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Caught in the World Wide Web


CALIBAN       
You taught me language, and my profit on it is I know how to curse. The red plague rid you for learning me your language!
(Shakespeare Tempest
キャリバン
確かに言葉は教えてくれた。お陰さまで
悪態のつき方は覚えたよ。疫病でくたばりやがれ、
俺に言葉を教えた罰だ!
 シェイクスピア『テンペスト』

ごあいさつ

金川 欣二 

 日常の言語生活を軽んじている人に、人生についてのすぐれた意見を期待するわけにはいかない。日常の言語は、言葉の専門家だけが大切にすればいいというものではないだろう。金品に育てられるのも人間なら、日常の言語生活に育てられるのも人間なのである。

 何が常識で何が非常識か。何によろこび、何にかなしむか。特殊な人間ではなく、ごく普通に考え、感じることのできる人間をつくり上げるのに、日常の言語は深くかかわっている。

 平凡な言葉を、いいかげんにでなく使って生きている尊さ。侮りやすい日常は、まことに侮りがたい人間の苗床である。
     -----竹西寛子「日常」(『朝の公園』読売新聞社1991)


 どうも人間の行動について、理由や目的があって、その方向に意欲を持つことが、多くなりすぎているような気がする。もしも散歩に効能があるとすれば、目的や意欲なしに、意味のない行動を生活にとりこむことだろう。能動性が評価されすぎて、受動性がだめになっているから。何も考えないでいて、そのときに現われた世界を感じとることは、生きていくためにとても重要なこととは思うが、今の時代ではそうした能力が衰えている。何かを考えて散歩するのではなくて、何も考えずにぶらりと。考えるのはそのあとでよい。

 じつのところぼくは、花も虫も好きなので、名前などもわりと知っているほうではある。でも、そうして知識を目的にしていては、せっかくの散歩が探求になってしまう。散歩で出合った景色の観賞には、そうした知識はあったほうがよいが、そちらは散歩以前の問題であって、散歩の目的ではない。

 こうして散歩していても、出合った人とか、出合った花や虫が、一種の物語になったりすることはある。でもここでも、物語を作ろうなどと考えてはだめだ。どうせ、日常のなかでふとさりげないから散歩なのであって、大仰な物語になどすると作りものじみる。あとに記念に残すほどのこともなく、すぐ忘れてしまう程度のはかなさが、散歩の物語の身上。

 それでも、ふらりと散歩しながら何かを感じて、ああぼくの感受性もまだだめにはなっていないなと、安心することはある。それを確認するために散歩するわけでもないのだが。

 日課にする気もない。散歩に出かけるときの偶然性を大事にしたいから。

 ふらりと風まかせ。景色は向こうからやってくる。散歩はそうした気分がよい。      
      -----森毅「散歩は風まかせ」(『ぼけとはモダニズムのこっちゃ』青土社)

 記号論や言語学や比較文化論の本格的な勉強をしようとしてこちらに来た人はごめんなさい。

 「閑文字(かんもんじ/かんもじ)」という言葉があって、漱石も『それから』(一の四)で使っている言葉ですが、辞書には「役に立たない無駄な字句や言葉、また無用の文章」と書いてあります。僕の文章はまさにその通りのもので、読む価値はありません。

 間違ったことを書いているかもしれません。ウソも多いかもしれません。ホントです。

 オチもなくて、面白くないかもしれません。悪意に満ちているかもしれません。ウソではありません。

 どだい、ネットなどで情報を得ようというのが間違っています。

 ちゃんと本を読んで勉強してください。

 「学のあるバカ」というものがいます。知は現場にあるのに、頭の中や本の中だけにあると思っている人です。僕もおそらくそうした人間の一人だろうと思います。学はあってもバカはバカというところです。だから、本を読んだら街に出て下さい。

 さようなら。 


 昔から“The Catcher in the Lie”と呼ばれている僕がクモの巣に捕まった。「捕まえ手」が捕まってしまったのだ。

 人類はインターネットという、スイッチを切れない装置を作ってしまった。ロープではないから、一本やニ本切れても、誰にもこの網を外すことはできなくなった。

 「クモの巣に捕まって」Caught in the Web of Words : James A. H. Murray and the Oxford English DictionaryというのはOED(オックスフォード英語辞典、NEDとも)の編纂者だったマレーの伝記のタイトルである。加藤知己の訳で『ことばへの情熱』(三省堂)として知られる。この伝記の冒頭にOEDの補遺の編者であるバーチフィールドが次のように高らかに述べている。

 本書は、ジョンソン博士にまつわるあの栄光と伝説こそないにしても、博士より遥かに偉大な、また、恐らくは英、米、さらにはヨーロッパにおいて、彼の同時代や後世のいかなる辞典編纂者よりも優れた、一人の辞典編纂者の伝記である*

 OEDというのは英語学史に燦然と輝く大辞典でその完璧な歴史主義で知られている。歴史主義というのは各語の用法を初出を洗い出して、その変遷を見事に描いてある辞書である。

 対抗するアメリカのウェブスター(WEBster!)が百科事典的な色彩が濃いのに対してOEDの方は執拗なまでの調査というか、まさに虱(しらみ)潰しに文献にあたっている。

 例えば、シェイクスピアはdeerを鹿ではなく、動物の意味で使うことがあったが、これはドイツ語のTierに相当し、ギリシャ語ではθηρがあり、それがどういう変遷で「鹿」の意味になっていったか丁寧に記載してある。だが、日本語の辞書でこうした徹底的な歴史主義を取っているのはなく、最大の『日本国語大辞典』(小学館)でも用例が分かるだけである。だから、「虱潰し」という語が最初に使われたのはいつか、どの文献の何ページに載っているか書いてあるのだ。もちろん、言葉というのは多くの場合、口語から始まり、初出年代で完全に決まるものではないが、何世紀にはどういう意味で使われていたかがおおよそ分かることになっている。

 アーサー・C・クラークは『3001年』の後書きに、OEDの中に自分の著作からの引用を相当数発見し、「今後もご贔屓に」といった主旨のことを書いている。

 しかし、この初出を調べるというのは容易ではない。一つ見つけても誰も知らないような文献から別の例が見つかることなんてザラだった。幸い、多くのボランティアが手伝いをしてくれたが、それでも、マレーはいつまでも言葉のクモの巣から逃れられなかった。

 大学の先生はOEDの項目を読むことによって学生に「教養」をひけらかすことができた。

「実はね、このteaという語が使われるようになったのはね、元々、北京官話(ないしは広東方言)でchaとされていたものが、マカオを経由してポルトガル人によって1559年にヨーロッパに伝えられてね、イギリスに伝わったのは1650-55年ごろだということが分かっているんだよ。最初の発音はteiでね、表記もtayとかteyとか書かれていたんだよ。【…】そういえば、18世紀の詩人のポープもThe Rape of the Lock(1712年)の第3篇の7-8行目に歌っているよね。【…】」

などと自慢できた。

 「教養」というのがそういうものだった時代がある。

 さて、1853年にこの辞典の企画をしたのはコールリジ、ファーニバルなのだが、推進力となったのは何といってもマレー(James Augustrus Henry Murray1837-1915)である。79年に彼が編集主幹となって84年に第1巻が刊行された。最終の第12巻(現在は補遺もいれて20巻)ができたのは1928年で、つまりマレーは途中で他界してしまった。

 他界の後は、ブラッドリー、クレーギー、アニアンズという、これも錚々たるメンバーが編集にあたることになるのだが、マレーが先鞭をつけなかったら完成はしなかった。『指輪物語』(映画『ロード・オブ・ザ・リング』)の原作者のトールキンは言語学者なのだが、OEDの編集助手を務めた。詳しい事情はジョナサン・グリーン『辞書の世界史』(Chasing the Sun : Dictionary-Makers and the Dictionaries They Made  1996/三川基好訳 朝日新聞社1999)。

 マレーはスコットランドに近いイングランドの辺境に生まれた語学のマレーな天才だった。2歳にならないうちに読み書きを覚えた。父親は仕立て屋だったので本と呼べるようなものはほとんどない環境で聖書が唯一の教科書だった。

 7歳頃には子供のための伝道雑誌に載っていたヨハネ伝の中国語訳を書き写し、「神」「言」「光」「命」や「太初」などの漢字を覚えてしまった。この後にも外国語訳の聖書と文法書を頼りに外国語を習得していく。

 中学卒業後は、教員生活を経て、ロンドンで銀行員となった。その間、独学で言語学の業績を発表して認められ、43歳の時に辞書の編纂を依頼されたのだ。

 編纂は涙々である。以前用例収集を依頼していた閲読者は行方不明だったり、カードが放置されていて読めなかったり、紙袋に鼠の死骸があったり、馬小屋で見つけたが既に焚付けになっていたり……。

 知的好奇心も強く、体力もあり、信仰心も篤くて禁酒主義者でタバコも吸わなかった。朝6時から深夜まで働き詰めになって、編纂をしていた35年間、休暇を取ったのはわずかに2回だけだという。

 こうして、言葉のクモの巣に引っかかって一生を終えたのである。

 デズモンド・モリス『「裸のサル」の幸福論』(新潮新書)には、モリスはこのマレーがいた家に住んでいると書いていた。

 クモの巣に引っかかったのはマレーだけではなかった。

 サイモン・ウィンチェスターの『博士と狂人』(The Professor and the Madman : Agnes Krup Litearary Agency 1998 早川書房1999年)は1896年の秋に編集主幹のマレーがオックスフォードから50マイル離れたクローソンという村にウィリアム・マイナーを訪ねるところから始まる。

 マイナーはそれまで20年もの間、ボランティアの文献閲読者として多大な貢献をしていたのである。マイナーは「個々の単語、句、構文の文学史的証拠を高めることへの貢献は、フィッツエドワード・ホール博士の貢献に継ぐ」という賛辞を受けていたのだ。このマイナーを何度もオックスフォードに呼んだのだが果たせず、自ら訪問することにしたのだ。

 いかめしい屋敷に案内されたマレーは驚くべき事実を知った。

 そこがブロードモア刑事犯精神病院であり、マイナーは20年以上も前からそこに収容されていたのだ。

 マイナーはアメリカ人で宣教師の家に生まれた教養ある紳士だった。南北戦争に軍医として出征したのだが、前線で、脱走兵に刑罰として焼き鏝を顔に当てるようなことをしたらしいんですが、新任の軍医の彼はその役目を命令されて、やむなく実行する。で、脱走兵がアイルランド人だったことから、アイルランド人から報復を受けるのではないかと、そういう妄想をもったらしい。まあ、ほかにもいろいろあって、精神異常者として軍隊を退役し、療養にと訪れたロンドンで非常に珍しい、銃を使った殺人事件を起こしてしまう。

 結局、裁判で無罪となりロンドン近郊の精神病院に入るが、当時、金持ちが精神病院に入ると、監禁はされるが、二部屋のマンションみたいな住いで、他の患者に金を渡して身の回りの世話をしてもらったり、自分の費用で書棚をつくって、蔵書をためて一室を書斎できた。7、8年たったときにマレーが用例収集者(篤志文献閲覧者)を募集していると知る。それからマイナーはマレーに厖大な数の用例を送ることになる。貧しかったマレーとは対照的なマイナーが協力することになった。

 ただ、彼には“悪癖”があって、「彼はいつも衝動にかられていて異常なほど××にふけった」。しかも神を信じていたから、その度に罪悪感を感じ、「こんなふうに××をすることをやめなければ、神の厳罰がくだるにちがいない」と思った。そして悩んだ末に、ナイフで自分のモノを切断してしまった。

 徐々に狂いながら、OEDの閲読を続けていく。

 ………。

 OEDの理想は21世紀になって「ウィキペディア」として花開く。「ウィキペディア」というのはアマチュアが百科事典を作ったらどうなるかという壮大な実験でもあるのだ。「いかなる芸術家も、最初はアマチュアだ」というのはエマーソンの言葉だが、OEDや「ウィキペディア」では専門家もアマチュアも一緒になって仕事をしている。

 OEDとは離れるが、マレーの言語学の恩師ともいえるヘンリー・スウィートも言葉のクモの巣に引っかかって過ごした人間だった。

 スウィートというのは『マイ・フェア・レディ』のというか、バーナード・ショウの『ピグマリオン』のモデルになった人だ。最後まで不遇だったので、ひねくれてしまい、「ビター・スウィート」と呼ばれた。

 ちなみに、デニス・リーマンの『囚人同盟』(光文社文庫)も『マイ・フェア・レディ』タイプのお話だ。ワシントン州のマクニール島刑務所に、ある日コンロイという男が加わってくる。銀行と取引するため、なぜか女子修道院長の格好に変装し銀行強盗を働いたらしい。そのため、みんなからマザーの名前で呼ばれる。オカマじゃないのかの当初の噂に反し、腕っぷしは強く、何より囚人らしくない精神の強さを持っている。次第に、リーダー格になり、彼等を指導して勉学に励まさせ、とにかく出所した後のための修練、準備を行わせる。ダラダラとした囚人生活から、目的のある生活に変化し、囚人たちの心も更生していく。なによりも言葉を見事に矯正していく。そして、早めの出所を果たした彼らは、マザーの裁判に集結する…。

 『時計じかけのオレンジ』などで知られる作家アントニー・バージェスはいう。

 「言語の研究には狂気の要素が入り込むことがある」と。

 でも、スウィートまではイギリスの英語学者はいなかった。大陸系の人ばかりで(というのもオールド・イングリッシュはドイツ語そのものだから)、スウィートが反省して英語の研究を始めたのだった。

 辞書として完成していると後続の人には言葉は整理されたもののように思えるが、歴史主義という一本の柱を作り、構築していくのは大変な作業だった。今、一本の柱といったが、実際にはOn Historical Principlesと複数形になっている。これはHistoricalの冠詞がaかanかで(つまり、ヒストリカルなのかフランス風にイストリカルなのかで)大論争になって複数形でごまかしたと言われている。Doctors Disagree.(学者は意見を一致させず)の典型的な例でいかに辞書を作る作業が大変かこれだけでも分かる。

 文学研究というのもOEDから用例を抜き出し、原典に戻り、また考えるという作業が多かった。大学の英文科の授業なんてOEDの引き方で終わったから誰も文学者にならなかったし、誰も英語を話せるようにならなかった。

 なお、シェイクスピアのスペリングは44種類もあると言われているが、OEDが採用していたのは一般的なShakespeareではなく、Shakespereである(形容詞の説明に出てくる)。辞書において、というか言葉において何が正しいか、というのは実に難しいということだ。

 OEDを買うのもボーナスを全部使って買うくらい(買ったら自慢)のものだったが、今では5万位でCD-ROMが出ていて、しかも検索が瞬時に終わる。


 OEDの原型ともいえる辞書はサミュエル・ジョンソンが一人で作った『英語辞書』だった。1747年に英国国教会主教だったウイリアム・ウォーバートンが「わが国には文法も辞書もなく、この広大な言葉の海をわたるための海図も羅針盤もない」と嘆いた。イギリスに先立つこと百数十年、イタリアとフランスは辞典編纂のためアカデミーを創設、何人もの人間を投入して半世紀近くをかけた辞典をつぎつぎに完成させていた。遅れをとったイギリスにとって、自国の由緒正しさを証明するものとしての英語を確認し、永久に確定するための辞典をつくることは、国家の急務であった。その大事業をパトロンもなく、たった一人で成し遂げたのがジョンソン博士だったのだ。

 1855年に完成した『英語辞書第1版』にはa lexicographer「辞書編纂者」の項目にa harmless drudge、つまり、「無害な奴隷(こつこつと仕事をする無害な人)」と書いている。家族にとって無害だったとはとても思えない。

 このジョンソン博士の辞書は今では当たり前の正書法(正しいスペリングなんてものはなかった)を明らかにした。

 逆に言えば、シェイクスピアは辞書なしにあれだけの作品を書いたのだ!

 他の辞書を引き写しただけの辞書もともかく、今でも多くの辞書の前書きに「故・□■さんに捧ぐ」などと書いてあって辞書の完成を見ずに亡くなっていく戦死者の名前を見ることが多い。昔から必ず一人は犠牲になることになっている。

 それどころか『古語辞典』を編纂して今も元気な大野晋は『日本語について』(岩波1994)で「(編者が)誰も死んでいない辞書は大体いい加減に作った字引きです」とまで書いている。

 『大言海』を編纂した大槻文彦は最愛の妻子を亡くしながら編集を続けた。跋文にその辺の事情が書かれているが、涙なしに読むことはできない。高田宏の『言葉の海へ』によると、明治政府は国語の統一に一国の独立の基礎、近代国家には近代国語辞書が要ると考え、明治8年に稿を起こし、明治24年『言海』が完成した。大槻文彦が玄沢、磐渓と続く一族の学問と、時代の要請を一身に受けて完成させたのである。

 『大漢和辞典』も悲惨で空襲で組版が全部焼かれ、手伝った4人の助手がみんな病死し、諸橋轍次は左目がつぶれた。そして40年の歳月が流れた。

 僕もある言語の辞書の改訂を手伝ったが、改訂する前にその先生は亡くなってしまった。もう一度やり直す気は起こらない。

 ただ、前書きを読む人は稀で、辞書編纂者の苦労は誰にも分からない。

 辞典作りが描かれた映画はハワード・ホークス監督(ビリー・ワイルダーと誰かの共同脚本)でゲーリー・クーパーが出た『教授と美女』(Ball of Fire)が唯一である(と思う)。百科事典作りを扱っているが最後に美女と教授が結ばれるスクリューボール・コメディである。『マイ・フェア・レディ』を逆にしたようなストーリーでこんなうまくはコトが運ばない。何しろ、キスさえしたことがない言語学ひと筋の教授が「俗語」について書かなければならなくなった。この本に載っていないことを教えてくれたのが、ギャングの情婦のバーバラ・スタンウィックで、この映画のゲーリー・クーパーもとてもチャーミングだった。何しろ百科事典の知識があるから、アルキメデスが巨大な凹レンズで太陽の光を集めて敵のローマ軍の艦隊を焼いてしまったように、ギャングたちをやっつけてしまう。でも、多くの辞書作りはこんなハッピーエンドで終わらない。

『教授と美女』

 ビアス(『続・悪魔の辞典』)のいうように「地獄」というのは「辞書編纂者の故ノア・ウェブスター博士の家」なのである。

 ちなみに、ウェブスターがどうして辞書編纂に力を入れたかというと、イギリスとアメリカは異なる国だから、異なる言語規則を持つべきだと強く信じていたからだ。だから、イギリスとは違うスペリングが採用されたのだ。

 映画で思い出したが、淀川長治さんにWebsterに触れた文章があって珍しかったので紹介する。

(サミュエル)ゴールドウィン【ワルシャワのユダヤ人家庭に生まれた】の無学ぶりをあげつらうエピソードも多い。あるとき部下の事務所に置いてある本を指して「ずいぶん厚い本だな。だれの本だ?」と訊ねるので、部下が「ウェブスターです」と答えた。「仕上げるのに時間がかかったろうな」とゴールドウィンがふたたび問うと、「はい、約一世紀」と答えがかえってきたので、ゴールドウィンは目をまわしたというのもその一つ。ウェブスターに関する知識が彼にはなかったのである。
     ------淀川長治『キネマ旬報』996号


 さて、この僕は世界に広がるクモの巣であるWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)に捕まってしまった。

 数学でウェブというのは中心がなく関連する構造を表すのに用いられる。

 WWWには中心がない。代わりにその中心となるのは自分自身なのだ(お前の思考にも中心がない、と言われそうだ)。

 WWWを見ていたら世界中に情報が満ちあふれていてキリがない。知人もできたが、広げていったら収拾がつかない。このホームページ作りも基本的には一日でできてしまったが、直そうと思ったら、どれだけ直してもキリがない。日記にもナルシシズムがあるが、ホームページでは更に強くなる。

 それは僕だけの姿でなく、これからインターネットという新しいメディアを手にした僕たち全体の姿なのである。

 コンピューターによってアクセスも検索も容易になった。

 でも、それで一体、何を、どうする、というのが僕らに課せられた大問題なのである。

 クモの巣に捕まって、もがいて、もがいて一生を終える、なんて嫌だ、嫌だ。


《後書き》


 このホームページは「クモの巣に捕まって」終わらないように外に向かって叫んでいこうとするささやかな試みである。色々なところに書いた駄文を整理もせずにまとめてあるだけで、重複もあるが許していただきたい。OCRで復元した文章には誤植が多いし、後から考えると不適切な表現もある。いろいろと実験している途中なので不備も多いと思いますが、どうぞお目こぼしのほど。気づいたことなど、お暇があったら電子メールをください。

 重複が多いのは社会学者の加藤秀俊さんの本だって重複が多い、などと偉い人と一緒にする訳ではないが、凡人の文章に重複が多くて当たり前だ。どうか見逃してください。

 それにしても、引用が多くなってしまった。最初はそうではなかったのに、意見を補強するために使ってしまうからだ。自分の意見より他人の意見の方が説得力があるためだ。しかし、こういうのを「野郎の本箱」という。つまり、本で学んだ知識をペラペラと吹聴する輩のことで、ただの「受け売り屋」のことである。自分の文章を見ていると、本当に自分が「野郎の本箱」だということに気づく。勝海舟の父親の小吉は、学問は大切だが蘊蓄を垂れるだけの「歩く本箱」にはなるなと息子を戒めたというが、こうやって誰かの受け売りでこんな話を書いている自分は「歩く本箱」だと思って嫌になってくる。ドーダとばかりに引用するのは東海林さだおの言うところのドーダ理論なのだが、こうやって書いていることがまさにドーダになっている。

 『身体の言い分』(毎日新聞社)で内田樹は次のように語っている。おおっ、対談相手の池上六朗は何と富山商船高校の出身だ。親爺の後輩ということになる。

 飽きるじゃないですか、自分の意見て。いつも言っているわけだから。【…】
 僕は「受け売り業者」みたいなものですからね。だって、受け売りは地震をもって言えるし、なんていうかな新鮮なんですよ。人の意見だから。自分の意見はもうとっくに聴き飽きてるし。受け売りはね、同じ話を何度しても飽きないんです。受け売りで何度も繰り返す話って、ちょっと変な味わいの話が多いんですよ。何かね、どこか噛み砕きにくいところが残っているんです。だから同じ話を二度話すと、「ああ、この話はこうくことだったのか」と腑に落ちるということがわるわけです。三度目に話すと、また「ああ、そいういうことだったのか」と、他人の話というのは味わい深いですよ。
 だから、自分で全部きちんと理屈を通せる話というのはかえって自信がもてないんです。ぼくごときの人間が「全部わかってしまう話」というのは、あんまりたいした話じゃないだろうなと思うから、テンションも上がらない。

 直し始めるとキリがないので古い文章をそのままにしてある。これもごめんなさい。

 よかったら、このホームページの他の文章も読んでください。

 どうせならば、一日一エッセーで一年すごせるように365編書いてみよう!と思っている。

 なお、トップページのタイトルに書いてある標語“Rideo, ergo sum.”というのは“Cogito, ergo sum.”のもじりで「我笑う、ゆえに我あり」である。「笑う言語学者」(本当は「笑われる言語学者」)と言われる僕にはぴったりのタイトルだと思っている。

 不埒だと思わないでほしい。どうせ、デカルトだってトマス・アキナスの「我あり、ゆえに我思う」のもじりっていうじゃないですか。

 ついでに「言語学のお散歩」というのは千野栄一先生の『言語学の散歩』(大修館)から採っている。先生の方は、きちんとした散歩だが、こちらは本当のぶらぶら歩き、つまりスワヒリ語でいうところの「テンベア」なのである。さすがに恥ずかしいので( )に入れて書いているのだが、今更、変えることもできなくなっている。

 ディオゲネスは散歩が大好きだったが、“Ambulando solvitur”(立って歩けば解決できる)と言った(救急車のambulanceやスピルバーグの映画会社アンブリンAmblin'の語源である)。

 「マックde記号論」というのはその代案で考えたもので、世界は記号に満ちている、という(実際には言わなかったが)ソシュールの考えに一番近い意味での「記号論」だと思って名付けた。つまり、言語の問題も、映画も音楽も、社会事象もすべて含めた分野が「記号論」だということである。狭義で考える人にとっては「アホ」といわれそうだが、ソシュールを読んでほしい。

 ただ、最近は「(ほとんど)マックde(一部)ウィンドウズde記号論」というのが正しくなっている。使いたくはないのだが、ウィンドウズマシンが支給されているのだ。

 言語学以外のことにも口を出している、ということについて一言。

 ソシュール自身はデュルケームの社会学に大いに影響を受けていて、言語学と社会学をまったく別のものと考えていなかった。記号論というのも世界を記号と考えるという意味で、言語学や哲学の中にだけ押し込めておこうという気持ちはなかったといえる。

 橋爪大三郎に『言語派社会学の原理』(“Principles of Linguistic Sociology”洋泉社2000)という本があってこの「言語派社会学」というのは橋爪が独自に作った用語である。言語を中心にしなければ人間も社会もとらえきれない。従来の構造=機能分析を乗り超えるために、西欧的な概念系の起源から解き放たれた記述と説明の装置の必要を説くというものだ。

 僕も言語派社会学でもよさそうだが、ここではいっそ社会派言語学(“Sociological Linguistics”)を標榜してもいいと思う。実は名前はどうだっていいのだが…。

 言語学から社会を見るとこんな風に見えるというように読んでほしい。

 多くのエッセーの中で「言語学の世界」を描いたつもりだが、英訳すれば“The World According to Linguistics”とでもなるだろう。

 そんな気持ちのエッセーなのである。

 なお、このホームページを作るにあたって、さまざまな書籍やホームページやメールを通じて教えてもらったことが多いので、本来ならば、出かけていって感謝しなければならないところですが、ここでまとめて感謝します。不備などがありましたら、お教え下さい。

 また、自分では差別意識をもっていない事柄で不快になられた場合も、お教え下さい。

 言い訳ばかりになったがごめんなさい(と言い訳している)。

 もう一つ、シェイクスピアはほとんどが小田島雄志訳を使っています。いちいち書いてないのですが、申し訳ありません。そして、偉業を達成された小田島雄志さんには心から感謝します。


*ジョンソン博士の伝説というのは弟子のボズウェルが伝記の最高傑作とよばれる『サミュエル・ジョンソン伝』全3巻(みすず書房)に彼の談話や書簡が収められているからである。『宝島』のスティーブンソンは「私は聖書のつもりで毎日ボズウェルを少しずつ読んでいる。私はこれから死ぬまでボズウェルを読むつもりだ」と書いている。 ジョンソン博士はnational instituteと呼ばれてイギリス人の代表である。

 便利な世の中になっては『サミュエル・ジョンソン伝』はグーテンベルグ計画のここで手に入る。

 また、リリアン・デ・ラ・トーレ(1902〜1994)という女性が「サム・ジョンソン・シリーズ」というジョンソン博士とボズウェルの関係をシャーロック・ホームズとワトソンの関係に置き換えた推理小説を書いている。


 僕の序文の代わりに松村武雄(日本神話学の権威)の『朗かな斜視』の序文を紹介しておく。

ここに集めた小稿は…自分の専門の学と関係したものもあるが、多くは方面違ひのことに踏み込んで。だからその道の人が見たら、ふきだしたくなるやうな斜視に堕してゐることが少くないだらう。しかもそれが自分に、たまらなく明るくて朗かな気持を起させる。


付録(OEDの略語)

  • 1……1100年以前
  • 2……12世紀(1100-1200)
  • 3……13世紀(1200-1300)
  • 4……14世紀(1300-1400)など
  • 4―6……14世紀―16世紀(1300-1600)
  • dial.……方言
  • Hist.……歴史的
  • arch……古風
  • Cf.,cf. ……(比較)参照
  • a. ……諸外国語から派生したことを示す
  • f. ……語形、語源(語尾変化させて、構成・派生したもとの語)を表す
  • * ……左肩に*のつく語は、初出例を示す
  • || ……充分に英語化していないことを示す。

  • Back Home        please send mail.


    *文字化けするので言語のアクセント記号などは無視してある場合が多いのでご注意願います。分かってない訳ではないのですが、まだ表記には無理があります。

    *なお、文字化けしないようにフランス語などは次のように英語のアルファベットで表記しています。


    このホームページの管理運営責任者は金川欣二(kanagawaの後に@マークにtoyama-cmt.ac.jp)です。