金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


誰がカラスを殺したの?
 または、
制度化する喜怒哀楽

Who killed poor Callas?
I, said the Japanese,
with my applause and bravo,
I killed Maria Callas.

   ---

All the birds of the air
Fell to sighing and sobbing
When they heard the bell toll
For poor Maria Callas.


 演奏会で何が嫌いかといって、どんな出来のコンサートであろうと、演目が終わった途端、大きな声で「ブラボー」という輩だ。大体、「ブラボー」といっていいのは男性一人の時だけだ。しかも、発音とアクセントを考えて正確にいうと「ブラーヴォ」、女性一人なら「ブラーヴァ」、複数なら「ブラーヴィ」、女性の複数なら「ブラーヴェ」と言わなければならない。この“bravo”は英語の“brave”に相当する。ただ、この場合は「勇敢な」ではなく、「素晴らしい」という意味で、Aldous Huxley のSF小説 (1932)『素晴らしき新世界』の原題“Brave New World”で使われている。

 蛇足ながら、シェイクスピアの『テンペスト』第5幕第1場〈Shak.Temp.V.i.183〉でミランダが叫ぶ言葉に由来している。孤島の暮らししか知らなかったミランダは上陸してきた人たちを見て驚く。

O, wonder !
How many goodly creatures arae there here !
How beauteous mankind is ! O brave new world....!
That has such people in't
まあ、驚いたこと。
なんとたくさんの立派な人たちがいるのでしょう。
人間はなんと美しいものなのでしょう。すばらしい新世界。
そこには、このような人たちがいるのだわ。

 もっと蛇足になるかもしれないが、オルダス・ハックスリーが亡くなった日に、ロスアンジェルスから1400マイル離れたダラスで、ジョン・F・ケネディが暗殺された…。

 コンサート会場には必ず、素晴らしき新世界を壊す輩がいる。自分は曲の最後を知っていることをアピールしたいのだろうか。「六甲おろし」がたまにしか歌えないので鬱屈しているせいなのか。バカである。殺意を感じる(コンサートで泣き叫ぶ子どもを放置する親にも殺意を感じるのだが…)。大江健三郎もどこかでバッハの「マタイ受難曲」を聴きに行き、その荘厳な演奏に厳粛な気持ちになったが、指揮者が指揮棒をおろしたとたんに「ブラボー」となって違和感を覚えたと書いていた。

 しかも、中にはフライングする輩もいて、チャイコフスキーコンクールで優勝した佐藤美枝子が最後の曲を歌っている時に、ピアニッシモになったのを間違って拍手してしまったのがいた。佐藤はそれにつられた拍手が少し弱くなるのを待って、再び歌い始めた。 

 大体、音には残響というものがあって、終わる時に、徐々にフェイドアウトしていくのが楽しみなのに、いきなり、「ブラボー」である。余韻とかお前は楽しもうと思わないのか!演奏者と聴衆の気持ちが分からないのか!と思うのに、「ブラボー」である。

 こういう輩はクラシックというと誰それの、いつの録音がいいとか、どこどこのオペラを見に行ったが、ソプラノの声がいまいちで…などと蘊蓄を垂れるのである。蘊蓄というのはウンチと同じで垂れるだけで、いや、それ以下で肥料としての価値さえない。オタクの自己満足でしかない。どんなにいい録音で、どんなにいいアンプやスピーカーであろうと、生演奏に勝てるはずがない。音楽は生きているからだ。息吹を感じなければ鑑賞したことにはならないのである。

 自然に出るから仕方がない、という人もいるが、こういう人に限って、初めてクラシックを聴いた人が楽章の途中にでも自然に拍手をしたら軽蔑する(演奏者にとってもちろん、邪魔な拍手なのだが、同じ客が注意することもでもなさそうだ)。他人のおおらかさは許さない。

 詳しく観察すると、自分は演奏の終わりやその価値を知っているのだという自己顕示型、ストレス発散型、録音にブラボーを入れたいという記録型、みんな言っているから言わなければならないと思い込んでいる強迫観念型などさまざまだ。

 自己顕示型が多いから、演奏の内容とは全く関係なく、相手の知名度で「ブラボー」となる。「巨匠」ウラジミール・ホロヴィッツが日本で公演した時も老醜を晒した、ひどい演奏だったにもかかわらず、拍手が鳴り止まなかったという。

 そして、この「ブラボー」がカラスを殺した。カラスといっても、コマドリでもヒバリでもない。20世紀最高のプリマドンナのマリア・カラスを殺したのだ。

 そりゃ確かに、歌舞伎では「成田屋!」「音羽屋!」「12代目!」「紀尾井町!」などという「大向こう」と呼ばれるかけ声が聞かれる。馴れてない外国人などはびっくりして後ろを振り返るが、芝居の中の合いの手だと思えば、ごくごく自然に受け止められる。中には「親爺さんそっくり」とか「いよっ、待ってました」、「たっぷりと」などというのもある。最後の二つは、役者がいよいよこれから名せりふを吐かんとする時にかけられるものだ。

 花火大会でも昔の花火屋の屋号「玉屋!」「鍵屋!」というのが一つの風物詩になっていて、それなりに周囲も楽しめるものである。

 屋号を呼ぶことは許されているが、コンサートは歌舞伎や花火ではない。フライングすることは絶対に許されない。歌舞伎役者に間違った屋号で呼ぶようなものである。

 「役者殺すにゃ刃物は要らぬ、ものの三度も褒めりゃいい」といって、俳優がちやほやされて芸が落ちるのを戒めたのは劇作家の菊田一夫だった。誉められるうちはまだまだ、なのだ。

 日本人のコミュニケーションは小津安二郎の映画に出てくる挨拶のように、型にはまったコミュニケーションが多くて、そうした土壌から生まれてきていることはよく分かる。

 しかし、クラシックの演奏会は歌舞伎ではないし、もちろん、花火大会でもない。まして、甲子園の応援でさえない。

 クラシック音楽はオペラであろうと、基本的には音を楽しむものであって、聴衆との交流を求めて演じているのではない。もちろん、演出によっては舞台の中に入るものも増えてきたが、あなたに声を出してくれというのは稀だ(妻が出た中では富山初演の「億光年の響き」では作曲者の指示でスーという音を出すことを最初に要求されたことがある)。

 何でもかんでも、質がよくても悪くても「ブラボー」というのは演奏者に失礼だし、聴衆にとっても迷惑である。自分が払ったお金を「ブラボー」といって少しでも取り戻せると思っているのだろうか。

 3大テノールにしても同じだ。最初に顔を合わせた時はそれなりに感動的だったが、既に、金儲けになってしまっている。PD(拡声装置)を使って、手抜きをしているコンサートなのに、拍手が鳴り止まない。アホか!と思えるのだが、「感動しました…」という人の声が必ずテレビで放送される。

 お前、それって、他のクラシックのコンサートを聴いたことがあるんけ?とツッコミを入れたくなるのは僕だけじゃないだろう。何も知らないで、ピラミッドを初めて見たら、誰だって感動しますよ。まして、5万とかそれ以上のお金を払って聴いていたら、感動せざるを得なくなるのは当たり前だ。

 いしいひさいちのマンガに10万円の古書が1冊だけ置いてある古本屋というのがあった。客はよほど価値のある本だと錯覚して、ごきぶりのようにホイホイと買っていく。「これが最後の…」なんていわれると人間は弱い。「3大テノール」という記号に酔っているだけだ。

 パブロフの犬みたいに「ブラボー」という「ブラボー屋」たちを見ていると、日本の芸術の現状がよく分かって嘆かわしい。お金の使い方が間違っているとしか思えないのである。他人と違っていい、という文化がきちんと育っていないから、自分に自信が持てない。だから、誰か(多くはマスコミだが…)がいいと言ったら、雪崩のようにそちらに滑っていく。偉い人が誉めていたからといって、何も見ないで、何も聴かないで同じように誉めるのだ。

 ちなみに、僕は妻が家で毎日練習している曲でもどこで終わるのか知らない。気にしていない。コンサートでは結構どきどきするのだが、演奏者がゆっくり丁寧にお辞儀をし始めた時に、拍手をする。もちろん、その前に、満場の拍手が響いていることになるのだが…。


 お店でのマニュアル化が進んでいる。これに対して怒っても、「オヤジ」だと差別されるだけなので、語るつもりはないが、「ブラボー屋」も、このマニュアル化された男たちである(女性の「ブラボー屋」は見たことがない)。

 ファミレスやコンビニで見せる、女の子たちの笑顔がマニュアル化していると考えるのは、本当に淋しいことだ。僕だけに微笑んでくれていると思っているのに、ただの挨拶というのは悲しい。

 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、こうした労働を「感情労働」ということがある。例えば、一つに「『他人のなかに適切な精神状態を…生産する外面的表情を維持するために、感情を誘発したり抑制したりする』労働である」という定義があるが、典型的なのは「白衣の天使」とされた看護婦さんである。これすら、今は看護士と言わなければならないが、看護婦しかなかったのはまさに「感情労働」を強いるのは女性に向いていたからだ。男性に「感情労働」しろといっても、サマにならない。「白衣の天使」でなければならない、という思い込みから看護婦さんたちに「感情労働」を強いてきたのである。

 「感情労働」は資本主義経済のどの国でも見られることだろうが、日本で特殊なのは「お客様は神様」という言葉があるからだ。これは三波春夫が言った、有名な言葉であるが、断じて間違っている。なのに、神様面をする客が絶えない。学校現場でさえ、そうである。「授業評価」というものを否定はしないが、小中校生に本当に教師の価値が分かるか、とも思える。すぐに価値の分かる教師は予備校の先生くらいである。差別しているのではなく、性質が違うからだ。学校では態度も教えなければならない(?)から「厳しい」教師というのが少し必要だが、今の子どもたちに受け入れられるとはなかなか思えない。

 少子化も後押しして、「お客様は神様」から「子どもたちは神様」みたいになってきているのではないだろうか。


 たまたま、昨日(2003年10月2日)、見ていたNHK富山のニュースの中で、「誉めることをマニュアル化している学校」というのが取り上げられていた(NHKニュース「おはよう日本」でも紹介されたという)。もちろん、好意的に描かれていたのだが、何だかおかしいと思った。

 もちろん、僕は本当の教育は誉めるところから始まると思っている。日本人は特に否定的な文化に育っているから、90点取っても「あとちょっと頑張れば満点だったのに…」といいがちだ、ということも知っている。優等生でも人前では「うちの子はバカで…」と謙遜するのが美徳になっていて、なかなか誉めない。これに対して、もっと暖かい目で見ようということはよく分かる。 

 「ピグマリオン効果」といって誉めて育てることに教育効果といわれる。ただ、ロルフ・デーゲンの『フロイト先生のウソ』(文春文庫)によれば、否定的だ。「ピグマリオン効果」を言い出したローゼンタールの実験は、教師に「新しいクラスの誰々は知能が抜群に高い」というウソ情報を与えたところ、その誰々が平均以上の学力の向上を見せたというものだった。ところが、この実験に協力した教師たちは「誰々」の名前(リストで見せられる)を憶えていなかったらしい。つまり、教師がその「誰々」に期待していたと言うところが怪しくなるわけである。プリンストン大学の心理学教授ハーマン・スピッツによれば、後年、より厳密な条件でピグマリオン効果を検証した実験によると、そんな効果はほとんど認められなかったと言うことである。「ピグマリオン効果」というのは早期教育やスーパーラーニングなどの、胡散臭い教育論と似たところがある(とデーゲンも考えている)。

 ワイズマンの『その科学が成功を決める』(文藝春秋)ははっきりと否定している。

・ほめられて育った子供は、失敗を極度に恐れるようになる…コロンビア大学 クラウディア・ミューラーの大規模研究
・「がまんすること」を覚えた子供は挫折しても、立ち直れる…スタンフォード大学 ウォルター・ミシェルの追跡実験
・子供をおどして注意すると、逆に禁じられた行為をしたがるようになる…スタンフォード大学 ジョナサンフリードマンの実験

 ミューラーの例でいえば、問題をやって誉められた子は、二度目の難しい問題に挑戦しようとしない。今度は失敗するのが怖いからだ。何も言われなかった子どもたちは今度は頑張ろうとする。最後に、最初と同じ程度の問題をさせたところ、誉めなかった子どもたちの方が点数が高かったのである。「他人の視線を気にし過ぎるとクリエイティブになれない」と言う、エモリー大学のフィリップ・ロシャのことばを思い出す。子供から最高の能力を引き出すのには、頭がいいと能力をほめるのではなく「努力をほめる」こと。「サッカーがうまいね」ではなく、「今日、とても頑張ったね」とか、「よくやったわ、ずいぶんがんばったね」という。努力をほめられたらやる気が高まり、困難に遭遇してもくじけない子供が育つ、はずだ。

 それにしても、「誉めることをマニュアル化」するってどういうことなのだろう。ニュースの中で、教師はとにかく褒めちぎっていた。何よりも驚いたことに、授業の始めに必ず誉めてから、というマニュアルがあった。作文でも何でも、とにかく誉めるのである。

 いや、これが、その学校だけの方針で、子どもたちにこっそりと、そうして育てている、というのだったら、許せる。

 許せないのは「誉めることをマニュアル化」していることをテレビで報道する校長の神経である。自分たちの手の内を見せてしまってどうするんじゃ、とツッコミを入れたくなる。子どもたちはそんなに無邪気で、アホなのか、といいたくなる。だって、「誉めることをマニュアル化」された先生たちに教わっているのだから、今ここでこうして誉められていても、ウソくさいと思わないのだろうか?教師の欺瞞性に気づかないものだろうか?そんなに愚かで、能天気な子どもなのだろうか?

 確かに教師は「感情労働」の面がある。サービス業だし、カウンセリング業務も多い。だからといって、「感情労働」であるハンバーガー屋さんがマニュアルを客に公開するだろうか?

 これらはちょうど、成績に歴然と違いがあるにもかかわらず、順位を出さない偽善性と似ている。一等賞を出さない運動会と似ている。人には差があって当然で、差があることから目を覆うことの罪深さが分からないのだろうか。一つがダメでも別のところで頑張りさえすればいいのだ。大きくなってから能力の違いに初めて気づくというのでは遅すぎる。誰もがオリンピック選手になれる可能性を持っているが、誰もがオリンピック選手になれる訳ではない。

 人は時にはヨイショが必要だ。ヨイショというのはごまをすったり、おべっかを使ったりすることをいう言葉で、元々は業界用語だった。本当はそう思っていないのに、客を操るためにヨイショする必要がある人々が使っていた言葉だ。 

 子どもにヨイショしてどうなる。しかも、ヨイショしていることをばらしてどうなる。

 誉める時は誉めるべきだと思うけれど、「誉めることをマニュアル化」するというのは、決して人間的な行為ではない。どこかの陳腐な教育論、特に七田眞あたりの早期教育論に侵されているとしか思えない。そうした校長の背景をきっちり洗うべきだと思う。そうでなければ、今はいいが、後でどこへ連れて行かれるか分からないからだ(親というのは目の前で急激に子どもの成績が上がると喜ぶものである)。

 これでは付け焼き刃で子どもを誉めて酒を御馳走になろうという、落語の「子ほめ」と同じだ。

「赤ん坊の歳は幾つだ?」「ひとつだよ」「ひとつにしてはお若い、どう見てもタダだ」…。

 そういえば、僕が小学生の時に、観光バスのバスガイドから教わったのが「幸せなら手をたたこう」だった。みんな幸せそうに手をたたいていたが、そんな気分にはなれないし、どうしてこんな横暴が許されるのかと思った。善意の押し売りだ。

 大学生になってから、この曲が賛美歌から来ていることを知って、アメリカ人的な能天気なばかばかしさというものから生まれたのだと納得した。

 そのうち、マクドナルドなどで「スマイル0円」などと書いてあって、気持ち悪く感じたものだ。実際、息子の友だちが「スマイル!」と注文したらにこっと笑ってくれたというが、心からの笑いでないことは確かだ。

 もちろん、人間は文化的に喜怒哀楽が制度化されている。小泉八雲が『日本の面影』の中で「日本人の微笑」というエッセーを書いていることは有名だ。夫を亡くして悲しい時も、日本人は取り乱したりせず、にこやかに微笑むという文化に育っている。「日本人は死に直面しても微笑することができ、そして通例そのようにしている。…それは苦心してつくられ、長いあいだに養成された作法なのである」という。

 あるイギリス人が奉公していた、昔は武士だったお琴を解雇しようとしたら、彼は微笑して詫びをいい、翌日自決したという。表情から予見できなかったとイギリス人は驚いて、突然の狂気だと解釈した。八雲は日本人の観察から次のように考えた。

日本人の微笑は菩薩の微笑と同じ概念---すなわち、克己と自己抑制とから生れる幸福を表わしている。「戦いで百万人を征服する者と、事故を征服する者とがあるとすれば、自己を征服する者が最も偉大な征服者である」東洋の大きな念願が向けられているのは、じつにこうした無限の平静なのである。そして、無上の克己というこの理想を、自分の理想としてきたのである。日本人の精神は、現在あたらしい影響のために表面をかき乱され、かつ早晩いずれは根底までも動かされるに違いないのだが、それでも西洋の思想にくらべると、おどろくほど平静を保っているのである。

 隣の韓国では「泣き女」というのが雇われていてお墓でたくさん泣くのが美しいとされる。

 アメリカではジョークをいうのが制度化されている。笑いも取れない人間はクズだと思われている。男が泣くのもクズだと思われている。泣いてしまって大統領候補から外れた男もいた。

 人類学で知られる「冗談関係」(joking relationship)というのも笑いが制度化されたものだ。ラドクリフ・ブラウンはこれを「他人を冷やかしたり、からかったりし、そのからかわれたほうはそれに対してなんら立腹してはならないという二者間の関係であり、それは慣習によって容認され、またある場合には強要されている」という。ちょっとした社会ゲームみたいなもので、これに参加しなかったら、義務の放棄と考えられるのである。

 最近はテレビで笑うべきところで字幕を使い、何度も繰り返すという演出が増えてきた。人と話していて軽い、笑ってもらうつもりもない冗談を言ったつもりが、「今のところ、笑いどころだったんですか?」などと失礼なことをいう輩も増えてきた。

 人生の価値は喜怒哀楽の総量にあるというのが僕の考えなのだが、喜怒哀楽のない世界はどうだろう。

【借金に追われ病に苦しむエル氏が未来に帰ろうとするロボットに自分も一緒に連れていってくれと頼む】

「さあ、つきましたよ」
 ロボットの声に、エル氏はあたりを見まわした。明るい日の光のなかで、整然とビルが並び、人びとの表情に暗いかげはなく、すべては一糸乱れず運行しているようだった。完全な、明るい、すばらしい未来の社会だ。
 エル氏はまもなく恐るべき世界にいることを知った。たしかに、貧困も苦痛も悪徳もない。しかし、だれもがロボットなら、当たり前のことだった。

     -----星新一「エル氏の最期」より

 そうした文化を超えて、「誉めることをマニュアル化」するというのは一体どういうことなのか?教師がマニュアル化して、喜怒哀楽を見せていたらどうなるだろうか?教師も子どももロボットではないのだ。これでは文化の中で人間を育てることにはならない。

 人生は誉められることばかりではない。いろいろ失敗し、気まずい思いをしたり、叱られて育っていくものだ。高校生段階の学生を教えている僕の経験からいえば、今の子どもはむしろ叱られることに馴れていない。初めて叱られたという顔をして、知らんぷり、という子も多いのだ。それを誉められてばかりで育つとしたら、怖い。挫折を知らないで育っていくと、ちょっとした蹉跌(つまずき)で、谷底に落ちていくことも多いのだ。

 ニュースでは成績などに効果があったとされる。そして、校長はさも得意そうに、「誉めることをマニュアル化」を自賛していた。

 しかし、教員室の朝礼で「今日もお客様(子どもたち)を大切に、お客様(子どもたち)の気持ちを最初に考えて、お客様(子どもたち)を誉めまくりましょう」などとやっているかと思うと、気が重くなってくる。

 こんな風に思うのはひねくれたおじさんだけなのだろうか?

 いや、同じおじさん的思考に染まっている内田樹は山田昌弘の『希望格差社会』に触れ、ホームページで次のように書いている(『知に働けば蔵が建つ』には更に詳しい分析がある)。

「自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。そのため、過大な期待をクールダウンさせる『職業的カウンセリング』をシステム化する必要がある。」(242頁)
この「過大な期待を諦めさせる」ということは子どもを社会化するためにたいへん重要なプロセスであると私も思う。
これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。
中学高校大学の入試と就職試験による選別をつうじて、子どもたちは「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成することができた。
しかし、「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。
彼らは過大な自己評価を抱いたまま、無給やそれに近い待遇で(場合によっては自分の方から「月謝」を支払ってまで)「クリエイティヴな業界」に入ってしまう。
「業界」そのものは無給薄給でこき使える非正規労働力がいくらでも提供されるわけだから笑いが止まらない。
自己を過大評価する「夢見る」若者たちを収奪するだけ収奪して、100人のうちの一人くらい、力のある者だけ残して、あとは「棄てる」というラフな人事を「業界」は続けている。
時間とエネルギーを捨て値で買われて、使い棄てされる前に、どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。
問題は心理的なものだという点については山田さんにまったく賛成である。
けれどもその心理的な欠落感をどうやって埋めてゆくのか、ということについては、「逆年金」や職業訓練や「パイプラインの補修」など、山田さんが提示したもの以外にも、いろいろなやり方があるだろうと思う。
重要なのは「哲学」だと私は思っている。
人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。
そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること。
「喜び」は分かち合うことによって倍加し、「痛み」は分かち合うことによって癒される。
そういう素朴な人間的知見を、もう一度「常識」に再登録すること。
それが、迂遠だけれど、私たちが将来に「希望」をつなげることのできるいちばんたしかな道だろうと私は思う。
どちらにせよ、この本はいま若者である方たちと「元若者」になりつつある不安定就労者のみなさんに熟読して欲しい。

 次のような証言もある。高校生時代から拒食症になり、東大を出た後も30年苦しんだという中山みどりの証言である。

命の叫び:拒食症30年を乗り越えて  第4回 評価
 何が私をどん底まで追い詰めたのだろうか。
 原因のひとつはほめられることである。一度ほめられると、その気持ち良さに、またほめてもらおうと思ってしまう。ペットにもよくあることだと言われる。私の場合、さらに、期待にそわなければいけないという強迫観念があった。期待にそえなかった場合、見捨てられるのではないかという恐怖心からだろうか。
 勉強の面でその快感を覚えた。一つの科目で良い点数を採ると、次の試験でも良い点数を期待される。さらに、他の科目も期待されるようになる。ガリ勉とは思われたくなかったから、ほかの面でもがんばる。あの人は何でもできるに違いないと思われるようになる。期待に応えなければ、という焦燥感。完璧主義の始まりだ。高校3年の時、あまりにも順位を気にする私に、担任の先生は「お前には順位を教えない」と言ったほどだった。
 称賛の言葉をかけてくれる人は、お天気の話題レベルで話しているのが正直なところだろう。他人がどうであるかには、それほど関心を持っていない。しかし、本人にとっては、自身の存在の証明くらいに重要視してしまう。私はほめられて成長した。逆に、そのことで自分の首を締めてしまったことも事実である。
 「子どもはほめて育てろ」といわれる。しかし、「良くできたいい子」が事件を起こしたり、引きこもりになってしまうニュースをよく聞く。良くも悪しくも、子どもの評価を安易にしすぎるのではないだろうか。評価だけならまだしも、こうすべきだ、ああすべきだと、干渉が過ぎるのではないだろうか。個性を大事に、と言いながら、押し付けが強すぎる。家庭だけでなく、学校や社会からのあふれる情報のために、子供の価値判断は個性を失っているように見える。
 私の場合も、あれこれ評価されるうち、本物の自分がわからなくなってしまった。他人と比べて優れているものが、自分を幸せにするとは限らない。自分の幸せは自分の感覚を大事に自分で探すべきなのだ。

 今、思い出したが、大学に入った時、賢い奴がこんなにもたくさんいるのか、と驚いた。自分では狭き門を通ったつもりだったが、狭き門の向こうには大勢の人がいたのである。東大で研究していた時も、こんなにも多くの「東大生」(国立で一番学生数が多いことは知っていたが)がいて、中にはまぶしいような才能をもった奴がいる。しかも大勢いることに気づいた。

 誉めるのは結構だが、大きくなって現実を見たら、そんなに楽観的になれないはずだ。上には上がいることを必ず教えなければならない。正確にいえば、子どもたちが今いる位置を教える、つまりマッピングしてあげることが大切なのだ。誉めてばかりの教育は井の中の蛙を育てるだけだ。

 マラソン選手だった円谷幸吉は東京オリンピックの時に、ゴールの国立競技場に2位で戻ってきた。だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。小学生の時に徒競走で1位になった時に「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親が言った戒めを愚直にまで守り通したために、気がつかなかったといわれる。立派ではあるが、自分の位置が分からないとせっかくの勝負に負けてしまうのである。実際には東京大会で日本が陸上で取った唯一のメダルになって「日本陸上界を救った」といわれるのだが、円谷は自殺に追い込まれてしまう。

 メタで自分を考えること。世阿弥は「花鏡」で「離見の見(りけんのけん)」という。

 また舞に、目前心後といふことあり。
 「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。
 見所より見る所の風姿は、我が離見なり。
 しかればわが眼の見るところは、我見なり。
 離見の見にはあらず。
 離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり。
 その時は、我が姿を見得するなり。
 後ろ姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまえず。
 さるほどに離見の見にて見所同見となりて、不及目(ふぎょうもく)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。
 これすなわち、「心を後ろに置く」にてあらずや。


 ああ、小さい頃、「幸せなら手をたたこう」(If you're happy and you know it, clap your hands.)という曲を歌わされた、忌まわしい記憶が戻ってきた。アメリカの教会などでよく歌われた曲であるが、幸福の意味さえ分からないのに教えているところが恐ろしい。

 というニュースを妻に話したら、「実は…」といわれた。「今度、ある小学校で、創立記念コンサートがあるのだけれど、先生が子どもたちにアンコールの拍手の練習をしているというの」という。

 マネージャー(?)として言っておくが、別に練習をしなくたって、妻はたくさんの拍手をもらえるだろうし、もらえなくても、おまけとしての(コンサートでは重要なのだが)アンコールの用意もしてある。

 「制度化した読み方」や「制度化した聴き方」というのは、本来、自由である芸術にあってはならないことだ。気持ちよく寝る子もいていい。少しくらい体を動かし、口ずさむ子がいてもいい。高尚な音楽だからといって、椅子に縛り付けられて聴かれるのは互いに避けたい。

 自然な気持ちで、子どもたちに音楽を楽しんでもらいたい。

 それだけだ。


CALLAS FOREVER

 最初に、「ブラボー屋」がマリア・カラスを殺したと書いたが、本当だ。

 フランコ・ゼフィレッリ監督の『永遠のマリア・カラス』を見た人はいるだろうか? 

 この映画はカラスのオペラを演出し、「トスカ」の映画化企画がこけるまで友人だったゼフィレッリが哀悼をこめて描いたものだ。

 映画の冒頭にカラスが日本公演のビデオを見て打ちのめされているシーンが出てくる。カラスは1974年11月11日の札幌厚生年金会館での公演を最後に歌わなくなった。

 そして、この公演では「ブラボー」が続き、観客が総立ちになったとされる。

 マリア・カラスは既に声も太くなっていて、自分で堪えられない演奏だったと思っていたのに、「ブラボー」が続いた。映画でも出てくるが、何をしても、観客は「ブラボー」というのであって、演奏を聴きに来ているのではない、サーカスに出ているのと同じだ、と思い、50歳にもならないうちに演奏活動を止めたのであった。

 つまり、日本人の心ない「ブラボー」がカラスを殺したのだ。

【2003年10月3日】


※映画はファニー・アルダンの好演もあって、素晴らしい仕上がりになっている。ただし、ゼフィレッリの解釈でしかないので、本当のことは何も分からない。たった一つの理由で引退するはずがないし、誰にも分からないことだ。

 演劇の『マスターコース』の基になっているニューヨークのジュリアード音楽院の授業が引退後のように描かれているが(ただし、ジュリアードとは分からなくなっている)、実際には1972年で引退前のことである。

 ファニー・アルダンはもちろん、トリュフォーの最後の妻で、二人の間に遺児が残された。『日曜日が待ち遠しい』や『隣の女』がトリュフォーとの最後の作品になったが、この映画を観ていると、マリア・カラス役のために生まれてきたかのように感じる。『マスターコース』も演じたことがあるという(日本では黒柳徹子が演じた)。

 ちなみに、カラスは若い頃、100キロを超えていた。『ゼフィレッリ自伝』(東京創元社)によれば、楽屋に『ローマの休日』のヘップバーンの写真を飾っていたという。あんな風になりたいと思っていたのだろうが、サナダムシ(広節裂頭条虫コウセツレツトウジョウチュウという種類で効き目は抜群、下痢、腹痛、悪性貧血を起こしやすく高いリスクがある)で痩せるなどという過激なこともして後にグラマーと言われるくらいまでに痩せたのである。

 2004年になるとカラスを殺したのは鳥インフルエンザということになってしまった!


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