言語学を専攻していると様々な国の書物に接する事が多い。
洋書を初めて買った時に驚いたのは奥付けがないことだった。その代わりに前付けがあって、タイトルページの裏に書いてある。昔は日本と同様に奥付けがあったようだが、ほとんど前に移行している。奥付けのことは英語で“colophon”というがギリシャ語の「終わり」から来ている。本の最初から終わりのことを“from
cover to cover”ともいうが、“from title page to colophon”といったこともあった。
しおりの紐というのもあまり洋書で見かけない。日本独特のもののようだが、日本でも紐がつく本は少なくなった。岩波文庫や新書にも70年代初めまで紐がついていた。もちろん、挟む方は“bookmark”といってインターネットで言葉が残っているのが面白い。
外国人はしおりを使う代わりにページの隅を折っておく習慣がある。これは犬の耳みたいなので“dog-ear”とも“dog's
ear”ともいう。日本でそんなことをしたら怒られるところだが、結構多いようで『刑事コロンボ』の中にも“dog-ear”を証拠の一つにする場面があった。
奇妙なことだが、洋書のタイトルを上から書く本と下から書く本とあることで、同じシリーズでも混在していた。どっちから書いてあっても、表音文字を使い、横書きしてある洋書のタイトルは読みにくいが…。ただ、これも丸谷才一の『ゴシップ的日本語論』(文芸春秋)を読んでいて笑ってしまった。国文学者の折口信夫に熱中し、関連する本を探し求めた時期に、書店の扉に「折口学入門」の張り紙を見て夢中で飛び込んだら、「哲学入門」だったという。
日本にないものに“catchword”がある。「政党のスローガン」「辞書などの欄外の見出し語」の意味もあるが、本の最下部の欄外に次のページの第1語を印刷してあるもの滑らかに次のページに移れるように配慮した物だった。でも、最近ではあまり見かけない。
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日本で特殊だと思えるのは、何よりも箱入りだということだ。恐らく和書の帙(ちつ)の伝統が残っているためだろう。輸送の途中に傷むことを考えていることになっているが、遥か遠くから来る洋書の方にないのは不思議だ。
箔押しは日本的な感じだが、イギリス人のアーチバルド・レイートンという人が発明したものだという。“hot stamp”というらしい。
本に帯をつけるのは外国でもあるが、日本ほど多くない。日本ではこれをコンテストにして「腰巻文学大賞」が選ばれている。ちなみに英語で腰巻の帯を“blurb”というが「誇大広告」の意味になってしまっている。
さらに、日本ではブックカバーを付けることも多い。資源の無駄なので断ろうと思うが、僕はなかなか断りきれない。西武池袋店の上にある書店リブロのブックカバーが大好きだった。中にはハサミを使ってカバーを掛けてくれる書店もある。
そうそう、昔の岩波文庫、岩波新書はパラフィンがかけてあった。その上にブックカバーをつけるのだが、ある日、書店員が「このパラフィン大嫌い」と話すのを聞いて、なるほど、岩波の教養主義は強要主義だったのだ、と納得したことがあった。
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本というのは書いてある内容が大切で、見た目はどうでもいいはずだ。それこそネットで十分だ。という議論もある。しかし、本には物神性というものがあり、その手触り、装丁、色、活字、ページをめくる音、さらには匂いまで(娘は洋書が届くと「ああ、外国の匂いだ!」という)が本というものを形作っている。そういう内容以外のことを「パラテクスト」というが、本という物を、ただの物から神へと押し上げる装置なのである。
その意味では図書館の本は死んでいるともいえる。函やカバーをむしり取ってしまい、中にはビニールをかける図書館もある。だからこそ、古本屋で稀覯本が好まれ、初版本が愛されることになるのだろう。
さて、国別にパラテクストとしての本を見ていくと、それぞれにお国柄が出ていて、面白い。
本の国籍だから「本籍」を見て行くと……。
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フランスの本はこざっばりとしていて美しい。なぜか目次が最後についている。だからといって、索引が最初ということはない。
フランス綴じ(フランス装)と呼ばれるアンカットのままで、薄い表紙のが多い。あくまで各人が自由に製本(relierといい、名詞はルリユール“reliure”、装丁本はle
livre relie)する余地を残している。さすがに個人主義の国という感じがする。やがてルリユールは装飾芸術の独立したジャンルとして発展を遂げ、19世紀以降、
優れたルリユール作家たちが高度なテクニックと洗練されたデザイン感覚を競い合うようになった。フランスの愛書家は初版本を珍重し、アンカットのままでそのまま保存する。読書用には別に流布本を買う。
もっとも日本の巻子本(かんすぼん=ATOKで変換できた!)も本の一種と考えれば、平家納経などは見事なルリユールといえるのである。
日本では「立ち読み権」(?)を疎外するのでフランス綴じが普及することはないだろう。フランスかぶれの人がアンカットの本を出したことがあるが、書店で乱丁だといって文句を付けている人を見たことがある。講談社文庫以外の文庫は元々、本の上側(天)がアンカットというか、不揃いになっていたのもフランス綴じの名残である。
でも、最近はフランスでも仮綴じ本は少なくなってきたそうだ【日本の文庫本も天がキレイに揃えられるようになった】。
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ちなみに裁断ミスで紙が余分についているのを「福紙(ふくがみ)」という。『日本国語大辞典』(小学館)には「紙を重ねて裁つ時、折れ込んだりして裁ち残しのある紙」とある。商品の欠陥部分を指すにしては妙に縁起のいい名称だが、陰暦十月の呼び名「神無月」に関係があるそうだ。言い伝えによれば十月は全国の神々が出雲大社に集まるが、恵比須さまだけは残っている。旅立たずに残る福の神――「立ち残る神」を「裁ち残る紙」に掛けた、駄ジャレという。
ある時、お月さまとお日さまと雷さまが同じ宿に泊まった。どんちゃん騒ぎになった翌日、雷さまが起きてみると二人ともいない。思わず雷さまがつぶやいた。「月日のたつのは早いものだ」…(と、普通ならここまでなのだが後がある)。
「雷さまもおたちになりますか?」「いや、私は夕立ちにしよう」。
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ドイツの本は質実剛健で、厳めしい。ハード・カバーが主流だ。表紙は味気無く.丈夫さだけが取り柄である。ある時、注文して届いた本が何と19世紀のものだった。つい先日出た本でさえ手に入らないどこかの国とは大違いである。在庫に税金がかからないために、こういうことが可能だとも聞いた。
仏文学者の鹿島茂は『子供より古書が大事と思いたい』という本を書いた人だが、『作家の読書道』の中で次のように語っている。
鹿島: まずね、第一の驚きはね、19世紀の本が買えるということ。それが驚きだった。5万円くらい出せばバルザックの初出本が買える!で、当時、給料が15万円とかなんだけど、15万の本とか買っちゃうんだよ。こりゃあ、どうしようもない。
―― それからズルズルと。
鹿島: ズルズルとね。何事にも徹底しているところがあるから古本の前に新刊を買っておこうと。日本の洋書屋でもらった、著者別、タイトル別、テーマ別の「LIVRES
DISPONIBLES【「在庫の」】」(また新刊在庫目録だね)を熟読して、を片っ端から買ってくわけ。すごいよ、19世紀の本が新刊で届くんだよ。
―― え、新刊が?
鹿島: まだ、在庫があるんだよ。それで、だいぶ買ったよ。端から端まで主義者だから、面白いのを片っ端から。とりあえず、昔の本だから安いんだ。とにかく19世紀の本が新刊本として届くのが面白かった。
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オランダにはムートンという言語学の大きな出版社がある。ここの本はべらぼうに高い。200ページ余りの本で、2、3万円することが多い。出版物がオランダの重要な輸出品になっているのは分かるけれど、何だかいつも詐欺にあっているような気がしてならない。
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反対にソ連(ロシア)の本は著作権がないせいもあってメチャンコ安かった。その代わり、紙の質も装丁も悪い。日本の戦後の混乱期の出版物のようで、仙花紙のままだ。糊に栄養があるのか.湿気が多い日本ではカピがはえる。はえるのは構わないが、読んでないのがすぐにばれる。
もっと安いのはインドの本だった。何と世界各国の海賊版を出している。梵語関係の本など随分安く買った。だけど複写の技術が悪くて印刷が不鮮明で、サンスクリット語のある辞書などは読めない箇所がある。
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アメリカも本が安い。といっても、ぺ一パー・バックに限ってのことで、さすが大量消費の国だ。最初にハード・カバーで出し、売れ行きのいい本は直ぐにぺ一パーが出る。もう少し待てぱ良かったと悔やむことが多い。ぺ一パー・パックの登場はしかし、書物の持つフェティシズムを消滅させた。
日本の文庫本にしてもかつての岩波文庫がもっていたような有り難みをなくしつつある。出たらすぐに買わなければ生涯手に入りそうもない。
もう一つ、アメリカ的だと思うのは、Webster's Third New International Dictionaryで、これは重くて、腕を折りそうだ。自分で買った時に一枚の紙が入っていて、注意書きがされていた。
この辞書は閉じたまま寝かせたり縦に立てるようには製本されていない。そういう使い方では傷みやすい。専用書見台に開いたまま置くと長持ちする。
どうりで大学などでは専用書見台の上に置いてあった【今ではCD-ROMがあって便利!】。
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よく欧米の大学では“reading assignment”と呼ばれる読書の宿題が多くて、日本では出ないといわれるが、大学の図書館に学生分の本が揃っているから可能なのである。日本の学生に本を買え、といっても教科書さえ買わない状況なのに参考書まで買うはずがない。だから大変羨ましいのだが、同じ本を図書館に置くことは「複本」といって出版界から図書館が嫌われる最大の理由の一つだ。欧米では“public
lending right”(公貸権=公共貸与権)というのがあって、図書館に売るときは、個人より高くなる仕組みになっている。1940
年代に北ヨーロッパで最初に導入され、世界各国に広まりつつある考え方である。スウェーデンでは図書館で一冊貸し出すごとに政府が作家協会に1クローネ振り込む制度だという。レンタルビデオ店と同じ制度になっていれば、「複本」だって問題にならないはずなのだ。
ところが、日本では図書館に納入される時に本を割り引くことさえある!
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イギリスの出版物を考えるとき、忘れられないのが大学出版局の役割である。オックスブリッヂの活躍は目を見張るものがある。出版物の40パーセントが輸出に回されるという。内容も装丁も大変しっかりしたもので.さすが大英帝国である。
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日本の本は文字体系が複雑で組み版が大変である事を考慮すれば、まだ安いほうだと思う。紙面に凹凸の少し残っている活版印刷の本はさすがになくなってきた。どれものっぺらとした写真製版ばかりになってしまった。
しかし、最近は人件費を節約する為に韓国や台湾で印刷される本もあるという。もっとも洋書は取り次ぎ店の介在のため、あんまり安くはなってないようだ。簡単に世界の出版事情をみてきたが、これは図書館のありかたとも無関係ではない。
日本のように自分のそばに蔵書を置き、それを誇りにする文化と、アメリカのように図書館の本を主に利用する文化では書物の意味が違う。
また、徳永康元先生は『ブタペストの古本屋』を書き、千野栄一先生は『プラハの古本屋』を書いたが、書店のありかたも各国で随分と異なっている。
日本は自由にどの国の本も読め、手に入れ易いが、同時に、情報が溢れずぎていて、うっかりすると溺れそうになることを忘れてはならないだろう。