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高2の娘が理科系に進むという。理由が「私は人に役立つことをしたいの」とふるっている。というか、文科系の親から二人とも理科系に進んでしまうとは一体、どういう教育の失敗なのか?
そんなにも文学部は役立たないと思われているのだろうか?
*「われわれは滅ぶ運命にある、という自覚。われわれは滅ぶ種族だという意識のないものは、文学に携わってはいけません。又そんな自覚のない作家は、作家でもなんでもありません」---太宰治「文科系とマルチメディア」というエッセイの最後で次のように書いていた(現在、こちらに回した)が、少し考えるところもあって、展げて見ることにした。
●文学部不要?論
「飢えた子どもの前で文学は可能か」と言ったのはサルトルだった。中上健次は1983年に読売新聞に書いたエッセイ「飢えた子がいなくて文学は可能か」(『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]』恒文社21)の中で、近代の日本で「飢えた子ども」を飢えから救ったのは、商社や自動車工場や電機メーカーだったわけで、政治でも、もちろん文学でもなかった、と書いている。
そして、今は「飢えを知らない子どもの前で文学は可能か」という問いに変わっている。
加藤典洋は『言語表現法講義』(岩波)で文学とは「現実を笑い飛ばすもの」だといっているが、本当に笑い飛ばすことができるだろうか。
不況になると文学部不要論が出る。今回はIT革命とかで、もっと厳しい。実際、僕らが大学で学んできたことは一体何だろう、と振り返って思うことがある。立派な先生も多かったが、失望することも多かった。どの先生も自分の専門の方が大切だったが、これは当たり前なのだが、分からずにうろうろしている学生にとっては何となく通過しただけだったような気がする。
古来、文学者というのはおかしな人々であった。シェイクスピアは円満だったらしいが、それ以外の文学者は(最近の日本の作家は概ねまとも?)社会からのドロップアウトで、本人もそれを楽しんで?いた。
例えば、ペログリなどと言っていた変人知事・田中康夫は『新・文藝時評 読まずに語る』(河出書房新社)の中で「文学者というのは何かといったら、簡単に言えば半端者かもしれない。また、表現者というのはみんな分裂しているわけですよ」と書き、「つまり、人間というのは分裂している動物であって、それを描けるのが文学だと思うんです。真っ当だと言われる生業についている人たちも思っていて、けれども、組織の中にいるから言い切るだけの勇気が持てないでいることを、文学に迷い込んだ人が書くということが大事なのかもしれない」と書いている。
文学研究には作者自身の物語性と作品は切り離して、つまり、作品は作品だけで読まなければならないのだが、作者の生涯から入る文藝批評のなんて多かったことか。そんなだから、「高校生でデビュー」した作家がいたりすると、「瑞々しい感性」と褒めちぎることになるのだ。だから、村上春樹は「文学批評とは馬糞のようなものである」と公言しているのだ。
ヴァージニア・ウルフは書評家なんて“gutter & stamp”(要約を抜き取り、評価を印でつける)だけやっていればいい、ということを書いていたが、まだまだその通りなのかもしれない。
菅野昭正の『明日への回想』(筑摩)によれば、DNAの発見に大事な役割を果たしたというLヴィン・シャルガフの『過去からの警告』には、いまやこの現代にあっては「ヴァレリーは大学教授のために叙情詩を生産しているようなものである」と書いているという。そのうち、村上春樹も大嫌いな批評家たちの食い扶持を、不本意にも助けることになるのだろう。
そのヴァレリーは4度も激しい恋に落ちているが、文学の門外漢からすれば、およそこれほど馬鹿馬鹿しいことはない。
□ 最近ショックだったのは2000年に出たサリンジャーの暴露本である。
サリンジャーは1965年以来沈黙を保っていて、『シューレス・ジョー』(そして映画『フィールド・オブ・ドリームス』)やその他の本と訴訟などでしか知られていなかった。ところが、長女のマーガレット・サリンジャーが『サリンジャーの娘として』(原題はDream Catcher)という本を出したという。それによると、サリンジャーは大戦中、欧州でスパイ任務につき、独ナチス党員の女性と一時結婚。戦後アメリカ人女性と再婚したが、妻が外出するのを嫌がり、ほとんど軟禁状態に置いた。3人目となる現在の妻は30代の看護婦だという。
奇矯な暮らしぶりも暴露された。新興宗教に凝って、自分の尿を飲んだり断食を繰り返したりしたかと思うと、老年期に10代の少女との文通に熱中したこともある。今も原稿を書いているが、ひとから批判されるのが大嫌いで、何であれ出版する気はないそうだ。
マーガレットは出版の理由を米紙に「ゆがんだ子供時代を父に強いられた。同じあやまちを自分の子供にはしたくない。そのためには、自分の成長期に何が起こったか冷静に理解しておくことが大切だと思った」と語った。「これで父とは断絶してしまうかもしれない」と心配もしているという。
紫式部はお父さんに、お前が男だったらなぁと溜息をつかれて育ったというし、菅原孝標娘(すがわらのたかすえのむすめ)も『更級日記』で、私は娘時代に物語を読みすぎて、それでろくな人生を歩むことができなかったと述懐している。太宰治の娘・津島佑子も『快楽の本棚』で読書の影響からか女としてぎくしゃくと生きることになってしまったという。
でも、作家の実人生を調べてみても何も出てこない。正解は作品の中にしかない。
そして、その作品の中に人生はあるのだろうか。芥川龍之介のいうように「人生は一行のボオドレエルにも若かない」のか、その外にあるのか?
□ 文学は不思議な力をもっている。
その中で文学部という存在が不思議なのは何かを作り出すからでないからだ。作家を作ることも少ない。「小説家になるほどの才能がなく、弁護士になるほど頭が切れず、手先が不器用で手術が無理なら、その人間はジャーナリストになる」と作家ノーマン・メイラーは書いているが、最近の作家の多くは分野が医者とか科学者とか理科系の人も多くなり、文科でも文学部というのは稀だ。ジョージ・オーウェルも作家は副業として文学と関係のないもの、例えば銀行員みたいなものを選べと書いている。教職など半ば創造的な仕事は、創作のエネルギーを奪うから好ましくないともいう。
『開高健 一言半句の戦場』(集英社)も「二二歳はどん底だった」の中で書いている。
一七歳のときかな。たまたま見かけた大阪市立大学の募集ビラをキッカケに、この大学に籍を置くことになった。文学部で教えるようなことは、自分で自分に教えられる。そんな考えがあったもんだから、大学にでもいかない限り、接触するチャンスのない法学部を選んだ。
映画『阿弥陀堂だより』の作家・南木佳士は大学の国文科を志望したのだが、国文では食えないと思い浪人してまで医学部へ行った。だから医師になってからも数回「文学界新人賞」に応募した。1981年にはカンボジア難民救済医療団に参加、現地の悪条件の中で医療活動をしていた最中に『破水』が第53回文学界新人賞になった知らせが、飛び込んで来た。芥川賞候補も数回続いた。南木の芥川賞受賞の言葉は「学校を出たての二十四、五歳の若者が、多くの想い出を抱え込んだまま旅立つ死者を見送ることは、苦痛であった。この苦しみから抜け出したくて小説を書き始め、もう十年になる」。医療と文学の見事な結晶である。文学をどれだけ読んでも本当の人間を観察したことにはならない。本当の人間を観察して文学を書く方が自然だろう。
日本では古くから「筆は一本、箸は二本」と言われたが、つまり小説家では食えないということだった。マスコミで露出している小説家もいることはいるが、そうでない人は今も苦しいだろう。文学で暮らすなんてことは無理なのだ。多くの作家が講演や地方文学賞の審査員など雑用で暮らしている。ドストエフスキー夫人の回想によれば、『悪霊』が3000部売れた時に、ドストエフスキーが「わーい、三千部も売れた!」と小躍りしたという。現代はもっとひどくなっているような気がする。
ドストエフスキーで思い出すのは石田英敬のことである。東大教養学部の大学院でバフチンのポリフォニー理論について講義していた時に「先生の話に出てきたドストエフスキーって誰ですか?」と聞かれたという(雑誌『世界』2002年12月号)。石田はホームページで次のように書いている。
最近あるところで,この現象的な例を書きました.今の学生は基本的と思われる教養がない,と大学の教師は嘆きます.最近私は,ドストエフスキーという作家がいるということを知らない大学院生と出会いました.そして,そういうことに驚いていては今の大学の教師はつとまりません.やがて,夏目漱石という作家の存在を知らない学生が出てくることは,もう時間の問題です.このような基本的教養を共有しないことは人文知の危機なのですが,そうしたことは一体何なのか,こうした問題を立て直すためのは,どのような知の変革をしないといけないのか,ものを考えるための最低条件,基本的姿勢とは何か.これらのことを,今一度私たちは考え直す時期だと思います.この問題を学問的に問い返すと,ここに書いたようなことになります.理屈から見て,大きく言って,文明の問題,知の伝達,情報の伝達というものが,人間の経験のどういうディメンションを作っているのかを,原理として考える必要があります.
高橋源一郎はこの話を読んでいたのだろう。山田詠美との対談『顰蹙文学カフェ』(講談社)の冒頭で次のように書いていた。
なにかの雑誌をめくっていた時だったようなような気がします。そこには、日本を代表する知性が集結している(ことになっている)東京大学の文学部の大学院(!)の授業で起こった、ある事件が書かれていたのであります。
その先生が、講義をしている時、ひとりの院生が、突然、こう言ったそうです。
「先生、ドストエフスキーって誰なんですか?」
その先生は、こう書いています。
「マンガの3コマ分ほどの長い沈黙とそれに劣らぬほどの深い溜め息の後、私はついにその日が本当にやってきたことを理解した」今度は高橋が教えている大学での話。
「最近、読んだ本は?」と、わたしは訊ねました。すると、何人かの子が、流行りの「ケータイ小説」のタイトルをあげました。やっぱりねぇ。そう呟きながら、わたしは、次の子に同じ質問をしました。
「××××」と彼女はタイトルをあげました。
「それどんな本?」
「よく、覚えてません」
「どんな内容?」
「なんか、恋愛みたいな、そんな感じ?」
「ケータイ小説?」
「違うかも」
「それ、文庫本だった?」
その時でした。「マンガ3コマ分ほどの長い沈黙」があったような気がします。その女の子は、不思議そうな顔をして、しばらくわたしを見つめた後、こう言ったのです。
「先生、文庫本って何ですか?」似た話は多くあり、嘆息する同僚に石田はこう答えるという。地球はグーテンベルク銀河系から随分遠くまで来てしまって、地球から見えなくなった星座はたくさんある。「そのうち<漱石>や<鴎外>といった星座も例外ではなくなるでしょう」と。
大学院生は悪くない。この無邪気さ、素直さが後の研究に役立つかもしれない。むしろ、日本人が教養として、カルチュラル・リテラシーとして、カノンとして何を持っているべきかが問われている事件なのである。
□ 文章表現を教わることも文学部では少ないのではないかと思う。
僕は言語学科だが、英文学科に進んだ人の多くが英文学が本当に好きだった、ということはないだろう。英語に関係のある仕事をしたくて選んだのだけれど、それは英文学科しかなくて、入ってみると文学オタクばかりだった、ということが多いのではないだろうか?
オタクでも構わないが、開かれたコミュニケーションができなくて、一体、英文学のどこが面白くてここにいるのだろう、という先生が多かったのではないだろうか?
なのに、どうして学生が集まってきたのだろう?石原千秋は『漱石はどう読まれてきたか』(新潮選書)の中で次のように書いている。
そもそも文学部が昭和四〇年代に拡大したのは女性の急激な大学進学率の伸びの受け皿としてだったし、日本の経済が右肩上がりで、文学部でも就職できたという条件があったからでもある。この時期に、文学部は文学部の内部だけで言葉のやりとりができる、いわば自給自足できるだけの規模を獲得したのである。研究者は学会と文学部に向けて言葉を発していればよかった。それは世間という「外部」を持たない文学部を生きる感性だと言える。文学研究にとって幸福な時代。しかし、それはいまや戦後史の一齣に過ぎなかったことが明らかになった。
近年文学部の衰退傾向が顕著だが、それはある意味では「政治的正しさ」(雇用における男女の差別撤廃)の結果である。一九八六年に施行された男女雇用機会均等法以後、徐々にではあるがそれまでと比べて女性の就職の機会と社会的成功の奇怪が確実に増えたために、家政学部と文学部と教育学部に閉じ込められていた女子学生が他の学部に進出するようになったからである。文学部は徐々に四文字学部に改組されていった。もちろん、その間の好景気の影響もあった。
逆に、その後の不況は「文学部では食べていけない」状況を生み出した。その結果、文学部の勢いは急速に失われた。ひとたび「政治的正しさ」が実現すれば、好景気でも不景気でも文学部は衰退する運命にあったのである。これが、現在文学部が置かれている物質的基礎である。
こんな記事もあった。
大学の理系学部卒業者の平均年収は、文系学部卒業者に比べて約100万円高く、年齢が上がるにつれて所得差が広がるという結果が、京都大、同志社大などによるインターネット調査で明らかになった。京大経済研究所の西村和雄・特任教授は「文系卒の方が高所得だとの説が一部にあったが、異なる結果になった。理系は技術を身につけることで、より広い範囲の職業を選べることが理由の一つでは」としている。
2008年6月、民間調査会社のモニターのうち大卒者から回答を得る方法で実施。100を超える国公私立大を卒業した20歳代〜60歳代の1632人(文系988人、理系644人)の回答をこれまでに分析した結果、平均年収は文系が583万円だったのに対し、理系は681万円と大幅に上回った。
年齢別にみると、25歳の時点では文系が306万円、理系が366万円で60万円の差だが、60歳では文系が720万円、理系が888万円と、168万円の差に広がった。西村特任教授らによると、十数年前に1大学の卒業生を調査し、「生涯所得は文系卒が約5000万円高い」との研究結果が出されていたという。
(2010年8月25日読売新聞)かつて河盛好蔵が後進に「今の仏文は、一番面白いところを捨てている。言ってみれば、かば焼きのご飯だけを食べているようなもんです」と漏らしたことがある。解釈ばかりでその面白みを宣伝する淀川長治みたいな人もいなかった。河盛は「フランス文学の町医者」を自認していて最新の理論や研究にはうといが、人生の機微を踏まえた患者(作品)の診断では負けない、という思いが強かったが、百歳近くになるまで博士号が取れなかった。そんな文学“部”状況だから、衰退してきて当然だ。
古典がそんなに偉いのか?イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むか』の中で次のようにいう。
古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である。…
古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、かつてだれも書いたことのない作品だと思える、そんな書物のことだ。
僕が文学部に入ったのは高校時代に誰も何も教えてくれなくて、大学に入ればいいくらいにしか思っていなかったからである。実際、高校3年生になって初めて「進路」というものを聞かれて恐る恐る「富山大学」と書いたものだった。姉は二人とも高卒で就職していた(まあ、そんな時代だった)から僕も何となく就職するものかとも思っていた。大学のことは誰も教えてくれなかった。せめてディズニーランドの地図みたいなのがどこかに用意されていれば、持っていくものの準備もできたのにと思う。
ジャーナリストになりたいと思っていたから、本当は政経に進むべきだったのかもしれない。鎌田慧が『忘れてはいけないことがある』(ダイヤモンド社)の中で次のように書いていた。
もしも、学生時代、キチンと勉強していたならば、フリーライターなどになっていたであろうか、などと考えてみるのだが、自分でもよくわからない。
籍があったのが文学部だったので、勉強などしなくても卒業できた、といういい加減さがある。しかし、文学部ならどうして勉強しなくてすむのか、と反問すれば、それ以上に考えはすすまない。
大学は勉強ばかりではない、ひとと出会うところだ、などと若いときはカッコつけていたが、それは自分の怠慢を弁明するだけのことでしかなかった。それならなにも大学にはいる必要はなかったからである。まして、物書きになるなら、学歴などは関係ない。
僕の子どもたちには文学部ではなく、経済か法科に進むように勧めるつもりだ。
好きなことは職業にせず、趣味にせよ。文学を読みたければ自分の趣味で読んだ方が楽しい。文学者になりたかったら、別の分野できちんとした仕事をした方が経験も積めていい。文学研究家になるのだったら、極貧を覚悟しなさい…と言わなかったのに長男は理科系に進むという【長女もお父さんみたいにはなりたくない、といって理科系に進んだ】。蔵書が無駄になる!
漱石は1908年に「文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎」という文の中で次のように書いている。
で、今迄言ったような訳だから、文学は男子一生の事業とするに足らぬとか云う人が出て来ても、些(ち)っとも驚くことはない。又、文学は無類飛切(とびきり)の好い職業で、人生にとって之(こ)れ程意味あり、価値ある職業はないと云う人があっても、又決して喜ぶには当らない。文学に大きな価値があるとか無いとか、深い意味があるとか無いとか、両方で争って見た所で、それは要するに水掛け議論たるに過ぎない。本当に意味あり根柢(こんてい)のある論争ではない。各々の標準の立て方で、どちらも異った根拠に依っての議論であるから、何時(いつ)果(は)てる時はない。一見矛盾の如くにして、実は矛盾ではないのだ。例えば一方は箸(はし)の先端を見て箸は細いと云い、一方は箸の真中を見て箸は太いと云って居るのと同じことで、矛盾のようで実は矛盾でない。どちらにも根拠はある。先(ま)ずそれを争う前に、二人共箸の真中を見て、太い細いを論ずるのが本当の議論である。
今日の文学の価値に関しての議論が、其辺の微細な点まで極められた上での議論であるかどうか、或は、まだ可い加減に価値があるとかないとか云って居て、両方とも矛盾して居ないような気で、箸の真中と尖端の辺(あた)りを彷徨(ほうこう)して居るのか、それは些(ち)っと考えて見ねばならぬ問題である。恐らく後者であろう。富岡多恵子は『近松浄瑠璃私考』で「たとえ近松門左衛門のホンといえども、たかが人形芝居の台本ではないか。たかが人形芝居の台本を、これ見よがしの註解で埋め尽くした文学全集で、うやうやしく読むことにどれほどの意味があるか」と書いている。 文学研究というのはご託を並べることなのだろうか?←これって御託じゃないの?
□ 亀井孝が服部四郎のことを「翻案言語学」と呼んだことがある。とんでもない話で、僕はとても同意できない。
ただ、学問によって違うのだけれど、中には外国の新しい理論を紹介するだけの学問もあるような気がする。最初に新しい理論を取り入れた方が勝ち、という部分が見られる。僕にはとても偉そうなことはいえないのだけれど、外国とのタイムラグで暮らしている学者もいることは確かだ。
だから、しっかり語学はやっておきなさい、といわれる。
ネット時代になって、外国の新しい情報が、教師よりも学生が持っていることがある。学者には答えてくれないが、学生には親切な学者もいる。そんな中で、学者は何をすればいいのだろうか?
□ 養老孟司との対談『話せばわかる!』(清流出版)の中で米原万里は次のように語っている。
モスクワ大学の経済学部長のヴィンハンスキーさんが(この人は学者としても優秀ですが、奥さんが日本人で、日本語が堪能なんです)とても鋭いことを言われた。専門分野に限っての話ですが、「日本の学者は学者ではない」と。なぜなら「該博だが、知識が羅列になっている。学者の仕事は知識を自分なりに整理して、いまの世の中における混乱の原因を突きとめることだが、羅列ではさらに混乱するだけだ」と言うのです。私は自分の経験から、なるほどと思った。日本の学者の発言は、言葉と言葉の間の関係性、緊密さが弱い。だから覚えにくくて、通訳しにくいのです。客観性を、羅列とまちがえているのではないでしょうか。
僕もこうやって言葉を羅列しているだけである。
□ 文学にはうさんくささもある。国境を越えれるのかという問題がある。ネイティブでもないものが文学が分かるか?もちろん、クラシックだって同じで、ヨーロッパの伝統にない者がベルリンフィルのコンマスをしていていいのか、ということになる。都甲幸治『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)はまさにこの部分を考察している。例えば、スペイン語混じりの英語で書かれた小説はアメリカ文学としては「本物」と見なされにくい。「純文学」としての意義があるのか、ということになる。黒人の文学は米文学ではなくて「黒人文学」ではないのか?都甲はちょっと待ってよ、という。いまアメリカ文学の勢いを支えているのは、インド系、アジア系、中米系の移民たちの手になる作品であり、テレビなどのポップカルチャー、日本のマンガやアニメ、「村上春樹」の影響を受けた作品ではないか。これらは複数の他者に貫かれることで生まれた「偽アメリカ文学」なのだという視点から書いている。
シェイクスピアだってほとんどがローマなどにネタがある文学だし、ジョゼフ・コンラッドにいたってはポーランド人である。『ロリータ』のナバコフはどうなる?
といいながらも、外国人が日本文学を研究するとなると、信じられない気持ちになる。ドナルド・キーンだって未だに英訳で日本文学を研究していると思われていて、「日本語お上手ですね」といわれるそうだ。
□ 不用の用も大切だ、などと言いたいところだが、何だか引いてしまう。
文学部の人間がおかしく見られるようになったのはそんなに昔ではなかった。ただ見延典子『もう頬づえはつかない』あたりで決定的になってしまったような気がする。
「キミ、学部どこ?」
たたんであるチラシを読んでいた類人猿が口をきいた。
「文学部です」
わたしは仕事の手を休めず答えた。
「学科は果て」
わたしは言葉につまり、ためらいがちに「ブンゲイ」と言った。【…】
「文芸?」それから彼は、ああ、と納得して「あの吹きだまりのね」と言った。西江雅之先生も『ヒトかサルかと問われても』(講談社)の中で、文学部の奇妙な連中のことを書いている。奇妙な人が多すぎる。次のエメちゃんの話は授業でも聞いたことがある。
(エメちゃんは)十八、九歳で、美人だとの評判も高かった。午前十時半近くになると、難しそうな本を二、三冊抱え、店の二階にやってきた。それからその辺の机で「シュールレアリスムは…」などと深刻な顔をして話し合っている青年たちの所に行き、芸術論を一席ぶち、芸術は迸(ホトバシ)るものであるから、その極限的表現である射精の迸りを見せてよ」などと、超・超現実的な発言をして、青年たちの肝を冷やしたりした。
“ジツゾン”とか“ソガイ”とか難解な単語をはさみ、そうかと思うと突然、「あらいやだ。わたし、今日は朝の性交を忘れてきちゃった」などと、その場での話とはまるで無関係のことを、朝の胃腸薬を飲み忘れてきたのをちょっと思い出したかのごとくの調子で言ってみたりもした。
卒業しても就職がない。他の分野に行った人よりははるかに優秀だと思う人でも就職できない。今ならフリーターでというところかもしれないが、パラサイト・シングルを楽しめない人もいるのだ。
三田誠広は『プロを目指す文章術』(PHP)の中で教え子の大学生のことを次のように描写している。
大学で小説を教えていると、病気の学生と接することになる。教え子の半分は病気だと言ってもいい。病気だというのは言いすぎかもしれないので、ふつうではない、と言い直してもいいが、要するにふつうに就職して、ふつうに仕事をしながら、ふつうに生きていくことができない。心が閉じている。人前で口がきけない。そして、ファンタジーの中に逃避するのだ。
鹿島茂は『フランス歳時記』(中公新書)で読書の本質を見事に描いている。長いが引用する。
フロベールは、「読書」という存在の悲しき本質に敏感だったにちがいない。なぜなら、彼の『ボヴァリー夫人』『ブヴァールとペキュシェ』といった作品は、いずれも、読書によって人生の貴堂を狂わされた人たちを主人公にすえているからだ。
ボヴァリー夫人は少女時代に恋愛小説を読みすぎたために不倫とぜいたくに走り、ブヴァールとペキュシェは中年すぎてから学問に目覚めたたえmブルジョアとしての平穏な生活を失う。つまり、人によっては、読書というものは、良い結果よりも不幸な結果をもたらすことがあるのだ。
読書や読者に対するこの苦い認識は、実はフロベールその人の経験から出ている。早熟だったフロベールは少年時代、どっぷりとロマン主義の文学につかって暮らした。口からほとばしる言葉も、ペン先から流れる文章も、ロマン主義の美辞麗句のまねごとばかりで、心のなかにある自分の思想を表現しようとしても、それはロマン主義のエピゴーネンにしかならない。
この経験は彼を自殺の誘惑にさらすほどの精神的危機に陥れた。一言でいえば、彼は熱烈な読者であったがゆえの悲劇を味わったのである。
しかし、この体験は、のちに、自分のような悲しい読者を主人公にすえるというアイデアを彼に思いつかせることになる。「ボヴァリー夫人は私だ」という有名な言葉はこの意味に解すべきなのである。
池田晶子は『新・考えるヒント』(講談社)の中で次のように書いている。そうそう、女性の指揮者も稀だが、女性の哲学者も稀である。
理科系の学問は、産学協同の掛け声に活路を見出したが、文科系のとくに哲学など、完全に無用の長物である。無用にも用がある。科学が用なら、哲学の用とは、科学を用とするこの世のありようそのものを問い質すことに決まっている。われわれはなぜ生きているのかという問いを問うことは、生きるためには有用なことか、常識は知っているはずである。
詩人のアレクサンダー・ポープが“Three Hours after Marriage”の序文で反論しているのが本当のところだろう。
作家の資質は実におかしな基準で計られる。偉大な者は気がふれているとされるし、小者は馬鹿だと思われる。
よく考えてみると、太宰のような文学者は失敗することに成功した人なのだ。ええっ、これって成功したのか失敗したのか?
□ 富山では国文・英文と音楽を持っていた洗足学園魚津短大(池田弥三郎が最初の主任教授で来た)が閉鎖することになった。どちらも世の中で一番不用、不要だというのだろう。
これについての答えを僕は持ち合わせない。同じように役に立たない研究者を生むしかなくても「知のネズミ講」などとは思いたくない。
考えを持つべきなのは文学部に入る前の高校生と文学部の学生と教師だからである。
□ 実学に対して、豊かな人間性や総合的な知性、判断力は、文学部でこそ身に付けることができると文学部の存在を強調する人がいる。しかし、文学は文学部を出なければ学べないものではないし、文学部以外出身の作家の何と多いことか!?芥川賞は若くても取れるかもしれないが、直木賞は人生経験がたっぷり必要だ。
アメリカではクリエイティブ・ライティングのコースが昔から開かれていて(村上春樹に影響を与えている)レイモンド・カーヴァーはチコ州立大学でジョン・ガードナーの創作の授業を受けて作家を目指すようになったし、自らもシラキュース大学で創作コースの教授と務め、教え子には『ブライトライツ・ビッグ・シティ』でデビューしたジェイ・マキナニーがいる。1973年にカーヴァーは短編小説の名手だったジョン・チーヴァーのもとで、アイオワ大学創作科で教鞭を取るのだが、教育よりも飲酒に熱心な教授陣に取り囲まれて、アルコール依存症を再発してしまう。「うう、昨夜はただの一行さえも書けなかった。うう」という教授もいっぱいいたようだ。77年にはアル中の治療施設に入って再起する。アイオワ大学を出た作家としては、テネシー・ウィリアムズ、フラナリー・オコナー、ジョン・アーヴィング、ロバート・オーレン・バトラー、T・コラゲッサン・ボイル、マイケル・カニンガムなどがいる。
日本では日大芸術学部出身の林真理子や吉本ばなながいるし、早稲田の文学部の文芸コースなども作家を生み始めているようだが、まだまだ少ない。
高田里惠子『文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校』(松籟社)はある世代の男たちの涙と栄光と勘違いの記録である。文学部出身のインテリゲンチャの悲喜劇を描いている。例えば、ヘルマン・ヘッセやエーリヒ・ケストナーの翻訳で知られる高橋健二は戦時中、大政翼賛会文化部長としてナチス文学の紹介に努め、そして戦後はペンクラブ会長も務めた「文化人」だが、積極果敢な軍国主義者でもなかったのに、彼が体制に迎合するでも抵抗するでもない中途半端な態度を通した。お気楽なニヒリズムで怒濤の時代をやり過ごしたのだった。
高田里惠子は戦前戦後の知識人に時々見られる高橋のようなインテリゲンチャの心性、病いの根源を旧制高校文化、ひいては彼らが心酔したドイツ経由の教養主義に求めている。法学部に進んで官僚になる出世コースにも乗れず、左翼運動に身を投じる勇気もなく、教養に生きる道を選んだ情けない(がリベラルな)男たちが帝大文学部で自己増殖していた。昭和十年代の文学部はそんな優越感と劣等感とが半ばした愛すべき文学青年たちの巣窟になっていた。「文学部」「文学」「軍部」「旧制高校」、そして時代状況そのものの両義性がすべて「男」の所産であることである。「志士の精神」と「教養主義と呼ばれる文学や哲学への志向」という「この一見対立するように思われる二つの傾向の共通点」は「女性もしくは女性的なものの排除」なのだと指摘する。そうすると、『ビルマの竪琴』も『車輪の下』も『きけ わだつみのこえ』さえも、特殊な「学校小説」ということになる。中野孝次がカフカから『清貧』へ変化していったのも「余病」だという。友情論も実は文学部をめぐる病いだったのではないか。ただの男性同盟的(ホモソーシャル)な美しい結束でしかない。
チョムスキーがいるのはMITである。「工科大学」なのである。東京教育大で驚いたことの一つに、地理学科が理学部にあったことだ。僕にとっては人文地理しか頭になかったから、文学部にあるのが当然だと思っていた。鈴木貞美『「日本文学」の成立』(作品社)は日本の大学の文学部には倫理も西洋史も宗教も美学もあるのは不思議だという。哲学者や歴史家をふつう文学者と呼ばないし、美学も芸術学部にあるべきものかもしれない。日本の大学だけが歴史も哲学も言語芸術も視聴覚芸術も、全部込みにしてしまったという。つまり、ここでも「病」が見られるのである。
池内紀が『無口な友人』(みすず)の「極aと極b」で次のように書いている。
ヘルマン・ヘッセの小説の主人公はペーター・カーチメントといった。べつの小説ではデーミアンといい、さらにべつの小説では「荒野の狼」ことハリー・ハラーと呼ばれていた。なんとはじらいのない、ご大層な名前をつけたことだ。わが国になぞらえれば新派悲劇の舞台にぴったりの命名である。いま読めば陳腐で、おセンチで、ものものしい小説だが、三十年前はたしかに上品な教養小説だった。二十年前にも文庫本に入っていた。そのうち本棚から消え失せた。いまやヘルマン・ヘッセは庭師の変わり種として、麦わら帽子をかぶり書店の棚に収まっている。
女性の文学部離れが進んでいるが、実学志向強める女子高生という問題だけでなく、こうした文学部の病いを見抜いた上でのことである。文学部問題は男の問題でもあったのだ。
筒井康隆の『文学部唯野教授』(岩波書店)を読むまでもなく、文学部という学部は機能しなくなっていた。教師自身の脱構築が進まなければならない。
とはいえ、言葉でいうほど「脱構築」はやさしくない。「脱構築」と命名したという由良君美について、弟子の四方田犬彦は『先生とわたし』(新潮社)で書いている。
由良君美がこうした講義を通して繰り返し強調したのは、文学の研究は確固とした方法論に基づいてなされなければならない、という信念だった。方法があって、しかるべき後に感想や印象に価値が生じることになる。彼は日本の私小説的な風土を醸成してきた体系のなさと、それに発する印象批評を深く憎んでいた。彼によれば、小林秀雄は脈絡のない感想を特権的な場所から述べたてている文壇人であり、吉本隆明は出鱈目な理論を好き勝手に援用している野人にすぎなかった。
そして、最後に「私見するに、由良君美という存在の再検討は、かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、小さからぬ意味をもっているのではないだろうか。【…】だがいずれにせよ、人間に知的世界への欲求が恒常的に存在しているかぎり、師と弟子によって支えられる共同体は、けっして地上から消滅することはないだろう」とこの本を終えている。
東大出身の小谷野敦の『文学研究という不幸』(ベスト新書)では次のような告発をしている。平井はミルトン研究の他、『蠅の王』など多くの翻訳を手がけている人だ。
大学教授の中には、自分より優秀な者を後継者にしたがらないという人というのがいる。こういう人がいると、無能な人が後を継ぐから、悲劇である。たとえば東大英文科の教授だった英文学者の平井正穂(1911-2005)という人がいて、ずいぶん長く生きて、数年前にようやく死んだが、この人もそういう人だったようで、 当時東大教養学部に高橋康也先生(1932-2002)がいたが、高橋先生は遂に英文科の専任にはならなかった。これは、高橋先生が優秀なので、採ると自分が抑えつけられると思った平井が採らなかったからだ、と平井が自分で言ったそうである(情報源秘匿)。
□ ちなみにオックスフォード大学に英文学の学位コースが導入されたのは1893年である。後に小泉八雲の後に教鞭を執ることになる漱石が東大の英文学科に入ったのは1889年で、それ以前のことである。1877年 (明治10年) には東京大学が創設され、法・理・文の3学部、旧東京医学校を改組し医学部を設置している。つまり、英文学というものがイギリス本国で考え出されたのはずいぶん後のことだったのである。
□ 2001年に富山大学で入試ミス隠蔽事件が発覚した。この時、地元紙が「われわれは大学人が高い学識と倫理観を持っていると信じていた」と社説で書いていたが、どんなものなのだろうか?
文学部で、例えば永井荷風やランボーを研究している人が高い倫理観を持っている、なんてあまり信じられない。学問で人間は人格的に立派になるのだったら、大学は人格者だらけで、教授会ももめるはずがないし、アカハラがあるはずもない。
「総合大学」という名前がついていても、いつも「総合的な学問」がなされている訳ではない、それどころかタコツボ型の学問が日本的「世間」の中で行われているのと同様、学問と倫理の関係が問われてきたことはないように思えるからである。
日本の学問は総じて切り花的だ。つまり、外国へ留学して新しい学問を輸入して飾る。その弟子がまた外国へ留学して「先生、先生の学問はもう古いですよ、今はこちらです」といって新しい花を飾るのである。切り花だから、いつまでたっても根付かない。
しかも、その切り花が見事に活けてあれば立派な論文になる。東大の池田亀鑑は卒業論文をリヤカーで運んだという話だったが、これだけの資料に埋もれてていいのだろうか?
□ □ハロルド・ブルーム(Harold Bloom)はThe Western Canon: The Books and Schools of the Ages, New York1994,: Harcourt Brace. の中で、次のような極論を述べているという。つまり、英文科というものがカルチュラル・スタディーズ科に代わってしまうという懸念を示しているのである。 I do not believe that literary studies as such have a future.What are now called Departments of English will be renamed departments of Cultural Studies where Batman comics, Mormon theme parks, television, movies and rock will replace Chaucer, Shakespeare, Milton, Wordsworth, and Wallace Stevens.
嫌なことに、バットマンや映画やロックというのは、若者が得意な分野であって、文学部にいるようなカビの生えた先生たちの領域ではないことだ。積み上げてきた「教養」では太刀打ちできない地平線が拡がってきているのである。
□ ノーベル賞作家クッツェー(Coetzeeでクツィアというのが本当らしい)の『恥辱』(“Disgrace”ハヤカワepi文庫)はまさに文学部教授の恥辱を表している作品だ。
ケープタウン大学の文学部教授デヴィッド・ラウリー52歳は自らの性欲を持て余している。大学のリストラ(the great rationalization)で、ロマン主義の詩を教えていたのに、コミュニケーション学科に押し込められて、しかも準教授に下がる。離婚歴2回、 女性に不自由しなかったのだが、ピタリと女にもてなくなり、エスコート・クラブでソラヤという娼婦と契約して週1回の逢瀬を楽しみにしていた。偶然ソラヤが子どもを連れているところを見てしまい、会ってくれなくなる。失意の中で、メラニーという女子学生と関係を持つが、セクハラで訴えられて大学を追われてしまう。娘ルーシーが経営する田舎の農場に身を寄せることにしたのだが、娘にも恥辱が…。
□ その富山大学で長く研究をしていた山口博先生が2002年に『心にひびく日本の古典』(新潮社)を出版した。古稀になる先生の性への執念を感じる本なのだが、このあとがきに次のように書いている。英文、国文を問わず、古典、現代を問わず、文学研究者に訴える言葉である。
昭和四十年代、全国の大学が紛争状況に陥った。平安時代の歌や物語を専門にしていた私は、大衆団交で学生から「そんな研究が現代に何の役に立つのか」と糾弾された。私には学生を責めることはできなかった。なぜなら、彼等に教えていたのは“古典”という“文学”ではなく、訓詁注釈に過ぎなかったからだ。
古典の本文研究は鉱物資源を掘り出す第一次産業、訓詁注釈・作品作家研究はそれを加工する第二次産業である。古典研究・学習はここでほとんど終っている。それを多くの読者に提供する第三次産業に属するサービス業が大きく欠けていた。それが学生の突き上げになっていたのである。古典無用論を叫んだ学生が悪いのではなく、古典有用を理解させることを怠った教師側の責任である。その苦い、体で感じたまさに体験が、その後の私を古典のサービス産業に走らせる事になった。
小谷野敦は2010年の『文学研究という不幸』(ベスト新書)でこんなことを書いて終わっている(赤くしたのは引用者)。
大学を離れて一年ほどたって、子母沢寛の『勝海舟』を読んでいたら、もはや大学は、幕末の幕府のようなものだ、と気づいた。
ペリー来航から十五年で幕府は瓦解し、それどころか武士の特権すらなくなっていく。
今や、大学の人文系学部とか、人文系の学者などというのは、この幕府とか武士のようなもので、おそらく五年から十年たてば、まず弱小私立や地方国立大あたりから、文学部がメディア学部に名前を変えるなどという弥縫策ではなくて、本当に大学は倒産し、残ったところでも、もう文学研究の人など要りません、ということになり、文学研究の本など出なくなるだろう。要するに今、博士号がどうとか言っているのは、桜田門外の変みたいなもので、幕府も水戸浪士もなくなってしまうのだ。
もうこれは、泣こうが喚こうが、(人)文学研究がいかに大切か力説しようが、社会が必要としていないのだから仕方がない。私は東大で英語を教えていて、文科三類の学生に毎年、進学先の志望を聞いていたが、最後はみな国際関係論になってしまって、文学研究を志す者などゼロになった。
久米正雄の「純文学余技説」が示すように、純文学や文学研究は、今後は、ほかに仕事を持つ人の趣味、余技としてしか存在しえなくなるだろう。
「サロモン(ソロモン)の栄華も一本の野の百合に如かず」(マタイ伝6:25) ☆文学部を再考する
『スピヴァク、日本で語る』(みすず)の中で、スピヴァクが次のように語っている。
人文学はお金を産む牝牛ではないし、人文学が大学にお金をもたらすことなど決してありまえません。しかし人文学はいわば、お金で何をすればいいかを世界に教えることができる。私が期待をもってお話している理由もそこにあります。
そうなのだ。文科系の学問は個人的には辛いものがあるが、社会からはなくしてはいけないのかもしれない。
村上春樹『1Q84』にエビスノ先生という元人類学者が登場する。先生は「その学問の目的のひとつは、人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ」と述べている。さらに「そうすることによって、人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるかもしれない」という。
おそらく言語学も同じで、さまざまな言語を調べてその普遍性を求め、そこから個別言語の性格を把握していくことが目的の一つなのである。とはいえ、誰のためにもならない学問だったら、たった一人しか話せない「人口国際語」みたいなものではないだろうか?
と、思っていたら、立川談春の『赤めだか』(扶桑社)が目に入った。立川談志の「芝浜」に衝撃を受け、17歳で高校を中退して、弟子になりたいと思って話を聞きに行った筆者に談志が語ったものである。
「あのネ、君達にはわからんだろうが、落語っていうのは他の芸能とは全く異質のものなんだ。どんな芸能でも多くの場合は、為せば成るというのがテーマなんだな。一所懸命努力しなさい、勉強しなさい、練習しなさい。そうすれば必ず最後はむくわれますよ。良い結果が出ますよとね。忠臣蔵は四十七士が敵討ちに行って、主君の無念を晴らす物語だよな。普通は四十七士がどんな苦労をしたか、それに耐え志を忘れずに努力した結果、仇を討ったという美談で、当然四十七士が主人公だ。スポットライトを浴びるわけだ。でもね赤穂藩には家来が三百人近くいたんだ。総数の中から四十七しか敵討ちには行かなかった。残りの二百五十三人は逃げちゃったんだ。まさかうまくいくわけがないと思っていた敵討ちが成功したんだから、江戸の町民は拍手喝采だよな。そのあとで皆切腹したが、その遺族は尊敬され親切にもされただろう。逃げちゃった奴等はどんなに悪く云われたか考えてごらん。理由の如何を問わずつらい思いをしたはずだ。落語はね、この逃げちゃった奴等が主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやった方があとで楽だとわかっていても、そうはいかない。八月末になって家族中が慌てだす。それを認めてやるのが落語だ。客席にいる周りの大人をよく見てみろ。昼間からこんなところで油を売ってるなんてロクなもんじゃねェヨ。でもな努力して皆偉くなるんなら誰も苦労しない。努力したけど偉くならないから寄席にきてるんだ。『落語とは人間の業(ごう)の肯定である』。よく覚えときな。教師なんてほとんど馬鹿なんだから、こんなことは教えねェだろう。嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな」
その通りなのである。弱者のための、いや、「弱者」と自分で自覚さえできていない人たちのために人文学はある。
談春は親の反対を押し切って84年入門した。それからは極貧生活。新聞販売店の4畳半に住み込み、朝夕刊を配達しながら前座修業したが、二つ目昇進の際は黒紋付きが買えず、全財産の5万円を握りしめて競艇場へ。決心が付かず6日間通った揚げ句、最終レースで70倍の大穴を当てる! ところが、1年分の家賃に消えて手元には5万円しか残らなかった…。
まるで『論語』みたいな本(志の輔は顔回で、志らくが子貢ってか)だが、談志はこんなことも語っている。
「前座の間はな、どうやったら俺(談志)が喜ぶか、それだけ考えてろ。患うほど気を遣え。お前は俺に惚れて落語家になったんだろう。本気で惚れてる相手なら死ぬ気で尽くせ。サシでつきあって相手を喜ばせられないような奴が何百人という客を満足させられるわけがねェだろう」
【「狸」の稽古が終わって】「あのな坊や。おまえは狸を演じようとして芝居をしている。それは間違っていない。正しい考え方なんだ。だが君はメロディで語ることができていない、不完全なんだ。それで動き、仕草で演じようとすると、わかりやすく云えば芝居をしようとすると、俺が見ると、見るに堪えないものができあがってしまう。型ができていないものが芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。型がしっかりしたやつがオリジナリティを押し出せば型破りになれる。どうだ、わかるか?難しすぎるか。結論を云えば型をつくるには稽古しかないんだ。狸という根多程度でメロディが崩れるということは稽古不足だ。語りと仕草が不自然でなく一致するように稽古しろ。いいか、おれはお前を否定しているわけではない。進歩は認めてやる。進歩しているからこそ、チェックするポイントが増えるんだ。もう一度、覚えなおしてこい」
「よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えたとおり覚えればいい。盗めるようになりゃ一人前だ。時間がかかるんだ。教える方に論理がないからそういういいかげんなことを云うんだ。いいか、落語を語るのに必要なのはリズムとメロディだ。それが基本だ」
「坊やは俺の弟子なんだから、落語は俺のリズムとメロディで覚えろ」
「やるなと云っても、やる奴はやる。やれと云ったところでやらん奴はやらん」
「まァ、ゆっくり生きろ」
「落語家になった、談志の弟子になれたということで満足している奴等ばかりだ。俺はライセンス屋じゃねェ」
【嫉妬とは何か教えてやるといって】「己が努力、行動を起こさず対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそいういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」
「俺を抜いた、不要だと感じた奴は師匠だと思わんでいい。呼ぶ必要もない。形式は優先しないのです。俺にヨイショする暇があるのなら本の一冊でも読め、映画の一本も観ろ」
「儀式を優先する生き方を是とする心情は俺の中にはないんです」
ある時、談春が風邪を引いていて、うつしたらダメだと思って、「僕、風邪をひいてまして、くしゃみが止まらないので…」と言ったら「そうか、じゃあ風邪が治ってからゆっくりやるか」といわれたのだが、理不尽にも弟子が稽古を断ったとみなされて、ほとんど破門になってしまう。
「修行とは矛盾に耐えることだ」。 談春は古典落語には“冬の噺”に名作が多いといい、「富久」や「芝浜」や「文七元結」などでについて次のようにいう。
…神様の気紛れとしか云いようのない与えられた幸運、偶然でハッピーエンドを迎える。
これがまた落語の凄いTころだと思う。改心して、努力して、必死に懸命に生きた結果、つかんだささやかな幸せ、なんていう話は、ただのひとつもない。
いきなり大金拾っちゃったり、富くじ(現代の宝くじ)の一等が当たっちゃったり、はっきり云って滅茶苦茶、出鱈目なのだ。
「人は救われる。信じていれば大丈夫」というメッセージしかない。「信じるという行為には、とてつもなく力がいるのだよ」という教えすらない。「師匠ってのは、誉めてやるぐらいしか弟子にしてやることはないのかもしれん」
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない---『谷川俊太郎の問う言葉答える言葉』 □ 文学も文学部も因果律から無縁のところにある。なぜ文学部が?と問うこと自体が間違っているのである。
西江雅之はアフリカの文化を次のように語っている(『ことばを追って』大修館)。
例えば、蛇に咬まれて死んだ人を見付けた場合を例にとると、部族によっては私達の世界のように、まず蛇の牙から毒がその人の体内に入った所から話がスタートし、それからその毒が血管を如何にして伝わって行き、いかなる生理的作用を体内に起こさせ、いかなる障害が出たためにその者が死に至ったかを話題にするのが普通なのであるが、このナイロビ近くには、その男の死について語る場合に、その毒蛇が、その他の場所に行かずに、どうしてその場所を特に選んでやって来たのかとか、またどうして他の時刻ではなくて、その特定の時刻にその毒蛇はやって来ることになったのかとか、どうした他の人ではなくて特にその人物を咬まねばならなかったかということを専ら考える人々が住む部族がいくつも並んでいることを指摘したりした。この発想方法と論理の展開のさせ方は、当然、現代ヨーロッパの影響を強く受けたアフリカの都会人の発想方法とはことなるものでもある。そんなことが背景となって日常的な出来事に関する会話では互いにチグハグな対話を産み出す結果となってしまうこともあり得るのだ。
これを未開の知として笑うことはできない。中村雄二郎は『哲学の現在』(岩波書店)で「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的欲求で」あるとする。そして、神話の知は「ことばにより、既存の限られた具象的イメージをさまざまに組合わすことで隠喩的に宇宙秩序をとらえ、表現したものである。そしてこのようなものとしての古代神話が永い歴史のへだたりをこえて現代の私たちに訴えかける力があるのも、私たち人間には現実の生活のなかでは見えにくく感じにくくなったものへの、宇宙秩序への郷愁があるからであろう」と述べ、次のようにいう。
因果律と法則性にもとづく解明はじつは権利上50%真実なだけであり、残りの50%は偶然という「魔神の気まぐれな意志」に委ねられている。そしてその偶然が私たちにときとして因果律への不信をさえ抱かせかねないくらい大きな力をもち、苛立たせるのは、偶然というものがいま、そしてこの場で起こるのっぴきならないことによる。(略)意外な出来事に出会うと彼ら(未開人)は特別な原因を見つけようとする。そこまでは文明人と同じなのだが、彼らはこの世の出来事について文明人とは別の50%の方を考える。自然科学的な因果連関よりも、偶然という因果の連鎖の複雑な交錯の方を重視するのである
僕らの精神と肉体、人間と現実、人間と人間を結ぶものが神話なのであり、文学なのである。そのためにも、文学部は人間回復のためになくしてはいけないだろう。カオス的な現実をコスモス的に再構築するという意義を神話や文学は持っているのである。
山口昌男は『学問の春』(平凡社新書)で「文化は危機、クライシスに直面する技術」だという。しかも、朝このことを考えついて「自分は天才」と思ったが、目がさめてきてウンベルト・エーコの83年の発言だった、というのが笑える。
水村美苗は『日本語で読むということ』(筑摩)で次のように書いている。
モノが目の前にあるとき言葉は要らないのである。
だが、私が市場での果物の祝祭を舞えに、枇杷を食べてみたくなったとしよう。【…】
ところが、目の前には枇杷がみあたらない。目の前にみあたらないので、指で指すことができない。
もちろん私は「枇杷」という言葉を知らない。
「枇杷」という言葉を知らないから、目の前にはないモノの有る無しを問うことができない。
言葉を知らないから、現実世界ではなく、可能世界---「枇杷がある」、あるいは「枇杷がない」、という可能世界について語ることができない。
このことは、逆に言語の本質について教えてくれる。言語の本質は、現実世界について語ることになく、可能世界について語ることにある。人類が、太古の昔から言葉を紡いで「物語」をつくってきたのは、そもその言語の本質が、現実世界ではなく、可能世界について語ることにあるからにほかならない。
虚構というのは、言語の本質に根ざすものである。ということで、スピヴァクじゃないけれど、誰か僕にお金をくれたら、使い方を教えてあげます。
*冒頭のエピグラフは亀井勝一郎『黄金の言葉』(大和書房)に紹介されている言葉で、太宰が書いたものではなくて、親交のあった大高正博が直接聞いたものだという。
※実は、瀕死状態なのは文科系だけではない。理科系でもポスドクがあふれていて、うちみたいな弱小企業にも多くの応募があって、経歴を見ていると涙が出てくる。
みんな頑張ろうね!
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