|
ここで「父権復興」を叫ぶ人々は、中空構造の空性を侵して、そこに父性を据えようとするのであり、「復興」を主張する背後には、かつてわが国において存在した父性をそれに用いればよいという認識に立っていると思われる。それは相も変わらず「古きよき時代」を懐かしむ老人の感傷と結びつき、「父よあなたは強かった」という時代の父性を復興しようとする態度につながっていくのである。ここに最初に述べた「徴兵制復活」論が盛んとなる心理的要因がひそんでいると思われる。
------河合隼雄『中空構造日本の深層』(中央公論社1982)
●父性の復権?
1996年に林道義『父性の復権』(中公新書)という本がベストセラーになった。
父性とは権威主義的な父権とか男らしさではない。母性を十分に尊重し、それとのバランスを保ちつつ、必要な時に全体的・客観的な視点を保持して適切なリーダーシップを発揮して、家族と社会とのつながりや新旧世代間の文化の継承の役割を担うあり方である。
著者はこれを「健全な権威」と呼んで大切なのは細かな徳目よりも社会におけるルールの必要性や受け継ぐべき価値体系があるという抽象的な感覚そのものを養うことだと著者は強調する。
まとめあげる力、理念・文化の継承、全体的・客観的視点、指導力、家族への愛の五条件を満たしてこそ父性は復権して、いじめ問題や不登校も生じないとしている。
それを有効に機能させるために一緒に遊んでやること、思春期の反抗にあったら、自己の実力に見合った等身大の権威に満足することなどの心構えが書いてある。
ただ、この本の内容で、保守層から大歓迎を受けたことは言うまでもなく、「父親復興」ブームというものが生まれて、あちらこちらでシンポジウムや講演会が開かれ、講師の父親自慢と現代父親批判、そして主婦批判までが表れた。そんなヒマがあったら、奥さんの手伝いをしろ、といいたい。
□ 内容的にも例えば『八甲田山』の話などが牽強付会というか、あれもこれも父性の欠如と探し回る姿勢がみえてくる。これらから反省を得ることは少ないように思える。
もし、戦前に反省を得るならば神風特攻隊とOR(オペレーションズ・リサーチ)であろう。日本軍は闇雲に敵に突入していったが、アメリカ軍は冷静に、分析的に特攻隊の航跡を解析して被害を最小限にくい止めた。VT(近接)信管も威力を発揮した。軍艦から撃つ砲弾の信管にレーダーを組み込み、目標に直接当たらなくてもある程度の範囲で起爆するために特攻機を撃墜できたものである。喧伝されるよりは遥かに被害が少なく、死んでいった若者には敬意を表するが、無駄死にさせた首脳部には憤りを感じる。事態を冷静に考えるのが、「父性」だろうが、日本軍は感情論に走ってしまった。むしろ、「母性」に頼ったといえる。いや、開戦直後から対応は違っていた。アメリカは日本語の達人を作ろうと努力し始め、敵を知ろうと資料を集め、例えば『菊と刀』などの名著を生んだが、日本は「敵性語」として英語を排除するばかりであった(伊丹十三や筒井康隆が入った特別科学学級など一部例外はあったが)。
みんなが「天皇陛下万歳!」といって死んでいったのではなかった。特攻第一号であった関行男大尉は、マバラカット基地で海軍報道班員のインタビューに答えて次のように語ったことが知られている。
僕には体当たりしなくても敵空母に50番【500キロ爆弾】を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ、僕のような優秀なパイロットを殺すなんてね。僕は天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで行くんじゃないよ。KA【KAKA=奥さん】を護るために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう。
実は「父性の復権」が虚しく響くのは現代日本だけではない。「神は死んだ」とされた20世紀のヨーロッパでも、キリスト教の衰退とともに、父性が失墜していた。神の権威、戒律の裏づけがなくなったためである。この失墜の反作用として、強い父親への憧れが生まれ、憧れに乗じてヒトラーやスターリンが生まれた。
□ この本を誤解してしつけというのが命令と暴力による強制だと思い込む父親や威厳が大切だという封建的な価値観にすがりつく父親が出てくるかもしれない。
「父性がなければ家族は成り立たない」とか「父が中心になれないと子どもは健全に育つことができない」までいう時に、既に科学的思考から逸脱している。なぜ家族の中で父が中心にふさわしいかというと、女性に対して男性の方が体力があり、「女性よりは男性のほうが平均して抽象的能力はすぐれている」と言う。
【社会の価値観が安定している時は】価値規範を教え込み、教育するのが父たちの役目となる。【…】ところが、経済などの社会基盤が不安定になり、価値観が乱れてくると、子どもは父の価値観を当然のものとは受けとらず、疑いや不信の眼を向け、あるいはあからさまに反抗する。
というのだが、価値が混乱している時には、価値観は継承されないのである。価値規範を継承するのは、林のいう「父性」ではなく、「社会の価値観の安定」だということを本人が書いているのである。
この本の行間から著者の超保守ぶりが見て取れるし、論調も渡部昇一に似た部分がある。渡部昇一などは自分では服も出せない、ご飯も作れない、身の回りのことは何もできない超甘えんぼだというのが定説で、奥さんに靴下まではかせてもらっているという噂が立つくらいだ。そんな人間に権威を語る資格はない。
99年に評論家の江藤淳が自殺したが、いつもは天下国家を論じている人が妻の病死で精神的にも弱ってしまった、というのでは困る。
家に帰れば「メシ、フロ、ネル」だけの、妻に母性を求め続けるような、甘えが見られるような“父性”ではやっぱり困る。こんな「亭主関白」が実現するのは日本の女性の母親のような慈愛や庇護があるから成立する権威であって、実は父性からほど遠いものなのである。
昔の父親がよかったと言われるが、家庭に背を向けて威張ってるだけという人も多かったのである。
ここ数年、大会社の社長や官僚の不正が次々と明るみになっている。60〜70代の彼らは林のいう「父性」あふれる時代の戦前教育を受けているはずである。彼らは「父性」とか「父権」などということを利用してのし上がってきたのではないだろうか?そして、自分の権利を必要以上に守ろうとしてきたのではないだろうか?
□ 父性の代表として『巨人の星』の星一徹があげられることがある。スパルタ教育も模範として持ち上げられたこともあった。でも、少し冷静になって考えてみると、星飛雄馬が魔球を3回も発明せざるを得なかった原因というのが、投手としては小柄で、球が軽いという致命的な欠陥があって、それを補うためだった。
つまり、一徹は子どもの野球選手としての特性を考えずに、自分の夢を実現するために小さい頃から英才教育をしてしまった。子どもも疑問を抱かずに父親の示した道を突き進んでしまった。体操の選手だったら大成したかもしれないのに…。
星飛雄馬の悲劇の根源はここにある。「父性」を振りかざすことの危険性を忘れてはいけない。
村上春樹の小説に父親が出てくることは少ないが、『月刊PLAYBOY』(1992年9月号)に掲載された「ガイジンによる、ガイジンのためのムラカミ・ハルキ」というインタビューの中で、父親が「家族を支配していました」と語っている。そして、別のところで次のように語っているという(宮脇俊文『村上春樹ワンダーランド』いそっぷ社に再録)。
日本は男性に支配されている国です。ぼくはそこがいやでした。ぼくとオクサンは対等のパートナーで一緒に働いています。両親はぼくを愛してくれたので、幸福な子供時代を送ることができました。しかし、18や19歳になったときには幸福ではありませんでした。たぶん父親が強すぎたのです。結果的にぼくは自分で満足できる生き方を見つけました。
□ そして、何よりも日本に父性があったかどうかについては疑問がある。山上憶良の万葉集の歌に「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」「憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ」というのがあるが、子どもにメチャクチャ甘かったのではと思われる。
父性はもちろん、武家の一部にそうした父子の葛藤がみられたと思うが、日本文化全体と考えることはできない。必ずしも「父性」にふんぞり返っていたのではない。また、太田素子『江戸の親子 父親が子どもを育てた時代』(中公新書)にみるように下級武士は子育てに参加していた。実際の大変な子育てに関わっていたのは女性だったけれど、「家」の存続を願う男たちは子育てに無関心ではいられなかった。太田は江戸時代は「社会的なシステムが、子育てに対する父親の意欲を引き出しやすい性格をもっていた」時代だったという。固定的な身分社会で、移動性がなく、父親の社会的立場がそのまま子どもに「家」とともに継承される時代だったからだ。
しかも、尾藤正英などの研究によれば封建時代の日本は血のつながりを重視しなかったという。公家や大名で血がつながっていないものが多い。他家の二男、三男を養子にもらってくる。ほとんど血縁のない、かなり遠い血縁しかないような人を養子に入れて家名を継いだ。商家にしても男の子には他に好きなことをやらせて、娘がいれば婿をとった。商才のある番頭や、手代を娘婿にした。娘もいない時は両養子をとった。もちろん、伝統芸能の家元でも、子どもが芸の道に達者なら継がせたが、そうではない場合には一番芸の道に達者な弟子を養子にして、血が繋がらなくてもいいから家名・流派名をつなげた。明治になってヨーロッパ近代国家が血統を大切にしていることを知って、制度を変えたというのが本当だ。アジアの他の国が血を大切にしたのに、日本はイエを重要視したのである。
日本に医学を教えに来ていたベルツの『ベルツの日記』(岩波文庫)には、むしろ日本の父親は「東洋的存在」だという。西洋の父親が後述するように善悪の区別を明確に行い、その区分について本人が確信を抱き、その価値の受容を子どもに強要する存在で父親の価値観に従えば悪であることを子どもが行ったら、脅しと処罰をもって望むことに躊躇しないという。これに対して、日本的な父親というのは本質的に正邪の区別を露わにしない点で対照的だと書いている。子どもに自分の価値観を押しつけないで、子どもが過ちを犯したとしても責めたりせずに、父親の行動を子どもが自主的になぞるのを辛抱強く待つ姿勢が濃いという。ただし、日記も後半になると日露戦争や天皇の神格化などの影響もあるのか、威厳ある父親が強調されるようになってきたというが、武家のような前近代的な父子関係が明治後期になって、被支配階層の父子関係にも広まってきたのである。戦前戦中までの父親は、法や社会的規範の後ろ盾もあって、権威、権力、自信をもって子どもに接することができたのである。とはいえ、父親が「父性」をもって子どもに接してきたとはいえない。
復古主義の人は明治時代が模範だという。そして、明治天皇は立派だったという。これに対して斎藤学は『男の勘ちがい』(毎日新聞社)で次のように書いている。
髭の明治大帝がそれであるとしたら、それはとんだ誤解というもので、あれは真似である。カイゼル髭のプロイセン王、ヴィルヘルム二世の真似である。神聖ローマ帝国の復興を夢見たこの髭男は、カール大帝(シャルル・マーニュ)を真似たに違いない。カール大帝はカエサル(シーザー)を真似、そのカエサルには髭がない。京都御所の中で女官たちからおしろいを塗られて育てられた男子に髭をつけさせ、サーベルを帯びさせ、白馬に乗せただけのものが、どうして父性の象徴なのか。その家来である「明治の父」たちが、彼らの家の中でいかにヨーロッパ流の「家父長的な父」を気取ろうと、それは偽物である。フェイク(見せかけ)と漫画の中に父性はない。
日本でさえ、「父性」というのは怪しい存在だが、アメリカでも例えば、ステファニー・クーンツ『家族という神話 アメリカン・ファミリーの夢と現実』(筑摩書房)などによれば、昔の父親が偉大だったというのは幻想にすぎなかったという。現代が家族崩壊の危機だなんてまさか!という。両親そろった家族なんて過去にも存在しなかったというのだ。
□ 河合隼雄は林道義よりも20年近くも前に「中空構造日本の危機」(『中空構造日本の深層』中央公論社)の中で“父権復興論の落し穴”ということを書いている。そして、子どもと取っ組み合いをしろ、という話を真に受けて骨折した父親の話まで書いている。
強い父親像が求められているからといって急に家庭で威張り始めても溝を深めるだけだ。実際に父親の介入によってものごとがこじれることも多い。町沢静夫は『「壊れもの」としての家族』(大和書房)の中で「最近では『父性の復権』といったことが叫ばれている…が、もはや戦前の家庭のような形での父権というものは、時代に合わないことは確か…。新たな父親像というのが、模索されなければならない…、突然の父親の登場は危険なことが多い…」と書いている。
斉藤環の『社会的ひきこもり』(PHP新書)は若者の「ひきこもり」を扱った本だが、次のような生々しい現実を紹介している。
事態が深刻であっても、いやむしろ深刻であるほど、絶対に関わろうとしない親もいます。とりわけ父親にはこのタイプが多いのです。どんなに母親が促しても話し合いに応じないばかりか、「お前がなんかしろ、俺は知らん」の一点張り。当の本人は仕事に没頭するかのようで、実はもっとも大きな困難を避け、仕事へと逃避しているのです。つまり、これもまた「ひきこもり」なのです。
林道義の復興論は社会の保守化と軌を一にしていて、何ら新しい提案でもない。やみくもな強い父親幻想はむしろ危険である。
父親の権威がなくなったなどという話は今に始まったことではない。昔からあった。1967年に江藤淳は『成熟と喪失 “母”の崩壊』を著したが、そのあとも日本人は長らく母の存在の大きさを語ってきたし、日本社会論においてこの社会を「母性社会」と呼んできた。
例えば、佐藤忠男は1975年の『現代性教育研究』第14号の「“母の神話”の崩壊」という論文の中で日本映画の中で立派な父親が出てくることはなかったと書いて次のように結論する。
ちかごろ、しきりに父親の権威の喪失ということが嘆かれる。
しかし、日本人は前から、父親が尊敬に値しなくても、母を崇拝することを心の支えとして生きるという態度を身につけてやってきていたのである。現在の危機がもしあるとすれば、それは、父親の権威の崩壊より、むしろ、母親の神話の崩壊というところにこそ、重大な問題があるのではあるまいか。
他にも土居健郎『甘えの構造』(71)、河合隼雄『母性社会日本の病理』(75)、小此木啓吾『日本人の阿闍世コンプレックス』(78)など70年代に多い。80年代以降は小此木啓吾「母なるものの運命」、『シゾイド人間 内なる母子関係をさぐる』(84)があり、90年代には「母性社会」の全般的終焉を指摘する議論がみられる。大塚英志「『母の崩壊』の後で」(91)、上野千鶴子「『成熟と喪失』から30年」(93)、「『日本の母』の崩壊」(97)などがある。
□ アメリカは、少なくともWASPの社会においては明らかに父性が復権、どころか最初から重視されている社会だと思うが、問題は何もないだろうか?
アニメ「鉄腕アトム」は暴力表現の多さで様々な場面がカットされた。最近でも「もののけ姫」が暴力表現のために公開される映画館が限定されてしまった。
暴力表現も抑えられ、大統領をはじめとして恐らく世界の中で最も父性が強調されている国が少年犯罪が日本とは比較にならないほど増えて、社会的に病んでいる。
父性の復権を唱えるならば、アメリカの社会の現状をもっと考えてほしい。
□ 簡単に「父性」という言葉を使い回しているが、意味するところは人によって違うだろう。同じように「父親」といっても、実際には一人か二人くらいしか知らないから、そのイメージで語ることも多い。エリザベス・フィシェルの『父と娘の秘密の法則』(朝日新聞社)は父親を5つのタイプに分けていて、どれか一つということはない。
- 「家長」タイプ…仕事と愛情の両面において厳格な意見を持つ
- 「友達」タイプ…遊び仲間のような関係に傾斜する
- 「傍観者」タイプ…娘とうまく意思疎通ができない
- 「誘惑者」タイプ…「友達」タイプの変形だが、娘をガールフレンド、ひどい場合は愛人に見立てる
- 「不在」タイプ…離婚や死別による「不在」の父親
ただ、林のような人々が語る「父親」というのは最初の「家長」タイプであることは間違いない。
憂えるのは「父性の復権」という言葉だけで誤解して、父親が強くなればすむ、母親の社会進出は待て、などのような誤解(林道義も必ずしも望んではいないだろうが)が先行することである。本当の強さとか厳しさというものは難しい問題だし、権威を保つ、というのも複雑な心理状況であるから、「父性の復権」で余計な混乱を招きたくない。
かつて僕らの小さい頃の学校は母親原理で動いていたと思う。しかし今は、管理が先行する父親原理の学校になっている。教師が自由に動こうという裁量が少なくなってきているのである。父親原理で動いているからこそ、問題が多いとは考えられないだろうか?
社会全体が大きく変化しているのに、武家社会と明治政府の中で特権的に顕れた「父性」を切り取ってきて、現代という花瓶に生ければ、どんなに美しかろうとすぐに枯れてしまう。
□ ここでは自分なりに「父性の創造」ということを考えてみたい。
●モーゼとマリア
まず、父性とは何か、考えてみよう。これが母性と違うことは誰にでも分かる。あくまで一般論なので細かい部分の揚げ足を取ってほしくない。
日本の父性と西洋の父性とは違うが、とりあえず、西洋の父性を考えてみよう。
「創世記」に「イサクの犠牲」というのがあるが、父親のアブラハムが神から信仰を確かめるといってイサクを犠牲にせよ、といわれてそのようにコトを進める。ギリギリで神が許してくれるのだが、アブラハムには葛藤が全くない。西洋の父性というのはとりあえずそういうものである。
他にもいろいろなまとめ方があるが、父性は「あるべき姿」を指す。母性は「あるがままの姿」を指す。したがって、父親は自分の意志に逆らう子供は「これはわが子ではない」などと拒否をする。ところが、母性は「悪くてもわが子」というように感じる。日本でも勘当するのは父親の役目に決まっていた。父性は「よい子はうちの子で、悪い子は出ていけ」だし、母性は「うちの子はいい子、よその子はほっとけ!」なのである。
その意味で父性は選択的であるのに、母性は包括的である。ビートルズの「レット・イット・ビー」では聖母マリアが出現して「あるがままに」生きよ、と教えてくれる。もちろん、メンバーの多くがアイルランド系で、当然、カトリックなのだろうからマリアが現れるのはよく分かる。また、時代背景からいって、当時はベトナム戦争など父性的な戦争が進行中だった。
父性は戒律的でもある。「かくあってはならない」という禁止から成り立っている。
キリスト教は日本人にとってはキリストの宗教と思えるが、内容は多岐に渡る。旧約聖書はモーゼの十戒に表されるように決まりを破るのは許せない、という教義である。規則や価値体系を教えるのがモーゼの役目だった。
一方、新約聖書はキリストの思想よりもむしろ、マリアの思想、つまり、全てを許して守ってくれる、という教義がある。少なくともカトリックはマリア信仰が非常に強い。イタリアでは驚いた時に「マンマ・ミーア」というが「私のおかあちゃん」という意味で、男が自立していない証拠といえる。
モーゼに関してはフロイトが注目すべきことを言っているという(フロイト『モーセと一神教』ちくま学芸文庫)。この部分を小此木啓吾『親のこころ、子のこころ』(小学館ライブラリー)から引用する。
このミケランジェロのモーゼ像は、確かに十戒を書き記した石盤を小脇に抱えもっている。それはそのころのユダヤの民が自分の刹那的な快楽や欲望に負けてしまって、十戒を守り、国をつくっているという建設的な仕事から逃避してしまおうとしているのを、モーゼがひどく怒って石盤を投げつけようとしている情景を描き出したものというように解釈されている。しかし、実際にモーゼ像をよく見ていると、そうではなくて、実は、モーゼが一度怒りにまかせて十戒盤を、快楽にはりそうとするユダヤの人民に投げつけようとした。その瞬間に、もし自分がここで、自分の怒りの衝動に負けて十戒盤を投げつけてしまえば、自分自身が十戒をこわしてしまう。あるいは十戒にそむいたことになってしまう。そこで、モーゼはまず自分の怒りの衝動に対して、克己心を働かせて、一度投げようとした十戒盤をもとへ戻そうと抱え直している像である。つまり、いかりにまかせて十戒盤を投げつけようとする気持ちと、それを抑えようとして苦しんでいる姿こそ、ミケランジェロのモーゼ像である。
モーゼ(サン・ピエトロ寺院) そしてフロイトは「父性とは何か」をモーゼ像に関連して次のように述べている。
父性とは、まず子供たちに対して、自分自身が自分の欲望を克服し、衝動を押さえ込んで、それらと戦い打ち克っていくことに模範を示すような父親像------それが真の父性像であり、自分の衝動や、エゴイズムをほしいままにするような専制君主は決して父性的なものではないのである。
ちなみに、このモーゼ像には頭にツノがついているが、これはラテン語聖書でヘブライ語の「光」を「ツノ」と間違えて訳してしまったからだといわれている。ダン・ブラウンの『ロスト・シンボル』にもこの話は出てくる。
「単純なまちがいですよ」ラングドンは答えた。「紀元四〇〇年ごろに聖ヒエロニムスが誤訳したんです」
ベラミーは感心したふうだった。「そう、誤訳だ。そしてその結果、哀れなモーセは歴史を通じて奇怪な姿をさらすことになった」
“奇怪”とは言いえて妙だ。ラングドンは幼いころ、ミケランジェロの悪魔めいた“角の生えたモーセ”ーーーローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の主役ーーーを見てこわくなったものだ。
「モーセの角の話をしたのは」ベラミーは言った。「ただの一語であったも、誤解されれば歴史を書き換える力を持つという例を示したかったからだ」【…】「言語というものは、ときとして巧みに真実を隠す」□ ミケランジェロは同時にピエタも作っている。ピエタというのはわが子キリストの亡骸を抱くマリアの像である。
ピエタ(サン・ピエトロ寺院) この像はマニエリスムの傑作の一つで、分かりにくいかもしれないが聖母マリアが大きく作られている。
そして、哀しみの中にもわが子がようやく自分の手に戻ったことを喜ぶように、イエスを包み込むように、抱いている。
マリアに母性が凝縮されて表現されている。
□ 父性と母性とは違う。ルソーは『エミール』で「世界でいちばん有能な先生によってよりも分別のある平凡な父親によってこそ、子どもはりっぱに教育される」というが、「分別」というのは言い得て妙だ。
ジャック・ラカンは父親の役割というものは母親と子どもが作り出す楽園に「亀裂」を入れて、両者の癒着した関係を断ち切ることだという。父親たるものは「父の名」(ノン・ド・ペールnom de pere)において「父の否認」(ノン・ド・ペールnon de pere)を差し挟まなければならないものだ。すべてが「快感原理」によってやさしく甘やかされている母子関係に父親は波風を立てて否定しなければならないものなのである。試練を与えて巣立つための準備をさせなければならない。
また、父性や母性というのは西洋と日本とは自ずから違う。
河合隼雄は『子どもと学校』(岩波新書1992)で二つの原理を次のように図表化している。
父性原理 母性原理 機能 切る 包む 目標 個人の確立
個人の成長場への所属(おまかせ)
場の平衡状態の維持人間観 個人差(能力差)の肯定 絶対的平等感 序列 機能的序列 一様序列性 人間関係 契約関係 一体感(共生感) コミュニケーション 言語的 非言語的 変化 進歩による変化 再生による変化 責任 個人の責任 場の責任 長 指導者 調整役 時間 直線的 円環的 □ 母性と父性はこのように対立するものである。
フェミニストに誤解しないでもらいたいが、知性は父親、感性は母親に“近い”ものである。知性は左脳、感性は右脳と言い換えてもいいが、いずれにしろ、家庭では知性も感性も、父親も母親も(性格には父性も母性も)あって初めて充実するのである。
「父性」とか「母性」にこだわりすぎというならば、「パパ機能」「ママ機能」と言い換えてもいい。それでも不満なら前者を目的達成機能(Performance Function)、後者を「人間関係維持機能」(Maintenance Function)と言い換えてもいい。
ジェンダーが問題なのではなく、機能・役割が違うのである。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)にはジャック・ラカンの精神分析が説明されている。「社会化」プロセスを「エディプス」と呼んでいるが、子どもが言語を使用になること、母親との癒着を父に断ち切られることを意味する。これを『父の否=父の名』(Non du Pere/Nom du Pere)と駄ジャレでいうのだが、何か鋭利な刃物のようなものを用いて、ぐちゃぐちゃ癒着したものに鮮やかな切れ目を入れてゆくこと、それが「父」の仕事だ。「父」は子供と母との癒着に「否」を告げ(近親相姦を禁じ)、同時に子供に対して、ものには「名」があることを(あるいは「人間の世界には、名を持つものだけが存在し、名を持たぬものは存在しない」ということを)教え、言語記号と象徴の扱い方を教えるのだ。
切れ目を入れること、名前を付けること、つまり「分ける=分かる」なのである。アナログな世界にデジタルな切れ目を入れること、それは言語学的に言えば「記号による世界の文節」であり、人類学的に言えば「近親相姦の禁止」となっている。
子供が育つプロセスは言語を習得するというだけでなく「私の知らないところですでに世界は分節されているが、私はそれを受け容れる他ない」という絶対的に受動的な位置に自分は「はじめから」置かれているという事実の承認をも意味していることになる。ラカンの考えに依れば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になるという。一度目は鏡像段階において、「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することである。
□ この二つの原理を論理的に矛盾しない一つの原理に統合することは不可能である。そして、どちらの原理がよいということもできず、一長一短なのである。河合隼雄は『臨床心理学』(岩波書店)で次のようにも書いていて、僕などはどきっとしてしまうのである。
次に、都合よく二つの原理を無自覚に使いわけている人がいることも忘れてはならない。校長としてリーダー性の強い人が来ると、あの校長は「非民主的だ」と非難する(これは母性社会にのみ通用する考えである)。ところが、世話人タイプの校長が来ると「あれはリーダーシップがない」と批判する。このような人は、いつも「正しい」批判を他人に投げつけ、自分は無為に過ごしている人が多い。自分は「頭がいい」と思っている教師に、こんな人がいるように思うが、どうであろう。
しかたがないので、もう少し、自分なりに考えてみよう。
●父親主義と母親主義
父親主義と母親主義は歴史的に見て、交互に強調されてきた。赤塚行雄『人文的「教養」とは何か』(學藝書林1998)によれば次のようであり、必ずしも賛成しないが、引用する。
人間の態度体系は二つにわかれる。一つは父親を手本とするパトリズム(patrism=父親主義)であり、他のひとつは、母親を手本とするマトリズム(matrism=母親主義)である。
歴史的なパースペクティブをもってみるならば、この二つは交替するようにうねっており、父親主義が優勢な時代は、社会全体として権威主義的・禁欲的な態度が生み出される。今日は、世界的な規模で、母親主義が優勢であるが、これはおそらく十九世紀のヴィクトリア時代の母親主義への反動であろう。明治の日本もヴィクトリア的父親主義を見習って近代国家として出発した。したがって、戦前までは父親主義が支配的だった。
父親主義は「幸福」よりも「純潔」を高く評価するが、母親主義は、「純潔」なんてどっちでもよい、とにかく「幸福」になってくれと願う。
前者は、女性を「劣等で罪深い」とみなすが、後者は、女性に「もっと高い地位をあたえよ」とせまる。
セックスに対してはどうか。前者は、セックスに対して「制限的」な態度をとるが、後者は暴力によらない限り、セックスに対してきわめて「許容的」である。
前者は、「信念」を大切にして、ときに「調査」や「研究」さえ信用しようとしないが、後者は「皆さんのご意見」を大切にして、何よりも「アンケート」や「話し合い」を好む。フリューゲルや、G・ラットレー・テイラーの分類を参考にすれば、もっとこの両者の特徴をあげることができるけれど、私自身の考え方として、両者の社会に次のような違いのある点を強調しておきたい。
父親主義の社会においては、
「不幸の均一化」
とでも呼ぶべき空気があって、
「苦しいのは、私一人ではない」
と考え、子どもでさえ、けなげに頑張って行きようとする。
しかし、今日のような母親主義の時代には、これといって連帯感もなく、
「皆、うまくやっているのに、自分だけが取り残されている」
といった疎外感と甘えに取りつかれることが多く、いらいらしたり、あせったりする。
そして、こうしたいらいらやあせりが、日常的に非行形成エネルギーを孕む。暴走族や、ブランドものを手に入れたいための援助交際や、いじめや、通り魔犯行……。これはかならずしも十代の若者あちにのみみられる傾向ではない。いい年の大人まで、多かれ少なかれ「皆、うまくやっているのに、私だけが取り残されている」という思いに取りつかれている。
□ 赤塚の結論は性急すぎると思うが、相容れない二つの原理があることは確かである。
議論、特に教育の議論をしていて、この二つの原理を混同して話されることがある。つまり、二つは相容れないものなのに、同じ土俵では扱えないのに、議論しあって、結論が出ないことがある。
また、学問でも理論主義と実証主義というのが交互に現れる。
同じことの車の両輪のようなものがあって、どちらかを強調すればいいということにはならない。
時代で葛藤があるように、どちらが正しいとはいえないのである。
□ 川本三郎は『本のちょっとの話』(新書館)の中で「母親文化の影響」というのを書いている。
一般に明治生まれは、父親文化と母親文化の二つの異質な文化の影響を受ける。
父親は、子どもに世間の役に立つ仕事を期待する。西洋に追いつこうと国全体が努力していた時代には当然そうなる。「詩をつくるより、田を作れ」である。
そうした実学尊重の父親に対して、母親は遊芸や歌舞音曲といった役に立たない遊びごとに寛大である。だいたい自分が芝居見物が好きだったりする。
子どもは表向きは父親文化を学んで立身出世の道を歩く。しかし、裏ではひそかに母親文化と通じていて、父親に隠れて小説を読んだり、母親に連れられて芝居に行ったりする。いまふうにいえば母親を通じてサブカルチャーの魅力を知る。
永井荷風がそうだった。舟橋聖一もそうで、新聞小説を読んでいると母親まで「今から、こんなものをよませていて、将来どうするつもりだ」と怒られたそうだ。池波正太郎も学校を休んで歌舞伎座まで初日の切符を買いに行ったそうだ。そして、川本はいう。
現代の子どもたちが不幸なのは両親の物分りがよすぎて、ふたつの文化の対立を経験できなくなったことだろう。
□ フォン・フランツは『永遠の少年―『星の王子さま』大人になれない心の深層』(ちくま学芸文庫)の中で「母親への強すぎる依存により、ふつうよりも長く思春期の真理にとどまっているという人たち」を「永遠の少年」といい、今の若者を予言している。
ふつう、このような人間は社会への適応が非常に困難であり、ある種の誤った個人主義を抱いている場合もある。つまり、自分はどこかと区別なのだから社会に適応する必要はない、隠れた才能の持ち主には適応などありえないというわけである。加えて、他人に対する横柄な態度もみられるがこれは劣等感とまちがった優越感からきている。この種の男性はまた、自分に合った職業を見つけるのが非常に難しい。どんな職に就いても、決して願ったり適ったりの職とは思えない。つまりいつも「スープに毛が入っている」のである。女性についても同様で、彼にふさわしい女性など決して現れない。ガール・フレンドとしてならいい、しかし…なのだ。いつでもこの「しかし」が割り込んで、結婚も、どんな積極的な関係も不可能にしてしまう。
●自由と規律
今の教育問題で子供の自由とか人権ばかりが強調されていて、自由と表裏一体の規律というのを教えていない。ただの放任状態だ。
三田佳子の次男が覚醒剤(覚醒の薬とか麻の薬という言い方をやめてほしい)で98年に逮捕された。三田佳子には悪いが彼女の本『てとテと手』(主婦と生活社)では次男を生むのを迷ったとか、放任主義で育てている、と書いている。しかし、どちらも間違いだ。
放任からも過干渉からも過保護からもスパルタからも何も生まれない。必要なのはこれらのバランスだ。母性と父性のバランスだ。
「切れる」子供が多くなったというが、コミュニケーションの段階を経ずにいきなり、切れて教師を刺したりする。
檻の中から出されたライオンの如しであるが、ライオンは理由もなく相手を傷つけない。
教師が僕らを傷つけた、という学生もいる。確かにそういう面もありえるかもしれないが、教師は彼らに対する全責任を取ることができない。
責任を取るのは本人であって、保護者であって、教師ではありえない。
□ 先日、講演を頼まれてどういうテーマでと聞くと「ご自由に」といわれた。小学校の時、作文が苦手だったのも、この「自由に」があったからだ。自由に何かを語ったり、書いたりするのは実に苦痛だ。何でもできる、といわれたら困るのは普通ではないだろうか。
「自由に遊びなさい」という言葉は実は矛盾している。遊びというのはルールがあって初めて存在するものなのだ。将棋やスポーツ、俳句など芸術のルールだけではない。おままごとだって、母親と父親がいて、家に帰ってきて、草で作ったご飯をおいしそうに食べてみせ、赤ちゃんのおしめを替えるなどをうそっこで演じなければならない。
「切れる」子がいるといわれるが、切れるのは苛立っているからである。なぜ苛立つかというと自由がありすぎて、自分で何をしてよいのか分からなくなっているのだ。
かつては職業選択の自由もなかった。それが「(お前の責任で)何にでもなれるよ」といわれていて、人は永遠に努力しなければならなくなった。
いや、受験地獄に逐われているという人がいるかもしれないが、受験の厳しくない、地方で事件が起こることも多い。
偏差値教育がいいとは思わないが、内申書などでやんわりと子供たちを虐めている方がよほど罪深い。
自由にしたい、といってルーズソックスや茶髪にしている学生が多いが、流行に流されているだけなら別の不自由に縛られているだけだ。本当の自由というのを知らない。
自由だけではいけないし、規律だけでもいけない。
ギリシャ神話のダイダロスは息子に「いいか、イカロス、空のなかほどの道を飛んでいくのだぞ。あまり低く降りすぎると、翼が水に濡れて重たくなるし、あまり高くあがりすぎると、太陽の熱で焼けてしまう。だから、なかほどのところを飛んでいくのだ」と注意したが、イカロスは自由の翼を広げすぎて太陽に近づきすぎ、蝋を溶かし、羽根が剥がれてしまう。
同様に、自分自身がよく分かっていない、つまり、自己が確立していない子どもに「自分なりに生きなさい」というのも無理がある。
□ 自由と規律というと池田潔の『自由と規律』(岩波新書)が有名だ。池田はイギリスのパブリックスクールの精神を次のように書いている。
正しい主張は常に尊重され、それがために不当の迫害をこうむることがない。如何なる理由ありても腕力を揮うことが許されず、同時に腕力弱いがための、遠慮、卑屈、泣寝入りということがない。あらゆる紛争は與論によって解決され、その與論の基礎となるものは個々のもつ客観的な正邪の観念に外ならない。私情を捨てて正しい判断を下すには勇気が要るし、不利な判断を下されて何等メンツに拘わることなくこれに服すにも勇気を必要とする。彼らは、自由は規律をともない、そして自由を保障するものが勇気であることを知るのである。
このパブリックスクールのイメージは『もしも… if』という映画で崩れたが、イギリスの教育の基本の一つであることは今も変わらない。
□ 自由放任とスパルタ教育はどちらも子どもに自己を失わせることになる。自己をもたないでうろうろする子どもと何事も命令されなければ動かない子どもばかりになる。
「透明な存在」と自信を書いた「酒鬼薔薇聖斗」はスパルタ的な環境で生まれてきたようだ。同じ「行為障害」とされた西鉄バスジャック事件の17歳の少年は「存在感なし」と掲示板に書かれ、「存在感 ほしい」と書いていて、存在感を誇示するような大事件を起こしてしまった。
どんなに育てられようと「透明な存在」とか「存在感がない」とか14,17歳の少年が書くこと自体が、おかしい。
おかしいというのは「自我の目覚め」である思春期には誰でも自分のアイデンティティを求めてさまようものである。みんなが同じように自分が何であるか求める。答えを見いだすためにかつては文学を繙いてみたり、クラブに没頭してみたりしたものである。
自分が透明だったり、存在感がなかったりということ自体は何の問題もない。“いい”大人でもアイデンティティクライシスを迎えるのである。最近のパラサイトシングルも自分の拠り所が親が営む家庭であってもちっとも気にしないで刹那的に人生を楽しんでいる。
むしろ、それを気にかけて、自己を増大するような形で事件を起こすことの意味を考えなければならない。
それは恐らく、家庭だけの問題ではない。社会全体の問題であって、父性とか母性の領域からは離れている。
□ 総務省青少年対策本部「子どもと家族に関する国際比較調査報告」によると、「子どもは幼い時期は自由にさせ、成長に従って厳しくしつけるのがよい」という考えにアメリカでは9割が反対、韓国では8割が賛成だという。どちらかの考えが間違っているなら、どちらかの国が立ち行かなくなっているはずだが、そんなことはなさそうだ。ということは、どのような信念で育てようと、そのこと自体であまり違わないということだ。
●恐怖と安心
子どもには、恐怖を感じる繊細な感受性がある。親の行状をよく見ているというのは脅しであるが、真実でもある。
恐怖を与える親だけでなく、安心できる親も必要だ。恐怖の場所だけでなく、安心できる自分の居場所も必要だ。
だからこそ安全な隠れ場所を必要とする。
優れた文学は全て、『ムーミン』や『となりのトトロ』にいたるまで「恐怖と安心」が物語の中心にある。
●公平と競争
栃木県鹿沼市の市立中学校が、98年度から中間・期末の定期試験を廃止するという。「競争主義による弊害を避けるため」という。ふだんの小テストで基礎的事項の理解度を確認するそうだ。小テストをすれば、学力の到達度はその都度分かる。勉強は日々の積み重ねが大事だから、分からないでもない。
だからといって、定期試験を廃止してしまっていいものだろうか。定期試験は学期ごと、学年ごとのある一定期間の学習を復習し、見直す意味をもつのだから…。学期や学年を通してのトータルな習熟度が見極められるかどうか心配だ。第一、試験をなくすと生徒は勉強をしなくなるのではないか。
実際、僕がラテン語をマスターできなかったのは試験がなかったからだ。試験があれば一気に活用を覚えたはずなのに先生の“好意”がアダになった。祝祭的に(「一夜漬けで」という意味)勉強をすることは大いに意義があるのだ。
競争を否定することも間違っている。公平は母親原理で競争は父親原理である。
学校は競争を排除する方向に進んでいる。小学校の学芸会の劇は集団で演じるものが多くなっている。僕は『こぶとり爺さん』の悪い方を演じてそのまま「小太り爺さん」になってしまった。今は主役を三、四人で代わる代わる演ずることが当たり前になっている。運動会の徒競走では順位をつけない。主役を一人で演じたり、順位をつけることは、競争をあおることにつながるという理由からだ。
だが、算数や国語が不得意でも、走ることならだれにも負けない子もいる。音楽や演劇はだれよりもうまい子もいる。僕自身は体育に対するコンプレックスが強烈にあったが、頭が悪い、と思ったことは少なかった。何か救いがあれば育つものである。
子供の能力を引き出し、高めるのが教育である。競争の役割を否定しては、人間の進歩や学問の発展はあり得ない。
戦後の悪平等主義が荒廃を生んでいることにもっと気付くべきだ。勉強は、スポーツはダメでも他のことが自慢できる子に育てなければならない。
□ 競争の内容が問題で、それが点数であったり、内申書であったり、学校歴であったりしてはならないはずだ。
不況になって「実力社会」ということが強調されることが多いが、実力を誰が認定するかによって大きな違いが出てきて、日本の場合は、うまく機能しないとされる。元々。日本は「年“功”序列」で、決して、年齢だけを重視して人事が行われてきたのではないのである。
アメリカ風の競争社会がグローバル・スタンダードかというとそうではない。彼らの中にも競争に敗れ、ドロップアウトしていく人も多いし、勝者にしてもアグレッシブな社会に耐えきれず、精神分析に頼ったり、プロザックのような「ライフスタイルドラッグ」にのめり込んでいく人も多いのである。
日本の社会は様々な理由で客観的に何かを判断したり、監査するようにはできていなかった。それどころか、判断するために生み出されたのが、偏差値社会だったのだ。
つまり、父性原理を実現するために生み出された制度だった。
偏差値をそのままにして、父性の実現というのは奇妙である。
□ 悪平等もあるが、誤った差別もある。
公平も必要だが、競争も必要だ。
父性とか母性とかジェンダーに引き寄せて考えるのではなく、社会全体の問題としてとらえることが大切だ。
その意味で田辺聖子が諏訪大社の御柱に2004年に初めて女性が加わったことについて書いているのは分かるのである(『婦人公論』2004年7月号「可愛げ」)。ちなみに、うちの町内では子どもいなくなって男が踊るべき「キリコ」というのを女の子が踊るようになってしまった。違った形で守っていくしかない伝統というのもあるのだ。
私は、男・女の境界をなくすより、つくったほうが、断然、人生はたのしいと思うのだ(こういうと、多分反対意見は多いと思うが、理不尽な不平等は是正すべきであるものの、伝統的文化の領域では、男女差を認めた方が、人生にバラエティができていいんじゃないか、と思う)。
それにしても、私はその若い女の子の鼻っ柱の強さにちょっと鼻白む思いもした。
<まあ、こうじ時勢ですから>と案内して下さった方は、とりなすようにいわれるが、しかし私の感じたのは(可愛げないナー)ということだった。●恥と罪
日本は恥の文化で、西欧は罪の文化というのはルース・ベネディクトの『菊と刀』の結論の一つだが、恥というのは他人の目を気にして生きるということで、罪というのは神の規律を意識して生きるということに他ならない。誤解を承知で言い切ってしまうと、恥は母親原理で罪は父親原理である。
日本では神も父親もとっくの昔に殺してしまったし、恥という意識も消え去ってしまった。社会が複雑になり、都会的になり、いわゆる「世間」がなくなってしまった。気にすべき世間がないのだから何をしても構わなくなった。
昔は「世間様に申し訳ない」とか言ったものだが死語になっている。「おまわりさんに連れられるよ」などと親が叱らずに他人に頼るという恥の文化を固定化するためのしかけが使われることもなくなった。
なお、イギリスでも子供が言うことを聞かないと乳母や困った親はIf you aren't a good boy,Boney will catch you.(いい子にしてないとボーニーが捕まえに来るぞ)と言ったという。ボーニーとは19世紀初頭にイギリスを震撼させたナポレオン・ボナパルドの軽蔑的呼称である。
□ 援助交際というのも少しは恥の意識があれば絶対に生まれないはずなのに日本独自の発達?を遂げている。
これはダメ、あれはいい、という罪の意識を持たせる、規範意識をもたせることが大切である。
つまり、父親の原理が必要なのである。
その父親がしっかりしていないから、一番軽蔑しているはずの父親世代の男性と売春しても気にならない女の子が増えてきているのだ。
□ 「良心」というのはフロイトによれば、超自我(スーパー・エゴ)である。
超自我というのは無意識の領域の中にあって、自我(エゴ=エゴイズムのエゴと混同しないでほしいが)の働きを観察、監視、方向付ける働きを持っている。
超自我は主として両親の子どもに対する叱責や禁止や称賛などを通じて、社会の伝統的な体系や価値観が子どもの中に内面化された、いわば親の「イメージの沈殿物」なのである。これを僕らは良心と呼ぶのである。
つまり、良心というのは道徳的情操の一側面として、僕らの罪悪感によってハッスル源であり、自分の感情や行動を導き、観察し、批判する規準を示すものである。
良心はもちろん、両親だけが作るものではない。友達や仲間や、職場や、書物などで得ることのできる抽象的な思想の世界からも生まれてくるものである。
それぞれの社会生活の場に、それぞれの道徳的な規準があって、これが子供たちの心の中に内面化してくるのである。
この良心の最後のよりどころとなるべきものが両親の価値観であり、特に父親の価値観である。
●事実派と能力派
「カルチュラル・リテラシー」という語が人口に膾炙するようになったのは1987年にハーシュ(E.D.Hirsch, Jr.)のCultural Literacy(邦題『教養が、国家をつくる』)が出版されてからである。「カルチュラル・リテラシー」とはその国の文化を知る教養を指す(「文化常識」「文化的教養」と訳されることもある)。つまり、読み書き算盤やコンピューター・リテラシーだけでなく、カルチュラル・リテラシー(Cultural Literacy)というものを重視した教育が不可欠だという。この本はアメリカ経済が戦後最悪の経済危機に陥っている時代に書かれたものであり、当時の日米の経済状況下(「アメリカに教わるものは何もなし」などと豪語していた経営者が多かった)で、アメリカの個性教育が問題点を多く抱えていた時代の産物であるが傾聴すべき点も多い。
ハーシュによればカルチュラル・リテラシーとは次の通り。
すべての有能な読み手が必ず有している情報のネットワークであって、頭脳に蓄えられたこの背景情報によって、人は新聞を手にとり、十分な水準の理解力によって記事を読み、要点をつかみ、含意を読みとり、その記事を、読んだ内容に意味をもたせることができる唯一のものである暗黙の文脈と関連づける。
背景情報(background knowledge)というのは拙論(1992,95,98)の「レアリア」(realia)に相当するもので社会の成員が共有し、社会の運営に有効と認識されるために維持しようとすることがらについての知識運用能力である。ハーシュは付録として「アメリカの基礎教養5000語」を付けているが、例えば、“J”の項目だけ見てみよう。
Jack and Jill, Jack and the Beanstalk, Jack Be Nimble, Jack Frost, jack-of-all-trades(master of none), Jackson(Andrew), Jackson(Jesse), Jackson(Stonewall), Jacksonian democracy, Jacksonville,Jack Sprat, Jacob and Esau, Jacobin, Jacob's Ladder, Jamaica, James(Jesse), James(William), Jamestown settlement, Janus, Japan,jargon, Java, jazz, Jazz Age, Jefferson(Thomas), Jefferson democracy, Jeffersonianism versus Hamiltonianism, Jehovah, Jehovah's Witness, Je ne sais quoi, jeremiad, Jeremiah, Jericho(Battle of), Jersey City, Jerusalem, Jesuit, Jesus, jetstream, Jew, Jezebel, jihad, Jim Crow, jingoism, Joan of Arc, Job, Johannesburg, John(Saint, Gospel according to), John Brown's Body, John Bull, John Doe, John Henry, Johnny Appleseed, John Paul II(Pope), Johnson(Andrew), Johnson(Lyndon B.), Johnson(Samuel), John the Baptist, John XXIII(Pope), joie de vivre, joint chiefs of staff, joint resolution, Jolly Roger, Jonah and the whale, Jones(John Paul), Joplin(Scott), Jordan River, Joseph and his brothers, Joshua, Joshua Fit the Battle of Jericho, journeyman, Joyce(James), Judaism, Judas Iscariot, Judgment Day, Judgment of Paris, judicial branch, judicial review, Julius Caesar, Jung(Carl), Juno,junta,Jupiter, Jupiter, justification
これらはアメリカ文化に根付いたリテラシーで多くの日本人に馴染みのない語が並んでいる。この本を具現したのがThe Dictionary of Cultural Literacyである。これには“Lee Harvey Oswald”は載っていても日本人は“Hirohito”しか載っておらず、“Japanese emperor, who came to the throne in the 1920s. He reigned over the Japanese in World War II. After the war, he was foced to give up the claim to divine status that previous emperors had made. He died in 1989, after long outliving all the other major figures associated with the war.”と記述してある。アメリカの初等・中等教育では個性を伸ばすという目的で能力開発型の自由教育を日本の詰め込み型・丸暗記型の教育と反対に採用してきた。これは事実や内容を教えることよりも「頭の体操」的な能力開発を目指していた。ハーシュが憂えているのは自由教育によって同じアメリカ人でも同じ話題を持つことができなくなっていたり、同じ学校を卒業してもカリキュラムの違いで共通の会話を持つことが不可能になっている現状であった。日本型の教育を「事実派」とすればアメリカ型の教育を「能力派」と呼ぶことができようがハーシュは能力派の考えを全面的に否定せず、両派の協同が重要だとする穏健な立場をとっている。同様の主張は1991年に出版されたシュレジンガーの『アメリカの分裂』でも英語モノリンガリズムと一緒にして繰り返されている。
しかし、この本は日本ではあまり注目されず、全文検索のサーチエンジンで「カルチュラル・リテラシー」を検索してみると拙HPしか出てこなかった。これには日本文化が均質的で、教育も既にカルチュラル・リテラシーを重視するものであったことと、『現代用語の基礎知識』『imidas』『知恵蔵』など補完手段がそろっていることなどがあげられる。
とはいえ、日本でもカルチュラル・リテラシーの貧弱さが文化の断絶に連なっていることが多い。能、狂言や歌舞伎をいうまでもなく、落語にいたるまで現代の若者はレアリアを知らないから理解することもできない。
「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉も三味線も桶屋も知らない学生が増えてことわざとしては通用しない。これは文化用語だけではなく、工業用語でも同じである。他でも書いているように時計の歴史において“hair spring”(ひげぜんまい)の発明が重要な役割を果たしたという文があってもゼンマイを知っている学生が少なかった。バネの一種のゼンマイだけでなく、山菜のゼンマイさえも知らないのである。同様に「真空管」や「IC」などもすでに廃語となっている。
確かに社会的に新しいモノや概念が生み出されるたびにリテラシーの語彙は異なってくる。「パソコン」も「PHS」も「DVD」も、「セクハラ」も「フォーク並び」も「カルチュラル・スタディーズ」も20年前にはなかった。しかし、これらの変化は日本語の中でいつまでも変化しない単語や連想の数と比べればわずかである。すぐに役に立つ技術・リテラシー・カリキュラムはすぐに役に立たなくなることが多い。
ハーシュの本はアメリカの多元主義に対して、社会統合を支える一定の文化的基盤、共通の価値観が求められたという背景から生まれている。明治維新の日本でイデオロギーとしての「國語」が求められたように、多元主義で社会格差が肥大化しつつあるアメリカの統一原理ともいえるものである。
この議論はしかし、「カノン(正典)論争」(The Great Canon Controversy)と呼ばれる大論争を引き起こした。それはハーシュの語彙や古典は西欧中心的な価値(特にWASP中心の文化)に基づいており、現実の文化、民族、人種の構成を配慮して多様な視点やニーズを含めたものに改変されなければならないとした。言語についてもバイリンガリズムに反対はしていないが、まず国語である英語をこなせるようになってから二つ目の言語を習得すればよいと考えている。この点もエスニック・グループが多いアメリカの言語事情を無視しているとしたものである。
同様に、日本人には国際化という大きな問題がある。日本語や民族性の「ガラスの壁」(“glass wall”祖父江孝夫)があるが、国際化とリテラシーはどう関わればよいのだろうか。それはカルチュラル・リテラシーをも内蔵した「グローバル・リテラシー」というものだろう。
□ 事実派と能力派の対立はまた、知性と感性との対立とも似ている。
林道義の理論はもちろん、事実派に近い。日本古来の伝統を大切にして行けば解決が生まれてくると考えるのである。
日本の教育は事実派から能力派に大きく変わろうとしている。円周率という原理が分かれば、それが3.14であろうと3であろうと構わないという立場を採るようである。
確かに僕らの時代には些事まで記憶させられたし、社会生活を送る上でほとんど役に立っていない。役に立つのは子どもに教える時くらい、という皮肉な状態になっている。
何もないところから何も生まれてこない。とはいっても充足しすぎていると新しく何かを生む余地がない。
事実派も能力派も片方の言い分だけでは何らの解決を見いだせないであろう。
●知性と感性
「酒鬼薔薇聖斗」事件以来、“心”の教育が叫ばれるようになった。あの忌まわしい事件が果たしてレアケースだったのか、それとも社会を反映しているのか検証されずに“心”が大切だといわれる。僕が高校生の頃も“心”が失われていると言われていたり、戦前の日本でも“心”が強調されていただろうが、当時の日本人が特にすぐれていたということにはならない。
国など他人のために身を捨てる行為は立派ではあるが、一人一人が疑問をもてば、犠牲は少なくなったはずである。一人の飛行士を作るためには多くの時間と費用がかかるのに、オペレーション・リサーチで防護して万全を尽くしている米軍に突撃していって、成果があるかどうか、一歩下がって考える人が生まれなければ戦争の本当に悲惨さが見えてこない。
□ もちろん、確かに今の子供の心は昔の子供とは違ってきている。僕らの小さい頃にはビデオもなかった(僕の小さい頃、テレビもなかった)し、ファミコンも塾もなかった。その代わり、自然があったし、広場があったし、未来があった。
マルチメディアは感性の革命だともいわれたが、例えば、メールや掲示板や自己PRのホームページによってどれだけ欲望を肥大化しているか分からない。匿名という安全地帯にいて、自分のいいところだけを全面に出して、
自分たちの時代と一緒に論じられるはずがない。しかも、“心”の教育と心を取り出して考えているところに既に問題がある。つまり、心を何かモノのように扱っているとしか見えないのである。
今は死語なのだろうが、大学に入った時に全人教育ということがいわれた。「全人」とは荘子(徳充符「霊公悦之、而視全人」)にも出てくる言葉で「知識・感情・意志の調和した円満な人」という意味である。
どんなにすぐれた知性にも、知性によっては真のリアリティは把握できない。感性と相まって初めてリアリティが生まれてくる。
知性だけではいけないし、感性だけでもいけない。「知性」とか「感性」という言葉は耳障りがよすぎるが悪くいえば知識と感情である。知識だけ、感情だけの人間が生まれたら大変だ。
そして知性と感性を勝手に分けて論じるのは危険である。なぜなら、知恵というのは知識と感情をうまく組み合わせた所に生まれてくるものだからだ。
小説でも映画でもそうだが、知性だけ、感性だけの作品は失敗だ。両輪相まって初めて優れた作品になる。
俳優の矢崎滋は東大英文科を中退して、演劇に入ったが、すぐに「なんだ、君は芝居を頭で考えるのか」なんて言われたりするという。「誰だってみんな頭で考えるのに!」と矢崎は怒っている。
人間も知性と感性の両輪があってこそ、人間たり得るのである。
□ 作家や芸術家は感性があふれていると評されることが多いが、感性だけでは何も表現できない。感性さえ優れていれば、優れた芸術家になれるのだとしたら、2,3歳の子どもなど天才的な芸術家になってしまう。
芸術家になるためには知的な数多くの努力を経なければならない。
否、芸術家でなくても細部は必要だ。力強い絵だから歯が一枚足りない、二枚足りないというのは間違っているような気がするが、正確に捉える、描く、書くことは非常に大切なのだ。基礎がなければ前に進まない。
だから、円周率の3.14も3も同じというのは円周率の不思議さを全て捨象してしまう暴挙なのである。
知的に理解し、細部にこだわる、そんなことが本当の意味での観察力を作り、他人への感性も育んでいくのではないだろうか?
□ 知性と教養はいつもペアで語られることが多いが、知性があっても教養はない、逆に教養があっても知性がない人も多い。
林道義の文章などは知性は感じられるが教養を感じることは少ない。教養というのは感性の一部なのだ。つまり、相手の気持ちをくみ取るという、人間が本来持っていた感性が欠けている。賢さがあっても、優しさがないという、ちょうど全共闘時代の学生たちのような思考なのである。今の若者は優しさだけがあって、賢さが欠如している。
タフでなければ知ることはできない。優しくなければ知る資格がない。
□ 河合隼雄は「理性的教育の結果、心と体が分離され、“性”は体のこととして、倫理的判断が入り込む余地がなくなってしまった」(『子どもと悪』岩波書店)という。
つまり、体だけが欲望のままに動くというわけだ。性教育がコンドーム教育に成り下がっている。しかし、と河合は戒める。「心と体を分けることによって、人間存在の最も大事なことが抜け落ちてしまう〉と。 それは心と体をつなぐ魂のことだ。“心”だけを悪性ガンを取り出すように治療することはできない。大人が魂を取り戻さないかぎり、子供たちの未来に不安が付きまとう。
アメリカの精神療法家のスチーブン・ギリガンは次のようにいう。
人間には二つのこころがある。頭にあるのが認知的・社会的なこころで、おなかにあるのが、ときに無意識とも呼ばれる非常に古いこころだ。この二つが協調できないと、さまざまな問題が起こる」。もちろん、心の場所がどこにあるかは問題だが、どちらも大切で、しかもバラバラではいけない。
ダニエル・キース(『アルジャーノンに花束を』などの作家)も同じことを言っている。“empathy”とは「感情移入」のことである。
知性は大事だが、感情を伴わなければ役に立たない。エンパシー、つまり他人の感情や痛みを共有することが出来てこそ、その知性が輝く。
知性だけで考えると、「氷が解けて何になる?」の答えは「水」でしか考えられなくなる。「春」でもいいのだ。
●デジタル的な知とアナログ的な知
M・バーマンは『デカルトからベイトソンへ』(国文社)でデジタル的な知とアナログ的な知を次のように説明している。
デジタル的な知とは、言語的=合理的な知の形態であり、印刷術の発明とともに飛躍的に増大した抽象的な知である。デジタル的な知のよるべである言葉というものは、それが指し示すものとの間には何ら必然的な関係をもっていない【牛は大きいが「牛」という言葉は少しも大きくない】。
これに対して、
アナログ的な知は図像的な知である。すなわち情報それ自体がその情報によって伝えられるものを体現している【大声は強い感情を体現する】。この類の知がポラニーの言う意味での暗黙知であり、詩、ボディ・ランゲージ、ジェスチャーや抑揚、夢、芸術、幻想などはすべてこちら側に含まれる。
これらの知は最終的に相互翻訳することはできない。人間の行為にはいつもこれら二つの知が関わる。例えば、日常の言語の伝達には必ず声の抑揚やジェスチャーが伴わずにはいないが、そのことによって、言語的メッセージがいかに解釈されるべきかの指示を与えている。アナログ的な知は、デジタル的な知である言語的メッセージの「背景」を形成している。これら両者の関係にはゲシュタルト心理学でいう図と地の関係が存在しているから、両者が単純な二極関係に置かれているのではない。
以上、色々と対立させて考えてきたが、どちらかが中心というのではなくて、焦点が二つある楕円のようなものだと考えている。その楕円の中で家族というものを考えていかなければならないだろう。
●日本人と父親
随分前に書いた論文に「アメリカ映画における母親の不在」というのがある。
そこで論じたことはアメリカ映画では父親の役割の大きさが強調されるが、日本では母親ばかり強調されるということである。例えば、J・ディーンの映画は「エデンの東」も「理由なき反抗」も父親の愛を求めるというものであるし、前者のパクリといえる石坂洋次郎の「陽の当たる坂道」では愛の対象が対照的に母親に変更している。
スポック博士の『親ってなんだろう』(新潮文庫)【現代アメリカの抱える困難の大きさが見えてくる】でも「今日の父親」という1章はあるが、母親については特に触れてない。
シェイクスピアの作品の中で2度ほど「お前は誰だ?」と聞かれて「母の子でございます」「なるほど、父の子であるか分からないが母の子であることは確かだ」という場面がある。
考えてみれば、母親は生んだというだけで母親たりえるが、父親はどうして父親なのか示さなければならない。
父親というのは人類が発明したものである。父親という神話を作りあげて、アイデンティティを主張しなければならなかった。
『第二の性』のボーボワール女史に倣っていえば、「人は父親として生まれるのではなく、父親になるのだ」なのである。
□ 日本で父性が問題になったことはなかった。文学や映画などで取り上げられるのは圧倒的に母性であった。父権が問題になることはあり、戦前の悲劇の多くが「父親による勘当」というで始まった。母親は勘当などしないのである。
日本には精神医学者土居健郎が指摘したように甘えがある。「乳児の精神がある程度発達して、母親と自分とは別の存在であると知覚した後に、その母親を求めていることを指していう言葉」である。
また、河合隼雄も『母性社会日本の病理』という本を出していて母性社会を嘆いている。
母親とあまりにも一体化していて区別ができなくなって母親に暴力を振るう子も出てくる。
□ 人類学者のブロズナハンによれば「十歳ごろまでの日本の男の子は世界一の王様で、行動を抑制されたり、しつけを受けたりすることはまったくといっていいほどない」ともいう。
アラブ諸国でも男の子を強く望み、授乳期間中は性交しないという習慣があるので、女児を生んだ母親が授乳を早々と切り上げ、次は男児を妊娠しようと努力する。待望の息子が生まれると、妬みを防ぐために女児の格好をさせる(「邪眼」Evil Eyesという)。
当然、日本もアラブもフセインのように甘えの中にどっぷり浸かった男が生まれる(フセインを甘やかしたのはアメリカ政府だったというのが定説だ)。
しかし、幸か不幸か日本には父親の権威はなかった。
□ 日本全体が貧しいことは問題がなかった。父の汗を流して働く姿を間近に見ることができたし、お土産一つで父親の体面は保てたのである。
今は封建社会でもないのに父親だけが権威を鼓舞して何になるだろう。会社では窓際になっている父親が子供相手に威張ってみせても虚勢でしかない。むしろ、哀しさを感じてしまう。
母親も似たようなもので自分の胎内から生まれたからと言って自分の体の一部、所有物(モノ扱い)のように思っている。こうした母親は一方的に命令を出すだけで反抗を許さない。これではいつまでも子供の自主性が育たない。
□ 最近の多くの調査が日本の子供たちの生活の豊かさを浮き彫りにしている。半数近くの子供が専用のテレビを持っていて、10歳から12歳の男子のテレビゲームの所有率は91%にも上る。
くもん子ども研究所編『今どきの子はこう育つ』によれば、物持ちの子供ほど父親とのコミュニケーションが密接だという。そうした子供たちは子供を演じるのが得意で、親たちも親を演じるのが得意だという共犯関係が成立していると分析している。
それで幸福ならば問題がないが、多くが充たされていないという。
自由がありすぎて実は困っているのではないだろうか。
何にでもなれるよ、というのは悪魔の囁きなのである。
日本の父親はもっと自信をもたなければならない。
「お父さんは、亡くなってしまっていても、存在感の強かったお父さんというのは、その姿はずっと子供の心の中に残る。だから、子供に迎合することがお父さんの存在感を強めるのではなくて、むしろ弱まるかもしれない。自信を持って生きればいいんですね。」(石川 実/奈良女子大学・家族社会学)
●父性の創造に向けて
厳格な父親だけではいけなし、相談できる部分も必要だが、友達のような親子関係というのは父子の姿ではなく、母子の姿である。子供と親、子供と教師などの垣根をなくすのが民主的な教育だとしていた日本の戦後教育はその意味では間違っている。
誘惑者タイプの父親もある意味で魅力があるが、そのままのめり込んではいけない。
ある程度のめり込なければならないが、傍観者であってもいけない。
不在は特に心理的な不在がよくない。日本の父親はあまりにも忙しすぎたが、忙しいといって育児を母親に押しつけていた。
父親が必要だから離婚するな、などという論者もいそうだが、実際に離婚家庭も増えてきていて、父親が必要だなどとは簡単にいえなくなった。父親が必要なのではなくて、母親を支える人々が必要なのである。小児科医のウィニコットも「誰でもほぼよい母親になれる。ただし新米の母親を支える人がいるならば」と語っているように、特に核家族が中心となった日本の現代社会では支える人が大切である。それは父親でなくてもよい。第三者でいいから子育てを支えなければならない。
「甘え」というのも何でも受容する母親の愛を指す。そして、日本の家庭内暴力は多くが自我と一体化してしまった母親に向けられる。日本で、父性が育たず、父権だけで抑えてきた反動なのかもしれない。物わかりのいいことが民主的ではないし、まして自由を与えていることにはならない。自由は規律があってこそ、成立するものなのだ。また、父親が子供の生活を細かくチェックすることは母親の役目を侵し、しかもそれによって父性を喪失している。
父親的なものが最初に断ち切るべきは「母子カプセル」と呼ばれるような母子関係の濃密さであろう。
最近はfatheringといって父親の育児への加担が必要だといわれているが、父親は父親としての役目があることを忘れてはいけない。もちろん、これは家事の分担とはまた別の問題である。
二人も母親はいらない。「パパ機能(目的達成機能)」と「ママ機能(人間関係維持機能)」をうまく組み合わせて子育てすることが大切だ。
それは「あうんの呼吸」かもしれないし、相互に上手くボケとつっこみをしながら育てることも必要だ。
□ もうひとつ忘れてはいけないことは子供の成長とともに父親の役割が異なることである。
幼い時は子供の庇護者であるが、成長期には男としての手本であったり、反面教師であったりする。そのプロセスの中で、男どうしとしての葛藤や摩擦を生じることも多い。しかし、ある日、成長した息子はかつては自分よりも大きな存在だと思っていた父親をいつの間にか追い越していることに気付くはずだ。父親に老いを感じる一瞬のほろ苦さは人生そのものの味わいでもある。そして改めて男どうしの絆を実感して父親を優しい気持ちで迎えられるようになるのだ。
□ 欧米の野外活動を好む家庭では、父親が息子にナイフを贈るという。木を削り、肉を切るのに必要な道具だからだ。だが、間違えば凶器にもなる。だから息子の成長を見届けて渡す。つまりナイフは「おまえは一人前なんだぞ」という信頼と責任のあかしだ。
日本のブームも元はアウトドアから来ていた。それが、格好だけのものとなり、凶器となった。
一人前とは、持っている力に振り回されない、ということだろう。別にナイフでもなくても学歴に振り回される人もいるのだ。
□ 何でも自由になって「一人前」というのが死語になってきた。でも、一人前の子供に育てることがどんなに大切か、問われている。
父親にとって必要なことは大人の世界への通路を確保してあげることだ。
大人には大人の人生がある。苦しみもあれば喜びもある。そのまま子供には伝えたい。子供には分からないこともあるだろうが、大人として父親は苦しんでいる、という姿も見せなければならない。
自慢ではなく、自分は何をしてきて、何を考えていたかを、いつか子供に伝えなければならない。こうして文章を書いているのも、いつか子供らが読んでくれるだろうという期待がある。くだらない文章にしろ僕の自己表現なのだから読んでほしいと願うのだ。
子供を一人前にする、それは「自己達成感」を与えることであるし、「自己肯定感」を植え付けることでもある。自分は愛されているという感情がどこかにあれば自殺はもっと防げるものだ。
大人の世界から遮断しているだけでは子供は子供の世界から一歩も出ないで、やがて自分の殻の中に閉じこもっていく。そして、小さなつまづきが原因で挫折したり、ひどい場合には事件になる。
そうなる前に、さまざまな局面で、適切に子供に“コミット”したい。
子どもの自立期に具体的な援助で社会に押し出してやれる知恵を私たちは持つ必要がある。
その役割を担うのは、もしかしたら父親でも母親でもいいのである。そういう機能を回復すべきなのである。
□ 「父性の復権」という言葉に惑わされていきなり教育に介入してきて“父親風”を吹かす父親だったらいない方がましかもしれない。
父性神話に押されずに、新しい父性を考えることが大切だ。
いや、考え続けることが重要だ。
今、日本の家庭に必要なのは父性の創造だ。
決して、父性だけ、母性だけの強調で新しい社会が築くことはできない。
※この文章は「神話的『知』のすすめ」と対をなすのでよかったら読んで下さい。
一人で頑張ってみても、日本社会全体が甘くて、しかも最近は偉い人が誤って、謝ってばかりだ。これでは不正の創造だぁ。
何よりも僕自身、子育て中で右脳・左脳しているだけなので偉そうなことはいえない。理論的な枠組みだと思って下さい。
あとがき 『父性の復権』の林道義さんのホームページが2000年4月にできたので紹介する。
こちらに「トリックスターとしての河合隼雄論 - 創造なき「父性創造論」も出ている。河合隼雄さんもトリックスターと言われて大いに満足だと思う。
まだ書かれていないが、僕への反論(「金川“欽”二氏への反論」と書いてある)も出るようなので(僕のようなものを相手にするほどお暇ではないと思うが)楽しみにしている。偉い学者に批評されると誇大化した自己を感じてしまう。ただ、その後、出された多くの著作には興味がないので、読んでないと批判されても困る。同じように僕の批判をするのに他のエッセーも全部読んでくれ、とは言わない。
答えがない、という批判も出ると思うが、林道義さんが求めるような答えはない。それほど単純ではない。
問題は社会の変革を一歩一歩進め、その中で、両親が自分の家庭に見合った答えを一つ一つ見つけていくしかないのである。母性も父性もバランスが大切なので、しかもそのバランスは微妙なものなので、正解は一つではない。
それに悪いけれど、林道義さんが育てたのは女の子であって、男の子ではない。男の子を育てるのとは訳が違う。大嫌いな思想家だと思うが、バダンテールは『XY―男とは何か』(筑摩)で、女の子は放っておいても大人の女になれるけれども、男の子はそのままでは大人の男になれないという。「男になる」のはとても不自然で困難なのだ。だからこそ、どの民族も「男になる」ための装置として過酷な成人儀礼を用意してきた。しかも父親の出番はないところで、行われるものだ。
ぼくは時々、男の子が生きていくってのには相当ややこしいところがあるらしいとしみじみ思う。---庄司薫『さよなら怪傑黒頭巾』
□ 21世紀に向けて社会は大きく変化している。その中で、「父性の復権」という言葉で全ての家族をくくって考えるようなことだけはしてはいけない。子育てが楽しくなるような社会を作る方向で大きく動かない限り、責任を家庭に押しつけてはいけない。
イジメがあるのに、イジメをするような子どもを作る親が悪いとかイジメに耐えられない子どもを作る親が悪いとか言っていても始まらない。イジメのあるような社会になってしまっていて、それは日本社会の病巣みたいなもので、父性とか母性を云々して責め合っていては解決にはならない。父性を強調して、強いリーダーシップを求めて、それが石原都知事のようにただのスタイルであったり、弱者を冒涜するようなものであってはならない。
林道義さんのようにインテリで社会的な地位も名誉も高く、お金持ちで問題のない家庭は少ない。しかし、他のどの家庭もリストラや借金などの多くの問題を抱え、共稼ぎを止めていい環境にはない。問題のある父親がいることは確かだが、それが今の教育問題の全てではない。
林さんの論点には「知的生活の方法」などという本を出せばお金も入って知的な生活が送れますよ、というような人々と似たような、日本の普通の家庭とは違った雰囲気がある。そんなに立派な家庭ばかりではない。汗して労働し、日々の生活に苦労している人たちばかりである。大上段に「父性の復権」と言われても、戸惑うだけである。歓迎するのは責任を家庭に押しつけたい行政や出版社ばかりである。
学校では管理が想像以上に進んでいる。子どもたちも管理されている。親が勤める会社も同様だ。これ以上、「父性」といって管理主義的な傾向を強めるのは危険だ。
どんな批判をされるのか分からないが、ユング派の専門家だという権威を前面に出して批判されるのは堪らない。
□ 僕よりも斎藤学さんがきちんと書いておられるので、長いが引用させてもらう。
これら「新保守主義」の「健全な家族」の提唱は、何よりも政治運動だということを念頭におく必要があると思いますが、この主張の一番の過ちは、まず自分たち男あるいは父親が、自己尊厳とかプライドをもつべきだと主張していることです。そもそも自己尊厳とかプライドという言葉は、尊厳を汚され、もうダメだと思っている弱者の視点、たとえば虐待された子どもや親に愛されなかった子ども、あるいはレイプされた女性などに使われる言葉です。
それなのに、権力をもつ側が、まず自分たちが自己尊厳やプライドをもとうと言うとき、これは暴力となることがあります。なぜなら、支配される者たちは自信満々の権力者の説教を聞いているうちに、それを自分の心のうちに取り込んでしまうからです。そして、心の中に過酷な暴君をつくりだして、その奴隷になってしまうのです。
そもそも家族とは権力機構であり、父親は基本的に権力者であり、女性と子どもは弱者です。母も子どもとの関係では権力者になります。権力には、それ自体がもつ悪、力のもつ悪があります。そういう側が、弱者や以外社に対する視点を欠落させてしまうとき、これは非常に危険なものとなります。「新保守主義」の危険性は、この点にあります。どんな父親をやるか、それについて考えるとき、何ひょりもこの視点を念頭に置く必要があります。
わたしは、二十世紀最大の功績はフェミニズムだと思っています。わたしはフェミニズムから、男はそんなに頑張らなくてもいいよというメッセージを読み取っていますが、女と男の関係を愛や性ではなく、権力で言い換えたことがフェミニズムのすごいところだと思います。この洗礼を受けていない父親論はおかしくなる、古臭いものと変わらなくなってしまうと思っています。
-----斎藤学『「家族」はこわい』(日本経済新聞社1987>新潮文庫2000)
□ もっと注意深く読めば、僕のエッセーは反論などを要するものではない。書いていることは感性も知性も大切だということにつきる。バランス感覚が必要だと力説しているのであって、一方的な、旧勢力に都合のいい話ばかりではダメだと話しているのである。ソーティール『スーパーカップル症候群』(大修館)のように理想を追いかけすぎて潰れる家庭の方が怖いのである。受験だけでなく、多くの少年事件を目の前に日本の主婦の不安は増大している。
ただ、基本的な考え方は実弟の林紘義さんの社労党『プロメテウス』25号の批判に書いてある通りで、個人的に反論される必要はない。
まず、実弟からであろう。だって、同じ親に育てられていて、親というものに対する考えが180度違うのは何かおかしい。どんな家族だったのだろう?他のことなら兄弟で意見が違って当たり前と理解できるが…。家族が関係ない、というなら『父性の復権』の中でお嬢さんをちゃんと育てたと自慢するのは止めましょう。子育てが難しいのは圧倒的に男の子だからだ。それは自分自身を振り返れば分かることだ。
●林道義のホームページ (金川欣二氏への反論)
●林紘義「ゴリラは人間の理想たりうるか」(実弟による批判)
●「叱れない親と叱りすぎる親」(斎藤学さとるによる批判)□ 7月7日、次の一文を足した。
2001年9月1日、特に批判もしていない『父性の誕生』の鈴木光司(『リング』!)を批判しているのに驚く。よほど、「復権」でないとまずい事情でもあるのか?
●マザコン的エセ父性論 ──鈴木光司『父性の誕生』の自信過剰
「お母さん!」2008年2月16日中日新聞
「我六歳の時より育て下されし母。継母とは言へ 慈しみ育て下されし母。俺(おれ)は幸福だった。遂(つい)に最後迄(まで)『お母さん』と呼ばざりし俺。母上お許し下さい。さぞ淋(さび)しかったでせう。今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん お母さん お母さんと」目頭が熱くなった。18歳の若さで南の空に散った相花信夫少尉の遺書だ。いがぐり頭でほほ笑む遺影は、子どものようにあどけない。
鹿児島の知覧特攻平和会館を訪ねた。太平洋戦争末期の昭和20年春、知覧基地などから沖縄戦に出撃し、二度と帰らなかった陸軍の特攻隊員1036人。全員の遺影が壁を埋め尽くし、多数の遺品や遺書が展示されている。
あちこちから、すすり泣きが聞こえてくる。遺影と同じ年ごろの若者も、涙を浮かべて見入っている。死を覚悟した汚れなき思いは、誰の胸をも打たずにはおかない。
「一撃必殺」「没我轟沈(ごうちん)」「誠死」…勇ましい決意を墨に託した絶筆も多い。
読み進むうちに私は、別々のコーナーに同じ名前の遺書があるのを見つけた。内容が随分違うではないか。
「遺言」に「天皇陛下万歳。神州ハ不滅ナリ。若桜ノ如(ごと)ク散華(さんげ)ス」としたためた20歳の中村実大尉。部下には、こう書き残している。
「お母さん お母さん。今俺は征(い)く 母を呼べば母は山を越えてでも雲の彼方(かなた)からでも馳(は)せ来る。母はいい 母ほど有難(ありがた)いものはない 母!母!」
「尽忠報国 神兵突撃」と寄せ書きした26歳の飯田秀臣少尉は、親にあてた遺書には「お母さん 不孝者でした おゆるし下さい 元気で征きます」と。
「お国のために」。強いられた決意でいくら心を武装しても、奥底からあふれ出る思いは抑えることができなかった。「お母さん」と叫ばずにはいられなかったのだ。
母に寄せる思慕は、命への思慕でもあったろう。それを断ち切って飛び立った特攻隊員たち。最期の脳裏に浮かんだのも、きっとお母さんの笑顔だったに違いない。
知覧基地の跡に広がる畑では、もう菜の花が風に揺れ、命の春が芽生えていた。
(名古屋本社編集局長・加藤 幹敏)
子供の年齢別 お父さんの接し方 お父さんが家族や子供のためにしてあげられることとは?
子供の成長に合わせて、お母さんにはできないところを補う接し方をしてあげることが大切。
お父さんの接し方 乳幼児期
(0〜6歳)●お母さんの育児をサポートする!
「お父さんが育児を手伝うとお母さんの気持ちが安定する。乳幼児期は、お父さんの見習いの時期」(深谷昌志教授/尚美学園短期大学・教育学博士)
・お母さんが疲れぎみの時、
お父さんが育児を1日交代して、お母さんを外出させてあげるのも良い!学童期
(7〜12歳)●お父さんから子供に積極的にアプローチする時期!
●遊びや勉強を通してさまざまな経験をさせる。ただし主役は子供!
「今の子供たちは友達が少ないので世間が狭い。テレビゲームとかテレビや漫画の世界にいるので、お父さんが子供のリーダー役になって世間に引っ張っていく。」(深谷昌志教授/尚美学園短期大学・教育学博士)
・子供に宿題を聞かれてわからない時、
下手な見栄を張らず正直に「わからない」と言い一緒に調べてあげる姿を見せることが大切。
・子供が学校でイジメにあっている時、
細かい事情は母親に聞かせ、内容を知った上で子供には気付かれないように何気ないアドバイスをしてあげると良い。(イジメの初期段階に限る)青年期
(13歳以上)●お父さんは子供からのアプローチをじっと待つ時期!
●子供の意思を尊重し社会に適した判断力を持たせる。
「お父さんは普段いなくてもいいから、ここ一番の時に自分の考えをしっかり言えるのがお父さんの存在理由だと思う。子供が将来思い出せる一言が言えれば、お父さんとしては卒業。」(深谷昌志教授/尚美学園短期大学・教育学博士) ・一緒に出かけるのを拒否された時、
子供が成長した証拠。喜ばなければなりません。
・部屋に電話が欲しいなどプライバシーを要求してきた時、
ルールを決めた上で要求に答えてあげることが大切