金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


アムロとアフリカの戦士たち

イニシエーションとしての自動車学校 

---「大人とは、裏切られた青年の姿である」太宰治---


 安室奈美恵が免許を取ろうとしたのを自動車学校が特別扱いしたというので行政処分を受けた。

 もちろん、罪は罪だから当然なのだが、なぜ、こんなに厳しい処分になるのか、文化人類学的に考察(?)してみたい。

 全然関係ないが、安室が「ポンキッキーズ」に出ていた頃、鈴木蘭々の方ばかり注目していて、まさかこんな地味な子がメジャーになるとは思っていなかった。だから、デビューしたと番組の中で写真を見せながら言っていた時も信じられない気持ちだった。

 注目したのは山田洋次監督『学校II』で、ハンディキャップをもった生徒たちの憧れの歌手として出てきた時だった。


 さて、事件はおおよそ次のようなものである。

 東京都公安委員会指定の池上自動車教習所(大田区大森南5、田中忠治社長)が、タレントの安室奈美恵さん(20)に営業時間外の技能教習を受けさせるなど便宜を図っていたとして、都公安委は29日、同教習所の行政処分を行った。公認教習所が道路交通法に基づく処分を受けるのは異例で、同委は「タレントを特別扱いすることは免許制度の信用性を損う違反行為」としている。 (9月29日・毎日新聞夕刊より)

 AULOSに寄せられた意見は次のようなものである(10月10日現在)。

 僕はAULOSに次のように投稿した(暇だねぇ!)。

 世界中で、そして日本でもイニシエーション(成人儀礼)という通過儀礼があった。東アフリカではライオンを倒すまでは大人と扱ってくれなかった。

 日本でも「若者宿」などがあって、大人になる訓練をした。イニシエーションの中には命が奪われるような過激なものも多かったが、それは大人になるための最大の儀式だったからである。そこでは象徴的な死と再生が行われる。

 現代日本ではイニシエーションが全くなくなっているが、唯一残っているのは自動車学校である。

 ここではどんなヤンキーなお兄ちゃんも、つっぱりのお姉ちゃんも教官のことをよく聞かなければ免許が与えられない。

 つまり、通過儀礼として自動車学校が存在するのだから、厳しく対処されるのは当然のことである。

 どうしても免許を取りたい人間の姿を面白く描いた『免許がない!』(94年)という映画がある。

 現代社会には、英会話ができない、ゴルフができない、学歴がない、といろいろなコンプレックスがあるが、その中でも国民の半分が身近に感じ、もう半分が感じた覚えのある運転できない劣等感をこの映画では、題材として笑いを作り上げている。

 国民の2人に1人が免許を持っている状態で教習所は免許を取りたい人達であふれている。この映画は免許を取るまでの、周囲の人間達の涙ぐましい努力を描いた友情物語でもある。

 「西部警察」「あぶない刑事」など2枚目役の館ひろしがコメディに挑戦しているのだが、彼のようなスターでさえ教官(片岡鶴太郎、墨田ユキ、西岡徳馬ら)のいうことを従順に聞かないと免許が与えられない。

 ただ、この映画がアムロの場合と違うのは途中でスターだと分かってから教官たちの態度が激変、しかも特別扱いされる。

 監督は『バカヤロー4!YOU!お前のことだよ』の第3話「サギるなジャパン」でデビューした明石知幸。曲本は彼の師匠である巨匠・森田芳光だった。

 自動車学校については井上ひさしがエッセイで見事に笑っている(結局取らなかった)。

 自動車学校の教官によれば、学校の教師が一番教えにくいという。教師は「わかる」→「できる」で教えるのに、自動車学校は「できる」→「わかる」で教えているという方向性の違いがある。

 河野多恵子は『蛙と算術』(講談社)の「ハンドル知らず」という文の中で「私は一応の運動神経はあるつもりだが、車の運転となると、最初から諦めていて、免許を取ることはまるで考えたことがない」と前置きして、次のように書いている。

 なぜ私が車の運転を事前に諦めているかといえば、ハンドルの位置のせいである。ハンドルが運転席の中央にあるのならば、私も運転をする気になっていたかもしれないが、ハンドルは片側に寄せて、取りつけられている。その片側寄りのハンドルで、車輪を宰領する---その不自然を克服する神経というか、感覚というか、それが私にはどうも欠けているような気がしてならないのである。私の眼からすれば、片寄りのハンドルで運転できる人たちの方が不思議。


 本論に入ろう。

 他の諸外国では自動車免許の取得は実に簡単だといわれている。街角で少し教習したらおしまいで、後は本人の責任だと考えられているらしい。それに習うよりは慣れよ、ということもある。自分のクルマを買ったら、誰も壊したくないだろうし、死にたくないだろう、と考えているらしい。

 だから、外国には「君はいったいどこで車の運転を習ったんだ?」「通信教育です」というギャグがある。

 なのに日本はどうしてこんなに厳しいのかということである。

 イニシエーションというのは他の通過儀礼に比較できないくらい、各文化の中で占める重要性が大きな儀式である。時には人命を危うくするような切れもあるが、成人になれないものは生きていく資格がないのである。

 キリスト教では堅信礼(“confirmation”つまり、航空会社などのreconfirmationと同じ語源)がイニシエーションである。生まれるとすぐに子どもには幼児洗礼という最初の秘蹟が行われる。その後、カトリックでは7歳くらいに堅信礼が行われ、聖体拝受(キリストの血であるワインと肉であるパンをもらる)の資格ができる。プロテスタントでは意思表示ができるくらいに大きくなった時に堅信礼が行われる。

 今は遊びにしか思われていないバンジージャンプも元々はイニシエーションだった。メラネシアのバヌアツ北部のある島の伝統儀礼だったという。

 ケニアではイニシエーションをくぐり抜けた若者は「モラン」と呼ばれる。ライオンを一頭倒してたてがみをもって帰るまで放浪しなければならない。ライオンは彼らの一番の脅威だからである。

 十代半ばになるとモランになる準備が始まる。村はずれに合宿する。モランの予備軍であることを示すために髪を赤く染めなければならない。大人から槍がこん棒、ナイフなどの武器の使い方を教わり、同時にライオンから身を守る方法も教えられる。

 この訓練は1ヶ月近く続き、その間、少年たちは肉以外のものを口にしてはいけない。精神を高揚させるための薬草も飲まされる。

 西アフリカのクベル族では仮面を付けた男たちが若者を村から離れたブッシュスクールへ連れていく。ここで鶏の血の入った袋が腹に巻き付けられ、胴上げをされる。それから槍で突く真似をして血が流れるが、これで若者たちは一度死ぬ。その後、割礼が行われて体に傷も付けられる。この傷はワニの霊魂によって飲み込まれた時にできたものとみなされ、つまり、そこから生まれ変わったとされるのである。

 ネイティブ・アメリカンのある部族はクマを倒すのが条件だったという。ピジョン・クエストも飲まず食わずで放浪することになる。昔の日本では、一定面積の田を耕す能力を備えれば年齢に関係なく成人と認める地方があった。

 詳しくはファン・ヘネップの『通過儀礼』(弘文堂)に詳しいので譲る。

 そうそう、エリク・エリクソンも『幼児期と社会』(みすず)で触れている。映画『明日に向かって撃て!』のヒーローの名前はサンダンス・キッドなのだが、このサンダンスというのはネイティブ・アメリカンのスー族の最も重要な宗教儀式のことである。そのクライマックスに男の苦行が待っている。「太陽の柱」に結び付けた靴紐の先の串を胸や背中の筋肉に刺し通す。「そして、太陽をまっすぐに見つめ、踊りながらゆっくりと後ずさりし、ついに胸の肉を裂きちぎって、わが身を解き放す。このようにして彼らはその年の精神的な勇者(エリート)となり、その苦しみによって、太陽と『野牛の霊』---多産と豊穣の供給者---の恵みが引きつづき与えられる」ように願う。これこそが「罪悪感を贖い、宇宙の寛大さを引きつづき確保するために」祈るのがスー族の流儀だという。

 映画史上でもっとも美しいイニシエーションはヴィクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』の少女をめぐるものである。

 この映画はスペイン戦争の傷跡が残る村が舞台になっている。その村に巡回してきた映画『フランケンシュタイン』を見た少女(アナ・トレント)が怪物におののくとともに深く魅了される。やがて少女は警官に追われている脱走兵を助ける。パンとワインを渡すのだ(これが『汚れなき悪戯』の引用であるとともにキリストを意味することはいうまでもない)。そして、生まれて初めての秘密をもつことになる。

 フランケンシュタインは少女がまだ意識しない、どろどろとした欲望を表現しているが、こうした欲望の顕在化からイニシエーションが始まるのである。

 なお、イニシエーションは加入儀礼ともいわれ、正確には成人儀礼と集団に加入する儀礼と分けることができる。オウム真理教では「血のイニシエーション」が行われたが、これは集団に入るための儀式だった。

 日本の成人式は形骸化してしまい、せいぜい、呉服屋さんと写真屋さんを喜ばす程度のものになっている。揚げ句の果てに「荒れる成人式」というのが全国展開してしまった。声楽家の妻も成人式で歌うことがあるが、ある時など荒れた学年の子どもが成人を迎えるというので、元の担任など教育委員会の人々が緊張して監視していたこともあった。ただ、荒れるのは日本だけではなさそうで、A・J・ジェイコブズ『驚異の百科事典男』(文春文庫)に次のような記述を見つけた。

 最近友達から、近頃の成人式(Bar Mitzvah=ユダヤ人の成人式で13歳)は警備員を雇って子供たちの監視をさせるのだと聴いた。理由はオーラル・セックスだ。十三歳の子供たちは、目を離すとすぐどこか隅のほうでズボンをおろすらしい。この勢いでいくと、僕の息子は乳離れするころに童貞を失うだろう。

 もし、現代にイニシエーションを見つけるとするならば、それは自動車教習である。

 イニシエーションの多くは「若者宿」という制度で若者を一旦隔離する。実際、自動車学校のうち短期集中型の学校は『免許がない!』のように若者を20日くらい、鄙びた宿に泊まらせ、そこで集中的に教習する。どんなに才能があっても日数が短くなることはないが失敗すればそれだけ長くなる制度になっている。

 年齢も18歳以上ときちんと定められており、ほぼ義務的になっている学校教育の最終段階で迎える儀礼である。しかも、普通の学校と違うことを強調するために多くの高校が実質的な授業が終わった高校3年の3月から通うことを許可している。

 (都会では若干異なるが)多くの企業が自動車免許を必要としているので免許を取ることは社会へのパスポートとなっている。

 また、結婚の条件の一つとなっていて、特に田舎で無免許でいることは変人扱いされ、結婚の資格がないこととされる。もちろん、家庭を作ってもドライブする義務があり、子供をクルマで連れてどこかへ連れていくことが「家庭サービス」とされる。

 かつての若者宿では大人になるためのさまざまな知恵が教えられた。場所も周縁地域にあり、普通は立ち入ることのできない空間になっている。

 現代の自動車学校も大体が町外れにあり、聖なる空間となっている。どんなつっぱり学生も自動車学校の教官にたてつくことはできない。

 一旦、教習車に乗り込んでしまえば、1対1の密室状態になる。この中で成人になるべき知識が伝授される。疑問は許されない。「どうして人が右でクルマは左か」などと聞こうものなら退学処分である。学校教育のような甘えは一切なく、多くの学生は教官の厳しさに耐えなければならない。

 もちろん、美人は少しは甘えられるという話を聞くが、大人というものはどういうものか、口説かれるというのはどういうことか、などという試練に耐えなければならない。美人だから1段階飛び越せるなどということは絶対にない。

 教官は絶対であり、いわれた方向に進むしかない。

 少しでも自由意志を見せたり、規則を破れば即、落第(再教習)となり、すごすごと学校に戻らなければならない。その際、友人たちの侮蔑を含んだ表情に迎えられなければならない。

 教習は4段階に分かれ、その度ごとに「見極め」という試験がある。3度目と最後のテストが最も厳しく、失敗すれば多額のお金と手間が奪われることになる。友人たちの嘲笑にも耐えなければならない。

 実技の他に筆記テストもあり、心技体とも発達することが要求される。

 とはいうものの、いつかは無事に卒業できることになっていて、これは他の文化のイニシエーションと同じである。あまり厳しすぎて脱落者が多かったら成人の社会がなりたたないからである。

 大学受験の方が厳しいという人もいるが、こちらはランクがさまざまに用意されていて、その人の能力にあった道が開かれている。だからどれだけ厳しくても構わず、0か1かというイニシエーションと異なり、見事な選別機能を果たしている。

 学校を卒業しても更に聖なる場所が控えていて、都道府県の免許センターへ出かけなければならない。ここの合格率はずっと60%と実に厳しい。

 ケニアのライオン同様、自動車事故は日本の社会の脅威だからである。

 しかし、ここでも何度かの挑戦で大半の若者が無事に大人へのパスポートである免許を取得していく。

 卒業の訓辞の代わりにつまらない映画を見なければならないが、これも儀式なのだから大人しく見なければならない。

 だから、内田樹が『「おじさん」的思考』(晶文社)の「オン・デマンド教育論」で次のように怒っているのは間違いなのだ。

 むかし、自動車教習所に通っていたとき、運転技術の教習を通じて生徒の人格陶冶をめざす困った教官がいた。

 路上教習のとき、私が不注意で、歩行者に近づきすぎてしまったとき、彼は「歩行者保護ができないのは、人間として最低だ。おまえには運転なんかする資格はない」と私をどなりつけた。私はもうけっこう大人だったが、この言葉にはさすがに怒りを抑えきれず、車からひきずりおろして殴ってやろうかと本気で思った。

 おそらく彼は善意の人であり、教育的情熱にあふれていたのであろう。しかし、彼は大きな間違いを犯している。それは、機械の操作技術を習うために、インストラクターに対して私が立場上採用している従順で注意深い態度を、人格的な上下関係ととりちがえて、私を「人間的に訓育する」「権利」と「責任」が自分にあると思ってしまったことである。

 つまり、自動車学校の教官は若者を大人として送り出すための機能を担っていると信じているであって、「おじさん」はイニシエーションする必要などなかったからだ。

 さて、これで分かってもらえただろうが、自動車免許を取るというのは成人になるための儀礼なのであるから、調理師の免許を取るのとは意味あいが異なる。

 例えば、アメリカで自動車免許取得が緩やかなのは、もちろん、自動車文化の違いがあるが、大学生になれば誰でも親から自立して自分のお金で生活する。もちろん、親とは一緒に住まない。ところが、日本では自立した大学生を見つけることができない。それどころか、結婚するまで(してからも)自立できていないのである。その仮の制度として自動車学校が発達したと考えられるのである。

 その意味で、アムロであろうと特別扱いしないというのは当然のことである。

 『そうだ、村上さんに聞いてみよう』(朝日新聞社)で村上春樹は次のように語っている。

 僕は自動車教習所というのは、現代の徴兵制みたいなものじゃないかと思っています。気分の悪いことは多々あります。でも実際の世の中に出ると、もっと不愉快なやつがいて、もっと不愉快なことが起こります。その予行演習だと思えばいいんです。……文芸マスコミ業界のいじめみたいなのはかなりきついですから、教習所なんてディズニーランドみたいなものです。



 などと戯けたことを書いていたら、10月22日、アムロが妊娠・入籍という報道が流れて号外まで出た。

 免許を取らなくても大人になれるって!?

 何!?サムから麻原流イニシエーションを受けたって!?

 『33歳、子供2人、それでもコピーライターになりたかった』(亜紀書房)を書いた長井和子の自動車学校のための秀逸なコピーを思い出した。

にぎれば おとな


※アムロ伝説はイニシエーションだけで終わらなかった。97年紅白での「死」と98年紅白での「再生」が演じられただけでなく、SAMが「育児をしない男なんて、父親と呼ばない」とかいうキャンペーンに子連れで出ただけでなく、もっと大きな事件も発生した。

 99年3月17日にお母さん・平良恵美子さんが義弟に車で襲われた後、殴られ死亡した。自伝『約束 わが娘・安室奈美恵へ』を出版していた。そのなかで、ステージを見た感想として、「私の産んだ娘が、ここまで素晴らしい歌手になり、そして大人になった……。その喜びは、今までの苦労を埋めて余りあるものでした」とつづっていた。

 なお、東海林さだおに「自動車講習所教官の反論」(『東京ブチブチ日記』文春文庫)があるので、そちらの言い分も聞いてほしい。

 それによれば免許が取れて挨拶するような人は皆無だという。

 教官のみなさん、ごめんなさい。

 2000年には「教習所物語」というドラマも作られた。


 2002年に歌手の安室奈美恵さん(24)とダンスボーカルグループ「TRF」のSAMさん(40)=本名丸山正温=が離婚していたことが7月18日までにわかった。離婚届は東京都港区役所で受理された。

 笑ってしまったことに、21世紀になってから、成人式の成人のマナーが問題になった。

 七五三じゃあるまいに、みんなであんな格好をして成人になれるくらいだったら、苦労はしない。

 ちなみに渡辺淳一の『泪壷』(講談社)の中に「握る手」という短編があり、「女性の男に対する気持を測る物差しにもなる」という。

 静かに、なにか怖いものにでも触れたように、そろそろと動かす女性もいたし、待っていたとでもいうように、しかと握って荒々しく擦る女性もいた。さらには握ったまま、その大きさと温もりをたしかめるように、ほとんど指を動かさぬ女性もいた。


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