金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


文化クラブの低迷に思う


 商船高専に来て最初の授業で突然「キョウカン」と学生が叫んだ。

 キョウカン?

 凶漢のことだろうか。それとも叫喚、共感、胸間、経巻……と考えるうちにそれが教官であると理解したが、これに驚いてしまった。

 教師になりたての頃、「先生」と呼ばれるのか落ちつかず、同時に「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」と反感をもったものだが、本校の「教官」にも別の意味の独特の響きがある。「教官」というのは自動車学校の指導員をさしたり、国立大学の先生が職業欄に書く時の言葉ぐらいに思っていた。それがいきなり「教官」なのだ。

 日が経ち、本校の実状が解ってくるとともに「教官」と呼ばれるのも不思議に思えなくなってきた。なんとなく自動車学校の雰囲気があるのだ。目的さえ果たせばいいという学校の教師と同じで、換言すれば、技術教育偏重ということだ。確かに技術が高度になり、習得すべき事柄が増大したため当然のことなのだろう。

 しかし、本校が各種専門学校ではなく、高等専門学校だという観点から再考すべき問題がある。また、一般教科を軽視する傾向があるが、一般教科というのは専門への基礎づくりのためだけのものではないし、もちろん高専教育の付け足しではない。

 学問というものには有用性と真実性の二つの側面がある。何かのために役立つという面と真実だから尊重すべきであるという面の二つである。技術というのは直接、役に立つもので、自動車の運転技術を学べば明日からでもクルマを動かせる。複雑さは違っても商船の操船技術も同様であろう。有用性という点から言えば、デカルトの哲学書より電話帳の方がはるかに役に立つ。

 しかし、電話帳をいくら読んでも私たちの最終的な目標である自己完成を遂げることはできない。シェイクスピアの戯曲「リア王」の中に、王を世話する騎士は二十五人どころか一人だって必要ないと主張する娘に対して「ええい、必要を論ずるな」とリアが叫ぶ場面がある。

どんな卑しい乞食でも、その貧しさのなかになにかよけいなものをもっておる。自然の必要とするものしか許されぬとすれば、人間の生活は畜生同然となろう。

 有用性だけでは人間でなくするというのだ。真実性だけでもいけない。役に立たないことや真実でないことと価値がないこととは別だ。

 ロケットの父フォン・ブラウンはナチスのためにV2を、アメリカのためにエクスプローラーを作った。彼の頭には、それらが人類をおびやかすだろうということよりも、ロケットをいかにうまく飛ばすかという問題しかなかった。目標の善悪は技術の問うところではない。だが、それでよいのだろうか。

 何かが欠けているような気がしてならない。

 東アフリカのスワヒリ語にはサファリとテンベアという対照的な言葉がある。サファリというのは「猛獣狩り」の意味で世界中に広まっているが、もともとは「目的地へ行く」ことを意味する。出張するのもトイレに行くのもサファリである。

 これに対して、テンベアは「目的なしに放浪する」ことであり、サバンナを放浪するのもナイロビの街を散歩するのもテンベアと言う。

 このことから人間をサファリ型とテンベア型に分類することができる。サファリ型の人間は目的さえはっきりすれば、とにかくそこにたどり着いてくれる。管理社会においては非常に有益な存在である。大義名分に弱く、脇目もふらずに目的地へ目的地へと急ぐ。途中、咲きほこっている花にも路傍の石にも心を奪われることはない。

 一方、テンベア型の人間は周りの事物に心を鷲かせ、まだ見ぬものに思いを馳せる。一見ムダなようだが、そのムダこそが彼にとって至高のものとなる。社会的には受け容れてもらえないことがあるかもしれない。サファリ型人間と競争すれば、きっと負けるだろう。しかし人間的な魅力にあふれている。

 フォン・ブラウンや東大一直線で生きる人々は有能ではあるが、必ずしも人間として優れているとはいえないだろう。人生のいろいろな楽しみは、それを直接の目的とするのではなく、通りすがりに味わう時にはしめて楽しいものになるものだからだ。ギリギリのところで仕事をしている人によい仕事ができるはずがない。目標が間違っていたり、なかったり、変わったりするとサファリ型の人間はたちまち当惑してしまう。

 老子に「無用の用」という概念がある。荘子も戦国時代に「無用の用」を説いた。人は無用であるほど、生きがいのある人生を送ることができるというのだ。

惠子謂莊子曰、「子言無用」 
莊子曰、「知無用、而始可與言用矣。夫地非不廣且大也、人之所用容足耳、然則廁足而【執/土】之、致黄泉、人尚有用乎?」
惠子曰、「無用」
莊子曰、「然則無用之為用也、亦明矣」

 恵子(けいし)が荘子にいった。「あなたの言は無用だ」
 荘子はいった。「無用を知って、初めてともに用を語ることができるのだ。地は広く大でないことはない。人が用いる所は、足を乗せる分だけだ。しかし、足の大きさを測ってその分だけ残し、その他の地を掘り、黄泉に至るほどになれば、人はまだ残った地を有用とするだろうか」
 恵子はいった。「無用とするだろう」
 荘子はいった。「そうだとすると、無用の用があるのは、また明らかだろう」

 「役に立つもの」にとり囲まれた人生も、肝心の中身が空っぽになっていてはつまらない。

 庄司薫は『赤ずきんちゃん気をつけて』で次のように書いている。

 着々と階段を上ってゆくような人には感心してしまう。きっと強い人なんだと思う。だけどいろいろ考えたり、反発したり、道草をつむような人生もあっていいと思うんだ。「みんなを幸せにするにはどうしたらいいか」なんて大げさなことでなくても「人に迷惑をかけない」ように生きていこうと思う。でも、道草してると狼に食べられちゃうかも。赤頭巾ちゃん、気をつけて……。

 僕は引きこもり気味の人間で、ドアを閉めていることが多くてよく「開かず欣ちゃん」と呼ばれたのを思い出した。

 一生懸命はいいのだけれど、何かを見失うことも多い。二人の木こりがいて、一人は休みなく働きつづけていた。もう一人は休み休み仕事をしていたが、こちらの方がたくさん木を切った。

 どうしてそんなことができるのか聞いたら、休みの間に、斧を研ぐことに専心していたからだといった。道具を見直さなければならかったのだ。世間が曇っていないか考える前に、自分の眼鏡が曇っていないか見直なければならない。

 それはちょうど、人生を見直さなければならないのと同じだし、こうやって使っている言葉を見直すのも同じ作業なのだ。

 これを「メタ思考」ということがあるが、「遊び」がないと生まれてこない考えだ。

 翻って本校を眺めると、あまりにも技術教育が優先されているように思える。すぐに役に立つ技術や人間は、すぐに役にたたなくなる事が多く、変化に耐えうる柔軟な思考こそが教育されるべきではないかと思う。学生にも学枚で教えられたことをそのまま鵜呑みにするのではなく、自分で考え、研究していく姿勢をもってもらいたい。学校は世間から少しずれているから機能するのであって、世間そのものだったら、学校がある必要はない。

 「勉強」とは「精を出してつとめること」の意味で受験勉強などはその典型だ。その意味で私たちはもっと不勉強になり、自分が中心になって物事を究める必要があろう。一人でも可能だが、それには文化クラブで同志をつのり、互いを研麿していくのが一番の近道だ。教師に頼る受動的な勉強から、能動的な研究へと進んでほしい。

 ところが本校では体育クラブの方が優先されている。「健全な魂は健全な肉体に宿る」という言葉にしがみついている。この格言のもとは二世紀のころのローマのユウェナリスの「風刺詩」のOrandumu est, ut sit mens sana in corpore sano.(健全な魂が他全な肉体に宿らんことを祈る)という願望文で、柄だけは立派で精神的には幼椎な体操の選手を皮肉ったものだ。それがファシズムなどに利用され全く逆の意味をもつようになったのだ。

 確かに若い時分に体を作ることは大切だ。船に乗ってから過労で亡くなる人もいるというから。だからといって体力だけの筋肉マンでも困る。心の病いで亡くなる人もいるのだ。心のユトリもまた重要な船乗りの資質である。

 本校の技術偏重、体育クラブ偏重を是正するてっとり早い方法はもっと文化クラブを盛んにすることだ。学科の枠、学年の枠を取リ払い、いろいろ話合うことだ。しかし、その道はけわしい。一昨年「演劇部」を組織し「ひかりごけ」を上演した際に痛感した。体育クラブ参加のための時間的制限、設備の欠如、周囲の無理解、学生の意識の低さ、これらがみんな障害になった。おそらく今後、新しい文化クラブを設立しても同様の困雛にぶつかるだろう。学生会が文化クラブの日を設けて、盛りたてようとしたことがあったか、いつの間にかうやむやに終ってしまった。残念だけれど、文化クラブが育つ土壌が未だないのが現況である。学生、教員ともに大きな意識の変革をしないことには、文化クラブ、更には文科的な教養あふれる学生は、育っていかないことであろう。

 教官という散文的な呼び方が統く限り、技術偏重も、体育クラブ偏重も変わらないというのが、寂しいことながら、私の結論である。


【『信天翁』9号1982年】

●96年には商船高専に高専初の文科系学科ができて環境が変わってきた。


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