「そして理想というようなものも持ちあわせてないんでしょうね?」
「もちろんない」と彼は言った。「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想ではなく行動規範だ」
-----村上春樹『ノルウェイの森』
★「親って何だろう?」
今日、「親って何だろう?」という演題を与えられましたので、自分自身の家族に対する考え方、親というものに関する考え方を少しお話ししたいと思います。
ただ、今日の大きなテーマの一つである「心の教育」というのには必ずしも賛成しませんし、出席者を各団体に割り振ってこうしたイベントを行って、心の問題と家族について考えた、というのはあまり感心しません。
文部省は心の問題というのを家族に押しつけようとしていますが、例えば、30人学級や内申書問題、大学入試制度など父兄からの要望などをもっと聞くべきで、ただ大変な時代だから知恵を出せ、というだけではいけないような気がします。文部省の改革は大学入試で典型的なように、直せば直すほどおかしくなってきます。内申書でがんじがらめにされているせいであんなに中学生にストレスがたまるのではないかと思います。
心ってどう考えればいいのでしょう。神戸の「酒鬼薔薇聖斗」君に道徳教育を施してもダメで、彼の場合は精神医学的な「心」の問題があると思えます。大人の方に問題が多い場合もあって、社会的にも「心」を考えるべきで、決して家族だけで考えられるものではありません。学校の先生がみんなカウンセラーになったら大変です。カウンセリングというのはみだりになるものではありません。神戸の事件でもカウンセラーのあり方が問われた通りです。
そのうち、家族の「心」度というのが採点されるようになって、両親が採点されるようになるかもしれません。これは嘘ではなくて、「お受験」などで採点されるのは子供本人だけでなく、親の心がけから持ち物までチェックされるといいます。バッグもハロッズのバッグをさりげなく持っていなければならないとか、服装は派手ではないが、ブランドで固めなければならないとか…。
心まで管理されてはたまらないような気がします。
★“理想”とは何か?
さて、演題から離れるとご心配になると思いますので、ここで“理想”の家族ということを考えます。
国語辞書には「理想」とは「考えうる最も完全なもの」なんて書いてあります。
さて、最初に思い浮かぶのが学生時代、下宿していた家族のことです。僕の家はどちらかというとかなり夫婦喧嘩の多い家庭でしたが、この下宿先の家族は初めてみた幸せな家族でした。
裕福だし、二人の子供らは賢いし、夫婦円満で小さな喧嘩もみたことがありません。ただ、三五をすぎているのに二人とも結婚していません。「お姉ちゃんはあまりにも家が快適なので結婚する気にならないのだ」などと弟さんは話しています。あまりにも快適すぎて、家を出ていこうということにならない、なんて少し逆説的に感じてしまいます。もちろん、その家庭は不幸ではありません。
でも、幸福の再生産をしなければ、困ってしまいます。
僕らの時代の理想のカップルというと実存主義者のサルトルとボーヴォワールでした。結婚という形態を拒否した、まったく対等な「仲間」という男女のカップルとして理想化されていました。でも、サルトルが亡くなってからボーヴォワールはサルトルと他の女性とのつき合いに悩み続けていたことを明らかにしました。二人の「理想の関係」というのはあくまでサルトルの男の都合でしかなかったようです。
□ “理想”というのが家の状況から説明できることはわずかです。成功した人の多くが家が貧しくて、早くから働かなければならなかったし、家を出たかった、などと言っています。
ですから、幸せな家庭を作ることが“理想”の家族ではないような気がします。思い切り不幸な家庭からでも思い切り幸福な家族をもつこともできるでしょう。
家が貧しいからといって、親がだらしないからと言ってみんなが卑屈になるものでもないし、非行に走ることもありません。実際、田中角栄のように極貧だったから独学で勉強して、勉強して、あの地位を築いたといえます。
僕は小さい頃、偉人伝をいっぱい読んで、自分は絶対に偉人になれない、と思ったものです。どの伝記を読んでも、みんな見事に“不幸”な家庭に生まれていて、まあ、“不幸”でなくても後に嫌ほど苦労する、という構図になっています。
クリントン大統領も自分は「アダルト・チルドレン」だったことを告白しています。ちなみに「アダルト・チルドレン」というのは「子どものような大人」ではありません。子どもの頃に親の育て方に問題があって大人になっても心の傷を引きずっている人を指します。
日本の橋本龍太郎元総理も高知県知事とは異母兄弟で割と複雑な家庭だったはずです。山口百恵さんを始め、タレントも多くが実は“不幸”な出自だったりしますが、それをバネにして成功しているのですから、本当にすごいと思います。もっと言えば、それをよく知っていたからこそ、山口百恵さんは完全に芸能界から引退したのだと思います。
残念ながら自分の家庭はここまで不幸じゃないぞ、と非常に残念がったことを思い出しました。まあ、ノーベル賞の取れる子供じゃなかったら、それは家庭が幸せすぎた、と諦めることにしましょう。
□ 考えてみれば、“理想”的な人間なんてありえないのに、“理想”の家族を追求しようといっても無理があります。
僕らはいろいろな欠点がありますし、後悔すべきことも多々あります。感情的になってしまうこともあるし、逆に冷静になりすぎて困ることもあります。
田中角栄も総理大臣になっていなかったら、立身出世の模範として後生に名前を残したかもしれません。棺桶の蓋を覆うまで、人の人生は分かりませんし、その後、子孫がどうなるかまでは責任が持てません。
“理想”の家庭とか“理想”の親とかを考えること自体がナンセンスで、むしろ、そのギャップに悩む人を増やすだけ、罪深いと考えられます。
“理想”って難しいですね。オウム真理教の人たちだって、“理想”境を作ろうと思っていたのでしょうし、ヒトラーだって一種の“理想”境を目指していたのでした。“理想”がないと生きられないし、“理想”だけでは暮らしていけません。
厳しく育てて規律正しい子になるかもしれないし、反発してまるで逆になることもあります。楽しく育てて、明るい子になることもあれば、無責任で調子者が育つかもしれません。甘やかせて非行に走る子供もいれば、他人に優しい子になるかもしれません。悪い親でも反面教師になることさえあります。
書店に行くと『賢い子を作る』とか『3歳では遅すぎる』とか、最近では『キレない子供の育て方』という本がいっぱい並んでいます。育児書というのは『家庭の医学』などと同様に、持っていると安心ですが、読むと不安になってきます。大体、本を出すような人の家庭は僕たちのフツーの家庭とは違うと思いますし、成功した人の『私はいかにして成功したか』なんて本と同様、つまりません。その人の成功の原因というのは、途中にどんなことをしていてもそれが成功の原因になるのですから、無意味です。
僕自身も子どもは「いい子」に育ってもらいたいと願っています。切に願っています。ただ、そう期待しても、子どもがずっと「いい子」であり続けることはできません。「いい子」を期待されて「悪い子」ではいけない、という風に育てられるのはいいのですが、虫がよすぎます。ユング風に説明しますと、「いい子」ばかり期待されると、その子の悪い子の部分は全部無意識に押し込められ、つまり、「影」となってしまいます。その「影」は他の子に投影されるか、あるいはある日突然、自我のコントロールを外した形で出てくることもあります。谷崎潤一郎に『陰翳礼賛』という素晴らしい本があるように、日本人は「影」を大切にしてきたのに、家の中は蛍光灯で、外もまぶしいくらいに明るくなっています。宗教性が薄いですから、「畏れ」ということを忘れています。「影」や「畏れ」をもっと大切にしなければならないのに、明るい子に育てよう、理想の子どもにしようとばかり考えるのはどうかと思うのです。
今日は、多くの本にあるような、育児とか家庭をめぐる不安感を拭うようなお話をしたいと思います。
★父性とは何か?
今日のテーマは「親って何だろう」ですが、最近、林道義という人の『父性の復権』という本が話題になりました。しかし、今の日本の状況を見ていると大企業のトップが悪いことをしてペコペコ頭を下げたり、倒産して泣いたり、とみっともないこと、みっともないこと。
ちょっと考えれば分かりますが、彼らは戦前の家庭で育っていて、日本の歴史の中でも一番、父親の権威が高かった頃、家庭もしっかりしていた頃の子供ではないでしょうか。今の状況では「不正の復権」ということになってしまいます。
それに日本で父性が本当にあったのか、ということに関しては非常に疑問があります。社会状況から生まれた父権というのは戦前までありましたが、父性を強調するような文学や映画などはあまりなかったように思えます。
個人的な話ですが、僕は父親と50近く年が離れていたために10歳上の姉につがせようか、という話がありました。こういうのを「姉家督」と民俗学の言葉でいいますが、日本の東北を中心として後に男子が生まれようと最初に生まれた女子に家督を継がせることがかなり頻繁にありました。ちょっと前まで母系的な家族があった訳で、主な理由は農村における労働力の確保でした。これが明治民法ができると男子が継ぐように変化していきます。ごく最近のことです。
戦後、日本の社会が大きく変わったことはいうまでもないと思います。
父性は最初からあったわけでなくて、むしろ、新しい父性を創造していかなければならないと思いますが、父性って一体何だろう、と考えてしまいます。
林道義は調子に乗って『父性で育てよ!』という本も出していますが、優しい父親でなぜだめなのか?と言っていますが、これって昔のスパルタ教育の再現になりかねませんし、休日はゴロゴロしている父親が急に怒り始めても「何、一人でいきまいてるの」と馬鹿にされるのがオチです。もっと調子に乗って『主婦の復権』とかいって、今の主婦は家庭の機器が揃っているのに手抜きをしている、みたいなことを書いて顰蹙をかっています。
同じように父性を強調する学者に渡部昇一というのがいますが、彼などは家では何もできない、と奥さんに笑われています。靴下もはけない、という話もあるくらいです。身の回りのこともちゃんとできないくせに「父性」というのは矛盾しているような気がします。妻の「母性」に甘えているだけです。
□ 父親というのは人が家族を形成するにあたっての「発明」でした。 より正確にいうと、家族を持っているのは霊長類では人間だけです。特に父親がいることが違います。
全動物のうち、1%だけ親が育児に参加します。鳥類は90%くらいで、両親で餌を運びますね。小原嘉明『父親の進化』(講談社)によれば、ほ乳類でオスが育児に参加するのは2〜3%くらいで、ジャッカルやキツネの一部、霊長類ではタマリンやマーモセットが知られています。
マーモセットは親の体重の20%のが2匹(猿は普通1匹)生まれ、樹上生活をしますが、50kgの女性が40kgの子どもを持って育てるようなものです。
人間のメスはオスをいつでも引き留められるように性活性が高くて、いつも発情している(発情というのがない、というのがいいのか)から、オスはメスを他のオスに取られないようにいつも監視?していなければならないということになって、簡単にいうとこれが家族の起源ということになります。
母親であることは証明しなくても分かるのですが、父親であるか、なんて、母親以外、誰も知らないことです。自分が父親だ、と主張しても笑われるだけで、本当に父親であるためには妻からと子どもからと双方から認められなければならないのです。父性の幻想をばらまくと、認められてもいないのに、「俺は父親だ」と威張る人が出てくるから困るのです。威張る前に認められるべき努力をしなければならないということです。
だから、こんなジョークもあります。
子供「お巡りさん、助けてください、あそこで僕の父さんが男とけんかしているんです」
警官「よし分かった。……それで、どっちが君のお父さんだい?」
子供「分かりません。それがけんかの原因なんです」'河合雅雄さんというサル学者、心理学の河合隼雄さんのお兄さんですね、によれば、父親の役割は家族を守り、維持し、子育てに参加するという3つだということなのですが、みなさんの家庭ではどうでしょうか?
□ ところで、「パスカルの賭」というのをご存じでしょうか?パスカルは神を信じるか信じないか、という議論の中で神を信じるといいました。理由は神が存在しなくて信じていても損をすることはないが、神がいた場合には信じていた方がいいから、ということでした。神がいるように生きるのがすぐれた戦略だということで、一般には「信仰のリスクヘッジ」として知れているものです。小説ではこんな風に出てきます。
上野駅の中央改札口の前で、思い切って聞いた。
「ルロイ先生、死ぬのは怖くありませんか。わたしは怖くてしかたがありませんが。」
かつて、わたしたちがいたずらを見つかったときにしたように、ルロイ修道士は少し赤くなって頭をかいた。
「天国へ行くのですから、そう怖くはありませんよ。」
「天国か。本当に天国がありますか。」
「あると信じるほうが楽しいでしょうが。死ねば、何もないただむやみに寂しいところへ行くと思うよりも、にぎやかな天国へ行くと思うほうがよほど楽しい。そのために、この何十年間、神様を信じてきたのです。」
わかりましたと答える代わりに、わたしは右の親指を立て、それからルロイ修道士の手をとって、しっかりと握った。それでも足りずに、腕を上下に激しく振った。
「痛いですよ。」
ルロイ修道士は顔をしかめてみせた。
------井上ひさし『ナイン』初めてこの話を聞いた時にはなるほどと思ったのですが、論理的には間違っていると思います。もし、神がいなくて、悪魔だけがいたら、神を信じることは損になるからです。つまり、父性論者は父親を絶対視している節がありますが、父親によって家庭が崩壊することが多いのです。父親のいる家庭といない家庭を比べて、統計を取って、やっぱり父親がいた方がいい、という結論になることもあるかもしれませんが、父親がいるから家庭状況が悪くなっている部分というのは統計のどこにも表れてこないのです。
何よりも、日本は天照大神に始まるように母親の文化だったのではないでしょうか?柳田國男も『妹の力』(いものちから)というのを書いていますが、女性によって日本は発展してきたといえます。
原始からずっと日本女性は太陽だったのです。
★母性とは何か?
父親のパートナーである母親の方の母性はどうでしょうか。
スピルバーグ監督の『ジュラシック・パーク ロストワールド』では女性の科学者がステゴサウルスに母性本能があるかどうか調べていましたが、まあ、ステゴにするくらいだから、母性本能はないように思えます。
既に有名になっている本にバダンテールというフランスの女性が書いた『母性という神話』(ちくま学術文庫)という本があります。原題は“ラムール・アン・プリュ”でつまり、「つけたしの愛」ということです。
この本は1980年、パリで生まれる21000人の子供のうち、母親の手で育てられるのは1000人にすぎず、他の1000人は---特権階級だが---住み込みの乳母に育てらます。その他の子供はすべて母親の乳房を離れて、里子に出されたといいます。多くの母親は里子に出された子供の状況についても無関心だったし、また、これは貧しいからではなく、ブルジョアジーでも同様の傾向があったと書いています。生後1ヶ月の遠距離移動や無惨な境遇などで、死亡率は母親が育てた場合の倍も高かったとしています。両親に育てられても、安全ではありませんでした。繰り返し教会が禁止を命じたのですが、幼い子どもを両親と一緒に寝かすという習慣が根強く、そのために幼児が窒息死するということがたくさんあったそうです。衛生についての初歩的な注意も、母親も乳母も組織的に怠っていたといわれます。これは「家族内に子どもの数を増やさないための方法」だったのではないかという疑問をバダンテールは発しています。
何しろ、「子どもを殺す権利」があると親は思っていたのですから、教会の方も必死になってその権威を奪おうとしました。
実際、『エミール』という育児書で有名な哲学者ルソーも子供を5人、みんな捨てています。しかし、ルソーはかっこいいことを言っています。「造物主の手から出るときすべてはよい、人間の手のなかではすべては悪くなる」と言っていますが、つまり、子どもは無垢なのに、社会に出るとそうではなくなるという、革命的なことを書いています。フランスの結婚制度は日本と全然違っていますが、ルソーはテレーズ・ルパスールと同棲を始めてから23年後に籍を入れています。国民的美少女の後藤久美子はアレジと一緒になりましたが、籍を入れていないはずで、いわゆる「事実婚」ということになります。
ちなみに、フランスでは匿名出産という制度があります。一般には<マドモアゼルXによる出産>と呼ばれます。1600年頃の病院の書類に「母親の名前を無理に聞いてはいけない」と書いてあったそうで、1789年の大革命前から捨て子や子殺しの予防手段として定着していました。1993年に改正されたフランス民法典の341-1条では「出産に際し母は、その身元を秘するべきことを求めることができる」となっているそうです。ただ、子どもには自分の出自を知る権利というのがありますから、現代ではCADCOなどのNPOが反対していますから、難しくなっています。
この本に指摘されなくとも、日本では子供を「戻す」とか言って、川に流したり、捨て子をすることも、浄土真宗の強い北陸は別として、割と多かったのではないかと思われます。
皇室も同様で、現在の天皇は確か、小さい頃は親から離され、乳母に育てられています。ただ、忙しいからではなくて、小さい頃は他の家で育てることが当たり前でした。
明治天皇は子供を十人も持ったのですが、大正天皇以外はみな亡くなっています。これは乳母のおしろいなどに含まれる水銀が原因ではないかといわれていますが、いずれにしろ、模範とすべき皇室がこうした状況でした。大正天皇が“病弱”だったことはみなさん、ご存じですね【2000年に原武史『大正天皇』朝日選書という大正天皇を再評価する本が出た】。
日本の一般家庭で母親が育児をするのが当然となったのは大正時代あたりだと言われています。非常に新しいことなのです。
今の少子化の時代からすると子供を離して育てるなんてよほどの事情がない限り考えられませんが、僕らの小さい頃まではもらい子なんていうのは日常的でした。実際、姉も子どものいない親戚からもらえないか、と言われたことがあります。
「ママァ、ママァ」
子供たちの粘っこい声が階段の下から絡みついてきた。
春代は二階の踊場に立ち止り、子供たちを見おろした。昨日井川俊明のことを耳にするまで、あれほど愛情をさしむけていた子供たちを、いま、これほど無関心に見ている自分を意識する。子供たちは見知らぬ厄介な動物のようだった。
本当に男にかかわる時、母性など無に等しいのだわ。
と、春代は呟いた。
-----高橋たか子『ロンリー・ウーマン』□ 全く余談になりますが、哲学者のガダマーは人や時代や地域によって異なるものの見方や感じ方を「地平」と呼びました。フランスや日本で簡単に子どもを捨てていた、というのは今の僕らにはショックなのですが、道徳や倫理、それから真理も含めて、これらは文化によって大きく異なってくるものだということを忘れないでもらいたいと思います。
小さい頃、ショックだったのに、「白雪姫」が毒リンゴを死んでからガラスの棺桶の中に入れられて保存されていたという部分がありました。もちろん、きれいだから、という納得の仕方はできるのですが、それにしても、腐っていったら恐ろしいだろうな、と思いました。
実はゲーテの小説にも若くして死んだ少女を悼んだ恋人が、遺体に防腐処置をしてガラスケースに入れ、身近におくシーンがあります。ゲーテには美しい行為かもしれませんが、現代の、特に日本人には全く理解できません。不可解です。
「愛する者を弔う本当のやり方は何か?」という問いをガダマーは「偽の問い」と言っています。どこに回答があるか分からないのが本当で、これを「真の問い」と言っています。僕らはこうして、分からないものを抱えながら、さまざまな「地平」を融合しながら、他者を理解していくしかない、とガダマーは考えました。文化というものをそんな風に見てもらいたいと思います。
□ 母性というのはバダンテールに指摘されるまでもなく、近代社会の、特に工業化社会の産物です。男は仕事に出るから、女は家で子供を育てていろ、というイデオロギーを感じます。
嘘だ、私には母性本能があるという方もおいでだとは思いますが、むしろ、こうした考え方が女性に育児を押しつける制度として女性を抑圧しているのではないかと思います。
母親が一人で子供を育てる、大事に育てなければならないという状況は戦後社会の、いわゆる「核家族」が増えてきた結果で、それまでは大家族の中で、おばあちゃんたちがいましたし、大きくなった子供が小さな弟や妹の面倒をみるのも当たり前でした。夫の両親と同居する家族は「継承家族」とか「一子残留型直系家族」と専門的には呼ばれるのですが、富山はまだそちらの方が多くて、経済的にも教育的にも人間関係的にも優れた点があります。「核家族」のおかげで、社会性が希薄な子どもが多くなったような気がします。
今の女性は高等教育を受けて会社に勤めていたのに、結婚後は社会から隔離されて、親元からも離れて孤独に子育てをしなければならず、これが「育児ノイローゼ」の引き金にもなっています。不安を拭うといいながら、実は煽るようにさまざまなマニュアルが出ていて、最近では「公園デビュー」の仕方なども騒がれています。
しかし、育児雑誌の「新しい育児法」とか「正しい育て方」などというのに惑わされてはいけないと思います。
育児雑誌はいつも「新しい」子育てを特集していないと、活力を失い、雑誌ではなくなります。「新しい○×」の多くが商業主義から生まれてきています。一応、眉に唾をつけて読む必要があります。
ウソだと思う人がいるかもしれませんが、うちの長男が生まれた時にもてはやされた「うつ伏せ寝」が典型的だと思います。日本で騒がれている時に、アメリカでは既に下火になっていたようですが、「うつ伏せ寝」さえすれば、賢くて丈夫な子に育つし、何よりも日本人に多い「絶壁頭」にならない、なんて書いてありました。
今は、「うつ伏せ寝」を止めようというのがアメリカの主流、どころか、真剣に取り組まれている問題です。突然死との関係が強いことなど危険が多すぎるからです。
□ ところで、動物行動学などで「本能」という言葉はあまり使われません。この言葉はワイルドカードというか、何でも本能にしてしまえば思考停止というのか、説明が終わってしまうからです。何も説明していないことになるからです。人間が戦争を起こすのは「闘争本能」があるから、なんて説明は動物との違いを説明していないし、何も解決しません。
動物には「本能」があるだろうといわれますが、チンパンジーなど高等な霊長類は「本能」がくずれています。中学生の頃、『青い珊瑚礁』という男の子と女の子が孤島に取り残されて…という小説を読んで【何度か映画化】セックスできるのかなぁと心配だったのですが、飼育されたオスのチンパンジーはセックスができません。学習しないとダメなのです。チンパンジーのメスも最初の子どもはお乳がうまく出ないこともなって、死なせてしまうことが多いそうです。2番目の子どもは学習して、他の母親の子育てを見て上手になって育てていくのです。
□ 毛利子来・橋本治『子どもが子どもだったころ』(集英社)では二人とも母親に対して壮絶な思いをもっています。毛利は病弱のお母さんから「殺してやる」とハサミを突きつけられたことがあるといいますし、橋本は妹ばかりかわいがるお母さんにディズニーの「悪いお妃さま」をいつも思い起こしていたといいます。
つまり、「純真無垢な子」がいないと同様に、無機質なマドンナというか「慈母」というのは存在しません。ませたガキと癇癪持ちの母親との相克が互いの人格を形成していくのです。
大日向雅美も『母性は女の勲章ですか?』(産経新聞社)の中で疑問を呈しています。「石女(うまずめ)」という言葉があったり、「早く孫を抱きたい」という期待があったり、子供がいないと知ると「どうして?」などという無遠慮な質問があったり、不妊治療で屈辱的な思いをさせられたりして女性としてのアイデンティティが問われるのです。
□ ところで、バダンテールは同じアナール学派であるアリエスという学者の『<こども>の発見』(みすず書房)という本に影響を受けています。『<こども>の発見』というのも今の僕たちから見れば発見しなくても子供は目の前にいるじゃないか、と思うところですが、17世紀までは子供は小さな大人としか見られていなくて、庇護すべき対象とは考えられていなかったのです。ヨーロッパでは「子ども」が成人の保護を必要とする可憐な存在という概念を獲得したのは、近世以後で、それまで、子どもは「小さい大人」「能力の低い大人」「重要性の低い大人」(mineur)として扱われていたのです。
フランスの歴史の中での親子関係をみた場合に、中世以後、長子があととりとして予定された貴族階層以外の、一般民衆の親子関係の実態は違っていました。アナール学派によれば、17世紀まで、子どもたちは親の手によって教育されたのではなく、7〜8歳に達すると、村落共同体の中でおとなといっしょに生活し、働いたり、あるいは徒弟奉公に出されるなかで生活者としての教育を身につけるように仕向けられるか、軍隊や修道院に送り込まれ、生涯親もとに帰って来ない者もいたそうです。ここでは、子どもがおとなと同様に働き、広義の手伝いという一定の社会的役割を果たすことが期待されていたのです。
これは「アリエス・ルブランのテーゼ」と呼ばれるのですが、アリエスと人口歴史学者であるフランソワ・ルブランが乳幼児の死亡率の「変化がまた人びとの意識と態度の変化をともなうことを明らかにしている」からです。杉山光信(「『子ども』の思想史『現代哲学の冒険2 子ども』岩波書店1991)は次のようにまとめているのでみてみましょう。
第一のテーゼは、子ども期の意識があらわれる一七世紀以前の古い社会にかかわる。この社会は子ども期や少年期の観念をもっていない。幼児の段階をこえ、身のまわりのことが行えるようになり、身体的に大人となったと見なされると、直ちに大人の社会に組み入れられ、仕事や遊びでも大人と一緒にされていた。ということは、今日、社会化の用語のもとでいわれる価値や規範の伝達は、家族を介してなされるというより、大人と一緒に働く場での徒弟的な修行の場所で行われていたことを意味する。子どもが家庭にとどまる期間はあまりにも短く、それゆえ子ども期の体験の思い出をもったり、特有の感受性をもったりすることはなかった。幼児については、小さな動物に対するのと同様にかわいがったり甘やかすことはあったとはいえ、それほど大切にされたわけではない。子どもが死んでも、一般的にはうぐ代わりの子どもが生まれてくると考えられていたから、子どもはひとりひとりかけがえのない存在とみられるのでなく、代替可能なものとされ、一種の匿名状態にとどまっていた、というのである。
第二のテーゼは、一七世紀から一八世紀以後のいわゆる子ども期の発見以後の家族にかかわる。この時期以後になると、ブルジョワ階級や開明化された貴族の家庭内では、それ以前の街路の生活がそのまま家庭内に入り込んでいて家族や友人や召使いを抱えこんで一緒にすごすような生活をやめ、夫婦と直接の子どもしか含まないものになっていく。そこでは、子どもはとくに母親により大事にされかわいがられ、他ととりかえようのない個性的な存在として扱われ、父親は子どもの人格を開花させようとして、学校教育などに様々な配慮を払うようになる。啓蒙の世紀はまさしく近代国家の誕生の時代であり、この時期以来、今日まで続く夫婦と子どものあいだの愛情や家族としての情緒的関係がとくに重視されることが始まる、というものである。
フランスでは17〜18世紀に、親子間に顕著な変化が生じ、今日の親子に近いものになります。このころから、子どもはひとつの人格として尊重されはじめ、子どもの間で財産を均分する慣行が一般化し、小学校などの学校制度の発展により親は子どもを就学させ、子どもたちは家庭にとどまるようになります。
生残りのための戦いという日常の営為から最初に解放され、19世紀には支配的な階層になったブルジョア階層の家庭での親子の感情の交流が親子関係のモデルとなり、家庭での子のしつけや家庭教育などが重要視されはじめ、近代的な親子関係が形成されていったのです。
グリム兄弟が民話の採集を始めた19世紀のはじめ頃から、「愛し合う家族」という近代的な家族概念が定着し始めました。過渡期ですから、グリム童話の原話の多くが恐ろしい内容だったにもかかわらず、「実母」が「継母」に、「子捨て」が「親が意図せずに、偶然に、極めて危険な状態に子どもを放置してしまう」という屈折した状況に変えられてしまったのです。
□ 日本でも似たような状況があったことは確かで、丁稚奉公や女工哀史に見るまでもなく「口減らし」に方向に出されることも多く、親は子供に対してそれほど親和的ではなかったといえます。服藤早苗の『平安朝の母と子:貴族と庶民の家族生活史』(中公新書1991)などが詳しいですし、面白いと思います。
中世のおとなたちは、子どもたちを自らとは離れた別の世界の存在とみていなかった。【…】このことは、おとなの世界から離れた別個の世界(社会)をつくり出して、子どもをその楽園に誘導して自由に振る舞わせることを許さなかった。【…】いわば、子どもを「小さなおとな」としてとらえていたのである。ここに中世児童観の最大の特色があった。武士の子はいつでも戦場に、公家の子はいつでも晴れの儀式の場に、庶民の子は常に農・工・商の場に立ち、身をもって親や家族に代るべきものとされていたのである。
------結城陸郎「乱世の子ども」(『日本子どもの歴史2』第一法規1977)詳しく話すとちょっと長くなるので端折りますが、父性にしろ、母性にしろ、子供にしろ、最初から与えられているのではなく、近代社会が発見・発明したものなのです。もしかしたら、「人間」というのも近代の発明なのです。当然、母親や父親の役目にまるで違っていました。
ただ、慌てて弁解をしなければなりませんが、父性や母性が新しい発明だ、幻想だといっても、人間には愛情というものがありますから、その愛情まで否定している訳ではありません。幻想だからといって父性や母性が、それ自体で悪い訳ではありません。ディズニーランドへ行って、これは幻想だから、仮想現実だからといっている人には楽しむ権利がないのと同じです。
強調したいのは、自分は男だから父性を、女だから母性を持たなければならない、そんなものを感じない私はおかしい、というような気持ちに陥ってはいけない、ということです。
【アリエスの議論についてはポスト・アリエスの子どもの社会史研究が多く出され、中世西欧の親が子どもを愛さなかったというのは間違いとしている。中世西欧の親も我が子の死に慟哭し、断腸の思いで我が子を徒弟奉公に出したのだ---ポロック『忘れられた子どもたち---1500〜1900年の親子関係』勁草書房】
★家族とは何か?
さて、家族というのも絶対ではありません。世界の文化を見ますと、様々な形態があり、しかも急速に変化を遂げています。家族を定義することさえ難しくなっています。
一つの例が、日本の国民的美少女と呼ばれた後藤久美子は結婚するが籍は入れないといっていて、しかも、フランスではそれが普通の家族のあり方とされています。
パリでは住民の50%が単身者。ヘテロ、ホモの非婚同棲カップル、友だちどうしのコミューン、子連れ再婚カップルなど多様な家族形態が展開していて「お父さん、お母さんにこどもたち」という典型的な核家族は少数派になっています。
変化も急激で、特に戦後日本の変化が一番大きいといえるかもしれません。
日本の「伝統的な」家庭というのがあると考える人も多いのですが、昔からのものと考えている、日本の家制度は1898年(明治31年)の民法(「明治民法」と呼ばれる)施行によって生じたものでしかないのです。この時の近代日本は帝国主義と一緒に、ヨーロッパ風の性差別主義をまねて、女性を「無能力者」とすることによって家事と女言葉に閉じこめたといえます。
ですから、間違っても「昔の日本はよかった」風の議論になってはいけないと思います。
ルキノ・ヴィスコンティの映画に『家族の肖像』というのがあります。家族を持たない学者がそんな絵を収集するという話なのですが、アリエスは『<こども>の発見』で「家族の肖像」という画題への好みは「家族意識」と不可分で、この「家族意識」は中世においては認識されておらず、「十五、十六世紀に誕生し、十七世紀に決定的に定着して表現されるに至っ」たと書いています。
アリエスによれば、「食事をしている赤ん坊を両親が甘い笑顔で眺めている」という図像が有意的な記号として認知される、つまり普通の行為だと思われるようになるのは、十八世紀末以前には遡れないといいます。家族の起源というのは非常に新しいものです。まして、「核家族」というのは日本でまだ数十年しか経っていません。
時代によって、幸福も不幸も違うのですから、不幸な結婚もあれば、幸福な離婚もあります。どんな家族が幸せかなどというのは実にナンセンスな問いです。つまり、家族をめぐる社会的な要因があまりにも変化してきています。
□ 例えば、次のようなことがあげられます。
どうして、こんなに忙しくなってしまったのでしょう。昔はテレビも何もなくて、読書するにも本が多くなかったのに、それなりに暮らしていたはずです。今は洗濯機に電子レンジ、便利なものはいっぱいあるのに時間に追われています。
親の職業を継ぐのが当然だった頃は、親は背中を見せていればよかったのですが、いつの間にか、親は乗り越えていくべき存在になっています。実際、「お父さんのようになってはいけないから勉強しなさい」と言葉に出さなくても、そんな見えない圧力が感じられる家族もあるはずです。
昔は出張の帰りにおみやげを買ってくるだけで父親の権威が保てたものですが、ハレとケ、つまり、お祭り騒ぎの日と日常が区別できなくなってきた今日では何かに感謝されることも少なくなって来ています。実際、うちのおばあちゃんはお祭りになると煮物を作るのですが、昔はごちそうだったのでしょうが、今どきの子供は「どうしてお祭りなのにまずいものを食べなければならないのか」と思うことでしょう。
心をモノで買うことができるのは貧しい時代だけのことです。豊かになれば幸せになれる、なんて信じていた昔が懐かしくなってきますが、モノの豊かさは心の貧困を招きます。「衣食足りて礼節を知る」という論語の言葉は、ある面、正しいのですが、今は「衣食有り余って礼節を忘れる」時代になってしまっています。
□ 心の教育を標榜する人たちと私たちが生きている、この時代とは大きな隔たりがあります。
モノや情報にあふれ、人間関係が薄くなり、何でもお金で済まそうとしている時代と彼らの時代とは違います。教師が教師らしく、親が親らしかった(そうふるまえた)時代とはまるで違っています。もし、誰が悪いと言われたら、戦後の日本の社会が悪かったとしかいいようがありません。
誤解しないでもらいたいのですが、心の教育が不要だというのではありません。それは教科書で簡単に教えられる種類のものではないでしょうし、呼びかけだけですませられるものでもないでしょう。
パチンコに夢中で子供を亡くす母親が問題になりましたが、これはパチンコ以外に遊ぶところがない現状、アメリカならばベビー・シッターに任せられるという社会的状況を無視して、その母親だけを責めてはいけないように思います。子どもを遺棄する母親が責められることも多いのですが、父親が多くの場合、不在で、若い女性だけに負担がかかっていることも多いのです。
もちろん、この場合の直接の責任は、母親自身にあるはずですが…。
□ 不登校になる子がいます。
多くが心の傷があったり、何か満たされない願望がある子といえます。
この場合も自分の子供だから分かるはずだと決めつけない方がいいですし、育て方が悪かったと悩むこともないと思います。
子供には先生もカウンセラーも、人間は色々だということを伝えるべきで、教育の多様性、人生の多様性を教えてあげればいいと思います。これしかない、などと思ったら出口が見つからないような気がします。
★“理想”の親とは何か?
最後になりましたが、“理想”の親っていうのは簡単です。
僕の知人の中で一番「教養」がなくて、これって差別ですが、大嫌いな人がいますが、この人の息子が東大の法学部に入って官僚になりました。立花隆さんは東大法学部の学生には教養がない、などと言っていますが、偏差値優先の入試制度では教養よりも受験用のテクニックをいっぱい覚えた方が勝ちだと思います。
別の知人で芸術にはまったく無関心の人の息子が東京芸大に入るなんてことがありました。「父親は芸術に理解がない」というのが息子のボヤキです。
まあ、そんなことはどうでもいいのですが、そんなことを知らない多くの人からは“理想”の親だと思われています。
“理想”の子供を育てた時に、どんな親でも“理想”の親となるのです。“反面教師”であっても、子どもが成功すれば“理想”の親になりえます。
□ しかし、“理想”の親ってそんなものなのでしょうか?
子供と親とは別の人格で、子供が立派だからと言って親まで立派になるはずがありません。もちろん、逆もそうです。
成功者の話をいくら聞いても意味がないといいましたが、実際、“理想”の子供になったとたん、すべてが許される、なんてことが多いのではないでしょうか。
最初から、ア・プリオリに“理想”の親があるのでは決してないということです。そんな“理想”を追うよりも毎日が大切です。
例えば、岩井寛『森田療法』(講談社現代新書)には次のような記述があります。「神経症者の家族を調べてみると、従来は、父親が警察官、学校の先生、国家公務員などが多く、さらに、サラリーマンでも厳格な父親が多いということがわかった。つまり、家族それ自身がすでになんらかの形で教条主義的な傾向をもっており、真面目で几帳面で融通がきかないというニュアンスが強いのである」。こうして子どもを追いつめていくことがあってはいけない、ということです。
誤解しないでほしいのですが、理想を持つな、ということではありません。自分の理想を追うことは大切ですが、“理想”というものがどこか遠いところに最初からあって、それを追いかけなさい、と他人から言われるのは間違っているということです。
遙かな“理想”を追って、日常をおろそかにしてはいけない、ということなのです。
□ 「完璧な子育て症候群」というのがありますが、わが子を「パーフェクト・チャイルド」として“作ろう”としたり、自身が「パーフェクト・ペアレント」になろうとするのは現実を間違って見ることになりかねません。
それは文部省のいうように“理想”を追いかけることではありません。どこかにある模範を追求できるほど家族の形態は単純ではありませんし、社会状況も複雑です。もし本当に「1.57ショック」や最近のナイフ事件などを憂えるなら、本格的な男女共同参画社会の実現のためにもっと整備することがあるはずです。
そして、僕らは、特に父親は子供たちとの日常を大切にすることが重要だと思います。
僕だけがそんなことを考えているのではなく、カナダには政府公認の親教育プログラム「Nobody's Perfect(完璧な親なんていない)」というのがあります。5歳までの子どもの親がグループで子育ての仕方を学び、支え合える仲間をつくるというものです。
□ 母性とか父性とか家族というものの原型や“理想”がどこかに元々あるのではなく、むしろ、こうして複雑になった現代社会を、家族とは何かと考えながら、一人の人間として子供たちに向き合っていくことが大切だと思います。
“理想”の家庭作りのマニュアルを誰かが作って、それに従っていくのではなく、親が自分の家庭だけのマニュアルを作っていく、そうした実践が大切だと思います。
正解はマニュアルの中にあるのではなくて、目の前にいる子ども達の中にあります。知識に肉体を与えるというと大げさですが、マニュアルの干からびた知識よりも子ども達から受ける、みずみずしい知識、つまり、自分自身の体験にもっと自信をもたなければなりません。
下手な理想や教育方針なんか持つよりは、子どもの状況に合わせて臨機応変に対処する態度の方が、お互い窒息状態に陥ることから防いでくれるのではないでしょうか。同じ作業ができる機械と違って、毎日変化する、それが人間だと思います。
□ 父性にしろ、母性にしろ、子供にしろ、家族にしろ、神話にすぎません。いいえ、幻想といった方が当たっているかもしれません。誤解しないでほしいのですが、幻想だからといって、父性愛や母性愛がなくていい、ということでは決してありません。子育てには楽しいこともいっぱいあります。それを幻想と言ってしまうのは残酷すぎます。幻想であろうとなかろうと楽しもうということです。あるがままを楽しむためには“理想”というのは重荷になることがある、ということです。
オウム真理教の人たちは“理想”の国家や社会を作ろうとしていたわけですし、その前にもソ連という国が“理想”を追っていました。日本赤軍だって同じでしょう。でも、ユートピアほど息苦しい国家はないように思えます。
人間は、家族はこうありたい、という高度だけれど、狭い理想を持っていると、生身の人間は、家族は全部至らない存在に思えてきます。
□ “理想”的な子育てをしたら“理想”的な子どもが生まれるというのは、勉強したら、その分だけ賢くなると思うのと同じ間違いです。努力したら必ず報われるということもありません。武者小路実篤は毎日のように書を書き、絵を描いたが、ついに上達しませんでした。山口瞳は『木槿(むくげ)の花』(新潮文庫)の中で、実篤の書画の腕前をそう述べて、だから好きだと書いています。「私にとって『勉強すれば上達する』ということよりも、『いくら勉強しても上手にならない人もいる』ということのほうが、遥かに勇気をあたえてくれる」と書いています。実篤自身は若き日のノートに「デッサンは実にへたなり。勉強するつもり」と評して、晩年の色紙に次のように書いています。「桃栗(くり)三年柿八年 だるまは九年 俺(おれ)は一生」。
理想をもってはいけないと言っているのではありません。理想がないよりはあった方がいい、という人もいますが、自分の理想と子どもたちの理想を取り違えてはいけません。ただ、現実からあまりにも遊離した理想を持つことは実現のための手段を失っているので、容易にイデオロギーに変化してしまうのです。
私たち親に必要なのはそうした、理想や幻想を追うことではなく、毎日の実践をきちんとすることだと思います。毎日の実践の中から子どもに愛情を感じることはいっぱいあるでしょう。理想から離れているといって、息苦しく毎日を送るのではなく、あるがままに家族を受け入れて暮らしていきましょう。
単純すぎる結論かもしれませんが、気楽に考えて生きていきましょう!
【1998年8月22日 新湊市中央文化会館】
富田富士也『「いい母親」をやめたい事情』著(佼成出版社2000)という本が出た。著者は教育カウンセラーとして、多様な家族問題の相談を受けるうちに、多くの母親が自分を押し殺し、無理をして「いい母親」を演じていることに気付いたという。
家族や世間からさまざまな期待を受ける中で、母親としての理想と現実のはざまで責任感に押しつぶされながら「いい母親」を演じてしまう母親たち。「いい母親」を演じ続けるストレスがわが子に向けられてしまう傾向もあると著者は指摘する。「いい母親」を演じ続ける女性たちの「SOS」の声をまとめている。
家族の性格は3つのタイプに類型化されます。あなたの家族はどれに当たるでしょうか?
(出典:Kids Are Worth It by Barbara Coloroso)
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A レンガ型家族(Brick-wall type) |
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B クラゲ型家族(Jellyfish type) |
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C バックボーン型家族(筋の通ったという意味・Backbone type) |