金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

学生のための知的生産の技術

 

……だから気をつけろよ、身をまもるには用心が第一だ、
青春はほうっておいてもおのれにそむくのが大好きだ。
     -----シェイクスピア『ハムレット』第1幕第3場

「生きるだって? そんなことは下僕どもがやってくれるさ」
     -----リラダン戯曲『アクセル』

L'essentiel est invisible pour les yeux.(大切なものは眼に見えないものだ)-----『星の王子さま』

 自分の感受性くらい  茨木のり子 『自分の感受性くらい』

ぱさぱさに乾いていく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

【…】

駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

人間なんて、十六から二十三までの年がなきゃいいんだ。-----シェイクスピア『冬物語』第3幕第3場

 あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。
     村上春樹『風の歌を聴け!』のジェイの言葉

●はじめに

 高校から大学というのは実に多感な時期で、学校がどこであれ、この時期に何を学び取るかが人生を決める。赤川次郎(『三毛猫ホームズの青春ノート』岩波ブックレット、後に『本は楽しい』岩波書店所収)は次のように書いている。

 一七、八歳から二二、三までの五、六年で、人の視野は決ります。どこまで世の中が見えるか、それを決めるのは学生時代なのです。

 金原瑞人は『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』(牧野出版)の中で次のように書いている。

 中学・高校・大学でどんな本を読むか、どんな映画を見るか、どんな芝居を観るか、どんな音楽を聴くか、どんなゲームをするか、どんな食べ物を食べるか……そういったことによって、その人の未来はずいぶん変わってくるだろうと思う。そういう年代の人たちに、さりげなく、しかし的確にいい情報を投げていければいいなと考えている。

 武者小路実篤の「一個の人間」の一節に「自分は一個の人間でありたい。/誰にも利用されない/誰にも頭をさげない/一個の人間でありたい。」というのがある。他人に世話にならなければ誰も生きられないから頭をさげない訳にはいかないが、自立した個人としてきちんと生きることは大切だ。人生の目的の一つは自己実現だといえる。自己実現というのは他人の迷惑を顧みず、好き勝手をすることではない。次の三つの条件が必要だと思う。

1)自分の好きなことをする
2)好きなことで健康で文化的な生活を送ることができる
3)これが他人の役に立ち、他人からも評価される

 このエッセーで考えたいことは、自己実現のためにどのように高校時代を生きたらいいかということだ。そして、自己実現のためには知的生産が必要だ。ここでは知的生産のモラルを述べるのではなく、技術を語りたい。ただ、自分が知的かどうかと言われると心許ない。でも、現在の君たちよりは知的だと思っている。

 「頭は帽子のためじゃない」ことを知ってもらいたいのだが、逆転して考える人が世の中には多い。人がピアノのためにいるのではなく、ピアノは人のためにあるのだ。学校も君たちのためにあるのであって、学校のために君たちがいるのではない。

 いつだって、自分の立ち位置を確認してほしい。「幽体分離」といってもいい。N響にいた鶴我裕子『バイオリニストに花束を』(中央公論新社)にはこんな話が出ている。

 美人フルーティストの山形由美さんは、あるリサイタルの間中ずっと、ステージの上空から自分を見ていたそうだ。その時の演奏は、何の苦労もなしに思い通りにできた、という。私が求めるのも、その境地なのだ。山口百恵サンも、ソファに座っている自分を、天井のあたりからずっと眺めていた事があるという。彼女たちは、何か真の落ち着きを身につけているように見える。【体外離脱して】「出た」からそうなったのか、そうだから「出た」のか知らないが。

 これを「メタ認識」というが、本当はとても難しいことだ。指標を1つにしないで、3つも4つも持っていたら、三角測量のように自分の位置が確認できるはずである。

 いかに天分は豊かでも、それを効果的に使うためには、技術と言うものを身につけなければならない。

 私自身の経験によれば、それを達成する上で一番大事なことは、なんといっても自分自身の位置づくり、すなわちオリエンテーションということである。つまり、舞台上の一瞬ごとに、自分は今どこにいるか、何をしているか、を知るべきである。まず舞台へ出ればすぐに、どこで止まるべきか、どこで向きを変えるべきか、また、どこに立って、いつ、どこに座るべきか、さらにほかの登場人物に対し、直接話しかけるべきか、それとも間接に話すべきか、そういったことをすべて、はっきり自信を持って知っていなければならない。そうしたオリエンテーションこそが権威を与えるものであり、プロとアマとの違いも実にここにある。わたしは自分の映画を監督するときに、いつも出演者たちに説いたのは、このオリエンテーション理論だった。
     -----『チャップリン自伝 下』(新潮文庫)

 愚かな人になってほしくない。「愚かさは悪よりもはるかに危険な善の敵である」(ボンヘッファー)とか、「精神的能力においては第二級の人物が支配的地位を占め、凡庸なことを重々しくしゃべっている」(ライト・ミルズ)という言葉があるように、凡庸な人がとんでもないことをしてしまうことがある。知的に反対していても、反知性主義で物事を進められることがある。理不尽だ。しかし、そうした不条理に耐えていかなければならない。ただ涙を流すのではなく、知性で涙を抑えよう。抑えきれなくてもいい。感性だけで行動せず、知性を働かせようということなのだ。

 若い頃の経験は大切だが、限られるし、一度の経験からの誤解も多い。漱石は小説『三四郎』の中で、五高を卒業して東大に入るために上京する三四郎に、人間として目の覚めるようなことばを投げかけている。三四郎が「是から日本も段々発展するでせう」というと、中年の男は「亡びるね」といってにやにや笑っている。「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる」と思うが、男はさらに「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より…」「日本より頭の中の方が広いでせう」「囚(とら)はれちゃ駄目だ」と言ってのける。

 教養ある人になってほしいが、教養は雑学ではないし、ウンチク(「蘊蓄」ですが、僕は書けません)でもない。ノーベル物理学賞の朝永振一郎も「つまらない知識の間食」で満たされ、本当に必要な「知的な飢え」を感じない状況を憂えていたが、つまり、雑学みたいなものでお腹を本当に満たすことはできないのだ。

 村上春樹は『ひとつ、村上さんでやってみようか』(朝日新聞社)の中で、自分の作品について書かれた本のことは気にするな、といい、「たとえばあなたがおいしいコロッケを食べて、おいしいなあと思ったら、そのコロッケのおいしさについて誰かにいちいち説明してもらう必要はありませんよね?」と書いている。

 学生にパソコンを買いたいのだが、どれがいいかなどとよく相談された。何に使いたいかによって決まるからといって、目的を聞いても返事がないのがほとんどである。買った学生の話を聞いてみるとゲームに使っているだけで、これだったらゲーム機の方が安くて面白いのにと思ってしまう。まあ、大人でもゲーム機+ワープロ(最近はインターネットも)という人がほとんどだから高校生を責めることはできない。

 考えてみると高校生にパソコンを使う理由というのが少ないのである。情報処理すべきものがないのだ。自分の成績をグラフにしている高校生がいたら、少し気持ち悪い。

 学校は高校生に知的生産を求めていない。知的「再」生産ばかりだ。

 英語だって同じだ。英語を勉強したい、という。何のために、というと将来役に立つから、という。どんな役に立たせるかによって勉強法は違うよ、というと理解してもらえない。何か「英語道」のようなものでもあるかのような、求道者の顔をされる。

※98年には自分でホームページを作ったから見てくれ、という高校生が出てきた。知的生産ができるような場面ができつつあるといえる。

 知的な生活とは知識・情報と摂取・蓄積→思考展開・思想形成→表現・伝達というプロセスが体系的、継続的に行われることである。

 なぜ、知的な生活を送らなければならないか?それは我々が「考える人」だからである。むろん、サルにも知的生活はある。しかし、それを明日のより良き生活に活かせるのは人間の特権である。知的な生活は明日の創造へのステップとなる。

 あまり好きな人ではないがハマトンは『知的生活』の中で、インテリジェンスとインテレクトを分けている。インテリジェンスというのは「知能、知識、情報」と訳されることがあるように、ものを知って行う確実性、着実静をもった実務能力のことである。これを「ダチョウの足」という。これにインテレクトは「空をかける感じ」のするもので、偉大な思想家や芸術家に見られるような創造性をさす。日常性に富んだインテリジェンスとは違って「ワシの羽」と名づけている。

 だから、知識だけをどれだけ集めても意味がない。知識だけの人を「知的メタボ」と僕は呼ぶ。

 養老孟司は古館伊知郎との対談『記憶がウソをつく!』(扶桑社)で次のように語っている。

 今の人は知るとか学ぶということを、自分が変わることだと夢にも思っていないんですよ。情報を処理することだと考えるわけです。何かを集めてきて上手に使うことだと思っている。自分の外側で処理することで、自分自身の内面には関係ないことだと。そのあたりに、いろいろ問題があるんだと思います。

 創造的な人間とはどんな人か。片岡徳雄が『子どもの感性を育む』(NHKブックス)で次のように分析している。

 これはまさに高校生の君のことを指しているのだ。感受性というのは何かを経験した時、それを自分の中に取り入れる能力だ。同じ花を見ても感動する人、しない人がいるが、この感受性を瘡蓋(かさぶた)だらけにしたり、枯らしてはいけない。感受性の器を大きくするのは自分の責任だ。そして、闇雲でなく、知的に努力しなければならない。

 ヒラリー・クリントンのお母さんは何か困難にぶつかると、決まって言ったという(『村中みんなで』あすなろ書房)。

 「あなたは自分の人生の主役になりたいの?それともほかの人が考えていることにただ反応するだけのわき役になりたいの?」。

 高校・大学を通して誰も知的生産の技術を教えてくれなかったので、有名な先生方のやり方を「盗む」しかなかった。自分への反省も含めた書いた文章なので、よかったら読んでほしい。

 例えば、中国の周恩来首相は15歳の時に次のような勤勉・自立の5箇条を作ったというが、目的なく学問をしてしまった僕にはどれも当てはまらず、きつい言葉だ。だが、君たちはこれからなので、是非、戒めにしてほしい。

1.読書をおろそかにしない
2.目的なく学問しない
3.師の教えを無駄にしない
4.友をないがしろにしない
5.無駄な時をすごさない

 基本は書くことである。書くことが生きることであるとはいわないが、書くことは考えることである。考えるという行為は表現されてはじめて意味を持つものなのだ。だから、思ったことは何でも書いておく。メモなどにして考えを外在化しなければならない。悩みが大きいと思っても分割して書き出してみると、せいぜい7つほどで悩みを外在化すると、いつの間にか消えていることが多い。小泉八雲も「諸君が困難に会い、どうしてよいか全くわからないときは、いつでも机に向かって何かを書きつけるのがよい」と書いているように、悩みは分割して外在化すること!

 書く、という、長時間精神集中を持続する作業は、ものを考える能力にたけていなかったわたしに、多少ともそういう習慣をつけてくれたということがまずある。集中の持続の結果、内なる混沌から言葉にできたものをすくい上げる。

 特に詩作には、瞑想に通ずるような精神状態の瞬間があり、思いがけないものが浮かびあがってくる驚きを、幾度も体験した。

 それは、とりもなおさず未知の自分に出会う旅である。その繰り返しが、わたしという人間を形づくってきた。若いころ書いたものを読むと、つくづくそう思う。
    ------三木卓「ペルセウスの鏡」(朝日新聞1995年8月22日朝刊)

 人は魂の救済のために書く。書くことによって不安や憎悪の正体を明確にできるし、自身を深化したり、周囲の人間や社会を理解する。自己の発見と創造、書くことの醍醐味はここにある。

 書くことには、効用がある。人生にはさまざまな困難がある。耐えようもない大きな困難に遭遇することもあろうだろう。そんな時、小説を書いたことのある人間は、よし、この体験を書いてやろう、と思って苦しみに耐える。苦しみが希望に変わる。自分の体験を書いてやろうと思うと、苦しんでいる自分を客観的に見ることになる。すろとギリギリの苦しみから一歩離れて、落ちついて自分を見つめることができる。書くことは救いになる。   
    ------三田誠広『ぼくのリビングルーム』

 フランスでは作文教育で内容よりも、まずは文法的に正しいのか、何をいっているのか、つじつまが合っているのかなどを指導しているという。哲学者のアランがいうように、正しく書くことは正しく考えるためである。正しく考えるためには書かなければならない。

 もう一つ、学問というのは直観を論理的に分節化することだが、書くことは分節化の第一歩だ。書くことによって頭の中でモヤモヤしていたことが分かってくる。たくさん考えているようで整理してみると、わずかなことだったりする。でも、それでいい。次のステップに必ずつながる。

 ルロイ修道士は右の親指を立てた。

「仕事がうまくいかないときは、この言葉を思い出してください。『困難は分割せよ。』 あせってはなりません。問題を細かく割って、一つ一つ地道に片づけていくのです。ルロイのこの言葉を忘れないでください。」
    ------井上ひさし『ナイン』

 『忘れられないあのひと言』(岩波書店)で人類学者の船曳建夫が書いているが、フォーテスという人類学者が日本に来たとき、「書くことだけがお前を助ける」と言い渡していったという。船曳はリーチの教え子でいわば敵の指導学生だったのだが、このおかげで博士論文が書けたという。

 この文を読んでいる人は当然パソコンを使える人だと思うから、それを前提にいくつかの問題について書いていく。これは「やまいだれ」の知的生活を送っている僕自身への反省でもある。偉そうに書く資格はない。全くない。

 でも、言いたい。僕が高校生だったら、こうして過ごしたかったという願望も含めて言いたいのだ。

 僕自身、梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書)という本の啓蒙されてカードをいっぱい作ったころがある。しかし、いつの間にかカード作成自体が目的となって困ってしまった。蛍光ペンを使った綺麗なノート作りに専念する女子学生になってしまった。梅棹は『私の知的生産の技術』(岩波新書)の中で多くの人の挫折の原因を「1.情報をたくさん書き込む。2.むやみに情報を集める。3.カードの分類をする」でこうなったのは「わたしの本のかきかたがまずかったのだろうか」と記している。まずかった!!

 そのうちワープロやパソコンを使い始めて知的生産の方法が一変した。

 エリック・ホッファーの方法が参考になるかもしれない。ホッファーは幼時に失明し、15歳で視力を取り戻してから独学し、港湾労働者として働きながら思索を続けて「沖仲士の哲学者」と呼ばれた。『魂の錬金術』(作品社)の訳者のあとがきによると、本から気に入った部分を書き写したり、自分の経験や観察を短い文章でカードに書き込み、それについての長い感想を日記に書く。時間を置いた後、アフォリズム(警句)に仕上げ、これに肉付けをして、エッセイにする。

 君たちなら書いた文章は全てパソコンに入れておく。そうすればいつか組み合わせて必ず使うことがある。今から心がけておけば1年後にはきっと違った人間になっているだろう。外山滋比古は『新エディターシップ』(みすず書房)に「人間はすべて、自覚しないが、エディターである」と書いている。何でもいい、どうやって組み合わせるかはあなた自身にかかっているのだ。自分で人生を編集する気持ちが大切だ。

 何かを書くためには情報が必要だ。情報を集めるのはインターネットだけではない。新聞もそうだし、図書館も利用しなければならない。アンテナを張ることが大切だ。

蝶どこまでもあがりし高校生貧し---寺山修司『わが金枝篇』

 今の若い人は恵まれていると思う。残念ながらそれを十分に駆使していないような気もする。金はなくとも時間はあるはずなのに工夫が足りないように思う。

 それから、「今の若いもんは…」という議論には巻き込まれないようにしよう。キリのないことだし、3年たてば君たちもそんな風に言いかねないからだ。だから、巻き込まれず、巻き込まず、が大切。

 中島義道は「『しょぼんとした祖国』でいい」(『文藝春秋2004年2月号』)の中で現代の若者のこれまでの世代よりの優秀性を5点あげている。

 第一はインターネットの利用を始めとする情報収集能力、第二は身体に染みついた人権思想、第三はカネやモノへの執着のなさ、第四はアブノーマルなことに関して寛大なこと、第五は自然な形での個人主義が芽生えており、国家に対しても醒めていることだ。<そして最後に必ずしもよいことではないが>との条件を付して、<どうしたものかと思われるほど優しい。弱く、傷つきやすく、思いやりがある>と説く。

 いい若者になろう!


●パソコン

 何を買うか迷うところだが、男子ならDOS/V、女子ならマックと簡単にいえる。Windows95が出て以来、マックのメリットも小さくなってきた。DOS/Vの方がはるかに安いが、マックも少し古い機種はただ同然となる。お父さんも使うというならNECのPC98(だった)。壊れた時のことを考えたら使っている友達の多い機種にしよう(友達の少ない人はパソコンを始めないほうがいい?)。

 機種を迷ったら月刊『ぱそ』(朝日新聞社)など入門雑誌のベスト10を立ち読みすれば、その月で初心者にとって最適の機種が分かる。

 半年待てば半額になるが、そういうといつまでも買えないというゼノンのパラドックスに陥る。最高機種を買っても自慢できるのは3カ月だけだ。

 パソコンは勉強に必要だといって親をだまそう。親というのは馬鹿なものでファミコンで遊んでいると怒るが、パソコンだと勉強だと思ってくれる。「持ってないのは僕だけだ」とか「学校でも同じのを使っていてみんなに取り残される」というのが殺し文句だ。何なら、「お父さんに教えてあげるから」というのも効果的だ。

 買ったら何よりも先にブラインドタッチを習得しよう。毎日1時間やれば1週間で身に付く。ホームポジションをしっかり覚えるだけで違ってくる。車の免許も一緒だが、最初にきちんとやらなければ技術を身につける意味がない。

 インターネットのためにもモデムを買わなければならないが、最近はついているパソコンが多い。別売りの場合は、後で買おうとすると親が渋るのでパソコンと一緒に買おう。インターネットの最初の設定は詳しい人にしてもらおう。

 ネットでは深入りするのはもっと後にすべきで検索エンジンの使い方だけ知っておこう。キーワードの絞り方が大切だ。

 フランシス・ベーコンは「知は力なり」(Scientia potentia est.)といったが、君たちの時代に「ネットワークは力なり」である。チャットにのめり込むのではなく、もっと自分と違うテイストの人と出会うべきである。どんな人を知っているか大切な時代になる。オンラインのネットは当たり前で、オフラインのネットが大切になる。

 最後に、コンピューターなんて役に立たないことを忘れるな。答えを出してくれるだけだから…。


●10年日記(KK式日記)

 日記というのは「自分の生活の中で、自分自身に対して顔を赤らめずに物語ることのできる部分についての日々の記録」だという(ビアス『悪魔の辞典』)。

 日記は知的生活の基礎である。毎日思ったことを書くように指導されたかもしれないが、それだけは絶対に止めた方がいい。というのも後で読むと嫌になるからである。秘訣は自分の回りで起きたことを記録することだ。どこで何を食べたとか、いくらで買ったとか、誰と会ったとか内容はどうだったとか、何を読んだか、宿題は何だったか、とか細部にこだわって具体的なことを書くべきである。予定表兼備忘録と考えるべきだ。女優の沢村貞子は毎日の献立を日記代わりにして22年間続けた。志賀直哉はカレンダーの余白にメモを残したが、自分史を超えた社会史になっている。人類学者のマリノフスキーは民族誌の他に日記を残したが、いかに現地の人に偏見をもっていたかよく分かる本音の本となった。

 日記を付けるというと日記帳を買いに行く人が多いが、最悪の選択である。お金のある人もない人も大学ノートに書けばいい。この文章を読んでいる人は当然、ワープロやパソコンを使っているのだからハイテクを使うのがベストだ。というのも後で嫌なことは消せるし、訂正できる。

 バートランド・ラッセルは、食事が済んでから大事な夕食の約束があったことを思い出し、蒼白になった。年をとってからも、真っ赤になったという。恥ずかしさの感情は消しゴムで消すように簡単に消え去るものではない。ところが、パソコンの日記は恥を消してくれるのである。『デッド・エンド』という映画でハンフリー・ボガートは冷血な凶悪犯を演じたが、子分のアレン・ジェンキンスが語りかける。「人間は間違いをする。だから消しゴムがあるんだ」。

 さらに、後で読むと意味がわからなくなりそうなことも追記できる。書かない日があっても空白は目立たない。そう、日記は手抜きしながら続ければいい。続ければ断片のかたまりが何かを浮かび上がらせる。成長と後退、成熟と停滞。断片的でも十分面白い。

 『飛ぶ教室』などを書いたエーリヒ・ケストナーの『終戦日記』はあっけないほど薄い。書き始めること3回。そのたびに6カ月で断念したからだ。その理由として彼は日常が退屈で、日記に記すほどのこともないからという意味のことを書いている。ナチスに抵抗して著書を焼かれ、物質的耐乏と彼自身へのテロの危機が強まる日々を退屈と言い放った。まして、凡人は…。

 日記を書けば、少なくとも毎日、パソコンに向かう理由ができる。

 毎日書ける分だけ書くのがこつだが、長続きさせるにはもっと工夫がいる。従来の通時的な記述ではなくてサイクル型にするのだ。つまり、10年日記にするのである。『10年日記』のを売っている。うたい文句は「10年間を振り返る楽しさ!」である。これをパソコンで実現するのだ。これに気づくまで日記は苦手だったが、今は最大の日課となっている。

 順調に見える時は何かを見落としている。敵ほど握手を求めてくる。それは日記が教えてくれる。

 人間というのは記憶からできている。記憶をなくすと人格が崩壊したように感じる。

 次のようなフォーマット(ワード形式)を作って毎年同じところに書いていく。来年同じ日のことで比べられるし、自分の成長(のなさ)も確かめられる。書かない日があっても構わないで始めればいいが、すぐに後悔することになる。感想はいらない。事実のみ必要だ。

 面白いことに特異日というものができてきて、やたら事件の重なる日ができたりするものだ。「三隣亡」もあればめでたい日も重なる。

 また、先に予定を書いておけば簡単なPIM(スケジュール管理ソフト)になる。

 続けるコツは書き始める前に昔の出来事ではっきりしている分も記入してしまうことだ。

 なお、この他に僕は個人日記とは別に家族日記を1カ月単位で書いている。

 データベースのソフトを使って便利に使おうとも思ったが、ソフトがどんどんアップグレードしていく現状から単純にテキスト形式にした(正確にはクラリスワークスで少し見やすいように工夫している)。後で加工できる方がいい。

 自分史も含めてきちんとバックアップを取っておく。そうしないと自分が失われたような気になるからである。

 つまり、日記はアイデンティティの確立につながる。何であれ文章を残して置くことはギリシャ神話に出てくる霊感が沸くという「ピエリアの泉」を自分で作ることである。

 読書日記でもいい。お小遣い帳でもいい。今は役に立たない情報が後で役に立つ。

 パソコンだと家の人に読まれる心配をする人もいるかもしれないが、大丈夫だ。啄木は「ローマ字日記」をつけたが節子さんに読まれることはなかった。ディレクトリ(ファイルの場所)を工夫しておけば大丈夫だ。原型!


例【書かない日があっても次の年から記事を埋めることができるから気にしない。なるべくちょこっと書くこと!昔のことで大切な日は最初に書いて埋めておくと書きやすい】

4月1日/エープリルフール/山田誕生81/山下結婚95/甥・吾郎誕生99/

01□雪:東京のアパート下見。銀座マキシムで食事¥15。
02月□晴:今日から日記を付けるとみんなにウソをつく。みんな信じなかったが実際には書き始めたので、やっぱりウソをついたことになる。夕食はしゃぶしゃぶ。姉に吾郎の誕生日おめでとうというと覚えていてうれしいといわれる。
03火□曇/東京で25℃:……。
04□:
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4月2日

01□:
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08□:
09□:
10□:


 日記をつけることは人生を二度生きることだ。


●自分史

 自分史を書くことは人生を二代に生きることだ。

 こういうものは年を取った人が自分の人生を回想して美化して描くものだと考えているかもしれないが、若いうちから自分史を作った方がいい。シェイクスピアのいうようにWhat's past is prologue.(これまでのことはプロローグだ---『テンペスト』2幕1場253〜54行で米公文書館の門に掲げてある)なのだ。何歳であれ、これまでの人生はこれからの人生の序章なのである。

 若いから何でも覚えていると思っているかもしれないが、引っ越していった友達の名前とか、遊びにいった場所の名前とかは忘れ始めているはずだ。分からないことは写真で確かめたり、肉親に聞いたりしよう。自分の名前の由来を聞くのも楽しいものだ。

 高校生の今、「自叙伝」のつもりで書けばいい。うちの学校では入学時に提出させている。素直に書いていて、なかなか傑作もある。

 ここでも感想はいらない。事実だけをできるだけ詳しく書く必要がある。思い出に耽る必要はない。それこそ、年を取ってからの作業だ。事実、事実、事実がほしい。

 自分史を書くことは就職などの際の自己PRに欠かせない。(cf.自分史クラブ)

 生まれてから年毎に書く。ただ、日記と違ってトピックごとにまとめて書いておくのがコツだ。例えば、次のようである。

☆ロバのパン屋

 昔々、ロバのパン屋がやってきた。パン屋さんなのだが、なぜかロバにこぎれいな馬車を牽かせて売りにきた。おいしかった記憶があるものの、母親はばい菌があるとか何とかいって買わせなかった。高かったのだと思う。買わなくてもみんな見に行った。確か、蒸した玄米パンがおいしかったように思う。当時はまだ、肥えを荷車に乗せて馬で引っ張っていたものだ。ロバのパン屋さんもウンチをさせながら引っ張っているのだから清潔ではなかったろう。でも、憧れであった。

 近所のお菓子屋の長男がカバヤに勤めたか、どうかでカバヤの自動車が来たこともあった。カバの形をした自動車なのである。

 そういえば、印度カレーの宣伝車が来たこともあった。今の子供は慣れっこになっているだろうが、どれも嬉しいものだった。

 93年に筑紫哲也のニュースを見ていて長年の謎が解けたのだが、「ちんからりん」という歌で始まる「パン売りのロバさん」という歌もできていて当時は30(他の番組では181)店ものチェーン店になっていたそうだ。登場したのは昭和30代の前、93年でも5店ほど残っていてクルマで売っているという。値段はパンが7円と安い方だ。実際はロバでなく、馬だったともいうが、筑紫もロバだった記憶があるという。町の動物園のようだと言われた。馬車1台16万から20万したといわれる。昭和40年代にモーターリゼーションのためになくなってきた。蹄鉄を作ってくれる職人もいなくなったという。松山には平成元年まで続けた人がいた。

 「一日一食パンを食べましょう」と言われた時代だった。


●読書

すべて読書からはじまる。本を読むことが、読書なのではありません。自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが、読書です。
 ------長田弘『読書からはじまる』(NHK出版)

読書とは、人生の予防接種。
 ------赤川次郎『イマジネーション』(光文社)

 本は読むな、というのはショウペンハウエルの『読書について』(岩波文庫)で知った。読書より思索が大切だというのだが、本を読まなかったら分からなかったことだ。「読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである」と言った。いくら読んでも、自分の精神のうちにとどまるのは興味をひくものだけ。「多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめない」と警句箴言の大家でもあったショウペンハウエルは語った。読書の第一の心がけは「読まずに済ますこと」だそうだ。真意は「食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養う」という一文にある。「読むな」でなく「熟読せよ」だ。また、読書というのは「他人の頭を借りて考えることだ」という。だから、あまり借りすぎてはいけないというのだ。

 マスコミで喧伝されていることに左右されてはいけない。西原理恵子は『怒濤の虫』(毎日新聞社)の「活字は読むな、読むなら信じるな」でバラしているが、雑誌の記事で「100人に聞きました」なんてアンケートを全部一人で答えていたという。そして、述懐している。

 でも、書くほうに回って思ったけど、活字ってゆうのは、とにかく人目を引かなきゃダメ、ってゆうか、売れない。だから、どんどん、どんどん、刺激的で、やらしい方向にいっちゃう、とゆうのは事実。そうゆうワケで、女子大生は全員売春していて、OLはみんな上司と不倫している。信じちゃダメですよー。(いまどき、そんなバカいねーか)

 批判的に報道を考えるのを「メディア・リテラシー」というが、書物も含め、一歩引いて吸収しなければならない。今野勉の『テレビの嘘を見破る』(新潮新書)によれば、英国BBCは証言者が話下手な場合、似た俳優が分かりやすく話すシーンで代用することも多いそうだ。「事実の意味さえ正しく伝われば、それがどう記録されたかは問わない(作り手の自由である)」という考え方に立脚しているという。しかし、こんなことばかりやっていたら、再現ドラマが際限なく続きそうだ。

 瀬尾まいこ『図書館の神様』で小説も雑誌も、漫画本すら読まない国語教師の清(漱石の影響を受けた作品なのだ)は文芸部の顧問になってしまって、たった一人の部員である垣内君から文学を学ぶことになる。卒業にあたり、垣内君は次のように話す。

 文学を通せば、何年も前に生きていた人と同じものを見れるんだ。見ず知らずの女の人に恋することだってできる。自分の中のものを切り出してくることだって出来る。とにかくそこにいながらにして、たいていのことができてしまう。のび太はタイムマシーンに乗って時代を超えて、どこでもドアで世界を回る。マゼランは船で、ライト兄弟は飛行機で新しい世界に飛んでいく。僕は本を開いてそれをする。

 『エリア随筆』のチャールズ・ラムは「私たちは『それを読んだよ』というために読書するのである」という(映画も似ている部分がある)。

 学生時代は乱読に限る。『ライ麦畑でつかまえて』の不良少年ホールデンも読書を欠かさない。年を取ってからも同じだ。読書が習慣になっている人とそうでない人の違いは大きい。『打ちのめされるようなすごい本』を書いた米原万里は毎日7冊読んでいたそうだ。日垣隆は月100冊といっていたし、福田和也も『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』という本を出している。とはいっても赤川次郎を100冊読んでも知的になるとはいえない。東大の言語学科教授だった高津春繁さんは推理小説は老後にとっておくと豪語していて退官されてから毎日、原語で推理小説を読んでいた。推理小説を知らなくてもちっとも困らないが、シェイクスピアを知らなくては生きていけない。ただ、戯曲なのでいきなり入ることはできない。小田島雄志などのさまざまな入門書を勧める。

 本を読むことで、何人もの人生を心で体験でき、視野を広げることができる。経験は最良の教師であるが、限定的過ぎるし、授業料が高すぎる。

 アドラー&ドーレンの『本を読む本』(講談社)によれば、読書には4つのレベルがあるという。レベルを少しずつ上げていく必要がある。

1 初級読書(Elementary Reading)
  「その本は何を述べているか」を理解する読書
2 点検読書(Inspectional Reading)
  系統立てて拾い読みする読書
3 分析読書(Analytical Reading)
  系統立てて質問をする積極的読書。著者との対話型の読書
4 シントピカル読書(Syntopical Reading)
  ひとつの主題について何冊もの本を比較読書し、客観理解をすすめる
  書かれていない主題をも発見する究極の読書

 つまらないと思った本はすぐに止めること。難解な本(みすず書房の本は白っぽいので「白難」と呼ばれる…「難しい本には赤難・黒難・白難の三種ある」渡辺和博『金魂巻(きんこんかん)』)があったら大学生まで待て。そのためにも図書館を利用する。読まなかったからといってお金を損することもないし、積ん読の本で埋まったりしない。家の中が本の間の獣道状態になったらおしまいだ。

 面白い本を人に聞くのは勧めない。『ひとつ、村上さんでやってみようか』(朝日新聞社)の中で、村上春樹は「最近何か面白い本を読んだ?」と訊かれたら、「うん、****という本が好きだったけど、まあ好みがあるから」みたいなあたりで留めておく、という。

 「読書百編意自ずから通ず」というのは若者にあわない。そんな暇もない。若い頃には分からないだろうが、くだらない本を読むことは他の本を読む時間を失うことだ。どんどん新しい本を読めばいい。何よりも図書館の徹底利用で学校図書館よりは一般図書館の方が充実している。

 速読術に頼らなくてもいい。養老孟司は『バカにならない読書術』(朝日新書)で「引っかからないところは自分がわかっているところだから。だから飛ばしていいわけです」という。だから、本を読めば読むほど自然に早くなってくる。

 図書館を利用しよう。何よりもタダで、しかも整理した状態で本が君たちを迎えてくれる。さらに司書がいて相談に乗ってくれる。浅野高史他『図書館のプロが教える<調べるコツ>』(柏書房)に出てくる質問で面白かったのは「よくライオンの口から水やお湯が出ているが、その由来は?」というものだ。司書は『世界大百科事典』から始めて『世界シンボル辞典』『図解古代エジプトシンボル事典』と、シンボルの歴史系をたどる一方、建築、意匠系列で『インテリア・家具辞典』から『古代ギリシャの都市構成』という専門書に行き当たり、さらに『水のなんでも小事典』から『英米故事伝説辞典 増補版』(雑学が好きな人は全部読んでおくといい)へと進む。そして、古代エジプトでナイルの恵みをもたらした洪水期が太陽が獅子座にある時に始まるということが、ライオンの噴出し口の起源となっている…。でも、この楽しみを司書に任せておいてはいけない。自分で調べる癖を是非つけよう。

 よく読書録をといわれるが、読書の敵だ。そんなものを付けるよりは1冊でも多く読んだ方がいい。サマセット・モームは『読書案内』(岩波文庫)で、どんな名著であろうと「ぜひともよまなければならぬ義務は、何人にもない」、読むのであれば「楽しみのためによまねばならない」と断言している。好みに合わなかったら遠慮なく読むのを止めてもいいというが、それは「よんで楽しくないならば、その書物はあなたになんの意味ももたないからである」。

 永江朗も『不良のための読書術』(ちくま文庫)で次のように言う。

 本には毒がある。「この本は真理の書だ。この本に書いてあることだけが絶対に正しい」なんて妄想を持つと、たちまちマジメで危ないよい子になってしまう。マジメなよい子は多数派につく。そして多数派はいつだって間違える。マジメなよい子にならない方法、つまり不マジメでいいかげんな不良になるには、本をたくさん読むことだ。

 この本は立ち読みすればいい。だって、「本を最後まで読むのはアホである」なんて書いてあるのだから。まあ、不良は本屋に行かないって。

 読んだ本の中で気に入ったフレーズはパソコンの中に入力していった方がいい。著者、書名、発行所・年月日、できればそのページ数を同時に入力しておく。でなければノートを作っておけばいい。感想はいらない。事実が大切。どの部分に感銘したか、反論したくなったかだけでもいい。

 読書の効用とは(1)情報を得られる、(2)考え方を学ぶことができる、(3)書き方を学ぶことができる、である。読んだ直後に身につくものは一過性の知識だが、砂地に吸い込まれる水のような“遅効性”のものが教養なのだろうと思う。情報が体で消化され、感動を膨らませて始めて知恵になる。書くことによって心の中に定着して思想になる。

 楽しむ読書と調べる読書は違う。後者では1)テーマを持って読む、2)アウトプットを前提として読む、3)大切な個所を見つける、4)自分とオーバーラップさせて読む、5)思考パターンを変えるために読む、ことが大切だ。 

独学する時には子ども用の入門書から入るといい。入門書は偉い学者の書いた薄い本に限る。全体像を早くつかむことだ。

 読書論としては森本哲郎『読書の旅 愛書家に捧ぐ』(講談社文庫)、永江朗『不良のための読書術』(筑摩書房)を推薦しておく。

 「井上(ひさし)流読み方十箇条」(『本の運命』文藝春秋)

 

 寺山修司は『本を捨てよ、町に出よう』と言ったが、本は読んでから捨てるものである。ビートたけし(北野武)は若者には「粋に生きてほしい」と話す。それは「常識をわきまえた形の、もうひとつ上のステップの生き方」だという。

 齋藤孝『三色ボールペンで読む日本語』(角川書店)も面白い試みかもしれない。馴れない時は実践してみるといいかも。

青は、「まあ大事」だと思ったところに引く。客観的な要約として必要だと思われるところ。

赤は、「すごく大事」だと思ったところに引く。その文章を要約する上でどうしても欠くことのできない最重要な箇所。キーワードの場合は赤で囲む。

緑は、「一般的には大事ではないかもしれないが、自分がおもしろいと感じたところ」に引く。

 なお、齋藤孝は『「できる人」はどこがちがうのか』(ちくま新書)で社会人になって必要なのは次の三つだという。

「まねる(盗む)力」=教えられなくても自分でポイントを盗んで技をマスターする力

「段取り力」=ポイントを連結して合理的で早い手順を見つける力

「コメント力」=要約したり質問できる力(『質問力』筑摩書房という本もある---1)思いのままに情報を得る、2)人に好かれる、3)人をその気にさせる、4)人を育てる、5)議論に強くなる、6)自分をコントロールする---などの力がつく)

 最後に、読むのは何も本だけではない。行間を読んだり、人の顔を読んだり、場の空気を読んだりできる。そして、世界を読むこともできる。

 読むという作業は、なにも本を読むことだけに限られるわけではない。人間は何でも読むことができるのだ。たとえば私たちは毎日、周囲の人びとの顔を読んで暮らしている。ちょっと眉を寄せただけで、あるいは、ちょっと目を閉じただけで、あるいは、ほんのすこし口をゆがめただけで、私たちは相手の気持ちを読みとり、それに共感したり、反発したりしながら日常の世界をつくりあげているのである。人間の顔は、いくら読んでも読みつくせないすばらしい書物ではないか。そう、人間は一冊の書物なのである。人間が読むことを学ぶのは人間からであり、そして生涯読みつづけるのは人間そのものなのだ。そして、世界もまた一冊の書物である。真の読書というのは、結局は世界という書物を読み、人間という本を読むことである。私の読書の旅の目的地も、じつはそこにある。-----森本哲郎『読書の旅』(講談社文庫)


●語学

 ゲーテは「外国語を知るのは未知の一世界を発見するに等しい」という。

 一つの言語しか知らないことは窓もドアもない部屋に暮らすようなものである。安全かもしれないが、暗く閉じている。外国語はその部屋に差し込む一条の光だ。窓から外を眺めることができるし、新しい世界へ連れていってくれる。そして自分の部屋の中をもう一度見直すことができる。

 語学は自転車と同じで、最初にうまくはずみをつければ後は安定する。水泳と同じで、後から追いかけようとするとトップの人の波をかぶるばかりだ。

 できれば英語以外の第2外国語を高校1年か2年の時に始めておくのがいい。英語が客観的にみれて回り道だが、英語の力をつけると思うからである。この意味で千野栄一先生の『外国語上達法』(岩波新書)を薦める。50カ国語できるという西江雅之先生は15歳でスワヒリ語の文法書を出版した。まあ、凡才は英独仏で十分だ。コツは「努力である。集中する。これに勝るものはない。語学は、その後の話である」という。

 CD−ROMもあるが、NHKの講座で十分である。半年も続けばいうことはない。英語の簡単さが分かると思う。テキストの他に辞書を買う必要がある。なるべく簡単な辞書の方が使いやすい。

 英語は学ぶのが容易な言語だ。きちんと発音しないと単語は覚えられない。でも、発音と発音記号は1日で覚えられる。単語力をつけて文法を少し学んで英文解釈さえすれば十分だ。単語は語源に注意して派生語を一緒に覚えることだ。森鴎外は級友が「述語が覚えにくくて困る」というとおかしくてたまらなかったという。鴎外は語源を調べてページの縁に注をしておいたので機械的に覚えなくて済んだのである(『ヰタ・セクスアリス』)。

 ただ、文化の厚みというのかイディオムが多く、しっかり覚える必要がある。

 対訳つきの読本をたくさん読むことを勧める。乱読が大切。

 英和辞典は個人的に好きな『ラーナーズ・プログレッシブ英和』(小学館)を薦める。

 大学に入ってからは語学だけ徹底的に勉強すればいい。大学教師の多くは英米の学問を輸入しているだけだ。

 翻訳ソフトも出ていて学習させれば使いものになると言われるが、パソコンに学習させるくらいなら自分が学習した方がいい。僕が持っている翻訳ソフトはTime flies like an arrow.を「時間ハエは矢が好きだ」と訳した。

 翻訳家としても有名な作家・村上春樹『やがて哀しき外国語』(講談社文庫)の文章。

 外国人に外国語で自分の気持ちを生活に伝えるコツというのはこういうことである。

(1)自分が何を言いたいのかということをまず自分がはっきりと把握すること。そしてそのポイントを、なるべく早い機会にまず短い言葉で明確にすること。
(2)自分がきちんと理解しているシンプルな言葉で語ること。難しい言葉、カッコいい言葉、思わせぶりな言葉は不必要である。
(3)大事な部分はできるだけパラフレーズする(言い換える)こと。ゆっくりと喋ること。できれば簡単な比喩を入れる。

 というほど簡単ではない。内田樹はこれを一読して私は自分に外国語会話の才能がないことの理由が明らかになったという。それは日本語で話しているときの特性が次の三点だからだという。

(1)自分が何を言いたいのか把握していないうちに話しを始める。
(2) 自分が理解していない単語を使いたがる。
(3)相手が乗ってこないといきなり話題を変える。早口でしゃべる。わけのわからない比喩を使う。

 ただ、絶対に忘れてもらってはいけないのは日本人として、日本語がきちんと書けたり、話せたりしなければならないことだ。母国語で論理的に話せれば充分なので、外国人のように話せたらと思うな。内容さえあれば訥々(とつとつ)と話しても伝わるはずだ。言葉が伝えたいことを伝える道具だということを忘れてはいけない。道具だ。


●映画

 高校生の頃、非行に走った。その時、『ウェストサイド物語』に出会った。不良になるときはあんなにもダンスがうまくなければならないのかと改心した。

 なるべく多くの映画に触れる必要があるが、時間もお金もないのが高校生だ。映画館はデートには向いてない。ビデオですますということも可能だが、ビデオは映画とはいえない。模造品である。でも、映画館に行くくらいよりはビデオで十分な映画も多い。どの映画がすばらしくてどの映画がゴミかは映画を映画館でたくさん見なければならない。

 村上春樹も赤川次郎も莫大な量の映画を見ている。赤川の『シネマトーク』などを読めば創作の秘密が分かってくる。『ビューティフル・マインド』の主人公でゲーム理論のジョン・ナッシュは「学びすぎると創造性を失う」といって本を読まなかったというが、天才でない僕らにとって、創造性は何もないところからは出てこない。マルチメディアを作るといって映画も知らない、オペラも知らないではダメ。

 テレビは高校生の間は見ないですますくらいの気持ちになるべきだ。

 ただし、映画好きというのは悲惨である。僕は年間300本というのが最高記録だが、賢明にも人間性豊かにもなっていない。映画の中に人生があるように思ってしまったらおしまいだ。本当は映画の外に厳しい現実があるというのに。

 現代人の悩みである情緒の不安定や寂しさというものは映像で表すことが難しい。SF作家のアシモフは次のようにいう。

一枚の写真は、何千もの言葉に値する、なんていうのはまったくの嘘っぱちだ。もちろん、それが正しい場合もある。しかし、たとえば人は、ハムレットの苦悩を二百六十枚の写真で語れるだろうか。そこでは写真など、何の役にも立たないのではないだろうか。人間の感情、思想、空想、そうした事柄を表現できるのは、言葉だけなのだ。

【97年に蓮實重彦が東大の学長に就任した。蓮實は映画評論家としても有名である。こちらは60歳までに2万本見たという。これからは「映画を見て東大の学長になる!」とお母さんを説得できることになる。僕らが「漫画を読んで手塚治虫のような医者になる」といっていたように!?】


●漫画

 漫画だって十分に知的だ。一枚の絵は1万ページの書物に匹敵するかもしれない。ただ、マンガ雑誌にはひどいのが多すぎて時間の無駄だと知るべき。お金もかかるから図書館で読むのがいい。古典の手塚治虫から始めることを勧めるが、基本的には文庫本になったものを買うのがいいと思う(最近は分からない)。


●音楽

 ながら勉強でもいいと思うが、ボーカルの入ったものは思考の妨げになることがある。ビートルズやプレスリーなど古い曲を聴くことも個人的には勧める。

 歌って彼女を作ろう、歌詞を覚えて英語に強くなろう、という不純な動機でもいいと思う。

 ジャンルを問わないことが大切だと思う。小さい頃、プレスリーが嫌いだったが、大きくなって再認識した。それは曾野綾子(好きな作家ではない)の『神の汚れた手』の中でも効果的に使われていた。筧徭子に「夕の祈り」Evening Prayerを聴かされた貞春という男の言葉。

いい曲だなあ、筧さん、今、僕、不覚にも涙がこぼれそうになった。……僕、エルビスって人、ほとんど知らなかったけど、今、この小さな曲一つ聞いて、本当に嫉妬したね……他に何もなくてもいいじゃないか。この短い彼の《夕の祈り》を歌っただけで、この世に生まれて来たかいがあったじゃないか。


●美術

 学生時代、提出する絵の枚数を多くするためにモンドリアンの模写をよくした。モンドリアンだってピカソだってデッサンをたくさんこなして、あの芸術に達したのだ。

 CGをしたいというのに絵が描けない人が多い。絵を知らない。目を見ただけで誰の作品か分かるようになるべきだ。だって、漫画だったら分かるでしょう。

 自分で描けるくらいになるのが一番いいが、何よりも美術全集を多く見て美術展にも出かけることが望ましい。


●旅行

 国内旅行をするお金があったら海外旅行をしよう。異文化体験は感受性が強いうちの方がいい。そのためにも語学はしっかりやっておこう。行ったら何とかなる、ではいけない。何でもそうだが、志が低ければ得られるところも少なくなる。


●コンプレックス

自分はチャーチル(英首相)よりえらい。それからマキシムの料理長よりえらい。だれよりもえらい。なぜなら、おれはチャーチルより料理が上手で、マキシムの料理長よりおれの方が本を読んでいる。
  ------ジョージ・ミケシュ(ハンガリーの作家)

あれはできない、これはできない、というコンプレックスを持っている方は、そのコンプレックスがあるがゆえに、自分は何か成し遂げられるかもしれない、というふうに発想を変えるべきだと思います。
  ------赤川次郎『イマジネーション』(光文社)

自分の持ち場で日々努力していると、競争相手は他人じゃなくて、昨日の自分なんだという考え方が自然に身についてきます。そしてそういう風に考えていくと、コンプレックスってだんだん「関係のないことになっていくんですよね。
  ------『これだけは村上さんに言っておこう』(朝日新聞社)


●恋愛と交友

 「気の合う人間」なんて存在しない。「好きな人」なんて幻想でしかない。------内田樹『知に働けば蔵が建つ』(NTT出版)

 友人は大切だ。仲間も大切だ。でも、自分が最も大切だ。仲間がやっていることをひとり拒否するのはむずかしい。タバコやコンパの一気飲み、脱法ドラッグの乱用など、こうした心理の所産でもある。仲間内に働く同調圧力を心理学でピア・プレッシャーという。ピア(peer)というのは雑誌の『ぴあ』で知られているように「仲間」という意味である。ピア・プレッシャーをかけるのもかけられるのもよそう。

 漱石は『こゝろ』で、嫉妬について書いている。

傍(はた)のものから見ると、殆(ほとん)ど取るに足りない瑣事(さじ)に、此(この)感情が屹度(きつと)首を持ち上げたがるのでしたから……かういふ嫉妬は愛の半面ぢやないでせうか。

 鴎外は『ヰタ・セクスアリス」に「世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、どうかすると、その背に騎(の)って滅亡の谷に落ちる」と書いている。難しいものだ。

 武者小路実篤は『お目出たき人』(新潮文庫)で次のように書いているが、本当にお目出たい感じがする。

自分は女に飢えている。
誠に自分は女に飢えている。残念ながら美しい女、若い女に飢えている。七年前に自分の十九歳の時恋していた月子さんが故郷に帰った以後、若い美しい女と話した事すらない自分は、女に飢えている。

 恋愛は精神の結晶作用であり、自己を高めるために是非といいたいところだが、結局、同級生で結婚するカップルの少ないことを考えれば結論が出るはずである。でも、悩みに悩むのが青春なんだよね。嫌な奴の彼女ほど、美人であるという法則もあるし…。

 顔や体がきれいであることは素敵だ。でも、本当に重要なのは生活からにじみ出るような知性や情熱、繊細な心の動きに感動したり、感動させたりできる能力である。

 行動科学には「2:7:1の法則」というのがあって、自分の周りに無条件に好きな人は2割、無条件に嫌いな人は1割、後の7割は気分次第だという。どうしても許せない人がいたら、確率でその人が存在しているのであって、本人が悪いのではないと考えてみよう。その大嫌いな人だってちゃんと好きな人がいてちゃんと結婚してたり、という事実も、この法則を裏付けている。

 どんな場合にせよ、一般論は通用しないのであって、二人の仲しか存在しない。

泣いてるとなんだかよくわからないけどいっしょに泣いてくれたこいびと---斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 坂口安吾は『堕落論』の中で恋愛について次のように書いている。

 教訓には二つあって、先人が失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。恋愛は後者に属するもので、所詮(しょせん)幻であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。

 デートでうまく振る舞う方法があったら、こちらが教えてほしい。『アメリカン・プレジデント』では妻をガンで亡くした大統領(マイケル・ダグラス)の一人娘が初めて女性(アネット・ベニング)とデートする父親に「相手の靴を誉めるのよ」とアドバイスする。

 最近、僕はつくづく思うんだけど、女の子に親切にするというのは、すごくむずかしいことである【…】。
 いちおう断っておきたいのだけれど、ただ単に女の子に親切にするというのは、それほどむずかしいことではない。
 家まで送ってあげるとか、荷物をもってあげるとか、気の利いたプレゼントをあげるとか、服をほめてあげるとか、そういうのは、別に高校生にだってできる。
 僕が難しいというのは、そういうことをやりながら、それでいて相手に「ハルキさんて親切ね」と言わせないテクニックのことである。
  ---村上春樹『村上朝日堂』(新潮文庫)

「女の子とうまくやる方法は三つしかない。ひとつ、相手の話を黙って聞いてやること。ふたつ、着ている洋服をほめること。三つ、できるだけおいしいものを食べさせること。簡単でしょ。それだけやって駄目なら、とりあえずあきらめた方がいい」
  ---村上春樹「ハナレイ・ベイ」(『東京奇譚集』新潮社)

 振られることもあるだろう。「愛を失った人は何も失っていない人よりも美しい」(『イル・マーレ』)。

 失敗にもめげず恋愛を続ける寅さんの映画『男はつらいよ 葛飾立志篇』(第16作)で愛を語るシーンがある。

あー、いい女だな、と思う。
その次には話をしたいなあ…、と思う。ね。
その次にはもうちょっと長くそばにいたいなあ…、と思う。
そのうち、こう、なんか気分がやわらかーくなってさ、
あーもうこの人を幸せにしたいなあ…って思う。
この人のためだったら命なんかいらない、
もうオレ、死んじゃってもいい、そう思うよ。
それが愛ってもんじゃないかい。

 『男はつらいよ 寅次郎の告白』(第44作)では甥の満男が語る。

おじさん、世の中でいちばん美しいものが恋なのに、どうして恋をする人間はこんなにぶざまなんだろう。
こんどの旅でぼくが分かったことは、ぼくにはもうおじさんのみっともない恋愛を笑う資格なんかないということなんだ。いや、それどころか、おじさんのぶざまな姿がまるで自分のことのように哀しく思えてならないんだ。
だから、もうこれからはおじさんを笑わないことに決めた。
だって、おじさんを笑うことは、ぼく自身を笑うことなんだからな。

 ストーカーになるのはやめようね。ビートたけしも『僕は馬鹿になった。』(祥伝社)の「普通の彼女」は次のようにいう。

ふりむかない彼女に努力するのはやめよう
恋する自分に酔ってはいけない
夢中で書いた手紙も、プレゼントも何の力も無い
彼女は何処(どこ)にでもいる、普通の女の子で
ただ、君が好きではないだけだ

 テレビにでてくる流行歌手のうたう歌は、みんな恋愛の歌だ。【…】
 あんたも君も恋愛は最高に美しいと思ってるだろ。ちょっと恋愛してもいいなと思うときだってあるね、きっと。
 だけど、あんたも君も、ふしぎに思わないか。恋愛は美しいのに、恋愛と関係のあるらしい性について何か知ろうとすると、両親も先生も、きたないものにさわるなって顔するだろ。いつもうまくはぐらかされてしまうんじゃないかな。
 恋愛ってのは、男性と女性がすることだから、性と関係があるにきまってるのに、どうして恋愛はきれいで、性はそうじゃないんだろう。
     -----松田道雄『恋愛なんかやめておけ』(筑摩書房)

 でも、高校生どうしが結婚までに至るなんてことは本当に難しいからね。いないことはないけれど、同じ大学に入っても生活が違ってくるんだよね。

 俵万智が歌うように「ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう」「男というボトルをキープすることの期限が切れて今日は快晴」くらいの気分でいた方がいいだろう。

 まして、妊娠して慌てて結婚するなんてことだけは止めようね。どんなに気があって、気を付けている夫婦だって避妊は難しいだよ。もっと豊かな青春があるかもしれないのに、子育てで疲れてしまったら、困るよ。

 『ハムレット』の中のポローニアスの言葉。

やさしいおことばで赤ん坊のように喜んでおると、
やましい思いで赤ん坊を生まされることになるぞ


●親とのつき合い方

 高校生の時に尊敬する人物というのがHRで話されて、みんなが「両親です」というのに閉口してしまった。親は超えていくべき存在だから、尊敬してはいけない。もっと世界を拡げなければいけない。

 僕のような親でも子どもに感謝されることがあるが、「親に感謝しなくていい。同じ事を君たちの子どもにしてあげて」と話している。

 リリー・フランキーの『東京タワー オカンとぼくと、時々オトン』の次の言葉だけは覚えておこう。

 母親の人生が自分よりも小さく見えるのは母親が身を粉にして、すり減らして、自身の人生を自分に切り分けてくれたからだ。


●大人の条件

 精神科医の佐藤学(さとる)が『家族依存症』の中で大人の条件を次のように書いている。

 

 自分と自分を取り巻く現実を正視できる人は、今すぐすべきこと、次にすべきことという優先順位の区別がつけられる。また、注意深く完全をねらう職人仕事と直観力をいかしておおまかな見通しをつける仕事との見分けがつけらえる。こうした能力を佐藤は「いい加減にやれる能力」と呼び、最も高度な大人の能力と考えている。


●アルバイト

 多くの学生がアルバイトをしているかもしれないが、高校生にとっては害毒であることも多い。社会を甘くみてしまう、世間ずれする、お金の価値が分からなくなる、時間がとられる、交遊が乱れることがある、金で世の中を計ってしまうなどだ。実際、教え子の中でバイトで崩れていった学生も多くて禁止している理由もうなづける。目先の金よりも卒業後の金が大切なのだが、分からないものらしい。大学でアルバイトすれば十分だし、社会勉強ならもっと問題意識を持たなければ…。

 そして大学生の場合は何よりも、学費を単位時間数で割ると1駒6、7千円の講義なのに欠席してアルバイトをするのはまる損になるのだが分からない人が多い。国が傾けている税金などを含めると1駒1万にはなるのはずだが、わずか700円くらいの、誰だって務まるような仕事を本当の仕事だと誤解している。

金は借りてもいかんが、貸してもいかん。---『ハムレット』第1幕第3場


●服装

 若い頃は外見なんか気にしなくていい。どんな格好をしていても自分は自分だ。と思っているかもしれないが、他人のファッションを真似しているだけかもしれない。人まね小猿(copycat)になっている自分を想像してみよう。

 内田樹は『下流志向』(講談社)で「個性とは個性を頭ごなしに圧殺する環境にあって、それにもかかわらず、どうしても際立ってしまう…ものなのである。個性がつぶされる環境で簡単につぶされるような個性は…もとから個性と呼ぶに値しない」と書いている。

 評価というのは本来、自分でするものではない。他人がするものである。嫌なことかもしれないが、他人がいて初めて自分がいるのである。一人で生きることは一日たりともできない。だから独りよがりのファッションは止めよう。

 少なくともTPOに合ったファッションをしよう。コーディネートの基本は使っている色を3色に抑えること!

 もっと個性的になりたい、というなら外見以外で個性的になることから考えよう。外見くらいで自分を変えるというのは安直だ。ニーチェも「聡明であるためには凡庸さの仮面を身に着けなければならない」と言っているように。

 「笑顔にまさる化粧なし」というではないか。辛い時でもにこやかに生きよう。泣けばよけいに泣きたくなるものだ。


●宗教

 高校時代はあまりないが、大学に入ったらすぐに洗礼を受けるのがカルト宗教である。
 ほとんどが怪しいと思って近づかないのが一番だ。狙われたら最後だと思った方がいい。実際、僕も多くの友人を宗教で失った。
 大学の合格発表の時から勧誘される。何も知らないでいると困るのでここで書いておく。エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』を知っているだろうか。盗まれた大切な手紙は誰の目にも触れることのできる机の上に何げなく放置されていて、にせものはそれとは反対に、麗々しく「自分こそがあなたのお探しの当のほんものですよ」という顔をして、いかにもそれらしい場所に飾ってあったりする。素人はそれにひっかかる。そうはならないために、訓練や学問が必要になる。

 次のようなことがあったら要注意である。

■「怪しい勧誘」に気づく手がかり(西田公昭・静岡県立大講師による)
△販売や入会といった目的を棚上げにして、とりあえず特定の場所に誘う
△お世辞や賛美によって気分を高めたり、自尊心をくすぐったりする
△恐怖心、不安感、はく奪感などの弱点をついてくる
△親切そうな勧誘を受けたその場で、判断や決定を迫ってくる
△やたらに肩書きや有名人、権威者の名前を使って信頼を得ようとする
△該当する会や商品について第三者の評価を得るチャンスをそれとなく与えないよう
にしている
△正式の団体名や代表者の名前を名乗らず、勧誘者個人の名前を使ったり、ダミーの
名称を使ったりする
△悩み事や心配事に対する簡単な解決は、勧誘を承諾して実践するだけと主張してくる  

  
 
間違ってこんな宗教に入信しても人に迷惑をかけないことだ。内田鑑三は神の真理を振り回して人に迷惑をかける弟子に対して「真理と真理の応用を混同してはいけない」と諭した。

 山藤章二は『論よりダンゴ』(岩波)で次のように書いている。

 やがて自分なりに解決の道を見つけた。「右脳・左脳」という脳の二分法をヒントに得て、「浅脳・深脳」がある、と考えた。そして、「深い脳で人生を考え、浅い脳で人生を楽しむことにした。自己流ではあるがこういう対応策を発見できたのも、元もたどれば私の、「いい加減な宗教観」がもたらしてくれたものと思っている。
 「いい加減」とは「良い加減」から転じた言葉である。


●遊び

 遊ぶのが人間の人間たる所以だから遊ぶのはいいが、テレビゲームや麻雀をすることが自分の人生にどれだけプラスになるか考えてみればいい。遊びにコストを考えるべきで賭事などビギナーズ・ラックだけで夢中になるのは危険だといってもわからない。

 数学者の藤原正彦はアルコール量でワイン200cc以上は飲まないと決めている「酒の模範生」。「酒で死んでいく細胞の一つが、数学の問題を解くうえで決定 的になるかもしれぬと思ったからだ」(『父の威厳 数学者の意地』新潮文庫)。何もそこまでとも思うが、数学を志す以上、酒を断つのは当然だったようだ。

 脳細胞は200億近くあるという。酒を飲むたびにそれが十数万も死ぬと聞くとやはり怖い。

 個性って何も茶髪にすることでも、目立った行動をすることでもない。みんなが茶髪にしたら、まるで個性でもなくなるし、別の不自由に従属しているにすぎない。「遊び」(ゆとり)がなければ歯車が動かないことを知れ!

「君を怖がらせるつもりはない」と彼【アントリーニ先生】は言った。「でもね、私の目にはありありと見えるんだよ。君が無価値な大義のために、なんらかのかたちで高貴なる死を迎えようといているところがね」、彼はちょっとおかしな目で僕を見た。「もし私がここで君のためにちょっとした一文を書いたら、君はそれを注意深く読んでくれるだろうか? そして手許にとっておいてくれるかな?」

「はい。もちろん」と僕は言った。そして実際に言われたとおりにしたんだよ。先生がそのときにくれた書き付けは今でも持っている。

 彼は部屋の向こう側にある机のところに行って、立ったまま紙に何かを書きつけた。それから紙を手に戻ってきて、腰を下ろした。「不思議と言うべきかどうか、これは本職の詩人の書いたものじゃない。ヴィルヘルム・シュテーケルという精神分析学者によって書かれた。彼はこう記してーーー聴いてるかい?」

「はい。聴いてます」

「彼はこう記している。『未成熟なもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ』」

 先生は身を乗り出すようにして僕にそれを渡した。僕は渡された紙を一読し、お礼を言ってポケットにしまった。わざわざそんなことをしてくれるなんて、なんて親切なんだろうと思った。いや、本心そう思ったんだよ。ただ問題はさ、僕が意識をうまく集中できないってことだった。やれやれ、なんか急にどどっと疲れが出て来ちゃったみたいだった。
     -----サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社・村上春樹訳)

 学校で勉強逃れからか「こんなことをやって何か意味があるのですか?」という学生がいる。「お前は意味だけで生きているのか」と叫びたくなる。


●体

 体を大切にしよう。他人の体を大切にするのは当たり前だが、自分の体も大切にしよう。自分の体だからどうしようと勝手だ、と若い頃は確かに思うのだが、御先祖様から与えられたものだとだんだん分かってくるだろう。地球で生命が生まれた時からのDNAがしっかりと入っている。自分の体だから自殺してもいい、と考えるのも、生んでくれたお母さんにあまりにも悪い。ルース・ベネディクトは『菊と刀』で罪の文化と恥の文化に分け、日本を後者で説明しようとしたが、小泉八雲は日本社会が比較的に安定しているのは御先祖様を大事にするからだといった。自分のDNAを大切にしよう。

 タバコやお酒を飲むことが社会に反抗していると考えるのは愚かだ。外見だけで大人のマネをしているだけだ。

 本当に好きな人ができてから後悔することもありえると考えよう。「自己決定」というのはとても大切なことだが、その場限りのことかもしれないのに、「カラスの勝手でしょ」みたいな論理を持ち込むのはどうだろう。

 舞城王太郎の『阿修羅ガール』は高校生アイコの「減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。返せ。」から始まる…。

 『育児百科』で有名な松田道雄は『恋愛なんかやめておけ』(筑摩)で次のように書いている。

 自由恋愛と言うけれど、ぜんぜん自由じゃない。男は乗換えがきくが、女はそうじゃない。女は恋愛列車に乗ってしまったら、捨てられない為には、男と一緒に家庭列車に乗り換えるしかない。結婚は恋愛の墓場だと言うが、別の恋愛列車に飛び乗ろうとしていた男にはそうだ。女には、恋愛の救急車だ。家庭列車に乗り換えるには女も男も準備が必要だし、家庭を支えるだけの能力が必要である。【…】

 今の世は、決して男女同権ではない。攻撃的な男に都合のいいようになっている。フリ−セックスは、なによりも我慢できないたちの男の発案だ。フリ−というのは、開放されたというのでなくて、無料という意味だ。無料セックスだ。フリ−セックスのふえた第2番の理由は、計算の下手な女が増えたことだ。フリ−セツクスの結果、間違って子供ができて、こっそり手術するのも女だし、経口避妊薬の副作用で病気になるのも女だ。男ばかりが得する世界で、恋愛だけ平等だと思うのはよほど計算に弱いのだ。

 僕らはどうして失ってからでなければ、大事なものの価値に気づくことができないのだろうか?

 結婚すれば何とかなると思っている女性もいるかもしれないが、社会的な価値、知性がない女性を求める男性は女性を小間使いと性的ペットとしか扱ってくれない。「カラスの勝手でしょ」という割には自立からは遠いのである。


●ユーモア

 チャールズ・ラムはお姉さんが鬱病でお母さんを殺してしまったのだが、本人も病気だと思っていた。二人で手を引いて病院に通ったそうだ。生涯独身だったが、悲しい時には新しいジョークを考えていた。ユダヤのことわざにも「知的な者ほどよく笑う」というのがある。人を笑うとエスプリになり、事件を笑うとジョークになり、自分を笑うとユーモアになる。

 笑いについて考察したのはフランスの哲学者アンリ・ベルグソンだが、笑いというのは客観化だという。人間は自己客観化ができる。動物は笑わない。人間が笑えるのは自分の立ち位置が分かるからなのだ。笑って、笑って自分を確かめよう。

古い伝説によると天の岩戸は他の力ではけっして開かれなかった。滑稽の力によってそれが開かれた。私はたわむれにこんなことをいっているのではない。多くの束縛と暗黒との中から私たちを解放してくれるのはその大きな力だ。
     ------島崎藤村


●幸福

 欲望の充足ラインを低めに設定しておけば、すぐに「ああ、なんという幸せ」という気分になれるでしょう。「小さくても確実な幸福」(@村上春樹)を一つ一つ積み重ねてゆくこと、それが結局「幸せ」になるための最良の道だと思います。
     -----内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店)


●教養

 谷川俊太郎『ノンセンス辞典』

【知識人】
知識についてはあらゆる知識をもっているが、
知識でないものについては、
なんの知識ももっていない人。

 「教養」というのは近頃、あまり居心地のいい言葉ではなくなっている。代表的なものは『男はつらいよ フーテンの寅』(第3作)の言葉であろう(ちなみに東大入試にもでたことがある)。

「インテリというのは、自分で、考えすぎますからね、そのうち、俺は何を考えていたんだろうって、わかんなくなってくるわけなんです。つまり、このテレビの裏っ方でいいますと、配線がガチャガチャに込み入っているわけなんですよね。ええ、その点、わたくしなんか線が一本だけですから、まあ、いってみりゃ空っぽといいましょうか、叩けばコーンと澄んだ音がしますよ、なぐってみましょうか」

 若きウェルテルが「ぼくら教養ある人間だと思っているものは、ほかならぬ教養によって毒された人間なんだ」と悩んでいるように、昔から教養というのは「邪魔をしたり」「みせびかせたり」するものでいい意味はなかった。大学からも教養部はなくなりつつある。教養が古典的、学問的に偏り、それ自身が目的となったためでもある。教養自体が目的化するのは「知的ディレッタント(〈イタリア語〉dilettante 趣味人)」に過ぎない。「情報コノスゥア(〈フランス語〉connoisseur美食家)」と言い換えてもいいが、何ても「ありゃ、大したことはないよ」といっていれば、自分の特権的な地位を守れた時代があった。

 僕が大学に入ったばかりの時、歴史学の教師が「君たちはインテリになれ、インテリというのは青白い顔をしたものではなく、人民のための知識を発掘するものだ」といわれて偏見がなくなり、インテリキンチャンになろうと思った。偏見を取り除き、人を幻想から醒ますのがインテリの仕事で、本来、孤独なものだ。イメージの時代だが、貧困や抑圧がある限り、それを書き留める役割がインテリにはある。

 『星の王子さま』が人は一人では生きていけないが、同時に「けれども、やっぱり、人はひとりなのだ」という矛盾したことを語っている。パスカルが『パンセ』で言ったように「人間とは偉大でありかつ悲惨な存在だ」ということだった。

 孤独に耐える「孤独力」というのが必要かも知れない。須賀敦子は『コルシア書店の仲間たち』で「孤独を確立しないかぎり、人生は始まらない」という。他人と同じことをしていて知的になれるはずがないからだ。

 私は「徹底的に知的な人間」である(ここでいう「知的」というのは、intelligentという意味ではく、knowledge-orientedという意味だ)。「徹底的に知的な人間」というのは、自分が「ぜんぜん知的でない人間である」可能性について考究することの方が、「自分が非常に知的であること」を他人にショウ・オフすることよりも好きなタイプの人間のことである。
 こういうタイプの人間はレアである。
 私はレアな一人なのであるが、それは子どもの頃から、「ウチダの言っていることは変だ」とあまりに頻繁に人に言われてきたので、自分がバカではないかという可能性について吟味する機会が人一倍多かったからなのである。
     ------内田樹『ためらいの倫理学』(冬弓舎)       

 教養というのはLiberal Artsとか、アメリカではArts and Sciencesという形で大学にあるが、人間として生きていくのになくてはならないものだと思う。教養のある犬がいないように、人間固有のもので、人間として他人に対してどれだけ優しくなれるか、ということだ。

 教養とは人の心が分かる心である。だからといって、他人が僕らの気持ちを分かってくれるという甘い考えもできない。見返りはないかもしれないし、誰にも理解されないかもしれない。それでも、他人を思いやることが大切だ。

「水のこころ」  高田敏子

  水は つかめません
  水は すくうのです
  指をぴったりつけて
  そおっと 大切に──

  水は つかめません
  水は つつむのです
  二つの手の中に
  そおっと 大切に──

  水のこころ も
  人のこころ も

Water Ways

You can't snatch water.
Water needs to be scooped
by fingers held together
in close accord, uplifting with care.

You can't snatch water.
Water needs to be enfolded
by two palms cupped together
in close accord, uplifiting with care.

Water is that way, and so
is a person's heart.

アーサー・ビナード訳
(『日本の名詩、英語でおどる』みすず書房)

 高校生にとって必要なことは何に対しても好奇心をもって接すること、自分自身の偏見からも逃れることである。そうした自縛から解き放つのがLiberal Artsだ。

「無知と無教養の違いは?」
「そんなこと知らないし、知ったこっちゃないよ」

 ギリシアでは精神と肉体が調和した全人的教養人が理想とされ、そのために学ぶべき知識が学科目として提示され、それがやがて自由七科(文法、修辞学、弁証法の三学trivium、および算術、幾何、天文学、音楽の四科quadrivium)へと発展、継承されていった。自由人にふさわしい全面的教養(Paideia)、自由学芸(Liberal Arts)として尊重されていた。

 教養の概念はルネサンス人文主義のなかによみがえり、さらに18世紀後半にドイツの新人文主義運動のなかで、古典文化の精神を学び直し、それを新たに創造、展開し直すという形でとらえ直されてきた。

 何よりも自分の立ち位置を確認することだ。視点を変えて自分を客観的に(無理なのだが、なるべく)眺めることだ。自分の位置さえ判れば、相手との距離感が分かり、理解できる(かもしれない)。自分を客観化して見ることをメタ認知ということがある。認知心理学者のブラウンは問題解決にかかわるメタ認知として次の5つをあげている。

1.自分の能力の限界を予測できる。
2.自分にとって、いま何が問題かを明確にできる。
3.問題の適切な解決法を予測し、具体策を計画できる。
4.自分の認知パターンの点検とモニタリングができる。
5.目標と照らし合わせて、実行中の方策を続行するか、変更すべきか判断できる。

 と、難しそうな話だが、受験生は誰だってやっていることだ。

 視点を変えろといっても、これが容易でないことはいうまでもない。何も知らないでものを見たら評価されることはあるかもしれないが、ビギナーズ・ラックというものだ。持続しない。視点を変えるためには努力が必要だ。

 教養とは“something of everything”(あらゆることに何かを知っていること)だという人もいる。残念ながら、複雑な現代ではあらゆることに物知りであることはできない。

 だから、ミシェル・フーコーはサルトルのような「普遍的知識人」ではなく、「特殊領域に関わる知識人」(intellectuel specifique)といって、自分の専門分野でもっている詳しい知識や経験を活かして、何か行いたい人々が互いに連携して様々な権力批判の運動を担っていくことを提唱した。知識人の使命というのはある特定の領域における自明性を打ち壊すハンマーと、その領域に新たな礎(いしずえ)を刻み込むノミが収められた「道具箱」を人々に提供することだという。「つねに人が見ていながらその実態においては見えてはいないもの、あるいは見そこなっているものを、ちょっと視点をずらすことによってはっきりと見えるようにする作業」だという。

 フーコーが「人間」が近代の新しい概念だということを指摘したように、「教養」もまた、新しい概念だった。自分というものが世間の中で予め割り振られていた中世では不要な概念だった。ところが、近代になってから自由を獲得した「人間」はその自由のために自分が誰なのか、社会の中でどんな位置にいるのか知りたくなった。それが「教養」というものを生み出した。

 知ることは最大の防御戦略、という言葉は常に真実だ。

 筒井清忠の『日本型「教養」の運命』(岩波1995)によれば教養というのは3つだ。英語で言い直すとそれぞれ、1がliteracy、2がculture、最後はhumanities,liberal artsに相応するといえる。

 

 例えば、最初が四則計算のできること、第2が日本の歴史や経済について語れることなど、第3が漱石をみんな読んでいることなどと考えれば分かりやすいかもしれない。第2についていえば、ハムレットのセリフを知らないと無教養と思われるが、熱力学の第二法則を知らなくても無教養と言われないのは文化的な教養を多くの場合指しているからである。C・P・スノウは『二つの文化と科学革命』(みすず)でそれはおかしいのではないかと言っている。

 余談ながら、賢く見せるコツの一つは何でも「3つある」ということだ。例えば「隠せないものが3つある。咳と貧しさと愛と。隠そうとするほど、表に現れるものだ」などというのだ(映画『イル・マーレ』)。

 もともと、日本型教養というのは多くの場合、大正教養主義という、旧制高校などから始まった主義を指すに過ぎない。高田里恵子が『グロテスクな教養』(筑摩新書)などで指摘しているように、学歴エリートが「自分は単なる受験秀才じゃないぞ」ということを自慢するために、教養を肥大化させてきたのだ。西田幾太郎『善の研究』、阿部次郎『三太郎の日記』、倉田百三『愛と認識の出発』さえ読めば(といって読んでいる人は稀)、生まれてくるものだった。今はこの内容が激変している。大切なことはどこかに「教養」という学問が存在するのではなく、今現在の教養を疑い、映画、漫画やロック、パソコンソフトをも含む世界の理解と知識、洞察が教養であることだ。

 つまり、モジリアニにミケランジェロを、『ホームアローン』に『ヘンデルとグレーテル』を、手塚治虫『ブラックジャック』のピノコの「アッチョンブリケー」にムンクの「叫び」を見つけることである。

 オルテガ・イ・ガセットも「教養は快楽の娘でこそあれ、労苦の娘ではない」と言っている。楽しみの中から生まれるもののはずだ。

 教養とは偏見を取り去ることである。あらゆる現象をあるがままに受け入れることができる人を教養ある人と呼ぶのである。

 バルザックの『従兄ポンス』を読めば、その一つの解答が得られるだろう。ここではポンスもシュムケもただ善良であるが故に騙され、憤死する。

 そして、教養とつけるとはより多くの選択肢を持つことである。一つの選択肢しかもたない人は情報も偏ってしまっていて行き詰まってしまう。自分の正しさを雄弁に語る知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性が大切だ。

 同様に、相手の価値をも認めることである。

 教養とは知性であり、人間性なのである。

 教養は常に邪魔をする。引き留める力を持っている。

 自分で考えることが大切だ。南伸坊は『モンガイカンの美術館』(朝日文庫)でいう。

 どんなアホな考えであっても、自分でアーデモナイコーデモナイと考えることこそが面白いのであって、ただ聞き流したり、見ながしたり、たれ流したりしてたんじゃ、クソ面白くもないのではないか!!

 スペシャリストを目指すか、ジェネラリストを目指すか、内田樹は三砂ちづるとの対談『身体知』(バジリコ)の中で日本の仏文学者の3分の1がマラルメで、3分の1がプルーストで、3分の1がフローベル研究者だといい、この分野での研究についての査定は客観性が高い。だから、自分の研究業績を正確に査定して欲しいという秀才たちはいきおいそういう専門領域に集まってしまう。

 逆に、レヴィナス哲学のような日本に先行研究者がほとんどいない領域だと、論文を書いてもどれほどのものか評価してもらえない。国際的な水準から見てどうなのか。専門家のあいだでは熟知されていることをオリジナルめかして書いているだけなのか、先行研究をコピー&ペーストしただけのものなのかといったことさえすぐにはわからない。あたりまえですけど、査読社は自分がすぐに評価できるものは評価するけれど、手間暇かけないと評価できないものは評価したがらない。若手研究者はとにかく業界内部的に評価されたいから、「評価されやすい領域」に集まってしまう。そうやって専門領域がどんどん狭くなってゆく。

 立花隆は「知的亡国論」(『文藝春秋』1997年8月号)の中で受験科目減少など日本の高校教育を巻き込んだ形での高等教育の危機(ものを知らない大学生の増加とレベルの低下)を嘆いてその再生を訴えている。若者にもっと勉強せよ、ミシェル・フーコーとは違って「ジェネラリスト」を目指せといい、「新しいリベラル・アーツの構築」について次のように述べている。

 バランスがとれたゼネラルな知識を与えることで、ものごとをトータルに総合的に見ることができる人間を育てようということです。現代の知の世界は、とめどない細分化によって、その全体性が失われようとしています。細分化による知の解体現象に抗して、知の全体性を復元し、それを維持していくためにも、リベラル・アーツ教育は大切なのです。……高等教育の現場では知の細分化がどんどん進んでいますが、社会のあらゆる現場は、ゼネラルなのです。ゼネラルな知が求められるのです。

 たとえば環境問題を解決しようと思ったら、工学、数学、生理学、化学、法律学、経済学、社会教育学などなど、あらゆる関連学問を動員する必要があります。社会のあらゆる部門の現場で同じような要求があります。そのような要求に対し、それなら、必要な専門家をどんどん集めてくればよいかというとそうはいきません。どういう問題でも、その問題の全体像をとらえ、いま何が必要で、それは誰がどいう役割分担すればいいかを考えるマネジメントが的確にできるゼネラリストが必要なんです。問題解決に参加する専門家も専門領域をこえた目が持てるゼネラルなスペシャリストが必要なんです。

 また、立花『東大生はバカになったか』(文藝春秋社)の中に東大経済学部で期末試験の採点をした話が出てくる。内容の低さに驚き、誤字、脱字のあまりの多さに唖然となったという。「学問をする機械」(機会)、「弱肉強力」(強食)等々。しかし、「学問をする機械」は傑作だ。せっかく学問をする機会に恵まれたのに、機械に成り下がったようだ。

 日本では知の世界におけるデフレスパイラル現象が起きてるんだ。経済のデフレスパイラルもこわいけど、知のデフレスパイラルはもっとこわい。何世代にもわたって影響が続くからね。ここまでくるともう止まらないね。

 ただし、斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店)のように立花に対しては「知と教養のコンビニ化」「神話に化けたノンフィクション」という批判があることも知っておいた方がいい。

 教養や情報の消費者に終わるのではなく、生産者にならなければならない。

 さて、教養についていろいろ書いたが全部忘れてほしい。「知識などすべて忘れてしまったあとでも、まだ残っているもの、それが教養だ」というのがエドワール・エリオの言葉だからだ。つまり、教養をちらつかせてはいけない。このインビジブルアセット(見えない資産)がその場の状況と合った時に初めて力を持つものなのである。

 アインシュタインはフロイトとの往復書簡『ヒトはなぜ戦争をするのか?』(花風社)の中で知識人について次のように書いている。

 人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?

 この点についてご注意申し上げておきたいことがあります。私は何も、いわゆる“教養のない人”の心を導けばそれでよいと主張しているのではありません。私の経験に照らしてみると、“教養のない人”よりも“知識人”と言われる人たちの方が、暗示にかかりやすいとも言えます。“知識人”こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか?彼らは現実を、生の現実を自分の目と自分の耳でとらえないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直にとらえようとするのです。


●進路

 『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』(第40作・三田佳子主演)で甥の満男が寅さんに何で大学に行くのか尋ねるシーンがある。

満男 「おじさん、質問しても良いか。」
寅さん 「あんまり難しいことは聞くなよ。」
満男 「大学に行くのは何のためかな。」
寅さん 「決まっているでしょう。それは勉強するためです。」
満男 「じゃ、何のために勉強するのかな。」
寅さん 「ん、そういう難しいことを聞くなと言ったろ。つまり、あれだよ。ほら、人間長い間生きていればいろんなことにぶつかるだろう、な。そんな時に、俺みたいに勉強していないやつは、この振ったサイコロで出た目で決めるとか、その時の気分で決めるより、しょうがない、な。ところが、勉強したやつは、自分の頭で、きちーんと筋道を立てて、はて、こういう時はどうしたら良いかなと考えることができるんだ。だからみんな大学いくんじゃないか。だろう?久しぶりにきちんとした事を考えたら、頭が痛くなっちゃったよ。」

 モチベーションさえあれば、後は自分で工夫できる。進路を早く考えることだ、というが、口で言うほど簡単ではない。人に聞いてもダメだ。自分の人生なんだから。何よりも、明確な目的意識なんて持っていない人の方が、色々なことに対して自分が開かれている。「これが正しい」という答えを持っている人って、それ以外の考え方を許容しなくなる確率が高くなる。ポール・オースターも「答えを持っているヤツは信用しない」と話していたという。

 台風の進路予想のような考えを持つべきだ。映画監督になりたい、ではなく、映画の周辺を狙う。脚本家でもいいし、ADでもいいし、デザイナーだっていいだろうし、テレビ業界だってある。最初から狭く進路を決めないことだ。<棒ほど願って針ほど叶う>というが、針であろうと叶えばそれで満足しよう。

「昔から作家になりたいと思っていたの?」とキリエ【淳平の恋人】が質問した。
「そうだね。というか、ほかの何かになりたいと思ったことがなかった。ほかの選択肢を思いつけなかった」
「要するに夢がかなったんだ」
「どうだろう。僕は優れた作家になりたいと思っていたんだよ」、淳平は両手を広げて、30センチほどの空間を作った。「その間にはかなりの距離があるような気がする」
「誰でも出発点というものはあるのよ。まだ先は長いでしょう。最初から完全なものなんてあり得ないもの」と彼女は言った。
   ---村上春樹「日々移動する腎臓のかたちをした石」(『東京奇譚集』新潮社)


●知識と受験

 ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』で精神の3つの変容について語っている。最初はラクダで、次はライオン、そして子供だという。ラクダは「忍耐」の象徴で学校で教えられる知識などを我慢強く覚えなければならない。ライオンは「批判」の象徴で今までの考えというのを根本から見直すことができる。しかし、批判だけで終わってはいけないので最後に子供となって「創造」する必要がある。ラクダの時期を経ないでいきなりライオンとなって噛みつくのは危険である。蓄積と批判精神なしに創造もできない。

 受験は確かに下らない知識をいっぱい身につけなければならないが、これだけ丸暗記する機会なんて滅多にないし、大学に入れば知識と教養とは違うことがよく分かると思う。批判するのは蓄積をもってからで間に合う。まっさらな所から始めるほど、今の文明は甘くない。基礎が大切だ。勉強したことは残らない。残るのは勉強の仕方だけだ。それでさえ、勉強の仕方で、研究の方法ではない。歴史家のE・H・ノーマンは学習において「問題を解く過程にこそ本質がある」という。受験で勉強というもののプロセスを学んでいると思えばいい。

 アメリカでは「創造派」と「事実派」というのが対立している。創造をさせるためにはあまり細かいことを教えすぎるとよくない、という考え方があって、最近の日本はこちらに移行しようとしているが、何もないところから何も生まれない。材料があってはじめて新しいものを作ることができるのである。

 暗記すればいい、というのは楽だ。和田秀樹の『受験は要領 たとえば、数学は解かずに解答を暗記せよ』(PHP文庫)は「90分〜120分の一コマごとに、科目を変えよ」「入試問題演習は、図書館でやると、本番気分が高まる」などと具体的な学習テクを披露しているが、「東・早・慶など一流大学こそ、暗記銃剣術のカモである」と明言している。

 記憶すればいいことが大半で考える問題はまだまだ少ない。記憶の方法はNHK「ためしてガッテン!」が奥義を紹介していたが、補って書くと次の通りだ。覚えるだけでいいというのはものすごく楽だ。それをどう活かすかが大切なのだ。

      「こんなに簡単!記憶の奥義」

●間隔を開けて(詰め込みはダメ!)
  時間配分が重要です。
  1時間やったら10分休憩。1日×3時間より3日×1時間
●覚えたらすぐに寝る(夢を見るといい)
  寝ている間に記憶は定着します。覚えたらすぐに寝ることが大切です。記憶物は寝る直前にする!
●サンドウィッチ学習 (暗記モノ→応用問題→暗記モノ)
  思い出し訓練も(友だちや親と問題を出し合う)
  覚えていても思い出せるとは限りません。
  朝一番は、前日の小テストで確認することからはじめると良いです。

○ガッテンおすすめ勉強法
  暗記モノは一度に長時間やらず、分散します。
  夜寝る直前に、覚えたかどうかもう一度確認します。
  翌朝、起きたらすぐに昨晩覚えた内容を再びチェック(小テスト)。
  その内容を1週間後にもう一度チェック。これでかなり覚えられるはずです。

 「受験地獄」なんてマスコミの作り出した幻想にすぎない。例えば、フランスなどは高校生の時から猛勉強を自分に課して高等師範学校(エコール・ノルマル)に入るというのが自他ともに認めた知識人、文科系の学者のお決まりだ。日本の受験くらいで潰れるような個性ってホントは大したことがない。試験問題もパズルだと思って楽しめばいい。

 プレッシャーとかストレスというのはコンプレックス同様、なければ人間はなかなか前に進めないものなのだ。オリンピックを見ていて、うちのおじいちゃんは「プレッシャーって強いのお、どこの先取や」とか言っていた。

 作家の内田百は「試験地獄などという事は当たり前の話であって、試験極楽なんていう事があってはならぬ」という(「学生の家」)。「忘れるには学問をしなければならない。忘れた後に本当の学問の効果が残る」とも書いている。

 柴田元幸『ケンブリッジ・サーカス』(スイッチパブリッシング)にはポール・オースターがこんな風に話している。こういうのを「教育の後発的効果」といって、後進国になればなるほど受験地獄はひどくなるのである。

オースター …十五歳の女の子で、僕の本を一冊か二冊読んで手紙をくれたのさ。なかなか立派な英語でね、来年高校に上がるんだけどそれが怖いって書いてある。韓国では朝七時から勉強をはじめて夜十時に帰ってくるんだそうだ。嘘だろ、そんあのありえない、一日中学校にいさせられるんじゃせいかつなんてまるでないじゃないかって思ったよ。とにかくいい成績めざして競争、競争なんだそうだ。【…】

 「偏差値教育反対」というけれど、人間性を問われたらみんな困ってしまう(今の中学の混乱の原因はそこにある)。「お勉強が足りなかったから」というのは慰みになるが、「人格がよくなかったから」となると社会が大混乱してしまう。点数で割り切れるから、暗記した分量で測られるから楽なのである。

 大学で何を勉強するかが大切だし、卒業した大学で人生が決まってしまうほど人生は単純じゃないし、社会も甘くない。「学歴インフレ」のこの時代に学歴にこだわっている会社はない。私立幼稚園の「お入学」からエスカレーターで学歴を買うこともできるようだが、学歴が金で買えるとしたら、高級ブランド品と同じ価値しかない(価値があるという幻想を持っている人もいるだろうが…)。

 要は、できるか、できないか、である。ただ、多くのことをゆっくり学べる時間はもっていた方がいい。海外留学するとか他の方法もあるが、今のところ「ハイリスク、ハイリターン」だ。

 試験がないところへ行きたいとも思っているかもしれないが、人間、節目というものがなければ成長しないのである。僕がラテン語をマスターできなかったのはM先生が「大変だ」という僕らの気持ちを汲み取って試験をしなかったためである(と他人のせいにするのはよくないが)。

 試験がなくても成長できるまでには長い経験が必要だ。

 ただ、試験の点数はそれだけの価値しかない。学校教育での点数が高いからといって人生が豊かになることはありえないし、人間は学校の点数以外の部分で勝負するものだ。

 学歴と資格と給料は無能な人が一番欲しがるものである。

 福沢諭吉の『学問のすゝめ』の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」というのは教わっているはずだ。諭吉は人間が平等だということを説こうとしたのではない。力点はこの後の主張にある。つまり、学問のすゝめになっているのだ。

 人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

 こうして封建卑屈の精神を批判し、「一身独立して一国独立する」ことを教え、そのために「人間普通日用に近き実学」を西洋から学ぶべきだと説き、日本における近代的、合理主義的な人間観、社会観、学問観の出発を示す本であるが、学問による差別を生んだという批判もある。「実学」でいくのか「虚学」でいくのか、それを考えるのが青春だ。人生だ。

 今は名門になっている灘高校のOBである遠藤周作が、母校を訪ねたときのことを書いている。生徒にどこを受けるかと聞くと、みな「東大」と答えた。優秀な医者や官僚が出るかもしれないが、小説家も画家も俳優も一人も出ない!「即座に東大と言う彼らには、国語の文章も受験の対象でしかなく、人生の一部とはならない。そんな勉強は<嘘の勉強>」だと書いている。

 『サヨナラ、学校化社会』(太郎次郎社)で上野千鶴子は親や教師に「将来のため」と言われて勉強し、いい学校に入ることをよしとする考え方を「学校的価値」と呼んでいる。現代はその唯一の尺度である偏差値が外の世界にまで浸透した「学校化社会」だという。学校と塾と家庭以外の世界を知らないため、学校的価値の中で落ちこぼれると、すべてを否定されたかのように感じ、絶望する。偏差値競争に勝っても「次は負けるのではないか」と不安になってくる。

 こちらがダメならあちらがあるという多様な価値観を身につけ、現在を精いっぱい楽しく生きることが大切だ。

 努力して受験した大学に万が一落ちても気にしないことだ。僕も教えていた富山工業高専の非常勤の先生で、昔、高専に落ちて、普通の進学校に行き、東大に入って、富山大学の先生になった人がいる。工業ではなく、経済学者になった。『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房)の遙洋子は落ちた大学でフェミニズムを教えることになった。大学が18歳のあなたを見る目がなかったということだ。まして、大学で人生が決まるということはない。

 イギリスなどでストップ・アウト(stop-out)という制度がある。一時休学することで、その間に世界を回ってくるのもいい。ボランティアをするのもいい。

 知識がどれだけあるかが問題ではなく、どう活用するかが大切だ。どんな教育を受けたかが問題ではなく、どんな人間になるか、何ができるかが重要だ。

 知識を網羅した言葉遊びは意味はない。日々の生活の中で養った自らのフィルターに知識を通して「ああ、そうか」と腑(ふ)に落ちたことを自分の言葉で語る。内田樹(日比谷高校→東大→学者)は次のように述べている。

 私自身は高学歴のひとなので、学歴それ自体は私にとって差別化指標としてはほとんど機能していない。日比谷高校というところと東京大学というところとその後には「大学の先生たちの業界」というところを巡歴したせいで、「勉強ができる」ということと「頭がいい」ということはまったく別の知的資質である、ということを私は身をもって学習したからである。

 確かに「頭がいいひと」のなかには「勉強ができるひと」が多く含まれる。とくに「非常に頭がいい人」はほぼ例外なしに「非常に勉強ができる」。しかし、その反対は真ではない。

 そして、「勉強ができて、頭が悪い人間」というものがこの世にもたらす害悪は、それはもう、筆舌に尽くしがたいものなのである。

 総じて、人間としていちばんかくありたい姿は「勉強ができなくても、頭のいい人間」である。そう、あなたのことですよ。ラッキー。(で、あと「勉強ができなくて、頭も悪い人間」というのが残っているんですけど、これについては、考えるだけで頭痛がしてくるので、話題にしなくていいですか?)

 今の教育が知識偏重だというのは認めるが、人生とは知識の断片を集め続けることである。中にはくだらない断片ばかりを頭に入れている人もいるが、科学や芸術までも含めて、普通では得難い断片を、普通の人より多く持っている人がいる。

 アイザック・アシモフは後者を「教養がある」と定義している。そして次のようにまとめている。

(1)独創性のある人は、できるだけ多くの知識の断片を、できるだけ手広く、変化に富むようそなえている必要がある。すなわち、広い教養がなくてはならない。
(2)独創性のある人は、知識の断片の組み合わせをやすやす手ぎわよくやってのけ、しかも、その組み合わせの効果を自分で認める能力を持っていなくてはならない。すなわち、知性を持つ必要がある。

 どんな大学であれ、会社であれ、自分がどのように自己実現するかが問題なのである。

大学が素晴らしいのは、短い間にせよ、有用性から解放される時期があることだと思う。【…】大学に入ってまで『役に立つ』勉強ばかりしていてはもったいないと思う。有用性から解きはなたれて、自分が本当はどんなものに関心を持っているかを知るチャンスだと思う。そそて、なにか一つ、傍目にはくだらなく思えるものでいいから、深く好きになることだと思う。そういうことで、どれだけ魂みたいなものが育つか分からないと思う。
   ------山田太一『いつもの雑踏いつもの場所で』(新潮文庫)


●学校とのつき合い方

 学校は徹底的に消費すること。名門だからと喜んだり、底辺だからと悲しむ暇があったら学校を利用することを考える。3年というのは長い人生の中のほんの瞬きにすぎない。

 どうしても辛くて休みたかったら休めばいい。やめたかったらやめればいい。ただ、後で「どうせオレは高校も出てないから…」などと言わないために高校くらいは出ておいた方がいい。誰でも我慢できるのに君に我慢できないはずがない。島田雅彦は『流刑地より愛をこめて』で「自分は下々の高校生には踏み込めない世界の空気を吸っている」と不登校の学生の気持ちを書いているけど、下々にできることが君にできないはずがない。

 立川談春の『赤めだか』(扶桑社)では高校を辞めて弟子入りしたいという筆者に談志がいう。

「学校というところは思い出作りには最適な場所だ。同級生がいて遊び場がある。だが勉強は何処でもできる。俺の側にいる方が勉強になる。学校では会えないような一流の人に会える。学歴なんぞ気にしなくていい」

「君が今持っている情熱は尊いものなんだ。大人はよく考えろと云うだろうが自分の人生を決断する、それも十七才でだ。これは立派だ。断ることは簡単だが、俺もその想いを持って小さんに入門した。小さんは引き受けてくれた。感謝している。経験者だからよくわかるが、君に落語家をあきらめなさいとは俺には云えんのだ。加えて俺は後進を育てる義務がある。自分が育ててもらった以上、僕も弟子を育てにゃならんのですよ。つまり、俺は君に落語家になれとも、なるなとも云えん立場なんだな。わかるね」

 勉強は山をかけて通す。山をかけるためには出題者の意図をくめばいい。出題者の意図を知るには授業をよく聞き、何度も教科書とノートに目を通すことだが、そこまでしなくても出題者をどう歓ばせればいいのか考えればいいだけだ。そんなものを「知性」とはいわない。

 遊ぶためには計画性を持つことが重要。また、休み中に予習をしてしまって余裕を持つこと。

 個々の勉強については野口悠紀雄の「『超』勉強法」が少しだけ役に立つと思う(東大の先生になるような人の本だから、凡人にそのまま当てはまることは少ない)。「パラシュート方式」というが、何よりも全体像をつかむことが大切だ。薄い教科書を全部修得した後に、必要な専門書を読む必要があるのに、最初から厚い教科書を選ぶのはよくない。ふもとから山を登るのではなく、(ケーブルカーがあれば)頂上には一度登ってみるものだ。地を這うよりも天を行け!

(1)勉強のやり方を工夫して、勉強を面白いものにしよう。
(2)部分から積み上げるのでなく、全体から理解しよう。
(3)8割できたら先に進もう。

 勉強は水泳と同じでトップでなければ波をかぶることが多いと知るべき。

 ただ、学校の成績が悪くても嘆くことはない。分かっていることをどれだけ知っていても前進したことにはならない。どんな小さなことでも自分で発見すれば大きな進歩になる。

 大学に入って教科書を使わない先生が多くて驚いたが、教科書には大切だけれど既成の事実しか載ってない。成績がいいというのはそうした事実を疑わないということだ。

 自分の頭で考えることが重要だ。学校の優等生というのは疑いをもたない人のことを指すのかもしれないが、もっと別の見方がどこかにあるのだ。

 あまり知られていないことだが、勉強と道徳は根源が同じである。すべての勉強は「こう考えなければならない」という道徳教育だからである。哲学とは、まさにこの道徳に叛旗を翻(ひるがえ)す意志なのである。その第一歩は「いや、そう考えなくていいのではないか」という疑念から始まる。次に、それでも大多数の人々が「そう考えなくてはいけない」と思い込んでしまっている理由の解明に向かう。そして最後に、できることなら、別の考え方の可能性を提示する。これが哲学の王道である。
     ------永井均「哲学することの価値」『学問はおもしろい』(講談社)

 フランス人はバカロレアに合格しないと大学に進めないが、鹿島茂『フランス歳時記』(中公新書)で次のように書いてあった。

 リセ【高校に相当】の生徒は、この試験のために、低学年の頃から、思考力を養うために、毎週何時間かは、論理の組み立て方や展開の仕方を習っている。たとえば、まずウイの立場に立って論証し、つぎにノンの立場で同じことを槍、¥最後に、そのどちらもダメという第三の立場を見いだして、両者を一刀のもとに切り捨てるという弁証法を練習するのである。これでは、フランス人が理屈っぽくなるのも無理はない。

 【…】こうした落伍者の中には、エミール・ゾラのような有名人もいる。ゾラは二年連続してバカロレアに落ち、しかたなく、まだ小さかったアシェット書店の店員となり、そこで店主から文才を認められたのである。

 もちろん、だれもがゾラのようになれるわけではない。【…】

 クラブのことはよく分からない。学校によって随分違うが、両立できるはずだ。僕は生物クラブの部長をしていたが、その思い出だけで生きているのかも?

 大学生に増えていた「ダブルスクール現象」が高校生の間にも静かに広まっているという。ある大学付属男子校の校長によると、ある生徒が大学進学を目指しながら1年生の時は簿記、2年では会計事務というように段階を踏んで学んでいる。運動部にも所属しているが、部活のない曜日と学校週5日制の実施で空いた土曜日を使ってのことという。かなりきつい日程だが、「学ぶ」ことへの強い意欲と若い肉体がそれを克服しているようだ。この学校では彼だけではなく、かなりの生徒がダブルスクールに挑んでいるという。

 これまでも予備校や塾に通う生徒はいた。だが、最近目立つのは、簿記やパソコン、語学などの専門学校。高校で学ぶことに加えて、なんらかの専門性をつけたいということのようだ。

 しかも、受験での見返りを考えているのではなくて何を学び、何を身につけたか、どんなことをしたかが重要視される時代に自分を見つめ直そうというのだ。

 学校に囚われない新しい生き方を模索する高校生が増えていることは素晴らしい。

 学校の先生とは適当につきあうこと。相手も人間だと諦めてあまり期待せず、ただ、知識だけは引き出すこと。多くを要求してはいけない。学校という狭い社会で暮らしている教師に、深くて幅のある人生観を要求するのは間違っている。

 ただ、波長の合う先生にはときどき顔を出すようにする。教師にとっても慕って(?)くれる生徒は可愛いものだ。教師であれ、誰であれ、他人の長所を発見できることは君の最大の長所ともなる。

「教師は生徒の成れの果て」という言葉もあるので教師も人間だからとあまり期待しない方がいい。

 教師は常に乗り越えるべき存在だ。


●親心

 世の中で親ほど愚かな者はないと思う。子どもの行動に一喜一憂する。哀れなものだ。その気持ちは君たちが親になるまで絶対に分からないだろう。『ファウスト』に「悪魔は年寄だ。だから年寄にならないと悪魔の言葉は分からない」というのが出てくるが、年をとったから分かることもあるのだ。

 親に感謝することはない。育ててもらうのが当然だからである。うれしかったことは自分の子どもたちに同じようにしてあげてほしい。

 もしイジメられていたら、やっぱり親に相談しよう。学校へ行かないのも一つの選択だ。恐喝されていたら警察に行こう。

 民俗学者の宮本常一が郷里の山口県から大阪に丁稚奉公に出る際に父から受けた10の餞別の言葉の紹介である。

(1) 汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
(2) 村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。
(3) 金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
(4) 時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
(5) 金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
(6) 私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない、すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。
(7) ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。
(8) これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならない。
(9) 自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。
(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大切なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。
      宮本常一『民俗学の旅』

●適性

 「権力欲があって、声が大きく、面の皮が厚く(神経が太く)、面倒見がよく、異常に体力があって、権謀術数にも長(た)けている13歳は、最初から政治家を目指すのではなく、NPOやNGOなどで……体験を積むことを勧めたい」は政治家志望の少年に対する村上龍のアドバイスである(『13歳のハローワーク』幻冬舎)。適性を見つけよ、とよく言われるが実際には難しい。高校の頃、適性検査を受けたが、教師とはまるで違ったものだったような気がする。ゆるゆるで適性を考えていかなければいけないだろうね。

○夢を持て

 現実ばかりで、夢がなければ何も始まらない。「夢というものは」と、劇作家の山崎正和が語っている。「現実について少しだけ知っているが、十分には知らない人がもち得る特権」である、と(『見わたせば柳さくら』中公文庫)。詩人の萩原朔太郎も後悔したくなければ「何事もしない方が好(よ)い」という。ただし「何事もしないところの人生も、ひとしくまた悔恨なのである」と付け加えている。

 ただ途方もない夢を見ていてもダメだ。泳げない人がオリンピックの水泳選手になろうとしても無理だ。プチゴールを目指せ。そのためには「20%ルール」を勧める。少し背伸びをすればなんとか届くレベル、つまり、実力プラス20パーセントくらいを目指そう。今の実力から考えて、20パーセント程度、背伸びをしなければならないようなところから始めたらいいと思う。

どんな道ばたでも、店先でも、教会でも、裁判所でも、お仕置き場でも、注意深い人間には仕事がむこうからころんがりこんでくるものだ。-----シェイクスピア『冬物語』第4幕第4場

○貧しいから無理だと思うな。

 声楽家のバーバラ・ボニーはチェロを運ぶお金(一人分の航空運賃がかかる)がないから諦めて声楽を志したという。別の可能性もいっぱいあるはずだし、お金なんて後からついてくるものだ。奨学金もあるし、アルバイトも可能だ。親のスネはかじれるだけかじれ!自分で可能性を失いながらそれをお金のせいにするのを心の貧しさという。ブランド商品を金で買って、それで自己実現していると誤解している人間と変わらない。

○批判にめげるな。

 作家の渡辺淳一は『ものの見かた感じかた』(講談社)で「嫌なことをすぐ忘れられる、叱られても耐えられる、簡単にくじけない、よく眠られる。これらはまさしく才能だ」と言う。才能というと、表に出たきらびやかなことばかりに目がいきがちだ。でも、ちょっとやそっとのことに動じないというのも、重要なことだ。表の才能も、目に見えない才能の下支えがあって初めて芽が出ることもあるからだ。女優泉ピン子の父親は浪曲師だった。一人娘の彼女を「君」と呼んだ。「君、品の悪いのは直るが、品性は直らない」「君、出るくいは打たれる。曲がったくいは打たれない」。打たれるのを恐れるな、と。太宰治は「笑われて、笑われて、つよくなる」と「HUMAN LOST」で書いた。また、『津軽』では「大人とは」に続けて、「裏切られた青年の姿」と言った。太宰によれば、人はあてにならないということの発見こそが、青年が大人になるための必修科目なのだ。

 お笑い系の哲学者・土屋賢二は『妻と罪』(文藝春秋)で次のように書いている。

 アドバイスほど迷惑なものはない。わたしの経験から言っても、アドバイスをしてくれる連中は本当にわたしのことを考えているわけではない。「そんな文章を書いていたらバカにされるよ」とアドバイスするのは、ふだんからわたしをバカにしている人間だ。「そんなことをしたら叱られるよ」と忠告するのは、わたしを叱る本人だ。

 村上春樹は『ひとつ、村上さんでやってみるか』(朝日新聞社)で書いている。

「腹が立ったら自分に当たれ、悔しかったら自分を磨け」

 『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)では次のように記されている。

 誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。

○良心を持とう。

 持つだけではなくていかに使うかが問題だ。映画監督小津安二郎は「品行方正でなくていい。品性だけは良くしよう」というのが口癖だった。

○安易に同情するな。されるな。

 ニーチェは「同情は厚顔である」(『ツァラトゥストラはかく語りき』)、「同情とは、弱者を目にした際の支配欲の快い興奮なのだ」(『華やぐ知恵』)という。安部公房も同情には殺意が秘められているという。そして、ブルース・リーは「寛容とは侮辱である」とインタビューで話した。

○才能がないと思うな。

 才能のために貪欲になろう。塩野七生は「男が上手に年をとるために」(『男たちへ』文春文庫)で次のようにいう。

 優しい若者を、私は若者だと思わない。立居振舞いのやさしさを、言っているのではない。心のやさしさ、とでもいうものだ。若者が、優しくあれるはずはないのである。すべてのことが可能だと思っている年頃は、高慢で不遜であるほうが似つかわしい。
 
 優しくあれるようになるのは、人生には不可能なこともある、とわかった年からである。自分でも他人でも、限界があることを知り、それでもなお全力をつくすのが人間とわかれば、人は自然に優しくなる。

 優しさは、哀しさでもあるのだ。これにいたったとき、人間は成熟したといえる。そして、忍耐をもって、他者に対することができるようになる。

 100年前はイチローだって野球選手になろうと思わなかっただろう。時代は動いている。10年後にどんな技術が開発されて、何が本流となっているか、どんな才能が注目されるか分からない。現に僕はインターネットがなかったらこうしてウェブライターの才能?は芽生えなかったはずだ。

 例えば、出版社に原稿を送って送り返されても悲観することはない。三田誠広は『プロを目指す文章術』(PHP)の中で書いている。

…半年ほどしてまったく読んでいない原稿を返す時、読ませていただいて可能性のある作品だと思ったが、さらなる推敲をすればもっとよくなるはずだからがんばって書き直してほしいとだけ伝える。それで書き手が自分で反省して書き直しをした原稿を読めば、細かい指導をする手間が省けるというこtになる。書き手に才能や見識がなければ、反省のしようもないわけだが、そういう新人は切り捨てるしかないということだ。

 天才でなかったからよかったと思えばいい。天才というのは社会に認められるまでが大変で、自分自身をも持て余すからだ。「知性は病気」だと悩むソルボンヌの学生の本がこれだ。

 社会に適応できない原因は、僕の有毒な知性だということがわかった。ぼくの知性は、僕をそっとしておいてくれない。僕の手に負えない。ちせいのせいで僕がお化け屋敷になった。暗くて、危なくて、薄気味悪くて、僕の悩める精神に取りつかれたお化け屋敷だ。
     -----マルタン・パージュ『僕はどうやってバカになったか』(青土社)

○戦略的に考えろ。

 悩むな、考えろ!

 新しいことをしようとすると人は概ね次のように行動するから、そうした抵抗を最初から計算しながら仕事をしよう。

1.新しいことを提案すると、人は必ず「それは誤りだ」と言う。
2.少し進みだすと「誤りではないが、できるはずがない」と言う。
3.できそうになってくると「できるかもしれないが、できても意味がない」と言ってくる。
4.できるころには「やっぱり私の言ったとおりだ」と言う。

 相手に嫌がられることをして受け容れてもらおうというのは傲岸である。戦略を持とう。カフカに「掟の門」という短編がある。田舎から来た一人の男が掟の門を通ろうとする。しかし、そこには門番が立っており、「入れてくれ」と頼んでも「今はだめだ」と中に入れてくれない…死ぬ間際になってどうして他の人が入ろうとしなかったのだろう、と尋ねると「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」で終わる。何とでも解釈ができる小説なのだが、もしかしたら、君だけに開いている門があるのに、君は入ろうとしていないのかもしれない。ただし…。

考えぬいた策略が失敗に終わることもあれば、無分別が役に立つこともある。-----シェイクスピア『ハムレット』第五幕第二場

○努力しろ。

 いつか必ず才能が花開くことがある。何も努力しないでは花は咲かない。鬱々して品性を落としてはいけない。苦しみの伴わない楽しみは長続きしない。ジョージ秋山の漫画『浮浪雲』で勉強に身が入らない息子に主人公が言う。「富士山に登ろうと心に決めた人だけが富士山に登ったんです。散歩のついでに登った人はひとりもいませんよ」。

 村上春樹は『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)で「本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ」という。努力しないと何も得ることはないし、何もしないで得たものには価値はない。

 高木仁三郎『市民学者として生きる』(岩波新書)の中に高木の友人が長野のお寺にあった言葉を贈ったのが載っている。

本気ですれば
大抵のことができる

本気ですれば
何でもおもしろい

本気でしていると
誰かがたすけてくれる

○失敗を恐れるな。

 ゲーテも人間は努力する限り迷うものだと言った。十代はさなぎの時代で、悩みが深ければ深いほど、美しい蝶に生まれ変わることができる。

「公園で子どもを遊ばせている親がいる。一人は、すぐ危ない、それをしてはだめ、これをしてはだめ、と禁止してばかりいる親、もう一人は、はらはらしながら、ある程度まで危ないことをさせて、見守っている親」どちらが正しいだろう。日本人の個性のなさは失敗を怖がるところからくる、と、なだいなだが『こころを育てる』(ジャパンタイムズ)が書いている。実は「失敗しても、おもしろい実験に参加した、という記憶が、その人間の個性をつくっていく」のに、という。命だけは戻らないけれど、どんなモノでも必ず回復させることはできる。人間、失敗があって当然。年老いてから失敗すると最初の失敗で挫折することがある。だから若いうちに失敗することだ。失敗しても、それをどう切りぬけるかが大切。その知恵を身につけることも無駄ではない。ただ、失敗から何も学ばなかったらだめだ。

 フランスの詩人はジャン・コクトーは「青年は決して安全な株を買うな」と言った。作家の沢木耕太郎は生命保険に加入したときに人は青年時代を終える、と書いている。ただし、「リスク」と「デインジャー」は違う。「リスク」とは計量可能な危険性で、「デインジャー」とは、計量不能の危険性、リスク・マネジメント、リスク・ヘッジが効かない前代未聞のことだ。交通事故のようなデインジャーは避けられないが、リスクは前もって計算しよう。

「僕はいろんなものを失いました」
「いや」と羊博士は首を振った。「君はまだ生き始めたばかりじゃないか」-----村上春樹『羊をめぐる冒険』

○軽々しく人を軽蔑するな。

 豚は豚小屋にいてもちゃんと世界三大美味のトリュフの匂いをかぎわけて探してくるではないか!唾棄すべき人も多いことは事実であるが、わずかの事実だけであんまり人を判断するものではない。中国のことわざに「牛は自分の角が曲がっているのを知らないし馬は自分の顔が長いのを知らない」というのがある。自分の欠点は分かりにくいものだ。アホな先生や先輩がいても軽蔑するな。野村克也監督は「判断は誰にでもできるが、決断は監督にしかできない」と言ったことがあるが、他人の決断を後から笑うな。

なんでも慣例に従ってやらねばならぬというのか?そうなれば昔からの塵がそのままたまりにたまるだろう。-----シェイクスピア『コリオレーナス』第2幕第3場

 と嘆くのは執政官になるために、謙虚さのしるしである粗末な衣装を着て街頭に立って平民たちに頭を下げて推薦を乞わねばならないという慣例に反発して主人公が言う言葉だ。続けて「真実は埋もれかくされる」という。とはいっても、慣例を破ることが新しいことではない。世の中にはそれなりの合理性があって生まれてきているものがあり、全てを疑うというのはあまり戦略的ではない。蠅たたきになってはいけない。

「のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。強壮な風の吹くところへ。蠅たたきになることは君の運命ではない」-----『ツァラトゥストラはかく語りき』

○生き急ぐな 

 より速く「動くこと」にとりつかれた現代の文明に対し、文化人類学者の辻信一は「留まる者の遅恵」の大事さを訴えている。「遅恵」というのは一つの場所に根を張って、急がずにじっくりと熟成する時間を味わう古くからの知恵という(『スロー・イズ・ビューティフル』平凡社ライブラリー)。長田弘の詩の一部が引用されている

ゆっくりと生きなくてはいけない。
空が言った。木が言った。風も言った。

 人生のコツは忘れることかもしれない。随筆家の串田孫一は消しゴムを「救主(すくいぬし)」と呼んだ。さまざまな軽率や無知が生んだ書き損じを消してくれるのだから、だという(『文房具56話』ちくま文庫)。

 ヘミングウェイは「人生は五ついいことが揃えばいいんだ」と言っている。「いい女」「いい友達」「いい酒」「いい本」「いい思い出」。全部揃うのは難しいと言う。ヘミングウェイは全部それを揃えた希有な人間だ。でも、そんな人でも歳を取ると虚しくなって自殺してしまうのだから、僕らのような揃わない人間の悲しさは語るまでもない。焦らないことだ。

すべては時がくるまで熟さない、ぼくもそうだった。-----シェイクスピア『夏の夜の夢』第2幕第2場

○早くあこがれの人物を見つけよ。

 一刻も早くすごい人、かなわない人に出会うことを切望する。道に迷ったとき、その人の人生に照らし合わせて軌道修正できる。若い時に「亜流」になることを恐れてはいけない。「個性」などというものははじめから備わっているのではない。真似をする経験から生まれてくるものだ。

神様のおかげで、人間だれでも胸にあこがれの星をもっています。-----シェイクスピア『から騒ぎ』第一幕第二場

○勇気と楽観を持つことだ!

 350年間解けなかったフェルマー予想を解いたプリンストン大学のワイルズ教授は「本気でとりかかったらいけない」とされた問題を解き始め、途中、挫折した8年間を送った。ほとんど論文が書けなかったし、「ワイルズは燃え尽きてしまった」「家で育児にかまけている」と揶揄された。それでも諦めなかったのは楽観があったからだ。

 勇気と楽観は人間の能力を開花させる絶対条件と思う。客観的に自己をみつめ分析する、などということをしていたらまともな人間は早晩、自信を喪失しつぶれてしまう。自己懐疑も同様である。指導者の最大任務は、率いる人に勇気と楽観を与えることなのだと思う。----藤原正彦『古風堂々数学者』(講談社)

 天才というのは必ずいるものである。ただ、弟子の佐渡裕(指揮者)が「(レナード・)バーンスタインはひどい演奏もしたけれど、奇跡のように素晴らしい演奏もした。天才とは奇跡が起きる確率が高い人なんです」というように確率を高めるために常に準備していることを忘れてはいけない。

 そのバーンスタインが亡くなる直前の来日インタビューは次のようだった。「自分は音楽家になるべきか、とあなたが質問をするなら、答えはノーだ。理由はたずねたから。禅問答みたいだろう」と一瞬、いたずらっ子のような表情を浮かべた。「もし、あなたが本当に望むなら、あなたは音楽家だ。誰もとめることはできない」と(バーンスタインは音楽家にしたくない親からピアノを捨てられたことがある)。

 この問答でバーンスタインは確かobsession(脅迫観念)という言葉を使っていたが、自分ではどうにもならない想い、「とらわれ」や「こだわり」として自覚されなければならないというのだ。

 音楽家として生きるためにはそうした強い脅迫観念が必要だ。シェイクスピアでさえ“devine Shakespeare”(神のような非凡な〜)と呼ばれるようになるまで200年かかったのである。

 そして、何であれ、その道のプロとして生きるためには必要な想いなのである。

 これから君たちは自分が何のために生きて、何になれるのか迷うことだろう。「真理」というのは簡単にいうほど見つけにくいもの、不確かなものだが、自分で見つけていかなければならない。

 哲学者の池田晶子は『14歳からの哲学』(トランスビュー)で次のように書いている。

 日常の光景から宇宙の果てのことまで考えてきて、さて、君は、再びこの日常、この人生を、これからどんなふうに生きてゆくだろうか。
「存在する」ということは、奇跡だ。存在する限りのあらゆることが奇跡であり、したがって謎なのだという絶対の真理を手放さないのであれば、君は、これからの人生、この世の中で、いろんなことがあるけれども、悩まずに考えてゆくことができるはずだ。そのためにこそ、人間には、考える精神があるんだ。考えたいけどうまく考えられない、そういう人だって、かまわない、生(ある)と死(ない)の謎を感じて、その謎を味わいながら、大事に人生を生きてゆけばいい。真理は、すべての人の内に等しくあるものだから、そのことを信じてさえいるなら、大丈夫だよ。
 真理は、君がそれについて考えている謎としての真理は、いいかい、他でもない、君自身なんだ。
 君が、真理なんだ。はっきりと思い出すために、しっかりと感じ、そして、考えるんだ。 

 分からなくなった時、自分が一番こだわっていることに立ち返るのが一番いいと思う。

 他人からいつの間にか与えられた価値ではなくて、自分自身の価値を持つことである。

 その価値をどのように実現していくか、それが「自己実現」「自己表現」というものである。「寛容とは侮辱である」とはブルース・リーがインタビューで語った言葉であるが、自分に甘えてはいけない。

 自分の価値のために大胆になれ!


●「お前と世界との決闘に際しては、世界に介添えせよ」(「君と世界との戦いでは、世界に支援せよ」)

 カフカは彼のアフォリズム(『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー)の中で「お前と世界との決闘に際しては、世界に介添えせよ」と書いている。世界(世間)が受け容れてくれない、世界こそ間違っているということはもちろん正しい。しかし、世界が自分たちを切り捨てるのが勝手なら、世界を見限るのも自分たちの勝手である。でも、それではコミュニケーションが成立しない。自分には理不尽にしか思えないような意見がはびこっている世界との戦いでは、自分ではなく敢えて世界に支援せよ、世間の目線で自分を見よ、というのだ。


●最後に(退屈な人生を送るな)

自分を大事にすることは、自分を軽んずるほどのひどい罪ではありません。---シェイクスピア『ヘンリー五世』第2幕第4場

 少年による女性教師のナイフ刺殺事件があった際、作家の村上龍が「『少年とナイフ』に思う」という文章を書いている(朝日新聞98-2-17朝刊)。「他人事の大合唱やめよ」「中高生よ、退屈な人生を送るな」といい、次のような重要なメッセージを伝えている。

 東大を出て大蔵省に入ってもいいことは何もありません。昔は理不尽に威張ることができて、銀行や証券会社に接待され下着を付けていない女性を見ながらしゃぶしゃぶを食べたりゴルフができたりしたそうですが、もうそれもできなくなりつつあります。有名大学を出たというだけでは、ソニーにもホンダにもキヤノンにも朝日新聞にも集英社にもフジテレビにもはいることはできません。だから、自分の興味と個性を活かせるものを早い時期から探して発見し、ある意味でのスペシャリストになることがこれから楽しい人生を送る上で大切になってきます。

 環境との共生、あるいは先端の通信技術を含めた諸外国との友好関係なども今よりもはるかに重要になると思われるので、語学や科学的な知識はあらゆる分野で必要とされるようになるでしょう。自分の好きなことを見つけることができた人、その分野で科学的に努力した人だけがこれからの世の中では有利になり、尊敬され、充実した人生を送ることができるのです。ですからナイフで人を脅したり刺したりする中学生やからだを売る女子高生は、結局退屈な人生を歩むことになります。退屈な人生を八十年歩むのは、恐怖です。

言語学のお散歩    please send mail.

「いい格言(マキシム)はすべてこの世に存在する。ただ用いられていないだけだ」
パスカル『パンセ』


※恥ずかしいことにこのエッセイは紀田順一郎『読書三到』(松籟社)などに取り上げられている。

□「大学生活を送る子どものために」