ショート・エッセイズ
最近は書くことがなくなって、というか、書く気力がなくなってしまって、ネットからおさらばしている。書かないでもいいのだが、そろそろ更新していないと死んでいるのではと思われる世代になってきた。
書かないのはもったいない、という声もなく、ブログを始めるにはプライバシーが問題ありすぎで、どうしようかと思っていた。それに、ブログを終えた時に、ファイルがどうなるか知らないのだ。大量の本を読んでいるのだから、少しは感想を書いてみようと思った。よく「博学」と間違えられるが、読んでいる本の量が違うだけだ。
川上弘美は『なんとなくな日々』のあとがきで「でも、エッセイって、ほ、ほんとのことを、身辺のことを、機知にあふれたことを、か、書かなくてはいけないんでしょう。そんなものは、か、書けっこないじゃありませんか(わたしは緊張すると、舌がもつれます)」と書いているが、僕のエッセイにな何もない。
ただ、書き始めるとキリがないので、本を読んだメモ程度に留めようと思う。つまり、特に気に入った個所とか、どこが面白かったかなどの感想に留める。最後のオチなども無理に考えないことにする。
実は、ある英語の先生に、「先生のホームページはむずかしすぎる」と言われた。これへの反省もある。 『こんな日本でよかったね』(バジリコ)で内田樹は「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される」という。僕も同じように訳の分からないことを書いているが、創造にはなっていない。はっきり言っておきたいのだが、鋭いことは何も書けない。面白くないエッセイばかりだ。他の長篇と同じように。
ただ、こうした断片がいつか花咲くこともあるかもしれない。
書こうとする小説がまず最初にかたちを持つのは、あるときふと胸の片隅に宿る、幻のような断片だ。書こうとするその小説のぜんたいをすでに内包した断片のときもあれば、文字どおり断片にすぎない場合もあるが、いずれにせよ、これはかならず小説になる、と書く当人である僕が確信できるような断片だ。【…】
記憶とは、すでにあるものだ。書こうとする僕を助けて作動し始める記憶は、眠っていたさまざまな記憶をゆり起こすだけではなく、当人といえでも意識的にはまず結びつくはずもないあちこちの記憶と結びつき、化学反応のようなことを起こし、それまではなかったあらたな記憶を作り出してもくれる。【…】
---片岡義男2007年9月22日朝日新聞
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