、いろいろな野菜が土から手に入る。その様子を見るだけで野菜というものがスーパーに並べられた缶詰と違うことが分かるはずである。そして家の中でも育ててみようと考え始めたら、育っているのは野菜だけでなく感性だということにも気付くはずだ。

 『沈黙の春』で環境破壊を警告したレーチェル・カーソンは『センス・オブ・ワンダー』という本の中で「世界の子供に生涯消えることのないセンス・オブ・ワンダー(神秘さや不思議さに目を見張る感性)を授けてほしい、「知ることは感じることの半分で重要ではないと固く信じている」と述べている。

 大人は子供たちに知識を与えるだけでなく、自然から学び感じたことを伝え、子供たちと感動を共有できるようにならなければならない。

 今の子供たちは自然から乖離されてしまっている。あまりにも人工的な空間に生きている。自然を取り戻すのが一番いいが、もっと自然と親しむようにすればいい。

 大人の感性を眠らせてはいけない。大人こそが感性を、想像力を働かさなければならないのである。感受性を枯らしてしまって、他人のせいにしてはいけない。

 ところで、最近、何かに感動しましたか?

 他の人とは別の感動はなかったですか?

 本当の想像力というのは機関車の中の機械を推論・考察することである。決して知性を働かすのを止めることではない。感性を働かすには知性も必要なのである。

 新しく創造をするためには感性だけでも知性だけでも足りない。例えば、音楽は感性だけではダメだし、知性だけでもダメだ。やたらオペラに詳しい人がいるが、好事家というもので実際の演奏者とは全く違う。演奏家の中でも知性を前面に出す人はダメだし、知性がない演奏家もダメだ。うまく絡みあっていないといい演奏が生まれない。

 創造というのは想像力と理性との共演の中で生まれてくる。

「新しくてたった一つしかないものをつくるのが、創造的なんじゃない?」
「だいたいそんなところだね。創造は想像力と理性の微妙な共演から生まれる。理性がしゃしゃり出て想像力の息の根をとめるのはよくない。想像力がなければ新しいものはなにも出てこないんだから。想像力はダーウィン的なシステムだと思うよ」【…】

「…発想の突然変異は、あとからあとからぼくたちの意識に出てくる。もちろん、あまりきびしく検閲しなければの話だけど。でもそういう発想のうち、ぼくたちが実際に取り上げるのはほんのいくつかだ。ここは理性の出番だ。理性には理性の大切な機能があるんだよ。その日の獲物をテーブルに並べたら、選別するのを忘れちゃいけない」【…】

「…想像力は新しいものをつくりだす。でも選択は想像力の柄じゃない。想像力は構成はしない。構成は、まあ芸術作品はみんな構成作品なんだから、芸術作品は、と言ってもいいんだが、想像力と理性の驚くほどみごとな共演から立ち上がるのだ。感覚と思考の共演と言ってもいいけど。創造のプロセスに偶然はつきものだ。そういう偶然の思いつきを封じこめないことが重要な段階はある。太った羊を集めようと思ったら、いったんは野原に放ってやらなければならないんだ」
   ------ヨースタン・ゴルデル『ソフィーの世界』

 戦後、民主主義教育、科学教育といって神話や童話が否定されたことがあったが、どちらも子供たちには必要なものだ。

 トトロが今の子供たちの心に中に生きている。もちろん、それはウソだということも知っている。知っているけれどいてほしい、と願っている。

 子供たちに色々なお話をしてあげることが大切だと思う。

 もちろん、物語が話されないのは昔と違っておじいさん、おばあさんが身近にいないことも関係がある。また、地域の古老というのもおらず、誰も語ってくれなくなったことにも原因がある。『遠野物語』ならずとも何でもいい、昔話とか土地の伝説とか、言い伝え、ホラ話などがいっぱいあったはずだ。

 僕が心がけている、というか子供らにせがまれて毎日していることは昔話や童話を寝る前に聞かすことだ。

 毎日違った話をしている。

 というとびっくりされるが、なぁに、桃太郎なら桃太郎で雉や犬や猿をポケモンに代えたり、ミッキーマウスの桃太郎が鬼が島に捕まっているミニーを助けに行く話にしたり、流れてきたのはカプセルで桃太郎は宇宙人だったという話にしたり、桃太郎が途中で浦島太郎に変わったり、ということで変化をつけている。「語りの構造」narrative structureがしっかししているから何とでも変化させることができる。

 土地の話にすることもできる。「昔、この辺りは松原があって、そこに天女が…」でもいいし、「昔、天から白い布が降りてきて、何だ、何だと引っ張ったら、仙人の褌だった…」などでもいい。

 不思議なもので子供たちはゴジラとウルトラマンが一緒に出てくるのは好まない。二つを全く別の世界だと知っているのである。主人公が二人もいたらよくないことくらい分かっているのだ。

 これは僕のオリジナルではなく、イタリアの童話作家、ジャンニ・ロダーリのいう「ファンタジーの二項式」というものである。二人の人に別々に思いつく言葉を書かせて、同時に紙を開け、この二つの言葉を組み合わせて物語を作ってみよう、というものだ。二項式というと難しそうだが、日本では古くから三題噺というのがある。寄席の客からいろいろとお題をいただいて噺を結びつけたものだ。それをちょっと工夫すればいい話だ。

 ロダーリの話を基にもっと具体的にいうと次のようにまとめられる。

 

 なお、話がうまく続かなかった時には「続きはまた明日」で終わることにしている。

 『シンデレラ』や『白雪姫』のおとぎ話は、主人公が困難を乗り越え、王子が出会 って結ばれる「ハッピーエンド」の筋書きだ。

 現代の童話やおとぎ話の本は現実をぼかし、美しく、かわいらしく描いてある。元々、おとぎ話は残虐で、 差別や偏見に満ちていた。『シンデレラ』のガラスの靴は中国の「纏足(てんそく) 」と同じで、女性を「愛がん物」にする発想だし、『赤ずきん』は「間引き」や「姥 捨(うばすて)」が、『マッチ売りの少女』は「少女売春」が根底にあるといわれる。

 時代背景やとらえ方を自ら勉強し、子どもにも調べさせようという人がいる。「(差別や抑圧から)自由になるた めには、不自由な自分を自覚しないといけない」。自覚することがすべての出発点と いうわけだ。

 しかし、僕は間違っていると考える。子どもに夢を与えなければどうするのだ。サンタを信じさせなければいけない。いつか夢の破れることがあっても、夢を見ている心を取り戻せばいいのだ。真実を語ることを本当の科学教育だと間違えてはいけない。ファンタジーの嘘は大人になってからいくらも調べられるし、知性で理解できる。

 星座は人間が勝手に想像したもので星が勝手にまとまっているのではない。でも、空に星座を見つけることによって、自分でまとまりを見つけることによって、天文学者は育つのである。星をバラバラに見ていては決して生まれない。

 早速、騒がれることは「心」の教育、というのだが、「心」だけを部品のように取り出して教えることはできない。

 ファミコンやパソコンのCD-ROMなどもお話である。同じバーチャルだから同じではないか、という反論もあろう。しかし、こちらは手作りではない。同じように操作すれば同じ反応しか帰ってこない。

 親が、人が話すのは違う。少なくとも愛情を持った暖かい言葉はナイフをも溶かす。

 それは神話や童話、物語というのは人づてに伝えられたものだからである。

 子供には愛情を与えるだけ与えればいい。

 それがモノやお金をあげることとは違うということだけは知っていてほしい。

 知識よりも感動を!


※この文章は「父性の創造」と対をなすのでよかったら読んでください。

 感性と簡単にいうが英語ではSense and Sensibilityということができる。そしてこれはジェーン・オースティンの小説の題名で『いつか晴れた日に』として映画化された。この映画はSense(分別)をもつ姉とSensibility(多感、感受性)な妹の間の愛の確執を描いたものだ。

 神話の必要性は他にも河合隼雄さんの『おはなし、おはなし』(朝日文庫)を読んでもらえばいいと思うが、ここでは僕なりの考え方をまとめておいた。ちゃんと読めば分かるように僕は国粋主義者ではない。悪しからず。

 なお、後で知ったが、河合隼雄は20年近くも前に「神話的知の復権」とか「中空構造日本の危機」(『中空構造日本の深層』中央公論社)の中で神話の大切さや父権復興論の落し穴ということを書いている。


●おかあさん塾(声のかけ方や名言があるので是非見て下さい。)


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