金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


「信天翁」の言語学的考察




 この機関誌【富山商船高専学生会機関誌】『信天翁』のタイトルが読めない人が多い。「心太」をトコロテンと読めないのと同じ当て字なので読める方がおかしいのかもしれない(注)

 しかし、どうしてこんな字を当てるのか知らない人が多いと思うので、その由来について考えてみよう。

 なぜ、あの鳥をアホウドリというのだろうか。アホウドリは素晴らしい飛翔力をもった大きな外洋性の烏である。グライダーのように羽根を伸して飛ぶ姿は雄大である。ところが、地上ではよちよち歩くのがやっとで、飛ぶ時もかなり助走しなければ飛べない。かつてアホウドリは北半球亜熱帯以北のほぼ全海域に生息していた。人間のいない孤島に住み、人間の狡猾さを知らずに逃げることがなかったので、容易に捕えられた。海上に蚊柱ならぬ「鳥柱」が立つほど数がいた。だが明治半ば以降、羽毛や帽子の羽飾り用に大量捕獲された。人間を恐れず、地上から飛び立つには助走が必要で、たやすく捕らえられたのだ。テレビ番組でやったことがあるが、海にエサを撒いて待っていたら、網でしっかり捕まってしまった。

 だから、アホウドリという不名誉な名前がつけられたという。バカドリとも呼ばれたともいう。また、長い船旅の象徴であり、水夫たちは釣り針で引っかけて捕まえ、不器用な動作をからかうことで長旅の慰みにしたという。実際、伊豆諸島の鳥島はアホウドリが何百万羽もいる大繁殖地のために捕獲されるようになってから、あっという間に絶滅の危機にさらされた。一時は絶滅したと伝えられたが、どうにか生き残りが発見され、東邦大学の長谷川博先生(『あほうどり』平凡社など)がアホウドリの調査・保護活動を続けている。一九七八年に鳥島(東京の南五八〇キロにある火山島)で確認できたのは六八羽のみだったが、今は約千羽以上が確認されている。

 自然の造化を簡単に絶滅させる人間の方がよほどアホウである。しかも同じ種どうしで殺しあう。最新のハイテクだといって、一発何億円もするミサイルを撃ちあい、その目標が実は段ボールで作った飛行機の模型だったりするのだからドアホウである。

 中国で「信天翁」としたのは、この鳥が魚を餌とするにもかかわらず、魚を取る能力がなく、魚鷹(ミサゴ)がたまたま捕えた魚を落とすのを待ち構えていて、これを拾って食べるとされたからである。調べてみると、確かにアホウドリは潜りが不得意で、海面に浮いてきたイカや魚やプランクトンを食べる。しかし、他の鳥の餅を横取りするのは同じ大型の海鳥で海におりることができない軍艦鳥(frigate bird)の習性である。

 英語で信天翁をalbatrosというのは海の沖にいる白くて大きな鳥のイメージから来ている。語根は “albus” の白だ。アルバムalbumは写真の発明よりもはるか昔の1600年代から使われていて空白のある冊子のことだ。albino(白子)は白いへびやゾウなどの、皮膚色素欠乏による突然変異の動物(本来白いものは赤目にはならない)。アルプスAlpsも「雪に覆われた白い山」から来ている。その他に“alb(s)”「司祭が着る白麻の祭服、(カトリック)白衣」、“albumen”「卵白」がある。

 gooney birdということがある(特にblack-footed albatrossを指す)。gooneyというのは「野暮ったい、とろい」という意味で、「アホウドリ」そのものだ。

 ところでこの島【ハワイのカウアイ島】にはたくさんアルバトロスが生息しているが、写真をご覧になってもわかるように、これはなかなかかわいい鳥である、むっくりとしていて、警戒心といういうものがほとんどなくて、近寄っても逃げない。さすがに近くに行くとくちばしをカタカタと鳴らして、「なんだよ、おまえ、なんだよ、やる気かよ!」と威嚇するのだが、そんなに怖くないし、しばらくするとそれも面倒臭くなって適当にやめてしまう。そしてあとは「まあ、いいか」という感じでただそこに立ってぽけーっとしている。アホウドリと呼ばれて、世界的に絶滅しかけたのもまあ無理はないと思う。

【…】二年後に正確に同じ場所に帰ってきて交尾し、そこに腰を据えて子供を産み、育てる。けっこう変わった鳥である。

「でもさ、二年に一回ってのはものすごいよな、ハルキ」と近所に住むサーファー兼画家のクリスがアルバトロスを眺めながらつくづく感心して言った。「『ねえハニー(鼻声)、あれからちょうど二年たったわよ、どう、そろそろやらない?』なんて。だって二年だぜ、へへへ」

 たしかに二年に一回ってのはすごいですね。でも僕の知り合いには「女房とは閏年に一回」という人もいるから、ほんとうはそんなにすごくないのかもしれない。僕にはよくわからないです。

 アルバトロスは図体が大きくて、飛び立つのにずいぶん手間がかかる。とくに飛行にまだ慣れていない子供のアルバトロスは風をうまく選んで、助走をしっかり長くつけないと、なかなかさっと空に浮かび上がることができない。だからアルバトロスが子供を育てるのに適した場所は、風の強い海に面した崖の、開けたところということになる。まあどう考えても、あんまり要領のいい生き物とは言えないだろう。

 とにかくその開けた崖っぷちを、子供アホウドリがたったたったと懸命に走っていって、よろよろっと浮かび上がるわけだ。これはかなりの見物である。首尾よく浮かんだときにはぱちぱちぱちと盛大に拍手をしてあげたくなる。でも中にはうまく飛び立てないまま、こてっと崖から落下して若い命を落としてしまう哀れなアルバトロスもいるらしい。ほんとうに気の毒である。小説家の運命もけっこう数奇でリスキーだが、そういう面ではアルバトロスも決して負けていない。

     -----村上春樹『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(新潮社)

 余談になるが、イカは逆にカラスを食べる。イカは死んだマネをして海に浮かんでいると、カラスがこれはいい餌だと急降下して掴もうとする。その瞬間にイカは10本の足でカラスをからめ取って餌にする。

 この話は日本で最初の漢和辞典とされる『和名類聚抄』(10世紀)にも出ている話である。

 そして、そのためにイカの漢字が「烏賊」と「烏の賊」となっているのである。

 フランス象徴派のボードレールにL'albatrossという詩があって、上田敏が『海潮音』で「信天翁(おきのたいふ)、三好達治が「信天翁」、福永武彦が「あほう鳥」として翻訳している。

 L'albatross--Charles Baudelaire (Les fleurs du mal)

Souvent, pour s'amuser, les hommes d'equipage
Prennent des albatros, vastes oiseaux des mers,
Qui suivent, indolents compagnons de voyage,
Le navire glissant sur les gouffres amers.

A peine les ont-ils deposes sur les planches,
Que ces rois de l'azur, maladroits et honteux,
Laissent piteusement leurs grandes ailes blanches
Comme des avirons trainer acote d'eux.

Ce voyageur aile, comme il est gauche et veule!
Lui, naguere si beau, qu'il est comique et laid!
L'un agace son bec avec un brule-gueule,
L'autre mime, en boitant, l'infirme qui volait!

Le poete est semblable au prince des nuees
Qui hante la tempete et se rit de l'archer;
Exile sur le sol au milieu des huees,
Ses ailes de geant l'empechent de marcher.

 「信天翁(おきのたいふ) 」 上田敏・訳

  波路遙けき徒然の慰草と船人は、
  八重の潮路の海鳥の沖の太夫を生擒りぬ、
  楫の枕のよき友よ心閑けき飛鳥かな、
  沖津潮騒すべりゆく舷近くむれ集ふ。

  たゞ甲板に据ゑぬればげにや笑止の極なる。
  この青空の帝王も、足どりふらゝ、拙くも、
  あはれ、眞白き双翼は、たゞ徒らに廣ごりて、
  今は身の仇、益も無き二つの櫂と曳きぬらむ。

  天飛ぶ鳥も、降りては、やつれ醜き痩姿、
  昨日の羽根のたかぶりも、今はた鈍に痛はしく、
  煙管に嘴をつゝかれて、心無には嘲れられ、
  しどろの足を模ねされて、飛行の空に憧るゝ。

  雲居の君のこのさまよ、世の歌人に似たらずや、
  暴風雨を笑ひ、風凌ぎ獵男(さつお)の弓をあざみしも、
  地の下界にやらはれて、勢子の叫に煩へば、
  太しき双の羽根さへも起居妨ぐ足まとひ。

 ボードレールがこの詩にことよせて詩人の心境をうたったのは、いつの世にも恵まれない詩人に対する慰めであった。1842年、20歳のボードレールは、西インド洋のモーリシャス島からフランスへ帰る途中の南大西洋で、船を追ってきて水夫につかまったアホウドリを見たという。空を飛んでいる時は、優雅で美しいのに、甲板で水夫に追われると、大きな翼が邪魔になってヨチヨチ歩きしかできない不器用な鳥!ボードレールは自分を重ね合わせ、詩人の運命に思いを馳せたのだ。

 ヨーロッパではアホウドリやカモメを水死した船乗りの魂と信じていて、これを殺せば凶運にみまわれるとした。にもかかわらず大量殺戮を操り返した人間の強欲は凄ましい。この罪の苦悩でコールリッジは代表作『老水夫行』を書いた。老水夫が結婚式に向かう三人の客のひとりを呼び止め、自分の辿ってきた航海のことを語る。港を出た船は嵐で南極へと流され、霧の中で船に慕い寄ってきたアホウドリを射殺し、呪いを受ける。船は太平洋へ入り赤道へと近づくが、呪いのために全く進まなくなってしまう。罪のしるしとして、首にアホウドリの死骸を架けられる。船は「死」と「死中の生」と出会い、他の乗組員は次々と死んでいく。ただひとり残された老水夫は目にした水蛇の美しさを称えたことで、ようやく呪いから解放され、船もやがて港へと戻る。老水夫はこの神秘的な経験をもとにすべての生き物を愛し敬うことを説いてまわる。


パットン・ウィルソン(Pattten Wilson)による『老水夫行』挿絵

 これを踏まえてメルヴィルの『白鯨』(第42章)では次のように出てくる。

Bethink thee of the albatross, whence come those clouds of spiritual wonderment and pale dread, in which that white phantom sails in all imaginations? Not Coleridge first threw that spell; but God's great, unflattering laureate, Nature.

あの信天翁のことを考えてみるがいい。雲のような霊的驚異と蒼ざめた恐怖はどこから来るのか。あの白い幻はあらゆる想像力に帆をかけて飛ぶ。その呪文を投げかけたのはコールリッジが最初ではなかったか。

 日本では河井酔茗の散文詩「鳥柱」が、南の海に立つ白い巨大な雪のような鳥柱をうたって、かつての鳥島の面影をしのばせている。

 「信天翁」と正反対の言葉に「杞憂」というのがある。昔、杞という国の人々は天が落ちてくるのではないかといつも心配して胸が圧し潰されそうだったという。

 天から御馳走が落ちてくるのを待っている底抜けの楽観主義も、天が落ちると騒ぐ底無しの悲観主義も恐らく、間違いである。

 よく使われる喩えにビンにお酒が半分残っていて、「まだ半分もある」というのが楽観主義者で、「もう半分しか残っていない上というのが悲観主義者だというのがある(「楽観主義者はドーナツを見る。悲観主義者はドーナツの穴を見る」なんていうのも)。そのどちらも正しくないと思う。

 お酒が瓶に半分残っているという事実から始めなければならない。あるがままに事実を認めていかなければならない。

 ビートルズが「レット,イット・ビー」で歌ったのはまさにこのことだ。あるがままに事実を認めていき、いつか必ず射すであろう一すじの希望の光を持って生きていこうという誓いである。

 同時に、イントランス(不寛容)のために戦争を始めてしまう人間の愚かしさを笑っているのである。




 この機関誌【富山商船高専学生会機関誌】『信天翁』のタイトルが読めない人が多い。「心太」をトコロテンと読めないのと同じ当て字なので読める方がおかしいのかもしれない(注)

 青春時代とは希望と絶望がないまぜになった時代をいい、信天翁にも杞の国の人にもなれる世代である。少し成績が上がったとか、彼女が振り向いてくれないとかで一喜一憂するのもいいだろう。だけど、決して絶望してはいけない。絶望は死に至る病だ。

 いま必要なのは現実を見すえ、前に立ちはだかる障害を一つ一つ乗り越えていくことである。聖母マリアが与えてくれた知恵の言葉レット・イット・ビーとはあるがままに現実をとらえ、生きていきなさいという意味なのである。

 先輩たちが自虐的にこの機関誌のタイトルを「信天翁」としたのはゆとりをもって自分自身を眺め、自分をも笑っていられる人間でありたいと願ったからである。

 馬鹿だと開き直る人はダメだが、自分が馬鹿だと笑える人は素晴らしい。

 ダメだ、駄目だと精神を閉ざしてしまうのではなく、余裕をもって現実を受け入れ、明日の希望を捨てないことが私たちに必要なのである。

 アホウドリと呼ばれようとも、絶滅の危機にたたされようともちっとも構わないかのように彼らは白い羽根をいっぱいに伸ぱし、雄大に海原を飛翔しているではないか。


(注) どうでもいいけど「心太」を「ところてん」というかというとややこしくて「こころぶと」というものがあって、これが「ところてん」になったという。じゃあ、なぜ、「こころぶと」が「ところてん」になったかというと「こころぶと」が「ところぶと」と間違われて更に「太」を「天」と間違ったために「ところ+てん」となったという説がある。

 じゃあ、なんで「ところてん」みたいなものを「こころぶと」というかというとこれが4つほどの説があっていちいち説明できないのだけれど、「こころ」は「こごる」(「煮こごり」なんか「凝る」)で「ふと」は藻のことをいうという説が一番好きだ。というのも調べていくと天草(てんぐさ)のことを「凝草(こごりぐさ)」と呼ぶこともあるからだ。

 ちなみに柳田国男の「食料名彙」にある「ところてん(心太)」の語源説は海藻のテングサがもとブトといい、煮とかすとよく凝(こご)るのでココリブト、ココロブトと呼ぶ時代が続いた。これに「心太」の字を当てたのが、やがてトコロブトといわれるようになる。最後に「太」が「天」と混同されたが、テンという音が面白いので定着する…。まるで言葉の三段跳びで、他の語源説にせよ「ところてん」などという変てこな名にたどりつくにはそれなりの波乱がある。古くは平安京に「心太」の店があったという記録があるが、見た目の涼しさとその食感で夏の庶民の味覚となったのは江戸時代のことだという。

(注2) この文章のもとは湾岸戦争当時に書かれたもので、「段ボールで作った飛行機」というのはイラクの話。

(注3) ゴルフではパー(par規定打数)より3打少ない打数でホールアウトすることを指す。バーディ(「小鳥」マイナス1打)やイーグル(マイナス2打)よりもアルバトロス(マイナス3打)の方が大きい鳥だからだ。鷲よりもすごい鳥ということだ。ちなみに英語には「阿呆」の意味や含意がなくて、素晴らしい意味の方が強い。そのワリを食ったのが七面鳥かもしれない。turkeyというと「いけない」ものを指してしまう。

(注4) ガンはもっと不名誉な名前をもっている。身を守るため、より大きな鳥に似せているが、辞書によれば、それが故に偽物を意味する不名誉な字に取り込まれてしまった。「贋(にせ)」。貝を除けば「雁(かり)」、つまりガンである。ガンの名誉のために書いておけば、手紙を「雁書(がんしょ)」と呼ぶのは秋の空に飛来する雁が古くから、懐かしい人の消息をもたらす使いだとされてきたためだ。

(注4) 毎日新聞の「余録」に素晴らしい文章が載っていたので、無断で掲載します。許してください。

余録:アホウドリ

 河井酔茗(すいめい)の詩に「鳥柱(とりばしら)」というのがある。「幾千枚の白紙が飛ぶ、雪の羽が降る、ひらひらと舞ふ白き鳥、鳥、鳥……浪(なみ)に根ざして、空を支ふる鳥柱、生命(いのち)あり、息あり、はてしらぬ大海原の上に、羽と羽とで築きあげられた揺れる塔、頂上(いただき)は雲に入(い)り、根は水に入る」▲この「白き鳥」はアホウドリのことという。「鳥柱」とははるか南の洋上でまるで巨大な蚊柱が立つようにアホウドリが群れ飛ぶありさまを指す言葉だ。この鳥の数の多さは江戸時代からそんな言葉によって陸に伝わっていた▲もっとも酔茗がこの詩を書いた明治末年には、すでに鳥柱はこの世から消えつつあった。その数の多いことで人々を驚かせたアホウドリも、明治中ごろから始まった乱獲で毎年20万羽以上も殺され続け、絶滅の危機に追いやられたからだ▲実際に一度絶滅宣言が出されながら、辛うじて生き残ったアホウドリである。鳥島では約2000羽まで回復したが、今その一部を火山活動の心配がなく、かつてアホウドリの生息地だった小笠原諸島(聟島むこじま)へ移住させる保護計画が進んでいる▲その聟島から1羽のヒナが巣立ったというニュースが伝えられた。今年2月に島に移された10羽のヒナのうちの1羽の初めての旅立ちである。ヒナは米国アラスカ州沿岸などで成鳥となり、5年後には聟島に戻って島を繁殖地とするよう期待されている▲「信天翁(あほうどり)」と漢字で書くのは、昔の人がその生態を「天翁(てんおう)(太陽)信(まか)せ」と見たためという。今は天から人間にまかされたその絶滅阻止である。うまくゆけば約50年後には10万羽に増えるのも夢でないそうだ。私たちの子や孫は再び鳥柱を見るだろうか。

毎日新聞 2008年5月21日

 山田詠美の『学問』(新潮社)には心太(しんた)という名前の男の子が出てくる。

 心太という漢字は「ところてん」とも読む。だから、自分のことを、皆、テンちゃんと呼ぶ。得意に心太がそう自己紹介した時、仁美は、思わず吹き出してしまいました。まだあまり知らない漢字に、実は、さまざまな読み方があると知ったのも愉快でしたし、目の前のいばった男の子が、あのぷりぷりつるつるした食べ物と同じ名前だなんて、それはそれは、おもしろいことのように感じられたのです。


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