金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)

前説されなかった前説---『ゆきゆきて、神軍』

葬儀屋さんがあらゆる葬式のうちでもっとも最高なのは食葬ですと言った。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。
    谷川俊太郎「父の死」(『世間知ラズ』思潮社)


 1988年の4月23日に僕はある市の市民学習センターの映画講座で『ゆきゆきて、神軍』を上映しようと思っていた。

 この前の年、渋谷のユーロスペースで『ゆきゆきて、神軍』を観た。天皇制批判の奥崎の行動をドキュメンタリーにしたものだが、なかなか見ごたえがあった。それに富山ではどこも上映していなかった。それで、その年の第1回にこれを取り上げたのだ。

 ところが、所長から内容をチェックしたけれどやっぱり不適当ということになり、取りやめてくれ、ということになった。迷惑をかけてはいけないので、あっさり取り下げた。ところが、予定の原稿が紛れて一部マスコミにまで流れていたのだ。

 僕の知っている原稿では既に「フェーム」になっていて安心していたのだが、第1回目の上映に朝日新聞がきた。当然、『ゆきゆきて、神軍』の富山初上映だと思って取材にきたのだ。あまりの違いに驚いたが、ちょうど、所長が観にきていて対応してくれた。翌日、僕のところにどういう経緯で取りやめたのか聞いてきた。しかし、本当のことはいえず、ただ、不適当と判断したからです、と答えておいた。

 それで記事にはならなかったが、居心地の悪かったことは本当だ。

 以下はその時、解説しようと思っていた前説を再現したものである。


 こんにちは、富山商船の金川です。

 今日お見せする映画は1987年の原一夫監督の『ゆきゆきて、神軍』という映画です。名前からも変わった映画だということが分かります。

 ただ、ナイーブな問題を含んでいまして、天皇制の批判とか難しい話になると僕自身ちゃんとした考えをもっていないので、その部分は避けて通りたいと思います。

 ここに出てくる奥崎という男は正月の一般参賀にパチンコ玉を飛ばしたことで知られています。そのおかげで天皇家の人々はガラス窓越しに参賀をすることになってしまいました。

 僕自身、一般参賀に行ったことはなかったのですが、下宿の近くに拓殖大学があって、正月近くになると「一般参賀で他大学の学生ともめないように」という学長の告示があったのを思い出します。

 さて、今日の映画を選んだ理由をいいます。

 これは手塚治虫が『キネマ旬報』(87年8月下旬号)に『観たり撮ったり映したり』という連載を続けていてその中に映画『ゆきゆきて、神軍』が出てきて驚いたものでしたが、それ以上に驚いたのは、この映画を見た手塚治虫の感想でした。

 つまり、手塚のお父さんはフィリピンの奥地に行って、空腹の毎日を暮らしていたが、本当に何もなくなると誰かがちゃんと「野豚」を捕まえてきて食べさせてくれたという。お父さんは何かを見てしまった、そしてそれを隠しているような怯えをみせたという。それがこの映画を観て何だか答が分かったというのです。

 その真相が核心に近づくに従ってぼくは、オヤジのあの日の顔がちらついて居たたまれなかった。

 太平洋戦争で、おそらく、もっとも悲惨なできごとは、こういったカニバリズムが常識化されてしまったことだろう。

 いくつかの小説で、われわれは人肉を食べて飢えを凌いだという事実を知りつつも、それが活字の世界だという一種の安心感というか距離感をもっていた。

 だが映像というリアリティが、この距離を一気に縮め、恐怖と絶望を現実にひき戻した。

 血しぶき映画や全国映画のしらじらしさは、この「ゆきゆきて、神軍」の打ちのめすようなドキュメンタリーの暗黒の前には態をなさないだろう。

 イデオロギーとかテーマ性を云々する前に、このおろかしく悲惨な人間という生きものを描き出した企画と、監督はじめスタッフに心から敬意を表する。

 オヤジはすでにこの映画を観る存在ではない。

 だがこれはオヤジの遺言がわりの映画だったような気がしてならない。

 僕自身、自分の親のことをそんな風に話すという手塚治虫の正直さ、素直さに感動したわけですが、手塚治虫は好評だったエッセーをこの映画の感想文で打ち切ってしまいました。やっぱりショックだったんだと思います。

 なお、キネマ旬報社から単行本が出ていて今でも読むことができます。

 レオポール・ショヴォ『年を歴(へ)た鰐の話』(文藝春秋)

 どうにも辛抱しきれなくなつたある日、年とつた鰐は、自分の家族の一匹を食ほうと決心した。
 彼の曾孫の一匹、つまり一番若い娘の孫が、つい手のとどく所で眠つてゐた。彼は大きな口をあいて、曾孫が目をさまさないうちに頬ばつた。

「人でなし!」と彼女は叫んだ。「あんたはあたしの子を食べたんだね。」

 僕は人を食った話が大好きです。人喰いのジョークというジャンルがあります。

 人喰いが頭痛だといって医者に診てもらった。
 「インテリの食べ過ぎだね」。
 
 人喰いが胸焼けを訴えて薬局に行くと、薬剤師が忠告した。
 「一週間に一度は消防士を食べるように」。

 人喰いが客船に乗った。ボーイがメニューを渡すと言った。
 「いや、メニューでなくて、乗客名簿を持ってきてくれ」。

 「お前の女房の焼肉はじつにうまいな」
 「ああ」ともう一人の人喰いが答える。「いなくなって本当に残念だよ」

 「アミン大統領って子どもにもやさしいじゃないか!子どもを二人連れてうれしそうじゃないか」
 「ああ、右の子は朝食で、左の子は夕食なんだ」

 こんな話は好きなのですが、ホントに人を食べる話は苦手です。中学生の時の先生が人の肉は石榴の味がするといったものですから、その後、石榴が食べられなくなったくらいです。

 この話の由来は鬼子母神にあります。お釈迦様の「法華経」の中に出てくる話ですが、鬼子母神は500人もの子どもを持つ美しい神様だったにもかかわらず、自分の子ども達を育てるため、人間の子どもをさらっては食べていました。これを知ったお釈迦様は鬼子母神の末っ子を神通力によって隠してしまいます。鬼子母神は嘆き悲しみ、必死に我が子を探しますがみつからず、困り果ててお釈迦様に助けを求めます。お釈迦様は「お前は500人も子供がいるのに、たった1人がいなくなっただけでこんなにも嘆き悲しんでいる。たった数人しかいない子供をお前に奪われた人間の親の気持ちが、これでお前にもわかっただろう」と言って子どもを返しました。そして、「今後、どうしても人の子が食べたくなったら代わりにこれを食べよ」と与えられたのがザクロだったとされます。鬼子母神は改心し、以後は仏教の教えを守る、安産と育児の神様となりました。だから、鬼子母神は左手に子ども、右手にザクロを持つようになったのです。


鬼子母神(三井寺)

小林一茶にはここから作った俳句があります。「我が味」って!

虱をひねりつぶさん事のいたはしく又た門に捨て斷食さするも見るに忍ばざる折から御佛の鬼の母にあてがひたまふものをふと思ひだして

 我味の柘榴へ這はす虱【しらみ】かな

 さて、人類学ではカニバリズムといいますが、これには様々な誤解があって、異文化に対する「神話」や「伝説」から生まれる誤解ともいえます。シェイクスピアの中でも最も残酷な『タイタス・アンドロニカス』にも人肉パイが出てきます。

 最近の本でいえば、岩波書店から出ているアレンズの『人喰いの神話』は全面否定です。

 でも、世界に全く食人がなかった訳ではないようです。ヘロドトスは『歴史』(岩波文庫)III・38の中で領土を広げるうちに文化の多様性を感じた古代ペルシャのダリウス王の話を書いています。ギリシャ人は死者の遺体を火葬していましたが、インドのカッラチア人は死者の遺体を食べたといいます。ダリウス王は両者を宮廷に呼び尋ねました。ギリシャ人に先祖の遺体を食べることをどう思うかと聞くと「どんなにお金を積まれてもそんなことはできない」といいました。カッラチア人に遺体を焼くことをどう思うか聞いたらカッラチア人はびっくりして「そんなおそろしいことを言わないでほしい」と答えたといいます。日本でも遺骨の一部を口に含む地方があるといいますから、どうやら先祖と同化するための荘厳な儀式だったのです。「じゃあ、どうして先祖の魂を引き継いでいけるの」と反論されるところでしょう。

[ペルシア帝国の王]ダレイオスがその治世中のギリシア人を呼んで、どれほどの金を貰ったら、死んだ父親の肉を食う気になるか、と訊ねたことがあった。ギリシア人は、どれほど金を貰っても、そのようなことはせぬといった。するとダレイオスは、今度はカッラティアイ人と呼ばれ両親の肉を食う習慣をもつインドの部族を呼び、先のギリシア人を立ち会わせ、通弁を通じて彼らにも対話の内容が理解できるようにしておいて、どれほどの金を貰えば死んだ父親を火葬にすることを承知するか、とそのインド人に訊ねた。するとカッラティアイ人たちは大声をあげて、王に口を慎んで貰いたいといった。慣習の力はこのようなもので、私にはピンダロスが「慣習(ノモス)こそ万象の王」と歌ったのは正しいと思われる 。

 また、西アフリカのイフェ王国やジュクン王国では即位式に際して、新王は先王の内蔵の一部を食べたといいます。この行為も内蔵に祖先の力が宿るという考えに基づいていて、この食人を通して、祖先の力が先王から新王へと、宿る身体を換えるのです。

 人類学者のレヴィ=ストロースも『野生の思考』(みすず)で性的な関係と食物の関係が社会的には同じ領域に入ると述べています。つまり、インセスト・タブーと同じことが食べ物にも当てはまるということを書いています。

 王の衰弱にともなって国全体が衰弱するのを防ぐために、食人に先立って「王殺し」があるのはもちろんのことです。フランスで有名なのはフランス革命の初めの1789年にノルマンディのカーンで王の権力を傘にきたペルザンスの国王役人が頭を跳ねられて殺害されると、みんなで頭をボールにして遊び、肉は焼かれたといいます。後に息子が市長となるマダム・ソソンは心臓をもぎ取って食べようとしたと言われています。

 文化人類学の川喜田二郎の『鳥葬の国』(光文社)は大変なベストセラーになりました。大石の上で遺体を解体して、ハゲタカなどに食わせる独特の葬送です。「死体のすべての肉を鳥に食べてもらうように苦心」しながら解体するのです。骨も石で打ち砕くと、人々が去るのを見届けてハゲタカの群れが舞い降りてきます。 19世紀末から20世紀にかけて、日本人として初めてチベットに入ったとされる河口慧海(えかい)も「世界にほとんど例がないと思われる不思議な葬式を見た」と記しました(『チベット旅行記』白水社)。一見残酷なようですが、輪廻(りんね)転生の考えからすれば自然な発想といえるでしょう。

 鳥葬は広い意味の風葬の一種です。英語でスカイ・ベリアルといいますが、天葬と訳すべきか、空葬というべきか迷うところです。確かに死者が鳥の一部になって大空を舞うと考えれば、晴れやかささえ感じます。慧海も「鳥に食わすのがすなわち風に帰るのである」と書き留めています。

 中国の自治区政府が「不衛生」「非文明」だとして火葬に切り替える改革に乗り出すそうです。ハゲタカの方が遺体を敬遠する現象も起きているくらいで、人体に蓄積する化学物質が影響しているとの見方もあるというのですが、人間の営みというは一体、何なんだろうという気がしてきます。

 最近ではアンデスの山中に飛行機が落ちて生き残った人々が人肉を食べて生き残ったことが知られています。詳しくは平凡社から出ていました『生存者』(後に文庫化)に詳しく出ていてベストセラーになりましたが、重傷の人々は自分が亡くなった後、どうか自分の肉を食べてくれと頼んだといいます。

 食人といっても、先史時代や未開民族のように儀式的に食べるもの、フランス革命の時のように供儀的に食べるもの、アンデスのように偶然的に食べるものに分けなければなりません。

 ただ、こういう話を聞いて興味本位で話してはいけないし、誤解をしてもらっても困ります。

 歴史家の桑原隲蔵(じつぞう)に「支那人の食人肉風習」という論文がありますが、「神国日本」のイデオロギーの激しい頃のもので、中国人に対する偏見と悪意に満ちています。

 民俗学者の南方熊楠にも“The Traces of Cannibalism in the Japanese Records”というのがありまして、食人はあったと結論づけています。ただ、あまりにも奇をてらった論文なので評価は低いのです【全集(平凡社)別巻2 なお、後に松居竜五が「南方熊楠の食人論」と題して『文学』岩波1997年冬号22-36】。

 『ガリバー旅行記』のジョナサン・スウィフト(1667-1745)に「穏健な提案 アイルランドの貧家の子女たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会的に有用ならしめんとする方法についての私案」というものがあります。当時アイルランドで起こっていた、食糧不足、国民の貧困、貧民層の多産による人口過剰の三つを一気に解決できるすばらしく現実的で適切な提案として食人を勧めています。短編なのですが、読んでいて気持ちが悪くなります。

 同じようなことをコメディアンのロビン・ウィリアムズが話しています。“I think God made babies cute so we don't eat them.”、つまり、「神様が赤ん坊を可愛くしたのは、私たちが赤ん坊を食べないようにだと思う」って。

 ルーブル美術館にジャン・ルイ・テオドール・ジェリコーの『メデュース号の筏』という絵画があります。これも食人の噂があった事件でした。1817年に約400名を載せてアフリカの植民地に向かっていたフランス船メデューズ号がセネガル沖で難破した事件で政治的なコネでその地位を得た船長は、自らの責任を放棄し、数少ない救命ボートに乗り込んで逃げたのです。救命ボートに乗れなかった149名は自分たちで筏を作り、救命ボートに縄を結わえ付けたものの途中で縄は切られ、海上に放り出されました。12日後の筏の発見時の筏上の生存者は15名だけ。筏の漂流中に彼らは、食料を奪い合って殺し合ったのですが、食料が尽きたときには同胞を殺してその人肉まで食らったというのです。

メデュース号の筏

 この絵は事件の2年後に発表され、巡回展を行ったので、大スキャンダルになりました。「禿げ鷲の目を喜ばせるだけに描いた絵だ」と酷評する人もいたといいます。今で言えば、『フォーカス』『フライデー』のような暴露的な絵だったのですね。

 イギリスでは1884年にミニョネット号事件というのが起きました。哲学的には「カルネアデスの板」というのですが、緊急避難としても食人はよかったのかどうか、道徳的な問題が起きました。

 画家のロートレックも料理が好きで『ロートレックの料理法』(美術公論社)という本を残しています。1901年の9月9日に亡くなったのですが、死後に、友人の画商、ジョワイヤンが編集して“La Cuisine de Monsieur Momo”として出版されました。モモというのはロートレックのニックネームです。巻末の「きわめつけ」という仮想メニューの一つには、「聖人の網焼き」などという過激なものがあります。 「ヴァチカンの援助を得て、正真正銘の聖者をあなた自身で捕らえるようにしなさい」と始まる。片面をあぶると、聖者は、もう片面も焼くように頼むはず、だといってブラックな笑いを引き出しています。

 ブラックジョークでいえば、昔、ウガンダのアミン大統領は人を食う、というもっぱらの噂でした。ある時、可愛い子どもを3人連れて、楽しそうに話しているので、噂は嘘だったと誰かがいいました。すると、別の人がいいました。「違うよ、あの子たちは朝食、昼食、夕食なんだ」。

 作家のローラン・トポールの「スイスにて」(『ブラック・ユーモア選集6』早川書房)でも、あろうことか、自分の足を食べてしまう人がでてきます。これは原題の“En Suisse”がスイス人のケチを笑った言葉“manger en Suisse”(一人でこっそり食べる)という意味から来ています。

 ピーター・グリーナウェイには『コックと泥棒、その妻と愛人』という人を食った映画もあります。

 日本にも食人をテーマにした話は『日本霊位記』『今昔物語』『新著聞集』『雨月物語』から野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平『野火』、武田泰淳『ひかりごけ』まで連綿と続いています。例えば、『野火』の主人公は逃亡中にフィリピンの若い女を射殺してしまいます。そして、友軍の兵士にまで銃を向けるのですが、これは自分が人肉にされないためのぎりぎりの選択でした。こうして殺人を犯し、「人肉を食べたい」という欲求にうち負かされそうになるのです。

「ニューギニアで人間を食ったって、ほんとですか」
「人間か。・・・まさか、ってことにしておこう」
    -----『野火』

 特に武田泰淳の『ひかりごけ』は僕が若かった頃、商船に演劇部を作り、上演したことがあります。当時は男子校で男子だけでできる演劇とすればこれしか考えられなかったのです。

 武田泰淳は戦場や敗戦時に上海で受けた極限状態を基にこの小説を書いたとされています。直接には「ひかりごけ事件」と呼ばれるようになる食人事件も1943年を題材にしています。

 この小説はレーゼドラマという形式で「読む演劇」になっています。小説の中にドラマが挿入されているのです。それでドラマの部分だけを上演したわけです。

 その時のパンフレットに書いた文章の一部を紹介します。


 船が難破し、7名の乗組員が漂着し、食料もなく飢えをしのぐために死んだ仲間を食べ始め、最後には食べるために殺す。ただ一人生き残った船長は救助され、裁判にかけられる。検事は激しく船長を責めたてるが…。

 極限状態におかれた人間を平穏に暮らしている人間が裁けるのであろうか。第2幕での船長は第1幕での船長と全く異なり、我々同様ごく普通の人間として登場する。

 人間が生きるとはどういうことなのか。人間の道徳とは何であるのか。そしれ、裁きを受けるべきものは誰であるのか。この演劇を通して考えて欲しい。


 『ひかりごけ』の前半には北海道で漂流してしまった船員たちが出てきます。『ひかりごけ』の中で船員たちは最初、亡くなった人を食べます。そのうち、衰弱してきた人を食料として見ます。最後には食べるために人を殺してしまう、という3段階が描かれています。

 後半は一転してこれを裁く裁判の場面になります。人類の罪を背負った人のようにたち現れてきますが、うちの場合、ダブルキャストで、つまり、別人で演じさせました。

 船長は「我慢」という言葉を繰り返します。

 この作品の題名は人食いの後ろにつき、食べていない人のみに見える光の輪を指しています。そしてこの輪は誰にも見えません。

 なぜならば、「罪なき人無し」なのですから…。

 今日お見せする映画では奥崎がかつての戦友を裁こうとしますが、本当にできるのでしょうか。

 さて、『ゆきゆきて、神軍』には色々な問題が出てきます。戦争責任とか天皇制とか、何よりも本人の犯罪性とかがそのまま映し出されています。

 特に奥崎は劇場型犯罪ということができます。つまり、グリコ・森永事件のようにマスコミを利用して犯罪を犯していくという部分があります。

 この映画を撮られることによって、事件がより大きく発展していくのです。

 この辺の経過は映画をごらんになるとよく分かるので話しません。

 この映画は公開されてから大変評判になった映画です。芸術的とかそういうことではなくて問題映画として評判になりました。

 当時は渋谷にあるユーロスペースというところでやっていまして、整理券をもらって入ったのですが、立ち見だったのを覚えています。

 『ひかりごけ』という名前は光ってみえる苔から取っています。僕も84年に北海道旅行をして昆布で有名な羅臼に行って来ました。『ひかりごけ』の舞台も羅臼に設定されていますが、ここにひかりごけの洞窟があります。

 今日はその時の写真も持ってきましたが、光るかどうか難しい、苔です。つまり、自分の力で光るのではなくて反射光で光るのです。細胞がレンズ状になっていてちょうど反射板の役割をするのです。

 小説にも出てきますし、洞窟の入り口にも書いてあるように見る位置によって光ってみえたり、見えなかったりする、そういうものなのです。

 この映画を見る視点はいっぱいあって、ひかりごけのように見る角度で光ったり、光らなかったり、いろいろあると思います。

 社会的には犯罪者として罰せられていますが、奥崎の行動に関しても評価はさまざまです。

 また、彼は戦争犯罪を「追求」していますが、誰が責任を問えるのか、難しい問題があります。東京裁判でもインドのパル判事が異議を唱えたように、戦勝国が敗戦国を裁けるのかという大きな問題もあります。

 この映画自身の評価もさまざまで映画にはこういうものもある、こういう描き方もあるというようにご覧いただければ幸いです。

 では、ゆっくりお楽しみください。


後書き

 『ひかりごけ』はその後、熊井啓監督によって映画化された。

 最近では遠藤周作『深い河』にカニバリスムの話が出てくる。木口という男の戦友が食べたことになっている。専門家は何ていうか分からないが、僕は遠藤周作が『ゆきゆきて、神軍』を観たと信じている。なぜならば、『深い河』も熊井啓監督が映画化していて彼は同じテーマだと考えたからだと思う。

「【…】私の戦友は生涯、そのことに苦しんどりました。復員して彼は……彼は……その肉を口にした兵隊の細君とその子供に会ったからです。何も知らぬ子供の無邪気な眼は……その男の心に突き刺さり、生涯の苦しみになりましてね。彼は一人でその眼に耐えとった。親友の私にも言えずに……酒ばかり飲みよって。酒で忘れようとしたんですよ。揚句の果て、血を何度も吐き、入院してそこでボランティアのガストンさんに会ったんです」


 上映されなかったことを問題にしているのではないのであしからず。ちなみに「フェーム」も大好きな映画である。特にランチタイム・ジャムや「ロッキー・ホラー・ショー」をみんなで見る場面が好きで、昔、大塚で見た時、皆大騒ぎしていたのを思い出す。

 奥崎は傷害で長らく刑務所に入っていたが、97年8月に出所して、相変わらずの元気さを見せた。


 その後、韓国映画で『301・302』というのを新文芸坐で見た。

 同じマンションに住む対称的な女性が主人公で、一人は夫の愛情不足から巨食症になって離婚、もう一人は小さい頃のトラウマから拒食症になってしまう。

 二人の交流を描いたものなのだが、日本映画のようなドライさが見受けられる面白い映画だった。

 ストーリーについてはネタをばらしたくないので、当分書かない。

 おっと『ソイレント・グリーン』というSF映画もあった。

 金関丈夫『新編木馬と石牛』(岩波文庫)に「婆あ汁」というエッセイがあり、ブーゲンヴィル島の南、モノ・アルー島の民話の中に「かちかち山」に相当するものがあるという。

 そのカチカチ山にあたる部分は、悪童たちが、木の上から、下を通りかかった老婆をからかって、木の実をなげ与え、もっと食え、もっと食えと腹いっぱい食べさせて、苦しめたあげくに、死なせてしまう。そのcunnusの肉を切りとって、ある男にあずかる。男はロアloa(近縁者ならぬ近親者、英訳者は仮りに義母とする、といっている)の肉と知らないで、それを煮て食べる。子供たちはその横領を怒って、男を囃(はや)す。「おーい、じいさん。お前は食った。お前のオッカアの○○食った」。

 マルタン・モネスティエ『図説食人全書』(原書房)というのが翻訳された。他にも『図説死刑全書』『図説自殺全書』『図説動物兵士全書』『図説奇形全書』『図説児童虐待全書』『図説決闘全書』というジャーナリストだけに食人に関するセンセーショナルな話がまとめてある。佐川君の話も網羅してあるところがすごい。あまりにもすごい話が並ぶので、論評できない。

 南條竹則『中華文人食物語』(集英社新書)の中に「憎い敵を食べる話」が載っているが、こちらはまとも。

 河合真理の『迷宮レストラン』(日本放送出版協会)にはローマ時代、支配階級にはうつぼ、うなぎ、穴子などのシーフードが好まれていたと書いてあった。そして「うつぼは人間をエサとして食べさせたものが最も美味」という記載もあるという。

 四方田犬彦は『ハイスクール1968』(新潮社)の中で奥崎事件に触れている。

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 1969年の始まりを告げたのは、奥崎謙三による天皇パチンコ玉狙撃事件だった。かつて日本軍兵士としてニューギニア戦線へ赴き、九死に一生の生還を果たしたこの四十八歳のバッテリー商は、裕仁が戦争責任を回避し、戦友たちの死が蔑如(ないがしろ)にされていることに強い怒りを感じていた。彼は新年の一般参賀のおりに、みずから作ったゴムパチンコで三発の玉を天皇にむかって撃ち、その場で自首した。わたしは翌日の新聞でそれを知って、すごいことをやる男がいるものだと驚嘆した。天皇という制度に確固とした感想をもっていたわけではなかったが、子供の遊び道具であるパチンコを大人が政治的示威行動のために用い、それがきわめて厳粛な調子で報道されるということに、ひどく滑稽なものを感じたのである。後にアルフレッド・ジャリの芝居を観たとき、わたしは同じ感情がそこに演劇的に再現されていることを知った。

 更に『驢馬とスープ』(ポプラ社)では「奥崎謙三を悼む」という文を載せていて、この映画が公開された時に映画評を書き、「これは狂信者を裁く狂信者を主人公とした喜劇映画である」と記し、「超越者を前にしての告白にこそ権力が存在しているというフーコーの指摘が、ここでは近代日本の戯画として描かれている」と書いたという。これに対して獄中の奥崎から手紙が来て、自分の知らない外国人の名前を使って自分を愚弄するとは何事か、出所後はかならずそれを話しに行くぞと書いてあったという。返事を出さなかったら、どんどん著作が送られてきたとも書いている。

 奥崎は読書好きだったらしい。『書肆アクセスという本屋があった――』(右文書院)で長峯英子という人が次のように書いていた。

 忘れがたいのは奥崎謙三さん。小さな風呂敷包みに熱い思いの詰まった出版物をきちんと包み、丁寧におじぎをされて差し出し、また丁寧におじぎをされて去られる。時にはご夫妻で現れて静かに談笑し去って行かれる。お二人もあの小さな空間も今では思い出にしか存在しないのですが、忘れがたい出会いの豊かさに溢れ、時代を密かに反映し、人々の熱い思いを詰め込んでいたのです。


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