金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


『カサブランカ』賛歌

  


『カサブランカ』は映画史のちょうど中間の地点で巨像のように映画業界全体を見降ろしている------サミー・デイヴィス・ジュニア


 『昴』で有名な元アリスの谷村新司は映画『カサブランカ』が大好きで、その思いが募ってついにモロッコへ飛んだ。勿論、ボギーのように、いわゆる「カサブランカ・トレンチコート」を着て空港へ降り立った。

 しかし、北アフリカのモロッコは暑くてとてもコートを着てられなかった。税関吏は「時々、そんな恰好でくる人がいるんですよ」と笑ったという。『カサブランカ』はハリウッドのスタジオで撮影された映画なのだ。

 彼はまた、映画『ひまわり』(ビットリオ・デ・シーカ監督1970作品)にも感激し、実際のロケ地であるスペインに行ったという。着いてすぐにタクシーに乗り、「ひまわり畑に行ってくれ。あそこは奇麗だろう」といったところ、ドライバーが「ええ、とても奇麗ですよ。夏は」といったという。

 彼は冬にスペインを訪ねたのだった。


 フランス文学者で映画の評論家というのは多いが、映画の都であるハリウッドを擁するアメリカ文学者の方に映画の評論家の少ないのはなぜであろう。恐らく、映画が文学を余りにも卑俗化しすぎた(ヘミングウェイは「アメリカ文学を破壊するものはハリウッドだ」といった)からか、映画と文学があまりにも近く(アーサー・ミラーとモンローとの結婚はまるで文学と映画の結婚だった)文学研究家としては純粋に文学に没頭していることを強調するために映画との切り離しを謀ったためであろう。なお、仏文学者で映画評論家の蓮實重彦は現代日本文学の不振な状況は映画に対する淀川長治のような「評論家」を文学はもてなかったからだとしている。

 実際、映画として評価を受ける作品は、大文学を映画化したものではなく、短編や大衆文学を基にしたもの、あるいは全く映画独自の作品の方が多い。これはやはり、文字と映像というメディアの違いと、作品を評価する権利のある観客と読者の質の違いということに起因していると考えられる。

 『カサブランカ』は映画史を越えて一種の神話的イメージを獲得したカルト・ムービーとして有名すぎる位だし、アメリカ議会図書館が選定した25本の「国宝」の中にも入っており、更にアメリカでは多くのカサブランカ・クラブが作られている。


 文学的とは決していえない『カサブランカ』ほど、しかし、粋なセリフに満ちた映画はない。私見ではディレーニー原作ののフリーシネマである『蜜の味』(A Taste of Honeyトニー・リチャードソン監督1961年作品)が僅かに匹敵する。映画の名セリフを集め、イラストと解説をつけた和田誠『お楽しみはこれからだ』で最も多く引用された映画はこの『カサブランカ』である。この本に引用されたセリフは次の4シーンである。

客「私はアムステルダム第二の銀行の頭取だということを彼に伝えてくれ」

ウェイター「同じことですよ。うちはアムステルダム第一の頭取を雇っておりますから」

【リックは酒は好きだが、客とは飲まない主義。断られた客が憤然としていうセリフ】

「ゆうべどこにいたの?」

「そんなに昔のことは憶えてないね」

「今夜会ってくれる?」

「そんなに先のことはわからない」

 リックが女につれなくしているセリフ。近年、日本でもCFでよく引用された。

「十年前、君は何をしてた?」

「歯にブリッジをしていたわ。あなたは?」

「職をさがしてた」

 リックとイルザの会話。「何げない会話だが、それでおおよその年齢がわかるし、バーグマンの美しい顔にもつながってくる。英和対訳シナリオでは、たしか『歯列矯正をしていたわ』というふうに直訳になっていた。ところがTVのアテレコでは『親知らずが痛かったわ』なんぞと言うのだ。何でもないことだが、どうもムウドが違うのである。」(和田)。なお、『波止場』(イリア・カザン監督1954年)に「あの頃は、チビで歯列矯正をしていて……すごく変わったね」「ひどい、何度も言わないで。ものすごくブスだったみたいじゃないの」という形で引用されている。

「ルイ、これが友情の始まりだな」(Louis, I think this is the beginning of a beautiful friendship.)

 ラストシーンのセリフ。「『ボギー!俺も男だ』(…)のスーパーでは「くされ縁だ」というふうになっていたと思う。原語ではこの部分はビューティフル・フレンドシップとなっていて、これを文字通り美しい友情と解釈した方がいいのか、皮肉に『くされ縁』とするのが当っているのかは、僕にはわからない」(和田)。これは制作者のハル・ウォリスが付け加えたもので、撮影終了後に録音された。ハル・ウォリスは“Everybody Comes to Rick's”を“Casablanca”とした功績があるし、何よりも脚本をうまくまとめたとされる。

 ちなみに僕が好きなのは次のセリフ。

「どうしてカサブランカになんか来たんだ?」

「温泉があると聞いたからさ」

「砂漠に温泉が出るもんか?」

「だから騙されたんだよ」

 パリの思い出の中にもこんなセリフがある。

「質問を全部終わらせる答は一つね」

 といってイルザがキスをする。言わせてみたい!

 「何を考えているの」

 「一フランの値うちもないことさ」

 「有り金全部はたいても聞きたいわ」

 もちろん、この映画で一番有名なのは次のセリフである。

「君の瞳に乾杯!」“Here's looking at you,kid.

 映画全体で4回出てくる(パリのリックの部屋で、独軍パリ入城前夜ラ・ベル・オーロールで、再会してリックとの愛に生きようとする時、ラストシーン)。

 この字幕はNHKで放映された時は「我が命に」となっていてやはり、つまらない(顧みれば、字幕が文学として認められることはなかった。それでいて多くの映画評論家が字幕を通して映画を評価している)。

 ちなみに、文法的にはやっかいな文である。普通は“Here's to you.”とか“Here's (a toast) to〜”というが、こんな風には言わない。無理矢理解釈するなら、“Here's (a toast) looking at you.”あたりが縮まったものと考えられる。“kid ”といっているのはRickとIlsaの年齢が離れていて、Ilsaを子供みたいにかわいがっているからであろう。実際、ボガートとバーグマンは1899年と1915年生まれで、16歳も違う。『カサブランカ』を撮った1942年当時は42歳と26歳でやはり、年齢差が大きい(映画の設定でリックは37歳ということになっている)。

 アメリカで最も人口に膾炙されたセリフは何と言っても次のセリフだ。

「お願い、もう一度弾いて」“Play it again,Sam.

 これはOxford Dictionary of Modern Quotationにも掲載されているが、このセリフは誤解で(Oxfordにもこの旨書いてある)ある。

 実際には次のような会話。

Play it once,Sam,for old time's sake."
“Ah don't you know what you mean,Miss Ilsa."
“Play it,Sam. Play,‘As Time Goes By'."
“Oh, Ah can't remember it, Miss Ilsa, Ah7m a little rusty.”

 しかし、誤解された方に人気があり、Woody AllenにはPlay it Again,Samという題名の映画(1972年)がある。ちなみにOxford Companion to Film(edited by Liz-Anne Bawden)には“Bogart's much quoted ‘Play it again,Sam' is incorrect;he in fact says ‘Play it,Sam'."とわざわざ記載されている(が、このセリフはイルザのものともいえる)。

 この映画が日本で『ボギー、俺も男だ』という題名で公開されたようにボギー(Bogie 勿論 ハンフリー・ボガートの愛称)マニアで、実生活にあまり身の入らぬ映画評論家 ウッディ・アレンが『カサブランカ』同様、友達の奥さんダイアン・キートンと三角関係になるという映画である。ボギー・ファンというにはみっともなすぎる男の映画であるが、悩んだりするたびにボギー(Jerry Lacyが演じている)のbogey(幽霊)が現れ、「適切な」忠告をしていく。冒頭は『カサブランカ』の最後のシーンがそのまま使われているが、この映画の最後は友人とその奥さんを空港で送るシーンで終わる。

 他にニール・サイモン脚本、ピーター・フォーク主演の『名探偵再登場』(The Cheap Detective /ロバート・ムーア監督1978年)でもパロディ化されている。

 『恋人たちの予感』(When Harry Met Sally.../ロブ・ライナー監督1989年)では色々な映画が出てくるが、サリーがハリーに「私はバーを経営するような男と一緒にカサブランカに住みたくないわ」などと言っている。

 なお、ボギーが映画で着ているトレンチコートはバーバリーではなくてアクアスキュータムである。

 ボガートは1899年に裕福な外科医の息子として生まれている。ところが、演劇にこってしまった。彼のことを映画『シロッコ』の中で“How can a man so ugly be so handsome?”というシーンがあるが、実に言い当てている。

 日本では『疾風愛憎峠』(佐々木康監督54東映)という幕末を題材にした時代劇が「いただき」(翻案)の最初でボガートが市川右太衛門、バーグマンが小暮実千代、ポール・ヘンリードは滝沢修だった。

 次に『波止場の賭博師』(山崎徳次郎監督62日活)が作られ、ボガートが小林旭、バーグマンが高須賀夫至子、ポール・ヘンリードが小高雄二という布陣だった。

 一番ヒットしたのは『夜霧よ今夜も有難う』(67日活)で江崎実生監督、石原裕次郎・浅丘ルリ子主演だった。裕次郎が東南アジアの革命家を無事に横浜港から祖国へ帰国させるため、ヤクザ組織と戦うという内容である。ポール・ヘンリードは二谷英明だった。

 As Time Goes By「時のたつまま」の方も、実際には31年のミュージカル・レビュー『誰方も大歓迎』のために作られた曲であるが、『カサブランカ』の主題歌としての地位を保っている。最初にレコーディングしたのはRudy Valleeであった。サムを演じたのはDooly Wilsonで、彼はかつて歌手・ドラマーだったが、ピアノは弾けなかったので、Elliott Carpenterが代わりをつとめた。なお、日本では沢田研二が「時のすぎゆくままに」としてタイトルを「いただき」、ヒットした。

 メグ・ライアンのラブコメ『恋人たちの予感』(86)ではメグがいう。「わたしは、バーの店主と結婚して、カサブランカみたいな人生を送るなんてまっぴらだわ」(I don't want to spend the rest of life in Casablanca...married to a man who runs a bar)。


 日本では知られていないが同じくアメリカ人に親しまれていて、喜劇役者がよく物まねでいうセリフは“Drop the gun, Louis."である。カフェ最後のシーンに出てくると信じられている訳だが、実際には“Not so fast,Louis."(そう、早まるな、ルイ)である。

 バートレットの引用句辞典には“Tennis,Anyone"(テニスはどう、誰か)がボギーが初出演の時にしゃべった僅か一行のセリフとされている。これもBurnam(1975)によれば、1974年5月9日のABC放送のテレビ番組“Play It Again,Sam"の中でボギー(既に死んでいたから録音)自身がこの「伝説」を否定しているという。ビデオ全盛の現代と違って、有名なセリフが誤って巷間に伝えられているのは時代を感じてほほえましい。

 また、ボギーが出演したヘミングウェイ『カサブランカ』のボギーはヘミングウェイを彷彿させる)の『脱出』(To Have and Have Not/ハワード・ホークス監督1945年)の中の有名なセリフ「なにか用があったら、ただ口笛をふいてよ」はボギーの墓にまで彫ってあるが、これが契機で結婚した4人目の妻ローレン・バコール(おしどり夫婦で有名)のセリフである。


 言語学的には次のセリフが面白い。

 “What watch?"“Ten watch."“Such much?!"はいよいよ明日アメリカに向けて出発できるという初老の夫婦が嬉々として今まで賢明に勉強してきた英会話の知識を披露する場面がある。この英語の誤用でハンガリー語ができる者なら(おそらくは米国人の多くも)、「ああ、この夫婦はハンガリーの難民だな」とピンとくるはずであるという(深谷1986)。

 というのはハンガリー語では「○○時」というときの「時(じ)」と「時計」という語が同じ“ ra(オーラ)"という単語なのである。また、“What watch?"という文にはbe動詞がないが、ハンガリー語も存在を表すbe動詞に相当するものはあるが、 辞のbe動詞(「A=B」の=に相当)はない。

 ちょうど繋辞をもたない日本人が、「これはいくら?」という意味で“This is how much?"というようなものである(蜷川幸雄監督映画『海よ。お前が』の中のハワイでの買い物風景に出てくるが、うちの学生なのでメマイ)。また、“Ten watch."と複数形にならないのもハンガリー語で数詞の後はたとえ複数でも名詞は単数形しか取らないからである。つまり、このシーンは難民の元の言語が干渉していて、言語学的にみて興味深い。

 また、香港・シンガポール等、南方系の中国語方言では、文尾に強調で「〜ラ。」という言い方があるため、英語のときにもこの「〜ラ。」をつけてしまうことがあって「OKら」などという(日本人が「No problemよ!」などと言ってしまうのと似ている)。

 同じく、深谷によれば、ビクター・ラズロのラズロという名前はハンガリー人の名前だという。ただし、深谷は「ヒロインの実の夫で抵抗運動の指導者のラースローは日本語字幕ではチェコ人となっているが英語ではスロヴァキア人と言っている。これは日本の翻訳者が中央ヨーロッパの事情に疎いために、おそらくは『スロヴァキアと言っているが、そんな国はないし、日本ではチェコスロヴァキアだからチェコでいいだろう』と考えてこうなってしまったのだと思う。しかし、ラースローというのはハンガリー人の名前である。実はスロヴァキアという国は一九一八年まで存在しておらず、上(かみ)ハンガリーと少数民族のスロヴァキア人が混在していた地域なのである。だからこのラースローもおそらくはハンガリー人(と言うよりはハンガリー系ユダヤ人か?)であろう。」と書いている。だが、これはシナリオで確かめるまでもなく、“I'm a Czechoslavakian."といっていている。

 また、ラズロ・コーバックスというカメラマン(『イージーライダー』Easy Rider/デニス・ホッパー監督1969年などアメリカニューシネマの多くが彼の撮影)がいるが、彼はチェコ人だから、ラズロという名前もハンガリー特有とは必ずしもいえない。

 ラズロのモデルは実在の汎ヨーロッパ提唱者で「EUの父」と呼ばれるリヒャルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギーであると言われている。日本に赴任してきたオーストリア・ハンガリー帝国の外交官だった父が青山ミツ(ゲランの香水Mitsoukoと関係があるとされる)に一目惚れして結婚し、栄次郎は次男として生まれた。


 これらは勿論、監督のマイケル・カーティス1888-1962)がハンガリー人であるからである。彼はブタペスト生まれで、ハンガリー名をKertesz Mihaly(ケルテース・ミハーイ)といった(ハンガリー語では日本語と同じく、「姓+名」の語順。俳優のTony Curtisもハンガリー人で本名Bernard Schwarz)。1912年にはハンガリー映画で監督としてデビューしており、ヨーロッパ時代で既に50本以上の作品を監督している。時代劇スペクタクル『イスラエルの月』を見たハリー・ウォーナー(1881-1958)に招かれてハリウッド入りをし、以来、53年までワーナー撮影所を根城に活躍した。

 特に30年台は年間4本というペースで量産し、61年の『コマンチェロ』がある。ジェイムズ・キャグニー主演のギャング映画『汚れた顔の天使』(Angels with Dirty Face 1938年)や42年のミュージカル『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(Yankee Doodle Dandy)【この作品はミュージカルの王様George M.Cohanをモデルにした映画である。キャグニーは脚本に不満だったのでお気にいりのPhilipとJulius Epstein兄弟に手を加えさせた(ただし、二人の名前は映画にクレジットされていない)。兄弟は『カサブランカ』の共同執筆者である。】、歴史劇『女王エリザベス』(Queen Elizabeth 39年)やフィルム・ノアール(Film  Noir)の名作とされる『深夜の銃声』(45年)など各ジャンルに名作を残している【『カサブランカ』の直前にはMission to Moscow【日本未公開】という映画を撮っており、「政治的な」映画の時代であった。瀬戸川猛資は『シネマ免許皆伝』(新書館)で「一九六〇年代は西部劇終焉の時代だが、フィナーレにふさわしい名作も幾つか登場した。ジョン・フォードの『シャイアン』(64)、ハワード・ホークスの『エル・ドラド』(66)、サム・ペキンパーの『昼下がりの決斗』(62)。しかし雑念のなさにおいて、西部劇最後の傑作というにふさわしいのは、マイケル・カーティスの『コマンチェロ』ではないかと思っている。だれか賛成してくれ」と書いている】。

 なお、アムステルダムうんぬんの名セリフをいったウェイターカール(Carl)を演じたS.Z.ザコール(S.Z.Sakall、クレジットにはS.K.Sakallと出てしまった)もハンガリー出身の性格俳優である(本名はゾケ・サカル Szoke Szakall、ニックネーム Cuddlesとして親しまれた)。

 他にも、P.Henreidはナチ侵入後にウィーンから逃げてきた男だし,Madeleine LeBeauは占領下のフランスから逃げてきた。Conrad Veidtはドイツ生まれで反ナチだったし、,Peter Lorreも反ナチの風刺をしていた。アメリカ人といえるのは、ボガートとDooly Wilsonだけで製作現場そのものがリックのカフェ・アメリカンのように戦時ヨーロッパの縮図であった。

 どうしてこんなに東欧の移民が多いのかと不思議に思われる向きもあろうが、例えば、ワーナー4兄弟(Warner Brothers)はポーランド系ユダヤ人移民であるし、他の映画会社の創業者たちも移民で占められている。

 ハリウッドはWASPではなく、移民たちによって作られた夢の工場であったのだ。ひところのハリウッドの入口には大きな字で「君がハンガリー人だというだけでは十分ではない、才能も必要だ!」と書いてあったほどだという。

 したがって、ソニーによるコロンビアの買収をアメリカの魂を金で手に入れたという非難は的をえていない。


 『カサブランカ』でハル・ウォリスHal Wallisによって最初に提示された監督はウィリアム・ワイラーWilliam Wyler(『ローマの休日』Roman Holiday 1953年などで名監督と呼ばれた)だった。ワイラーはフランスのアルザス地方の出身で、このテーマに触手を伸ばすと思っていたのだったが、何の反応も見せなかったという。そこで、撮影所づきの腕利き監督ヴィンセント・シャーマンに声をかけたが、反応がなかった。そこで、マイケル・カーティスに声をかけたのだったのだが、カーティスもこんなストーリーは大嫌いだといった。そこで、ハワード・ホークスが製作準備を進めた。ところが、カーティスは撮影所で不機嫌なホークスとばったり出会い、「ミュージカルを一本撮らなきゃならないんだけど、その気になれない」という。カーティスは「こっちも同じだよ。山の中の田舎っぺの映画を撮らなきゃならないんだから。こんな映画にお目にかかったこともない」といった。そこでホークスは仕事を交換しないかと提案したのだった。それでホークスは『ヨーク軍曹』(1941年)を撮り、カーティスが『カサブランカ』を撮ることになったのだ。つまり、ホークスは『カサブランカ』をミュージカルと思い込んでいたらしい。

 ウォリスは女優をアン・シェリダンAnn Sheridanと考えていたが、結局、セルズニックと契約していたイングリッド・バーグマンということになった。自社のオリヴィア・デ・ハヴィランドとひきかえにバーグマンを借りるということでセルズニックを説得したのだという。

 当初の配役はジョージ・ラフトGeorge Raftであった( Raftはこの時「カサブランカなんて誰も聞いたことがないぜ。それでなくったって、無名のスウェーデン女の相手はごめんだね」といい、十何回目かの出演停止になり、何年も後になって、「あれはおれの一生の最大のあやまちだった」といさぎよく認めた(cf.Davis 1980)が、両者ともだめになった。

 次いで当時、ワーナーにいたリーガン(後、ユニバーサルに移った。大統領就任まではリーガンだった)とアン・シェリダン、デニス・モーガンDennis Morganとなった。ReaganがRickの役をしていたら、SheridanがIlsaの役をしていたら、恐らく、「名作」とはならなかっただろう。「大根役者」(Ham)とされたReaganが得意なのはむしろ、西部劇の保安官のような役柄であり(また、実際アメリカがかつてのように強くなり、世界の保安官になるような政策を好んだ)、愛を取るか、正義を取るか悩むような演技は似合わない。彼なら正義を取るであろうことは誰の目にも明らかである。また、あのキザったらしい、とはいえ、見事なせりふは彼の喜劇的な顔付きには似あいそうもない。実際、「しかし、カーティスは主役のリックが冷たく笑うタフガイでなければならぬことを知っていた」(Davis 1980)ので、外したという。

 また、水野(1990)によれば、「リーガン、アン・シェリダンのコンビは、同じころ「嵐の青春」【筆者注、King's Row/Sam Wood監督1941年、後のレーガン人気に貢献】という映画を撮っており、その撮影が伸びてしまった」からだという。いずれにしろ、もし、レーガンがRickの役をしていたら、もっと早く人気が高まり、大統領にも早く就任できたかもしれない。逆に、俳優として大成し、政治家になっていなかったかもしれない。それとも『カサブランカ』は駄作と評価され、歴史の大枠は揺るがなかったかもしれない。その意味で『カサブランカ』は歴史も変えた。

 映画『モロッコ慕情』(Sirocco 1951年)の中ではヒロインがボギーに向かって,“How can a man so ugly be so handsome?"と尋ねるシーンがあるが、まるでボギー本人に向けられた言葉のようだ。『カサブランカ』はボガートでなければ成立しなかった映画である。

 ニューヨークの著名な医者の息子として生まれたボギーはYale大へ入学するという両親の期待を裏切り、役者を目指すも下積みが長く(途中、兵役を挟む)、舞台にデビューしてからも少年の役が多く、本格的なデビュー作は1935年の『化石の森』(The Petrified Forest)で、翌年、この作品が映画化されたので映画界にデビューを果した。その後、悪役が続いたが、代表作は何といっても『マルタの鷹』(The Maltese Falcon/John Huston監督1941年)の探偵Sam Spadeで、バーグマンはボギーを知るために10回以上観たという。 サミー・デイビス・ジュニアはその著書『ハリウッドをカバンにつめて』の中で1章を「ボギー」にさいていて、『カサブランカ』の成立に関しても非常に詳しく描写している。

 また、息子スティーヴンが『ボガート・わが父を求めて』(東京創元社1997)【BOGART: In search of My Father by Stephen Humphrey Bogart 1995】を書いているが、8歳で父親を失い、その幽霊に振り回されていた子供の嘆きがよく分かる。スティーヴンという名前はボギーとバコールが初めて出会った映画『脱出』(ハワード・ホークス監督)の主人公の名前だという。

 子どもの頃に父親に可愛がられた記憶はあまりない、という。「子供となにをするっていうんだい?連中は酒を飲まないんだぞ」と酒好きのボギーはよく話していたという。恋愛には無頓着で、女性といるより、男友達と酒を飲んだり、ヨットで遊んだりが好きだったようだ。

 この作品が今までに製作された映画の中のベスト・テンに入る名作の一つで、映画製作の礎石となったことは大部分の人々が認めている。

 映画の名作というよりむしろ神話になっているともいえる。Baxter(1985)は“Woody Allen was right in his Play It Again Sam to show the film as one whose morality,characters and dialogue can be adapted to social use;icons now, they transcend their original source. It is as folklore rather than as a cinematic masterwork that Casablanca is likely to survive."

 この映画はボガートをこの時期を代表する人物にして、今でも四〇年代の初期を彷彿と思い出させてくれる。しかし、作品自体はさまざまな偶然が重なって生まれたもので、ワーナー・ブラザーズではB級映画にされた。【清水訳、以下も】

 B級映画だったことはFinler(1988)に‘extremely economical production'と書かれている位で、既に100万ドル以上製作費がかかる時代だったのに638,222ドルしかかかっていない。なお、Finlerには『カサブランカ』の細かな予算が書かれていて、これによれば、監督が47,281ドルボガートが36,667ドル、バーグマンがHenreidやVeidtと同じく、25,000ドルである(なお、『カサブランカ』でハードボイルドの魅力に、ロマンティックなイメージを加えたボガートは映画の後の契約更改で当時世界一の高級取りのスターとなる)。そして、「きっかり六週間で、わずかな予算で撮影され、じっさいのモロッコの街が新聞の紙面をにぎわさなくなってからわずか二、三週間後に封切られた(ibid.)」。

 60年代に始まるボギー熱(Bogie Cult)は今も続いており、『カサブランカ』自体もカルト・ムービーとして熱狂的なファンを誇っている。「事実、業界がさまざまの不利な条件をつくったにもかかわらず、ボギーの人気を沸騰させたのは大衆自身だった。そして、すべてのきっかけとなったのが、『カサブランカ』であった」(ibid.)と書かれている通りである。

 『汚れた顔をした天使』などに出演していたA・シェリダンにしても同様である。顔に説得力がない。その点、バーグマンは最初に登場しただけで説得させられてしまう。勿論、彼女の美しさには秘密があって、アップの時にはソフトフォーカスになっていて(いわゆる「紗をかける」)、より美しく見えるようになっている(『サウンド・オブ・ミュージック』(The Sound of Music1964年)に主演したジュリー・アンドリュース もソフトフォーカスになっていたが、この場合、賢明なロバート・ワイズ 監督は「それなりに」見えるようにしたのだった)。また、スウェーデン出身でハリウッドに来たばかりのバーグマンの微かな訛りがヨーロッパの薫りを漂わせ、この映画を成功に導いている。

 バーグマンもまた、外国人であった。スウェーデン(最後の出演映画『秋のソナタ』1978年の監督イングマル・ベルイマンIngmar Bergmanと同姓)のストックホルムに生まれ、小さい頃、両親と死別。ハイスクールを出てから王立演劇学校で学び、デビュー後6本目の映画『間奏曲』(Intermezzo1936年)でハリウッドのDavid O.Selznick(『風と共に去りぬ』の製作者でヴィヴィアン・リーを発掘したので有名)に見いだされてアメリカに渡った。『カサブランカ』などでスターの地位を築きあげた後、1945年にイタリア映画『無防備都市』(Roma,Citta Aperta1945年)を観て、その監督ロベルト・ロッセリーニに「意識の深層」で恋をして、更に『戦火のかなた』(Pais 1946年)を観て、48年には夫を捨てて、妻とは別居中だったロッセリーニのもとへ走った。

 つまり、『カサブランカ』同様に夫と「愛人」の間を揺れ動いたのであった。その結果は50年3月、(離婚が成立する前にロッセリーニとの子供が生まれたので)アメリカの婚姻制度への挑戦、つまり、「ハリウッドの堕落の使徒」として米上院の議場で攻撃され、米映画から追放される。当時は非米活動委員会(Unamerican Activities Committee)のいわゆる「赤狩り」が進行中の「眠れない時代(Scoundrel Times---リリアン・ヘルマン」であり、多分に政治性を含んだ糾弾だった。

 アメリカのフォークシンガーのビリー・ブラッグのウディー・ガスリーの遺した詩に曲をつけた「イングリッド・バーグマンの歌」というのがあることを村上春樹『村上ソングズ』(中央公論新社)で知った。


Ingrid Bergman, you're so perty
You'd make any mountain quiver
You'd make fire fly from the crater
Ingrid Bergman

This old mountain it's been waiting
All its life for you to work it
For your hand to touch its hard rock
Ingrid Bergman  Ingrid Bergman


イングリッド・バーグマン、君を前にすれば
どんな山だって身震いして
火口から炎を噴き出すぞ、
イングリッド・バーグマン

このおいぼれた山も長いこと待っているんだ。
君が燃え上がらせてくれることを。
君の手がこの硬い岩(ハードロック)に触れてくれることを。
イングリッド・バーグマン、イングリッド・バーグマン
(村上春樹訳)


 非米活動委員会と『カサブランカ』の映画人との関わりに簡単に触れておくと、非米活動委員会が「友好的な」12人の証人からハリウッドが共産主義の温床になっているという証言を引き出したのが、1947年であり、この年9月、数十人の映画人に喚問状を送った。これにたいして、500人の映画人が加盟して「憲法第1修正条項委員会」結成され、基本的人権と良心の自由の擁護を訴えた。10月には第1回聴聞会が開かれ、ハリウッド・テン(Hollywood  Ten)に加え、『カサブランカ』の脚本を書いたコッチ(1838年、大パニックを引き起こしたオーソン・ウェルズのラジオ番組Invasion from Marsも)など19人(後にHollywood Nineteenと呼ばれる)が、証言台に立ち、更に監督のジョン・ヒューストン、ハンフリー・ボガートら30人近い「憲法第1修正条項委員会」の代表団もワシントンに集まった。

 ハンフリー・ボガートがLauren Bacallと心配そうに聴聞会を注視している、この時の様子が雑誌『ライフ』(cf.LIFE Goes to the Movies)に掲載された。非米活動委員会が用意し、友好的な証言をした証人には「アメリカの理想を守る映画同盟」の初代会長Sam Woodほか、ゲイリー・クーパー,そして、リーガンがいた。したがって、『カサブランカ』は民主党から共和党に「転向」したリーガンが主演していたら、その政治性から、カルト・ムービーとはなり得なかったであろう。

 脚本のコッチは当初のエプスタイン兄弟から引き継いだもので、撮影1週間目から手伝ったという。その後、4人の脚本家が加わり、最後にケイシー・ロビンソンが補強することになり、複雑な、混乱したストーリーとなった。

 バーグマンは『カサブランカ』があまり好きではなかったようだ。「あれこれ混乱したおかげで、『カサブランカ』に不信感を抱いていた」からである。自伝の中でも、一般に代表作とされる『カサブランカ』には僅かのスペースしか裂いていない。晩年近くになってロンドンで  バーグマン特集があり、そこで講演を頼まれ、講演の前に『カサブランカ』が上映された。そのとき、初めて『カサブランカ』をみた。講演の壇に上がり、「ほんとにいい映画なのね」といってみんな笑ったという(cf.田中1981)。混乱した理由は監督がいつも脚本を読まずにクランク・イン(これは「公然の秘密」だった)し、「自動車の組み立て工場のように」映画を作っていたからである。『カサブランカ』の場合、粗筋しかなく、メモを基に撮影が進められていた。

 バーグマンの回想によれば「私がヘンリーとボガートの演じる二人の男性と恋愛関係にあるという設定が、まず問題だった。私は(脚本の)エプスタイン兄弟にきいた。『どちらの男性と結ばれるんですか?。』すると、彼らは言った。『まだ決まっていないので、二通り撮ることにしています』」。

 結局、ボガートとレインズが霧の中を遠ざかるシーンがまず撮られ、こちらの方がよさそうだということで、もう一通りのシーンは撮られないで終わった(この時ボギーは「死ぬ役はジョージ・ラフトにまわしてくれ。おれはまだ死にたくない」といった。 cf.Davis 1980)。なお、『驛馬車』(Stagecoach/ジョン・フォード監督1939年)のラスト・シーンは男女を乗せた馬車を飛行機に、見送る男二人のうち、一人を保安官から警察署長に変えると『カサブランカ』になる点で『驛馬車』の影響もある。 

 この辺の事情に関しては脚本を書いたコッチ(1973)が詳しい(翻訳には幾つかの難点がある。例えば、auteur theoryが一般的に使われる「作家主義」−−映画製作には数多くの人が関わるが、最終的な責任は監督個人が負うとする理論−−ではなく、「作家論」となっていたり、new waveは明らかにフランスの「新しい波」を指しているのだから、「ニューウェーブ」ではなく、「ヌーベルバーグ」 Nouvelle Vague としなければならないし、『The 400 Blows』という作品はフランソワ・トリュフォー 監督の“Les Quatre Cent Coups"のことであり、当然、『大人は判ってくれない』としなければならない)が、バーグマンも述懐している通りである。

 なお、コッチはアカデミー賞のオスカーを売り飛ばしたので有名。


 『カサブランカ』はアフリカを舞台にしたエキゾチシズムの点で『望郷』(Pepe Le Moko/ジュリアン・デュビビエ監督1937年、アメリカ人にとってはこのリメイクであるAlgiers/ジョン・クロムウェル監督1938年)を下敷にしているし、様々な人々の人生模様を描いている点でいわゆる「グランドホテル形式」(1932年)をとっている。

 四方田(1986)は『カサブランカ』は明解な政治的メッセージを隠しているという。「メッセージの内容は、第二次世界大戦におけるアメリカのヨーロッパでの参戦を正当化することである。(…)アメリカ人たちよ、君たちの参戦は道徳的価値に満ちている。君たちは自由の国に生まれ、君たちの自由が大西洋の向う側でも分有されるように、崇高な自己犠牲を支払わなければならない。これが『カサブランカ』のメッセージだ」という。

 これを補足していえば、アメリカは既に真珠湾攻撃によって、日独伊に対して参戦したものの、直接関わりのないヨーロッパ戦線では従来の「孤立主義」(Monroe Doctrine)に反する参戦となっていた。第一次世界大戦の時のルシタニア号撃沈事件に相当するものがなく、どうしてもこれを正当化する必要があった。

 『カサブランカ』の成立過程に関して、Davis(1980)は「この映画は一九四二年の初めにワーナー・ブラザーズの脚本会議で誕生した。当時は誰もが短時日で撮りあげる愛国映画に手をつけていて、できるだけニュース性をとり入れることになっていた。その朝の新聞はモロッコの太平洋岸にある聞いたこともない都市の名でいっぱいだった」と書き、カサブランカがなんとなく耳に残る名前なので、ここを舞台に映画を作ろうということでEpstein兄弟に案が出され、二人が2日間で2ページの粗筋を仕上げたという。ここでは政治的意図より、話題に便乗しようとする映画人のしたたかさが浮かび上がってくる。

 しかし、1942年11月18日、米英軍がトーチ作戦の下に仏領北アフリカ(特にカサブランカ、オラン、アルジェ)に上陸を敢行し、この8日後の感謝祭に『カサブランカ』は公開され、一般公開の翌年1月23日はローズベルトとチャーチルによるカサブランカ会談の真っ最中(14日-26日)でいやがうえにも政治性を帯びていった。このため、New York Timesは「針の先でつきさされるような鋭い感銘と息もつかせぬ胸の高鳴りを覚えさす映画【…】完全無欠な映画芸術として君臨すべき最高峰映画」(チラシ復刻版から)として最大の賛辞を送っている。

 そして、『カサブランカ』の成功を映画監督・批評家のClaude Chabrolはタイミングだという(cf.Baxter 1985)。けれども、そうした政治性を感じずに見ている半世紀後の我々日本人にとっても『カサブランカ』はそのロマンチシズム、ダンディズム、ユーモア、出演者たちの見事さによってやはり映画史上の成功作といえる。

 シナリオも出版されているが、シナリオからは例えば、Wollen(1969)で「原始的象徴主義」(primitive symbolism)の例として引用されているシーン、つまり、最後にルノーがヴィシー【炭酸入りミネラル・ウォーター】を投げるのが、ヴィシー政権【Vichyは大戦中の非占領フランスの臨時首都所在地で、40年から44年までHenri Philippe P tain元帥による対独協力政府が置かれた。なお、ヴィシーに反対した仏政府の内相や海相ら20人の議員はパリ陥落後カサブランカへ移住していた】への離反を表すことなど、分からないままになる。

 同時に、カサブランカを飛び立った飛行機の側面になんて書いてあるか確かめたりする(F−AMPJ)楽しみがなくなる。

 したがって、映画そのものがテクストであることを忘れずに、よく映画を観て研究する必要があるだろう。


参考文献

 なお、外国の文献に関してはChristopher Lyon(1985ed.)The International Dictionary of Films and Filmmakers ; Perigee Books が詳しい。

 マイケル・ウオルシュの戦争冒険小説『もうひとつの「カサブランカ」』(“As Time Goes By”扶桑社)が出版された。バーグマンとヘンリードが飛行機で旅立つのは1941年12月8日、つまり、真珠湾の日だった。リックとルノーは空港の外で待っていた、ピアニストのサムが運転するビュイック81Cに乗り込んだ。リックはラズロとイルザの向かったリスボンに行くことになる。リックはそれを目指して、モロッコのポール・リヨーテに行こうとしていた。追跡してきたナチのゲシュタポとの銃撃戦を切り抜けるがこの車の中で真珠湾攻撃を知る。これでアメリカはドイツやイタリアとも参戦することにもなる。リスボンに着いたリックたちはイルザの書き残したメモから、彼らがロンドンに向かったことを知った。そしてリックたちもロンドンに向かうことになる。そのころロンドンはナチスに対する抵抗運動(レジスタンス)の拠点であった。ラズロはチェコを支配していたナチス国家保安本部長官であったハイドリッヒの暗殺を画策する。彼は絞首刑執行人の異名を持つ男であったが、ヒットラーが後継者に考えていたとも言われていた…。

 2005年には丸谷才一が「君の瞳に乾杯」(『綾とりで天の川』文藝春秋)を書いた。ここでは『カサブランカ』が『勧進帳』に似ているというのがミソになっている。ボガートが富樫で、バーグマンが弁慶、ヘンリードが義経ということだ。


※1990年の論文「『カサブランカ』の構造」を表記などを変えてエッセーに書き換えたものである。

 ホームページ「カサブランカ」(http://users.aol.com/VRV1/index.html)


 2006年4月、全米の映画・テレビ脚本家約9500人で組織する米脚本家組合(WGA)は歴代の優れた映画脚本101作品を発表し、最優秀脚本として第二次大戦下の仏領モロッコを舞台に揺れ動く男女の愛と勇気を描いた「カサブランカ」(1942年、エプスタイン兄弟/ハワード・コッチ脚本、ハンフリー・ボガート、イングリット・バーグマン主演)を選出した。

 映画の興行不振が続く中で脚本の重要性を訴える狙いで、初めての試み。2位以下は「ゴッドファーザー」(72年)、「チャイナタウン」(74年)、「市民ケーン」(41年)、「イヴの総て」(50年)の順となった。

 『カサブランカ』が文学かどうか迷うところだが、曽根田憲三『アメリカ文学と映画』(開文社出版)の「マイケル・カーティスの『カサブランカ』」という章はとてもよく成立事情が書いてあって面白い。


※吉田直哉『発想の現場』(文春新書)にビクター・ラズロのモデルがクーデンホーフ・光子の次男で「欧州連合の父」と呼ばれたリヒアルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵だという。伯爵は欧州統合を主張し、EUの概念を訴えた人物だといわれる。

 なお、光子については吉田の『国境のない伝記――クーデンホーフ家の人びと』(1973年3月7・14・21・28日放送)があり、1987年にも『ミツコ、二つの世紀末』(2002年4月再放送)が吉永小百合の案内で放送された。2002年には「黒髪の伯爵婦人クーデンホーフ光子展〜波乱の生涯〜」が東京などで開かれた。

光子    光子

クーデンホーフ・光子

明治時代、欧州の伯爵家に嫁いだ初めての日本人。その名はクーデンホーフ光子。明治7(1874)年、東京に生まれた青山光子は、オーストリア・ハンガリー帝国代理公使ハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵に見初められ、明治25(1892)年18歳で結ばれました。明治29(1896)年に欧州へ渡りますが、愛しい夫と7人のこどもに囲まれた幸せな日々は、夫の急死で一変。伯爵家の財産管理やこどもたちの教育にかける気丈な女性に変貌しました。ウイーン社交界の華としても活躍しましたが、第一次世界大戦、ハプスブルク帝国の崩壊、国の分裂と、時代の荒波に翻弄され、昭和16(1941)年に死去。次男リヒャルトが、EEC〜ECを経て統一されようとするヨーロッパ、その礎となる「汎ヨーロッパ」思想の提唱者だったことで、その母光子もいま注目されています。本展では、これまで門外不出だったクーデンホーフ家の遺品や資料約200点を一堂に展観。光子の孫でウイーン幻想派の画家ミヒャエル・クーデンホーフ=カレルギーの作品、NHK番組のコーナーを加え、光子の波瀾に満ちた生涯をご紹介いたします。


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