カストラートの人類学
…
The summer's flower is to the summer sweet,
Though to itself it only live and die,
But if that flower with base infection meet,
The basest weed outbraves his dignity:
For sweetest things turn sourest by their deeds;
Lilies that fester smell far worse than weeds.
Shakespeare Sonnet 94 …
夏の花は、夏に甘い香りをまき散らす
実りなくこっそりと枯れていくのに
だけど、ひとたび忌まわしい病にかかると
卑しい野の花よりもみじめな姿をさらす
どれほどうつくしくとも行い次第で醜いものになる
腐った百合は野の花よりも悪臭を放つ
シェイクスピア「ソネット」94番あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている。
村上春樹『風の歌を聴け』
先日、東京へ行って来てジェラール・コルビオ監督の映画『カストラート』を見た。音楽関係者以外には知られていなかった単語だから知らない人が多いと思うが、ボーイソプラノを残すためにタマタマをちょんぎった人々のことである。ファリネッリは18世紀で最も有名だったカストラートで、本名カルロ・ブロスキ。1737年にスペインに行って、歌で国王フェリペ5世の憂鬱症を和らげたとされる。10年間、毎晩同じ歌を国王のために歌ったそうだ。僕なら鬱がひどくなるところだ。
誰だって思うだろう。
『青きドナウ』に出てくるウィーン少年合唱団の歌声がそのまま残ればいいな、と。でも、変声期がきてそのまま声楽家として残れる人は少ないのである。喉頭は少年時代のままであるが、肺は成人の肺になるため、強く張った響き、特有の声質、非常に広い声域をもつなんて夢のまた夢だった。
昔はそれを実現していたのである。カトリックがそれを要請、養成していたのである。ミサの聖歌に高音は欠かせないものだった。
□ オペラが誕生するまで歌手は例外なく教会に雇われており、キリスト教では教会で女性が歌うことを禁じられていた。大人の男性が歌っていたものの低音しか出ず、高音域のために少年を使ったのだけどすぐに変声してしまう。何としても大人の男性の高音を製造しなければならなかったために最初は裏声で歌うファルセット歌手が使われたが、満足できなくなったようだ。それで手術が行われ。カストラートが生まれた。恐らく夢のようだったろう。肺活量は少年よりも女性よりもたっぷりだった。テクニックも少年を遥かに凌駕していた。
これはちょうど、出雲の阿国が始めたのに歌舞伎が男性だけのものになって女形が生まれたのと似ている。シェイクスピア劇も女性は出演できなかったから、ジュリエットなどは子役が演じた(そのため言葉を大切にしなければならなかった)。
ただ、誤解してならないのはカストラートが女性を演じていたのではないことだ。シーザーやアレクサンダー大王、ジュピターやアポロなど男の中の男というものを演じていたのだ。
カストラートに関する記録は、1562年のローマ教皇庁礼拝堂にまでさかのぼるというが、全盛期は1650年ごろから1世紀で、この映画に出てくるファリネッリFarinelli(1705〜82)がもっとも有名である。
カストラートはオペラ・セリアにしばしば登場したが、喜劇的オペラにはまれにしか用いられなかった。モーツァルトのオペラ『イドメネオ』『ティトゥス帝の慈悲』にはカストラートのための役がある。
さて、教会は彼らを手厚く保護したし、そのためにカストラートになる人も多かったようだ。また、作曲家のハイドンもカストラートにされそうだったという話が残っている。ただ、カストラートの誕生と同じ時期にオペラが生まれたために、彼らは教会の外へも急速に進出したし、カストラートのためのオペラ(映画ではヘンデルの「リナルド」が歌われている)も作られた。
カストラートは大スターだった。だから、映画のように白馬に乗って出てきたり、ゴンドラに乗って登場ということも多かった。更に、自分のテーマ曲を持っていて、オペラの進行とは別に歌ったと伝えられている。
ただ、ホルモンバランスを崩してしまうので、肉体のくずれが大変でどのカストラートも苦労したようだ。
大スターだったが、去勢という手段の卑劣さへの見直しと、女性歌手の進出で下火になってしまった。
映画は18世紀最も有名だったファリネリの生涯を描いている。凡庸な作曲家の兄のせいでカストラートになった彼は3オクターブ半の音階を出せて1分以上も高い声を出し続ける。聞いているうちに気が遠くなる人が多かったらしい。さすがに現在、そういう声を出す人はいないので合成してあるが、パンフレットを読むまではソプラノの声だと思いこんでいた。でも、映画だけでも十分失神しそうである。
カストラートについてホモであった思想家ロラン・バルトは『S/Z---バルザック「サラジーヌ」の構造分析』(みすず書房)を書いている。
□ 1903年にローマ教皇はカストラートを禁止した。公式には20世紀になってからは一人いただけだ。最後のカストラートはアレッサンドロ・モレスキAlessandro Moreschi(1858―1922)で、彼の声はレコードに記録されているだけだが、テクニックもすごいものがある。
現代にはカストラートはいない。
ところが、マイケル・ジャクソンには絶えず、カストラートではないかという噂がついて回った。
なぜ、マイケルにそういう噂がついて回ったか?
これはまさに人種差別なのである。アメリカの白人の親たちは自分の娘たちが黒人のマイケルに熱をあげるのを黙ってみすごすことはできなかった。でも、マイケルが高い声を出すために去勢(英語でcastrateという)されている、という噂は好都合だった。彼の異常に高い声も説明できるし、娘が騒いでも「実害」はない、と安心できるのである。
マイケルが昔、白い手袋をしていたのを覚えているだろうか?マイケルがミッキーマウスが大好きだからという理由になっているが、ミッキーが白い手袋をしているのは不潔なネズミと触るのを心理的に避けるためだといわれている。ドナルドダックはちなみに白い手袋をしていない。白いけれど素手なのである。つまり、マイケルが白い手袋をするのは黒人という意識を避けるため、といううがった見方ができるのである。顔を白くしようというのも、似た気持ちかもしれない(病気のせいだとされているが…)。
噂について書くのが目的ではないので簡単にしておくが、人が噂を信じるのは信じる土壌があるからである。松田聖子をめぐる噂の絶えないのも山口百恵=良妻という噂の反動で、結婚後も自由に暮らせるのは許せないからである。というのも日本の女性は松田聖子ほど解放されていないからである。つまり、妬みがある。
マイケルにまつわる話も黒人差別の土壌の中にあることは間違いない。彼がカストラートとすれば女性を相手にしない、だから児童虐待へという噂もこの流れに沿ったものだといえる。
ホイットニー・ヒューストンは今でも「ホワイトニー(白人のような)・ヒューストン」とあだ名されることがある。
ダイアナ・ロスが黒人レーベルから大手に移籍した時も批判が多かった。
黒人を模倣して人気の得たプレスリーが売れても構わないが、黒人そのものが売れては困るのだ。
マイケルの噂が本当かどうかはここではあまり問題ない。文化というのは深層も大切だが、表層を忘れてはいけない。
ところが、アメリカの白人にとって大誤算はマイケルがアメリカの国宝ともいうべきエルビス・プレスリーの愛娘と結婚してしまったことである。これはマイケルにとって決してよい方向には行かないだろう。児童虐待の問題を再燃させられるか、別の手段がとられることもある。
□ さて、カストラートということがどうして可能か、という問題に移りたい。そんなむごいことがというかもしれないが、映画『ラスト・エンペラー』を見て分かるように中国には宦官と呼ばれる人々がいっぱいいた。
他に纏足(てんそく)というのがあった。「昔中国で、女の足に子供の時から布を堅く巻きつけ、大きくしないようにした風習」(『岩波国語辞典』)である。これについては馮驥才(フォンチーツァイ)の『三寸金蓮(てんそくものがたり)』(納村公子訳・亜紀書房)という小説がある。主人公の女の子が纏足されるのを嫌がっているのを、貧しくて纏足をしてもらえなかった近所の姉さんがいう。「纏足するまえの子どもはまだ女でも男でもありゃしないんだ。纏足してはじめて女になるんだよ。今日からはあんたもうまえとは違って、一人前の女なんだよ」。そして、纏足を気に入られて将来性ある若者に嫁ぐことが女の幸せだといって小唄を教える。「小さいあんよで秀才に嫁ぐ、白い饅頭肉入りおかず。大きなあんよで貧乏人に嫁ぐ、ぬかみそ餃子にとんがらし」…。纏足の一番の目的はセックスだった。バランスがとりにくいために、内股の筋肉と女性器が発達するとされた。また小さい足でよちよちと歩く様が男性にとってたいへん愛らしかった。実際に美しく小さな纏足の持ち主にはプロポーズが殺到したといわれる。
足の大きさにこだわるのは中国だけではない。シンデレラだって同じだという人がいるかもしれない。シンデレラはシャルル・ペローの「サンドリオン」(cendre灰)が最初で、グリム兄弟の『子どもと家庭のための昔話集』の21番「灰かぶり」(Aschen灰+ Puttel売女に近い蔑称)が多くの人の知る童話である。他にもナポリ生まれの軍人で行政官で文人だったジャンバッティスタ・バジーレの『五日物語』の第1日第6話に「灰だらけのにゃんこ」というのもあるという。
デズモンド・モリスは『ウーマン・ウォッチング』(小学館)で「この物語が中国で生まれたことを知る必要がある」と明確に書いている。金関丈夫『新編木馬と石牛』(岩波文庫)の「シンデレラの靴」で、シンデレラの類話が、段成式の『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』(860年頃)の中国を始め世界中で広く見られる事(南方熊楠が最初に発見したという―平凡社版『南方熊楠全集』第2巻所収「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語(異れる民族間に存する類似物語の比較研究)」明治44年3月『人類学雑誌』第26巻)を紹介し、更には、結婚の際に相手に靴を履かせる各地の風習にも言及している(ちなみに、ヤマトタケルやカチカチ山などといった説話についても元ネタ?が考察されているし、他にも「蓮の露」「纏足の効用」「男子の纏足」と三つのエッセイがある)。
葉限(イエ・シェン)という女の子との話がそれでシンデレラと違うのは葉限が焼き物師としての優れた才能を使って幸せになるというものである。日本でも「鉢かつぎ」(御伽草子)や「落窪物語」(落ち窪んでいる部屋に住まわされる)などがあるが、恐らく中国の影響を受けてできたものであろう。アデリン・イェン・マーの『チャイニーズ・シンデレラ』(文藝春秋)という本も出ている。モリスは西洋でも小さい足は“golden lotus”(金の蓮)と呼ばれたと書いていて、訳者は気づいていないようだが、“The Golden Lotus”とは「金瓶梅」のことである(「金瓶梅」は主人公の西門慶と関係をもった潘金蓮、李瓶児、厖春梅の名前から一文字ずつ取ったものだが、それぞれ金、酒、色事を意味する)。ロシアにマルシャークの『十二月(Двена´дцать ме´сяцев)』、つまり『森は生きている』があるし、朝鮮にも「コンジ(豆福)・パッジ(小豆福)」というのがあるという。
なお、ハイヒールは同じ効果があるとされる。ストラボンの『地理誌』には美女ロドペーが沐浴していた時に、一羽の鷲がその靴をさらっていって、エジプトのファラオの膝にそれを投げ込んだ。すると王はこの椿事と靴の繊細さに驚いて全土に命令を出して、この靴に合う足を探して、ロドペーが見いだされて王妃となったという。
西洋の結婚式では靴の形をした盃でかためをする習慣が残っていたという。ビリー・ワイルダー監督の『ねえ!キスしてよ』ではディーン・マーチンがキム・ノヴァクの靴で酒を飲むシーンがあるが、どういう意味だかよく分かる。
更に昔は宮刑というのがあって『史記』を書いた司馬遷は李陵(中島敦の小説にもある)をかばったためにこの刑に処せられ、『史記』を書き始めたのである。つまり、「生き恥」を晒したのである。劉達臨『中国性愛文化』(青土社)を見ると、中国の文化の広さを知ることができる。もちろん、宦官になるための局所切除術についても詳しく、沸騰させた辣椒(唐辛子)水で手術する部位を洗浄し、ときには陰部に麻酔性の油膏を塗る。ついで鎌のように湾曲した手術刀で陰嚢と陰茎を一緒に切り落とし、白蝋の針を尿道に挿入してふさぐ。傷口を冷水に浸した紙で止血し、傷口を縛ったあと、部屋の中を支えてもらいながら二、三時間歩いて血のめぐりをよくする。「手術後の3日間は水を飲むことを許されず、しかるのち白蝋の針を抜き取り、尿が湧出すれば、手術は成功である。さもなければ、死を待つだけである」…。
宦官は朝鮮までは入っているが、日本には来なかった(ちょうど、契約の思想や音楽の3拍子が韓国にはあっても日本にはないのに似ている)。
もちろん、ヨーロッパは残酷な国だから当たり前のように去勢が行われた。書簡集『アベラールとエロイーズ』(岩波文庫)で有名なピエール・アベラールは愛の事件が引き起こし、おじでノートルダム大聖堂参事会員だったフュルベールを激怒させ、縁者らにアベラールを襲撃させ、陰部を切除させた。アベラールは後にこれを「罪を犯したところに罰を受けた」といっている(第一書簡)。実行犯2人は捕らえられ、眼をえぐられ、やっぱり陰部を切除された。この事件の後、アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院に移り、修道士となり、エロイーズはアルジャントゥイユ修道院の修道女になった。
エミール・ゾラの小説の映画化『ジェルミナル』にも壮絶なシーンがある。それは貧しい炭坑町で女の肉体をむさぼっていた食料品店の主人メグラがストライキの最中に群衆に囲まれ、慌てて逃げようとして屋根から誤って滑り落ちる。メグラの遺体を取り囲んだ女たちは彼の性器を切り取って、これを頭上高々と掲げるのである。このシーンに遭遇した男たちはさすがに驚愕の表情を見せるが、女の怨念を見せつけられる場面である。
『ペニスの歴史』(作品社)には十九世紀末、東ヨーロッパで、ロシアの鞭打ち苦行を実践する宗派が、去勢によって天の王国に入ることができる」と主張したと書いてある。スコプツィ(ロシア語で「宦官」)という宗派で、子どもが生まれた後に、原罪を贖うために去勢したという。女はそれで我慢できたのか!?
と思っていたら、亀山郁夫の『ドストエフスキー』(文春文庫)が出た。ドストエフスキーを理解するためには分離派や異端派について知らなければならないという。「去勢派」は信者みんなではないが、去勢することを良しとする宗派である。これに対して「鞭身派」は映画『ダ・ヴィンチコード』を観た人ならイメージが湧きやすいと思うが、鞭で自分を痛めつけたり、 棘のある鎖を体に巻きつけたりする痛々しい宗派で、後に一種の性的乱交と化し、 著しく退廃したという。ラスプーチンは「鞭身派」でさまざまな奇跡を起こしたという(マッシモ・グリッランディ『怪僧ラスプーチン』中公文庫)。
別にタマタマの方でなくても割礼(ゴメン、人類学の話だからこうした単語がたくさん出てきてもしかたがない)という風習も残っている。アメリカでお産すると切るか、切らないかと聞かれるし、アフリカでは女性まで取ったりするので、大きな問題になっている。
西江雅之先生は最終講義で「割礼の仕方を3種類知っていますが、卒業記念に割礼していきませんか」といって女子学生の顰蹙をかっていた。 (^ ^;
□ 日本以外の多くの国でこうした風習があるのに幸い、日本にはこういう風習は入って来なかった。
ミシェル・フーコーの『刑罰の歴史』を見るまでもなく、ヨーロッパや中国には「残酷な」身体刑が揃っている。日本では剃髪とかムチうち位の身体刑しかなかった。
これはどうしてか、というと牧畜との関連が考えられる。牧畜論の講義を聴いたことがあるが、牧畜で最も大切なことは群の管理である。特に発情期は群が乱れに乱れる。その最も有効な手段が去勢なのである。そういう素地があって初めて人間にも応用されるのである。
村上春樹は『羊をめぐる冒険』の中で羊博士に次のように語らせている。
「日本の近代化の本質をなす愚劣さは、我々がアジア他民族との交流から何ひとつ学ばなかったことだ。羊のこともまた然り。日本における緬羊飼育の失敗はそれが単に羊毛、食肉の自足という観点からしか捉えられなかったところにある。生活レベルでの思想というものが欠如しておるんだ。時間を切り離した結論だけを効率よく盗みとろうとする。全てがそうだ。つまり地面に足がついていないんだ。戦争に負けるのも無理ないよ」。
「そして今日でもなお、日本人の羊に対する意識はおそろしく低い。要するに、歴史的に見て羊という動物が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。羊は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが羊だ。戦後オーストラリア及びニュージーランドとのあいだで羊毛と羊肉が自由化されたことで、日本における羊育成のメリットは殆どゼロになったんだ。可哀そうな動物だと思わないか? まあいわば、日本の近代そのものだよ」。
-----村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)鈴木孝夫先生は『日本人はなぜ日本を愛せないのか』(新潮選書)の中で「日本に羊がいないから」キリスト教は日本で定着しないという。つまり、「神が牧者で信者はその命じるところに従う羊の群れ」という捉え方というか仕組みが日本人にはピンとこないのだという。羊は日本人の感性に影響を与えなかったのである。
前坊洋『摸擬と新製−アカルチュレーションの明治日本』(慶応義塾大学出版会)は「アカルチュレーション」つまり、「文化変容」をキーワードに、膨大な資料を駆使しながら、明治日本と西洋文化の接触がもたらした変容について、著者は何らかの補完性と親近性があれば、異文化は瞬時に席巻するという。文明開化の象徴としてのざんぎり頭と牛鍋について、丁髷(ちょんまげ)を切り落として寂しくなった頭に、西洋から来た帽子をかぶるのは補完性、家畜として身近にいた牛が、ビフテキや牛鍋などの食材に転じたのは、親近性だ。一方、ヨーロッパと違って日本で羊肉食が遅れたのは、親近性を欠くからにほかならないという。
もっと前に立原正秋は『風景と慰籍』(中公文庫)の中でスペインの闘牛を見た感想を次のように書いていた。
闘牛は形式美の範疇に入り、たぶんこれはスペイン人の感性がうみだしたものだろう。夥しい牛の血が流されながら、それが残酷に映らなかったのは、スペインという風土のせいだったのか、それとも観衆の熱狂のせいだったのか。私がヨーロッパを歩きながら考えたのは、なんとここに棲んでいる人達は動物的だろう、ということだった。【…】日本は神なき社会といわれているが、考えてみると、この水と緑の豊かな風土でどんな神が必要なのだろう。スペインを歩いて半年後に私はエーゲ海ですごしたとき、切実にこのことを感じた。言葉のレトリックのまやかしにごまかされてはいけない。推論ではなく、いつか誰かがこのことを証明して措定する必要があるだろう。【…】
【闘牛で】殺戮された牛はあくる日のマドリード市民の食卓にのぼるということだった。私はなにか西欧のまずしさを視た思いがした。闘牛は過酷なショーであった。縁のない南ヨーロッパで人間がいかに動物的に歴史を積みかさねてきたか、それをまざまざ視た思いがした。□
さて、日本には牧畜がなくて幸い、こういう風習は入らなかった。だから中国みたいに纏足をしたり、カレン族のように首を長くしたり(あのリングを取ると死ぬそうだ)することはなかった(入れ墨はあったが…)。
『韓国美人事情』(洋泉社新書)によれば、韓国で整形する女性は多いという。ところが、結婚する時にお母さんを見せるとバレるので、お母さんとともに整形するという。これが儒教の精神にも合っているとして「孝道整形」と呼ばれるそうだ。日本でも多いだろうが、親を巻き込むほどひどくはない。
ケニアでは耳に穴を開けて長く垂らす人がいる。長いほど長老と見られるのだ。野蛮な風習だとおもっていたが、日本の高校生にもピアスが当たり前になってしまった。教師としては「どうせなら鼻にしろよな」と嫌みをいったり、「金属アレルギーが怖いよぉ」と注意するしかなくなってしまった。
「何も信じられない。何も感じられない。私が生きている事を実感出来るのは、痛みを感じているときだけだ」
というのは金原ひとみ『蛇にピアス』の女主人公ルイのつぶやきである。そうなったら、困ると思わないか!
さて、このエッセーでいいたいのはそうした説教ではない。
美しさというものは瞬間のものであって持続させることは難しいということだ。
映画『今を生きる』のテーマはホラチウスの言葉“Carpe Diem.”(その日をつかめ)だが、ロバート・へリック(Robert Herrick)の「乙女へ、時を大切に」(To the Virgins, to Make Much of Time)という詩が最初の授業で印象的に取り上げられる。
Gather ye rosebuds while ye may,
Old time is still a-flying :
And this same flower that smiles to-day
To-morrow will be dying. できる時に薔薇の蕾を摘み取りなさい。
老いた時の神は飛ぶのを休みはしない。
今微笑んでいるこの花も、
明日には枯れてしまう。□ 誰だって80歳になったマリリン・モンローなんか見たくないだろう(1926年生まれでエリザベス女王と同じ年になる)。おばあちゃんになった原節子なんか見たくない!
天地真理みたいな老醜を晒すなんて誰が思いたいか。肥ったあべ静江なんか見たくない。おばさんになった渡辺真知子もテレビに出てほしくない。
映画ではメリル・ストリープとゴルディ・ホーンが出た『永遠に美しく』というのがあった。美人たちがとりあえず死なないで、それなりに美しくあるのだが…。
ギリシャ神話で黄金の王座を持つ暁の女神エオスはトロイア王族の美しい青年ティトノスに惚れ、さらってエチオピアに連れて行き、夫とした。エオスはゼウスに願い、ティトノスを「不死」にしてもらった。しかし、「不老」にしてもらうのを忘れたため、ティトノスは猛烈においさらばえてしぼみ、最後には声だけの存在となった。その後、エオスは声だけの存在となったティトノスの姿をセミに変えたという。セミになっても永遠に生き続けなければならない。
『ガリバー旅行記』ではストラルドブラグと呼ばれる不死人間が出てくる。大きな島国であるラグナグ王国に着いたガリヴァーは不死人間ストラルドブラグの噂を聞かされ、最初は自分がストラルドブラグであったならいかに輝かしい人生を送れるであろうかと夢想し、彼らこそ「世界に例のない幸福な人々」であると賛辞する。しかし、ストラルドブラグは不死ではあるが不老ではないため老衰から逃れることはできず、死という歯止めを失った欲望は欲望に駆り立てられた者自身を食い尽くすまでに増殖しつづけるのである。80歳で法的に死者とされてしまい、以後どこまでも老いさらばえたまま世間から厄介者扱いされている悲惨な境涯を知らされて落胆する。
生き生きとした動きが止まると人間の心にも雑草が生える。---『アントニーとクレオパトラ』第1幕第2場
□ 映画『愛と哀しみの果て』の原作であるアイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』に次のような文章が載っている。
禁漁区で、ときどきイグアナを見かけることがある。大きなトカゲの一種で、河床の平たい石の上で日光浴をしている。かたちはあまり気持ちよくはないが、色の美しさにかけては比類がない。宝石のかたまりのように輝き、古い教会のステンド・グラスを切りとってきたように見える。近寄るとサッと姿を消すが、そのあと石の上に、しばらく淡青と緑と紫のひらめきが残り、その色は流星が曳く光芒のようだ。
一度だけイグアナを撃ったことがある。なにかきれいなものを、皮を使って作れるかと思ったのだ。そのとき、後々までも忘れられない、ふしぎなことがおこった。私はイグアナの死体が横たわる石に向かって歩いていった。ほんの何歩と行かないうちに、イグアナは色あせて蒼ざめ、あのきらめくようなさまざまな色彩は、最後の長いため息とともに体から抜け去ってしまったかと見えた。イグアナを手にすると、それはもうコンクリートのかたまりのように鋭い灰色でしかなかった。すべての輝きと彩りとを放射していたのは、この動物の中に脈打つ生きいきとした激しい血潮だった。生命の炎が消され、魂が飛び去ったいま、イグアナはただの砂袋にひとしい。
In the reserve I have sometimes come upon the iguanas, the big lizards, as they were sunning themselves upon a flat stone in a river-bed. They are not pretty in shape, but nothing can be imagined more beautiful than their colouring. They shine like a heap of precious stones or like a pane cut out of an old church window. When, as you approach, they swish away, there is a flash of azure, green, and purple over the stones, the colour seems to be standing behind them in the air, like a comet's luminous tail.
Once I shot an iguana. I thought that I should be able to make some pretty things from his skin. A strange thing happened then, that I have never afterwards forgotten. As I went up to him, where he was lying dead upon his stone, and actually while I was walking the few steps, he faded and grew pale; all colour died out of him as in one long sigh, and by the time that I touched him he was grey and dull like a lump of concrete. It was the live impetuous blood pulsating within the animal which had radiated out all that glow and splendour. Now that the flame was put out, and the soul had flown, the iguana was as dead as a sandbag.
□ カストラートもイグアナも美しいままでいることはできない。
まるで青春そのものように。
時間よ、止まれ、君は美しい。------------ゲーテ『ファウスト』
【NHKティーンズネットにアップロードした文章 95年8月】
※映画『フェリーニのローマ』ではカメラは地下鉄の工事現場に入ってゆく。掘削機が壁に穴を開ける。突然、その先に古代の壁が現れる。描かれた人物像が鮮やかだ。新発見と思う間もなく、色が急速に薄れ、像は消えてゆく。幻想的ではあるが、美のうつろいの激しさを見事に表した場面である。
※この映画は渋谷のシネマライズへ行かなければ見れなかった。ミニシアターでこうして見ることがステータスシンボルになっていたのだ。
※その後、マイケル・ジャクソンはプレスリーの娘と離婚した。更に、カストラート説を補強するかのように人工受精で子供を作って結婚したという話が96年冬に出てきた。更にカウンターテナーというカストラートではないのに高い声を出す男声歌手がめらめらっとたくさん出てきて「癒しの音楽」と呼ばれる時代になった。コヴァルスキーや日本で米良美一がいるし、ソプラニスタ(裏声でなく地声で高いソプラノ音域が出せる)の岡本知高などがいる。
※そして宮崎駿の映画『もものけ姫』に女良が起用されてメラメラとブームとなった。しかし、ホストを暴行したとかで問題になり、「ほものけ姫」と呼ばれるようになり、人気を落としてしまった。98年6月に初めてコンサートを聴いたが、派手な宇宙人みたいな衣装で、時々男声に戻るのが気持ち悪かった。「もののけ姫」はすごくよかったが、作曲家・久石譲の天才によるところ大である。
※映画の内容やカストラートの詳しい歴史については次に任せたい。
※鴎外は『ファウスト』第一部書斎の場のファウストのセリフを9行そのままに9行で訳した。
容赦はいらぬ。
己(おれ)が或る「刹那」に「まあ、待て、
お前は実に美しいから」と云つたら
君は己を縛り上げてくれても好い。
己はそれ切(きり)滅びても好い。
葬の鐘が鳴るだろう。
君の奉公がおしまひになるだらう。
時計が止まつて針が落ちるだらう。
己の一代はそれまでだ。池内紀は次のように一気に訳した。
そうだ、こうしよう、もしとっさにいったとする。時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい―――もし、そんな言葉がこの口から洩れたら、すぐさま鎖につなぐがいい。よろこんで滅びてやろう。葬いの鐘が鳴る。おまえのつとめも、それで終了。時計がとまって、針が落ちる。わが人生の時が満ちたということだ。
2008年7月にも似たような話があった。米国の著名な公民権運動指導者ジェシー・ジャクソン師が、米大統領選で民主党候補指名を確定させたバラク・オバマ氏が白人のキリスト教徒の票を意識して慈善事業への補助金拡大を表明したことについて、「バラクは黒人有権者をなめている」と述べ、オバマ氏の局所を「切り落としてやりたい」とささやいたという。発言は、9日に全米で放映され、オバマ氏の支持者から非難が噴出。オバマ選対の幹部を務めるジャクソン師の息子も父親を手厳しく批判した。これに対し同師は「マイクが入っているとは気付かなかった。オバマ氏を傷つける気はなかった」と全面的に謝罪したという。
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