金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)

和崎先生と西町ロンド


 京大の近衛ロンド【エスペラント語で「サークル」】にあやかって富山にも文化を考える会をということで富山大教授に就任されたばかりの和崎先生*をお招きし、榊原義昭【吉明】さん**の肝煎りで1979年11月21日に結成されたのが西町ロンド(「地域文化懇談会」)である。

 場所は榊原さんの経営する喫茶店「ジャズ・ワークショップ」の3階。初会合には50人位の野次馬とマスコミが集まり、大変な騒ぎになった(その後も各マスコミが順番にニュース番組にしていき、これに完全に振り回された)。

 毎週水曜日(後に火曜日)に集まって文化について語ろうとしたのにスワヒリ語講座のみが喧伝され、奇妙な出発だった。榊原さんの大変な努力にも拘わらず、野次馬が去り、マスコミが去ると残ったのは僅かの人間だった。色々な路線の違いから去っていった人もいたし、私達のテンベア的な性格(この場合は、飽きっぽいということらしい)もロンドの少人数化の遠因となっているようだ。

 それでも志が高い人々によって毎週一度は集まり、ポンベ【酒】を飲み交わしながら(和崎先生を始め、のんべえが実に多かった。桜の季節にはお花見もした)大いにアフリカや日本の文化について語り合ったものだった。実践的にチャイ【ミルク・ティー】やカランガ【シチュー】を作って試したり、先生が出演なさっている『ピキピキ【オートバイ】おじさんと子供たち』の映画を上映したり、この間に先生の『スワヒリ語・日本語辞書』も刊行されたりしたことも相まって、まことに楽しく賑やかで有意義な会合であった***。

 更に僕が編集長になって『ロンド・タイムス』という機関誌も作られた。1981年には私と仲間5人がアフリカへ旅をし、その後もロンドのメンバーから何人もがアフリカに行っている。ただ、実質的にロンドが消滅していったのは同じ年の10月頃である。その代わり、このころから榊原さんが富山県の東端にある朝日町大平(だいら)小学校の廃屋を利用して大平ロンドを建設。エコロジーを突き詰めて考える拠点となった。ここでマル・ウォルドロン(晩年のビリー・ホリディの伴奏者)を始め、何人かのコンサートがここで開かれた。

 バージャー病****に冒されながらも活動を続ける榊原さんの姿は北日本放送により『テンベア 神の足をもった男』として放映され、1985年の全国民間放送協会の最優秀賞を取った。また、向井嘉之ディレクターの『110万人のドキュメント』(桂書房)にも取り上げられている。

 今では「ワークショップ」も名前を代え*****、大平も榊原さんの手から牧隆さんの管理下におかれ、榊原さん自身もアフリカに移り住むことになり、かつての仲間はちりぢりになっている。

 もし、西町ロンドが何らかの成果を残しているとしたら、それは僅か2年にしろ、この富山で仕事も分野も違う有為な人材が集まり、アフリカに思いを馳せ(人口比にすれば、県内でアフリカに行ったことのある人の数は大変なものになるはず)、百花斉放のように様々なことをしたり、語り合ったということに尽きるであろう。

 先生や榊原さんの蒔かれたこの文化の種がいつの日か富山の地に芽吹き、花咲くことを夢見て筆をおきます。

------『胡霜集』(和崎洋一教授退官記念会1986年)------



*京大理学部出身で今西錦司の弟子。天理大から富大文学部に赴任。『スワヒリの世界から』(NHKブックス)がある。代表作とされる『スワヒリ語―日本語辞書』(養徳社)は欠陥辞書であり、これに関しては別のところに発表している。
**経歴不明。ナベサダ(渡辺貞夫)さんが最初にアフリカに行ったのは榊原さんの影響といわれる。
***この辺の事情は1980年5月7日の富山新聞『いいたい放談』で高木えり子さんと私が語った記事がある。なお、高木さんはその後、先生の秘書を一時勤めた。
****手足が腐っていく病気で両足を失うことになった榊原さんは自殺を考えたが、窓に届かなかったという。指なども腐っていき、榊原さんはロンドの間もずっと戦っていた。
*****「サムシング」から再び「ワークショップ」に戻った。2008年4月21日、63歳で初めての子どもが生まれたという。


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