神様の贈り物〜若葉の頃
Where had they all gone to, he often pondered; those threads he had once held together, how far had they scattered, some to break, others to weave into unknown pattern?
(みんなどこへ去ったのだろう、とチップス先生はときどき考えた。かつてはあんなにしっかり持っていた糸【生徒】なのに、どこへ散らばってしまったのだろう。あるものは切れ、あるものは別の模様に織り込まれてしまったのだろうか)------J.Hilton Goodbye, Mr.Chips
僕は女子校と男子校の両方の教師の経験がある。最近では男子校が少ないのでこういう経験をした人は少なくなっていると思う。
男子の夢の職業として甲子園の監督、指揮者、女子高の先生というのがあげられるが、後二者の経験があるので羨ましがられる趣きもあろうが、指揮の経験は散々だったし、女子高ではもてなかったので、そんなにいい話ではない。それでも20年たったので思い出に書いておく。
(勤務先が)女子大だと言うとよく羨ましがられるが、実際には決してそんなによいものではない。理由は大きく分けて五つあるが、そのうち二つはさしさわりがあっ
てここに書くことはできない。あと二つは思いだせず、残りの一つは今、鋭意究明しているところである。
-----土屋賢二『われ笑う、ゆえに我あり』
最初の職員会議で「学生だったのが、急に先生になるなんて僕の中でコペルニクス的転回が起きたようです」と挨拶したのだが、後に随分冷やかされた。
でも、就職できそうもなかった僕がいきなり教師になるのだから「コペ転」以外の何者でもなかった。
大学を出た時も大学院を出た時も県立高校教師の口は全くなかった。引っ張ってくれたO川貞雄校長が僕の新湊高校の時の校長で後に中部高校の校長になっていた。大学院に進むときに非常勤に来てくれないかという電話があり、院を修了してからといっておいた。中部を定年になり、付属高校の校長の話があり、その時、僕の分を忘れられなかったのだ。新湊高校という底辺校だったのが幸いした。エリート校だったら目立たず忘れさられていた。
ただ、ホントは短大に行ってほしいのだけど欠員がないので何年か高校で頑張ってほしいということだった。
☆「人畜無害」
あれは1月半ばだったか、学生係の人が、興信所の人が成績を聞いて行き、すごくいいですね、と感心して行ったと話してくれた。大学院は優以外出さないのを知らないのだ。四階の言語研究室に上がると岩谷さんも興信所が来て行ったという。下宿に帰るとおばあさんがやっぱり興信所の人が来ていったよと言っていた。
付属高校の先生になることに決まったのは3月に入ってからである。でも、興信所が女子短大からだと分かった途端、自分が人畜無害と判を押された気になった。が、その通りだった。ワン!
あるテレビ・コマーシャルの会社が「コーヒーのコマーシャルに出演してもらえないか。当方でいろいろ身元調査した結果、クリーンだった。ぜひお願いしたい」などと言ってきた。【…】悪しからずとお断りした。その夜、家に帰って、「身元調査をしたらしいが、叩いても埃ひとつ出なかったという話だ」と、力を込め、しかも何食わぬ替えで話題にしたことは言うまでもない。
安野光雅『語前後後』(朝日新聞出版)
☆東京教育大の最期
修士論文のことを千野先生が「金川さんはやはり松本(克己)学派だよ」といったのを覚えている。ブッキッシュということだろうか、(実証的でなく)論理的だというのか聞き忘れた。2年で修士を出たといったら、ある先輩にびっくりされたことがある。誰も2年で出ていない。僕は大学がなくなるので出なければならなかった。
3月25日、卒業式があった。何と付属小学校の講堂で行われた。その後、研究室に集まると岡山大の辻さんと東大大学院に行っている太宰さんが金を出し合って本革のキーホールダーを皆んなに配った。茗渓会館でパーティが行われた。教育大の同窓会である茗渓会はそのまま筑波に移行すると聞いていたので加入の手続きは取らなかった。
『ベルばら』の池田理代子さん(倫理学科中退)はある時、インタビューに答えて「筑波大生とは口もききたくない」と発言している。
池袋へ出て、追い出してくれる人は誰もいない「追い出しコンパ」が開かれた。千野先生は東京外大へ田中先生は南山大学へめでたく決まっていた。志部さんは国研へ、後に辻さんが岡山大へ移った。
チューターをしていたロメックともお別れになった。彼もポーランドへ帰っていくことになった。その後、ワルシャワ大学の先生となった。
教育大がこの世から完全になくなったのは更に1年後、ちょうど付属高校でお別れのPTAの飲み会をしていた時、TVでニュースが流れた。1年遅れたのは体育学部と教育学部が残っていたからだ。教育大に関しては教科書裁判で有名な家永三郎名誉教授の著書があり、京大の滝川事件と同等の政府による学問弾圧だというし、そう思う。
☆付属高校教諭
4月1日に辞令が交付され、4人の新任教師の仕事が始まった。他の3人とはO島文雄(付属高校の校歌の作詞者、富大名誉教授、富山市名誉市民、91年没)の孫のO島朝子さん(名古屋大理学部卒)、姪のO島絵里さん(津田塾大英文卒)、舟木千賀子さん(早大教育卒)である。初任給は110700円で10万を切っていた大卒の3人より多かったが、手取りはずっと10万以下だった。
後に校歌の作曲者の娘、小沢真琴さんとも知り合うことになる。
大学院を出ているから(?)という理由でいきなり、1年生の担任になったのだけれど、7組のうち、くじ引きで1組があたってしまった。それ自体はどうということないのだけれど、組分けする時、当然、1組から優秀な子が入ることになり、要するにトップの子が僕のクラスとなってしまった。
トップはIさんで、後に富大人文学部人類学科に入学することになった子である。入学の挨拶はIさんがすることになり、入学式より前にきてもらった。その時の子供っぽい印象は今でも忘れられない。父兄会で聞いた話だが、制服を誂えに行って試着した途端、大泣きしたという。今と違って当時の県立と私立の落差はそれだけ大きかったのである。
9歳も年下の女の子をいきなり扱うなんて思ってもみなかったことで、躊躇することが多かった。こんな子供とは絶対に結婚することはないだろう、と思っていたのだが、実際には11歳年下の人と結婚することになったのだから、不思議である。Iさんとは一緒にアフリカまで行ったのも不思議といえば、不思議である。何よりも僕が果たせなかった人類学科に進んでくれたのだから、満足である。国立へ入ったのはうちの近所から中部を受けて失敗して富大に入った一人だけなので、Iさんは付属高校にとっても快挙であるが、僕にとっても快挙である。
教務委員となったので始業式以前に時間割編成で毎日出て行かなければならなかった。
誰かから、教師1年目は教え過ぎると忠告されていた。にもかかわらず、教え過ぎた。細かいことはいいのだ、基礎を何度も繰り返すことが大切なのだ。もし、子孫で教師になるのがいれば、この教えを守るべし。教え過ぎるとは、例えば、マニュアルに書いてあることを全部教えなければならないと思ったり、参考書で調べたことを板書したり、自分の知識をひけらかしたりすることである。自分でも覚えていないような規則は教えるべきではない。そんなものは役に立たない。勿論、進学校とそうでない学校の違いはあるだろうが、マニュアルに頼ってはいけない、ということだ。
当時は得意げに自信をもって教えていたが、今から思うと、冷や汗が出る。卒業生には申し訳ない。
歓迎会で中居さんが僕の手を見て「何ちゅう、きれいな手ながいネ」と感嘆していたのを思い出した。重労働はしたことがない証拠だというのだ。『風と共に去りぬ』の中でレディだった女性(イヴリン・キース)が戦争とその後の混乱のために荒れた手を見て「いいからこの手をごらん。ママが昔よくいってたわ。レディかどうかは、手ですぐわかるって」("Look at my hands. Mother said you could always tell a lady by her hands.")と言った台詞を思い出した。
O川校長も新入り(?)だったのだが、隠し芸のうまいのには驚いた。こうでなければトップにつけないのだと思った。
そうだ。付属高校の英語名がすごかった。
Toyama Girls' Senior High School Attached to Toyama Women's Junior College
☆1年1組担任
くじ引きで1組の担任になったのだが、とにかく、9歳も年下の女の子をどう扱えばいいのか分からなかった。45人いたのだけど、バラエティに富んでいた。ただ、田舎の県なのでジェームズ・三木「翼をください」状態だったので、志望と違う高校に入ったことで心に傷をもっておいる生徒もいて、ひしひしと感じさせられた。
宝塚へ行きたいというUさん、文学少女のYさん、元気だったTさん、他のクラスではMさんなどが印象的だ。剣幸は富山工業高校出身だ。
女の子が集団になると扱いにくい。一人でもこちらは大変なのに、大変が集団になっている。女の子は叱ればなく、おだてりゃつけあがる、無視すりゃ拗ねると三拍子そろっている。
びっくりしたのは、「先生、あっち向いていて」といっている間に、さっさと着替えをしてしまうことだ。
一番うれしかったのは料理実習があって、みんなが作った料理をお呼ばれすることだった。お嫁さんに初めて作ってもらったような奇妙な感慨があった。
腎臓病にかかり、長期入院となったYさんもいた。学校が楽しくて、楽しくて、皆んなといるのがうれしくてうれしくてしようがない。それで無理をしてまで授業に出てきたので余計病状が進んでしまった。
3年後には全員が卒業していた。
嬉しくて仕方がない、という学校を作らなければ教師として恥ずかしい。
☆お嬢さん学校
素行の悪い学生ももちろんいたが、全体的にのんびりとしたお嬢さん学校だった。修学旅行などで美人が多いですね、とお世辞でなくいわれる位で、美人が多かった。授業中は美人ばかり見て教えていた(ウソ)。
特に美人だったのは色白でかわいかったMちゃんだった。本当にきれいで、本人さえ承知すれば、妻にしたかったが、承諾する訳はなかった。
弁護士の娘でMちゃんというのもいた。知的な美人だった。育ちが良いので大好きだった。僕が辞めてから伸びなくなったという。責任を感じる。
だから、僕が教師になったのは「掃き溜めに鶴」ではなくて、「鶴の中に掃き溜め」状態だった。
韓国人の金ちゃんという子がいた。明るい子でいじめなどの差別はなかった(と思う)。その意味では付属でいい高校生活を送ったと思う。ただ、ある時、聞いた話だが、キムチが大好きなのだけど、普段食べているとニンニク臭いと日本人から嫌がられるので、平日は我慢に我慢を重ね、土曜日帰校してからいっぱい、キムチを食べたのだという。苦労も多いのだ。韓国人の資産家の娘なので、帰国してから梨花女子大へ進学した。梨花女子大での学園紛争を聞く度に思い出したものだ。
2年生の最初の授業で(気をつけるようにいわれたいたのだが)質問して答えられなかったのでうっかり「えっ」といってしまった。その途端、その子は涙目になってしまい、気まずい雰囲気が流れた。泣かせたのはこれ1回きりである。
当てる時には注意して、できる子がいると分かっていてもできない子から急に飛ばず、前から順番に当てていって正解を得るように教えられた。
大きな声で叱ったのも1回だけで、その子は後に別の理由で退学していった。
□ 調理の実習があって、その調理を「お呼ばれ」して食べる機会があった。未来のお嫁さんに作ってもらうような、恥ずかしい、それでいながら、至福の時間だった。
男の中には、「女子大」ということばの響きに胸がときめいてしまう人もいるだろうが、これに「哲学」ということばが追加されているため、頭がしめつけられるような感じが加わり、全体として、ヘッドロックをかけられているような、心悸亢進と偏頭痛が一緒にきたような感覚に襲われるのではなかろうか。「胸がときめいて頭がしめつけられる」ような組み合わせとして、「初恋」と「偏微分方程式」、「酒池肉林」と「道徳形而上学原論」、「南十字星」と「重加算税」などが考えられる。
-----土屋賢二『哲学者かく笑えり』(講談社)
☆同僚たち
1年生はK合先生というおばあちゃんが主任だった。1組が僕、2組がY崎先生、3組が体育のY田先生【吾一というあだ名を気に入っていた】、4組が社会のS下富(みつる)先生【高校新聞で有名】、5組が国語のN川(半年後に結婚、久保)先生、6組が国語のY吉先生、7組が英語のK地先生であった。O島朝子さんが学年補佐だった。
河合先生を除けば、若い先生ばかりでやる気があった。あんなにいいチームはないだろう。席の右横がY田先生で左横がN川先生だった。色々細かいことを教えてもらった。教師生活であれほど勉強したことはないだろう。高専に入ってからは研究室に入るのだから、互いのコミュニケーションはないし、誰も何も教えてくれなかった。
実際、付属高校の職員室は違っていた。僕は高校時代、クラブのごたごたで60番になった時しか職員室に入った記憶がない。
こちらは女の子たちが入れ代わり立ち替わり出入りしていた。その意味で和気あいあいの学校だった。これは私立なので基本的に生徒をお客扱いするからであった。甘やかすと簡単にはいえないのだが、一部を除き、生徒と遊んでいる感覚の先生が多かった。それだけ若い先生が多かった。
☆飲み屋
教師どうしでよく飲みに行った。大体、宴会が多かった。後援会から多額の補助をもらっているのだろう。その後、飲みに行くのだが、どうしてもY田先生やO西先生他の若い先生どうしで飲みに行った。商船に入ってから殆ど飲みに行かなくなったから、この年が唯一の思い出である。商船では町から離れているのと研究室と心がバラバラなのとで飲むことはないのだ。
大抵は割烹で飲んで、それから近くのカクテルのおいしいスナックへ行った。
驚いたことに女子高の先生は人生経験の豊かなおばさんのいる飲み屋に行きたがった。かわいいピチピチした子はいつも見慣れているからかもしれないが、不思議だった。
☆女性教師たち
当然、女の先生も多かったが、常勤ばかりではなく、非常勤のT先生(詩人、富山で唯一のペンクラブ会員)やK端先生(同級生には見えなかった)とか、一緒に飲んだりした。結構、人気があったのだ(というと笑われそうだが)。楽しい日々だった。
女性教師がすごいと思ったのは、僕らは叱っていて学生に泣かれるといきなり「ごめん、強く言い過ぎた」などといって論理が飛んでしまうのだが、彼女らは同性だから涙にごまかされたりしない。中には生徒と先生ではなくて女の喧嘩に見える時さえある。何しろ、泣かれても次のように言うのだ。
「泣いてごまかしてもダメ!」
☆有峰キャンプ
「キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青みには、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさがある」-----太宰治『女生徒』
8月2日から4日まで有峰でキャンプをした。付属高校からのキャンプで僕とO西先生とK谷律子先生らが参加した。女の子ばかりで食事の心配もなかった。皆んなで花火を打ち上げたり、楽しいキャンプで付属高校での最高の思い出だった。この時、知り合ったのがO西先生のクラスでテニス部のKさんである。僕好みの色白の可愛い子であった。デートを2度して振られた。1回目は「幸福の黄色いハンカチ」を見たのだが、人生は映画のようには進まなかった。
☆悪魔の選択
商船高専の長坂校長から来てくれないかという話があったのは9月だった。絵里さんが一橋のボーイフレンドと結婚する話がなければもっといたかもしれない(ウソ)。
嘘ではなく、あまりに居心地がよすぎてスポイルされるような気もしていた。
高専は高校+短大で同じだといわれたが、間違いだった。
短大に行かないことにした決定的な理由はO西先生が言った「まだ付属高校の方がよくて、短大に行くともう誰も勉強する気持ちがなくて子守みたいなもんだ」の一言である。だからといって商船に行くこともなかったが…。
奉職して20年以上たった。悪魔のホウショク?だった。
☆先生たちの結婚
『数字のウソにダマされない本』(青春出版社)にジョンズ・ホプキンス大学の話が載っている。共学に乗り気でなかった人がある時、報告をした。ジョンズ・ホプキンス大学の33.3%が教職員と結婚したというのだ。よく調べてみると当時3人の女子学生がいたが、そのうちの1人が教授と結婚しただけなのであった。
O西先生は上智大の大学院を出ていて、金田一春彦に教わったというのが自慢だった。同棲していたという女性の写真を見せるのも趣味だった。当時30歳くらいでもう、後髪が薄くなり始めていた。土色をしていて死ぬかもしれない、というのが口癖だった。
その死ぬかもしれない人が恋に落ちたのである。何と2年生の女の子(当たり前だが)とである。帰りをクルマで送ったりしているうちに相手が本気になった。色白でまつげが濃い美人だった。13歳も離れているのだ!本当に許せなかったのだが、当時、高田の哲ちゃんが「お前、どうするが」と間に入り、色々もめた結果、結婚することになった。相手は他の男性というものを知らないし、愛情と尊敬が交錯しているところをパッとつかんだという感じで本当に許されない。
その後、Y田先生が同じ13歳年下の教え子と結婚しているし、K崎先生もお見合いだが、付属の卒業生(僕の教え子)と結婚している。地位を利用したあくどい?やり方であり、羨ましくてしかたがない。
妻も子もいるS下先生も「100字メッセージ」で卒業生のIさんが次のように書いていた。
後まで残ると恥ずかしいので、めったなことは書くまいと思っていたけれど、もう最後ですし、この際、派手に言っちゃいます。そのうち笑いでごまかせる日も来るでしょう。
『S下先生、だーいすき!』------きゃ〜〜あ、はずかしい!僕も女生徒とこんなことになっていたら、そのまま残っていただろう。
N川先生は「生徒にもちゃんと見る目があるのよ」と慰めてくれた(?)
ホントにもてなかったなぁ。『めぞん一刻』の音無響子さんみたいな学生はいなかったのか、やっぱり魅力がなかったのか…。
☆「乙女のバス」
あなたは女性だけのバスに乗ったことがあるだろうか。
僕には日常だった。
当時、僕は射水線で新富山駅まで行き、そこから富山駅発付属高校行の直行バスに乗って通勤していた。うるさくもあったけれど、これを石川町駅にちなんで「乙女のバス」と名付けていた。僕以外、全員が女性で中はムンムンしていた。
あんな女風呂に入るような経験は2度とないだろうと思う。
庭には大きな樫の木がはえていて、そのわきから白い煙がすうっとまっすぐに立ちのぼっていた。夏の名残りの光が煙を余計にぼんやりと曇らせていた【…】
「うん、私も教室の窓からあの煙を見るたびにそう思ったわよ。凄いなあって。うちの学校は中学、高校あわせると千人近く女の子がいるでしょ。まあまだ始まってないこもいるから九百人として、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい百八十人よね。で、一日に百八十人ぶんんの生理ナプキンが汚物入れに捨てられるわけよね」
「まあ、そうだろうね。細かい計算はよくわからないけど」
「かなりの量だわね。百八十人ぶんだもの。そういうのを集めてまわって焼くのってどういう気分のものかしら?」
----村上春樹『ノルウェイの森』
11月だったか、絵里さんとバス停までの帰り道、南西の空を見ると何かが光っている。おかしいな、と思ってよく見るとユラユラ揺れている。周りの人に教えてあげると皆んな不思議そうに眺めていた。UFOである。ちょうど、その頃、何かの用で病院から帰った両親がやはりUFOを見た。翌日の北日本新聞には問い合わせが多かったということと小松基地に尋ねても該当の飛行物体はなかったという話を載せていた。これがいわゆる富山のUFO騒ぎである。翌日も見た。その後、NHKのNC9でもこの映像を取り上げていたが、NHKでUFOが映った最初ではないだろうか。
※2004年7月26日の「金川教授のこだわり見聞録」に際して映像を発掘できた。因縁を感じた。
☆付属高校辞職
4月8日に付属高校の退任式があり、出席した。古いクラスへは顔を出せず、いきなり壇上で話すことになった。「自由に、限りなく自由に生きてもらいたいのだが、自由というのはスカートの丈を長くすることではない。別の不自由に捕えられるだけで、本当の自由というのは多くの偏見からの自由、自分自身がもっている偏見からの自由を求めなければならない」と偉そうに話した。
この年、英語科8人のうち、4人までが退任になった。U丸先生は定年、K谷先生(岩崎宏美に似ていて、大好きな先生だった)とO島絵里さんは結婚して熊本へ、僕が商船に転任ということになった。ホントに申し訳ないことだと思っている。空母3隻と伝馬船を失ったミッドウエイの日本海軍みたいだったが、後任は誰もが立派な人だった。
終わってから、Iさんがクラスの皆んなからといって青に小さなアクセントになる模様が入ったネクタイをもってきてくれた。もちろん、今も大事にとってある。
☆総括
付属高校にいた頃は僕の人生の中で最も華やかで賑やかな時代だ。教育大での挫折と商船での苦労という合間にある人生のおまけ、神様のプレゼントだった。
残念ながら充分活かしたとは思えない。2年後に卒業式に招待されていったのだけれど、僕のクラスで辞めていった学生はいなかった。商船では4割が辞めて当たり前だったのだから、本当にうれしかった。それから腎臓病にかかりながらもしっかりと卒業してくれたこともうれしかった。朝、「今日、学校休みます」「ええっ、どうした」「お父さんが、お父さんが死んだんです」と泣いてきたTさんも無事に卒業できた。県内各地から遠い所を毎日通って無事に卒業していく姿をみること以上に幸せはない。
参加しなくて残念だったのは九州への修学旅行であった。2年次にあるのだが、船の出航の時にはみなセンチメンタルになって大スペクタクルだという。
1年しかいなかったことで多くの先生に迷惑をかけた。いつか恩返しをと思いつつ、こうして年をとってしまった。何よりも、女子校を辞めて男子校へ代わるなんて狂気の沙汰である。
寂しくて何度も商船の屋上に昇って、みんな何をしているだろう、と幽かに見える付属高校の方を眺めたものだった。
山口瞳『けっぱり先生』の中で小柳という教師が「女の学校なんて、つまりませんね」という。その理由は次の通りである。
「第一に、私はこれでも学問を授けているつもりなんですよ。その学問が女だと身につかない。いや、社会に生かされてないといったほうがいいのかな……。張りあいがないんですよ。」
「第二に、たとえばクラス会に招かれるでしょう。その出席者がすくなんですね。これがつまらない。それに活気がない。みんな奥様かオールドミスでね、ぜんぜん横のつながりがないんだな、それに活気がない……。」
これに対して猪股校長(けっぱり先生)は女には一つだけいいところがあるという。
「これはね、ただひとつです。それは、女は男を生むということなんです。女はは、男を生んで、男を育てるんです……どうかね。小柳くん、そう思ったら、男を育てる女というものを教育するのは無意味な仕事じゃないということにならないかね」
この議論は暉峻康隆・池田弥三郎らの「女子大生亡国論」同様、古いもので、女性が活躍している現代には合わない。活躍の場を与えていない社会の方に問題がある。
男性は賢くしても一人だけだが、女性を一人賢くすると家族全体が賢くなる、というのが僕の信条である。
教師が学生に大きな影響を与えるというのはもしかしたら、思い上がりかもしれない。でも、教師というのは寂しいもので、その大いなる幻想を追い続けなければ務まらない。
☆付属高校その後
富山女子短大付属高校だったのに、92年からは富山国際大学付属高校(富山国際大付属)に名称が変わり、男子も受け入れることになった。
商船も男ばかりだったのが、85年から女子が入り、93年からは女の子でいっぱいのクラスを持つようになった。
91年から当時、教頭だったK野先生が校長になった。K野先生の頭高のアクセントで「センセー」と呼ばれたのが、本当に懐かしく思える。90年からだったと思うが、幼稚な感じの制服が宮内庁御用達のデザイナー渡辺弘二の制服に替わった。同時に生徒たちの意識も変わってきた。
女優の早勢美里の出身校でもある。
僕が女子高教師だったのは遠い、遠い昔のことになってしまった。
女子トイレばかりで困ったが、男子トイレも増えたことだろう。
恥ずかしそうに「乙女のバス」に乗っていたあの頃が懐かしい。
97年になってからひっくり返るようなことがあった。商船に入ってきた、ある学生が「お母さんは教官の教え子や」と言った。5年前に後輩の息子が入ってきただけでショックだったのに…。
97年11月に新設野球部の監督として元・新湊高校監督の桧物政義が就任することに決まった。地元の北日本新聞では桧物監督に期待したい、という社説(!)まで載った。
それにしても、女子大があったのに、男子大がなかったのが不思議だ。大手前女子大が共学になった時、「男女驚愕」「男女共楽」というコピーだったのを思い出した。