金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)

だいじょうぶマイフレンド

社交主義の勧め

Those friends thou hast, and their adoption tried,
Grapple them to thy soul with hoops of steel;
But do not dull thy palm with entertainment
Of each new-hatch'd, unfledged comrade.
     Hamlet 1.3
語るにたる友と見きわめをつけたら、たとえ
鉄のたがで縛りつけても離すでない。
だが羽根もそろわぬヒヨコのような仲間と
だれかれかまわず握手して手の皮を厚くするな。
    『ハムレット』第1幕第3場

Business, you know, may bring money but friendship hardly ever does . -----Jane Austen, EMMA
(仕事をすればお金が手に入るかもしれませんが、友達とつきあっても一銭にもならないでしょう)

友とするに悪(ワロ)き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇(イサ)める兵(ツハモノ)。六つには、虚言(ソラゴト)する人。七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師(クスシ)。三つには、智恵ある友。
     -----『徒然草』第百十七段

友人の欠点を気にする人がいるが、そんなことをしても何も得るところはない。私はいつも敵の功績に注意をはらい、それを役立ててきた。
     -----ゲーテ『箴言と省察』

“If you need a friend, get a dog” (友情は犬に求めろ)-----Michael Douglas(『ウォール街』Wall Street)

“I think I haven't been so proud of a friend...since I don't konw when.”(友だちを誇りに思うのは、最後がいつだったか覚えてないくらい、久しぶりよ)-----シッピング・ニュース(The Shipping News)

 一口に言えば、現実はままならぬということだ。私たちは私たちの生活のあるじたりえない。現実の生活では、主役を演じることができない。いや、誰もが主役を欲しているとはかぎらぬし、誰もがその能力に恵まれているともかぎらぬ。生きる喜びとは主役を演じることを意味しはしない。端役でも、それが役であればいい、なにかの役割を演じること、それが、この現実の人生では許されないのだ。
 私たちは日々の労働で疲れてくる。ときには生気に満ちた自然に眺めいりたいと思う。長雨のあとで、たまたまある朝、美しい青空にめぐりあう。だが、私たちは日の光をしみじみ味わってはいられない。仕事がある。あるものは暗い北向きの事務所に出かけて行き、そこで終日すごさねばならない。そのあげく待っていた休日には、また雨である。親しい友人を訪ねて、のんきな話に半日をすごしたいと思うときがある。が、行ってみると、相手はるすである。そして孤独でありたいとおもうときに、彼はやってくる。
     -----福田恆存『人間・この劇的なるもの』

 友だちについて何か書こうと思ったのだけれど、書き始めてから、友だちというものが殆んどいないことに気づいた。逆に言えば、友だちについて何かを書こうとするまで、友だちがほとんどいないことにまるで気づかなかったということにもなる。
 不思議なものだ。
 世の中はきっと「走れメロス」みたいには動いていないんだと思う。
 でもまあ退屈した時にはプールに行こうよか、ディスコに行こうよとか、酒の飲まないかとか誘える相手は男女とりまぜて四人くらいいる。これはまず友だちと言ってもいいのではないかと思う。この人たちに共通しているのは、1、まず沈黙がお互い苦にならないことである。話すことがなくなって三十分くらい二人で黙ってボオッとしていても気づまりでないこと。2、少しは酒を飲めて、しかも酒を飲んでも自慢話とグチと他人の悪口を言わないこと。3、僕の書いたものをまるで読まないか、読んでも殆んど興味を持たないことである。…
     -----村上春樹「友だちと永久運動と夏の終わり」(『文学界』1981年11月号)

 「人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というものは君が考えているよりもずっと脆いものなんだ。だから、人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平に、できることなら誠実に」
     -----村上春樹『ダンス、ダンス、ダンス』

 私の「思想」は「人を好きになることと同様ひとを嫌いになることの自然性にしっかり目を向けよ」と書いてしまえば一行で終わってしまうほど簡単なものです。
     -----中島義道『ひとを<嫌う>ということ』(角川書店) 

 「わたしはこの十二歳のときの仲間たちのような友人は、その後ひとりももてなかった。世間の人はどうなのだろう?」---スティーヴン・キング『スタンド・バイ・ミー』

 きもちのふかみに  (谷川俊太郎『みんなやわらかい』)
            ── a song ──

     おとなのはなしをきくのがすきだ
     じぶんのぐちにひとのわるくち
     だれとだれとがくっついたとか
     ぼうえきくろじがどうとかこうとか
     なにがだいじかよくわからないけど
     はなせばらくになるみたいだね

     ぼくのはなしもきいてほしいな
     おとなみたいにはなせないけど
     やなことばかりがいっぱいなんだ
     あそぶものにはこまってないけど
     きょういきるだけであしたがないよ
     どうしてなのかおしえてほしい

     きもちのふかみにおりていきたい
     そこにはにじもほしもないから
     かえってこえはよくきこえるんだ
     まっくらのなかでじっとしてると
     おとなもこどももきっとおんなじ
     こわいこともたのしいことも

     いつしんだってかまわないんだ
     だけどできたらいきていきたい
     かみさまなんていないんだから
     ともだちだけはほしいとおもう
     はなしをきいてくれるともだち
     てをにぎっててくれるともだち

     きもちのふかみにおりていこうよ
     せんせいとおやとぼくときみと
     めにはなんにもみえないとしても
     きっとなにかがきこえてくるよ
     ほんにはけっしてかいてないこと
     うたがはじまるまえのしずけさ



 友情論など書くタマではないことはよく分かっている。それでも、若い人から次のようなメールをもらったので書くことにしたのだ。友情に涙するなんてことのない文章にしかならないことが分かっているので、予め告げておく。

先生。こんにちは。
さて・・・・・友情とは?
先生の沢山のHPの中で友情について書かれたのはありますか?

私は長い付き合いだった友だちに絶交とも言える手紙を出してしまいました。
群馬の青春時代を共に過ごした友だちなのですが今年2月の旅行の事で
意見が分かれて揉めましてお互い手紙も出さず電話もしなくなってしまいました。

最近、手紙が来ました。前から彼女は四国のお寺巡りをしているのですが
今度、又行くからついでに会いたいというような内容の手紙です。
今まで何事もなかったような文面でした。
どうしても会いたいと思えなくなってしまって・・・・。今まで許せていたことも
もう許せなくなってしまったような気がして。彼女の嫌なところばかり
思い出されて・・・・。自分の心の狭さが情けなく思えます。
こんな時は、自分の気持ちをを抑えても会うべきだったのでしょうか?
真の友だちではなかったという事なのでしょうか?

ところで先生は今でも音無響子さんが好きですか?
そんな先生、とても可愛いですね。     mihoko


☆挨拶の値段

 「鬼神は敬してこれを遠ざく」と孔子も言っているように、嫌いな人とはつきあうな、というのが僕の最大のアドバイスなのだが、いきなりそんなことを言ってもつまらないだろうから、少し考察してみる。

 あっ、忘れないうちに言っておくと、仲直りの言葉は次のようなのが有効かもしれない。『愛と追憶の日々』でシャーリー・マクレーンがいう。

数年前にランチに誘ってくださったけど、あのお誘いはまだ有効かしら?
A few years back you invited me to lunch. I wondered if the invitation still exists?

 アップルコンピューターの専門店にSTEPという会社があった。一時、電化製品全般に手を広げた時期があった。そのとき、社長が「挨拶には50円かかるから社員は挨拶しない」と話していた。

 10時の開店直後のデパートに行ったことがあるだろうか?店員がにこやかに次々と挨拶をするので恥ずかしくなってきたことはないだろうか?ユニクロで動くたびに挨拶されてどう思うだろうか?

 デパートはこうして挨拶をする手間暇だけでなく、「エレベーター嬢」(セクハラに敏感な時代にはなんていうのか知らないが…)も置いている。当然、その分、コストが上乗せされるわけで、スーパーとの価格競争に勝てるはずがない。仮に「エレベーター嬢」の日給が1万として1千人に挨拶をするとして1回10円の挨拶料ということになる。デパートで挨拶をするのは「エレベーター嬢」だけではない。他に4人が挨拶すれば、そのデパートの挨拶料は50円となる。そのお金はもちろん、消費者が払うのである。

 スーパーのダイエーがハイパーマートを展開したことがあった。富山店もハイパーマートとなり、ものがただ並べてあるだけ、という状態になった。僕はデパートのように店員が「何か御用は?」とすり寄ってくるより、じっくりと選べるこちらのシステムの方が潔くて好きだったのだが、ダイエーは2兆円の借金を作ってしまった。

 三越日本橋店に勤めていた同級生がいるが、三浦友和と山口百恵の結婚式に出席したという。三越で三浦家と山口家の担当だったのだ。三越などのデパートには顧客専用の店員が配置され、何かと相談を受ける。非常に細かく面倒をみてもらえるので、便利なのだが、僕たち貧乏人にはあまり関係がない。その分、コストの上乗せされて高くなる、といいたいところだが、逆に金持ちの支払いのお陰で、貧乏人は安く買えるのかもしれない。

 僕はデカルト派の合理主義者であり、機能主義者だ。だから、挨拶などに興味はないし、むしろ丁寧な挨拶をされると消え入りたくなる。サービス産業は無言な客に対してと従業員のモチベーションアップと顧客満足度を高めるために「いらっしゃいませ、こんにちは」を開発したという。これだと客は無言のままでもコミニケーションが成立するからだ。

 お祝いを上げると返礼をされることがある。これが嫌だ。だって、純粋に喜んでもらいたいのに、返礼されたら、その分のお金を使わせ、更に選ぶための手間暇を費やしているのかと思うと気が重くなる(これを読んだ人はうちには返礼をしないでね!)。中には家にいっぱいあるようなものをもってきてくれる人がいるが、そんなことをするくらいなら…と本当に呪いたくなる(あなたのことではないですからね)。

 見栄を張ることは止めよう。北米インディアンに「ポトラッチ」という風習がある(英語で“potluck”というと持ち込みパーティ)。相手にプレゼントをすると、相手はそれ以上のプレゼントをする。すると…と悪循環がアッと言う間に拡大して、最後には自分の持っているものを全て焼き尽くしてしまう。自分が持ち物にこだわっていないことを最大限に示すために。

 太平洋の真ん中に豊かに木の茂った島があった。ある時、ある部族の首長が他の首長たちと張り合うために巨大な石像を造り始める。他の首長ももっと大きな石像造りを競い始め、その制作に膨大な木材を消費する。やがて森は丸裸になった。これがイースター島の文明がたどった道である(J・ダイアモンド『文明崩壊』草思社)。森の喪失と土壌崩壊は食糧難をもたらし、飢えた島民は怒って巨大石像を倒した。文明はあっという間に消滅し、後には「謎のモアイ像」が残った…。

 こうした教訓から21世紀になった時に、年賀状も止めようかと思った。1年のタイムラグのある会話が続くだけの、あんな儀礼的な挨拶なんか…。

 と思うのだが、なかなか止められない。

 外国でもこれほど挨拶が強調されるのか知りたいところだが、誰か調べてほしい。

 考えてみると、フランスでは「ボンジュール」と挨拶しなければ答えてもくれない人がいっぱいいた。アメリカでも『ゴーストバスターズ』で環境局の役人がゴーストバスター図の「幽霊捕獲機」を査察にきて、「地下室を見せなさい」とビル・マーレイをおどすのだが、マーレイは断ってしまう。役人が「なぜだ」と聞いたら、「あんたはマジックワードを忘れているから」という。「マジックワードって?」と聞くと「プリーズ」だという。

 中野翠の『おみごと手帖』(毎日新聞社)にはこんなことが書いてあった。やっぱり合理性だけでは割り切れないものらしい。

 牛丼の「吉野家」では食券の自動販売機を置いていない。人件費がかかっても、客はカウンターで店員に注文し、レジで支払いをするという一般的なスタイルをとっている。

 なぜ、あえて自販機を置かないのかというと、客と店員との間のコミュニケーションをたいせつにしているからだとうい。たとえ、注文のやりとりでの「ありがとうござます」といった簡単な言葉に過ぎなくても、客と店員との間に言葉を介在させることが必要だと考えたからだという。

 私はこのことをバラエディ番組『爆笑問題の検索ちゃん』(テレビ朝日)で知った。うーん、なるほどなあ。吉野家が愛され、長続きしている理由の一端がわかったように思った。


☆お辞儀文化

 米山俊直先生に『日本人の仲間意識』(講談社現代新書)という本がある。この中の「人間らしい関係」に西アフリカのマリ共和国のバンバラ族の挨拶の話が出てくる。朝、村人どうしが出会うと、次のような丁寧な挨拶が必ず始まるという。

-----あなたのごきげんはいかがですか。
-----元気です。ありがとう。
-----あなたの奥さんのごきげんはいかがですか。
-----元気です。ありがとう。
-----お子さんたちはいかがですか。
-----元気です。ありがとう。
-----お父さんのごげきんはいかがですか。
-----元気です。ありがとう。
-----お母さんのごきげんはいかがですか。
-----元気です。ありがとう。
…………………………

 こんな会話が続いて、まるで韻を踏んだ歌を掛け合いで歌っているように聞こえるという。やがて、一方が他方の家についてこの挨拶を送ってしまうと、今度は挨拶を受けていた側が同じように問いかけを始める。この挨拶が済まない限り、どんな用件も切り出せない。毎日顔を合わせている隣人どうしでもこれが繰り返されているという。と、すれば、挨拶の機能は情報伝達ではなく、人間関係の潤滑油ということにあるようだ。

 東アフリカ、タンザニアのイラク族でも、他人の家には簡単に入らないという。屋外でしばらくたたずむか、座り込んで、家人が声をかけてくれるのを待っているという。病人が医者を訪ねるような緊急の場合でも必要な儀式なのだ。

 呉人恵によれば、コリャークにとっての「おはよう」は「どんな夢を見た?」だという。「夢は彼らに多くのことを物語る。ときにそれは遠方からの客人の到来の兆しであったり、遊牧ルートの変更を促すしるしであったりする。だからこそ一日の始まりには、『夢』を語り合ってきた」とのことだ。

「こんにちは」
「こんにちは」
「今日どちらまで?」
「ちょいと西銀座まで」
「いい天気ですね」
「いい天気ですね」
「あ、あの雲何ですか?何かに似てますね」
「何かに似てますね」
「いい天気ですね」
「いい天気ですね」

 という会話はもちろん、外国ではなく、ちょいと前の日本にもあったのだ。これは小津安二郎の『お早よう』のラストシーンで佐田啓二と久我美子が駅のホームで交わす会話なのだ。

 ちなみに天気の話で入るのは日本の独占ではない。ジョンソン博士は“The Idler”で“When two Englishmen meet, their first talk is of the weather.”と書いており、天気は当たり障りのない話題だからである。イギリスも一日のうちに四季があるといわれるくらい天気が変わりやすいという事情があるかもしれないが…。

 明治初期に来日した米国人モースも『日本その日その日』で日本人の挨拶について書いている。隅田川の川開きも楽しんだのだが、舟がすれ違う様子は、特に心に残ったようだ。混雑しても船頭たちは長い竿を使って避け合い、不機嫌な言葉を叫ぶことはなく、彼らの口から出るのは「アリガトウ」と「ゴメンナサイ」だけだったという。「かくの如き優雅と温厚の教訓!」と讃え、善徳や品性を日本人は生まれながらに持っているらしい、とも書いてる。例えば、「他人への感情に就(つ)いての思いやり」があるという。船頭たちの「アリガトウ」も、その一例だったのだろう。

 「調子はどうですか?」というのが日本人の挨拶の一つだ。宴会で手術の傷跡を見せ合っている人がいたが、病気を自慢するのが好きだ。衛生には非常に気を遣うが、その結果としてもっぱら健康を誇り合うのかというとそうでもなく、むしろ互いの不健康を訴え合うことに熱心だ。こういう日本人の特性を「ヒポコンドリア」(hypochondria=下+軟骨>病気へのこだわり)と呼ぶ学者もいる。持病や体質が天候同様に挨拶の話題として幅を利かせ、、病気は一種の勲章になっている。アメリカでは軽々しく自分の不調を嘆いたりしては男の威信を損なうと考えられている。

 Deborah Tannen はYou Just Don't Understand: Men and Woman in Conversationという本の中で、情報伝達を目的とする report-talk は男性が用いるコミュニケーションスタイルであり、親しみが増すように関係を築き、コンセンサスを確保することを目的とする rapport-talk(ラポールというのはフランス語で「つながり」)は女性のコミュニケーションスタイルだ言っている。つまり、文化に違いだけではなく、男女の違いでもある。ということは異性間の会話は一種の異文化交流ということになる。若者言葉はrapport-talkが多く、これには娯楽機能(新語)と会話促進機能(ため口)があるが、間違って上司に使ってはいけないものである。

 挨拶自体が目的となるようなコミュニケーションを人類学者のマリノフスキーは「交話的言語使用」(phatic communion)といい、言語学者のヤーコブソンは「交話的機能」と名づけた。言語学者によっては「グルーミング会話」(glooming talk)という人もいて、これではまるでチンパンジーだと思う。

 でも、よく考えてみれば、こうしたコミュニケーションはサルや「未開」の人々や昔の人に限らない。今の若者たちのケータイ事情を見ているとちっとも変わらないのである。心理学では「コンサマトリー【consummatory自己完結的/自己目的的】なコミュニケーション」と呼ばれることがあるが、これまでのインストルメンタル【instrumental手段的/道具的】なコミュニケーションとは異なるものが優位になりつつある。産業社会では能率や効率が重要視され、「産業化の論理」に基づいて目的合理性・道具的合理性が追求されてきた。モノからゆとりの成熟した社会では「コミュニケーション合理性」(ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論』未来社)が追求されるようになってきている。マルチメディア化によって多様な複合的コミュニケーション状況が生まれている。こうした社会では人々の意志や自由が重視され、画一化ではなく個性化がはかられようとしている。

 「挨拶」というのは「挨」も「拶」も押すとか、迫るという意味で禅宗では「一挨一拶(いちあいいつさつ)」と言って、打てば響くように問答を繰り返すことで悟りの深さをはかるという。そんな深い意味でなくても、お互いの調子を確かめあって自己を高めるのが挨拶だと思う。

 挨拶が苦手な人も多い。養老孟司は4歳の時に父親を結核で亡くした。父が亡くなる場に立ち会った際、周囲の大人たちに促された「さよなら」の一言を言えなかった経験が、中学生・高校生時代に「人とあいさつするのが苦手」な性格に影響している、と自己分析している。ちなみにその因果関係に気づいたのは40歳を過ぎてからの通勤途中の地下鉄のホーム上であり、その後地下鉄の中で涙しながら「そのとき初めて自分の中で父が死んだ」と告白している。イギリスの精神医学者R・D・レインの『ひき裂かれた自己』(みすず)で自分の抑圧に気づいたという。

 内田樹は難波江和英との共著『現代思想のパフォーマンス』(松柏社)の中で永遠に続くような挨拶について、次のように語っている。

初学者はたいていここらまで読んだとき、ふと「この会話は、相手の言葉を繰り返しながら、終わりなく続くのではないか」という不安にとらえられる。さいわい教科書一頁におさまる行数には制約があるために、街角で出会った二人は終わりなき祝福の交換をどこかで打ち切って、右と左に別れることになる。

けれども、初学者の心に兆した「おなじ言葉を繰り返す終わりなき挨拶」というという不条理な予感は、じつはコミュニケーションの本質を正しく直感しているのである。

というのは、レヴィ=ストロースを信じるならば、コミュニケーションの本義は、有用な情報を交換することにあるのではなく、メッセージの交換を成立させることによって「ここにはコミュニケーションをなしうる二人の人間が向き合って共存している」という事実を認知し合うことにあるからだ。そして、私の前にいる人に対して、「私はあなたの言葉を聞き取った」ことを知らせるもっとも確実な方法が相手の言葉をもう一度繰り返してみせることであるとすると、心からコミュニケーションを求め合っている二人の人間のあいだでは、「相手の言葉を繰り返しながら」「ほとんど無意味な」挨拶が終わることなく行き交うことになるはずである。

「おはよう。」

「おはよう。」

「いいお天気ですね。」

「ほんと、いいお天気。」

というふうに。

 まど・みちおの「やぎさんゆうびん」(まど・みちお全詩集)だって、永久に内容の伝わらない手紙を交換し合っているのだが、この二匹のやぎは手紙を交換し合っている、というだけで気持ちが通じあっているのである。と思っていたら、三田誠広が『まど・みちおのこころ』(佼成出版社)でこんなことを書いていた。

 ここで読者にご理解いただきたいのは、文学作品には両義性があるということで。「ぞうさん」を、子象と人間の子供との、のんびりした微笑ましいやりとりと解釈することもかのうですし、差別意識を糾弾した作品だと解釈することも可能です。優れた作品には、読者の感性や見識によって、さまざまな解釈が可能な多義性、両義性をもっているのです。

 この「やぎさんゆうびん」の場合も、永遠に届かないお手紙について、いろいろな解釈が可能です。やぎさんたちの愚かさをユーモラスに描いた作品と見ることも可能ですが、よく考えてみると、永遠に中身をみることのない手紙によって、白やぎさんと黒やぎさんは、深い友情で結ばれているのですね。手紙の中身などは、ほんとうはどうでもいいのです。

 互いに相手のことを気づかって、手紙を出し合う。そのことによって、白やぎさんと黒やぎさんは、心と心で結ばれているのです。

 NHKの番組「NHKスペシャル ふしぎがり〜まど・みちお 百歳の詩〜」(2010年)でまど・みちおは次のように語った。

この世の中でゾウのように鼻の長い動物はいません。そんなゾウに「鼻が長いね」ということは「お前は変だね」ということと一緒です。でもゾウは嬉しそうに「母さんも長いのよ」と答えます。自分の一番好きなお母さんと一緒だということを誇らしく思っているからです。本当にゾウがゾウとして生かされていることは、なんと素晴らしいことでしょう。

 スヌーピーに"Nothing echoes like an empty mailbox."という巻があったが、「空っぽの郵便受けほど響くものはない」ということだ。ダイレクトメールだって来てほしい。そうそう、チェーホフの『かもめ』では女優の卵のニーナが作家の卵トレープレフへの愛を思い出して、ドサ回りの旅先から「かもめ」というサインだけの手紙を届ける。相手の慕情にも気づいているからだ。

 『ちびまる子ちゃん』のおじいちゃんの友蔵の「心の俳句」に「深い意味/無いがよろしく/言い続け」というのがある。友蔵は年賀状に毎年「今年もよろしく」と書き続けているらしい。まる子に「例えば何をよろしくしてほしいの?」と聞かれ、「わしは一体何をよろしくしてほしいんだろう…」と悩んでしまう…。

 内田樹は年賀状のやり取りに関して次のようにもホームページで書いている。

コミュニケーションというのは相称的なものではない。
というか、相称的ではありえないし、あってはならないものだ。
レヴィ=ストロースが『構造人類学』で繰り返したように、コミュニケーションとは「言葉の贈り物」である。
それは「言葉」それ自体に「価値」があると信じられていた太古のときの、コミュニケーションの起源の記憶をとどめている。
「言葉の贈り物」を受け取ったものは、返礼給付の義務を負う。
「こんにちは」
「あ、こんにちは。お元気ですか?」
「ええ、元気です。そちらは?」
「ええ、こっちもみんな元気です。どちらへ?」
「ちょいと西銀座まで・・・」
というふうに延々と挨拶の応酬は続くのである。
終わりがないのは、返礼給付はつねに「贈られたもの」に対して過剰になるからだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
で贈り物の価値が相殺されてしまえば、コミュニケーションは終わる。
コミュニケーションの本義は「止めないこと」にある。
だから、つねに「贈られた価値」以上を返礼しなければならないという心理的負債感が私たちに次の言葉の贈り物を発信するように駆り立てるのである。
誰だって「借りを作る」のは嫌いだ。
だから自分が出していない相手から年賀状が来くと、必ず心に痛みを感じる。
それは「言葉の贈り物に対する負債感」である。

 挨拶というのはもともと仏教の言葉で、「挨」は<おす>で「拶」は<せまる>という意味、つまり、禅宗の僧が門下の僧の悟りの深さを試すことを指した。そのうち、手紙の往復に使われるようになり、社交辞令にまで拡がっていった。

 だから、朝早くなくても「お早う」でいいし、「有り難いこと」でなくても「ありがとう」という。機能を果たしているだけで、元の意味はどうだっていいのだ。まとめて「おはこんばんちわ」でもちっともかまわないことになる。

 物理学者の寺田寅彦に「年賀状」というエッセーがある。年賀状を書くのを厭(いと)う友人の話である。若いころは、同じ文句を印刷したものを交換するのだから初めから交換しないでも同じだと全廃説を唱えたが、実行する勇気もなく書き続けた。年を経ると逆に年賀状のありがたみを論じだす。人と人を結ぶ年賀状の数々の線の一つずつに義理人情の電流が脈々と流れていて「何と驚くべき空間網か」と驚く。寅彦自身の話かもしれない。年を経ると容易に会えない知人も多くなる。年賀状が一年に一度の義理人情と近況報告の機会、という間柄も増していこう。肉筆の添え書きがあれば懐かしさはひとしお。デジタル時代には筆跡自体が相手の姿を思い起こさせる貴重な報告である。

「鳥の跡」という言葉があり、文字や筆跡を意味する。中国の黄帝の時代、蒼頡(そうけつ)なる人が鳥の足跡を見て初めて文字をつくったという故事からだ。転じて下手な筆跡のことを言うようになった。源氏物語にも「あやしき鳥の跡のやうにて…」と出てくる。寅彦の友人の年賀状全廃説も、結局は生来の悪筆に対する嫌悪の思いからだったそうだ。字のうまい人はいいが、正反対の身としては彼の思いがよく分かる。

 ちなみに動物だって挨拶をする。動物行動学の観点からいうと、動物は出会った時に、「私はあなたに攻撃する意志はありませんよ」という意味の意志表示をする。

 動物社会においてさえ、こうしたルールがある。人間は…。

 イギリスの心理学者ピーター・コレットの『ヨーロッパ人の奇妙なしぐさ』(草思社)によれば、「すべての挨拶の儀礼は三つの基本的な機能を果たしている」という。

---第一に、人びとが出会ったときにきまって生じる不安感を軽減する。

---第二に、たがいに友好的な意図を持っていることを相手に示すことを可能にする。

---第三に、人びとに一つの枠組みを提供し、その中でたがいの関係の本質を確立し、あるいは定義することを可能にする。

 第三のは「人びとは他人と顔を合わせるたびに自分の社会的地位を思い出させられる」ということで、自分と相手との社会的地位を即座に照らし合わせてお辞儀の丁寧度を選択していることを指している。こっちの方が偉いと思っていても、相手が大学の先輩と分かったら、一応は丁寧に挨拶しなければ「コイツ!」などと思われてしまう。

 とは言いながら、学校や、最近では会社でも、「挨拶運動」があるのはどうも気に入らない。ポスターなど張ってあると、よほど挨拶のできない人間が揃っているのかと勘ぐってしまう。

 ルールで行動を縛るのは簡単だが、長い目で見ると、融通の利かない人間を生みだしてしまう。形だけの「慇懃無礼」な人間を育ててしまうかもしれない。挨拶するとお互いに気持ちがいいから、というだけで充分だ。

 今の日本は伝統的なお辞儀文化から外れた、近代的、合理的、能率的、機能的という方向へ傾斜している。「僕は人間関係を機能的に割り切ることにしている」といったある大学の名誉教授の話を紹介して、米山俊直先生は若い頃はこの生活信条に強く感心したという。しかし、その先生にはいわゆる門弟や弟子がいなくて、学派も生まれなかったという。

 ただ、学派というのは学問の性格によって異なるし、非常に面倒見のいい先生にいいお弟子さんがいないということもまた多いのである。

 ただ、学問というのは個人的な資質にかかわると誤解されるほど、個人的な作業ではない。文科系の文献学のような、極めてマニアックな学問の場合は、個人の毎日の努力ということがあるだろうが、それでも、色々な人からの情報が必要で、蔵書をみせてもらうためにも色々とつき合いをしなければならない。

 方言学のS先生は方言調査に行くときはクルマで行くのではなく、峠を歩いて越えなければならない、そうしないとその地域の住民の本当の言葉や生活が分からないからだ、といっていた。

 別のC先生はS先生のような態度は嫌いだと話していた。僕も若い頃は、クルマで行こうと、歩いて行こうと手段によって違わない、と思っていた。

 そんなムダなこと!

 実際にはS先生は日本の方言学、言語学の大家になり、お弟子さんも多い。C先生は知人は嫌ほどいるだろうが、お弟子さんは少ないと思う。ただし、これも学問による。


☆友だち

アルセスト 「ぼくが君の親友? その友人名簿から抹殺してもらおう」

-----モリエール『人間ぎらい』

 しつこくいうが、友だちなどいなくていい。安倍内閣も麻生内閣も「お友だち内閣」と呼ばれたが、お友達に足を引っぱられてつぶれた。これを言語学的に「トモ倒れ」という。

 ただ、ゲーテもいうように「天国にひとりでいたら、これより大きな苦痛はあるまい」ということだ。友達も挨拶も面倒だが、それなりの価値もある。

 友だちというのは、似た者どうしだからつきあうのか、違うからつきあうのか、というのは微妙である。全く友情とは関係のない玉村豊男『回転スシ世界一周』(世界文化社)には次のように書いてあった。

 いっしょにいて心地よい人間と楽しい時間を過ごしたい……という共通の思いを手がかりに、微妙なやりとりの中にたがいの距離感をたしかめあう。違い過ぎてはつきあえない。違わなくてはつまらない。それぞれの差異と相違はそのままに残しながら、そこにひとつの共感を見出して、さまざまの人びとがある空間に集うようになるのである。

 古代ギリシャの数学者ピタゴラスは「友情とは何か」と聞かれて「220と284のようなものだ」と答えたという。二つの数字は、その数自身を除く約数の和が、互いに相手の数字になる関係である。220なら1、2、4、5、10、11、20、22、44、55、110で、全部足すと284。284の方も同様に足していけば220になる。こうした数字は「友愛数」と呼ばれるのだが、これは小川洋子の『博士の愛した数式』にネタとして使われることになる。

 今、友だちは誰かと聞かれたらとても困ってしまう。範囲がよく分からない。別に裏切られたことはないが、親しくしている友人というのも特にない。子どもが生まれてから、遊びに行くということもなくなり、大学の友だちとも疎遠になっている。

 お互い年賀状を交換するだけ、という友だちがいっぱいるが、全国に離れているから仕方がない。年賀状のやりとりというのはちぐはぐなもので、去年の賀状に対して返事を出す人がいて、相手も来年、その賀状に返事をくれるから、タイムラグがあって、とてもややこしくなる。清水義範に賀状のタイムラグを利用した小説があったし、まど・みちおの「やぎさんゆうびん」の歌を思い出す。

 大田蜀山人に狂歌に「世の中は人の来るこそうるさけれ とは云ふもののお前ではなし」というのがあって、内田百間【門+月】の玄関には「世の中は人の来るこそうれしけれ とは云ふもののお前ではなし」と書いてあったそうだ。更に、夜はきてもらっちゃ困るというので門前に「春夏秋冬 日没閉門  爾後ハ急用ノ他オ敲(たた)キ下サイマセヌ様ニ」 と書いた札も掲げていた(『日没閉門』は最後の著書の題名でもある)。

 ハムレットだっていう(第1幕第3場)。

語るにたる友と見きわめをつけたら、たとえ
鉄のたがで縛りつけても離すでない。
だが、羽根もそろわぬヒヨコのような仲間と
だれからかまわず握手して手の皮を厚くするな。

 『十二夜』第5幕第1場で「敵のおかげでいいめを見、友だちのおかげで悪いめを見てるところだ」と道化に言わせている。「友だちはおれをほめあげてばかにするが、敵は正直にばかだと言ってくれるんでね。つまり、敵によっておのれを知り、友だちによっておのれを欺く、ってわけだ」とオーシーノー公爵に説明する。

 もっとも悲惨なのは『アテネのタイモン』で友だちに求められるままにお金を浪費するタイモンは借金だらけになって「おれには友人という財産がある」(第2幕第2場)というのだが、見事に裏切られる。洞窟に住むことになり、食べられる草の根を求めて土を掘っていると金貨が出てくる。でも、金の醜さを知ってしまったタイモンはただただ嘆くだけである。

 “A friend in need is a friend indeed.”(まさかの友は真の友)というが、なかなか見つけられないものだ。アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』(岩波文庫)で「友情」は次のようだ。「【名詞】天気のよう時には人を二人乗せることができるが、天気の悪い時にはたった一人しか乗せることができない、そんな程度の大きさの船」(A ship big enough to carry two in fair weather, but only one in foul. )。どちらも駄ジャレになっているところがおかしい。

 モンテスキューなどは「友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、お返しに大きな親切を期待する契約である」と厳しい。『広辞苑』で「友人間の情愛。友達のよしみ」とだけ書いてあるが、新解さんは「友人として、相手を思い、また裏切らぬ真心」などと書いてある。

 僕が一番好きなのはトーマス・フラーというイギリスの聖職者の「見えないところで、私のことを良くいってくれる人は、私の友人である」という言葉だ。逆に悪口を言われていることの多い、僕のような人間にはこの言葉が心にしみる(といっても、そんな人がいるかどうかまでは分からない)。

 日本語の「親友」に相当する英語はないように思う。“close friend”とか“old friend”というが、少し違うような気がする。それは「親友」というものをあまりも過大評価しないからではないかと思う。

 日本では「無二の親友」という言い方もあって、「友だち」「友人」とは異なる、特別な存在のことを指す。

 ただ、河合隼雄の『大人の友情』(朝日新聞社)を読んでいたら、こんな例が書いてあって、「親友」に近いと思った【『戦場のメリー・クリスマス』の分析も出てくる】。

 私はかつて、ユング派の分析家、アドルフ・グッゲンビュールの「友情」についての講義を聞いたときのことを思い出す。そのとき、彼は若いときに自分の祖父に「友情」について尋ねてみたら、祖父は、友人とは、「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」と答えた、というエピソードを披露してくれた。【…】ここで、「かくまってくれる」と言わず「話に乗ってくれる」と言っているところが注目すべきところだ。しかし、わざわざ「黙って」とつけ足しているのは、疑ったり、怒ったりせずに、ともかく無条件に話に乗ろう、ということだ。つまり、深い信頼関係で結ばれているし、話に乗って何とかしよう、という姿勢も感じられる。

 とはいえ、死体を入れて歩くような事態が人生でどれだけあるかは分からない。別のところで、アドルフ・グッゲンビュールについての言葉を再び引用している。

 彼は友情に大切なこととして、エマーソンを引用して、「真実」と「やさしさ」をあげた後に、これらは、友情の行くえを照らす、二つの星だと述べている。つまり友情について考え、方向を示すために必要なものであるが、人間はそこに「到達する」ことなどないのである。

 これは示唆するところの大きい言葉である。友情を支えるものについて、あるいは真の友情について、などを考えることは必要である。しかし、そこに生じてくる理想が「行くえを照らす星」であることを忘れ、到達目標や目的地と考えると、自分の友情について、あるいは友人に対して、怒ったり嘆いたりすることばかり増えるのではなかろうか。さりとて、理想など不要と言う人は、自分の位置や方向などが見えなくなって混乱すると思われる。

 各人が自分の友情を照らす「星」を見つけられるといいと思う。

 欧米人にとって日本人の友情というのはホモセクシュアルに思えるという話を聞いてからずいぶんと友情に対して楽になった。イギリス映画を見ているとよく分かることだがイギリス人の10人に1人はホモだといわれる。パブリックスクールの寮で一緒に暮らしていることが原因だとされる。日本独自の友情論は旧制高校の学生たちのノスタルジーの中にあるだけではないかと思えてきた。「青春」という言葉も多くは旧制高校の中に生まれたもので、せいぜい、ここ百年くらいのものでしかない。「ホモセクシュアル」とまでいえなくても、「ホモソーシャル」、つまり「男性中心社会」が広がっていたのだ。斉藤綾子は「高倉健の曖昧な肉体」(四方田犬彦・斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画---ホモソーシャルな欲望』平凡社)の中で次のように指摘している。

 日本的なホモソーシャルの連帯に関していえば、古くは武士階級、そして近代国歌においてはその組織的な形態は違うものの、軍隊、警察、学校(男子校)などの制度的なつながりがその絆の母体になっている。つまり、儒教的なモラル・コードに置き換えられてはいるものの、機能としては西洋型の「利益促進」、「個人と社会間の契約」といった権力的な力関係が基盤になり、それが性愛的な同性愛の抑圧に結びつき、制度内の安定を維持・統制しているのだ。【…】興味深いのは、それにもかかわらず性的(ホモエロティック)なリビドーや欲望が、一種の理想化された<男同士の絆>として、<男同士の友情>というマジック・ワードにすりかえられ、制と性の曖昧な領域を保っているように思える点だ。

 実は「教養」という言葉も旧制高校の中で生まれた歪な言葉だったりする。つまり、「友情」も「教養」も一つの文化にすぎないのである。その中で女性は「交換価値」を持った「貨幣」のような役割を担ってきた。典型的には漱石の『それから』であり、女性は男同士の絆を強めるために「やりとり」される。「女性の交換」が行われるのだが、女性を崇めるように見えて、実は「女性蔑視」(ミソジニー)という意味合いを含んでいた(「尊敬」などしていたらやりとりができなくなってホモソーシャルな社会が築けない)。斎藤美奈子が『紅一点論』(ビレッジセンター出版局)でいうように「世界はたくさんの男性と少しの女性でできている」のである。

 そんなだから、中学や高校で武者小路実篤の『友情』を読まされたり、ホームルームが「友情論」に費やされたりする。あげく、男と女の間に友情は存在するか?なんて馬鹿げた議論に走ってしまう。

 英語で“girlfriend”“boyfriend”というのはセックスを伴うカップルをいう。では、ただの友だちはただの“friend”という。

 いつの間にか、友だちをつくろう、友情を大切に、というのが日本人の脅迫観念になってしまった。ただのオブセッションだということに気づけば楽になるはずだ。

 村上春樹に出てくる「僕」はなるべく他人と深くコミットしないようにしている。他人に対して強く自己主張しないし、喜怒哀楽を表に出さないようにしている。「僕には突っ込んだ個人的親交というものを本能的に避ける傾向があって」(『遠い太鼓』)、「(芝刈りのアルバイトは)あまり他人と口をきかないで済む。僕向きだ」(「午後の最後の芝生」)と考えている。

 問題なのは親友のいないことではない。親友がいないことを問題だと考える自分がいることだ。

 だから、遠藤周作は『ヘンな自分を愛しなさい』でいう。

 引っ込みじあんはいくら直そうとしても直らんのです。だから私は、「引っ込みじあんなら聞き上手になれ」といっている。 
 自分のなかにあるマイナスを逆利用しろ。

※2005年になって清水真木という人の『友情を疑う』(中公新書)が出たが、サブタイトルが「親しさという牢獄」なのである。友情というものはアリストテレス以来、二千年以上にわたって、哲学者たちの頭を悩ませてきた「公共性」の問題なのだという。

 河合隼雄の『ココロの止まり木』(朝日)には次のような文がある。つまり、友情が見直されるようになってきたというのだ。

 友情は人間にとって非常に大切なものである。夫婦、親子、きょうだい、上司と部下、あらゆる人間関係において、それが深まってくると、その底に結う横臥はたらいていることに気づくだろう。

 そのように大切なことであるが、それを公的に論じるのは意外に難しいと、ずっと以前に、スイスのユング研究所の講義で聞いたことがある。それは当時、欧米では友情の話はどこかで同性愛を連想させ、キリスト教文化圏では、同性愛に対する罪悪感や拒否感が非常に強いためだと言われた。なるほどそうなのかなと思ったが、言われてみると、「友情」を正面から取り上げた文学は欧米では少なく、多くは男女の愛のほうを取り上げている、と思った。

 ところで、周知のようにこのような事情は現在では一変している。それもあってかどうかわからぬが、最近、フレッド・ウルマン『友情』(清水徹・美智子訳、集英社)が出版され、さっそく読んでみた。…

 友だちがいなくて済ませるか?という問題に関していえば、つまらない友だちなど持たない方がいいに決まっている。余計な気とお金を使うだけで、ろくなことはない。

 ただ、これは自分が一人で生きていけると思っている人だけである。どんな形にせよ、色々な人の世話を受けないと生活はできないものである。

「時々ね、誰にも迷惑をかけないで生きていけたらどんなに素敵だろうって思うわ。できると思う?」
彼女はそう訊ねた。
「どうかな?」
「ねえ、あなたに迷惑かけてないかしら?」
「大丈夫だよ。」
「今のところはね?」
「今のところは。」
(村上春樹『風の歌を聴け』)

 どんなに孤独を愛する人でも、人と接せずに生きられない。

生きているということは
誰かに借りをつくること
生きてゆくということは
その借りを返してゆくこと
     -----永六輔

 友だちがいないと死ぬことさえできない。本人は死んだかどうか分からないのだから…。

 ただ、今の友だちが必要かどうかというのは分からない。僕のように半世紀近く生きてきていると、色々な友だちが通り過ぎていったことを知って愕然となるのだ。今さら、ありがとうともいえない人がいっぱいいる。

 だから、大切にしよう、というのではなく、その場その場でできるだけのつき合いをしていればいいと思う。中にはお節介な人がいて、面倒かもしれないが、永遠に関係が続く訳ではない。喧嘩しても殺されることは(全く---滅多に---あまり)ないことだ。

 間違っても「真の友だち」というのは追わないようにしよう。相手にも迷惑だし、永遠などというものを信じてはいけない。人間が悪くなったのではなく、昔のように単純な時代ではなくなっているからだ。

 人間関係がドップラー効果みたいだと考えてもいい。近づいてくる時は高い音でカンカンカンと鳴るが、離れる時は鈍い音でゴンゴンゴンと去っていく。そんな風だと考えれば、気が休まるはずだ。

 友だちが多いことと友だちに恵まれていることは別だ。社交的な人間がときどき見受けられるが、よくしゃべるだけで会話力はない。後に何も残らない。

 友だちがいない、少ないと悩むことはない。それだけ内省的で、他人を傷つけるのが嫌いな人間だということだ。時々、人に甘えてみればいい。人見知りは案外、上手に甘えられるものだ。シャイネスは美徳だ。よく考えるから言葉に詰まるだけなのだ。だって、『リア王』の末娘コーディリアを考えてみればいい。お姉さんたちと違って、何も言えず、親からも「何もないところから何も出ない」といわれるが、リア王を本当に愛していたのはコーディアリアだけだった。

 いずれにしろ、人間は傷つかないステンレスのような人生を送れる訳がない。そういう自分だって他人を傷つけていないとはいえない。

 大事に育てあげられ、その結果とりかえしのつかなくなるまでスポイルされた美しい少女の常として、彼女は人を傷つけることが天才的に上手かった。
 その当時僕は若かったので(まだ二十一か二だった)、僕は彼女のそんな性向をずいぶん不愉快に感じたものだった。今にして思えば彼女はそのように習慣的に他人を傷つけることによって、自分自身をもまた同様に傷つけていたのだろうという気がする。そしてそうする以外に自分を制御する方法が見つからなかったのだろう。だから誰かが、彼女よりずっと強い立場にいる誰かが、彼女の体のどこかを要領よく切り開いて、そのエゴを放出してやれば、彼女もずっと楽になったはずなのだ。彼女もやはり救いを求めていたはずなのだ。
     -----村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』

 女性の場合は(もちろん、男性も同じなのだが)、結婚相手の状況によって環境が変わることが多い。だから、友情と気張って考えるよりは人付き合いと軽く考えておいた方がいいかもしれない。

 あちらから「友だちなのにそんなこと」といわれるかもしれないが、「友だち」というのにも色々なパターンがあって、だからどうだとは決めつけがたいのである。

 年を取ってから、いい友だちになるかもしれないのだ。

 ジョン・レノンがいうように「人生は短い。友だちと喧嘩したり、争ったりしているヒマはない」。

 究極の答えを教えておこう。孤独力をつければ何も怖くない。以下は朝日新聞2004年3月23日の「ティーンズメール」という人生相談にTETSUYA(元・ドリアン助川、現・明川哲也)の担当である。

「学校で緊張する時」(兵庫県《女性・16歳・高校生》)
 最近、私は学校にいると緊張します。なぜかというと、この前まで仲良くしゃべっていた友達が急にしゃべってくれなくなって、いつも休み時間や移動教室のときも一緒にはしゃいでいたのに、最近はあまりしゃべってくれません。組を作る時もいつも同じだったけど、今は他の友達と組んだりするので、私は不安になります。
「嫌われてるのかな」とか、「私、何か気にくわないこと言ったかな?」と毎日考えます。
グループを作る時など、「私1人になったら、どうしよう」とかいろいろ考えてしまい、学校にいると緊張します。
 こんなこと、今までになかったので、とても不安です。私は考えすぎですか?
 それとも、その友達に直接聞くべきなのでしょうか? でもその友達と離れたくないし嫌われたくないです。どうするべきか分かりません。
 私は悩みすぎでしょうか?


「16年後のフランスで…」

 2020年、フランスはアビニョンの瀟洒なホテルにあなたはいます。インドネシア人のカレシがワインを注ぎながら、おめでとうと言ってくれました。パラソル画家として有名になったあなたはアビニョンの美術展に招待され、しかも作品を気に入ったヨルダンの大富豪から、展示品を百万ユーロで譲って欲しいと申し込まれたのです。
「これで念願の世界一周旅行ができる。プラハにアトリエも持てるぞ」
 カレシはゴキゲン。あなたももちろんゴキゲンです。
「でも、傘に絵を描くパラソル画家なんて、いったいどういう発想で始めたんだい?」
 あまり昔のことを語りたくないあなたはカレシにほほ笑みかけるだけ。しかし頭の片隅には2004年の高校時代がありました。嫌われたらどうしよう。1人になったら、どうしようと緊張ばかりしていたあの頃。
 そうだわ。あの時、新聞の人生相談に投稿したら、貧しそうな作家が「あなただけにしかできない何かを探そう。不安な時はひたすら創作に励もう」とアドバイスしてくれたんだっけ。それからは教室でつらくなる度に、私は画用紙に絵を描いていた。まさかそれがこんな実り多い人生につながるなんて。
 あなたはそんなふうに思い、カレシにこう言います。
「孤独という筆が、人生をデザインしてくれることもあるわ」                

(作家・ミュージシャン)


☆友情の値段

 ウィリアム・ブレイクは「鳥には巣、蜘蛛には網、人には友情」と言ったが、友人は困った時に避難所である。

 友情に値段を付けるとはと怒る人もいるだろう。メロスのような状況になっていれば友情を計ることができたかもしれないが、年を取ると走るのが苦手になってきた。アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』で「知人」を「金を借りるほどには親しいが、金を貸すほどには親しくない間柄の人。対象が貧乏・無名であるときは『軽微な関係』と呼ばれ、対象が裕福・高名であるときには『親密な関係』と呼ばれ」(ACQUAINTANCE, n. A person whom we know well enough to borrow from, but not well enough to lend to. A degree of friendship called slight when its object is poor or obscure, and intimate when he is rich or famous.)だという。

 しかし、友情に値段は付けられるものなのだ。仮に友人が借金を頼みに来たとして、あなたはいくら出せるだろうか?

 誰でも一律に百万という人がいたら、是非、友だちになってほしい。

 どうして、相手との関係によって値段が違ってくるはずだ。

 実際、僕の友だちで自己破産したのがいて、お金を借りに来た。連帯保証人になったのが運の尽きで、コロコロと坂を転げるように借金地獄になったのだ。おかげで家族も失った。

 誰かを保証する位だったら、お金を捨てる気になった方がいい。そのお金が返ってこない時は、それだけの被害で済むからである。

 さて、彼はお金を借りに来たのだが、僕はいったいお金をいくら貸せるのか悩んだ。

 そんな風に友情を計ってみるのも面白いかもしれないが、人間がせこくなってくることは確かだ。人間関係というのは血縁であれ、地縁であれ、不合理なものなのだ。

 滝沢馬琴の作品に出てくるという(『岩波ことわざ辞典』)が、「金は三欠(さんか)くに溜(たま)る」という諺がある。世間を生きるのに大切な義理、人情、交際。この三つをおろそかにしないと、金などたまらないという意味だ。こうした世間の心得を欠けば、ことは丸くおさまらず三角のように角が立って非難を受けるというのだ。三角に暮らすか、丸く暮らすか…。

 金を貸すというのが危うい行為だということは当時もわかっていて、その危なっかしい方法で恋人とコミュニケーションを取ることに、快感があった。

 金というものを、人の心とは無関係な冷たいものだと考える向きもある。しかし、もし人に心がなかったら、金は発明されなかっただろう。「この人と関わりたい」「この社会で生きていたい」という願いの下に、人は稼ぎ、消費し続ける。金のコミュニケーションは難しく、往々にして失敗するが、決して金を否定することなく、人間関係を築いていきたい。
     -----「金はコミュニケーション」山崎ナオコーラ『指先からソーダ』(朝日新聞社)

 作家の梅崎春生は友達を四層に分けて考えていた(『全集第七巻』)。

一,真実の友、心の友

二,好意を感じて居る友

三,全然路ぼうの人

四,嫌な友(これでも友と言えるかしらん)

 お金で換算するよりはこちらの方が健全である。


☆「共食」の原理

 ヒトがヒトになりえた原因の一つに「共食」というのがある。動物は一緒に食べることはしない。同じ時間に食べているにしても、家族としてテーブルを同じくすることはない。

 だから、究極の挨拶はものを食べることになる。「同じ釜の飯を食べた」とか「一宿一飯の恩義」などというのはまさに「共食」で、何も日本だけではない。

 他民族と接した時に、受け入れられたことを示すのは「共食」である。相手が出した食べ物を食べることによって、迎えられたことを知るのである。お酒だという人もいるだろうが、イヌイットやネイティブ・アメリカンなどお酒を知らない民族も多いし、イスラムやモルモン教のように禁じているところも多い。

 カンパニーにも2種類がある。

 日本語の「カンパ」というのは英語の“company”から来ている。そして、仲間が一緒になって作ったのが、「会社」である。仲間で助け合うことだが、“company”はもともと「パンを一緒に食べる」ことから来ている。

 ところで、天国と地獄は同じテーブルだという。天国、地獄ともに、料理が並んだ丸い大テーブルがあり、長い箸を持った多くの人が囲んでいる。地獄では、箸が長すぎて食べられないとみんながいら立ち、けんかが起きる。天国は、互いの口に食べ物を運び合い、みんな満足…。

 思いやりで世界が、天と地ほど変わる。


☆友情の社会学

 モーティが家に帰ると、かみさんと親友のルーがベッドのなかで、そろって裸になっていた。モーティが口を開こうとすると、ルーはとびおきていった。「おい、おまえはオレを信じるのか、それとも自分の目を信じるのかい?」
-----カスラート&クライン『プラトンとかものはし、バーに寄り道』(ランダムハウス講談社)

 ドイツの社会学者テンニエスはゲマインシャフトとゲゼルシャフトを対置して用いた。それぞれ、「共同社会」「利益社会」という訳語があてられ、社会学の基本概念となっている。ただし、社会学は詳しくないので、自分勝手な解釈になるが…(どのエッセーだっておんなじだが)。

 社会を成り立たせるのは人間意志なのだが、これは目的と手段との関係において本質意志と選択意志とに分けられる。このうち、後者の選択意志に基づいて成立するのがゲゼルシャフトで、本質意志に基づいて成立するのがゲマインシャフトである。テンニエスは、このようなゲマインシャフトとして、血縁に基づく家族、地縁に基づく村落、友情に基づく都市をあげている。

 選択意志とは、行為者の本質の無意識的な表現である本質意志に対して、一定目的の達成のための合理的な手段の意識的な選択を意味し、具体的には考量、打算、意識性などとして個人に現れ、社会的には協約、立法、世論などとして実現されるという。

 ゲマインシャフトがいつの間にか集まった仲間なら、ゲゼルシャフトは集めた仲間で、会社が典型的だ。ところが、この境界というのがなかなか分かりにくい。アップルコンピューターのように仲間内で作ったものが発展してそのまま会社になることが多いし、会社の中でも損得抜きのつき合いをしている人もいるだろう。

 いずれにしろ、機能的な考えでできるのがゲゼルシャフトで、近代的、合理的、能率的、機能的ではない集団がゲマインシャフトといえるだろう。会社のシステムとサロンのシステムの違いともいえる。

 会社も実は機能だけを追いかけていては仕事にならない。明日の展望が開けない。というのも今あるだけの機能を十分に使っていたら、明日には間に合わないことになるからだ。

 そのためにも「ゆとり」というのが必要になる。水をコップに目いっぱい入れておくのは効率的かもしれないが、ちょっとした振動でこぼれ落ちてしまう。

 「共同社会」をないがしろにすることはできないのである。

 アメリカの社会学者D・リースマンは1950年の『孤独な群衆』(みすず書房)の中で、人の社会との関わりの仕方に着目し、3つの類型に分類した。

(1)伝統志向型("tradition-directed"中世以前の社会)=社会的な慣習を遵守し、権威に弱く、過去の習慣に従って物事を決める。

(2)内部志向型("inner-directed"19世紀までの近代社会)=自分で自分を支配する自立的で、自己の内面的な価値や目標を堅持。

(3)他者志向型("other-directed" 現代社会)=同時代の他人の行動にしたがう大衆的人間像でマスコミ・世論・他者の意見に反応し主体性を失っている。

 リースマンは歴史的に変遷していくと考えたいたのだが、実際には色々な価値観を持った人が一緒に暮らしている。内部志向のジャイロスコープ型で生きるのか、他者志向のレーダー型で生きるのか、少し考えてみるのもいいだろう。

 実は他者志向型の人間は消費社会によく適合する人格である。他者がどのような記号をまとっているかをいつでもモニターして、彼らとの差異を示さなければならないからである。その結果、相手によって違った自己が現れる傾向が出てくる。複数の「私」があるのだけれど、その間に本物と偽物の区別がつけられなくなる。相手にとって、どの「私」もそれなりに本物なのだから。これが顕著に現れるのが、ネット上で、男が女になりすますなど当たり前で、複数の自己を使い分けていることになる。さらに、他者との親密度の敷居が低くて、なれなれしく話されることが非常に多い。あげく、用心深さをなくして事件になったりするのである。

汲む
 ―Y・Yに―   茨木のり子

【…】

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇  柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです


☆最後に

 ダイエーの創始者・中内功は流通革命を日本で推進した男だった。後に「カリスマ」となり、時代を先読みしすぎ、去っていった。 

 中内が絶頂にある時に、ダイエーが地域文化を壊すと批判されたことがあった。御輿を担がない、というのだ。つまり、御輿が出るのは地方の商店街がしっかりしていて、その寄付などでお祭りができて、御輿が出るのだが、消費者の価格にだけ注目したダイエーは地方の商店街を破壊し、お祭りまでなくしてしまった。

 僕は小さい頃、お祭りが大好きだったが、大きくなってから面倒な行事に思えてきたことがある。町の商店街を使わなくてもクルマで買い物すればいい、と簡単に思っていた。ちょっとばかりおまけしてもらって、こちらが「ありがとう」というより、あちらに「ありがとう」といわれた方が気持ちいい。そう思っていたのだが、いつの間にか町から文房具店がなくなり、ある日、子どもがぎりぎりになって宿題のための画用紙が必要だというので町の中を探したがない。スーパーにもコンビニへ行ってもなくて、慌てて遠くの町のホームセンターまで出かけなければならなかった。お祭りも経費のかかる行事で、今さらご馳走でもない、と思っていたのだが、子どもが成長して、お祭りの行事に参加して成長する姿を見て、思い直すようになった。

 そりゃ、面倒なことがいっぱいだ。母親はしょっちゅうお見舞いだ、葬式だといっては5千円ずつ包んで持っていく。治れば快気祝いだといって3千円くらい戻ってくる。本人も止めたいといいいながら、止められない。こうして贈り物コミュニケーションが延々と続いていく。

 挨拶も友だちも仲間もコミュニティも面倒なものかもしれない。無駄なことかもしれない。ただ、人間は一人で生きていけないことだけは確かだ。これまでも、これからも。

 だからこそ、今は技術一本よりもコミュニケーション能力を評価するようになってきている。どんなアイデアでも考えた人ひとりしか分からないのは、誰も笑わない親爺ギャグを続けているようなものだ。

 誰かと交わって、仕事をするために、他人を思いやる気持ちが大切なのだ。それは「友情」という言葉に当てはまらないかもしれない。もっと小さな心配りかもしれないし、人類愛なのかもしれない。

 最初に書いた、挨拶をしないSTEPはその後、倒産した。


☆社交主義の勧め

 と書いて終わったのだが、次のようなメールが来たので、もう少し説明を加える。

先生。こんにちは。

友情についてのエッセーを読みました。でも、いつものキレが有りませんし、ギャグもなくてつまらなかったです。それに私たちはどう生きればいいのかよく分かりませんでした。

YUMI

 新世紀になる時に、21世紀はどんな世紀になるだろうかと考えた。18世紀が絶対主義の時代、19世紀が歴史主義の時代、20世紀が相対主義の時代としたら、21世紀は何の時代だろうと思った。

 プロトコルの時代だと思う。相対主義は言語学の基本的なテーゼ(考え・前提)なのだが、実は弱い部分がある。文化は全て相対的だからというのは寛容すぎるのである。例えば、タリバンによるバーミアンの石仏の破壊を異文化だからといって簡単に容認することはできない。もちろん、テロだって、容認できないし、某国による国家的な麻薬輸出なども相対主義だといって許す訳にはいかない。

 アフリカの女性はさまざまな形で精神的・肉体的な抑圧を受けているが、これらも文化相対主義だといって容認することは難しい。アリス・ウォーカーの『喜びの秘密』(集英社)はそうした女性たちの話だ。主人公のタシの姉は幼い時に<女の儀式>を受ける。村の産婆や治療師が錆びたナイフやカミソリで、麻酔もせずに、初潮前の少女のクリトリスと小陰唇をそぎ落とし、大陰唇を縫い合わせる。死亡する子もいる。結婚初夜の時に枕元にナイフが置いてあり、夫が切り開くという。考えるだけでおぞましい文化だ。タシは決意して<女の儀式>を受けるが悲惨な結果になり、切除した老婆を殺して死刑になってしまう…。

 デスモンド・モリスは『ウーマン・ウォッチング』(小学館)で次のように書いている。

 毎年、200万人もの少女が泣き叫びながら押さえつけられ、麻酔もなしに、この残酷な手術に従わされている。切除する道具は、かみそりの刃、ナイフ、はさみといった粗雑なもので、非衛生的であり、たびたび死に至ることもあるが、その死はいつも揉み消される。割礼支持者は次の言葉で弁護する。「女性の割礼は神聖であり、それなしの人生は無意味である」。

 「フランス、女子割礼に有罪」という記事が新聞の社会面(2003年2月28日付『朝日新聞』)に載った。フランスに住むアフリカ系女性28人が娘に割礼を施したとして禁固2〜5年の判決を受けたのだ。

 アメリカでも最近、ナイジェリアからの移住者の母親が娘に自分で割礼(「割礼」にも3種類あるが、Female Genital Mutilation ではなく、Female Genital Cuttingと呼ぶようになってきた)を施して傷害罪で訴えられるなど、同じような事件がつづいている。アフリカからの移住者団体は「割礼は伝統であり、欧米の批判は文化的な帝国主義だ」と主張、それに反対する人権擁護団体との間で激しい論争が続いている。まさに「文明の衝突」である。米国の女性保護団体の調査ては,女性割礼か行われているのは世界で28カ国に及び,1億2000万人か受けているとも推定される。女性会議のたびに反対決議か採択されるが,現在でも毎年200万人【2005年のユニセフの調査では年間300万人】が新たに受けているという【2003年に内海夏子『ドキュメント 女子割礼』集英社新書が出版され、広く認識されるようになった】。国際社会の批判を受け、エジプトやケニアなどでは、風習を秘密裏に行うための低年齢化も進んでいるという。

 女子割礼が特殊だという人がいるかもしれない。では、ヨーロッパやアメリカでも盛んに行われた魔女狩りというものが復活してきて、これは文化だと主張されたらどうするのか。

 アメリカ先住民族のクチン族の社会では初潮を迎えた少女は遠く離れた特別な小屋の中で1年間過ごさなければならない。フードをかぶって足元しか見えない状態だという。音が何も聞こえないような状態で暮らすのだ。これは文化か虐待か。でも、そのおかげで少年・少女非行が少ないとされたら、どう言い返すのか。

 総てに反対できるかというと無理がある。境界が漠然としているからだ。例えば、モルモン教徒は長い間、一夫多妻だったが、アメリカの中では受け入れらず、放棄した(イギリスでも同様でシャーロック・ホームズの『緋色の研究』はそうした誤解に満ちている)。しかし、イスラム教の一夫多妻を簡単に否定することはできない。新藤兼人監督の『生きたい』にも出てくるように日本でも可能性があるが、生計を担っていた夫が亡くなったら、残された家族を誰かが面倒をみなければならず、過酷な現実の前には一夫多妻の方が合理的なこともあるのだ。

 ちなみに、トルストイはモルモン教に傾倒したことがある。第1回のノーベル文学賞の当時、トルストイは生きていたが、『復活』などによるモルモン教徒への支持表明が近代国家の基盤となる徴兵制を危うくするものであり、その社会主義的傾向はノーベル賞の掲げる「人類の進歩、発展、人道主義」とは相容れないという理由で落選した。

 シェイクスピアは次のように語る。

 They love not poison that do poison need.
(毒を必要とするものも毒を愛しはせぬ)
『リチャード二世』 第5幕第6場

 つまり、毒になる人とでもつきあっていかなければならない。

 プロトコルというのは現在、「通信プロトコル」(規約)などとして知られるが、元々は「外交典礼」だった。30年ほど前にチョムスキーの論文の中に“protocol”というのを見つけてとても新鮮な感じを受けたのだが、TCP/IP(transmission controle protocol) http(hyper text transfer protocol)のごとく、今ではすっかり日常的な語彙となっている。

 ファックスで最初にギーガーと鳴るのはプロトコルを交換しているのであるし、バンバラ族の長い挨拶も話をするためのプロトコルだから、不可欠なのである。

 国どうしが接触する時に互いに取り決めるのがプロトコルである。パーティでの席順まで決められる。僕がプロトコルの時代として考えているのは、お互いに相手の立場を理解し、いうべきことはいい、直すべきところは直しながら、つきあって行くということだ。もちろん、口でいうほど簡単ではない。しかし、「郷に入りては…」式の考え方ではない。異文化を認めながら、お互いの終着点を見つけていくということだ。「国際的」ではなく「民際的」な交流が大切ということでもある。相手の周波数に合わせて「チューニングする」能力が必要だということだ。

 日本でも「個性尊重」ということがよく言われるようになったが、実はそんなに簡単なことではない。

 一つには孤高でいることの厳しさというものが求められるということで、他者と違う価値観をもつことから生まれる寂しさに耐えることが必要だ。

 もう一つはバラバラな価値観でも耐えるコミュニティやコミュニケーション能力を持たなければならないことである。価値観の「摺り合わせ」をしなければならない。恐らく面倒な社会で、細かいことまで決めていかなければならないだろうが、そうして、対話によって小さな共同体を積み上げていかなければならないだろう。

 逆に、親しさをなれなれしいことで示す人がいる。「親しさ」はしばしば「敬意の欠如」として表現されるのだ。「親しき仲にも礼儀あり」ということわざはプロトコルの大切さを強調したものである。一つの真理を求めるとけが人が出ることを忘れてはならない。

 正しいことをいうときは すこしひかめにするほうがいい 正しいことをいうときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい---吉野弘『祝婚歌』

 対立ではなく、合意による社会、つまり大人の社会を再構築しなければならない。

 内田樹によれば、マニュエル・レヴィナスとアルベール・カミュ人の共通点は「ひとは自分と意見を異にするもの(ときには自分を敵視するもの)とどうやって対話を続け、共存し続けることができるのか」という問題に生涯取り組んだということだという。彼らの結論は似ていて、それは「対立し、分離しているものをむりに統一しようとしてはならない」ということだ。「邪悪なもの」とは「根絶」すべき対象ではなく、「折り合いをつける」ほかない交渉相手なのだ。

 イソップ物語のキツネとツルの話を知っているだろうか。キツネがツルを招き、スープを平らな皿に入れてすすめる。飲めなかったツルは、今度はキツネを招いて、首の長いツボに入ったスープを出した。相手が嫌がり、傷つくことをしていれば、いつか逆の立場に立たされかねない。そうではなくて、相手をほんの少し思いやるだけでいいのだ。

 キツネで思い出した。『星の王子さま』で王子さまは友達というのは出来合いのものとしてどこかにあって、それを見つけるだけでいいのだと考えている。そんな王子さまにキツネが諭す。「辛抱が大事だよ。最初はこんな風に少し離れて座るんだ。オレはあんたを、横目でちらっとみるのさ。あんたは何もしゃべっちゃダメだ。言葉は誤解のもとだからね。でも、一日一日少しずつ、オレたちは近づいていくのさ」という。そして、「あんたにとって、あの薔薇の花が大事なのは、その薔薇のために、あんたが時間と費やしたからなんだ」という。

 そうだ。人生において友達にしても、勉強にしても、趣味にしても忍耐力が大切なのだ。楽しい思いをするためには辛い思いをしなければならない。便利さに溺れては何もできないし、面倒だと思ったら何も手に入れることはできない。仮に簡単に手に入れることができるものがあったとしたら、それは大事なものでなくなってしまう。

 キツネは「もしお前がオレを構ってくれたら、オレらは互いに必要となるのさ。オレはあんたにとって、この世でたった一人の、かけがえのない人になるし、オレはあんたにとって、この世にたった一匹の、かけがえのないキツネになるんだ…」という。サン=テクジュペリは“apprivoiser”という言葉を使っている。議論になる言葉だが、元々は「(動物などを)飼い慣らす」という意味だが、「構う」などと訳される。つまり、相手の気持ちを構ったことによってかけがえのなさが生まれてくるのだ。

 ちょっと話が大げさになりすぎたが、人間関係はどうすればいいのだろう?

 これについて、森毅“ものぐさ”教授が『社交主義でいこか』(青土社)という本を書いている。あとがきに次のように書いている。

 社交主義という言葉を思いついたのは、ベルリンの壁の崩れたころ。「社会主義が滅びて、会社主義が残る」などと言われていた。それからの十年は、この会社主義の崩壊の時代だった。ちょうどそのとき遊びに来ていた浅田彰に「社交主義は英語ならなんやろ」と言ったら、「社交ダンスはソーシャル・ダンスやから、やっぱりソーシャリズムでええのんとちゃいますか」とのこと。

 社交というのは、決まった相手と仲間になってつきあうことではない。たまたま出会った相手と手を組んで踊ること。

 もともとぼくは、仲間というのが苦手なたちだ。仲間には内と外があって、内は抑圧し外は排除するとういイメージがある。ぼくにとって、戦中軍国主義の「みんな仲間」よりも。戦後民主主義の「みんな仲間」の方が抑圧的だった。仲間からずれながらも、楽しく生きる。そのためには社交。郷に入ったからとゆうて、なんで郷になんか従わんならんねん。よそもんがいるほうが、珍しゅうて楽しめる。

…ゆきずりの出あい、そのなかで生まれる新しい自分で、踊りを楽しむほうが、心がゆたかになる。

 もう一つ『ええかげん社交術』(角川書店)という本も出していて仲間作りを批判する。

 ぼくは、仲間意識を育てていい世の中にしようという意見には反対する。ぼくのような仲間嫌いから言うと、仲間という概念は、仲間と仲間以外とを区別する思想だ。そこには必ず、排他性が含まれている。仲間ということを考えるからいじめが起こるのだ。

 僕は仲間がいても構わないと思うが、「仲間」だと思った瞬間に他人や他人の意見を排斥するようになる。だから、出入り自由なファジーな集まりという方が面白いだろう。

 社交というのも実は人間的ではないかもしれない。例えば、多田道太郎は桑原武夫『第二芸術』(講談社学術文庫)の解説に次のように書いている(第二芸術とは俳諧のこと)。

 社交とは、そして人と人をつなぐとは、およそしんどいものである。ルソーは、人間はほんらい思考には向いていない。考えることは健康によくない、といったことがある。社交もまた人間の「自然」に反するかのようである。だから、人と人が会うときは、シャーマンのごとく煙をふかせたり、一味同心のごとく喫茶する必要がうまれてくる。文明の進展とともに、人はタバコをより多く吸い、茶を喫することいちじるしくなった。ことばの遊びもまた、然りである。

 俳諧はつなぐべからざるものを機智によってつなぐ。神と人とを、人と人とを、人とモノとを、モノとモノとを-----。

 だけど、言葉の遊びと同じように遊びだと考えれば、社交も気が休まるだろう。

 社会学者の宮台真司とフリーライターの松沢呉一は『ポップ・カルチャー』(毎日新聞社)で、若い男性がタコツボ化しているのに対し、若い女性はタコ足化していると指摘している。タコツボ化は、文字通り狭い人間関係の中で親密さと憎悪をひたすら深めていって逃げ場がない。タコ足化は逆に、ネットワークが広範囲で、嫌な人物だと思うとタコ足の線を抜いて関係を断ってしまう。女性たちは逃げ場があり、追い詰められることがない。

 哲学用語で「あんぷらぐど」“unpluged”という言葉があるが、コンセントからプラグを抜くように、リセットして物事を考える必要がある。「友情」ってそんなに必要なものなのかって…。

 『社交主義でいこか』の「もうひとつのソーシャリズム」という文章の中で次のようにいう。

「みんな仲間、心をひとつ」が社会主義のスローガンなら、「みんな違う、心もそれぞれ」が社交主義のスローガンだろう。仲間に入ろうとしたり、仲間を作ろうとすることが社交性ではない。いろいろと違った形のままで、なにものにも帰属することがなくとも、出会いのゆたかさを楽しむのが、社交である。世代の違いも、育った文化の違いも、違っているからこそ楽しい。ひとつになったら、面白くない。それを楽しめる二十一世紀日本の成熟に、ぼくは期待している。

 友情とか親友とか、仲間とかは必ずしも永遠ではない。生きているうちに相手も変われば、自分も変わる。立場が変わって、友情がそのまま続くというのは幻想だ。

 そんな幻想にしがみつくよりも、今日出会った人を大切にして生きていくことが大切だ。

 本はいっぱい出るもので、山崎正和の『社交する人間』(中央公論新社)というのが出た。日本のべったりした社交とは違う社交が欧米にはあるようだ。

 社交の場においては勝手気ままな行動は許されない。かといって儀礼のように決まってしまっていては面白くない。そのためには「礼儀作法の即興劇」とでもいうものが必要だ。適度な笑いが歓迎されるが、「最大のタブーは場違い」であるという。そこでは「統御される感情」が必要だという。

 アメリカでもプロムと呼ばれる卒業パーティで社交をするが、日本人はこうした社交を教える場所がない。あるのは合コンだけだ。

 社交の大切さを根本から考えるべきかもしれない。


☆ホントの最後

 またまたメールが来た。

先生のお考えになる、「仲間」とはいったいどの様なものですか?。
同じ学校で仕事・勉強(学生も含む。)していれば個人が「仲間とは思っていない。」といくら言ってもはたから見れば、仲間だよ・・とも思うし。

 上にも書いてあるのだが、「仲間」というだけでそれ以外の人を排除する傾向がある。「同僚」とか「仲間」とかあまり考えずに“crew”とか“partner”だと思えばいい。たまたま乗り合わせただけかもしれず、目的意識をもっているかもしれず、分からないが同じ居場所にいるという意味だ。同じ学問を学んでいるかもしれないが、方向は正反対かもしれない。でも、今ここに一緒にいる!

 演劇には協力的な観客(授業には協力的な学生)が必要だが、“crew”というのはこの協力的な観客のことである。スケールの大きい人間に見せて、そのように認めてくれる観客のことだ。一番悪いのは自分がダメだとか、数学ができないとか、モテないというような思い込みである。自分が自分の人生を演じる時に必要な観客が「仲間」であり、「友達」なのだ。スヌーピーの結論も「幸せとは暖かい仲間」というものだ。

 日本語で「パートナー」というと相手を批判しないという暗黙の了解があるが、英語の“partner”にはそういう含みはない。相手を批判し合うことの方が“sincere”(誠実)として評価されるのである。だからこそ、日本が「友好国」と思っているアメリカが日本を激しく批判することがあるのだが、日本人にはなかなか理解しえないところである。

 その場限りの“crew”を楽しもうというのは稀薄で表面的な関係性の現れと考える人がいるかもしれない。実際、現在の若者の多くが「状況志向」(富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣)や「対人的フリッパー志向」(辻大介「若者のコミュニケーションの変容と新しいメディア」『子ども・青少年とコミュニケーション』北樹出版で提唱されている)になっているという指摘もある。

 ちょうど、ネットのニュースグループのように、それぞれは別々のグループに、個人がアクセスして、それぞれで別々の趣味や話題に没頭するようなことである。友人関係でも、ある時は文学趣味の、またある時は武道関係のグループに入って、その場限りの交際を楽しむ傾向をいう。刹那的(せつなてき)といわれるかもしれないが、各グループの中ではそれなりに、「濃い話」をして、「本当の私」をさらけ出すこともあるようだ。

 ある集団だけにどっぷりと浸かる交際と、ネットサーフィンのように軽々と次へ移りながら、自己実現をしていく交際とどちらが望ましいかは個人的な趣味の問題であり、相対的である。同心円型と状況志向型に分けてもいいが、前者は「友だちの友だちは友だち」のタイプのつきあい方なのに対して、後者は「知る人ぞ知る(知らない人は誰も知らない)」タイプのつき合い方といえよう。前者が日本的で、後者がアメリカ的だということは否めないが、日本型にも問題があり、アメリカ型にも問題があることはいうまでもないだろう。アメリカに対人ストレスから悩む人が多く、精神科医にかかるのがステータス・シンボルにようになっているのをあげるだけで十分かもしれない。

 どちらがいいのかどうか、全く分からないが、日本型だけに自分を押し込めて悩んだりすることはないし、アメリカ型に無理に合わせる必要もないだろう。

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。
つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。
ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に―
テムポ正しく、握手をしませう。

           中原中也 「春日狂想」より

 日本では「和を以て貴しとなせ」ということで協調性が大切だと教えられる。コミュニケーション・ギャップがあってはならないといわれる。これだけ等質で「全体主義」的な国の中で、更に、ここまで教え込まれるというのは怖い気がする。

 昔はよかった、というけれど、人間関係の広さは昔と比べものにならないし、昔に戻ることなんてできないのだ。

 多くの若者は「濃密な人間関係」をどこかで絶対的に善だと考えているのではないだろうか?何でも話し合え、誤解もなく、理解し得る関係なんか、他人とはありえない。それは他人ではなくて、自分のクローンにすぎない。人は違うから、面白いのであって、みんなロボットのように同じではありえない。

 「濃密な関係性」という幻想を強調することで、お互いの心を疲弊させるという逆説が生まれつつある。ストーカーというのはまさに「濃密な関係性」を求めて、誤解している人間であるし、幼児虐待の多くは「濃密な関係性」という幻想に惑わされて、心の負担になって虐待行動に出るという一面がある。

 「コミュニケーション能力の必要性」などという論客にはくれぐれも注意しよう(←お前のことやんけ)

 森毅は講演「森流『学び』術のすすめ」(『学ぶ力』岩波書店)の中で協調性と社交性は違うという。

 一人っ子は協調性がないと言いますよね。たしかにそうで、では協調性を何でカバーするかというと、社交性でカバーしているんです。協調性と社交性というのはちょっと反対です。一つの共同体があったら、そこにいかに溶け込むかというのが協調性です。よくわからなくても、外とどれだけ楽しくやるかというのが社交性ですから、方向が反対です。

 悩むのはみんなから好かれたいという気持がどこかにあるからかもしれない。「戦う哲学者」の中島義道は『ひとを<嫌う>ということ』(角川書店)の中で、次のように書いている。

 この歳になって痛感すること、それは人間とはなんと他人から嫌われたくない生物か、自分が嫌っている人にさえ嫌われたくない生物か、ということです。普通、理性的に考えれば、自分も世の中のかなりの人をさまざまな原因で嫌っているのだから、自分もある程度の人にさまざまな仕方で嫌われてもしかたないと思えるはずなのですが、これが実際にその情報を得るや気も転倒するばかりに驚く。他人から<嫌い>と言われることを、悪魔から呼びかけられるように恐れる。他人から嫌われていないという自己催眠状態を維持するために、ありとあらゆるトリックをしかけて自分をだまそうと必死になるのです。

 他人を正確に嫌い、自分が他人に嫌われることを正確に受けとめる修行をするしかないのです。

  そして中島は『私の嫌いな10の言葉』(新潮社)で次の言葉をあげている。

 

 このうちの、「相手の気持ちを考えろよ! 」という脅し文句が他人とのつき合いで必ず語られることである。しかし、中島によれば、こう語る人は「すべての人間の感受性は同一である」という公理を信じ切っていると批判する。寅さんじゃないが、「俺が芋食ってお前が屁をこくか」ということだ。AとBは他人というだけでなく、感受性が同じとは限らない。Aにとって平気なことがBにとって死ぬほど嫌いなことかもしれない。しかもこの思考法は「みんなならこう感じるだろう」という感受性の一般化に向かっていかざるを得ない。そうなるとマイノリティは抹殺されてしまう。

 だから中島は「すくなくともこう語る人は、暴力的な側面を持つことを意識してこの言葉を発する必要があります」と述べている。

 そうだ。感受性が皆同じなんてことはありえない。例えば、井上ひさし『吉里吉里人』ではカレーライスの食べ方をめぐって殺人が起きるし、ガリバーが訪ねた二つの小人の国は卵を上からむくか、下からむくか、どちらが正しいかで戦争を始めている。夫婦生活でも、パートナーのちょっとした仕草が耐えられずに崩壊していくことが多い。

 この言葉を言う人たちが自分自身の傲慢さや想像力の欠如に気づこうともせず、言葉による議論を封じるということだからだ。言葉のやりとりで物事を理解したいと望む人間にとっては、これらの言葉は暴力的である。

 と書いてから、教師として僕はそんな殺し文句を発していないか、深く、深く反省するのであった。

 では、そうした暴力に陥らないためにはどうするか、というと、相手の気持ちなんて分からないのだ、というところから出発することである。分からないから言葉で伝える。その言葉は決して裏の意味を持った暴力的なものではなく、言葉を額面どおりの言葉として機能させることから始まる。あるがままで相手に自分が認められるとは思わず、きちんと言葉で説明すること。つまり対話をすることが大切だと思う。本当の「パートナー」を得る道はそれしかないだろう。

 愛について内田樹は『子どもは判ってくれない』(洋泉社)の中で次のように語っている。

「自分にとっては快楽であるが、相手にとっては迷惑なこと」を選択的に相手に向かってするばかりか、その迷惑に相手が耐えることを「愛の証」だと信じている人がいる。

 それは話が逆である。

「愛する」というのは「相手の努力で私が快適になる」ような人間関係のことではなく、「私の努力で相手が快適になる」ような人間関係を築くことなのである。

 それ意外のどのような人間関係も「愛」という言葉には値しない。私はそう思う。

 高校とか大学とかで毎日会っていて、それなりに影響を受けた人でも、卒業後は音信不通ということがある。人生を狂わせたかもしれない女の子だって全く会うこともないかもしれない。

 母校が甲子園に出たのがきっかけで、高校時代のクラブの後輩の女の子と話すことができるようになった。

 卒業後の人生は本当に不思議な軌跡をたどっていた。高校時代にたまたまその軌跡が触れあい、30年後!に話しあえるなんて思ってもみなかった。

 定義に縛られることなく、今、同じ居場所を共有している人々を大切にしよう。

 疲れてくると、人間はつい手を抜きがちになる。相手にむかって丁寧に対応すべきところを、つい機械的に、規則ですからという理由で、すべてを単純化してしまいがちになる。それを称して、日本語では「頭が堅い」というのだが、それは頭の性能が悪いということだ。そして年をとってくると、よほど努力をしていないかぎり、人間はついつい頭が堅くなってしまう。

 いつのころからか、そう考えるようになった。長く生きていると、若いころ以上に多忙になるし、責任を求められる回数が多くなる。周囲を見まわすと、誰もがいちように頭が堅く、不寛容になっているのがわかる。そのなかでいかに精神の柔らかさを保つかが、大切になってくるのだ。
     -----四方田犬彦『狼が来るぞ!』(平凡社)

【初掲:2002年3月10日】


※mihokoさん、返事が遅れてごめんなさい。

なお、その他の人は、くれぐれも僕に借金の申込をしないようにしてください。

  「じゃあね」 谷川俊太郎

  ひとりぼっちはこわいけど 
  きみにはきみの明日がある   
  どこか見知らぬ宇宙のかなたで 
  また会うこともあるかもしれない
  じゃあね    
  もうふり返らなくていいんだよ   
  さよならよりもさりげなく   
  じゃあね じゃあね…… 


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