アメリカ映画における母親の不在
愚痴もこぼさずに苦しむ女性のイメージは、忍耐力と勇気に富んだ、一種および難い有徳の存在に対する賛嘆の気持ちを呼び起こす。人は単に彼女を哀れむというより、むしろ理想化できるのだ。これは、私が女性崇拝と呼ぶもの、すなわち日本のフェミニズム特有のしるしと結びつく。------佐藤忠男*
第1章 母親像の文化的差異
富山市民大学名画鑑賞会のシリーズとして「日本の家族の肖像」「子供たちの時間」というのを企画し、それぞれ、『麦秋』(51)『裸の島』(60)『家族』(70)『さらば愛しき大地』(82)、『にんじん』(34)『大人は判ってくれない』(59)『アラバマ物語』(62)『ぺ一パー・ムーンj(74)を上映し、解説をしたことがある(1986年)。なるべく製作年代が違い、監督も、その作風も違う映画を選んだつもりだったのだが、奇妙な符合に気がついた。
まず、日本映画4本のうち、3本までに子供の死亡が扱われていることがある。『裸の島』では長男が急病になり、遠い島であるが故に医者の到看が遅れ、死亡してしまう。『家族』では万博の年に九州の炭鉱から北海道の開拓農家へ行く途中、赤ん坊が文明の象徴である筈の東京で医療の「たらい回し」によって死んでしまう。『さらば愛しき大地』では子供二人が沼でポート遊びをしていて溺れ死んでしまう。これが主人公の生活の荒廃(麻薬中毒)に拍車をかける。『麦秋』でさえも叱られた子供がいなくなって大騒ぎする場面がある。
二つのフランス映画『にんじん』『大人は判ってくれない』ではどちらの母親も拒絶的であり、子供を自殺寸前に追いやったり、邪魔だといって少年院に送ったりする。「親があっても子は育つ」(野坂昭如の作品名)という状況が見られ、多くの日本人には、この母親たちの冷酷さが殆ど理解できないであろう。同じように子供の立場から描いてあるアメリカ映画『アラパマ物語』『ペーパー・ムーン』には前者では病気で母親をなくし、後者では酔っ払い運転の車による事故で母親をなくした子供が出てくる。「親はなくても子は育つ」といった母親の不在から映画が始まる。
特に『アラバマ物語』では不在の母親に代わる父親の偉大さがテーマとなっている。『ペーパー・ムーン』も描かれている時代は同じ1930年代なのだが、製作された時代を反映して父親(かどうかはっきりしない)は詐欺師で女好きでどうしようもないのだが、娘(かどうかはっきりしない)の面倒をみる。よく考えてみるとアメリカ映画には母親を欠如しているものが大変多い。
勿論、日本の「母もの」映画に影響を与えたとされる『オーヴァー・ゼ・ヒル』(20)や『ステラ・ダラス』(25)、ノルウェーからの移民を描いた『ママの想い出』(48)のような作品もあるが、これらはむしろ例外的であり、父親の権威(喪失と回復)、それに伴なう母親の不在を描いた映画の方が圧倒的に多いのである。母親がいても『花嫁の父』(50)のように無視される。
これはヨーロッパ映画にでてくる母親像や大量生産された「母もの」映画に観る日本の母と対比したならば更に頭著に見えてくる筈である。つまり、アメリカ映画はマリリン・モンローのような「永遠の恋人」を持ちえたが、三益愛子のような「永遠の母親」は創造することができなかったのではないだろうか。その理由を考えることでアメリカ映画の文化的基盤を見出すことができるのではないかと思う。そこから日本映画の「子殺し」の問題、ヨーロッパ映画の冷酷な母親の存在を説明できるように思える。
第2章 アメリカ映画における母親不在
直接、母親の不在を描いた映画がある。例えぱ、チャップリンの『キッド』(21)は母親が捨て子をし、それを拾った貧しいチャップリンが男手一つで苦労して育て上げる。
『チャンプ』(31)という映画は妻を失い、生活が乱れた元ボクシング・チャンピオンを息子が立ち直らせるという映画である。この映画はその後、2度もリメイクされている。
西部劇でも同様で、正統派のJ・フォード監督の『三人の名付け親』(48)では砂漠で偶然出会った女性が、ならず者の三人に名付け親になってくれと遺言して死亡し、その子を彼等が苦労して育てることになる。西部劇の最高の立役であるジョン・ウェインがミルクやおしめの心配をするのである。これもテレビ版を含め、5回もリメイクされている。この翻案をフランスで女性監督が『赤ちゃんに乾杯』(85)として作ったが、直ぐにアメリカで同じ内容の『スリーメン&ベビー』(87)がリメイクされている。
『三人の名付け親』やジョン・フォードの名作『三悪人』(26)を「原作」の一つとしているのが黒澤明監督の連続活劇『隠し砦の三悪人』である。そしてSF大作の『スター・ウォーズ』(77,80,82)は『隠し砦の三悪人』(58)を「原作」の一つにしている。お姫さまの救出劇、敵中を突破する、二人の狂言回し(千秋実と藤原釜足がR2―D2とC―3POになった)など共通点は多い。三船敏郎が活躍するこの『隠し砦の三悪人』と『スター・ウォーズ』が決定的に違うのは後者が教養小説(Bildungsroman)になっていることである。つまり、主人公のルーク・スカイウォーカーの自分探しの物語なのだ。ルークは叔父の農場を手伝いながら、別の星の大学に行こうと漠然と考えていた。ところが、ジェダイの元の指導者ケノービに理想を吹き込まれ、導かれて自己実現していく、まるでユング派の教科書のような作品になっている。したがって、ケノービは「老賢者」という役割を果たしているのだ。レイア姫を助けるのは「通過儀礼」としての試練である。試練を通してルークは自分の可能性を追求していくのだ。
帝国軍のダース・ベーダーがルークの父親と徐々に分かることから知れるように、これは「オイディプス王」の物語、つまり「父親殺し」をテーマをSFにした映画なのである。
この作品は9作予定されていていわゆる『スター・ウォーズ』三部作はepisode IVから始まっている第2部であり、今後、第1部で母親が出てくる可能性もあるが、現在のところ、母親は描かれていない。
『クレーマー・クレーマー』(79)では母親が『人形の家』のノラのように突然、離婚するという。残された父子が生活の原点に戻り、悪戦苦闘する物語である。
『プリティ・イン・ピンク』(86)という映画でも蒸発した母親をいつまでも待っていて仕事をしない父親が描かれている。最後には娘の説得によって父親が立ち直る。
不朽の名作と呼ばれる『エデンの東』(55)は三代に渡るカインとアベルの確執を描いたスタインベックの原作の最後の世代だけを映画化したものであるが、ここで母親は最初、隠されている。それがいかがわしい商売をやっていることに弟が気付き、父の愛を一身に受けている秀才の兄に伝える。立派な母親だと信じきっていた兄は自暴自棄になって父親のもとを去っていく。弟は病床の父親からおまえにいてほしい、という優しい言葉をかけられ、喜びにひたる。父親が自分を愛してくれないという悩みが初めて解消するのである。
続いて、J・ディーンの主演で、彼のために脚本が書かれた『理由なき反抗』(55)も父親の愛を求める映画であった。主人公ジムの父親は母親の言いなりで毅然としたところがなく、息子が問題を起こすと妻のいうまま引っ越しばかりしている。ジムが泥酔して捕まった時も母と祖母がいがみ合い、父親が弁解する。母親の留守にエプロン姿で料理をし、慌てて床にこぽしてはいつくぱるような父親であり、しかも男の名誉に関わるチキン・ランをすべきかビうかジムが尋ねた時も言葉を濁して返答を避ける。後に恋人になるジューディも父親が幼い弟ばかりをかまい、娘のキスも嫌がるので父親不信に陥り、非行に走っている。友人のプレイトウも両親の離婚で父を知らないで黒人のメイドに育てられており、父親から養育費だけが送られてきているのを知り、自暴自棄に走る。事件後はじめてジムの父親は勇気を持って強く生きると息子に誓い、父性の復権でハッピー・エンドとなる。
非常に単純化していえば、日本映画の多くが母親コンプレックス(エレクトラ・コンプレックス)を描いたとすれば、アメリカの映画は全く反対で父親コンプレックス(エディプス・コンプレックス)を描いていると考えられる。『スター・ウォーズ』三部作のように父親をどう乗り越えるかという問題が描かれるのである。
『エデンの東』の日本版である石坂洋次郎原作『陽のあたる坂道』(58、題名が既に『エデンの東』のI・カザン監督の前作『陽のあたる場所』の「あやかり」)で愛を求める対象が父親から母親に代えられているのはこの意味で対照的である。この映画では芸者だった実母を捜しあて、和解することで日本的なハッピーエンドを迎えるのである。
『セールスマンの死』(51)では期待をかけていた息子が自立できないのは自分の浮気の現場を見たからだという罪悪感に悩まされる父親が描かれる。
ロバート・アルドリッジ監督の『攻撃』(56)では無能で空いばりの上官のせいで小隊が全滅してしまうのだが、彼がどうして空いばりするかというと「男になれ!」という父親の影に怯えていたからだ。
古典的な恋愛映画の復活と呼ばれた『ある愛の詩』(70)でも主人公は父の理解が得られず、送金を止められ、生活に苦労する。最後に全てを知った父が謝った時に“Love means never having to say sorry”といって父のもとを去っていく。つまり、これは絶縁の言葉で「すまないなどと言ってすむのが(父親の)愛というものではない」ということだ。
しかし、続編(78)ではオリバーは父と和解し、事業を引き継いでいくことを暗示して終わる。
最近、最もヒットした青春映画『トッブガン』(86)でさえも、同じ海軍でかつて「不始末」を犯した父親を、パイロットとして乗り越えることがテーマの一つとなっている。
日本ならぱ、アパートの立ち退きを命ぜられ、老後に戸惑う母親を描くところであるが、『ハリーとトント』(74)に出てくるのは父親と猫である。
『黄昏』(81)も老夫婦を描いた作品だが、父親と娘との確執と和解が中心的なテーマである。ところが、この翻案ともいえる日本映画『ふるさと』(83)ではおじいさんと孫の心の交流がテーマになっていて、おじいさんの死、故郷との離別というお涙頂戴で終わる。
怪奇映画『エクソシスト』(73)は現代におけるキリストと悪魔との対決を描いている。結局は悪魔ばらいの神父が命をなげうって勝利することになるのだが、この家庭では父親が不在である。この映画は母親不在の例外ではなく、父親が不在であることがアメリカ社会にとってどんなに悪魔の食指を誘うものであるかを描いていると考えられる。
『13日の金曜日』(80)に至ってはジェイソンを狂わしたのは子どもを愚かなキャンプ・リーダーたちに置き去りにした母親である。『ホーム・アローン』(92)も同様だが、アメリカ映画に母親が出てきても、子どもを捨てるだけなのである。
『ET』(82)も母子家庭であるが、ここでは逆に父親の代換物というべき、ETが宇宙からやってきて様々な奇跡を残して去っていく。同じスピルバーグの、同じようにETとの接触を描いた『未知との遭遇』(77)の家庭も母子のみである。
アメリカ映画の多くは強い父親を求める余り、母親は最初からほとんどいつも無視され
た。『理由なき反抗』の若者たちは父性を持たない父親に悩み、反抗に定っているのであり、理由はむしろ、明確に示されている。同工異曲の映画が今でも大量に生産されている。
『スタンド・パイ・ミー』(86)も父性を探し求める映画である。ある夏の日に4人の子供が死体を捜しに行くという内容だが、うち3人の家庭で父性を喪失している。ゴーディの両親は死んでしまった秀才の兄のことぱかり思い、彼に憎しみさえ抱く。クリスの父はアル中。テディの父親は大戦の英雄だが今では精神病にかかっていて英雄視しているのは息子だけで未だに強い幻想を追っている。少年たちだけで野宿をする時に主題歌の「スタンドバイ・ミー」が流れるのだが、そばにいて欲しいと少年達が望むのは本来、歌われている恋人ではなく、たくましい父親なのである。家を離れ、様々な冒険をして自分達の親を客観的に見られるようになって家に戻った時、「町は小さく見え」てきて、自分達が最早、子供ではなく大人になったことを知るのである。
『普通の人々』(80)の父親は弁護士をしているが、気が弱く、おどおどしている。ここでも秀才の兄を溺死させたといって母親は弟を責める。弟は精神分析医にかかり、ようやく他人と協調できない母の性格を理解し、父と本心をぶつけあう。この瞬間に家庭は崩壊し、夫に責められた妻は黙って家出する。最後に残った父子は涙を出して抱き合う。アメリカの『普通の人々』の間で父性が、家庭が失われてきていることを暗示しているような映画である。
『モスキート・コースト』(86)も『スター・ウォーズ』同様「父親殺し」の映画である。ここでは父性を失った父に少年が殺意を抱く。父親(ハリソン・フォード)はアメリカの文明は滅亡するといって未開の土地にユートピアを求め、原住民に「文明」を与えていく。息子は最初たくましい父親が自慢だったが、次第に家庭を破壊していくことに失望し、殺意を覚えるようになっていく。しかし、それは果たされず、父親に手ひどく折濫される。父親が自分の事業を妨げた神父に復讐しようとして逆に殺され、ようやく解放された時、彼にとって「世界は大きく見え」てきて大人になったことを知るのである。
『ロンリー・ブラッド』(86)に出てくるプラッド・シニアはやくざで家庭を捨ジュニアにも銃を向けるような男である。それでも息子は父親の愛を求める。それが父親に復讐を企てなければならないところまで追い詰められていく映画である。
アメリカ映画は、初期の連続活劇『ポーリン』(14等)を初めとし、冒険心に満ちた、恋人のような、人類を罪に陥れたイヴ(エヴァ)のような女性は創造しえたが、慈母のような、無原罪(Immaculata)のマリアのような永遠の女性は創造しえなかったのではないだろうか。例外はフィッツジェラルドの『グレイト・ギャツビー』であり、恋人デイジーは「ひな菊」はキリストやマリアの象徴で「無垢」を意味する。
なお、『ウェストサイド物語』(61)や『サウンド・オブ・ミュージック』(65)のヒロインはマリアであり、名前だけなら存在する。双方ともロバート・ワイズ監督によるアメリカ映画ではあるが、前者はブエルトリコ人を、後者はオーストリア人を描いている(特に後者ではマリアが修道院出身である)。『ウェストサイド物語』のマリアも当然カトリックで恋人が兄を殺したことを知った後、スペイン語で聖母マリアに折るシーンがあるし、何よりも最後の場面でマリアが聖母マリアを象徴する赤い服に青いショールを巻いているのが印象的である。そして、トニーの亡骸を運ぶ部分はキリストの受難と同じで、スターバト・マーテル(Stabat Mater「母はたたずみたまいぬ」)という主題をよく表したものである。
ムリーリョ「無原罪の御宿り」(プラド美術館)
第3章 ヨーロッバ映画にみるマリア
アメリカ映画の『マリアの恋人』(85)は幼な馴染みのマリアと結婚するのだが(他の女性は抱けても)あまりにも愛しすぎてマリアを抱くことができない男とマリアの苦悩を描いた作品である。男はこのため、マリアのもとを去っていく。マリアは行きずりの歌手と一夜だけを共にし、まさに「処女懐胎」を果たす。偶然にその歌手から事情を聞いた男は歌手をなぐりたおし、マリアのもとに帰っていき、子供と一緒に平和に生活を送るという内容であり、これは現代に聖母マリアの奇蹟を蘇らせた映画である。この監督はソ連映画界出身のミハルコフ・コンチャロフスキーである。
同じく処女懐胎を前衛的に描いたJ‐L.ゴダールの『ゴダールのマリア』(84)が製作・上映されたとき、社会的に非難が続いた。これは当然ともいえることでカトリックの強いフランスでのタブーを敢えて映像作家ゴダールは犯したのである。
同様の映画に『アグネス―神の子羊』(85)がある。これは「処女懐胎」し、その子を殺した修道尼を描いている。皮肉にも修道院の誰もが「処女懐胎」を信じない。最後に、アグネスがあの子は神の子であり、従って神に返したと告白し、彼女の両手、両足から血が流れ、あたかも処刑されたキリストのような姿になって映画は終わる。
ヨーロッパ映画の中に典型的なマリア像を探すとすれば、それはF・フェリーニ監督による『道』(54)のジェルソミーナであろう。「キ印」(Il Matto)は天使というよりキリストである。「キ印」はジェルソミーナに魂を与え、人間らしく生きることを教える。ジェルソミーナは自分を「買った」ザンパーノに対し、いつでも暖かい目でみつめ、許す。しかし、どうしても許せなくなったのは彼が「キ印」を殺したときであり、その時、わが子を失ったマリアのように(つまり、ピエタのように)嘆き悲しむ。「神」を殺したザンパーノには孤独しか残っていない。しかし、最後には彼の罪を許すかのように慈悲の象徴である海の音が聞こえて来る。フェリーニはもともと宗教色の強い監督であり、『甘い生活』(59)にはキリスト教会に対する批判がこめられている。
ジェルソミーナを他の映画に求めるとすると、男に何度もだまされる娼婦を描いた『カビリアの夜』(57)があげられる。カビリアは男を甘えさせる愛の神なのであり、最後には男達をみんな許して生きていこうと決心する。この映画は後にアメリカでボブ・フォッシーによってミュージカル化(映画化も)されたが、その題名はまさに『スウィート・チャリティ』(68)であった。
同じイタリア映画で『鉄道員』(56)も鉄道員である父親を描くと同時に、母親像を描いた映画である。これは日本で公開された時すでに指摘されたことであるが、日本人だからこそ母親の描かれ方に目が注がれたともいえる。例えば、岩崎は、「ある角度から見ればこの映画の中心人物は『母』でもあるのだが、この母親も日本の女の立場とそっくり、酒のみの夫につかえ、子供をそだて、なりふりかまわず(デラ・ノーチエはそれでもとても色気があり、魅力的であるが)貧乏世帯のやりくりをやる」(『キネマ旬報』1959年2月上旬号一一『ヨーロッパ映画200』(キネマ旬報 1984)からの引用)と書いている。映画の中で母親が見せる「腹芸」はまさに日本的な、母性愛に満ちたものである。
ヴィスコンティ監督の『家族の肖像』(74)は家族を持たないくせにconversation pieceと呼ばれる18世紀の肖像画に熱中する老教授が、いきなり侵入してきた若者たちと疑似家族を形成する物語である。この教授の回想に亡くなった母が何度も出てきて、いかに母親を愛していたか示されている。
エディブス・コンプレックスを直接描いた映画もある。『アポロンの地獄』(67)は忠実にエディプス伝説を映像化している。最後にエディプスが自分の目を射抜いたところで現代になり、今もこのコンプレックスが生きていると暗示しているようにみえる。
母親コンプレックスが直接行動に出たフランス映画にルイ・マルの『好奇心』(70)がある。ここに出てくる少年は父親がビうしても好きになれない。母親に対しては深い愛情を持ち、ついに母親の許しでインセスト・タブーを犯してしまう。大変ショッキングなテーマを扱ったためにフランスでは禁止され、大きな社会問題となった。日本でも同じタプーをより深刻に扱った『魔の刻』(85)が製作されたが、問題視されることはなかった。
イタリアでマリア的なものを探すと、「ピノキオ」の「青い髪の仙女さま」で、ずいぶん厳しいけれど、結局は子どもの側にいてくれる、永遠の母親になっている。
イギリス出身のヒッチコックの作品で出てくる母親像はどこか歪んでいるようにみえる。その最たるたるものは『サイコ』(60)における母子関係である。主人公は母親が自分を捨て、夫の死後にできた愛人を嫉妬から殺して無理心中しているのに、その母親をミイラ化して地下室に隠し、自らは女装して殺人を犯す。逮捕された時には母親と自分との区別がつかない状態になっている。“A boy's best friend is his mother.”(少年の親友は母親だ)は怖すぎるセリフとしてアメリカ人の心に残っている。
その他にも例えば、『鳥』(64)のプレナー夫人は息子の恋人を排除しつづけるし、『マーニー』(64)の母親は娘の小さな頃の犯罪によって娘の心を歪めてしまう。勿論、子供に対する愛悔のパランスがとれた母親として『断崖』(41)のマッキンロウ夫人、『泥棒成金』(55)のスティーブンス夫人、『知りすぎていた男』(56)のジョー、『間違えられた男』(57)のバレステレロ夫人などがいる。これに対して大いに子供を愛する母親として『汚名』(46)の暴君的なセパスチャン夫人、『見知らぬ乗客』(51)で病的なかわいがりかたをするアンソニー夫人がいるし、『北北西に進路をとれ』(59)ではソーンヒル夫人がいっこうに息子を大人扱いしない。親ではないが『裏窓』(54)の看護婦ステラもジェフの生活の非常に細かい処まで口を出す。つまり、残酷な母親と、優しくて世話をやきすぎる母親がヒッチコック映画の中で混在している(cf.筈見有弘編『ヒッチコックを読む』フィルムアート社 1980)。
ヒッチコックは厳格なローマ・カトリックであった父の影響でカトリックの伝統校を終え、映画界に入った。彼の渡米後の映画にはアメリカ映画としては奇妙な位、母親が出てくる(しかも多くは歪んだ形で)。妻との関係も母子関係に近かったといわれ、イギリスでの経験とアメリカ社会で生活の違いがこうした映画を生み出したと考えられる。
さて、ヨーロッパではマリアのように慈悲深く、優しい母親が出てくる映画に、逆にマリアとは似ても似つかぬ母親が出てくる映画がある。母親に対する愛情と敬遠の両方を兼ね傭えた感情を描いている。まさに母親に対するコンプレックス【わだかまり】を現わしている。この母親像はヨーロッパの文化そのものから出てきているのであり、その背景の一つとしてカトリックにおけるマリア信仰が考えられる。ヨーロッパのマリア信仰はもともと地母神信仰とキリスト教が結びついて形成されたものである。宗教の世俗化と共にヴィーナスとマリアが一体となってきた。
現在あるキリスト教の行事の多くがマリア信仰に対するものであり、依然として信仰心はあつい。つまり、マリア的な愛がプドフキンの 『母』(26)、『道』などに、それが得られない場合の失望が『にんじん』などの映画となって現われてきているのである。
プロテスタントはマリア信仰を否定したが、プロテスタントが作った国、アメリカでマリアは存在せず、原罪を背負ったイヴだけが描かれる。『イージー・ライダー』(69)のドラッグのシーンで教会やマリアなどが描かれているのが例外的といえる。
第4章 「母もの」と『日本の悲劇』
日本には「母もの」と呼ばれる映画群がある。狭義には大映東京(三益愛子主演が31本、大映だけで32本)で48年から58年にかけて製作された映画を指す。どれも無知な母が人情から我が子を手放し、令嬢となった娘に再会しながらも我身を恥じ、身を引こうとするが、(悲劇で終わる『ステラ・ダラス』と違い)娘が気付き、抱き合って涙にくれるというパタンであった。これ以外にも母親を主人公とし、母子の別離を切々と描いた日本映画は枚挙に暇がない。
また、日本映画には子供が亡くなる映画が多い。余りにも安易すぎるとして岩崎昶は『現代映画芸術』(1971岩波新書)の中で次のように批判している。
「新藤兼人の傑作『裸の島』でも、私は子供を殺したのが気になった。不自由な孤島の生活で子供が病気になるのは当然予想される。が、手遅れになってしまう、というのは、両親が小さな棺をかついで畑道をのぽり、島の頂きで火葬に付し、立ちのぽる煙を海上はるかに大ロングで見せようという演出上の効果のためということがほの見えて、これはあの名作の中の唯一のウソという気がしてならないのであった」。
それでも、殺さなければならないのは日本人が一番泣くものが子供との別離、特に子供との死別だからである。そして、他人の不幸に涙を注ぐことが最大のカタルシスであった。
木下恵介にはドライサー『アメリカの悲劇』をおそらく意識してつけられた『日本の悲劇』(53)という映画がある。『アメリカの悲劇』は後に映画化され、『陽のあたる場所』(51)となったが、映画のテーマは恋人を殺したのはsinかcrimeかということであった。妊娠した恋人がいるにも拘わらず、良家の娘と婚約し、元の恋人を殺そうと湖にポートで誘い出す。殺そうかどうかしようかと悩んでいるうちにボートがひっくり返り、恋人は死んでしまう。結局、主人公は恋人に対し助けなければ水死し、自分に都合がよくなると思ったという意味でsinを犯したのであり、それによって処罰を受ける。sinを犯すことがアメリカの悲劇なのである。
これに対し、『日本の悲劇』は子供を育てるために女中として働いた母が仕方なくやった、いかがわしい行為のせいで後に二人の子供に背かれ、絶望のあまり自殺をしてしまう映画である。子供に裏切られる事が日本の悲劇なのである。
母親ぱかり強調され、父親は日本映画には描かれない。「日本映画では、あれほど家父長的家族制度がうんぬんされていながら、実は、典型的家父長というものは、すでに古き時代のノスタルジアとしてしか登場していない」(佐藤忠男『日本映画思想史』三一書房 1970)。
佐藤の『二枚目の研究』(筑摩書房 1984)によれば、日本の映画で「二枚目」は恋愛するが、父性を体現している「立役」は恋愛をしない。したがって、家庭を持つことはないし、子供に父性を振りまくこともない。
なお、日本的感性を描いたとされる小津安二郎には『晩春』(49)をはじめ、父親を描いた秀作があるが、小津はむしろ、ハリウッドの影響が強い監督である。例えば、『出来ごころ』(33)は『チャンプ』Champ、『浮草物語』(34)は『煩悩』(28)、『戸田家の兄妹』(41)は『オーヴァー・ゼ・ヒル』Over the Hillの「いただき」である。そして、小津安二郎の最高傑作とされる『東京物語』のオリジナル(正確にいえば、小津は戦争中で見ておらず、野田高悟の脚本に影響が残っているとされる)はレオ・マッケリーの『明日は来らず』Make Way for Tomorrowでこれはアメリカ映画に珍しい、夫婦愛を描いた、しみじみとした映画である。
同じく日本を描いた黒澤明の作品群はどれも父性で満ちている。女性映画の『一番美しく』とか『わが青春に悔いなし』なども日本人の感覚からすると男性的な女性が描かれていると考えられる。黒澤は基本的にジョン・フォードをはじめとするアメリカ映画の影響が大であり、西部劇を日本にそのままもたらしたような感じを与える。そして、黒澤映画はアメリカを中心に外国で高い評価を受けたが、日本では(外国に比べて)正当な評価を受けたとは思えない。
今井正監督の『どっこい生きている』(51)はイタリア・ネオレアリズモの影響下に作られた映画であり、特にデ・シーカ監督の『自転車泥棒』(48)を下致きにして製作された。内容は主人公が失業し、最後に立ち直るまでを描いたものである。後半で自殺しようとしているうちに子供がいなくなり、水死しそうになり慌てて助け、それが心中を思い止どまらせることになるというシーンがある。これは『自転車泥棒』の引用で、こちらは子供が溺れているというニュースを聞き、主人公の父親が我が子ではないかと慌てて現場に駆け付ける。結局は人違いでほっとするのだが、日本とイタリアの映画の間ではこれ程似た状況を設定しても無理がなく、ネオレアリズモが戦後日本にすんなり受容された理由もここにあるといえよう。
日本映画と、なぜか名作『自転車泥棒』に代表させるようにイタリア映画では、子どもの前で父親が自分の弱さをさらしても、それがむしろ、親子の絆をいっそう深めるとになるというストーリーが多いのだが、アメリカ映画はそうでない。父親は息子に対して、男らしさということの棋範を示さなければならないというのが、ふつう、アメリカ映画に一貫してある考え方である(佐藤忠男『映像の視寛』現代書館 1983)。
第5章 映画の文化的基鍵
ある国の映画技法や、物語の内容や、映画作品の展開のプロセスは、その国の実際の心理的パターンとの関連においてしか、貫善意は理解できないものである。-----S・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
映画の背後には文学があるが、より大衆的な映画の方にそれぞれの文化がより頭著に出てくる。アメリカ映画における母親の不在は日本映画における父親の不在、更にはリカちやん人形一家における父親の不在とも対応する(蛇足ながら、89年はじめて父親の人形が作られた。cf.増淵宗一『リカちやんの少女フシギ学』1987新潮社)ものである。
これらの違いは一つには宗教的基盤に求めることができるであろう。フランスやイタリアはカトリックであり、これは「マリア信仰」ともいえるような母性愛中心の宗教である。
プロテスタントはその改革の一つとしてマリア信仰打破を掲げていたが、アメリカはまさにピューリタンが作った国であり、父性愛中心の文化である。プロテスタンティズムとアメリカ映画の精神には深い関連がある。そして、父親を強調する余り、母親は無視され、まして母親の偉大さを強調する映画はほとんど見当たらない。
これに対し、日本はキリスト教という文化の大黒柱を持ってこなかったことなどを含めて様々な要因で、やはり母性愛中心の国である。神道、仏教、や土着信仰、キリスト教が適当に混じりあっている。何事につけても「和」が重んじられる。
土居健郎『甘えの構造』で取り上げられた「甘え」(to seek to be babiedと翻訳された)が見られる(カトリックにも「甘え」はある)。そのせいで同じ家庭内暴力といっても日本では子供が母親に対して暴力を働くものであるのに対して、アメリカでは父性を喪失した父親が子供たちに働くものが多い。日本映画では、従って、母子の別離を描くことが最大の悲劇となる。
ヨーロッパ映画の母親は善良な母親しか出てこない日本と違い、motherが「生命を育む慈愛の母にたいして、子をむさぽり食う貪欲な母という両義性の典型」(赤祖父哲二編『英語イメージ辞典』1986三省堂)として現われる。子供はこうした葛藤の中に描かれている。
アメリカ映画に母親が描かれて来なかったとはいえ、最近、アメリカ映画の中で母親が描かれはじめた。まず、M・スコセッシ監督の『アリスの恋』(74)があげられる。夫を自動車事故でなくした勝ち気な女が男の子を連れて生きていく話である。ただし、スコセッシは日本映画、特に成瀬巳喜男の影響下にある例外的な存在といえる。
これとは別に、例えば、『愛と喝采の日々』(77、Turning Point)がある。仕事と結婚に別れた二人の女性の人生の「転機」を描いたものである。同じS・マックレーン主演の映画に『愛と追憶の日々』(83、Terms of Endearment、題名に「あやかり」)がある。これは(ハリウッドが素直に母親を描けなかったように)「愛情言葉」を素直に持てなかった母娘の間を描いている。夫の死後、一人で娘を育てた母親は娘が自分の気にそまない男を結婚するのに怒り狂い、結婚式にも出ようとしない。それでいて初夜のペッドに電話をかけたりする。
この他にも「ママ 僕に父親は必要なかった」と叫ぶ『ガープの世界』(82)、『続・激突』(73)、『ソフィーの選択』(82)、『ブレース・イン・ザハート』(86)『赤ちやんはトッブレディがお好き』(88)など、ようやく母親が描かれ始めている。
この傾向はアメリカ社会の50年代に始まる父権喪失を補完していると考えられ、ここでは逆に父親が不在である。両親が揃った映画が作られる日は一体いつであろうか。
1989年6月 「アメリカ映画における母親の不在」 『英語英文学新潮』1990年版(NCI)
※書いたのは87年で、最近の映画はフェミニズムの影響もあり、様変わりしていてすでに古い。
モリー・ハスケルの『崇拝からレイプへ』(平凡社)が1974年に出ていて、日本では1992年に翻訳が出た。これによると、アメリカでも母もののドラマが1930年代のアメリカで一世風靡したという。
E・アン・カプラン『フェミニスト映画/性幻想と映像表現』(田畑書店)によれば、90年代になって母ものがリメイクされたのはワーキング・マザーを問題視する描写、子育てする父親の古代某社、生殖技術の進歩に伴う問題などを例に挙げて、母性観が大きく変わったという。
これらの【70年代後半からの】映画の内容を提供したのは、映画をとりまく社会的・経済的・文化的な要因である。すなわち、女性の教育や雇用問題に生じた顕著な変化、女性解放運動や避妊の方法の普及がもたらした性関係・性意識の変化、そして結婚と離婚のあり方の変化、などである。【…】これがの映画は、女性の新しいあり方を受けいれる用意のまだできていない父権社会で、新しい役割を果たしはじめた女性たちが直面する問題、彼女たちの矛盾にみちた欲求をとりあげ、描こうとしている。
執筆当時、江藤淳『成熟と喪失---“母”の崩壊』の視点もまだ入っていなかった。この本の冒頭で江藤はエリクソンの『幼児期と社会』を下敷きとして、母への甘えを拒まれ、傷心を抱えて、ひとり荒れ野を行くカウボーイの孤独なありようにアメリカ人の心性が集約されていると説いた後、これと対極的な母子密着文化を育んできた日本社会が、戦後のアメリカ文化の圧倒的な流入につれて、急速に、それまでの伝統文化を喪失し、解体されていくなりゆきを綿密に描いている。その意味で江藤は『甘えの構造』の土居ときわめて近い立場にある。
その後の日本では宮崎駿のアニメの多くが母親不在であるが、主人公に母性が強かったり、両性的であったりと単純には割り切れない。
新しい映画については長坂寿久『映画で読む21世紀』(明石書店)に「五〇代のベビーブーマー 『新しい父親』像の模索」という章があり、『海辺の家』『チョコレート』『イン・ザ・ベッドルーム』が取り上げられている。また、『シッピング・ニュース』『アイ・アム・サム』『ロード・トゥ・パーディション』、フランス映画『父』、ロシア映画『パパって何?』、イギリス映画『アバウト・ ア・ボーイ』などの名前も挙げられている。
*David Desser, Eros plus Massacre: An Introduction to the Japanese New Wave Cinema, Bloomington, Indiana University Press, 1988 pp.109-120に引用
アメリカ映画には父と子のキャッチボールがよく出てくる。『トイ・ストーリー』にもパロディ的に出てきた。色川武大の『生家へ』の中で次のような文章を見つけた。
要するに、父親が登場する場面では、ボールを投げると塀にぶつかってこちらにはねかえってくるのである。だから恰好がつきやすい。その他の部分では、ボールを投げても、塀が無いので、はねかえってこない。
西欧の作者とちがって、大きな軸のない私たちには、自分がぶつかる塀を持たない。要するに相手役が居ない。だから、概念的に信ずる物を持たなければ、感性の発散だけになる。そして、次のように言う。
この国の作家は、古来から、多くは感性地獄におちいっている。言葉を空に投げているだけで、キャッチボールができにくいのである。
内田樹はブログでアメリカに母親が不在なのではなく、憎悪されているのだと書いていた。
『13金』の説話的本質とは何か?
これについては『街場のアメリカ論』で詳しく論じたし、『チャーリーとチョコレート工場』の映画評にもすこしだけ書いたので、興味のある方はそちらをお読みください。
予告編的にひとことで申し上げるなら、それは「息子の母親に対する憎悪」である。
アメリカ映画には「女性嫌悪」misogynyが伏流していることはつとにフェミニスト批評家によって指摘されていることであるが、「息子の母親に対する憎悪」がその女性嫌悪の核にあることは指摘する人が少ない。
でも、ほんとうはそうなのである。
アメリカ男性は「母親が大嫌い」なのである。
しかし、おのれの欲望充足を求めて息子を遺棄した母親に対する息子の憎悪は、「母性愛」幻想に抑止されて、直接母親にむかうことができない。
抑圧された憎悪は母親以外の人々に対して無差別に放出されることになる。
『13金』のジェイソン、『サイコ』のノーマン・ベイツ、『ホームアローン』のケヴィン坊や、『チャイルドプレイ』のチャッキー人形、そして『チャーリーとチョコレート工場』のウィリー・ウォンカ。
彼らを駆動しているのは「そこにいない母親」への殺意なのである。
男性が女性を嫌悪しているということをあれほど露悪的に批判したアメリカのフェミニストたちが、その原因として「子供を遺棄した母親に対する怨恨」の可能性だけを選択的に吟味し忘れたのは興味深いことと言わねばならない。
「子供を愛せない」と平然とカミングアウトし、母性愛幻想を完膚なきまでに破壊したあの恐れを知らぬフェミニストたちが、その当然の帰結として、「母親なんか大嫌いだ」という子供たちが組織的に出現することを予期しなかったのはなぜか。
おそらく「母親がどれほど子供を遺棄しても、子供は母親を慕うことを止めない」という信憑がひろくゆきわたっていたせいであろう。
たしかに「母親がどれほど子供を遺棄しても、子供は母親を慕うことを止めない」(「おっかさん、忠太郎でござんす」)。けれども遺棄されたことへの怨恨と憎悪のエネルギーは消えない。
その暴発というかたちで「シリアル・キラー」というものが出現すると私は解釈しているのである(同意してくれる人があまりおられないが)。
遺棄された息子がシリアル・キラーになるとして、では、遺棄された娘の方はどうなるのか。
もちろん母親に遺棄された娘は長じて子供を遺棄することで母への「仕返し」を完遂するのである。
こうしてアメリカ社会では男性は「シリアル・キラー」と女性は「シリアル・キラーのママ」に二分化することになるわけである。
もちろん良識ある人々は「そのような趨勢に無抵抗に流されてゆくのはいかがなものか」と心を痛めておられる。
そこでもう一度愛し合う親子関係を回復しようじゃないかということで、良風美俗の道徳再建運動の一環として『13金』のような「母たちの反省を促す映画」が組織的に制作されているのである。
事実、『13金』は「母親」がきわめて徴候的な役割をすることを特徴とするシリーズであるが、『V』も定法通り、そこで機能するのは「抑圧的で暴力的な、過剰に存在する母」と「子供を遺棄する、存在しない母」だけなのである。ミソジニーはギリシャ語で、ギリシャ神話時代からあったことが知られる。
プロメテウスの火の窃盗によって人間が手に入れた文化の力の反面で、その代償として人間の男たちは自分たちのもっとも身近に、文化の埒に決して嵌まりきらず、その軌範に完全には馴服することの決してない女を、その腹から子孫を得て各人の家を存続させるために、絶対に不可欠な伴侶として持つことになった。男の立場にのみ極端に偏ったものであった古代ギリシア文化の根底には、このような徹底した「女嫌い(ミソギュニア)」の想念が根深く蟠踞していた。(吉田敦彦『ギリシア人の性と幻想』青土社)
内田樹は『チャーリーとチョコレート工場』については次のように書いている。
しかし、本作で私の映画史的な興味を強く惹きつけたのはそういうことではありません。私をわくわくさせたのは、この映画がアメリカ社会に伏流するある隠された心性をストレートに表現していたという点です。
それは「母親に対する子供の抑圧された悪意」です。
「まさか・・・」と思うかも知れませんが、これは本当の話。『ちびっこギャング』から『ホーム・アローン』に至るまで、アメリカ映画は「母親に棄てられた子供たち」がそのやり場のない憎悪と怨恨を暴力的に発動するという話型に充ち満ちています。代表作は『十三日の金曜日』シリーズ。あのジェイソン君はキャンプ場の怠惰なキャンプ・リーダーたちの犠牲者ではなく、実はそのような管理能力ゼロのバカ高校生に息子を委ねた母親の「未必の遺棄」の犠牲者なんです。彼が怨みをはらすべき母親は第一作でタフな女子高生に首を斬られて死んじゃいましたので、以後の9作品で彼の殺意はその本来の標的を失ってひたすら拡散し続けます。『チャイルド・プレイ』もそうですね。シリアル・キラーの邪悪な魂が乗り移ったかわいいチャッキー人形が形相を一変させて家の中で「母親」を包丁で追い回す場面、日本人にはちょっと理解しにくい状況設定ですけれど、あれは「子供の中に潜在する親への殺意」に対する親の側の恐怖が映像化されたものなんです。
『サイコ』から『エクソシスト』まで、母親の「遺棄」に対してアメリカの子供たちは決して直接に異議を申し立てることをしません(母親批判はアメリカ社会で許されないことの一つです)。ですから、その抑圧された憎しみは悪魔的な存在を迂回して、ゆきずりの人に向けて暴発することになります。
本作で、父親に棄てられた子供であるウィリー・ウォンカはその遺棄された怨みを父親にではなく、「子どもたち」に向けて行使します。でも彼がほんとうに憎んでいるのは、最後に和解する父親ではなく、この物語に一度も出てこない母親の方なんです。彼女は「その存在についてひとことも言及されない」という欠性的な仕方でウィリーの報復を受け取っているのです。そう、ウィリーはジェイソンだったんですよ!ティム・バートン恐るべし。また、村上春樹が世界文学になりえていることについて、次のようにブログで書いている(『村上春樹にご用心』アルテス所収)。長いが僕の論文よりは面白いので再録しておく。
村上文学には「父」が登場しない。
だから村上文学は世界的になった。
以上、説明終わり。
これでは何のことか分かりませんね。
そこで補助線を一本引く。
こんな命題である。
「存在するものは存在することによってすでに特殊であり、存在しないものだけが普遍的たりうる」
これでだいぶ見通しがよくなった。
分析的な意味での「父」は世界中のあらゆる社会集団に存在する。
「父」とは「聖なる天蓋」のことである。
その社会の秩序の保証人であり、その社会の成員たち個々の自由を制限する「自己実現の妨害者」であり、世界の構造と人々の宿命を熟知しており、世界を享受している存在。
それが「父」である。
「父」はさまざまな様態を取る。
「神」と呼ばれることもあるし、「預言者」と呼ばれることもあるし、「王」と呼ばれることもあるし、「資本主義経済体制」とか「父権制」とか「革命的前衛党」と呼ばれることもある。
世界中の社会集団はそれぞれ固有の「父」を有している。
「父」はそれらの集団内部にいる人間にとって「大気圧」のようなもの、「その家に固有の臭気」のようなものである。
それは成員には主題的には感知されないけれども、「違う家」の人間にははっきり有徴的な臭気として感知される。
「父」は世界のどこにもおり、どこでも同じ機能を果たしているが、それぞれの場所ごとに「違う形」を取り、「違う臭気」を発している。
ドメスティックな文学の本道は「父」との確執を描くことである。
キリスト教文学では「神」との、イスラム文学では「預言者」との、第三世界文学では「宗主国の文明」との、マルクス主義文学では「支配階級」との、フェミニズム文学では「父権的セクシズム」との、自然主義文学では「家父長制度」とのそれぞれ確執が優先的な文学的主題となる。
いずれも「父との確執」という普遍的な主題を扱うが、そこで「父」に擬されているものはローカルな民族誌的表象にすぎない。
作家のひとりひとりは自分が確執している当の「父」こそが万人にとっての「父」であると思っているが、残念ながら、それは事実ではない。
彼の「父」は彼のローカルな世界だけでの「父」であり、別のローカルな世界では「父」としては記号的に認知されていない。
だから、彼が「ローカルな父」との葛藤をどれほど技巧を凝らして記述しても、それだけでは文学的世界性は獲得できないのである。
私たちは「自分が知っているもの」の客観性を過大評価する。
「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは私たちが陥りやすい推論上のピットフォールである。
しばしば話は逆なのだ。
「私たちが知らないことは他者も知らない」ということの方が多いのである。
私たちが興味をもって見つめるものは社会集団が変わるごとに変わるが、私たちが「それから必死で目をそらそうとしていること」は人間の本質にかかわることが多い。
「生きることは身体に悪い」とか、「欲しいものは与えることによってしか手に入らない」とか「私と世界が対立するときは、世界の方に理がある」とか「私たちが自己実現できないのは、『何か強大で邪悪なもの』が妨害しているからではなく、単に私たちが無力で無能だからである」とかいうことを私たちは知りたくないので、必死で目をそらそうとする。
でも、そのことを知りたくないので必死で目をそらすということは、自分が何を知りたくないのかを知っているからできることである。
知っているけれど、知っていることを知りたくないのである。
だから、人間が「何か」をうまく表象できない場合、その不能のあり方にはしばしば普遍性がある。
人間たちは実に多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく「知らない」こと、「できないこと」において深く結ばれているのである。
人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。
けれども、人間は決して現実の世界で「父」には出会えない。
「父」は私たちの無能の様態を決定している原理のことなのだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。
私たちが現実に出会えるのは「無能な神」「傷ついた預言者」「首を斬られた王」「機能しない『神の見えざる手』」「弱い父」「反動的な革命党派」といった「父のパロディ」だけである。
「父抜き」では「私」がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、どこに向かっているかを鳥瞰的、一望俯瞰的な視座から「マップ」することが出来ない。【…】2006年に出た東大の政治学者の藤原帰一『映画のなかのアメリカ』(朝日新聞社)には「魔法の王国」という章があり、「ディズニー化された世界」について、次のように書いている。つまり、母親がいないと泣けるということになっている。
まず、人間関係。『ダンボ』を典型として、親の不在はディズニー作品の基本モチーフであり、親がいる場合も片親、特に母親がいないことが多い。観客が子どもなら感情移入を誘いやすい設定だ。
石原千秋『国語教科書の思想』(ちくま新書)は国語教科書は道徳の教科書でその一つに「自然に帰れ」という道徳を教えているという。そして、国語教材に父がいないことを指摘している。この「父の不在」は「<母=自然/父=文明>というあの図式」と結びついており、「『動物化』と抗う社会の秩序を『父』に代表させるような、古い家族主義的イデオロギー」だと述べている。
2007年7月7日の「天声人語」に次のように書いてあった。
開発者の小島康宏さん(66)にお会いした。かつてのタカラはビニール用品専門で、業界の空気は「膨らませ屋が何を」だったという。社長は「3年は売る」と意気込み、3年後には「あと10年」に。小島さんは腹を据え、長女の名前を里香とつけた。
少女漫画の悲話をまね、リカの父は行方不明という設定。子供が遊ぶ時は、これが地域により「出漁中」や「東京へ出稼ぎ」になった。後に、父親はフランス人の音楽家と「発表」された。その種のあこがれは、双子の妹や白い家具など、膨大な商品群を生んだ。